:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 世界青年大会(WYD)現在進行形

2016-07-26 22:37:58 | ★ WYD 世界青年大会

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 世界青年大会(WYD)現在進行形

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ワールド・ユース・デー(WYD)2016 は既に始まっている。

3年前のリオ(ブラジル)が最後の参加と心に決めていたのに、今年のクラカウ(ポーランド)でフランシスコ教皇が主催する大会に日本からの「新求道共同体」の若者ら110人ほどが、モスクワとその近郊の巡礼を経てポーランドに繰り込むと聞いて、76歳の「青年」の心が動いた。

モスクワは冷戦終結前のソ連時代に何度か訪れた懐かしい土地柄だったからだ。

モスクワに着いてもう1週間以上が経過した。書くべきことがすでに山積してきた。いつまでもカルメンの葬儀に関わっている時ではない。しかし、最後に一言、カルメンの葬儀ミサ野一部始終は、日本語の音声解説入りで見られることが分かった。物好きのお方はどうぞフォローしてみてください。

日本語吹き替え 「カルメンの葬儀」 ユーチューブ

https://youtu.be/U3Vy8dAv9no

 

さて、話しを本題に戻しましょう。とは言っても、今朝は4時半のモーニングコールに叩き起こされて、5時半にはバスに乗り、ワルシャワ空港に向かう。この種の巡礼に特有のクレージースケジュールで、ブログを書いている暇もない。

クレムリンの中も見た、セルゲイ・ポサードにも行った。ウラジミールにも。ドストエフスキーの家も、トルストイの家も。モスクワ川の遊覧船にも、地下鉄にも。全ては日本に帰ってからゆっくり書くことになるのだろうか。

 

 

 

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★ ユーチューブ フランシスコ教皇 カルメンの葬儀に弔文

2016-07-25 05:55:52 | ★ WYD 世界青年大会

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(ユーチューブ) カルメンの葬儀にフランシスコ教皇弔文

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ロシア人に日本のカトリック教会の情報事情を北朝鮮と比較されてショックを受けていても始まらない。問題は教会の底辺の発信力の不足と怠慢に返ってくるのだから。

マドリッドの大聖堂でのカルメンの葬儀の一部始終は、世界中でテレビ同時中継されたと言ったが、その時間を逃した人は見そびれたのかと思ったら、2時間余りの葬儀の一部始終がその後ユーチューブにアップされたと聞いたので開いてみた。なるほど、簡単に見られる。便利な時代になったものだ。だが、スペイン語は苦手なのと、モスクワでの団体巡礼旅行中の縛りがあって、ブログを書く暇もないので全部は見なかったが、その冒頭で教皇フランシスコがキコに宛てて短いが心のこもった弔文が読まれていたので、それだけは紹介したいと思う。

The broadcast from 13tv.es has been put onto youtube and will be easier to watch
you can see it here (the full 2 hours)

https://www.youtube.com/watch?v=gXu9zkg8tR0&index=1&list=PLxNlAmSTkh2puxaDbZMkQ0dm6NbSIRFPw 

フランシスコ教皇はキコ・アルグエイヨにメッセージを送り、アルグエイヨと共に新求道期間の道を設立したカルメン・エルナンデスの死に際して彼の愛情と霊的な親密さをはっきりと示された。

私の訳は固いとの定評だが、なるべく原文に近く訳そうと気を配っているためでもある。

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エルナンデスはマドリッドの彼女の自宅で水曜日に85歳で亡くなった。

マドリッドのカルロス・オソロ・シエラ大司教が司式と、数名の枢機卿たちと司教たちが共同司式による彼女の葬儀ミサは、今日マドリッドで執り行われた。

 

 

教皇のメッセージは以下の通り: 

マドリッドの新求道期間の道の(キコ)アルグエイヨ氏へ

わたしは、カルメン・エルナンデス女史がイエスに対する愛と偉大な宣教の熱意で特徴づけられた長い生涯を終えられたという報せを感動のうちに受け取りました。この苦痛に満ちた離別の時にあたり、私は愛情を込めて彼女のすべての家族と、彼女が共同設立者である新求道期間の道のメンバーたちと、そしてまたとくに、具体的には洗礼の意味を再発見し信仰の生涯教育の道を示した彼女の使徒的熱情を評価した多くの人々のそばにいます。私は、彼女が教会に対する誠実な愛に動かされて、どこにおいても、またもっとも打ち捨てられた遠くに居る人々に対して、福音を宣べ伝えるために生涯を費やした証しのために主に感謝します。

