:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「クリスマスメッセージ」 

2019-12-24 00:05:00 | ★ 教皇フランシスコ

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クリスマスメッセージ

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私が、いま書きたいと思っているテーマは、「創造と進化」なのに、まだ緒についていません。

それは、フランシスコ教皇の来日と、その延長線上に「清水教会の取り壊し問題」に足を突っ込んでしまったからです。

そのフランシスコ教皇は:

死刑を行っている数少ない国の一つである日本に来て、正面から死刑制度反対を訴え、核拡散防止条約を未だに批准しようとしない日本の政府に対しては、「核保有はテロ行為」だと警告し、自然界には存在しない核兵器の材料プルトニュームの製造工場であり、副産物の熱を電力に変えているだけに過ぎない「平和利用」の名で偽装された核兵器工場を、全国に50か所以上展開している潜在的核大国日本に、「原発反対」を訴えました。

今日はクリスマスイヴ、何かそれに沿った話題と思いましたが、もうこうなったら、フランシスコ教皇の記憶が薄れる前に、せっかく多くの人々がアクセスしてくださった機会をとらえて、もう一押し「清水教会」の問題の本質について触れておきたいと思います。

手始めに、次の「決定通知」なるものをお読みください。

決定通知

清水教会聖堂を今後どうするかについての判断は、これより先、補完性の原則に則り、教区が行うものとします。判断に必要な客観的なデータについては、教区建設委員会を通して調査したもののみを用いることとします。(下線は筆者)

これは、2019年1月29日付で教区の公印とプロトコル番号が付された教会の公式文書ですが、一体、これをどう読み解けばいいのでしょうか? まず:

補完性原理(ほかんせいげんり)とは、決定や自治などをできるかぎり小さい単位でおこない、できないことのみをより大きな単位の団体で補完していくという概念。補完性原則、あるいは英語から、サブシディアリティ(Subsidiarity)ともいう。(ウイキペディア)

とある通り、もともとは、「地方自治」を護り促進するために、国はなるべく介入を控え、自治体の自主性をあくまでも尊重しながら、必要な時だけ「補完的」に協力する、という概念ですが、カトリック教会は独自の解釈でその言葉を用いています。

あからさまに言えば、日本のカトリック教会の考える「補完性の原理」とは、末端の教会の信徒が自分たちの問題を主体的に判断し、処理し、行動する当事者能力を欠いていると教会当局が認定した場合は、小教区の主体的判断・行動を停止し、上部機構の教区が自由に直接介入・決定・支配できる」と本来の意味を間反対に読み替えたように見受けられます。

清水教会 の場合も「小さい単位である教会内での主体的決定や自治を出来るかぎり尊重しながら、それを見守る」というのが正しい「補完性」であるはずなのに、清水教会の自治に基づく意思が教会の保存に傾き、解体を目論む教区上層部の意向に添わない気配を察知すると、「清水教会の信徒には当事者能力がない」と決めつけ、清水教会の主体的努力を粉砕し、上から介入・支配しようという誤った対応を正当化する口実として「補完性原理」を持ち出しているかのようです。それは、この「原理」の本来の趣旨を曲解した、原則の放棄、権限の乱用に他ならなりません。

「補完性の原理が地方を苦しめる不思議」という、横浜国立大学経済学部教授 金澤 史男氏の論文にもあるように、国によるこの原理の濫用によって、地方自治体が苦しめられるケースの指摘がありますが、おなじように、司教区の「補完性原理」の濫用によって、清水教会の信徒の意思が圧殺され主体性が蹂躙される事態が生じているのではないでしょうか。

「補完性原理」に則って、小教区の自由と自治を最大限に擁護すべきはずの司教区が、まず、教区上層部の意向に沿はない保存派の信徒会長や建設委員を解任し、新たに司教区の意向に沿って選ばれた撤去派の委員たちの提出する都合のいいデータだけに基づいて、「補完性原理」の名のもとに、信徒の望みを踏みにじって解体撤去に向けて突っ走るという趣旨の「決定通知」は、まさしく「補完性原理」を悪用し冒涜する行為と言うほかはありません。

