:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ インドの旅から 第二信

2020-08-17 00:00:01 | ★ インドの旅から

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インドの旅から

ー 第2信 奇跡のような話 -

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    夜のラオス号のスケッチ                  M.M 社の社旗

 

第二信 は横浜を出てホンコンに着くまでの最初の洋上で書いたものです。

 

わたしが乗った船の名前はラオス号。船会社はフランスの商船会社メッサージュリー・マリティム Messageries Maritimes(M.M) の貨客船でした。当時は同型の貨客船4隻が、片道1ヶ月をかけて横浜とフランスのマルセイユを往復していたから、横浜からは1週間おき、月に二回の頻度で4隻のどれかがマルセイユに向けて横浜を出港していたことになります。

 

JALがアンカレッジ経由でロンドンなどにジェット機を飛ばし始めたのが1960年代のはじめ。1964年の東京オリンピックを境に海外旅行が増え始めたとはいえ、庶民の海外旅行はまだ圧倒的に船の旅でした。

懐かしくて、56年前のパスポートをとり出して見ました。今のよりやや大判縦長の黒いなめし革の表紙に金文字で「日本国旅券」とPASSPORT OF JAPANの文字に菊の紋章が荘厳に極印されていました。黒革に本物の金箔を圧したと思われる威厳と風格を備えたパスポートでした。当時、外交官や政府要人らに発給されていたのと同じ気品に満ちた希少な「旅券」を庶民も手にすることができたのでした。ちなみに、私の2冊目のパスポートは、基本的には今のものと同じビニール表紙に替わりましたが・・・。

 

2信は短い手紙で、Tさんという上智の女子学生に宛てたものです。今読むと、よくもまあ、あんな私的な手紙が、恥ずかしげもなくカトリックの布教誌に載ったものだと驚くのですが、1960年代の社会全体が、まだ学生たちのその種の感性を許容する空気の中にあったということでしょうか。

今の時代のひとがそれを何の予備知識もなしに読めば、きっと「なにこれ!馬鹿じゃないの?」と軽蔑を込めて一蹴されそうな文章ですから、せめてそのショックを少しでも和らげるために、前もって少々背景を紹介しておこうと思います。

 

Tさんというのは土屋佳澄さん(仮名)のことで、その出身高校は山梨東洋英和学園。メソジスト派のプロテスタントのミッションスクールです。彼女は上智大学では文学部教育学科の学生で、ボン大学で博士号を取りフランクルの「夜と霧」というナチスの強制収容所を描いた本の翻訳者として知られていた霜山徳爾教授の講義で一緒になりました。彼女はプロテスタントの洗礼を受けていました。

 

私は、日曜の朝、四谷のイグナチオ教会でホイヴェルス神父の9時の歌ミサに与かり、短い説教を聞いて、それが終わると、急いでひと駅となりの信濃町教会の福田牧師の説教を聴きに行ったものでした。

カトリックとは対照的に、プロテスタントの教会の礼拝の中心は牧師さんの説教で、福田牧師の説教は東京の大学教授、外交官、海外生活経験者などプロテスタント信者のインテリ層を魅了して定評がありました。私は四谷の歌ミサで情操を満たし、信濃町の説教で知的満足を得ていましたが、Tさんの通う教会であることも付加価値ではありました。

 

一方、Mさんは持田杏子(これも仮称)と言って、ドイツ語を第一外国語とする近代ドイツ哲学が専攻でした。彼女はホイヴェルス神父のカトリック研究会(「紀尾井会」と言った)に話を聴きに来てはいましたが、心は唯物史観と実存哲学、キリスト教ならプロテスタントの方に傾いていました。カトリックが説教よりは儀式と洗礼や告白(懺悔)などの「印」(秘跡=サクラメント)を大切にすることに彼女は問題を見ていました。

 

しかし、その後の展開を先に明かすと、Mさんはある日突然カトリックの洗礼を受け、その後結婚しました。相手は崇教真光教団の熱心な信者の清水章介君(仮名)でした。すぐ子供に恵まれ幸せなスタートを切ったかに思われたが、章介君がALS(筋萎縮性硬化症)の難病にかかっていることが分かりました。天才宇宙物理学者ホーキング博士と同じ病気です。Mさんは彼の復活を信じ最後まで看取りました。

 

自宅での臨終の床に私も居合わせたが、彼が息を引き取った瞬間、Mさんはすっくと枕辺に屹立して、「章介さん、起きなさい!立ち上がりなさい!!」と厳しい口調で繰り返し、大声で絶叫しました。居合わせた者たちはこの壮烈な出来事に仰天しましたが、彼女は、真光を信仰する彼に寄り添いながら、自らはキリスト者として彼の復活を信じ、弱り衰えていく彼を彼女の信仰の力で死から蘇らせる奇跡を起こすことが出来ると普段から確信して疑わなかったのでした。

 

その後、彼女は欝というか、とにかく、正常な日常生活が困難になっていきました。幼い女の子は章介さんの妹が引き取って育てたと聞いています。そんな、悲しい展開が待ち受けているとも知らず、以下の「第2信」は東シナ海の洋上で書かれたのでした。

