:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 北海道の森

2022-09-26 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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北海道の森

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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北海道の森

 この夏に北海道に行きました。これで三回目ですが、初めて苫小牧まで行きました。あの有名な製紙工場の組合に招待され、そこで労働、学問、信仰について講演をしました。その翌日工場を視察して、労働と科学との完全な一致をまのあたりにしました。

 若い技師が私たちを案内して、まず戸外で、北海道の山林からおろされた丸太の山を見せてくれました。丸太はそこから狭い運河に浮かべられ、運河の水の流れのままに運ばれて、おとなしく工場の前の一つのプールの中に着きます。この丸太を見て、何か深い同情を感ぜずにはいられませんでした。丸太はやさしい水の中から出ると人間の頭脳で考え出した無数のむごい機械に委ねられて全くその個性をなくし、つぶされ、やがて薄い紙になってしまうのです。デパートのエスカレーターみたいなものにのせられて丸太は工場の中へ送られ、まず二重の鋸で三つの部分に切断されます。何から何まで機械が仕事をして、全く考える者のように機械がこの丸太を受け、そして別の場所へ運んで行きます。 

 そこにはまたたくさんのめずらしい機械が並んでいます。くさびみたいなものが上から下へたえず動いていますと、そばの労働者が丸太をその下に立てます。するとくさびがそれを割ります。労働者は三つ四つの部分に割るようにします。よい材木を右側の走り道の上に乗せ、悪い材木を左側へ捨てます。すると今度はどこか違う場所で、このよい材木は機械に入れられ、熱と圧力に潰されて、何かパルプみたいなものになるのです。 

 そこまでは、この工場の機械の働きはわかったのですが、あとの工程(プロセス)は技師の熱心な説明を受けても機械の騒ぎのために半分しか聞こえず。聞こえてもたいしたことはわかりませんでした。機械と化学と薬品と圧力などが、かわるがわる働いて、もうこのパルプは十分よいものとなったと思われても、工場ではまだ満足しませんから、無数のプロセスを通すのであります。でも結局パルプは紙にならなければなりません。そのために工場の大きい(数百メートルもある)ホールには輪転機みたいなものがぐるぐる廻って、パルプは真中の部分を通るときに熱さを感じて、そこで半分ぐらい紙になったものが乾かされ、やがて終わりの方に完全な紙として出て来て、また丸太みたいなものになってしまいます。これもやはり新聞紙用として便利なように三つの部分に切ります。…… 

 すべてを見学したあとで、若い技師にたずねました。「この工場のすべての機械を徹底的に知っている人があるでしょうか」

「はい三、四人の技師はすべてがわかっています」

 驚くべき知識だと思いました。あらゆる哲学にまさる知識ではないでしょうか。なお人間の科学と工業の偉大な仕事のために、たいへんな力の誇りを感じることも不思議ではないと思いました。この騒音や秩序正しく働く機械を支配する人は、森の中に静かに働いてくださる神を忘れるようになることもめずらしくありません。しかしながら、いろいろな心配も心の中に浮かんできました。北海道の森にはいつまでも木の丸太がそんなにおとなしく運河の中を流れてくるのでしょうか。案内者に聞くと「当分の間は大丈夫ですが丸太はだんだん細くなる、政府もそれを心配する」と答えました。

 案内者は、また言いました。「実はこの点について困った問題が起こりました。日曜日までも機械を走らせて、ほとんど年中無休で紙を製造すればよいという注文があるのです。新聞の方でもっと紙がほしいというのです。もちろん、もうけることがその動機です。広告で生きているのですから。そして流行雑誌もずっと大きな一頁ぐらいの広告を出したいのです。」「なるほど、どこへ行っても、手近な利益を求める世の中ですね。やはり政府が熱心に全国民の幸福を深く考えませんと、北海道の森は『禍いなるかな』ですね。」 

 機械のそばに立っている労働者をみて、こちらからまたたずねてみました。「たとえば朝から晩まで、年がら年中、三分の一に切った丸太をくさびの下に立てる仕事、これは人間の心を満すでしょうか。」案内者は、「まあこの工場でも人びとの文化的な教養、娯楽などのために十分努めています。またそれだけではまだ足りないとしたならば、このように先生におねがいして労働・学問・信仰についての講演を頼んだわけであります」と笑いながら言いました。いっしょにそばに立っていた一人の技師は「昨晩の講演の終わりにお歌いになった『Die ganze Welt ist wie ein Buch――全世界は書物の如し』の歌詞を書いて下さいませんか」とたのみました。 

