:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

コロナウイルスにまつわるファイザーの陰謀?

2023-01-31 00:00:01 | 特種ニュース

 

   

 

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いつもとちょっと違う形でブログを書きます。

題は:「コロナウイルスにまつわるファイザーの陰謀?」

です。

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ある友人から下の情報を頂きました。

フェイクかどうかはご自分で判断してください。私自身は真実ではないかと、半ば信じて、もし真実であった場合に備えて私の対応を考えているものです。

字幕を見ないで英語を直接理解できればそれが一番理想的です。私の場合、イタリア語なら今も毎日使っているのでこの程度のものならほぼ困難を感じませんが、英語だとリーマンブラザーズに勤めていたころは毎日英語で仕事をしていましたが、かれこれ40年も離れていると、ヒアリングがもひとつ付いていきません。しかし、早くどんどん先へ流れて行く日本語の字幕も、2-3度見れば全体が頭に残るでしょう。

要は、隠し撮りされているとは知らず、ファイザーの幹部が、得意になって内幕を話しています。コロナワクチンでファイザーは大もうけをしている。コロナの新しい変異主を実験室で培養してそれに対応するワクチンを開発して、その変異種をばらまいて蔓延させ、後を追ってそれ対応の自社製ワクチンを売り込む。世界中がそれを買わざる得なくなるように、世界中の政府を仕向ける。笑いの止まらない桁外れのぼろ儲けができる。

平たく言えばそういう裏話を気を許してポロリと言ってしまったその後で、隠し撮りされていることに気が付いて、大慌てで「今言った話は全部嘘だった」と否定し、暴れまわり逃げ回り挙句の果てに携帯で警察を呼ぶという大醜態。

本物のファイザーの幹部に演技させて、このスキャンダル映像をでっちあげてばらまくというのも、簡単な話ではない。不思議なのは、ファイザーの広告料で儲けさせてもらっている大手のメディアが、一斉に沈黙していることだ。

しかし、第2次世界大戦中の日本軍の満州731部隊の細菌兵器実験や、ナチスの蛮行や、現代のソ連をはじめとする各国の化学兵器、細菌兵器の存在を考えれば、巨大製薬会社がコロナウイルスの変異種の開発をしていたとしても不思議ではない。現に今のコロナ騒ぎが中国武漢の研究所から漏れ出したといううわさが根強いことも事実無根とは言い切れない。

もしこれが事実なら、ファイザーはとんでもない世界規模の詐欺犯罪組織であり、国際的に処罰されるべきではないだろうか。そのワクチンのために死んだ多くの罪のない人々に対してどう償うのか。

後は、ご自分で見て、自己責任で、ご自分の判断を形成してください。噓であっても、本当であっても、教訓に満ちたニュースです。まずは、下のURLをクリックしてみてください。

谷口

🎞字幕:ヴェリタスによるファイザー動画が投下された日、大手メディアは沈黙しビッグテックは検閲に走り回った。

しかしFOX人気No.1アンカー、タッカー・カールソンは動画を取り上げ20分に渡り解説。

その一部を紹介します。

pic.twitter.com/3jOpfDCnEG

 

 

2023/01/29 7:58

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★ 私は、なぜ敢えてホイヴェルス師の「弟子」を僭称(せんしょう)するのか?

2023-01-23 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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私は、なぜ敢えて

ホイヴェルス師の「弟子」

を僭称(せんしょう)するのか?

