熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2021年8月

2021年08月31日 | Weblog

『水 18人の水 答えは水の中』 第三セクター四万十ドラマ

本書を知ったのは梅原真の『ニッポンの風景をつくりなおせ』を読んでのこと。本書の出版元である第三セクター四万十ドラマは現在は株式会社四万十ドラマになっている。第三セクター時代から現在に至るまで社長は畦地履正さん。畦地さんとは一度だけ電話でお話をさせていだたいたことがある。今となっては記憶が定かでないのだが、何年か前の今時分に四万十ドラマに何かを注文した。そしたら「お盆の時期で物流が滞っている」ので発送が遅れるとのメールが届いた。私は「お盆は毎年決まった時期なのだから、お盆で云々という言い訳はおかしい」というようなことを書いて返したのである。今から思えば余計な事を書いてしまったと恥ずかしい。すると、畦地社長直々に謝罪の電話がかかってきたのだ。些細なクレームに社長が電話で対応するとは、単に人手が乏しいというだけのことだったのかもしれないが、こりゃ大した組織だと感心してしまった。なぜ感心したかというと、自分たちが商うものへの愛情とか情熱のようなものが伝わってきたからだ。

その畦地さんの四万十ドラマが三セクだった頃の企画商品の一つがこの本だ。梅原の『ニッポンの風景…』によると本書誕生の経緯はこのようなものらしい。

「万物の根源は水である」。四万十川が日本最後の清流というのなら、まず「水」について語る場を作ろうじゃないか。「四万十ドラマ」というあやしげなイメージを払拭するために、モノを売る前にまず「ココロザシ」をみせようじゃないか!と。

「水」という本作りを提案した。あらゆる分野の著名人に「水」についてのメッセージをいただく。そして、原稿依頼や編集、デザイン、印刷などのイッサイガッサイを四万十川が行う。四万十川は東京から取材され、東京から発信されるいちコンテンツになっている。そうじゃなくて、四万十川住民が自らプロデュースするというまったく逆をやりたいと……

原稿を依頼する人物リストアップを存分に楽しんだ。すると、ビビってしまうようなスゴイ45人となった。しりごみして憂鬱になった。原稿料はきちっと払いたい/金はない/甘えてはいけない!/原稿料が見当もつかない!
そこで考えたのが、原稿料は「あゆ」。あなたの「考え」と「四万十川の天然あゆ」を、物々交換させてください。と考えた。わたしは住んでいた四万十川の家の下の瀬で、網を投げ、鮎を漁っていた。自分で漁れば「タダ」なのである。

受け取る側にはその価値は未知の世界なわけで、いい想いつきだった。
(梅原真『ニッポンの風景をつくりなおせ』羽鳥書店 126-131頁)

そして四万十ドラマとしての公式依頼書、梅原手書きの手紙、返信ハガキをセットにして45人に送ったのだそうだ。その結果、18人の原稿で本書が完成したのである。素晴らしいと思った。人の了見というものがよくわかる試みだと思う。ここに原稿を寄せた18人を、私は信頼できる人だと感じた。

赤瀬川原平
浅井慎平
天野祐吉
荒俣宏
糸井重里
内山節
岡林信康
黒田征太郎
櫻井よしこ
高橋治
田島征三
筑紫哲也
ナンシー・フィンレイ
橋本大二郎
浜野安宏
平野レミ
フランソワーズ・モレシャン
山本容子
(敬称略・五十音順)

それでこの本は版もでかいが字もでかい。なぜ文字が大きいかというと、以下の理由があるのだそうだ。
1. 執筆を依頼した45人全員が原稿を書くという前提で版を組んでしまった
2. しかも一人8ページを予定していた

冗談かもしれないが、いい噺、いや、いい話だと思う。そんな素敵な本なのにAmazonで検索しても出てこない。この「読んだ」マガジンに上げているのは、会報とかWebのコンテンツは別にして、書籍は当たり前にどこでも入手できるものばかりだ。困ったなと思って、四万十ドラマのサイトを見たら、ちゃんと販売していた。

 

『復刻アサヒグラフ 昭和二十年 日本の一番長い年』 朝日新聞社

昔、『アサヒグラフ』という雑誌があった。週刊の写真画報誌で、写真を主、記事を従として世情を報じるものだった。今は街を往く人の八割以上がそれぞれにカメラ機能のあるなんらかの機器を手にしている印象だが、かつは映像を記録することはそれ自体に価値があった。「活字離れ」というのは自分が子供の頃から既に言われていた気がするのだが、写真誌や画報誌もなくなってしまった。『アサヒグラフ』は2000年にシドニーオリンピックの総集編を最後に休刊となった。