 喜んで書いて上げました。 

 まことに北海道においても世の中は神のお書きになった本のようです。この本を人びとがもっともっと熱心に読まなければなりません。この工場では山林の材料を切ったり、薬品に浸したり、幾度も機械の中を通したりして平気で使っていますが、どうかこの木材に適した本質をそなえ給うた神を忘れないで下さい。また、この工場で製造した紙を使う新聞・雑誌出版社の方で、せっかく人びとのために読物を提供するのですから、ときどきはその中にも昨晩の歌の終わりにあった『Lasst uns dem Herrn lobsingen――われわれはそろって神を讃えよう』のような文章も出たらよいと思います。同時に神のそなえた北海道の森をつつしんで使うように切にお願いいたします。

 まだテレビのモーニングショウやワイドショウがなかった時代、学生や市民や労働者を対象とした「講演会」なるもの全国で数多く催されていた。誰から伝え聞くでもなく、北海道の工場が従業員の教養を高めるためにホイベルス神父のような宗教家のところにまでお声がかかるのだった。

 工場見学をするホイベルス神父の観察眼は鋭い。原材料の木材の丸太が新聞紙に変わるまでの全工程を細大漏らさず追っていく。自然と科学の調和。チャーリー・チャップリンの「モダンタイムス」ではないが、巨大なシステムになった機械の要所要所で日永一日同じ単純作業を毎日繰り返す機械の奴隷のような労働者の問題にも正しく疑問を呈している。

 森の木材を見て新聞紙を創ることを思いつく人間の想像力とそれを実現する技術力を評価するかたわら、資源の有限性やエコロジーへの配慮もにじみ出ている。しかも広告収入で成り立つ新聞がそのためにより多くの紙面を要求する現実を見落とさない。何という高い俯瞰的視点の持ち主かと、わが師ながらつい賞賛したくなる。そして、最期はやはり神への賛美で締めくくられる。こんなに豊かな構想で私も物が書けるようになりたいものだと、しみじみ想う。

 

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★ 珍しい世の中

2022-09-19 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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めずらしい世の中

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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めずらしい世の中

 私は人はなんのためにこのめずらしい世の中に生れて来たのかという言葉を書きました。するとこれを読んだある人が注意してくれました。「どうか、めずらしい世の中と書かないで、ただ世の中とだけ書いて下さい。一般の人は何も世の中をめずらしいとは思わないのですから」 

 でも、どうして一般の人は世の中をめずらしいと思わないのでしょうか。私は今日一日だけでも世の中を不思議に思わずにいられないことが、二、三度ありました。 

 ある出版社から新刊書がとどきました。ヘルマン・ヴァイル著「シンメトリー」です。あちこち拾い読みして、新しい方面から世界宇宙がまたどんなにめずらしいものであることかとしみじみ思いました。東洋と西洋のシンメトリー(調和)の感じ方の相異、東洋では西洋のシンメトリーは固いもの、不思議なものと感じますが、西洋の学者は大自然の中の固いシンメトリーまでも発見します。そしてまた東洋の自然的なシンメトリーについて非常に適したドイツ語をみつけました。すなわち、アウスゲヴォーゲンハイト(Ausgewogenheit)という言葉です。ものの調和的なつり合いを意味をするこの言葉こそ東洋と西洋の両方のシンメトリーをうまく包括しています。旧約の預言者が歌ったように、神のすべてのものを寸法、数、重さによってアウスヴィーゲン(計量)されました。私たち人間としての使命は結局そのもののつり合いを見つけ、自分の心もこの幸福なアウスゲヴォーゲンハイトにすることにあるのである。 