話しは変わりますが、清水教会では盛んに高位聖職者への従順が説かれているようですが、教会の中では、それには特別な威圧効果があります。

確かにカトリック教会では、教皇不可謬説(きょうこうふかびゅうせつ)というのがあって、カトリック教会において、ローマ教皇が「信仰および道徳に関する事柄について教皇座から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、決して誤りえない」という教義のことを意味します。これは、1870年第1バチカン公会議において教義として正式に宣言されたもので、この宣言に反対的な言辞を述べるものはカトリック教会から離れているとみなされるという一文がよく付加されます。

高位聖職者に対する従順にも似たような側面があります。つまり、司教や主任司祭に対する従順に反する者は、教会から離れているという考え方です。しかし、教皇の不謬権の時と同様に、従順の場合も信仰と道徳に関する事柄に限られるということを見落としてはなりません。

信仰にも道徳にも直接かかわってこない「教会の建物の保存か解体撤去か」をめぐる信徒と一部聖職者の意見の相違について、従順の名のもとに聖職者の考えを一方的に押し付けるのは明らかな逸脱であり、それになびかぬものを、教会から離れたもの呼ばわりして信徒の分断をはかったり、教会の保存を求める一般市民との交流を禁じたり、そのような市民が教会を訪れようとすると、鍵をかけて教会から締め出したり、などはもってのほかでしょう。

外界と遮断された教会内の密室で、陰湿な締め付けが行われ、破門をほのめかしてまで威嚇するような行為は、宗教者によるパワハラ以外のなにものでもありません。私のもとにはそのような相談や訴えが届いています。

しかし、この問題の本当の根は、キリスト教の土着化 (インカルチュレーション) のイデオロギーだと私は分析します。つまり西洋から伝わったキリスト教は、換骨脱胎して、日本伝統精神風土を魂として取り込まない限り、永久に日本に土着化することは出来ない。過去に外国人宣教師たちが持ち込んだ西洋風の教えや教会の建物などは「負の遺産」にほかならず、全て解体撤去し清算されなければならない、という思い込みです。

具体的には、西洋のキリスト教の「父性的」宗教に対して、日本固有の「母性的」キリスト教を創出せねばならないと主張してみたり、キリスト教の教義の中で日本の伝統宗教の教えと相容れない部分(例えば、キリストは人類の唯一の救い主、神の子であり神と同等のもの、人類の中でただ一人復活して全人類のために永遠の命への道を開いた者、・・・)などは、括弧に入れ強調せず、かわりに、エコロジーや環境問題、持続的な平和共存のための諸宗教対話など、どの宗教でも異存のないようなテーマに熱心な反面、宣教活動には消極的・・・、なイデオロギーです。

それらは、遠藤周作の「沈黙」をバイブルとする風潮 (驚くべきことに、スコセージ監督の映画「沈黙」以来、今の西欧の一部知識人聖職者の間でもてはやされる傾向にある) に見られるように、いずれもフランシスコ教皇の容認をとても得られそうにないことばかりです。

今日までの外国人宣教師たちの努力を感謝をこめて評価し、信仰の遺産を尊ぶ普通の信者たちも、平和のシンボルである教会を愛する一般市民も、教会の文化財的価値を認める自治体も、一部の聖職者の歪んだイデオロギーには何の関心もありません。

 

今日、救い主イエス・キリストは臭い動物の糞尿の匂いに満ちた汚い家畜小屋でお生まれになった!

(旅路にあったイエスの母マリアと父ヨゼフは、宿屋に泊まることが出来ないほど貧しかった?)

これが私のクリスマスメッセージです。

次回からは、テーマもトーンもガラリと変わります。乞う、ご期待!!

コメント (4)
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