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 ヘルマン・ホイヴェルス師の弟子は誰か?と問うとき、すぐ脳裏に名の浮かぶのは、師の生前夏毎に開かれていた紀尾井会の総会の光景だ。私が初めて参加したときには、大勢のキラ星のような先輩が顔をそろえていて、私などは20歳にも満たぬ無名の若僧に過ぎなかった。

 ホイヴェルス師の弟子たちが集う紀尾井会の総会には実に錚錚(そうそう)たる顔ぶれがそろっていた。中でも先ず思い出されるのは最高裁長官を努めた田中耕太郎氏だ。

 聖公会からカトリックに改宗した夫人の影響で無教会主義キリスト教からカトリックに改宗し、以後、カトリックの立場からの反共産主義を唱えた自然法学者だが、第二次世界大戦末期には、カトリックの人脈を生かしてローマ教皇庁を通じた和平工作に関与した。また、1949年には、参議院で優生保護法による人工妊娠中絶に経済的理由を追加する事に反対し、「一家が貧乏だから四人の子供を二人にしろ、人口八千万が多過ぎるから六千万にしろ、そういう考えこそフアツシヨ的、全体主義的の思想である」と喝破(かっぱ)した人だ。

 1957年8月19日の上皇様と美智子様との軽井沢のテニスコートでの出会いは、田中耕太郎が、カトリック人脈である小泉信三、吉田茂らと共に演出したとされており、田中もその出会いの場に立ち会っている。

 このような田中耕太郎がホイヴェルス神父を深く尊敬している姿を私は目の当たりにしていたが、あらためて調べてみると、二人とも同じ1890年生まれで、田中耕太郎は1974年に没し師はその3年後亡くなっていることからして、年齢的に師弟関係と呼ぶにはいささか無理があった。一般にホイヴェルス師の弟子の会と思われている「紀尾井会」においては、田中も、その後任の最高裁長官松田次郎もやや別格だった。

 加藤信朗(東大ギリシャ哲学)、今道友信(東大美学)、神父では沢田和夫、粕谷甲一らは、次の世代を代表して紀尾井会を賑わした人たちだが、彼らは、それぞれに大成していく過程で師に惹かれて近づいたというべきであり、濃密な師弟関係にあったとは必ずしも思えない。

 他にも実に多くの人々が師の周辺にいたが、師との物理的な距離感や接触の度合いから言って、師に見いだされ、手塩にかけて育て上げられた、と言えるほどの人は思いのほか少なかったのではないだろうか。

 そんな中で、私は18歳で上京して、四谷のキャンパス内にあった学生寮「上智会館」に住み始めると、早速イグナチオ教会の毎朝のミサでホイヴェルス神父様のミサ答えとして祭壇に奉仕し始めた。そして、神戸の六甲山を山岳部員と称して山猿のように駆け巡っていた粗野な私の心に、ホイヴェルス師の影響は日々刻み込まれていった。同じ学寮に住むイエズス会志願者らが舎監の神父の監督のもとで寮のチャペルのミサに与っている間に、私は初めから自由に師のそばに入り浸っていた。

 毎週火曜日の午後、ホイヴェルス師は聖イグナチオ教会の主任司祭室で、都下の学生たちを集め、「紀尾井会」と称して哲学や文学や信仰の話をされた。「紀尾井会総会」は長い歴史のあるこの小さな会のOBたちの集まりであった。日常的には10名に満たないグループで、東大生もいたし中大生もいた、青山や、聖心などのミッション系の男女もいたが、もちろん上智哲学科の私はほぼ無欠席の常連だった。二三年目には、会の世話役のような顔をして、オープンデッキの大きな録音機を回して、師のお話を収録したりもした。

 日々、腰巾着のように離れない私を、ホイヴェルス師はいろんなところへ連れて歩かれた。省線電車(今のJR)に乗って病院訪問をされるときも、国内の小旅行をされるときも、ついには師が1964年に初恋の宣教地、インドに旅をされたときにも、私は一人師の傍にいた。

 また、学生だった私の話にも気さくに耳を傾けられ、お誘いすれば曹洞宗の澤木興道老子に会うために、わざわざ遠く信州まで足を運ばれもした。

 

澤木興道老子の参禅会に来てくつろぐホイヴェルス師(右は私)

 

澤木興道老師とともに 昭和の最後の雲水と言われた澤木老師は日露戦争に参戦し、二百三高地の激戦で重傷を負って生還した兵(つわもの)だった

 