わたしは彼女が永遠の過ぎ越しの喜びの中に受け入れられ、彼女を知っていた人たちと、彼女の福音宣教の熱意を司教たちや司祭たちとの活発な交わりの中で生き生きと保って全ての人に対する忍耐と憐れみを実践しながら新求道期間の道に関わった人たちを励ますために、彼女の魂を神様のみ心に委ねます。

この願いを込めて、私は処女(おとめ)マリアの執り成しを呼び求め、この葬儀に参列した人々に私の使徒的祝福を与えます。

フランシスコ教皇
バチカンにて、2016年7月20日

 

 

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★ モスクワ = 着くや否やの 「大ショック」!!

2016-07-22 13:09:29 | ★ WYD 世界青年大会

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「モスクワ」 = 着くや否やの 「大ショック」!!

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成田12時発のアエロフロートで現地時間16時にモスクワに着いた。グレゴリオ「道」の日本の責任者)とそのパートナーのピラㇽと3人で飛ぶはずが、グレゴリオは急遽一日早めてカルメンの葬儀に間に合うように昨日(20日のこと)一人でマドリッドに発っていたから、着いたのはピラㇽと私の二人だけだった。

出迎えのマリアの車でデルタホテルに入った。カルメンの葬儀はマドリッドの司教座大聖堂(内陣の壁画とステンドグラスはキコの作品。脇祭壇にはキコの聖母子像の絵がキコの壁画に囲まれて安置されている)で盛大に行われ、その一部始終は世界中にテレビで同時中継されていて、日本でもBSか何かで見られるのだそうだが、日本でそのことを知る人は殆どいない。しかし、出迎えのマリアによれば、7時からモスクワの大聖堂で司教司式のカルメンの追悼ミサがあるということだったので、チェックインも早々に地下鉄に乗った。モスクワでは、市内の移動は車より地下鉄の方が便利なことは東京と変わりない。

司教座聖堂は赤レンガ造りのゴチック様式で新しい建物のようだった。5人の共同司式司祭を従えての司教ミサは荘厳だった。説教はロシア語だから、時々「カルメン」とか、「キコ」とか言う単語が耳に飛び込むほかは全くわからなかった。参列者は期待したほど多くはなかったが、その多くは共同体のメンバーだっただろうか。モスクワの共同体の歴史は日本よりも浅い。公に活動ができるようになったのはソ連崩壊以後のことだろう。市内に4つの共同体があるそうだから、日本の東京と横浜の共同体を合わせたぐらいのものだろうかと思う。

ミサが終わったら、マリアが香部屋(祭壇わきの準備室)に行って大司教に挨拶しようと言いだした。そこでの共通語はスパニョーロ(スペイン語とイタリア語を混ぜたようなもの)の他、英語やドイツ語が役に立った。

カルメンの葬儀がマドリッドの大聖堂で行われ、その様子が全世界にテレビで生中継され、日本でも見られるというのもさることながら、モスクワの大聖堂でマドリッドに連携して追悼ミサが行われているというのも、新鮮な驚きだった。恐らく世界各地で同様の現象が起こっているのだろうと想像に難くない。

カルメンの死が国際レベルではそれほどポピュラーでホットな話題なのに、日本では全く知る人がいないという事実に、軽いカルチャーショックとともにあらためて気づかされた。

日本の教会では、世界のカトリック教会で何が行われ、今何が話題になっているか、ということについて、殆ど情報がなく、信者の間でも殆ど関心がないということに、モスクワの人々が逆に驚いている様子だった。「その孤立状態はまるで北朝鮮の庶民並ではないか?」というさりげない比喩に、私は大ショックを受けた。