 

ラオス号と同型船と思われる

 

インドの旅から

第二信 奇跡のような話

 

Tさん、お元気ですか。発つまえにMさんという人のことで考え合ってみたかったのですが、ついにその機会が得られなかったので、明日香港に着いたらすぐポストに入れられるようにと、ペンをとりました。

 

ぼくが初めてMさんに会ったのは、学生会の本栖湖のキャンプの時でした。それから美学や、芸術学や、西洋文化史などの講義で一緒でした。キャンプの時は病人が出て、ぼくと救護係のMさんが病人に付き添って、L神父の車で東京までは5時間のドライブだった。L神父は道々スパイ・ゾルゲの話で楽しませてくれた。あの頃のMさんは熱心なプロテスタントだった。大学の講義の後などよく話し合ったけど、どこか一致出来ないものがあった。

 

 そのうちにMさんはニーチェや、フォイエルバッハや、マルクスの方へ傾き、卒業後は山谷の社会事業に身を投じていった。そして、彼女なりに問いかけながら苦しんで、ギリギリまで自分を追いつめていたようだ。それからも折に触れて会って話したが、そんなときの彼女は、心身の疲労で髪が茶けて薄くさえなっていたし、頬のバラ色は消えてはいなかったが、整った顔立ちの目じりには、年に似合わぬ皺など出来て、痛々しかった。

 

そんな彼女が、ぼくの発つ直前のある日、突然消耗しきった姿で現れて、「私はやはり秘跡なしにはもう進めません」と言い出したのだ。思わず「奇跡のような・・・」と心の中でつぶやいた。

 「やっぱり僕らの神様はまだ生きていた」と思った。

 

 お互いに共鳴し合いながら、思想的にどんどん遠ざかって行くように見えた彼女が、突然カトリックの秘跡に飢え渇いて現れたのだから、とても嬉しかった。そのために祈ってきたとはとてもおこがましくて言えないが、この日のために祈り続けてきた彼女の母親の姿が目に浮かんだ。

 

 ぼくは、こんな時いつもするように、彼女を伴ってホイヴェルス神父を訪れた。というのは、ぼくたちは洗礼を急いでいたし、「洗礼を受けても私はマルクシストであり続けたい」などと言う彼女の心を理解してくれる神父を他に思いあたらなかったからだ。

 

 Tさん。あなたならわかるだろう。あなたは現在の時点ではプロテスタントの立場に立つものとして、別の表現をとるかもしれないが、やはり思いは同じなのではないだろうか。旅から帰ったら、この点についてゆっくり話し合いたいと思う。それまで考えておいてほしい。

 

 明日は香港。48時間停泊の予定。初めての外国です。ではお元気で。

 

 

この手紙を書いてたときには、Mさんのその後の人生の悲劇的な展開をまだ誰も予想できませんでした。

 

Mさんは今どこにいる?もうこの世にはいないのではないか?その魂はどこで眠っている?

復活の日、彼女も、章介君も、私もみんな蘇り、肉体を取り戻して、再会して永遠に生きるに違いありません。神様は歴史のなかで一瞬の生を受け死んでいった何十億、何十億の何十億倍の数の魂を、世の終わりにすべて蘇らせ、肉体を返して完全な人間として永遠に生きるように世界を設計され、創造されました。

 

無駄な命、無意味な人生など一つもありません。どの人生もドラマに満ち、神様にとってかけがえのない愛すべきものとして生を得たのです。

 

そう言えば、仲間の一人に三木君(仮名)がいました。医科歯科大全共闘(ブント)だったが、戦いが負けに傾いていたころ、古参のリーダーたちが賢く身を引いていく中で、責任感の強いお人よしの彼がセクトのリーダーに担ぎ出されました。総括の過程で行き詰った彼は、自宅の風呂場で焼身自殺を遂げました。私はその黒く焼け焦げた浴槽を見に行きました。

 

彼の家族は両親も兄弟たちも全員東大でした。その中でひとりだけ医科歯科大だった彼には、もともとこの世にいる場所を見出せない孤独な存在でした。三木君は本当に好青年でした。今の若者はどんな人種かしりませんが、当時はMさんや三木君のように純粋で繊細すぎたために、早く花を開いて人知れず萎(しおれ)ていった若い群像が確かにありました。

 

甘酸っぱい感傷を込めて青春時代を振り返ると、インターネットなどのまだ存在しなかった戦後の若者には、なにか思いつめた真剣なものがあったような気がします。哲学的な苦悩あり、失恋あり、文学の中に没入するものあり、革命を夢想するものも、あえて自分を死に追い詰める者もいた。

 

気がついたら、不徹底で嘘っぽかった人間だけが、80才までも生き恥を晒してるのかもしれません。

 

 

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★ 今、清水港(みなと)が騒がしい ②

2020-08-09 00:00:01 | ★ インカルチュレーション

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いま、清水港(しみずみなと)が騒がしい ②

一体何が起こっているのか?

