熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「ふだんのちゃわん」縁起

2011年01月23日 | Weblog
始まりは友人との雑談でした。何かものを作るということをしてみたいと話していたら、陶芸を薦められました。理由は至極単純で、作ったものを使うことができるから、というものでした。

いざ、どこで習おうかと考えたときに、以前、別のことで通ったことのある池袋コミュニティカレッジが思い浮かびました。ネットで検索もしてみましたが、画像検索を繰り返したところ、大河内先生の作品が気に入ったので、結果として最初に思い浮かんだところになりました。最初の授業は2006年10月でした。途中、勤務の都合で2007年10月から2009年3月まで中断しましたが、ずっと大河内先生のご指導下で週一回の受講を続けています。

作品をただ展示したり、ただ販売したりするだけでは面白くありません。今はネット上の世界で生活に必要なことは殆ど用が済んでしまいます。それは時間をかけないで済むという点では便利なことです。ネットの世界は匿名性が強いので、余計な人間関係に煩わされずに済むというのも利点のひとつかもしれません。ネットは生活を「済ませて」しまうものであるように見えます。「済ませ」た結果として何が残るのでしょうか。「済ませて」浮いた時間や労力で我々は果たしてどれほど豊かになったり、幸福になったりしたのでしょうか。

例えば、身近な調味料として砂糖や塩があります。どちらも、これでもかというほど精製したものが比較的安価に流通しています。調味料自体は「おいしい」ということを要求されませんから、味に関係なく所定の成分に精製することだけに集中して作ったほうが、作る側にとっては都合がよいはずです。しかし、使う側が「おいしい」塩とか砂糖を求めたら、精製したものに行き着くでしょうか。多少の夾雑物が残るところで、ミネラルや旨味成分を味わうことができ、それを「おいしい」と感じるのではないでしょうか。

生活も同じことではないかと思うのです。無闇に効率を追うのではなく、敢えて寄り道や遠回りをしてみることで、それだけ多くのことに遭遇し、そうした経験のなかに心踊ることもあるものなのではないでしょうか。心踊るとはどのようなことでしょう。私は人の心が最も強く活動するのは他者との出会いだと思うのです。人はひとりで生まれ、ひとりで死にます。根本的に孤独な存在であるからこそ、他者との遭遇に大きな喜びを感じるのだと思います。自分の意思で他者と関係するというところが、心が動く鍵なのではないかと思うのです。

今回の作品展は、「出会い」あるいは「縁」にこだわりました。まず、陶芸作品は私の手仕事ですし、それは先生の指導の下に出来上がったものです。このギャラリーは知人に紹介してもらいました。その知人とは別の知人を介して知り合いました。作品展の案内状に関しては、やはり知り合いを通じてデザイン事務所を紹介してもらいました。出来上がった案内状の配布も友人知人を頼って行いました。つまり、この場は私を取り巻く関係性を具象化したものなのです。

もちろん、同じ作業をネット検索だけで済ませることもできるでしょう。しかし、検索するという行為は誰がやっても、ある選択基準の下でほぼ同じ結果に辿りつくはずです。誰がやっても同じなら、私がやる意味は無いのです。私が友人知人に「陶芸の個展を開きたいんだけど」と話をすることで、相手から「じゃぁ、どこそこに聞いてみるよ」とか「だれそれを紹介するよ」という反応を得て、それぞれに広がる縁故を手繰り合わせたのが、この空間なのです。

この空間で、新たな出会いがあれば、あるいは自分が何かに出会っていたことへの気付きがあれば、それもまた楽しく豊饒な経験になるのではないでしょうか。そんなことを考えて、この作品展を開きました。

(以上、個展会場に掲示した挨拶文のひとつ)