以下、改めてカルメンを偲んでその生前の姿をたどってみよう

キコもカルメンもまだ20歳台後半か。マドリッド郊外のスラムで共同体を形成し始めた頃

ヨハネパウロ2世とカルメン

聖ヨハネパウロ2世とキコ、カルメン、マリオ神父

カルメンの元気だったころ 彼女の話は聞く若者たちを大いに沸かせたものだった

彼女はある意味でキコ以上の人気者だった

その語り口には一種のカリスマ的権威が宿っているように感じられた

ベネディクト16世と共同体の3人の創始者グループ

今の教皇フランシスコとすっかりお婆ちゃんになったカルメン

私がイスラエルのドームスガリレアで最後に見たカルメンの後姿、足首がマッチ棒のように細くなり、人の手にすがりながらとぼとぼと歩いていた翳の薄い姿が目に焼き付いている

 

昨夜、ミサ後の夕食をとったのが10時すぎ。まだ道端で新聞が読める明るさだったが、デュッセルドルフに住んだことのある私はさほど驚かなかった。しかし、今朝4時に目が覚めたら外はもうすっかり明るかった。多分3時ごろには夜明けだったのだろう。もう少し北に行けば白夜の世界なのだ、と思うと異国に来た思いがひしひしと迫ってくる。

(つづく)

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★ キコのパートナー、カルメンが逝った日(2016.07.20)

2016-07-20 17:10:40 | ★ WYD 世界青年大会

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キコのパートナー、カルメンが逝った日(2016.07.19)

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今朝、一通のメールが届いた。キコが書いたカルメン・エルナンデスの訃報だった。カルメンはキコの生涯の伴侶だった。しかし、彼らは結婚した夫婦ではなかった。愛し合う「同志」という言葉が二人には適当と言うべきか。

若かりし日のカルメン(28歳)

 

キコの書いた訃報

マドリッド、2016年7月19日

親愛なる兄弟の皆さん、重大なお知らせをいたします : 今日16時45分、私たちの姉妹カルメンが天に旅立ちました。私たちの主イエスが彼女の魂をご自分のものとされるために来られたことは確かです。

わたしたち、特に私は、彼女がいなくなったことで苦しみますが、私たちの主イエスが彼女をご自分のものとされたことを知って満足しています。

カルメンは「道」にとって何と偉大な助けだったことでしょう!決して私におもねることはなく、常に教会の善のためを思っていました。なんと強い女性!彼女のような人は前代未聞です。 若者たちに告げる時、教皇様と共に、いまクラカウに於けるように、彼女は彼らに常に言いました:「女性は教会の中で最も重要な存在です。なぜならばその体内に生命の工場を持っているからです。 このことの為に、創世記の第1ページから黙示録の最後まで、悪魔は常に女性を追い悩ますのです。そして、結論として、「キコをあなたたちに贈る」!と言っていました。

早く死んで彼女と再びむすばれたいと願います。カルメンは私にとって素晴らしい出来事でした:女性として、その偉大な才能によって、そのカリスマで、彼女の教皇に対する愛によって、特に彼女の教会に対する愛において。

さて兄弟の皆さん、私の魂は悲しみに満ちています。なぜなら彼女が私たちとともにいないからです。しかし、信仰が私を助け、彼女がキリストと共にいることを確信させてくれます。彼女の為に祈って下さい。カルメンの記念としてみんな一緒にミサを奉げて下さい。

マドリッドの大司教様は、カルメンの葬儀をカテドラルで彼女の遺体の前で行うことを受け入れ、恐らくロウコ枢機卿が司式なさるでしょう。この葬儀にはヨーロッパの旅人たちが招かれていますので参加できるならどうぞ。後日正確な日取りをお知らせします。

元気を出しなさい、キリストは復活してわたしたちの為に死に打ち勝ちました!