 私が師の愛と期待を裏切ってイエズス会を脱会しようとしたときなど、まだ新幹線のなかった遠い広島の修練院まで来られ、「それは悪魔の誘惑だ。お前は将来のイエズス会にとって必要な人間だから辞めてはならぬ。私の言葉に従いなさい!」ときつく言い渡された。私は、口では「はい」と答えたが、数か月後、結局行動でそれ裏切った。

 それでも、師は私を破門することもなく、上京してみたらイグナチオ教会の目と鼻の先に4畳半を私のために借りて待っておられ、また師のミサ答えを毎朝するように命じられた。

 師が東京の歌舞伎座で「細川ガラシャ夫人」を一か月通しで打たれたときも、初日、中の日、落(らく)の日には、師の右隣の席でご一緒に舞台を見守ることが許された。師は私にカトリック新聞のほぼ半ページにも及ぶ演劇評を書かされたが、それが私の文が活字になった最初のケースとなった。

 師が故郷(ふるさと)のノルトライン・ウエストファーレン州、ドレイエルヴァルデに里帰りされたときなど、たまたまデュッセルドルフでドイツの銀行に勤務していた私は、車を駆ってお会いしに行き、生家の二階の師の少年時代の勉強部屋で姪ごさんの手料理を二人でいただいた。その時、師は「来年には『ガラシャ夫人』の歌舞伎をドイツに持っていくから、お前はそのマネジャーをやりなさい」と言われた。しかし、それは実現を見なかった。

 師が無くなられたときは仕事でお葬式に出られなかったが、帰国後は追悼の会に度々参加し、司祭になってからは追悼ミサの共同司式をしたこともあった。そして、第41回目の「偲ぶ会」以降は世話役を引き継ぎ、コロナ禍にもかかわらず毎年「偲ぶ会」を続けることが奇跡的にできた。

 私の青春とその後の人生は、師を抜きにして語れない。私はいま師の面影を知らぬ若い世代に師の遺産を受け渡すことを人生の最後の仕事と心得て励んでいる。

 私も83歳になった。師の周りにいた立派な先輩方は既に世を去って、今では「我こそはホイヴェルス師の一番弟子!」と名乗り出る人も他に見当たらない。これが、不肖の我が身を顧みず敢えて「師の弟子」を僭称(せんしょう)する由縁(ゆえん)だ。この長い「時間(とき)の流れ」に免じてどうかおゆるしいただきたい。

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★ ベネディクト16世教皇と新求道期間の道の深いつながり

2023-01-12 00:00:01 | ★ 新求道共同体

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ベネディクト16世教皇新求道期間の道との深いつながり

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 昨年の大みそかにベネディクト16世名誉教皇が逝去してからも、時は休みなく流れていく。2005年に聖教皇ヨハネパウロ2世が逝去された後を受けて教皇に選ばれたヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿は、2013年に生前退位した。ローマ教皇の生前退位は、約2000年265代の教皇の歴史の中で719年ぶり、史上二人目となった。

 以来、保守派の引退教皇と革新派の現教皇フランシスコと相反する姿勢の二人の教皇の並立時代などと、時にはまるで二人が相容れない立場にあるかのように言われることもあったが、二人の間には共通のゆるぎない一致点も見られた。それは、ほかならぬ第2バチカン公会議という教会の歴史的大改革路線に対する忠実さだった。

 その一貫した共通点の具体的表れが、「新求道期間の道」に対するゆるぎない支持と温かい保護の姿勢だ。しかも、それは直近二代の教皇だけに限られたものではない。1965年に自らの手で第2バチカン公会議を閉会にまで導いた教皇パウロ6世から、現教皇フランシスコまで5代の教皇たちが、全くブレることなく「新求道期間の道」を手厚く保護し、それを全世界のカトリック信徒に対して力強く推奨してきたことは特筆に値する。

 

キコを謁見する教皇パウロ6世

 

