木村草太の力戦憲法

生命と宇宙と万物と憲法に関する問題を考えます。

明確性と過度広範性

2012-07-15 09:25:23 | Q&A 憲法判断の方法
前回の問題です。


「悪いことをした者は、十年以上の懲役に処する」

という刑罰法規は、

1 不明確・漠然性ゆえに無効
2 過度の広汎性故に無効
3 合憲限定解釈が可能

のいずれでしょう?

理由も付して、ご回答いただけると幸いです。



解答1
ヒデヨシの野望さま
はいどろさま

解答2
あとうさん


解答2と3の両方
せんぷうき様
太宰さま

うーん、分かれましたね。

この「悪いこと」と言う文言ですが、
はいどろ様のように
三人集会条例のような「一応明確」な条文とも言えない、
と考えるのか、
せんぷうき様のように
一応意味はとれた、と考えるか、
ここが微妙なところです。

まず、一般論としては、はいどろ様のように
不明確故に無効(解答1)と考える人が多いと思います。


ただ、この一年、いろいろこの問題を考えてきて
どうも、不明確故に無効の法理には
いろいろ不明確なものがあるような気がしてきました。


横山さんさんの解釈というのは、

①言語(日本法の場合、日本語)として意味がなさない場合が
 不明確故に無効。

②言語として意味をなす場合に、
 適用対象が広すぎて、明確な限定解釈ができない場合が
 過度広汎。

このように分けてみてはどうか?という提案かと思います。
これはとてもクリアですね。


法文が不明確だ、と言う主張がされるのは
「悪いこと」、「公衆に恐怖を与える」
「風俗を害する」といった文言の場合です。

これらがなぜ不明確だ、と主張されるかというと、
「悪いこと」「恐怖」「風俗」には
いろいろな種類があり、この条文では
どの「悪いこと、恐怖、風俗」を対象としているのか
読みとれない、からだ、とされます。


ただ、このいろいろ種類があるから不明確という理屈は
「悪いこと」や「恐怖」というものが
どういうものなのか、は一応分かっていて(日本語としては意味が通っていて)
公権力の側としては
「いやいや、特定のではなく、全ての悪いことです」と言えば
この主張には、反論できてしまいます!

ただ、そういう意味なら過度広汎ですね。

なので、
①日本語として意味が通らない=不明確
②適用対象が広すぎ明確な限定解釈ができない=過度広汎
という理解は、実は筋が通っていると思います。



ただ、「悪いこと」や「風俗」については、
そもそも日本語として意味が分からない、
日常用語としては使われているが、
=法律言語として使用可能なほどの限定された意味がない
という主張もできるように思われます。

それで、この問題は1と2に分かれるということなのかな
ということでいかがでしょう?

従来言われていたのは、
①モケケピロピロ級条文=日常用語としても意味不明
②悪いこと級条文=日常用語としては使われているが
        法律言語として使用できるほど
        意味内容が限定されていない
③三人集会級条文=法律言語として使用可能でも
        過度広汎すぎる
という三分類です。

①と②が不明確、③が過度広汎の管轄でした。
ただ、②という領域がないのではないか、
という考えは十分にあるのかな、と言う気がします。


こんな感じでいかがでしょう?

最新の画像もっと見る

21 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Re:明確性と過度広範性 (あとうともき)
2012-07-15 10:43:05
木村 草太先生


明確性と広汎性との区別および両者と合憲限定解釈との関係については,
在学中から自信のある解答を示すことができませんでした。

先生のお考えを参考にして,再度考えてみたいと思います。


あとう

Unknown (横山さん)
2012-07-16 13:54:38
木村先生


スッキリ!×3です!!
とても腑に落ちました。

私としては,やはり②は③に分類される
(不明確かつ過度に広汎)のではないかという意見です。

そもそもこのような疑問を持つに至ったきっかけは,
・前回のQAにも貼った「出題の趣旨」の意味が理解できずに考えていたところ,長谷部先生による「漠然性のゆえに法令の適用が違憲として排除されるか否かは,具体的な場面ごとの判断によることが原則となり,
漠然性のゆえに文面上違憲との判断が下されるのは,当該法令があまりにも不明確であって適用されうるいかなる場合においても公道の指針を示すことができないような場合に限られることとなろう。」という記述(長谷部恭男・『憲法』P197)を発見したこと

・木村先生の『急所』の中で,「“不明確性”を理由に“一部”違憲の処理を採るべき事態
」という表現が用いられていたこと(『急所』P162等)から,「一部」「全部」というのはまさに「範囲(広いか狭いか)」に関する言葉ではないのか??という疑問を抱いたこと

にあります。

小山先生が,明確性と過度の広汎性につき「観念的には別の次元に属する問題である」(小山剛・『憲法上の権利の作法』P57)と述べておられるように,結局はどの角度から問題を捉えるかという問題のような気がしてきました。

