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↑ 前列左から、私、一人おいて松山社長、壺田副社長、本社岡本営業部長。
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↑ 大映最後の社員名簿 ↑ 配給作品の発表
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↑ 本社からの出向者名簿の一部 ↑ 九州支社からの出向者名簿の一部
大映は60年代の後半になると、山本富士子が去り、叶順子が去り、田宮二郎
も大映を飛び出し、大映上映館では興行数字がみるみる内に下がり、肝心の
勝新や雷蔵の作品もシリーズ物を連発し過ぎたため、思うような数字が取れな
い状況に陥入っていました。
そして1969年(昭和44年)には雷蔵が37歳の若さで急逝し、映画界全体が斜陽
化する中、特に大映は経営が深刻化していたのです。
そんな時期の1970年(昭和45年)に、他社に比べて直営館が少ないという大映
と、同じ悩みを抱えていた日活と一緒になって新しい配給網を設立しようと、出
来たのがダイニチ映配でした。
社内的には大映が生き残って行くためには、このダイニチしかないという悲壮な
考えが社内に充満していましたし、両社から誰がダイニチに出向するかで話題
騒然でした。
そして社長には大映専務の松山英夫、副社長に日活常務の坪壺田重三が決
定、スタッフは両社の打合せにより出向メンバーが決まりましたが、当時の気
持ちとしてはまるで特攻隊のような気分でした。
まずダイニチを運営する顔ぶれと配給作品のラインアップを全国向けに発表し
ましたが、とにかくスタートは派手にやろうという事で、九州支社では大映から
藤村志保・長谷川待子、日活は山本陽子・梶芽衣子を出席させた館主招待パ
ーティを開きました。
そのような状態でスタートしたダイニチでしたが、製作予算縮小ばかりか俳優や
スタッフの流失もあい次ぎ製作現場は荒廃の一途をたどり、1971年(昭和46年)
8月にはダイニチから日活が離脱、11月には遂に大映倒産の日を迎えるのです。
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↑ 設立記念パーティだ藤村志保と私 ↑ 同じくパーティで右から私、長谷川待子
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↑ 日活からの参加は、山本陽子、梶芽衣子
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↑ 大映・ダイニチ社員バッチ、今でも大事にしています。 ↑ 松山英夫氏のハガキ
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