熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2020年7月

2020年07月31日 | Weblog

桂米朝『上方落語ノート 第四集』岩波現代文庫

第一集から第三集までの補遺のようなものか。単なる昔話のようにも見えるが、多分、とんでもなく深い内容が秘められているのだと思う。尤も、私にその深さはわからないのだが。最初の方にある「一枚の切符」はここに全文を書き写したいくらいだ。この国のいろいろのことが詰まった話だと思う。

鷹狩のことも興味深い。

あしの根や なにはを鷹の 力草

という大和大掾の句が紹介されている(第一集にも紹介されている)。ここでは句の意味よりも「鷹の力草」に注目だ。これは「鷹が大きい鳥や兎などを捕った時、片足で獲物をつかんだまま、とっさに傍の草や木の枝を、もう一方の足でつかんでひきずられないようにすること」なのだそうだ。鷹の狩に限らず、生きる上で重要な知恵が凝縮された行為だと思う。ふと『坂の上の雲』で秋山好古が兵を展開する際に「軸」を重視したことを思い出した。自分は力草を手にして生きているだろうか?

 

中野三敏『江戸名物評判記案内』岩波新書

よく雑誌やWebで様々なランキングが取り上げられる。世間はランク付けが余程好きらしい。これは今に始まったことではないようだ。本書には「評判記」というものが紹介されている。なぜ「評判」が注目されるのか?詰まるところ、自分の感想と世間の評判を引き比べ、社会の中での自分の位置を確認したいのだろう。人が社会的動物とされる所以の本能的感情とも言える。著者は評判の意義を次のように語っている。

***以下引用***「評判」とはまさにこの気分をその基調としていると思えばよかろうか。これをしも批評精神の欠如といい、前近代の蒙昧さと言い捨てるのはやさしいが、さて近代の演劇は、この時の観客の法悦と等価値の何を産み出し得ただろうか。近代の文芸批評書に、果たして読者が共に楽しみ、打ち興ずることのできる底の著述がどれだけあったことか。人物評判記の世界は右のような空間に広がって読者にかたりかけているのである。***以上引用***

「この気分」とか「右のような空間」とは、江戸の歌舞伎芝居にあったという「褒め詞」という習慣を指している。芝居の最高潮の場面でしばらく演技を中断して、予め定められた贔屓の客が登場し、その役者を褒めたてる言葉を捧げるのだそうだ。ほのぼのとした良い習慣ではないか。それほど、大衆と演芸との距離が近かったのだ。他に娯楽が無かったという事情はあるかもしれないが、たぶん、人々の生活感情を豊かにする何かが当時の芝居にあったということだろう。今、そんな娯楽があるだろうか。

 

古川日出男訳『平家物語』河出書房新社

平家物語は本来は語りだ。琵琶法師が弾き語るのを聴くのである。面白かっただろうと思う。単一の作者が創ったものではなく、決して少なくない人々が継ぎ足しては削り、というようなことを繰り返し、その最大公約数のようなものが今に書いたものとして残されているのだろう。琵琶が刻むリズムに乗って、物語が語り継がれていく。元は史実かもしれないが、聴く人を惹きつけるような挿話があり、誇張があり、後に残るのは聴衆を多く集めた話なのだと思う。つまり、平家物語が語られた時代の空気に迎合した話、その時代の世界観と言ってもよいだろう。

講釈は「見てきたような嘘」も多分に含んでいる。全くの絵空事ではないにしても、聴く側が理想とするような人物が活躍する話でなければ、これほど長い時間の淘汰に耐えられるはずがない。聴衆の人生に触れ、共感を呼びながらも、少し高いところの正義や倫理がなければならない。

今は、辻で琵琶を弾きながら平家物語を語る人はいない。無許可でそんなことをすれば、たちまち警察に連れていかれてしまうし、そもそも聴衆が集まらないだろう。なぜか。娯楽が氾濫していて大道芸が成り立つ余地がない、ということもあるだろうし、大道芸が姿を消して久しく、人々がそういうものに馴染んでいないということもあるだろう。仮に、今の時代にも琵琶法師が平家物語を語っているとして、物語の内容は往時と同じままであるはずはなく、なにがしか今の時代に即した変容をしているだろう。そうでなければ聴衆が存在しない。では、どのような話が加えられ、どのようなものが削られるだろう?盛者必衰、驕るものは久しからず、というのがこの長大な物語のバックボーンとなる価値観だろうが、それは果たして今の時代に受け容れられるものだろうか?