 例えば、教皇パウロ6世は、1974年5月8日の新求道共同体のメンバーに対する最初の謁見のとき、次のような言葉で挨拶をおくられた:

 「これこそ第2バチカン公会議の果実です・・・あなたたちは、初代教会が洗礼の前にしたことを、洗礼の後にしています。前か、後か、それは二義的なことです。大切なのは、あなたたちが本物のキリスト教的生活、その完全さ、一貫性、を目指しているということです。これこそ最大の功績です。繰り返し言いますが、これはわたしを非常に慰めてくれます・・・」

 同じ教皇は、また別の謁見の機会に、新求道共同体の創始者のキコに対して、「謙遜で教会に忠実でありなさい、そうすれば教会もあなたに忠実であるでしょう!」と言われた。

在位30日で不審の死を遂げた教皇ヨハネパウロ1世も個人謁見でキコを愛をこめて迎えた

 

 公会議を開いた教皇ヨハネス23世と、公会議を閉じた教皇パウロ6世の二人の名前をとって、ダブルネームの「ヨハネ・パウロ1世」を名乗ったヴェニスの総大司教は、教皇として第2バチカン公会議の改革を早速実行に移すべく、着任早々バチカン内部の大幅な人事異動の名簿を発表しようとしたその前夜に、バチカン宮殿の寝室で不審死を遂げた。在位はわずか30日だった。毒殺の噂が絶えない謎の死だった。教皇に選ばれる前のアルビノ・ルチアー二総大司教は、新求道共同体の創始者のキコとカルメンとマリオ神父に、ご自分のヴェニスの大司教区内で新求道期間の道を始め広める許可を与え、大いなる愛情をこめて彼らを受け入れられた。

 短命に終わった悲劇の教皇の後を襲ったのが、ポーランド人のカルロ・ヴォイティワ枢機卿・大司教だった。中世以来、教皇の座がほとんどイタリア人で占められてきた伝統の終わりだった。第2バチカン公会議の指導的教父の一人として頭角を現した若いヴォイティワは、前任者と同じダブルネーム、ヨハネ・パウロ2世を名乗り、前任者の路線を引き継ぎ、慎重に、賢明に公会議の改革を実行に移し、長い在位中を通して最高牧者として教会を導いた。

 そのヨハネ・パウロ2世教皇は今は聖人の位に挙げられているが、生前ローマの「カナダの殉教者教会」の11の共同体のメンバーを訪問したとき「正しく理解したとすれば、あなたたちの『道』は本質的に次のとおりである:すなわち、洗礼の神秘を発見し、その意味するところを余すところなく見出し、こうしてキリスト者であることが何を意味するかを理解すること」であると言われた。

 

カナダの聖殉教者教会。聖教皇ヨハネパウロ2世の前でギターを弾きながら歌うキコ

 

キコを優しく引き寄せる教皇。

 

 「道」のミサのやりかたが、バチカンの「典礼聖省による正式承認」(1988年12月19日)を受けたとき、聖教皇ヨハネパウロ2世は全世界に向けて最初の100組の宣教家族を派遣し、感謝の祭儀(ミサ)を司式された。この承認文書によって、以後、道の参加者は常に種無しパンとぶどう酒を用いる両形色で聖体拝領し、平和のあいさつは共同祈願の直後に行うことができるようになった。」

 

教会が正式に承認した新求道共同体のミサのやり方に沿って、共同体の姉妹が手で焼いた種無しパン(聖体)でミサを捧げる聖教皇ヨハネパウロ2世。

 

ガリレア湖を背に幸いの丘にキコが建てたドームスガリレア

2000年、キリスト降誕第2千年紀の最後の年に、聖教皇ヨハネパウロ2世はイスラエルのガリレア湖のほとりの「幸いの丘」(ベアティトゥディネ)で世界青年大会を開かれ、私も参加した。そして、その丘にキコが建てたドームスガリレアという巨大なコンヴェンション施設の新築オープニングを祝うため、教皇は建物の祝別のために訪れられた。