私が来て、彼女に口づけして、「頑張れ」と言うまで待っていてくれたことは、私にとって感動的でした。私が彼女に口づけした後に彼女は息を引き取りました。

                                                 キコ・アルグエイヨ

 

左がカルメン(「新求道期間の道」40年の歩みより)

 

カルメン2009年1月(当時73歳)

キコは神父(聖職者)ではない。世俗を棄てた修道者でもない。生涯市井に生きる一信徒の身分に徹した。キコは私と同じ1939年生まれだが、3つ年上の元修道女のカルメンと若い時にコンビを組んで、マリオというイタリア人の神父と共に。常に3人一組で世界の「新求道共同体」の最高指導者として働いてきた。

結婚して家庭をもうけ子供たちを生まなかったが、キコ、カルメン、マリオ神父の3人組は、新求道期間の道を歩む多くの夫婦たちに、5人、8人、10人、13人、時にはそれ以上の子沢山の家庭をつくらせ、この半世紀近くの間に、世界中に150万人(か、もしかしてそれ以上ではないかと私は推計するのだが・・・)のメンバーを数えるに至っている。この勢いで行けば、あと半世紀の間に億の単位の集団に育つかもしれないのだ。少子化に悩む日本の社会にキコの共同体が根付けば、問題は消えるだろうに・・・。

教皇フランシスコは、最近、病床のカルメンに見舞いの電話を掛けたそうだが、その教皇は「キコについてはいろいろなことが言えるが、一つはっきりしていることは彼が聖人だということだ」という意味の問題発言をして、私をいたくまごつかせたものだが、私は5月のサントリーホールでのコンサートを準備する過程でキコと極めて親密に接してみて、かれの人間臭さに深い印象を受けた。彼は、遠く日本まで来ていて、カルメンの状態について非常に気にかけているのを目の当たりにしてきた。ほぼ3つ年上のカルメンとキコの結びつきは、姉弟的とか、友情とか、同志的とか言う月並みな言葉では尽くせない、男女の間の新しいタイプの愛の絆だったと私は言いたい。

そういうのってありなんだ、と妙に納得するものがあった。歴史を振り返ってみても、常に聖人の陰に聖女ありだった。

キリストとマグダラのマリアがその典型か?

ところで、私、明日から旅に出ます!

モスクワ、ワルシャワ、クラカウ、ミュンヘン、ドナウヴェールト、ローマと回って、8月11日に帰国の予定。

モスクワは日ソ円卓会議で何度か訪れて懐かしい。

クラカウでは教皇フランシスコの呼びかけで「世界青年大会」(ワールドユースデー)が開かれる。

ドナウ川沿いのドイツの片田舎には、古い友を訪ねます。

ローマの神学校ではキコが新しい壁画に挑戦しているはず。システィーナ礼拝堂の正面のミケランジェロの「最後の審判」の壁画より大きな、「黙示録」に主題を得た大壁画に果敢に挑戦するキコに会えるかも。

わたしは、足掛け8年になるローマ生活に終止符を打ち、日本に帰る準備として私物を取りに行くのも今回の目的の一つ。

帰国後になるが、旅のブログをお楽しみに。

 

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★ WYD 〔秘話〕 ブラジルでの再会 -ホイヴェルス師の結ぶ縁-

2014-01-01 16:46:13 | ★ WYD 世界青年大会

★ 新春の初夢にかえて贈ります。

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WYD 〔秘話〕 リオの再会

- ホイヴェルス師の結ぶ縁 -

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 2008年秋、私は見知らぬご婦人から初めての手紙を頂いた。ブラジルからだった。彼女は私の本の書評を見て、わざわざ日本から取り寄せて読んだのだそうだ。

 そのお手紙はこう始まる。  「今、ブラジルは8月13日、午后2時半。 《バンカー、そして神父》 を読み終わりました。感動!そして激しい歓喜の涙!今の私の気持ちをどう表現していいのか、術を知りません。こんなに感動して読んだ本は今までありません。こう書きながら涙がとめどなく流れます。有り難うございました。・・・」 さすが情熱の国、ブラジルからのお手紙だ。

 読み進むうち、戦後、写真見合いだけで決意して、単身ブラジルに渡り、リオで獣医をしていた青年と結婚し、2男、1女を授かり、幸せな生涯を送り、数年前にご主人を亡くされたことが解ってきた。ご主人はまじめを絵に描いたようなカトリック信者で、彼女にも結婚式の前に洗礼を受けることを求め、それまでシスターの修道院に預けられたのだそうだ。


 

愛するご主人の遺影に添えられた彼女の最初の手紙

 