「清水次郎長の想い」を読みに行こう!

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問題の根は深い。

いつの頃からか、日本のカトリック教会では、キリスト教の日本への土着化を模索する「インカルチュレーション」という一種のイデオロギーが、一部の高位聖職者やインテリの神父たちの間でひそかに蔓延し始めていました。固有の伝統文化(カルチャー)の中に “IN”(入れる、根付かせる)ことを意図する理論です。

ビジネスマンから司祭に転向して以来の時間の半分以上をローマに過ごしたものの目から見ると、このイデオロギーはバチカンの、つまり教皇を頂点とする正当な伝統教会の教えに照らして、きわめて疑わしい、危険な要素を孕んだものと言わざるをえません。

そのことは、わたしのブログの<カテゴリー>「インカルチュレーション」の中の、「聖書から見たサイレンス」シリーズに詳しく書きました。

 

 

要は、このイデオロギーの立場に立てば、西洋のキリスト教をそのまま日本に持ち込んでも、決して根付かない。無理に植えても日本の土壌では根腐れを起こして死んでしまう(鎖国、キリシタン禁制、迫害、殉教、など)。その最終的な結末が衰退と消滅の危機に瀕している今の日本のカトリック教会の姿だという考えかたです。

明治以来の、そして戦後の外国人宣教師たちの宣教を総括すると、彼らの宣教理念と努力は誤っていたために失敗に終わった。だから、全ては最初からやり直さなければならない。その一環として、彼らが残した教会建築も「負の遺産」として取り壊され、消し去られなければならない。つまりは、清水教会の存続は許されたはならない、という確信です。

そこには、西欧から渡来したキリスト教は、それを換骨脱胎して、日本の伝統文化とその宗教心をキリスト教の中に調和的に取り入れ、日本の伝統仏教や神道や新宗教の底辺に共通して流れる「魂」を受容した新しい宗教に生まれ変わらせなければならない、という考えが根底に潜んでいるのです。

それが大きく飛躍して、拝金主義と世俗主義のグローバリズムの大津波に呑み込まれ、そのなかで自分自身の信仰を見失い、教会を守り切れなかった日本の教会の指導者の一部が、自らの敗北の責任を転嫁するためにこのイデオロギーにしがみついたようにも見受けられます。

外国人宣教師が遺した清水教会を取り壊し、その痕跡を消し去らないでは安らかに眠れない人たちの心の中に、その想念が深く巣食っています。

 

 

詳しくは、私のブログのカテゴリー「インカルチュレーション」を読んでいただけば明らかです。そして、その上で、あらためて「清水の次郎長の想い」をじっくり味わってみてください。

私のブログの「インカルチュレーション」については:

https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/50fe4eb9d8b32f76d3c9990274c9725c

【要注意】自分で自分のブログを読みに行って気がついた。上のURLでは「インカルチュレーション」シリーズの「最終回」しか読めない。①-⑥は左のカテゴリー欄から「インカルチュレーション」を選んで見るか、日付で探してください。あるいは:

https://blog.goo.ne.jp/john-1939/c/ecb9af36ac04ea87bfa0e90586596b3c 

をコピーして検索バーに貼りつけて下へスクロールしていくと、カテゴリー「インカルチュレーション」①-⑦を「聖書から見たサイレンス」を含めて全て一度に見られます。

 

「清水の女次郎長」さんのブログの「清水教会」は:

https://blog.goo.ne.jp/yuki9693

コメント (6)
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★ いま、清水港(みなと)が騒がしい

2020-08-05 00:00:01 | ★ インカルチュレーション

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いま、清水港(みなと)が騒がしい

一体何が起きているのか?

「清水次郎長の想い」を読みに行こう!

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事は2014年に遡る。

その日、地元の司教さんは清水教会を訪れて、突然「清水教会は負の遺産であるから、取り壊されなければならない」と宣言したという。

驚いた信徒たちは、保存派と司教派に分裂して、混乱に陥った。

なるほど、保存派には言い分がある。

長崎、五島の世界遺産になった一群の教会を別にすれば、本州では珍しい木造ゴシック様式の美しい教会だ。

第二次世界大戦の爆撃と艦砲射撃で焼け野が原になった清水の街で、奇跡的にただ一つ焼失を免れて生き延び、救護所として多くの被災者の命を守った戦跡、青少年・市民の平和教育の貴重な教材でもある。

今も、信者の日々の祈りの場として、日曜日のミサが行われる生きた信仰の場として使われている。

この歴史的建造物を、市は文化財に指定することを望んだが、司教は、いや、取り壊しの対象だから指定は迷惑だと拒絶した、とか。

書けばいろいろあるが、まずは、直接、女次郎長さんの13編のブログを読まれるがいい。

↓下をクリックしてください↓

https://blog.goo.ne.jp/yuki9693/c/929a9dd177bc6735d62bde314ac67c86

 

よく見ると、聖堂の窓枠は補修し、ペンキを塗り替える必要があるのだが・・・

これは早急に対処されるべき課題だ。

 

 

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