本書は昭和20年に発行されたものの中から以下の十号を一冊にまとめたものだ。薄い。モノのない時代だったので、原本も薄かっただろう。戦時中であろうとなかろうとマスメディアというものは時の権力から容認された媒体だ。世間にはエスタブリッシュメントのコンテンツを無批判に受容する傾向があるようだが、世に大手を振って流布される「情報」というものはなんらかのフィルターを通過したものであることを十分に認識しておかないといけない。「大手ナントカ」だの「お上」だのの権威を無闇にありがたがって、思考を回避するのは単に安易であるからなのか、そもそも思考力が欠如しているからなのか。いずれにしてもろくなことにはならない。それでも御用メディアの表題を並べてみるだけでも興味深く時勢を俯瞰できる。世の中というはどのようなことも起こり得るというのがよくわかる。

本書に収録のアサヒグラフと表紙見出し
1944年12月27日/45年1月3日合併号:大東亜線局の焦点
3月7日号:醜翼を迎え撃つ月光隊
3月21日号:戦友よ逞しく焦土から起たう
4月25日号:敵の暴爆を弾き返す
6月25日号:女ばかりの農村工場
7月15日号:敵空軍はかく日本を狙っている
8月25日号:戦争終結の大詔渙発・原子爆弾とは
9月5日号:連合軍内地へ進駐
10月15日号:米人の見た東京・英字の氾濫
12月5日号:炭坑は人を待つ・秋場所大相撲

新年号の「大東亜線局の焦点」には時の日本の勢力圏が地図で示されている。すでに大勢は決していたはずだが、依然として東南アジア、朝鮮半島、満洲、中国の一部が日本と同じ色に塗られている。記事だけ読むと戦況は厳しい印象だが、この地図と併せると挽回の余地があるかのようにも読める。同じ号の記事には在外領土や同盟国の様子を伝えるものもあるが、そこにも似たような余裕があり、何よりそうした勢力圏が存在しているかの印象を守ることが当時の報道としては意味があったのだろう。

3月7日号には硫黄島の様子が報じられている。備え万端であるかの印象だが、現実は真逆だったことは今となっては誰でも知っている。また、何故この時期に硫黄島のことが報じられたのかということにも興味が湧く。国内の記事では「本土戦場の態勢」と題して軍需工場の様子と避難訓練の写真が掲載されている。1月には日本周辺の「勢力圏」が語られていた舌の根も乾かない内に本土が戦場になる現実を語らないわけにはいかない状況になっていた、ということだ。

3月21日号は表紙が空襲の写真。3月10日の「東京大空襲」を機に本土への無差別爆撃が本格化した。「伐り出せば勝つ」との見出しが踊るのは十勝岳での森林伐採の話。航空機の材料だそうだ。高度1万メートルを飛行するB29に木製飛行機で挑もうというのである。

4月25日号の表紙は出撃直前に水盃を頂く特攻隊員の姿。巻頭記事は沖縄戦。

6月25日号の表紙も特攻隊員だが、子供だ。巻頭記事は特攻。

7月15日号は「本土決戦と必勝の信念」という巻頭記事。この号にも戦局解説の地図が載るが、描かれているのは日本列島だけだ。しかも、敵の爆撃機がどこの基地から飛来するかという解説。同じ地図付きの記事でも1月とは様変わり。

そして迎える8月。巻頭は戦争終結の詔書。続いて原爆の解説。日本各地の食糧生産の様子。

翌9月は連合軍の進駐の様子を伝える記事が巻頭を飾る。数ヶ月前まで「戦う」とか「決戦」の文字が踊っていた同じ雑誌とは思えない変わり様だ。興味深いのは簡易住宅の紹介。厚生省型簡易住宅というものと東京都応急簡易住宅というものがあったらしい。間取りはほぼ同じで、どちらも六畳間、三畳間、土間で構成され、どちらも12m x 18mであるが、厚生省型はこのサイズの中に押し入れも含まれるのに対し、東京型は押し入れが外にはみ出す形になっている分、土間が広くなっている。便所はどちらも外付けで風呂はない。土間が台所兼玄関というのが今では考えにくい造りだ。さらに注目すべきは、この号には仏像の大きな写真が載っている。法隆寺の夢違観世音像で記事は野間清六。その記事にこうある。