 

斎藤茂吉校訂『金槐和歌集』岩波文庫

直木考次郎『奈良 古代史への旅』岩波新書

林屋辰三郎『京都』岩波新書

『全著作 森繁久彌コレクション1 道 自伝』藤原書店

「引揚」という言葉から何を思い浮かべるだろう?私は日本がかつて領有していた土地から本土へ戻ってくることを思う。戦争を経験したわけではないのだが、自分の親は空襲を生き延びた人たちであり、親戚の中には兵士として出征していた人もいる。それでも戦死者はないが、戦中戦後に出回ったタチの悪い酒で命を落とした人はいる。そんなわけで満洲は知らないが、満洲からの引揚の話はいろいろ聞いており、そういう切羽詰まった状況での人間というものに漠然と関心があった。

森繁は満洲から引き揚げてきた人だ。本書に書かれていることが全てではないだろうし、丸ごと真実というわけでもないだろうが、それでも「やっぱりそうか」と思うところはいくらもあった。

 


丹波篠山 最終日

2020年07月26日 | Weblog

観光は難しい産業だと思う。容易な産業というものは無いのだが、観光の難しさは人気という当てにならぬものに依存するところにある。例えば、丹波篠山と自分との縁は、先日のこのブログに書いたように、日本民藝館での講演で、この地で活動されている作陶家の話を聴いたこと、そのかたとは以前にも民藝夏期学校などでご一緒させて頂いていること、といった程度のことである。他に、何年か前にふるさと納税で丹波篠山市から黒豆を頂いたこともある。それで気になって今回訪れて、大変好印象を抱いた。しかし、次にここを訪れるのはいつになるかわからない。おそらく多くの人にとっても似たようなことだろう。

世界を相手にすれば、無限の訪問需要が眠っている。確かにそうだろう。だからと言って、誰に来てもらってもいいわけではあるまい。コロナ騒動ではっきりしたのは、観光へ依存するということの意味だと思う。さらに言えば、産業とは何か、経済とは何か、人が生きるとは何か、ということが今問われている。

帰りの新幹線は静岡県内での大雨でダイヤが大きく乱れていた。予約していた列車は15分遅れで新大阪を発車し、59分遅れで品川に到着。何はともあれ、今回も楽しく旅行ができてありがたいことである。


丹波篠山 2日目

2020年07月25日 | Weblog

窯場訪問。宿の近くのバス停から路線バスで篠山口駅へ出て、鉄道で相野へ行く。そこから路線バスに乗って兵庫陶芸美術館前の停留所で降りる。バスで美術館前で下車したのは我々2人だけだったが、美術館前の駐車場にはそこそこに埋まっていて、館内も全体に静かな様子の割には来館者が多い印象を受けた。場所柄、当然に丹波の古い陶器が並んでいるが、企画展の方は備前だ。

丹波というと普段使いの手頃なものという印象がある。大阪や京都という古い大都市から近く、その割に茶の湯であるとか、伝統云々というようなシチめんどくさいことからは比較的自由であったというようなこともあり、自由な作風の土地だ。民藝の方からも、六古窯としての研究からも、興味を向けられ、今なお多くの人々が陶器を軸に往来している。こういうものこそ足が地についた産業というのだろう。

コロナ騒動で、これでも集客は例年よりもはるかに少ないのだろうが、お上から外出自粛と言われている中でこれほどの集客ができることに私は頼もしいものを感じた。


丹波篠山 1日目

2020年07月24日 | Weblog

丹波といえば六古窯のひとつに数えられる。昨年10月に日本民藝館で作陶家の柴田さんの講演を聴いて、出かけてみようと宿を予約した。その後、コロナ騒動で非常事態宣言というものが発せられてしまい、一旦は予約をキャンセルしたのだが、宣言が解除されてから改めて予約を取り直した。今日はその旅行の1日目。旅行の時は早い時間に東京を発つのだが、今回は宿の送迎に合わせ、篠山口に午後2時頃に着くような時間で列車を予約した。

窯場は明日訪れることにして、今日は宿周辺を散策する。篠山は17世紀はじめに大坂城攻撃の拠点の一つとして築城された篠山城の城下町。大坂城落城後も徳川幕府の西日本の拠点として譜代大名がこの地を治めてきた。外様の雄藩の地は、どことなく隙あらば勇躍しようかというような力強さのようなものを感じるのだが、譜代の地は総じて穏やかな気がする。とは言え、篠山城は1956年に「日本100名城」に選出されている。

宿は古民家を再生した建物。特にそういう宿を選んでいるつもりはないのだが、昨年2月の京都、一昨年5月の近江八幡と、ここ数年はそういう宿を利用する機会に恵まれている。自然災害が多い一方で人口減少が著しくなりつつある日本で中古不動産の活用という文化がこれから根付いていくものなのか、注目される。