 ご主人は、日本ではある著名な政治家の秘書になったが、酒が飲めなくては政界での出世は難しいだろうということになり、獣医として新天地に夢を賭けたのだとも書いてあった。そして、そのご主人を信仰に導いたのが、当時麹町教会の主任司祭だったヘルマン・ホイヴェルス神父だった。

 ホイヴェルス神父と言えば、私の青年時代を通しての霊的指導司祭で、ある時期、このご主人と私は面識こそなかったが、四谷の聖イグナチオ教会の境内で間違いなく空間を共にしていたのだった。そして、いつも師の側にいる私を年上の彼が見知っていた可能性は高い。


1964年にインドのボンベイでローマ教皇が史上初めてヨーロッパの外に出る記念すべきイヴェントがあった。

ホイヴェルス神父は司祭になる直前、ボンベイ郊外のハイスクールで教鞭を執ったことがある。

教皇パウロ6世が国際聖体大会のために来ると言うので、ホイヴェルス神父も行くことになった。

弟子の中では私ただ一人、カトリック新聞の臨時特派員の肩書で参加し、会期中は行動を共にした。

上のペン画は、私が神父とその昔の教え子たちをスケッチしたもので、カトリック月刊誌の片隅を飾った。

 

 「生来の筆不精で、めったに手紙など書いたことがなかった私が、一体どうしたことでしょう?」、と自分でも驚きながら、それ以來彼女から毎月一通以上の手紙が届くようになり、私もまめに、長男のHさん宛のメールの添付ファイルでせっせとお返事を送り続けた。

 その後の手紙には、結婚のために横浜を船で発った時の写真や、ウエディングドレスの初々しい写真など、時代を感じさせる白黒の写真数枚と、ご主人がホイヴェルス神父からもらった神父直筆のドイツ語の詩までいただいた。私はそれを大事に額に入れて野尻湖の家においている。


恐らくホイヴェルス師の自筆の詩とは別に、もう一枚の紙に縦書きの訳があったのだろう。

彼女のご主人はその訳文をばらばらに切って、原文の余白に糊で横向きに貼り付けたものと思われる。

カッコの中に「古いドイツのことわざ」とあり、日付はH師と私がインドに行った3年後だ。

 

 その彼女が、2009年5月末に私に会うためにわざわざブラジルからの巡礼団に便乗してローマにやって来た。私は、彼女を神学校に案内し、聖ペトロ大聖堂に伴い、郊外のネミ湖までドライブして野イチゴのトルタを一緒に食べた。

 そのときだったか、ご主人の形見のア・ケンピス著「キリストに倣ひて」(光明社刊)を私に託した。ビニールとセロテープで表紙はしっかり補強されていたが、紙はぼろぼろに黄ばみページもばらばらにはずれた、書き込みで一杯の小さな一冊だ。彼は1951年に第一回目の通読を終えている。その後も読むたびに表紙裏に記録して、2001年6月15日に80歳で18回目の通読を終えるまで、実に半世紀にわたって肌身離さず持ち歩いていたのだ。当時の日本人男性にとっては、新約聖書以外では数少ない信仰書の古典だった。

 彼女とは正味1日半の短いローマの休日だったが、「次は貴男がブラジルに会いに来る番よ」と言い遺して帰っていった。

 あれから4年、WYDの野外ミサの会場、コパカバーナの浜辺は、彼女の家から歩いてものの3分とかからない至近距離だった。キコの召命の集いが終ると、彼女が予約してくれていたホテルに移った。彼女の家には独身の長男と孫娘二人が同居していて、私のために部屋が無かったからだ。ホテルは彼女のマンションからは歩いて1分のところだった。

 それから4日間、彼女はリオをゆっくりと案内してくれた。 息子のHさんの運転でドライブにも出かけた。  


あとは、その時の写真アルバムだ。


ミニストロ・ヴィヴェイロス・デ・カストロ通りを右に行くとすぐ彼女の家。直角に左手前が私のホテルかな?