今私たちは暗澹として戦ひを終つて、明るい朗らかさを求め、反動的に明るい朗らかな世の中を作り出さうとしていますが、それは決して一時的な軽佻浮薄なものであつたり、又自暴自棄的なものであつてはならぬのです。

つまり、世間がハイになっていたらしいのだ。その時代を生きていないのでわからないが、作用反作用ということなのだろう。無理に締め付ければ、箍が外れた時にどうなるか、ということは今まさに考えないといけないことのように思われる。

10月は復興の様子と米国人記者のみた東京の様子の記事などが並ぶ。この号にも仏像の写真が野間の記事とともに載っている。連載のようだ。今回は浄瑠璃寺の吉祥天像。記事の方は世情に言及した箇所はなく仏像の解説に終始している。この号には藤田嗣治のインタビューがある。藤田は上野原に疎開していて、取材は上野原の疎開先で行われた。周知の通り、藤田は数多くの戦争画を描き、それが高い評価を得る一方で激しい批判にも晒された。結局、藤田は日本を離れ、フランスに帰化して故国の地を踏むことなく生涯を終えた。このインタビューは1945年なので日本を離れる4年前だが、ここで彼の見る日本人というものを語っている。

大体、日本人は小心すぎるよ、ひどく潔癖な画一的なものの考え方は益々人間を小さくしている。その癖、妙に事大主義者で、気軽に動かうとは決してしない。すねたやうな、おさまつている人間を偉い者のやうに思ふ癖がある。だから頭の悪い人間は黙つて深々と椅子にふんぞり返つていれば、結構、立派な人間のやうに思つてくれる、妙な国だね。そして他人を貶しておればよろしい、他人のすることに難癖をつけることは非常にうまいが、他人を賞賛して、その仕事を成長させるやうなことは決してしない。人間は褒めることによつて進歩することを知らんのだらうか。

今も同じだと思う。

12月は巻頭は炭坑の記事だが、秋場所大相撲が大きく誌面を飾った。戦後初の大相撲は戦災に遭った国技館を応急処置で体裁を整え、11月16日に開幕。10日間にわたり実施された。ただ、戦後のモノのない時代なので、関取は身体の調整が十分とは言えず、皆それぞれに苦戦したらしい。確かに写真で見る限り、関取の割にはスリムだ。

出場三横綱の中、一番元気で危気のないのは矢張り羽黒山であるが、安芸の海と照国は相当目立つ体重の減量で何となく安定感が失はれ、安芸の海は早くも二日目柏戸にしてやられて土がついた。

夏までは焼け野原だったのだから、住宅難というのは容易に想像がつくが、この号では軍隊の兵舎を集合住宅に改装した事例が紹介されている。元の野戦重砲兵第八聯隊東部第一八六部隊の兵舎で、敷地面積二万八千坪、建坪六千坪、場所は世田谷区三宿。兵舎の時は約五千名の兵を収容したが、復興住宅としては千三百世帯を収容、とある。

食糧事情の厳しさを物語る記事が「木の実の食糧化」。ドングリをどうやって食べるか、というハウツーの記事だ。書き出しが衝撃的だ。

いま、わが国は、食糧飢饉に襲われ、一千万人が餓死するといはれている。

今暮らしている団地の敷地内にもぼちぼちドングリが転がり始めているが、これを食べるとなると、考え込んでしまう。木の実でも栗のように旨いものもあるが、ドングリは腹に収まるまでに並大抵の手間では済まないだろう。しかし、また食べなければならない状況にならないとも限らない。

この号には岩波茂雄のインタビュー記事がある。岩波書店が古書店から発展したものであることを初めて知った。この記事から、この時期に日本必敗論が流行っていたことが窺える。

「日本人は我儘一杯に育つた坊ちやんで島国根性が抜け切らない。理想に対する憧憬もなければ真理に対する情熱も欠けていた。物量からみても劣つていたが、精神においても遅れていた。満州事変この方やることなすこと何らかの名分がない。占領するとすぐにお宮を建て銃剣を突きつけて拝ませる。支那事変で幾万の血を流したが、忠霊塔を建てるなら支那人も一緒に祀るべきではなかつたか。どこに道義がある、敗けるのは当然じやないか」
 聴いているのは記者と同行の写真班とたつた二人だけなのに、滔々決河の弁、熱するところ遂に拳をもつてどんと卓を叩く。お説御尤もではあるが、結果からみたに日本必敗論はこのごろ方々で聞くので些か食傷気味だ。

