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福島原発事故 ”振り回された住民たち、当時の状況を語る”

2012-06-18 12:37:00 | 未分類

福島原発事故 ”振り回された住民たち、当時の状況を語る”

なぜ原子炉を冷やさなかったのか いかされなかったSPEEDI
http://astand.asahi.com/webshinsho/asahi/asahishimbun/product/2011122700009.html?ref=recd  より

朝日新聞 WEB新書 2012年01月06日

(17900文字)


放射線の影響を予測するSPEEDIのデータは生かされず、国は住民に「ともかく逃げろ」と言っただけ――。政府の事故調査・検証委員会の中間報告は、福島第一原発周辺からの避難についても検証し、国の対応を厳しく批判した。「安全神話が事前の備えを怠らせてきた」とも指摘。あの日、振り回された住民は。

◇第1章 避難、そこに放射能
◇第2章 指示・情報なかった 早く逃げていれば
◇第3章 官邸内の分断深刻
◇第4章 なぜ備えが十分ではなかったのか
◇第5章 なぜ原子炉を冷やせなかったのか
◇第6章 証言から浮かぶ無知・無自覚


第1章 避難、そこに放射能

事故調中間報告/予測生かさず批判
 放射線の影響を予測するSPEEDIのデータは生かされず、国は住民に「ともかく逃げろ」と言っただけ――。政府の事故調査・検証委員会の中間報告は、福島第一原発周辺からの避難についても検証し、国の対応を厳しく批判した。「安全神話が事前の備えを怠らせてきた」とも指摘。あの日、振り回された住民は。

〈浪江町〉距離だけ考えた

 福島県浪江町は、2011年3月12日早朝の政府指示を受け、役場機能を町北西部の津島地区に移転し、町民を津島地区や、福島第一原発から半径10~20キロ圏に避難させた。同日夕に避難指示が20キロ圏内に広がり、住民をさらに避難誘導。町長は3月15日、二本松市への避難を決断した。福島第一原発から北西方向へ逃げるこの経路は、結果的に放射性物質が飛散した方向と重なっていたが、政府から予測データが公表されず、多くの町民がそれを知らないまま避難した(中間報告から)


 「危険なら、当然避難指示があると思っていた」
 浪江町の高橋和重さん(52)は憤る。身を寄せた同町津島地区が実は、放射性物質が降り注ぎ、放射線量が高かったと、あとになってわかった。
 大地震から一夜明けた12日早朝。津波の被害を確認しようと街へ出ると、消防車両やパトカーがサイレンを鳴らし、避難を呼びかけていた。「10キロ圏内は避難して下さい。国道114号で津島へ」。車内には、防護服を着た人もいたという。
 自宅アパートは原発から10キロ弱。妻の欣子さん(51)、長男(17)とともに渋滞の中、車を津島地区の実家へ走らせた。
 到着した実家はすでに、ほかの避難者であふれており、地区内の知人宅へ行った。近くの集会所も80人ほどですし詰め状態だった。
 午後、第一原発1号機が爆発。テレビで見て動揺はしたものの、避難している人の間には「大丈夫だろう」という雰囲気が漂っていた。避難指示は20キロ圏に拡大されたが、津島地区はそれよりも数キロ外側で「安心していいと思っていた」。風が原発の方へ吹いているのも安心材料だった。
 3月14日午前、3号機が爆発。長男になるべく外に出ないよう言ったが、炊き出しは引き続き屋外で行われ、子どもたちも外で遊んでいた。「原発から自分が何キロ地点にいるのか」。当時、住民の頭にはそのことしかなかった、と思う。「線量の濃淡が分からなければ、決断のしようがない」
 長男がどの程度被曝(ひばく)したのかがいま最も気がかりだ。

〈南相馬市〉数日後に事実が

 南相馬市では11年3月12日、半径20キロ圏内に含まれる市南部から市中部の原町地区に住民を避難させた。3月15日に原町地区が屋内退避圏に入ったことから、希望者を市外へ避難誘導した。この際、原発近くや地震・津波被害が甚大な地域を避けるため、多くの住民が飯舘村・川俣町方面に避難。放射性物質の飛散方向と重なった(中間報告から)


 南相馬市原町区の林吉延さん(73)は、2度目の爆発があった3月14日に、それまで避難していた市内の中学校から、車で飯舘村に向かった。妻千恵子さん(65)の弟のもとへ避難。千恵子さんは「一番安全なところだと思った」と振り返る。
 その日の夕、吉延さんは降り始めた雪をながめていた。「今考えると、風に乗ったセシウムを雪が落としていたんだろう」。千恵子さんも翌朝、一緒に避難していた犬を散歩させた。
 避難先の家には、最大で20人ほどの親戚らが南相馬市から身を寄せていた。報道などの情報を持ち寄る中で、どうやら飯舘村の放射線量が高いと知ったのは村に来て5、6日後のことだ。

〈飯舘村〉被曝強いられた

 飯舘村は11年4月22日、村全域が計画的避難区域に指定され、住民が避難した。事前の住民への説明会では「なぜ今頃になって避難しなくてはならないのか」と厳しい声が上がった(中間報告から)

    
 飯舘村の菅野哲(ひろし)さん(63)は3月12日午後、テレビで1号機の爆発を知った。3月14日午前には3号機が爆発した。放射線量が気になり、3年前まで勤めていた役場の後輩に電話で問い合わせた。「すごい線量になっている」との答えに、すぐに村民を避難させるよう訴えたが「公式のデータではない」と聞き入れられなかった。
 3月15日にも爆発。16日以降、村の災害対策本部に乗り込んで「避難させるべきだ」と怒鳴ったが、村の担当者は「(国の)指示がない」と取り合わなかった。
 あとからわかったSPEEDIのデータでは、飯舘村にも大量の放射性物質が流れると予測されていた。「国は被害をできるだけ小さい範囲にとどめて責任を逃れるために隠した」と不信感を抱く。「避難指示が遅れたため、防げる被曝を強いられた・・・


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