熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2020年2月

2020年02月29日 | Weblog

大岡信『折々のうた』岩波新書

短歌を詠もうと思って作るようになって1年になる。作り始めた頃はホイホイ作っていたのだが、こうして歌の本を読んだり歌について話を聴いたりすればするほど気軽に作れなくなる。何を詠むかというそもそものところで前に進めなくなってしまうのである。もちろんこういう本を読めば気付きや発見もあるので、こうして手に取るのだが、知らないということはある面で強いことでもあると思う。

歌はそもそも特定の相手に対して詠まれるものだ。その人に対して語りかける、その人からの語りかけに応える、これは基本だと思う。誰にともなくつぶやくというのは歌ではない。つぶやきというのは多くの場合「独善性や甘ったれた自己満足」で終わってしまい、世界が広がらない。言葉の力というものがあって、一言でどれだけ多くのことを語るのか、という工夫がなければ歌を詠む意味がない。

俳句の「俳」の字は、人と違ったことをして人を興がらせる芸人の意味だったそうだ。歌にもそういうものがあって然るべきだろう。人を愉しませるには自分に余裕がないといけない。余裕というのは心の大きさのようなものだろう。心は放っておいて大きくなるものではない。大きく豊かにしようと心がけがなければそうならない。それにはどうしたらよいか、と考える。ぼんやり生きていてはいけない。江戸時代の歌人、小沢蘆庵は、心は深くあれ、されど詞は平淡なれという「ただこと歌」の理想を説いたという。そうありたいと自分も思う。

ところで、中学や高校の授業に登場した歌や句で今でも記憶に残っているものがある。それは内容よりも調べが自分の波長に合うからではないかと、ふと思った。

 

北山茂夫『万葉群像』岩波新書

岩波新書の復刊シリーズの一冊。復刊するほどのものかとも思うのだが、物事は人により、時と場合により、如何様にも解釈できる。

今まであまり歴史に関心がなく、ましてや歌など意識の外だった。それがどういうわけかここ2年ほどはこうしたジャンルの本を読むようになった。同じ歌がこうも違った解釈になるのか、というようなことに遭遇することもある。限られた文字数で語られていることなので、そもそも詠んだ本人にしかわからないこともあるだろうし、その本人と何事かを共有していないと理解できないこともあるだろう。既存のものからその前後左右を類推するには、方法論や科学がないといけない。その方法論や科学を学問と呼ぶのだろう。自分で学問を究めるのではなく、他人が書いたものを切貼りしているだけの「学者」が生活していられるようでは、その国の文化の底は知れている。自分で見ない、自分で考えない、それを疑問に思わない、という輩が「学問」の世界で大手を振っているということがありはしないか?

 


吉田篤弘『神様のいる街』夏葉社

きれいな文章だと思う。そんなに生活がきれいにまとまるものだろうかと思うくらいに出来た内容だ。ちゃんと考えて生きれば人は人らしくカタチの良い生活を営むことができるのかもしれないが、人との出会いに関して、そうピタリピタリと上手くいくとは信じられない。単に自分にそういう実感がない所為かもしれないが、どれほど身近な人であっても、その人と同じように成長したり老化したりするわけではないという当然のことが語られているのを聞くことがあまりないような気がする。

 


関口良雄『昔日の客』夏葉社

本を読む愉しみとはこういうものかと思わせてくれる本。古書店を営む著者が日々の営みを通じて人との出会いや交流を語っている。何がどうしたというのではない。この人とこんなことがあった、ただそれだけのことである。それがじんわりと面白い。たぶん、人ひとりの営みと言うのはそうしたどうということのないことで出来ていて、だけどそういうところに言葉にならないような体温があって、その自分でさえ気づかないような意識下の動きが人を人たらしめている気がする。

生計を立てる、とか、生活を営む、などと言うと、どうやって稼ぐのか、とか、どうやって儲けるのか、という方面にしか頭が回らない人が多い。数字を追うことで人並みの事をしている安心感に浸れるのかもしれないが、数字を追っている限りは満たされることがない。数字というものに限りがない所為もあるが、生活というものすべてを数字に落とし込む発想に無理があるからだ。本来的に数値化できないものを数字で語ると思う浅はかさが不幸の元なのだ。

ところが世間はあらゆることを数値化しようという流れにある。しかし世間に付き合う義理はない。ただ世間と付き合わないことには生活がまわらない。要は距離のとりかただろう、と思う。