 

朝、暗いうちに申し合わせてコパカバーナの砂浜を2人で散歩。汗ばむ頃に太陽が昇ると、真冬とは思えない日差しになる。

 

  

教皇フランシスコの370万人ミサのステージも、はや取り壊しにかかっていた。 南大西洋はアフリカから打ち寄せる波。

 

のどが渇いた。 あのキオスクでヤシのミルクを飲もう。 ストローをさすばかりにカットしてもらう。 商品は頭上で量産中。

 

おや?早朝から浜で衛星中継? 教皇はもう居ないよ!

  秘密警察に消された活動家の死に抗議するパーフォーマンスだと聞かされた。

行方不明のアマリルドは今どこに?

    

              

左の岩に髪の毛ほどの白い線が縦に。 命知らずのロッククライマーたちだ。 私ももと山岳部員で多少の心得はあるが・・・

              ・・・やらないね! こんな危ないことは!!      

 

   

クライマーを尻目に、一足先にロープウエーで頂上に。左の写真のゆるくカーブしたところがコパカバーナのビーチ。

目の下をリオの空港に降りる飛行機が通り過ぎた。

 

着陸して羽を休めているのは、まさか? コンドル!?! 毛のない頭、少なくともその一種らしい?? 

広げた翼は3メートルを優に超えているだろう!

 

イパネマの浜辺に行った

見つけたぞ! トム・ジョビン作曲のボサノバ 「イパネマの娘」 の現物を!!!

 

リオのカーニバルのサンバ祭りは、もとは市内の金融街の目抜き通りで踊られていたそうだが、弊害もあって

今では年に一度のお祭りのために、このような特設巨大スタンドが設けられている。左の M が終点。

この右ずっと、対のスタンドが5-6組、遠くまで直線状にずらっと連なっている。審査員たちはどこで観るのか?

阿波踊りとはまるでスケールが違う。

 

スタンドの裏の急斜面を這い上がる貧民窟。道もなく下水管も埋設されていない。電気はあるようだが、飲み水は?

不動産業者が商品とは見做さない急斜面に夜中にブロックを積んで小さな一間でも建てて8年(だったかな?)

住み続ければ居住権が生まれるのだそうだ。カーニバルのサンバの女王はこんな極貧の場所から生まれる!

教皇フランシスコはリオに数多くあるこの手のスラム、犯罪と麻薬とセックスの巣窟、の一つを訪れた。

 

   

彼女の娘、つまり同居する二人の孫の母親は、リオからバスで1時間の高原、テレソポリスの町に住んでいる。

リオの街にも巨大な奇岩が多く、ランドマークの十字架像も海を見下ろしているが、ここも負けてはいない。

私の後ろは「神様の指」の岩。 左手の親指を握りこんで人差し指を立てるとこの形になる。

右は「横たわる乙女」。西日に照らされた胸のあたりにはまだ固い乳房がつんと立っている。

遠くだからよく解らないが、頂上のすぐそばまで車で登れるほどの大きな岩山だそうだ。

じつは彼女のご主人の遺骨はこの乳房に先、岩山のてっぺんに葬られている。

だから彼女は私をここまで案内したかったのだ。最初の写真、追悼のしおりの

  浴衣姿のご主人の左上の写真、真っ赤な朝焼けの黒いシルエットが   

         この岩山であることに気付いて私は感動した。                        

    

リオに戻った。 コンドルを見た岩山から望遠で撮った十字架像の岩に登った。ロープウエーで行くものだとばかり思っていたら、

歯車でレールを咬みつつ登るアブト式自走登山電車で頂上直下まで、最後はエレベーターで十字架の足元に出た。

突然日本語で僕の名を呼ぶ者が。振り向くと、なんとアルバロ神父ではないか。何年ぶり?実に奇遇だ。

彼は高松教区立のレデンプトーリスマーテル神学院を出て神父になった若者の一人。

しかし、今は自分の教区で働けないので、アフリカの宣教に旅立って久しい。

かれの後ろには数人のアフリカ人の青年がついてきていた。

彼は私に、早く日本に帰って宣教したいと言った。

これも、もう一つの「リオの再会」だった。

    

植物園にも案内してもらった。 日本庭園があった。 池に睡蓮の花も咲いていた。 見ると葉っぱにはギザギザ、トゲトゲがあった。

 

                            