多くの人は、年のはじめには戦況がどれほど悪くとも、必ず勝つと思っていただろう。だから「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」日々を過ごしてきたのである。それがこうも変わるのだ。世情の変化は現在の比ではなかっただろう。その時代を私の親祖父母の世代は生き抜いて今日の基礎を拵えた。人の適応力は自覚を遥かに超えているのだと思う。そうしなければならないと思えばそうするもの、と思うより仕方がない。しかも、当事者は自分の親祖父母。かなり身近な人たちの実体験だ。こうして時間を置いて振り返れば、生きることは節操のないこと、恥ずべきことにさえ見える。たぶん、それは戦中戦後を生き抜いた当事者とて同じだったのだ。だからムキになって己の存在を正当化したい。戦後の復興は、何もかも失ってしまったのだから何もかも改めて造り直さないといけないという事情が当然にあったにせよ、多くの人命が失われた後を生きることの後ろめたさも大きな原動力になっていたと思うのである。「奇跡の復興」は日本だけではない。ドイツもイタリアも他の戦災に見舞われた地域もそう呼ばれている。どこも事情は同じだろう。

もう何年も、家にテレビがなく、新聞も購読せず、そっと息を潜めるように暮らしているつもりなのだが、それでもどこからか雑音が漏れてくる。文人画の中の文人のように静かに暮らすことができないものなのだろうか。そのように暮らしたいと腹の底から思って行動すれば可能だということはわかっているのだが。

 

『後拾遺和歌集』 久保田淳・平田喜信 校注 岩波文庫

どのような芸事にも基本になる規定演技のようなものがある。落語の場合も例外ではない。柳家では「道灌」という噺がそれにあたる。入門して最初に稽古する噺がこれだという。なぜその噺なのか、ということについては全く知らない。

落語には和歌がけっこうよく登場する。「道灌」には『後拾遺和歌集』に収載されている中務卿兼明親王の

小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせ侍りけり、心もえでまかりすぎて又の日、山吹の心えざりしよしいひにおこせて侍りける返りにいひつかはしける

ななへやへ花は咲けども山吹のみのひとつなきぞあやしき
(582頁)

という歌が登場する。但し、最後の「あやしき」が「かなしき」になっている。どちらがどうというのではなく、写本が伝搬する中で何通りかの歌ができてしまったということなのだろう。都電の面影橋の電停の近くに「山吹の里」という碑がある。その碑の隣に立っている説明板にはこのようにある。

新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が鷹狩に出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の みの(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、『和漢三才図会』(正徳二・一七一二年)などの文献から、江戸時代中期の十八世紀前半には成立していたようです。

「悲しき」だ。「悲しき」と「あやしき」とでは意味がだいぶ違うが、古歌=教養として知っているべき歌を太田道灌が知らなかったことを恥じて和歌の勉強に励んだというところが肝だ。それが落語、しかも前座噺で語られるということは、演芸を楽しむ一般大衆がこの故事を当然に知っていたということでもある。今は和歌・短歌が何だか特別なものになってしまった感があるが、それこそ悲しきことだ。

ところで、『後拾遺和歌集』は勅撰和歌集だ。天皇や上皇の命によって編纂されたということは、国家事業とも言える。国家事業として歌集を編纂するとはどういうことなのか。私にはわからない。恋人との別れが悲しくて涙で袖を濡らしました、というような歌がたくさん収載されている。この岩波文庫版には1218首と異本歌11首の都合1229首が納められている。このうち228首が恋歌とされているが、雑歌の中にも色恋を歌うものはあり、そう考えるとかなりの割合になる。色恋や花鳥風月がいけないというのではないが、それを字義通りに受け取ってよいものなのだろうかと不安を覚えるのである。国家事業で編纂する歌が単に色恋だの花鳥風月のわけがないと思うのは下卑た感覚なのだろうか。字面の裏に語られている和歌の本当の意味、というようなものがある気がしてならない。

補足:太田道灌の「山吹の里」とされる伝承地は、この東京都豊島区高田一丁目の他に、荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などいくつもある。

 