古本を買い取るのに客先へ風呂敷を持って出向く。電車やバスを乗り継いで時間をかけて移動する。当然、その売り主が利用しているであろう動線の一部を辿ることになる。その売り主の住まいを訪ねれば、その人の生活空間を垣間見ることになる。そういう体験をいろいろな人を相手に積み重ねる。どのような本を読んだ人がどのような生活をしているのか、その雰囲気を体感するという経験の蓄積だ。そういう表現の難しい経験は自分の記憶のなかで相互に作用して時に化学変化のようなことが起こる。そういう諸々から得られる知見は、たぶん何物にも代えがたい巨大な財産だ。そういうものを下地にして生活を営めば、世につまらないものなど何一つないのではなかろうか。

本書のあとがきで、著者の御子息は著者が亡くなる10日ほど前にこんなことを言われたそうだ。「どんなものでもいいから、お前は詩を書け。詩を書くことによって、お前の人生は豊かになる」詩を書くには言葉にならないことをたくさん積み重ねないといけない。言葉にならないことを言葉にすると、その言葉は言葉以上のものになる。上手く言えないが、そういうことだと思うのである。

 


島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』新潮社

生きるのは能書きを語ることではなくて、個別具体的なことの積み重ねだということが伝わってくる。著者は自分の親しい人のために或る詩集を作りたくて、結果として出版社を立ち上げることになったのだそうだ。具体的な誰かのために具体的なことをしたい、そういう相手がいるというだけで、たぶん人は生きるに値する生活を営むことができる気がする。

 


丸山真男『日本の思想』岩波新書

地球以外に「知的」生物が存在する可能性について問われたホーキンス博士は、地球に知的生物が存在するのかと問い返したという。なにをもって「知的」とか「知性」というのか知らないが、自分が存在する価値のあるものだということを物事の暗黙の前提に置かないと、人は安心できないだろう。このブログに何度も書いているが、人は生まれることを選べない。気が付けばここに居るのである。自分の意志で生まれてきたわけでもないのに、生まれてみればやれ「権利」だ「義務」だとやかましいことを言われ、ろくに考えもないままに他人に対しても「権利」だ「義務」だと言うようになる。わずかばかりのサンプルを取り出して、「科学的」に考察して「普遍性」があるのないのと決め打ちする。そもそも何故ここに在るのかがわからないから、己の存在の座標軸について合意を成すことが必要になる。それをとりあえず「科学」と呼ぶのである。所謂「実験」で「再現」ができることについてすらずいぶん怪しいのに、「思想」となると言ったもん勝ちの世界だろう。だからこそ指標となる見解が必要であり、「信ずるものは救われる」ということにしないと収拾がつかないのである。現に、見解の相違に収拾はついておらず、世界のあちこちで大小様々な諍いが止むことがない。

「日本の思想」などというものがあるはずがないし、あるはずがないものを堂々と論じるところに値打ちがある。道具屋みたいなものだ。本書に「國體」について語るところがある。
***以下引用***ここで驚くべきことは、あのようなドタン場に臨んでも國體護持が支配層の最大の関心事だったという点よりもむしろ、彼等にとってそのように決定的な意味をもち、また事実あれほど効果的に国民統合の「原理」として作用してきた実体が究極的に何を意味するかについて、日本帝国の最高首脳部においてもついに一致した見解がえられず、「聖断」によって収拾されたということである。(38頁)***以上引用***
もっと続くのだが、どこまで引用してもなにが「驚くべきこと」なのかよくわからない。そんなもの一致するわけがないだろう。しかし、「知識人」としては、ここで驚いておかないとまずいということかもしれない。

何年か前に平凡社から出ている『丸山眞男セレクション』というのを読んだ。今開いてみると、たくさん付箋がついていて、鉛筆でたくさん線が引いてあるのだが、なにをそんなに感心したのだろうと我ながら不思議に思う。

 

山本善行/清水裕也『漱石全集を買った日』夏葉社

あとがきが面白かった。ナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』からはじまって、『ノルウェイの森』、『動的平衡』、『利己的な遺伝子』、『<ひと>の現象学』、『斜陽』、漱石全集と続く読書歴の展開が面白い。自分も本を読んでいて、そこに書かれていることとは関係のないことが思い出されて突然腑に落ちることがある。そこに、自分の内側がパチッと変わったり、モヤモヤしていたものがスッと晴れたりする快感のようなものがある。外からの情報を知覚するという点では、ものを読むことも、話を聴くことも、映像を観ることも一緒なのかもしれないが、紙媒体のものを読むのは、知覚の速度やリズムを自分で調整できるので、思考の揺れを自由にできる余裕があるのが良いのだろう。

今はなんだか妙に焦って結論ばかりを追い求めている世情に感じられるのだが、「結論」などというのは方便だろう。その時限りの止まり木のようなもので、そこに留まっているようでは生きていても仕方がないのである。つまり、世間というのは亡者の群れだ。世間を無視して生きるわけにはいかないのだが、どっぷり浸かるとろくなことにはならない。自分でちゃんと納得することをあきらめてはいけないと思う。