ドームスガリレアのオープニングの祝福に訪れた聖教皇ヨハネパウロ2世

 

 前置きがすっかり長くなってしまったが、昨年大みそかに帰天した引退教皇ベネディクト16世も、パウロ6世以降の3代の教皇たちの路線から一歩も逸れず、新求道共同体を圧倒的に支持し、保護された。その証左が次の写真だ。

 

本題の故ベネディクト16世に話を戻そう。

 

個人謁見で親しくキコと語り合うベネディクト16世教皇

 

新求道期間の道の40周年を記念して、教皇ベネディクト16世は、聖ペトロ大聖堂を埋め尽くした共同体のメンバーを前にして、挨拶を送られた。写真は道の創始者のキコに感謝とねぎらいの言葉を述べられる教皇。

 

高松にあったレデンプトーリス・マーテル神学院出身で、ローマのグレゴリアーナ大学では私の後輩の田中裕人神学生を聖ペトロ大聖堂で司祭に叙階したのも、教皇ベネディクト16世だった。田中新司祭は教皇から直接司祭に叙階された唯一の日本人ではないかと思う。

 

 自分の存命中に「新求道期間の道」に教会法上の堅固な位置づけを与えるために必要だからと、嫌がるキコを叱咤激励して「道」の「規約」の起草を命じたのは聖教皇ヨハネパウロ2世だったが、2008年5月11日にそれを最終承認したのは教皇ベネディクト16世だった。

 

規約の日本語訳

 

 その教皇ベネディクト16世が先の大晦日に帰天された機会に、キコは全世界の新求道共同体に以下のようなメッセージを送った。

 

棺の上に安置されたベネディクト16世の遺体

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

 このたび、名誉教皇ベネディクト十六世がこの地上から御父のもとに逝かれたとの報せが届きました。
 教授時代から始まり、次いで教理省長官、そして教皇として、聖パウロ六世、聖ヨハネ・パウロ二世に続いて新求道期間の道を支持し擁護してくださったベネディクト十六世に、わたしたちはいつも特別な感謝と愛情の念を抱きました。 ラツィンガー博士は、レーゲンスブルク大学教授であった70年代から、その教え子であった物理学博士ステファノ・ジェンナリーニと法学博士トニ・スパンドリの証言と、1973年に彼の自宅でカルメンとともに私と個人的に出会ったことから新求道期間の道を知り、1974年6月22日にペントリング(バイエルン)の主任司祭に手紙を書き、次の言葉をもって、その小教区で「道」を開くことを提案しました。
 「二人の弟子、またキコとカルメンと何度も話し合った結果、ここには、真の刷新の希望があると私は確信しています。新求道期間の道は、聖書と教父の精神に基づき、具体的な教会に深く根ざし、主任司祭と結ばれながら、同時に信仰生活の新しい道に開かれたものです。私の聞くところによると、教皇様(パウロ六世)も、提示された資料に基づいて、この事実を非常に肯定的に評価されたそうです。従って、この経験がドイツでも定着することが、私の強い望みです」。
 教皇ヨハネ・パウロ二世の望みにより、ラツィンガー枢機卿様が教理省長官として、カテケージスと規約の認可のための審査を開始し、教皇ベネディクト十六世になってからは、2008年6月13日の教令で『新求道期間の道の規約』を、また2010年12月10日の教令で『カテケージスのための指針』を認証してくださいました。
 私やカルメン、そして新求道期間の道――特にドイツにおける「道」――に対する教皇様の絶え間ない支援と愛情について、思い出すべき出来事がたくさんあります。
 このため、教皇フランシスコと全教会と共に、主がベネディクト十六世の魂を天に迎え、その罪を赦し、彼が今天国の栄光に与ることができるよう、すべての新求道共同体が祈ることを勧めます。
 ベネディクト十六世の教皇就任前、就任中、就任後の私たちに与えてくださった数多くの恵みの故に主に感謝しつつ、


2022年12月31日、聖シルベストロ一世教皇の記念日
マドリードにて、

キコ

                    私のために祈ってください。
                    良い2023年を!