 またイグナチオ教会の前を何も考えずにぶらぶら歩いていきますと、急に二人の異国人がそばに立っていて、この教会にスペイン語を話す人はいませんかとたずねました。「ほう、どこの国から」と聞きますと「エチオピアから」と答えました。エチオピアの人に会ったのは始めてです。父親とその娘でした。父の方は聖堂の中のちょうどクリスマスに飾ったベトレヘムを訪れるエチオピアの王様のようでした。ブロンズの顔に輝く目、娘はまっすぐな姿勢で父のそばを元気よく小股で歩きながら、真珠のような白い歯をブロンズの顔から光らせていました。まるで三千年前ソロモン王をおとずれたシェバの女王のようでした。二人とも私たちと同じ信仰の人で、ミサの間、その娘は日本婦人のヴェールとは違った白いかぶりものをつけていました。それは大昔ピラミッドの中で発見されたトゥートモーゼス王のそばに立っている女王様のかぶりものとそっくりのものでした。 

 それからまたやはり何も考えずに聖堂の前を通っていったとき、意外なさわぎが耳にさわりました。どこか近い所でブルルブルルとトラのようなうなり声。どこから来たのかと目をみはっていますと、すぐ足もとで、となりの坊ちゃんがオモチャの自動車を引っぱりながらこの音をたてていました。かわいい坊ちゃんで、私もこのいやな騒がしい音をすぐゆるしてやり、子供とオモチャの上に身をかがめて、「坊や、自動車の中にネコかトラがはいっているの」と聞きますと、坊ちゃんは無言のまま、もの知り顔して大得意になって自動車を引っぱりながら、この音が科学の力によって起るゆえんを実地に教えてくれました。 

 私は六十四年前始めて体験したクリスマスを思い出しました。同じように引っぱる車をもらいましたが、それはトラのうなり声でなく美しいメロディーをかなでたもので、私もそれに合せて歌をうたい、たいへん楽しかったのです。 

 どうも世の中はかわりました。自動車のなかった時代と今の自動車とはずいぶん違います。トラのようなうなり声をたてる自動車、もの知り顔の坊ちゃん、一般の人が世の中をめずらしく思わないのも当然かも知れません。

 ホイヴェルス神父の日本語は、これが成人してから日本語を学んだ外国人の言葉かと疑いたくなるような美しく、しかも平易なものが多い中で、この短編をよく味わうためには、多少の世界史の知識と初歩的なドイツ語の知識が助けになるかもしれない。そして、願わくば若干の哲学のセンスもあると大いに役立つでしょう。

 普段ボ~っと生きている私たちにとって、日常的出来事は何もかもあたりまえ、不思議でも珍しくも何ともありません。しかし、詩人であり哲学者であるホイヴェルス著にとっては、その当たり前の日常が、一つ一つ珍しいものに映るのでしょう。

 ホイヴェルス師はまだ自動車が珍しかった時代から、ジェット旅客機でヨーロッパに帰国できる時代まで生きられました。いま80歳を過ぎている私が見るのは、せいぜい月に人が住むところまででしょうが、今の小学生は人が火星に人が住むのを見るかもしれません。新しいこと、珍しいことはどんなに時代が進んでも尽きることはないのです。

 木の姿からは想像もつかない美しい花が咲き、生まれて間もない赤ん坊がほほ笑み、衛星軌道に浮かぶ望遠鏡が届けてくる宇宙の銀河の美しい姿に驚き、世界は、宇宙はなんと珍しいものとして神に創造されたかを見て神様を賛美することは、まことに人間に相応しいことです。

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★ どんなことの中にも神を見つけましょう

2022-09-11 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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どんなことの中にも神を見つけましょう

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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どんなことの中にも神を見つけましょう

 どんなことの中にも神をみつけなさい、とある聖人が教えてくれました。なるほど、探してみようとすれば、そこここに神をみつけるのはむずかしいことではありません。私はたいてい毎日、いつも目あたらしい仕方で神をみつけます。六月二日の今日も、まっ黄色に咲いた『たんぽぽ』の光輪の中にみつけました。このつまらない草は、だれかがお聖堂のそばに植えておいたもので、陽あたりのよい場所でとてもみごとに咲いていました。でも、はじめに植えた草はかわいそうにたいてい引きぬかれてしまいました。ほかの人がきて、こんなきれいな花のことに気がつかず雑草だと思いこんだからでしょう。さいわい一つだけ残ったのが元気に伸びて、今朝お初の花を咲かせてくれたのです。私はその花の上にかがんで、こんな茎に、もえるような黄色の冠が咲きひらいたので驚きの目をみはりました。この花を眺めて神をみつけるのことはむずかしくはありませんでした。