木の幹にへばりついた奴、一体何者? 手足の間に膜が無いから、ムササビでもモモンガ―でもないらしい。

しかしまあ、なんと立派な腰だこと、と感心していたら、ひょいと枝に移った姿は、なんだ、ただのリス君だった。

 

 蜥蜴(とかげ) の夫妻に見送られて、日本に帰ることにした。

 

〔後日談〕

リオから日本に帰り、今またローマに来ているが、その後、彼女からの手紙がピタリと途絶えた。

心配して電話したら、「昔の筆不精に戻ったみたい」 だとさ。

彼女との出会いのきっかけになったわたしの一冊目の本。

「バンカー、そして神父」(亜紀書房)

このブログを読んで興味の湧かれた方は下をクリックしてみてください。

 http://books.rakuten.co.jp/rb/4122150/ 

 

(WYD は本当に お・し・ま・い

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★ WYD-⑦ 〔完〕 キコとの出会い

2013-12-26 18:21:59 | ★ WYD 世界青年大会

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WYD-⑦ 〔完〕 キコとの出会い」

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時計の針をすこし戻そう。

夜、くたびれ果ててあの巨大かまぼこ型の教会にたどり着くまでの数日の道中、

私たちは時たま下の写真のような光景に出合うことがあった。

下の例は、文無しでヒッチハイクしながらWYDの教皇ミサに行くフランシスコ会の神父とその仲間のようだった。

 

  

この時我々は、金持ちのイェフィームのように、無慈悲にもスピードも落とさず無視して走り抜けた。

我々はまさか運転手逮捕事件でWYDがパーになるとは夢にも思っていなかったから、

今思えば、自分たちが教皇ミサに間に合いたい一心で、人の事を考える余裕を失っていたのかもしれない。

(どのみち、2台のバスを合わせても、彼らを乗せきるだけの余席がなかったのも事実だったが・・・。)

あの日あの場所でまだ移動手段を確保していない彼らは、常識では教皇ミサに間に合っていないことになる。

それとも、他の親切なイェリセイ爺さんに拾われて、検問もパスして、我々を追い越して教皇ミサに間に合っただろうか?

とにかく、コパカバーナの浜辺を埋めた250万の若者の他に、我々や、恐らくこのヒッチハイカー達のような、

ミサに間に合わなかった人間が数百人単位かそれ以上いたとしても、全く驚くに値しない。

いずれにせよ、これら落ちこぼれ達も皆、神様から溢れる恵みを頂いてブラジルを去ることには間違いないのだが・・・。

ここまで書いて、ふと必要があってウイキペディアWYDの項目をみた。

そしたら、リオのWYDの参加者の数として370万人という数字が上がっていてビクッ!とした。

自分の思い違い、記憶違いだったか。今さら①~⑥の記述を訂正するのも面倒くさい。

とにかく、この数字は1995年のマニラのWYD500万人に次ぐ数字だ

 

WYDのクライマックスのミサが終わり、 交通規制が解かれ、大型ショッピングモールを出て、

我々が本当は二日前に到着するはずだったホテルにやっとたどりついた。

それは、ローマの基準で言えば三ツ星クラスで、近代的な小ざっぱりしたホテルだった。

 

だが、道を隔てたホテルの向かい側は、壁や建物のファッサードだけを残して、裏は廃屋か空き地のようだった。

壁には一面に落書きがしてあって、その前には椅子ひとつの物売りの小さな店がぽつぽつあるだけだ。

おや?右側の壁画は、天使の聖母マリアへの受胎告知の絵に見えないか? 

 

ホテルの反対側に白昼から寝ている浮浪者の姿もすっかり見慣れてしまった。まあ寝袋の私と50歩100歩だが?