関口良雄 『昔日の客』 夏葉社

その昔、東京大森に山王書房という古本屋があったそうだ。その主は関口良雄氏。1977年8月22日に結腸癌のため自宅で死去。享年59。今の自分と同い年。三十代半ばに古本屋をはじめ、それが天職になったのだという。還暦記念に以前から書いたものに新たな随筆を加えて一冊の本として出版することを楽しみに準備を進めていたが、還暦を待たずに旅立たれてしまった。その本がこの『昔日の客』だ。三茶書房のオリジナルではなく夏葉社の復刻版である。

本を読む習慣は無く、ましてや文芸は自分から一番遠いものとの思いもあって、殆ど手にすることがない。そんなふうに本というものに対して初心な所為か、この本そのものの佇まいにも文章にも魅せられてしまった。こんなに心惹かれる本は今まで手にしたことがない。読了した本を改めて手に取ることはあまりないのだが、本書は何度も読み返している。

装幀が良い。布張りの鶯色の表紙とか、その表紙に刻印された書名と作者名の文字、それに対する背表紙の活字のバランスと佇まいがいい。裏表紙と口絵に山高登の版画(夏葉社版では版画を印刷したもの、三茶書房版は版画そのもの)があり、これが印刷でもまたいい。そのいかにも本らしい本の中に、ちょうど読みやすい長さで、しかも深い味わいのある美しい文章が程よく収められている。古書店の店主を志すくらいだから、文芸への興味関心も人一倍強くて読書量が半端ではないのだろうし、書物の値踏みができるくらいの眼を持っている人だ。そういう審美眼を持つ人が書いた文章ならではの魅力を感じる。

「昔日の客」というのは野呂邦暢から関口に贈られた『海辺の広い庭』の見返しに記された墨書きに由来している。

「昔日の客より感謝をもって」野呂邦暢

そして「昔日の客」というタイトルで一編の文章が本書に収められている。

 そんなことがあって間もなく、野呂さんは家の事情で勤めをやめて郷里へ帰ることになった。
 その時、私の店にほしい本が一冊あった。
 それは、そのころ筑摩書房から出て間もない、「ブルデルの彫刻集」という本だった。
 野呂さんは部屋代を払ったり、旅費のことを考えると、本を買う金は千円位しか都合がつかなかった。「ブルデルの彫刻集」は千五百円についていた。
 事情を聞いた私は即座に、それなら千円で結構ですと言ったと言う。
 そんなことは私には少しも記憶のないことで、ただ一方的に聞いているだけだった。
(『昔日の客』205頁)

一方、野呂の方も関口のことを随筆に書いている。タイトルは「S書房主人」で初出は西日本新聞夕刊、1976年5月13日。手元にあるのは野呂の随筆集『兵士の報酬 随筆コレクション1』(みすず書房)だ。

 何ヶ月か後に私はつとめをやめて九州へ帰ることになった。いくばくかの退職金を懐中に私はS書房へ出かけた。買いたい本は決めていた。あるフランス人彫刻家の写真集である。ちょうど給料の四分の一にあたる値段であったと覚えている。当時は豪華本である。
 私は郷里に帰ることを主人に告げた。彼は黙って値段を三分の二にまけてくれた。餞別だというのである。私は固辞したけれどもいい出したらきかない相手だった。
(「S書房主人」『兵士の報酬 随筆コレクション1』332頁)

示し合わせて書き合ったわけではないだろう。互いに知らぬままに互いのことを文章に起こし、それらが響き合っている。こういう偶然のような必然というか、必然のような偶然を目の当たりにするのは愉しい。

野呂邦暢という作家のことは『昔日の客』で知った。すぐにAmazonで検索して在庫のあるものを何冊か注文し、届いたもののうちから何冊かを読んだ。いつまでも読んでいたいような美しい文章だと思った。野呂は関口の店で念願の『ブルデルの彫刻集』を手に入れて郷里へ戻り、陸上自衛隊に入隊する。翌年除隊の後、家庭教師をしながら執筆活動を始める。その作品が様々な文学賞の候補になった後、1974年に『草のつるぎ』で第70回芥川賞を受賞。野呂が芥川賞授賞式に出席するため上京した折に、関口の店を訪れ、その手土産が『海辺の広い庭』だった。

類は友を呼ぶ、という。出会い、あるいは縁というものは、たぶん必然なのだ。巡り合うべき人と人、人とモノ、人と出来事があるのだと思う。『昔日の客』を読んで、そんなことを思った。翻って自分はどうか。現実がすべてだ。今更後悔も反省も何もない。

