私はこのブログで、五社協定の功罪について何回が取り上げてきました。
今回は五社協定の最大の被害者といってもいい丸井太郎のことを思い出しなが
ら書いています。
彼は高校を卒業して文学座に入り、演出の勉強をしていたのですが、面白いキャ
ラクターなので俳優に転向したという変わり種でした。
映画の仕事がしたいというから彼の希望で大映に入社したのが昭和33年(1958)
です。
しかし目ぼしい役は回って来ず、大部屋暮らしが続きました。ところが、その柄を
見込まれてテレビドラマ「図々しい奴」(1963~)に大抜擢されたこのテレビ番組が
大ヒット、一躍お茶の間の人気者になったのです。
本来は主演者クラスが真っ先に五社協定にかかるのであって、彼が出演した時
には全くの無名俳優ですから問題は起こらなかったのですが、いざテレビでブレ
イクして人気俳優になると、五社協定の枠にはめられてしまうことになってしまっ
たのです。
そのままテレビ界に残る方法をとらなかった彼は、大映に戻ればまた大部屋暮ら
しでした。
それから出演した作品もつまらない脇役ばかりで、彼の存在は忘れられるばかり
だったのです。絶望した彼は昭和42年にガス自殺で死亡したのです。最後の作品
は「兵隊やくざ殴り込み」(1967)でした。
私は彼とは東京撮影所だったか京都撮影所だったか、よく覚えていないのですが、
あの図体からは想像出来ないくらい真面目な男で、律儀にも亡くなるまで年賀状
をくれていました。
先述のように、あのとき大映に戻らず、テレビの世界に残っていれば、全く違った
彼の人生が広がっただろうと思うと、気の毒で気の毒でたまりません。生きていた
ら79歳です。
作品にそれぞれの映画会社の
個性が出て面白かったですが、
その反面、その会社の個性に合わなくて、
才能を発揮できなかった俳優、女優がいましたね。
丸井太郎さんは、松竹喜劇みたいな作品に出ていたら、
もっと活躍できたんだろうなと思います。
本文でも書きましたが、五社協定の功罪の極みです。
五社協定を離れて考えても、ユニークな俳優を映画で上手く使えなかった
事が悔やまれてなりません。
前のトドさんへのコメントにも書きましたが、今になって考えると、
どうしてこんな事になるの?です。
現在は、プロダクションが俳優を抱え込んでいる状態で、これは
昔以上に良からぬ影響を及ぼしていると思います。
こんばんは。
丸井太郎さんは、悪名一番に出ておられたのを観たことがあります。
もしかして一番最初の写真はその時のものでしょうか。
五社協定によって、人生を左右された俳優さんは多くいらっしゃいますね。
中島さんがおっしゃるように、本当にお気の毒だと思います。
存命でしたら、79才とのことですが、田宮さんと同じですね。
田宮さんも、五社協定によってご苦労されたようですが、お二人ともご自身で人生の幕を閉じられたので、
何か繋がるようなものがあるような気がしてなりません。
五種協定の功罪については、これからも機会があるごとに書いてみたいと
思っています。
山本富士子も田宮二郎も、確かに五社協定の被害者ですが、二人は実力・
人気ともに映画から
追われてもやって行ける人で、丸井はそんな芸当が出来ない・・・と言うのが
丸井だったと思います。当時はマネージメントする事務所に所属など、
叶わなかった時代でしたし、誰かがテレビ界に押し戻してやればよかったのです。
こんばんは。
今日はCSで田宮さん主演の「不信のとき」が放映されていましたので、観ることができました。
不信のときは、数年前に米倉涼子さん主演のドラマで観たことはありましたが、映画は初めてです。
おそらくこの頃の田宮さんは、既に結婚されお子さんにも恵まれていたと思いますので、落ち着いた感じで、相変わらず田宮さんはとっても素敵でした。
若尾さんもお綺麗だし、岡田さんも品があって、加賀さんもとってもキュートで、みなさん個々に本当に素敵でした。
でもこの作品は、田宮さんが結果的に大映を追われるきっかけとなった作品でしたので、作品を観ながらも複雑な心境でした。
昔の作品は、今の作品に比べて思ったより大胆でエロティックな部分も多いですね(笑)
今は何もかも規制とか多すぎるのかな(笑)
「不信のとき」は私にとっても思い出深い作品の一つです。
撮影が終わるころでしたが、丁度東京撮影所で会議があり、
私も出席していました。
舟橋撮影所長から田宮とのトラブルの経過を説明され、
無事に収まればいいが・・・と心配した記憶が甦ります。
私の立場は会社も大事だし、個人的には田宮と仲良くして
いたからです。
でも私は何も役に立てず、大変な結果になって行きました。
こんばんは。
中島さんは田宮さんと懇意にされていたので、なおさら当時は心配されたことかと思います。
最終的には、残念な結果になってしまい、ご本人も苦労されたでしょうが、田宮さんは色んな作品を残して下さいましたね。
田宮もそうですが、奥さんの藤さんの方が懇意だったかも知れません。
お宅に招待され、御馳走になったり麻雀をやったことなど、思い出しています。