 小さな太陽のようなこの花は偶然に咲いているのでも、勝手に開いているのでもありません。神のいつくしみを教えているのです。私の歩みをしばらくとめさせて、静かに深く考えなさいといっているのです。神は大きな太陽をもって地球を照らし、小さな太陽の花を方々に燃え上らせるのですが、けさもこのたんぽぽを咲かせてくださいました。 

 同じ朝、私はお父さんに抱かれたユミ子ちゃんに会いました。私たちは洗礼のときにこのお嬢さんにマリアという霊名をつけました。私が「お早う」というと朝陽にまぶしそうに目をあけてちょっと考えているようでしたが、やがてほおえみました。子供のほおえみは偶然にあるものでなく、たしかに大いなる創造主の計画や腕前なしにはできたものではありません。この子供が私にほおえみかけるためには、いろいろなわけが重なりあっているのでしょう。みち足りたという気持よさ、お父さんの腕に抱かれているという安心さ、聞きおぼえのある声、それからこの子供の心をぱっと照らして、喜びという目に見えぬものを顔の上に描き出させた小さな肉体の中に私はこのほおえみを眺めます。どうしてこんなにほおえむことができるのでしょう。子供は自分でほおえみのわざを少しも心得ていません。小さな顔をこんなにほころばせて明るい心が見えるようにさせるとは、一体子供にどうしてこんな微妙なことができるのでしょう。 

 このほおえみとて目的なしにあるのではありません。小さな口は心のうごきをまだ言葉にして出すことはできません。このほおえみがあれば父母の苦労はむくいられます。子供が幸福なのだ、とわかります。ほおえみをもって子供は友だちをつくります。神はその大いなる父の愛を両親の心にわけ与え、そして草花に一しずくの花蜜をお入れになることを忘れないように、生まれてまもない子供の心に、ご自分のやさしい心の一しずくをそそいでくださるのです。そしてこの一しずくがまるで魔法を使ったようにほおえみを呼びだすのです。子供の顔には神のやさしさが輝いています。このほおえみのうちに神をみつけることはやさしいことです。

 たやすく神をみつけられるように私はどこかへいくとき、めったに自動車に乗りません。バスや電車に乗る方が好きです。一ばん好きなのは省線に乗っていくときです。 

 省線に乗っていけばいろんなことが頭の中にうかんできます。私たちがプラットホームに立って待っていますと、勢いよく向うから電車が入ってきます。ブレーキがかかって、車輪がきしみます。電車がとまります。――なるほど、微細な原子のすべてや車輪のしくみが、今までわかっている、そしてまだわからないもろもろの法則にきわめて忠実にしたがって、私たち人間に仕えてくれるのは、まことに驚くばかりです。 

 ときどき、おかしなことさえ考えつきます。たとえば、私たちが省線の中でぎゅう詰めになって立っているとき――全く大勢の人がよくもこんなにすし詰めになるものです――人間はこのようなかっこうに造られたことを喜んでいいはずです。もし牛や馬のような体だったらどうでしょう。車の中に少ししか入れないでしょうね。ところが私たちはまっすぐに立って歩きます。これについてはプラトンやアリストテレスも大いに驚異の目をみはって叫んだものです。自由なる歩み、上に向かうまなざし、自由なる手、自由なる胸、などと。古代のギリシャ人はこの立派な人間の体を神にふさわしい体と思いました。私たちキリスト信者は、神ご自身が私たちのような肉体をおとりになって私たちの間に住み給うことを知っております。 

 省線に乗っている人はみな同じ考え方の法則に従っています。いずれも必然的に善と幸福とを追い求めています。しばしばまちがった善、まちがった幸福をつかまえますけれど。みな少し愛をもちたいと思っています。たいての人はまた愛を与えたいと思っています。省線に乗っている私たちはみんな旅の途中です。しばらくの間はいっしょにいます。そしていつかは一人残らず同じ目的地に着かなければなりません。男も女も子供も省線に乗っています。男と女と子供、考えてみれば、これは不思議の中の不思議です、神は人間を二つの型に考案されました。その二つを相対するようになさいました。そして目に見えぬ力をもってまた合せ近づけます――数限りない数の中から、いつも二人をお選びになって、ちょうど二人だけです。この二人はほかのものをことごとく、ほかの人びとをさしおいて、とこしえにいっしょに旅をしたいのです。するとある日この二人は朝日の中で子供を抱いています。そしてその子がほおえんでいます。なるほど、人びとを眺めて、そこに神をみつけることは何とやさしいことでしょう。 

