熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2019年9月

2019年09月30日 | Weblog

池澤夏樹『科学する心』集英社インターナショナル

先日「ほぼ日の学校」のオンラインクラスで池澤夏樹と奥本大三郎の対談を観て、この本を読んでみようと思った。本を手に取って、これは雑誌の連載をまとめたものだと知った。その雑誌のひとつが季刊『考える人』だ。手元にある最終号を開くと、本書の第七章にあたるところが掲載されていた。こんな連載があったなんてちっとも知らなかった。『考える人』を定期的に読んでいたわけではなく、たまたま2006年冬号、2011年夏号、2017年春号(最終号)が手元にあるだけだ。2006年冬号は「一九六二年に帰る」という特集に興味を覚えて購入した。自分が生まれた年を取り上げているのでなんとなく読んでみようと思ったのである。2011年夏号は梅棹忠夫の追悼特集。以前にも書いたかもしれないが、私は梅棹ファンなので、当然のように購入。2017年春号は最終号なので、なんとなく買ってみようと思った、のだろう。最終号にはけっこう付箋が貼ってあるが、池澤のところは何もない。たぶん読んでいないのだ。自分の興味の対象にありながら、微妙なところですり抜けてしまったことや人というのはたくさんあるのだろう。うまく当たればおそらくその後の人生を大きく変えるようなこともあるのだろう。しかし人ひとりの人生というのはささやかなものだ。何を大きいとか小さいとか思うのかは人それぞれだろうが、大きな時間の流れのなかで個人の在りようはうたかたのようなものだと思っている。なにはともあれ、こうして本書を手にした。

学校を出てからずっと金融業界で働いている。その間に転職8回だが今の職場は出戻りなので勤めた会社は8社。職場を転々とし始めて以降は、仕事そのものに大きな違いはないので、自然と自分の世界が狭くなっていることは自覚している。そういう所為で余計に感じるのかもしれないが、金融の外にいる人の金融についてのコメントには岡目八目的なものを感じる。本書の第三章「無限と永遠」の「数というものは、自分の後ろから無限にくっついてくる」などはそういうところだ。先日、「ほぼ日」に掲載されていた養老先生と池谷先生の対談も然り。「価値」とは何かという根本的な問いがないままに、目先の表層の効用を求めて貨幣価値のみを追求するところに人の不幸の根源があるような気がする。第四章「進化と絶滅と哀惜」もそうだ。何が「進む」のか?はっきりしないままに我々は「進化」と口にする。価値の設定の仕方がご都合主義的だ。誰の「都合」なのか?

「知力」というのもそうとう怪しい。第七章「知力による制覇の得失『サピエンス全史』を巡って」は『考える人』の最終号に掲載されていたものだ。ここにも大いなる一言。「資本主義の基本原理は投資ということだ」今の世界を動かしているのは投資なのだろう。それで得た財の大きさが権力の源泉だ。財力があれば世界を意のままにできると考える人は多いだろう。ただ肝心の「意」が空なのだ。ちょうど台風15号が近付いているが、人の社会も台風のようなものかもしれない。どこからともなく現れては人々を翻弄して消えていく。

 

柳田国男『都市と農村』岩波文庫

本書が発表されたのは1929年。世界恐慌の年だ。小作争議が頻発し、農村の疲弊が社会問題になっていた。そういう状況が戦争につながり、敗戦の結果として民主化の名のもとに富の再配分が行われて一応の解決となる。経済の矛盾を特定のところに押しつければ、全体が破綻する。今の社会は物事を貨幣で決済するようにできているので、権力の無策や失策で問題が生じると、根本的な解決を図ることなく当座の財政でお茶を濁そうとする。その財源がしっかりしていればまだしも、財源に頓着せずに当座を凌ごうとすると、すぐに別の問題に追われることになる。

本書のはじめのほうに次の一節がある。

私の想像では、衣食住の材料を自分の手で作らぬということ、すなわち土の生産から離れたという心細さが、人をにわかに不安にもまた鋭敏にもしたのではないかと思う。(31頁)

生きる実感がないから人は幻想に走るのだと思う。個人から集団に至るまで諍いのもとはこの幻想だろう。

 

柳田国男『婚姻の話』岩波文庫

婚姻というのは社会の単位の生成だ。そこの決め事は社会の成り立ちの原理ともいえる。人と人とがどのように出会い、知り合って、生活を共にするようになるのか。そこには人や社会の生存戦略が反映されているはずだ。環境の変化をみれば、そこに強固な「伝統」とか法則性があろうはずがない。しかし現実には仕来りを気にしたりする者もいる。何故か?

たぶん、婚姻の目的は当事者とは関係のないところにあるからだろう。当事者の方も本当はどうでもいいと思っているからだろう。生活とか生きるとかいうことは、そういうものなのだと思う。

 

『伊丹十三選集 一 日本人よ!』岩波書店

 人生の終わりを前にして、万葉集から日本語、日本人、日本と思考を巡らして、その源があやふやであることに驚いている。当たり前のように「日本」だの「自分」だのと思っていることが、元を辿ると虚空なのである。人類はアフリカ大陸のどこかで生まれ、それが増殖しながら広がったという現実が、「日本」だの「自分」だのというチマチマしたアイデンティティの在り方を全否定している。そんなはっきりしたことを今まで思いもせずに晩年に至っている愚かしさ。もう笑うしかない。


大阪でお彼岸

2019年09月23日 | Weblog

宿は天王寺駅の近くに取った。今までは新大阪駅周辺か民族学博物館の近くで泊まったのだが、どこも今ひとつだった。最大の課題は晩御飯の良いところが周辺にないということだ。料理だけでなく、ものつくりはつくる人がものを言うと思っている。どういう了見で料理を作り店をやっているのか、ひとつひとつの料理に自ずと表れる。極端なことをいえば、味は二の次なのである。そこの世界観と自分の世界とが重なるかどうかが肝心だと思うのである。

今回の大阪は、みんぱく公開座談会に参加するのが目的で、せっかくなので前泊して観光をしようということなのだ。「食倒れ街」と言われながら、これまでの大阪行では食が寂しいことばかりだったので、今回は公開座談会を申し込んですぐに阪口楼を予約した。ここは2015年6月のみんぱく体験講座の会場で、昆布のだしをテーマに料理をいただきながらみんぱくの先生の講義と空堀商店街にある土居の店主による出汁取りの実演を交えた話を伺った。以来、我が家では土居から取り寄せた真昆布で出汁を引くのが当たり前になっている。

今日は荷物を宅配便で宿から自宅へ発送して身軽になり、四天王寺にお参りをしてから阪口楼で昼ごはんをいただき、梅田で公開座談会を聴いて、夕方の新幹線で東京へ帰ってきた。