旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

サンフランシスコの「日本人墓地」

2016-08-27 09:25:53 | アメリカ西部

6月に忙しすぎて書けていなかったことを追加・・・

サンフランシスコの日本人墓地は、ダウンタウンから南へ三十分ほどのコルマという街にある。ここは日系人だけでなく、いろいろな民族・宗教、各種団体ごとの膨大な墓が集められて出来ている。 まず管理棟を訪れると、民族や出身地、あるいは教会宗派ごとに台帳があった。下の写真、右はキプロス系の台帳↓

左のオリベットというのはキリスト教の宗派のようだ。民族だけでなく、各グループが、どんな歴史をたどってここに埋葬地をもっているのか、分かりやすく概略を理解することができる。

日系人の台帳にもそのスタートから、現在までの活動の記録がしっかり記してある

歩いてすぐ近く、日本人墓地の入口↓

入ってすぐに、最初にサンフランシスコで亡くなった日本人、咸臨丸の乗組員三人の墓がある。勝海舟艦長、通訳にジョン万次郎、福沢諭吉も乗船していた三十七日間の航海は、大嵐に翻弄された旅で、多くが疲労困憊していたのだそうな。

咸臨丸のサンフランシスコ滞在中に富蔵と源之助の二人が亡くなり、病床で帰路につけなかった峯吉が出航後に後をおった。

遺体は海軍病院の敷地内に埋葬され、その後ローレル・ヒルにあった最初の日系人墓地に移された。

コルマの墓標、表の表記は英語で、富蔵はTOME-TZO 咸臨丸はKAN-DIN-MARROと表記されている。1860年、最初に埋葬された時に建てられたものが、目の前にあると思ってよいだろう。

ここ、コルマに1901年に設立される以前にも多くの日系人は亡くなっていたから、古いものの多くは改葬されたものである。日本人墓地は市内のローレル・ヒルという場所にあった。今は住宅地である。

●国府田敬三郎は、アメリカに稲作を根付かせた人。探して見つけた一族の墓はとてもきれいに整備されていた。

1882年に福島県に生まれ、教師まで務めたが二十五歳の時にサンフランシスコに渡る。いくつかの仕事を経て三十代の終わりに父がやっていた稲作をはじめたのだそうだ。

第二次大戦中には日系人収容所に入れられ、戦後になって「国宝ローズ」という品種の開発に成功した。

この墓石の裏にまわると、ひとまわり小さな墓がくっつけてあるのに気付いた↓

「国府田米子」とある。調べてみると、敬三郎には三人の子供があり、米子は兄二人に次ぐ三番目、唯一の女の子だった。 ちょうど稲作に没頭していた四十代はじめに授かった娘に、米子と名前をつけたのだろう。 しかし、没年は1956年。三十才でなくなった末娘をこうしてずっとそばにおいていたのか。※フローレンスとは、米子のアメリカ名である。

●萩原眞(まこと)という人物は、現在中華料理屋で食後によく出される「フォーチュンクッキー」を考案した人物であるそうな。

市からの要請で、ゴールデンゲートパーク内に日本庭園を設計し、最終的にそこに住んだのだそうだ。

これらの墓はどれもよく手入れされていて、今も親族の方々が訪れている雰囲気が伝わってきた。

***

サンフランシスコのダウンタウンへ戻り、金門橋が見える丘に「リージョン・オブ・オーナー美術館」がある。※この名前はフランスの最高勲章「レジョンドヌール」からきている。フランス文化に傾倒した人物が建てた美術館なのだ。

入口のすぐ近くに「咸臨丸記念碑」があり、そこから遠く金門橋も見える。

咸臨丸がやってきた当時はもちろんあの橋などなかったのだが。

 


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