 私はむかし一度、神を見つけるのが、難しいように思ったことがありました。それは病んでいる婦人を見舞ったときでした。この人が病気だということを十年前に聞かされて、私はいつもたずねてみたいと思っていたのでした。今は病院に寝ています。関節の痛みにたえかねて、彼女はときどき自分の腕を切り落として下さいと訴えたそうです。もう十年以上歩くことはできません。医者はいよいよ手術をやってみると言います。腰と膝の関節を切開して膝の骨を特製の釘でつなぎ合わすのだそうです。そうすれば後で家の中ぐらいは歩けるだろうということです。 

 いちぶしじゅうを聞いて私は一言も口をきかず黙って考えました。痛みもやはり神からきたものだ。痛みの中にどうやって神をみつけようか、神のいつくしみはどこにあるのだろう。たぶんこの婦人はそれを知っているだろう。私は彼女がどう思っているか聞いてみました。するとにっこりほおえんで「けさ車でお聖堂へつれていってもらいました。私が始めてあずかったごミサでした。」たったそれだけしか彼女は言いませんでした。 

 帰りのバスの中で、やっと今までのすべてのことにつじつまが合いました。詩人ブレンターノの二行詩に 

   ああ星と花、精神と衣服、 

   愛と苦しみ、時間と永遠

とあります。この詩はどんなことを意味しているのでしょうか。星である神のみ子は、百合の花である乙女マリアに宿られ、精神すなわち神性と衣服である人性とを一つにして、苦しみを通じて愛の道を歩み、こうして時間的な人間を永遠のまことの幸福へ救い上げたもうのであります。

 先日信州の野尻湖のほとりの小屋に一人泊まって、朝5時頃に目覚め、その日の朝焼けのすばらしさに思わず目を見張った。空をマダラに覆う雲は、赤、ピンク、橙、と見事なグラデーション!雲間の青空は深い藍色から薄い水色までに染め分けられて、荘厳のひと言でした。風はなく、小鳥はさえずり、草は露にぬれていました。日頃鈍感な私でさえ、姿勢を正し両手を合わせて神を思い、賛美をささげました。

 ホイヴェルス師はどんなことの中にも神を見つける名人です。自然の中に、動植物の中に、人間とその営みの中に。それは、ドイツのウエストファーレンの森の中に育ち、両親の愛に包まれて、信仰に恵まれて、心豊かに育ったことの賜物でしょう。)

 師は病人の訪問のために省線(今のJR)で行かれるときも、よく私を誘って一緒につれていってくださいました。混んでいない電車の中でベンチシートに二人並んで座っていて、私が何気なく足を組んだ時、思いがけず師の手が私の重ねた膝をポンと払いました。ハッ!としました。普段はめったに見せないしつけに厳しい師の一面をその手に感じました。若者の振る舞いとしてはやはりお行儀が悪いと思われたのでしょう。しかし、普段の師は私に対してこころ優しい、愛情深いお父さんでした。

 師は上智大学の二代目の学長をつとめられたが、大学の教室で哲学を講じることはなさらなかった。けれども、私に「哲学する」とはどういうことかを、その生き方を通して教えてくださったように思い、今も感謝しています。

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★ わが友

2022-09-04 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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わが友

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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わが友

 友は、私とは全く違って、身体はたくましく、頭は丸くて、髪の毛を短く刈ると、なおさらまん丸くなりました。友といっしょに散歩するときには、友が話し役で、私は聞き役にまわります。友が論ずれば、私はいつも相づちをうつのです。何事であれ異議なく賛成できますから、友は本当になつかしい友となりました。私たちは毎年一度ずつ会うことにしました。それこそたいへんな喜びの祭典で、その日を待つ喜びと、またあとで心に残っている喜びとの三重の喜びは、すばらしいものであります。 