 

 このメッセージの背景には以下のような出来事があった。

 スペインで新求道期間の道が生まれ定着した後、キコはその「道」をヨーロッパ中に広めようとした。

 マドリッドの大司教の推薦状を携えて希望に燃えてやって来たキコは、ローマでは非常に冷ややかに迎えられた。「スペインではよかったでしょうが、ここ、ローマでは全く必要ありません」というような反応だった。そこで若いキコは、マドリッド郊外の貧民窟のバラックで「道」を始めた時と同じように、ジプシーが多く住むローマ郊外の貧民窟に入って、改めてゼロから活動を試みた。そこにはローマ大学の学生など、左翼思想のオルグが活動していた。時あたかも全世界で大学紛争の嵐が吹き荒れていた時代だった。彼らは、キコに興味をいだき、やがてその影響のもとにキコの忠実な協力者に変っていった。その中に、後日ドイツに留学することになるステファノ・ジェンナリーニとトニ・スパンドリがいた。そして、彼らはレーゲンスブルク大学教授であったラツィンガー博士の教え子となり、彼らの証言と、ラッツィンガー教授の自宅でキコに個人的に出会ったことから新求道期間の道を知ったラッツィンガー教授は、1974年6月22日にペントリング(バイエルン)の主任司祭に手紙を書き、その小教区で「道」を開くことを提案した。キコがドイツ人の司祭たちの前で「道」の説明をしたときは、ラッツィンガー教授自身が通訳を買って出るほどの力の入れ方だった。

 ドイツに初めて新求道期間の道を導入したのは、後にベネディクト16世教皇となるラッツィンガー枢機卿自身だった。

 今回のブログはベネディクト16世の追悼を主題とするものではあるが、ついでに現教皇フランシスコと「道」の関係についても一言添えておこう。

 聖教皇ヨハネパウロ2世とキコが協力してローマに開いたレデンプトーリス・マーテル神学院の7番目の姉妹校を高松教区に誘致したのは深堀司教だったが、短期間に発展し、年に6人もの新司祭を輩出する神学校の出現に脅威を感じた日本の司教団は、その閉鎖を決めた。

 世界中にローマの新神学校「レデンプトーリス・マーテル」の姉妹校誘致熱でネットワークが急拡大しつつある中で(現在120校以上あり主要国で今現在無いのは日本ぐらい)、その7番目の姉妹校が閉鎖されるのを惜しまれたベネディクト16世は、将来再び期が熟したら福音宣教の有効な手段として日本に戻そうと考え、父性的愛をもってそれを一時的にローマに移植された。その際、日本の司教団と同神学校の絆の印として教皇ベネディクト16世は大分の平山引退司教を院長として任命され、私は院長秘書として共にローマに移り住んだ。2008年のことだったと思う。

 その時、教皇の意向を受けて高松の神学校のローマ移転を指揮したのは、福音宣教省長官のベルトーネ枢機卿で、そのもとで実務を処理したのは秘書のフィローニ大司教だった。ベネディクト16世の生前退位後、フランシスコ教皇の下でベルトーネ枢機卿の後を受けて福音宣教省長官を務めたのはフィローニ枢機卿だった。

 フィローニ長官は、高松の神学校の閉鎖に力のあった日本の司教たち数名が相次いで定年で退職したのを見て、期が熟したと判断し、ローマに疎開していた高松教区立「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」を、「教皇庁立」に格上げして、東京に設置することを決めた。フランシスコ教皇は、ベネディクト16世の遺志を実現するためにそれを承認し、教皇訪日の1年前にフィローニ福音宣教省長官は訪日してその決定を日本の司教団に告げた。

 こうして、フランシスコ教皇の訪日の目的の中の重要な案件として、教皇庁立「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル国際神学院」の視察と祝福があるはずだった。