不明確だから広汎になるのか,広汎だから不明確なのか,というのは卵が先か鶏が先かの議論のように思います。

憲法,とても難しくて苦しみますが,そんな中にも面白さを感じられるようになってました!さすがは日本の最高法規,奥が深いです。

丁寧にお答えいただき,本当にありがとうございました!!これからも楽しみに読ませていただきます。
&また質問させていただくことがあるかもしれませんが,どうぞよろしくお願いいたします。
>みなさま (kimkimlr)
2012-07-17 12:45:22
>あとうさま
そうですね。
とりあえず、「この条文が不明確だ」と
主張する場合、
具体的にはどのような理由を述べる必要があるか
分析しようと思います。

>横山さまさま
そうですねえ、理論的には、
ある行為との関係では明確で
ある行為との関係では不明確な条文がある場合
適用違憲=部分無効になるはずなんですよ。

長谷部先生の記述ってそういうことですよね?
私もそう書いたはずです。

いま、考えていることがあるので、
もう少し考えがまとまったらお話ししますね。

たぶん、
誰が見ても、外縁(それにあてはまるあてはあまらないの境目)が明らかな条文と、
外縁が不明確な条文があるってことかなと。

ぜひまたいらしてください。
はじめまして。 (地方校)
2012-07-30 16:21:07
木村先生
はじめまして。
今年司法試験を初めて受験したのですが、受験後にこのブログに出会い、受験前に出会えなかったことをすごく後悔している者です。

名著「憲法の急所」や関連記事を読んでいて、明確性の問題について、泉佐野市民会館事件との関係で質問があります。
ご多忙とは思いますが、質問させていただいてもよろしいでしょうか(といっても、許可を受ける前に質問内容を書いちゃうわけですが…すみません)。


泉佐野の事件で最高裁は、条例7条1号「公の秩序をみだすおそれがある場合」の解釈として、「比較考量かつ、生命等への危険は明白かつ現在っぽい場合」に限定して解釈すべきとしています。

この判例について、私は、次のステップのうち、⑥しか示していない判例だと理解しているのですが、正しいのでしょうか?

①パブリック・フォーラム論によってベースラインを引き上げ、
②それゆえ、不明確な法文によって集会場所の給付を拒否されない権利が認められ、
③原告らの利用を認めないことを根拠づけている条例7条1号について、
④原告らの属性(過激派集団)に着目した内容規制的(間接的付随的?)なものであるとして、
⑤審査基準(合理的関連性?明白かつ現在?)を立てて合憲であると判断し、
⑥条例7条1号を「明白かつ現在の危険」っぽく処理した。
そして、⑦不明確な条例7条1号を、上記のように解釈することは、解釈の限界を超えない(明確性の問題を生じない)とした。

それとも、判例を素直に読んで、地自法244条が集会の自由保障の趣旨であるから、これに適合するように条例を理解する、ということなのでしょうか。
その場合、私の②が間違っているのでしょうか?


長文失礼いたしました。
>地方校さま (kimkimlr)
2012-07-30 20:39:38
こんにちは。問題を分析する姿勢、とてもよいと思います。
ぜひ研修所でも、その実力を発揮してください。

さて、ご指摘の点ですが、私なりの理解ですと
泉佐野は
1 ベースライン、自由権制約認定
2 自由権判断をし、
  明白かつ現在的な場合には規制合憲
  そうでない場合は違憲、という違憲範囲確定
3 明確性要請からして、
  不明確な解釈はできない
4 では、今回、合憲部分に限定する解釈は
  明確な解釈の範囲でできるか?
 (できるなら、合憲限定解釈、
  できないなら、部分無効)
5 明白かつ現在的な限定は
  明確な解釈の範囲なので、合憲。

という流れではないかと理解しています。
とりあえずこんな回答になりますが、
いかがでしょう?
Unknown (やまもともまや)
2012-07-30 22:31:57
便乗して泉佐野の件について質問です

いままで泉佐野の判例についての読み方については、

集会開催のために公の施設利用請求権という地方自治法上住民に認められた法律上の請求権にすぎないことから、憲法の自由権に対する制約は生じない(なお、21条は請求権を含まない。)ゆえに防御権の憲法判断は問題にならない。よって、21条を具体化した公の施設の施設利用請求権の拒否事由を限定的に解釈した。


と理解していたのですが、これは判例の論理として間違えなのでしょうか…?(防御権制約の憲法判断と法解釈とでは全く異なるから両方の説明が両立することはないと思うのですが)


また、今の話を踏まえれば、
地方校様の解釈を援用させていただくと、、
条例7条1号「公の秩序をみだすおそれがある場合」の解釈として、「比較考量かつ、生命等への危険は明白かつ現在っぽい場合」と判例はしていると私も考えていたのですが

仮にこのような読み方にした場合には、防御権審査はないので、「憲法上の権利に対する制約」が生じていないといえます。
にもかかわらず、21条という憲法上の権利の内容としての不明確な法文によって処罰されない権利(21条)が発動することになるのでしょうか?(刑罰法規だったら、憲法上の権利の制約とは別個で考えられるのですが…)

よろしくおねがいいたします。
Unknown (地方校)
2012-07-31 10:02:57
早速のご返信ありがとうございます。
大筋で木村先生の理解と同じ形になったと考えていいのでしょうか?