 わが友は勇ましい馬のよう、実際「ミュンヒハウゼンの軍馬」のように、垣根も濠も跳び越えて、いつもまっしぐらに走っていくのです。 

 友にとっては、世界宇宙は明るい見事な秩序でととのえられたもので、世の中の人間の心もまた、同じような気持で見られています。人生の諸問題は、信仰と理性とで処理されるのです。信仰と理性とは睦じく完全な調和をして活動し、相互に助けあっていて、この調和は友の顔にいつも輝いています。が、時々だけ曇ります。それは信仰を軽んじたり信仰と理性とが敵対しているという人がある時です。そして友は人々が故意に真理に対して耳も目もふさぎ勝手にめかくしをしているのだと思い、それだけにまた一心に、人々の目隠しをとってみたいと考えるのです。 

 友は、人々の目を覚ますには、神の存在を証明することが、何よりも一番適したよい方法だと考え、何よりも好んでこの仕事にかかります。そして天地万物すべての物を呼び集め、創造主のためにものをいわせます。そうすれば必ず自分の生きている間にすべての人が真理の前に頭をさげるだろうと希望し、度々人々を集めては、彼らの頑固な頭脳に神の存在を感じさせようと試みるのです。友はまるで手品師のように袖の中に色々な珍しい種を隠しておいて、それを、ぼっ、ぼっ、と人々の前に取り出しては、さかんに証拠をならべ立てます。 

 中でも自分で最もすきなものはアリストテレスの発見した Primus motor immobilis で、これは「太初の、一切を動かして自らは動かざるもの」の義で、すなわち世界宇宙を動かし給うものは、それ自身においては動かないものであるという意味であります。友は勝利者のように聴衆の上に叫ぶのです。 

「世界を動かした者はだれか、やはりこのプリームス・モートル・インモビリス。これに対してはいささかも反駁などは許されない。二千年来、この創造主に対していわれた反対説などは皆知っているが、そのすべてに対してその誤謬を明らかにしてみせる」

 と論をすすめて、その手品の袖のもっと奥から物を取り出す……そして挑戦的に呼びかけます。

「この地球に生命を与えた者は一体だれか、最初の生物はどこからきたか、鶏と卵とどちらが早かったか、卵か鶏か」と、しばらく黙って聴衆をみつめる。聞き手は息がきれる。友は嬉しくなってもみ手をする。目には満足が溢れる。途端に友の手も口もまるで手品師のようになって「鶏」と「卵」の二つを毱のようにしてしまい、お手玉にとり、二、三分間つづけて、鶏、卵、鶏、卵、とますます早口にいって、終わりに大きな声で叫ぶのです。

「どうか言ってください。どっちが早かったか」

 聴衆の中には鶏と卵の問題を性急に全能の神にもっていきすぎたと考えているものがあるかもしれないので、友は、この活潑な生命はいかにして鈍重な物質に入ってきたか、生命の問題をおもむろに根本的に扱い始め、学者の説に基いて唯物論者を真向正面からたたきつけるのです。と、いよいよ攻撃は白熱化します。唯物論者は特別の仇敵です。彼らをかたずけるために前にも「無神論をつく」という著作を発表しましたが、この講演のクライマックスでもやはり唯物論者に直接論鋒をつきつけるのです。

「君たち唯物論者は物質崇拝者だといっていい。しかし君たちは物質が何であるか知っているか。君たちの崇拝する物質というものは一体どういうものか。自然科学者たちは、まだだれも知らないと断言する。しからば君たちはどうして知らない物質をもって、天地万物を説明するのか。私が君たちに向かって主張することはこうだ。――物質は精神よりもわかりにくいものだ。生命のないものは生きているものよりも珍しいものだ。生命よりも死は大いなる神秘だ。なお人間よりも動物は珍しい。また永遠の神よりも限りある人間は珍しい。一体だれが人間にその『限り』を定めたのか」

 私の友は、真理をこうして哲学的に種まき、やがて芽を出さないかとその畑を眺めわたす。友は花は必ずみのると信じています。そして秋になって少ししか実のついていない枝の下に立っても、来春には花がひらきやはり本当にみのるだろうと思うのです。それがために私は友をとてもなつかしく思っています。 