 しかし、教皇訪日を目前にして、日本の司教団の中から教皇庁立の神学院の東京設置には同意しかねる、という声がローマに届いた。それを受けて、教皇フランシスコは教皇庁立神学院の設置場所を急遽東京からマカオに変更された。現教皇はイエズス会出身であり、マカオは聖フランシスコ・ザビエルの時代のアジアの宣教の重要な拠点だった因縁もあってのことだろう。

 それにしても、天皇や首相などとの世俗外交のスケジュールはともかく、新設されたばかりの「教皇庁立国際神学院」視察と祝福という教会的には主要目的を失った教皇の訪日は一体何だったのだろうか。

 テレ朝の玉川さんではないが、うっかり「電通」の名を語ったらひどい目に合うかもしれないが、東京ドームでの教皇のミサを丸投げされて一手に仕切った電通の采配は、教皇ミサの共同司式を許された私の目には、さすがは大型イヴェントの超プロの技と映り、計算しつくされたその演出ぶりは「お見事」の一言に尽きた。

 教皇フランシスコは世界のスーパースターには違いないが、日本「公演」では一円のギャラも要求しない。タダの切符に高いのでは35,000円の値段をつけて、全国傘下の旅行代理店を通して当日直前まで暇と金と好奇心に不足しない物見高い日本人に売りまくり、売れ残った切符を教会に返し、教会はその売れ残りをネットで申し込んでいた信者たちに抽選で分け与えた。濡れ手に粟のぼろ儲けをした電通はさぞ笑いが止まらなかったことだろう。その陰で、一生に一度、教会の頭の姿に接しローマ教皇のミサに与りたいと切望した敬虔な信者のどれほど多くが「抽選漏れ」の無慈悲な一言に涙をのんだことだろう。神様はこれをどう裁かれるのだろうか。

 東京ドームで「ビーバー、パパー!」の歓声に包まれた教皇は、そのような楽屋裏を知らずに、一体どんな思いで日本を去って行ったのだろうか。

 

トヨタ自動車ご謹製、水素エンジン搭載の白いパパモビレに乗って東京ドームを一巡するフランシスコ教皇

 

 それにしても、フランシスコ教皇が、公会議後の歴代の教皇の例にもれず、「新求道期間の道」を瞳のように大事にし、愛してくださっていることは、大きな慰めである。

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★ 引退教皇ベネディクト16世の遺言

2023-01-02 10:02:56 | ★ 教皇

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故名誉教皇ベネディクト16世の遺言

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 あるスペイン人の友人から昨12月31日に逝去した故名誉教皇ベネディクト16世について、以下のようなメッセージをもらいました。私のブログの読者とシェアーしたいと思います。

 

 

 

 

1231日、バチカンは名誉教皇ベネディクト十六世が残した霊的遺言(彼が死ぬときに公開することになっていたようです)を公表しました。

 

そのうち、司教協議会から正式な翻訳が出ると思いますが、私訳を準備いたしました。ともに教皇ベネディクト16世のために祈りましょう。

 

(当翻訳の原文(スペイン語)はこちらになります:https://www.aciprensa.com/noticias/el-texto-completo-del-testamento-espiritual-que-dejo-benedicto-xvi-42553 

――

 

名誉教皇ベネディクト十六世 霊的遺言

 

 人生の終盤を迎えた今さらながら、自分の生きてきたこの数十年間を振り返ってみると、まず、感謝すべき理由が数えきれないほどたくさんあることに気づきます。第一に、あらゆる善の与え主である神に感謝します。神は、わたしに命を与え、様々な混乱の中でわたしを導き、わたしが滑り落ちそうになるといつもわたしを立ち上がらせ、み顔の光でわたしを再び照らしてくださいました。

 