「急所」、このブログに出会うまで、明確性の原則についての判例理解に苦しんでいました。
広島暴走族事件は、法文を限定解釈して過度に広汎の問題をパスした後で、当該解釈内容について目的手段審査をしています。この意味がよく分からなかったのです。

木村先生のお考えは、違憲部分を含む形では不明確な法文によって表現行為を制約されない権利の審査をパスしないとされています。
つまり、不明確な法文によって表現行為を制約されない権利の審査をクリアするためには、憲法21条1項の審査もしておかなければならないのだと。
でも、よくよく見ると、税関検査事件も「合憲的に規制できる場合」をはっきりできない場合は違憲だ、と言ってるので、やはり私の理解が浅かったのかと反省しております。

と、書いたんですが、正しいんでしょうか。。。
先生の見解を一受験生にすぎない私が、先生のブログで書くなんておこがましい限りですね。
>みなさま (kimkimlr)
2012-07-31 14:13:11
>やまもともまや様
ご指摘ありがとうございます。
泉佐野を制約を認定していないケースとして
理解することは可能だと思います。

ただ、判決の文章は、
不当な使用拒否は
憲法21条に違反する可能性もあるという
前提で書かれているように思います。

このあたりは、私の著書に『憲法の急所』というのが
あるのですが、
その本の索引でパブリックフォーラムと言う箇所を調べて
読んで頂けますと幸いです。

〉地方校さま
暴走族条例事件は
過度の広汎性審査をして、最後に結論を確認している判決だと思います。

因数分解すると
過度広汎性審査
1 暴走族集会規制は目的手段審査して合憲
2 そうでない危なっかしい集会は目的手段審査して違憲
 (1,2は明示的に論証されず)
3 そして暴走族条例は1に限定して解釈できる
  よって過度広範とはいえない。
4 結果として、この条例は過度に広範ではなく、
  その規制は、目的が正当で必要性、相当性が
  認められる。

こういう手順だということでしょう。
過度広汎性審査は、法令の全ての部分について
目的手段審査をすることが前提になるので、
過度広汎性審査の後に目的手段審査をする
と言う事態は論理的にはあり得ません。
結論の確認だと理解するほかないかな、と言う気がします。
どでしょ?
Unknown (地方校)
2012-07-31 17:27:55
そうですよね。
だって、過度に広汎性の審査してますもんね。これで納得です!
ご回答に感謝します。

昨年まで明確性の問題も、規制態様から導かれる一つの審査方法でしかないと考えていました。
しかし、「急所」で特定行為排除請求権であると理解しなおしてから理解が進みました。

別連載「法令の審査方法」も楽しく(自分も考えながら)拝見させていただいております。
コメントへの先生の返信にもありましたが、ドイツ的な公権力(裁判官)を拘束する議論が、裁判官が法を発見するアメリカ型思考の伝統的通説のいう過度に広汎とどう統合されていくのかが楽しみです。

学問的に見て、明確性の法理って裁判官を拘束するための議論に感じてきました(特に刑罰法令)。権理論として見ると、法文からはできない法命題の導出(解釈)をしないでくれ、と裁判所に請求する権利なのかな。

これからもがんばってください!機会があったらまたコメントさせてください!
Unknown (やまもともまや)
2012-08-01 00:48:18
大変失礼いたしました。『憲法の急所』P98・142
を読んで理解いたしました。

給付の撤回・削減は自由権の制約を生じない。
というドグマが絶対的なものと考えていたところ、泉佐野では自由権の問題は絶対に生じないと確信していたものでした。

そのような前提に立てば、泉佐野におけるパブリックフォーラム論は、あくまで法解釈の考慮要素として用いられたのであり、明白かつ現在のような場合に限定的に拒否自由を解釈したのが泉佐野である。と断定していました。ベースラインを自然状態から上げて「不当な使用拒否」として自由権の制約に「再構成」するのですね。


給付の撤回削減のドグマは不動なものと考えていたことから、、駒村先生や木村先生ら著名な先生方には大変失礼なことを申し上げるのですが、

「給付の撤回削減ドグマがある以上は憲法判断なんてありえない。当然判例がベースラインなんて意識しない。だから、泉佐野のベースライン論は学者の夢物語で、判例の考えとは全く異なる勝手な観点から説明したものだ。君が代を思想良心の自由の保障と制約問題とにしようとこだわっているのと同じだ。
どうせ類似事案において泉佐野の判例変更なんてありえないんだから、社会が判例を中心に動いている以上は判例の議論を当然前提にしたうえで、考えてくれ。」
 

と、ぶーぶー思っていました。すみませんでした。

質問なのですが、
このような方法論が違憲の条件というやつでしょうか?
マクリーン・剣道受講拒否・君が代(給付の削減問題をパスしても政府言論の観点から思想良心の制約はないと思いますが)・でもこのベースライン上昇を応用して憲法上の権利に対する制約の主張をすることは一応不可能ではないですか?

パブリックフォーラムのようなパワーのあるようなものでなければ事件における特別な事情からベースラインが上昇というのはまずありえないと考えればよろしいのでしょうか?


質問が3つに増えてしまい申し訳ないですが、宜しくお願い致します。

コメントを投稿