 どうか私の友には毎年この新しい希望がわき出るように。衰えぬ力でつねに人々にこの最も大切な真理、創造主は至善であり、そして主に造られたものはことごとく善であることを教えるように。とにかく、私の友は善いものとして造られたのであります。

 私はホイヴェルス神父様からこの「わが友」を直接紹介されたことはついになかった。しかし、この小品のモデルに合致する人物を知っている。生粋のドイツ人哲学者のイエズス会士、ジーメス教授だ。

 ジーメス教授は上智大学では独哲科で教えていた。他に私の学んだラ哲科があるが、こちらはラテン語を第一外国語とし、トマス・アクイナスに発するスコラ哲学を中心に未来の神父を目指す全国からの神学生たちのクラスであるのに対して、独哲科はドイツ語を第一外国語とし、主に近代ヨーロッパ哲学を中心に学ぶ一般学生が中心で、キリスト教を信じていない学生も多かった。

 一つ腑に落ちないのは、ホイヴェルス師とその「わが友」が七夕様のように年に一度だけ会って哲学談義に耽るという話だ。なぜなら、ホイヴェルス師は上智大学に隣接するイエズス会の管区長館に居住し、ジーメス神父は上智大学の敷地内の教授館に住んでいて、互いに目と鼻の先に生活していて、会いたければ毎週だって会える距離にいるからだ。だが、ホイヴェルス師が哲学談義に花を咲かせるような相手が他にいる気配もなかった。でも、ドイツ人ならそんな友情の形も有りかな、とも思う。

 まあ、それはひとまず置いて、ジーメス教授を紹介しよう。彼はドイツの農夫のようにずんぐり、がっちり、骨太で、短い坊主頭は丸く、赤ら顔で声は太い。独哲の学生たちに愛され、慕われ、日本の銭湯が大のお気に入り。学生も出入りする四谷の銭湯の熱い風呂が大好きで、湯船の水道の蛇口のそばに鰐か河馬のように口のあたりまで沈んで陣取り、熱い湯が苦手のひ弱な学生が水でぬるめようと蛇口に近づいても許さない。男ならこれぐらい我慢できなければ情けない、と譲らないのだ。

 このジーメス教授なら、親友のホイヴェルス師をつかまえて、信仰と理性の矛盾なき調和の上に立って、神の存在を一点の淀みも曇りもなく理路整然と証明し、無神論者、唯物論者を見つけようものなら、熱情をかたむけて、手品師のようにあらゆる論理を駆使して、次々に神の存在証明をまくしたてる姿が目に浮かぶ。

 ホイヴェルス師は、その論証の一つひとつがどれも理に適い真実であることを信仰の立場からも十分に理解しながら、友の情熱を賛美し、こころのゆとりのどこかで、迷える人間を理性の論理だけで折伏しきれるものではないことを知っておられるのだろう。哲学者は真理の番人でなければならないと信じる師は、友の理性の健全性を頼もしく思い、それが疲れてしまわないことを切に願っておられるのだろう。

 さて、私はジーメス教授に極めて似た一人の老司教様を知っているような気がする。哲学者ではない。別の視点に立つ信仰の番人だ。長年の間に培われた深い信仰の立場から、神の愛について、赦しについて、真理、善、美について、人間について、豊かな温かいお話が泉のようにこころに湧いて、吐露される。

 司教様、今日のお説教は5分ぐらいでお願いします、今日の講話は20分でお願いします、講演は50分ほどで、というと、何のテーマから入っても、いつも豊かなお言葉が溢れるように口をついて流れ出す。それは、あたかも手品師が口から糸を吐き出し、その糸に小さな万国旗がいっぱいついていて、あら不思議、両手でその糸を口から引き出すにつれ、小旗の列が次から次へと際限なく吐き出されて止まらない。付き人が、司教様そろそろお時間ですと言うと、一言、二言の結びの言葉とともにピタリと口は閉まり、小旗の列は何事も無かったかのように消え失せ、その後には顔に満足げな温和な微笑みが漂っている。そして、聴いた人たちも何故か満ち足りた気分になる。

 私はどうしてか、ジーメス教授とこの善良な司教様との間に不思議な共通点を感じ取る。ホイヴェルス師の暖かい友情のこもったユーモアと共にこのお二人にホマージュとしてこのコメントをささげたい。

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