行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

上海を後にした最後の日記から・・・(2015年6月5日、6月8日)

2015-07-13 23:13:11 | 日記
(2015年6月5日)
上海支局に残した荷物の整理や知人との送別会などを終え、6月8日、上海虹橋空港発羽田着便のチケットを購入した。2013年12月から住んでいた上海のマンションは2015年5月末で引き払ったため、出発までの数日、黄浦江沿いの観光名所・外灘(バンド)にある和平飯店の7階に部屋を取った。和平飯店は租界時代の1927年竣工で、アヘン貿易で富を築き、上海の不動産王として君臨したユダヤ系イギリス商のサッスーン一族が贅を尽くした建物だ。当時はサッスーン・ハウスと呼ばれ、緑の三角屋根で知られる。上海特派員だった2010年夏、3年がかりの大規模改修工事を終え、営業再開に先立つメディア内覧で取材をしたことのある思い出のホテルだ。

部屋の窓からは、旧英字紙『ノースチャイナ・デイリーニュース(字林西報)』本社ビルの屋上に設けられた対の塔が見える。姿は隠れて見えないが、旧江海関ビル屋上の時計台が15分おきに『東方紅』のメロディーを奏でている。毛沢東を太陽になぞらえた革命歌だ。黄浦江対岸の浦東には森ビルが建てた101階の環球金融中心ビル、右にそれを140メートル超える上海中心ビルが並ぶ。手前を見下ろせば外灘の陳毅銅像が視界に入る。陳毅は1949年、共産党第三野戦軍を率いて国民党軍から上海を奪い、中国建国後、初代上海市長に就任した十大元帥の一人だ。

陳毅銅像の前から黄浦江の展望エリアに上がる幅6メートル、計17段の階段は2014年12月31日の大みそか、カウントダウンイベントに集まった群衆が混乱し、人波にのまれた若者36人が犠牲となった事故現場だ。もう5か月以上が経過し、現場を行き交う観光客もほとんど気に留めている様子はない。

事故直後から風化が急速に進んでいることに違和感を覚え、同事故の背景分析から中国を論じた拙著『上海36人圧死事件はなぜ起きたのか』(文藝春秋)を書いた。中国滞在10年のうち半分以上を過ごした上海には特別な愛着があった。北京と上海を行き来してきた自分にしか書けない内容だと自負し、仕上げた作品だった。前日の4日に校了し、印刷が始まろうとしていた。結果的に新聞記者を辞しての処女作になった。

まだまだ書き続けなければならない。そんな思いにかられ、和平飯店729号室のデスクに腰掛けパソコンに向かった。開け放たれた窓から湿気を含んだ涼しげな風が入り込んでくる。その風は、運搬船の汽笛や自動車のクラクション、子どもの歓声、おびただしい数のおしゃべりを運んでくる。いったんは帰国しても、この土地から離れることはないとの予感が実感に変わっていった。

時間の経過は優しい。記憶を薄め、心の傷を癒やしてくれる。だが記録すべきことは残さなければならない。たとえそれが、まだ癒えない生傷に塩を塗るような苦痛を伴うものであっても、むしろその苦痛とともに傷の存在を歴史に刻む必要がある。記者の仕事とは本来、そういうものだと信じてきた。記者であり続けるために避けて通ることのできない道がある。新聞社の肩書がなくなっても、記者魂は死んでいない。

(2015年6月8日)
上海を離れる6月8日、外灘は雨に打たれ、対岸にある高層ビルの上階は霧に覆われた。梅雨が近いのだ。陳毅銅像の背景に植えられたクスノキの緑もさらに濃くなるだろう。確かな四季の移ろいから人は何を学ぶことができるのだろうか。四季はばらばらで存在するのではなく、つながって循環している。春は冬の備えがあって訪れ、夏は春の跳躍を秋に結実させる。岸壁で寒風にさらされながら決然として常緑を守る一本の松に、人はどれだけのものを負ってきただろうか。私も歩みを止めるわけにはゆかない。