 今にして思えば、歩んで来たこの旅路において、暗くて疲れ果ててしまいそうになった道の部分も、すべてはわたしの救いのためであり、そのような時にこそ、主はわたしを正しく導いてくださったのだと理解できます。次いで、困難な時代にわたしに命を与え、大きな犠牲を払いながらも、愛情を持ってわたしのためにすばらしい家を用意してくれた両親に感謝します。今も、それは明るい光のように、今までの人生のすべての日々を照らしています。

 

 父の明晰な信仰は、わたしたち兄弟姉妹に信じることを教え、わたしが科学的な業績をあげる中でも、道標としていつもしっかりと立っていました。母の誠実な信仰心と大きな優しさは、今でもわたしの心の遺産であり、いくら感謝してもしきれません。

 

 姉は何十年間も無私無欲に、愛情を込めて私を助けてくれました。兄は、明晰な判断力と、強い決意、そして穏やかな心をもって、いつもわたしのために道を切り開いてくれました。彼の絶え間ない導きと寄り添いがなければ、わたしは正しい道を見つけることができなかったことでしょう。

 

 神がいつもわたしのそばにおいてくださった多くの友人、男性も女性も、心から感謝します。わたしの旅路のすべての段階において協力してくださった方々や、神様が与えてくださった恩師方や生徒たちにも心から感謝します。わたしは感謝の心をもって、これらすべての方々を主の優しいみこころに委ねています。

 

 また、美しい我が故郷であるバイエルン州プレアルプスのためにも、主に感謝します。わたしはいつもそこで、創造主の輝きを見ることができました。そして、我が祖国の人々にも感謝します。なぜなら、彼らの中でわたしは何度も何度も信仰の美しさを体験したからです。

 

 祖国が信仰の国であり続けることをお祈りするとともに、親愛なる同胞の皆さまにお願いいたします。どうか信仰から引き離されないようにしてください。そして最後に、わたしの旅路のすべての段階において、体験することができたすべての美について、神に感謝します。その中でも、わたしの第二の故郷となったイタリア、特にローマでの体験のために感謝します。

 

 わたしが何らかの形で傷つけたすべての人たちに対して許しを請い、心からお詫び申し上げます。さきほど、わたしが同胞に申し上げたことを、今、主がわたしの奉仕に委ねられた教会のすべての人々に繰り返して申し上げます。どうか、信仰を堅く保ってください。どうか、惑わされないようにしてください。なぜならしばしば科学 (自然科学や、聖書の解釈理論などの歴史研究など)は、カトリックの信仰と対立するような、反論の余地のない結果を提供できるかのように思われることもあるからです。

 

 わたしはずっと以前から、自然科学の変容を体験して参りましたが、むしろ逆に、信仰に対抗する見かけ上の確信が消えてしまうことを見ることができました。結局のところ、それらは科学ではなく、一見科学に見える哲学的解釈でしかなかったことが証明されたのを見て参りました。一方、信仰と自然科学との対話の中でこそ、信仰がその主張の範囲の限界、ひいてはその特異性をより良く理解することを学びました。

 

 わたしは60年間、神学、特に聖書学の道を寄り添って歩んで参りましたが、世代が変わるにつれて、揺るぎないものと思われたテーゼが崩壊し、それが単なる仮説に過ぎなかったことが証明されるのを目にして参りました。自由主義神学世代(ハルナック、ジュリッヒャーなど)や、実存主義世代(ブルトマンなど)や、マルクス主義世代など。

 

 そして、そのような仮説のもつれから、何度も何度も信仰の合理性こそがそびえ立つのを、わたしは見て参りました。イエス・キリストはまことに道であり、真理であり、命であります。そして教会は、あらゆる不完全さをもっていながらも、まことにキリストの体なのです。

 

 最後に、謹んでお願い申し上げます。どうか、わたしのために祈ってください。わたしの罪やいたらなさにもかかわらず、主がわたしを永遠の住処に迎え入れてくださいますように。わたしに託されたすべての方々に、日々、心からの祈りを捧げます。

 

教皇ベネディクト16

 

2006829

 

(出典:バチカン放送局20221231日)

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