 

『長谷川潾二郎画文集 静かな奇譚』 求龍堂

一時期、絵を観ようと思って、ジャンルを問わずさまざまな絵を観た。余計なことは気にせずにただたくさん観た。何年か続けて、それでわかったのは、自分は絵描きにはなれないということと、絵についてどうこう言えないということだ。そういう断りを入れた上で、妙に記憶に残ってしまっている絵というものがある。

いつのことだか時期は記憶にないのだが、東京駅の丸ノ内駅舎が復元される前の東京ステーションギャラリーでベトナム戦争の時のベトナム兵が戦闘の合間に描いた絵を観た。新聞紙だか事務連絡に使う帳面だかの切れ端に描かれた花や女性の姿が、断片的ながらも脳の片隅に引っかかって取れないのである。絵心のある、戦時でなければ絵描きになっていたかもしれない人の絵なのか、特に絵に縁があるわけではないけれども戦時の緊張を和らげるために手慰みで描いただけのものなのか、キャプションに説明があったかもしれないが何も覚えていない。でも花や女性の顔の線とか、ありあわせの色の付くもので最小限の彩色を施した、下地の新聞や書類の文字がはっきりと見える絵が、なんだかとても美しく見えた。それで刺激を受けて、スケッチブックを買って絵を描いてみたりもした。美しい絵は描けなかったが、笑いを誘う自信はある。

ところで昨日、長谷川潾二郎のことに少しだけ触れた。長谷川は作品を描くのが遅かったらしい。長谷川の作品「猫」は長谷川が自宅で飼っていたタローを描いたものだ。

ある日、アトリエで眠っているタローを見ていると、急に画に描きたくなった。小机の上に座布団を乗せ、臙脂色の布を敷いて、その上に眠っているタローを抱いて来て乗せた。熟睡しているタローはされるままになっていた。
(『長谷川潾二郎画文集 静かな奇譚』求龍堂 160頁)

それから数日、同じことを続けて画は形になっていく。ところが、一旦中断して一ヶ月後に作業を再開しようとすると、タローは同じポーズをとらなくなってしまう。画は先に進めない。長谷川は何故タローが同じポーズをとらなくなってしまったのか、あれこれ考える。そして猫の姿勢と気温が関係していることに気づくのである。タローの絵を描き始めたのは9月なので、同じ気候になる次の年の9月を待って作業を再開すると、考えた通り、タローは前年と同じ姿勢になった。

その翌年の九月中旬、考えた通り私はタローの画の続きを描く事が出来て九分通り仕上げた。画の猫には髭がなかった。
(『長谷川潾二郎画文集 静かな奇譚』求龍堂 160頁)

この髭がないことが、後になって問題になる。そのことはひとまず置いて、その九分通り仕上がったタローの画を見た「画商のS氏」が欲しいと言い、長谷川は売る約束をする。但し、「髭が出来てから」という条件で。その間にも時間は進行し、季節は変化するので、その年はとうとう髭を描くことはできなかった。「髭くらい」と思う人もたくさんいるだろう。見ていないことは描けない、というのが長谷川で、それは「完全主義」とか「正直」というような表層のことではなく、長谷川の世界観がそうなっているのだから仕方がないことなのだと思う。そうこうしている間にも時間は経過する。タローは老い、病をえて亡くなってしまう。画は完成しない。S氏との約束はある。仕方なく、デッサンをもとに想像で髭を描いた。ところが左の髭だけだ。右はデッサンが無いから描けないのである。左の髭だけが描かれた猫の画を画商のS氏はようやく手にすることができた。タローの画を描き始めて7年が経っていた。「画商のS氏」とは洲之内徹である。洲之内はこの作品のことをエッセイに書いている。

長谷川さんの差し出すキャンバスを受けとって見ると、どういうわけか左半分の髭しか描いてない。しかし私は、どうして右側の髭がないのかは訊かなかった。下手なことを言って、また何年も待つことになっては大変だ。
(洲之内徹『絵のなかの散歩』(気まぐれ美術館シリーズ)新潮社 249頁)

絵の商売については何も知らないのだが、ほぼ完成した猫の画を「髭がまだ」という理由だけで何年も待たせる画家も、また、それを待つ画商も珍しいのではないか。私はこういう話の世界に素朴に憧れるのである。