極端な貧しさ極端な裕福さとが、極端に接近して露出している、のがブラジルの特徴ではないか。

夜、私はこのホテルで久しぶりにぐっすりと寝た。教会の冷たい石の床に寝た昨夜が夢のようだった。

 

370万人にとっては、昨日の教皇ミサがWYDの最後の最高のイベントだったが、

明けて月曜日の朝、私たちにはまだ大切な最後の行事が残っていた。

それは、新求道共同体の創始者のキコに会って、召命の集いに参加することだった。

コパカバーナの2日前の前夜祭と昨日の教皇ミサの席に、我々も、この旗を先頭に堂々繰り込むはずだったが・・・。

リオ郊外の見本市会場にある巨大な多目的ホールに、WYDに参加した新求道共同体の若者たちが集まり、

教皇ミサの翌日キコを囲んで召命の集会を持つ事は、過去のWYDから引き継がれてきた恒例のイベントだ。

50万人が集まった1993年のコロラドのデンバーでのWYDのあとはアメリカンフットボールのスタジアムであった。

120万人を集めた1997年のパリのWYDはブーローニュの森のロンシャン競馬場だった。

 

 

 

370万人が集った今年のWYDのあと、リオセンターを会場に10万人の新求道共同体の若者がキコと集まった。

 

日本のグループは正面のだだっ広い舞台のすぐ前のいい場所を確保した。


  

広いステージの奥には端から端までずらりと招待の司教や枢機卿たちが二列に並んでいる。大変な数だ。


ステージの下手の袖にはキコのオーケストラの一部が控えている。

 

 

キコがマイクの前に立つとこの恒例の召命集会は開幕だ

 

   

挨拶と激励の言葉を贈る、左のボストンのオマリー枢機卿は教皇フランシスコの教会改革8人衆の一人だ。   

          右のウイーンのシェーンボルン枢機卿は今回の教皇選挙のヨーロッパ代表格の候補だった。

 

  

世界中から集まった若者たちの熱気で満杯の会場は盛り上がる。 しかしこれで10万人か?という疑問も湧いた。

いや、そうでもない。左の写真の右奥、外の眩しい太陽の光で白飛びしているところを、絞り込んでズームで引き寄せると、

まあ、居るは、居るは!ホールから溢れた若者たちが、この多目的ホールの外を取り巻く広い芝生を埋めている。

建物の3方の広い開口部の外が何れもこの状態なら総勢10万人も有り得るか、と納得した。

(悪い癖でまたブログが長くなり始めた。先を急ごう。)

キコらの長い演説と歌や祈りが終ると、いよいよ召命の呼びかけに入る。

生涯を独身で福音の宣教者司祭として自分を神に捧げる覚悟のある若者は立って前に進み出なさい!

ばらばらと若者たちがステージに上る階段に駆け寄った。

見る見るうちにバカ広いステージが埋まっていく。

みんな跪き、召命が本物であることを願う祝福の祈りを貰う。そして来賓の大勢の司教から按手を受ける。

続いて、先日訪問したカルメル会のような観想修道会に身を捧げる決意の女性たちへ呼びかけがあった。

 

彼女たちも来賓の司教たちの按手を受ける。この日、男子が約3000人、女子が2500人立ったと報告された。

日本のグループからも男の子が一人、女の子が一人立ったと聞いた。これを多いと思うか、少ないと思うかは見かたにもよるが、

10万人に対する上の数は、日本の割合の2倍以上か。

教皇ミサは受け身で参加するだけだが、この召命集会は10万人全員が

各自、自分はいま立つべきか、一瞬神の前に真剣に考え、能動的に参加する集いなのだ。

「次は3年後にポーランドのクラコビアで会おう!」 

というキコの檄とともに、召命の集会は終わった。

終っても、終点で満員電車から人が急いで下りるように、結びの一番のあと国技館の出口に人が殺到するように

若者たちは急いで動こうとはしない。多くは余韻を惜しむかのように、それぞれに輪になって踊り続けるのだ。

       キコの声に応えて立たなかった者も、自分の

       道を選びとったとの確信をもって家路につく。

  

解散時はもうごちゃ混ぜ。Tシャツの背中にサインを集めたり、ユニフォームの上着を交換したり、

いろんな国の若者が混ざり合って写真を撮ったり、撮られたり・・・(中央白髪は私)

(終わり)

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★ WYD-⑥ 文豪 レフ・トルストイ

2013-12-20 20:57:11 | ★ WYD 世界青年大会

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WYD-⑥ 文豪 レフ・トルストイ

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 WYDの報告もようやく終わりに近づいた(後一回で終わるだろう)

ここでトルストイ作 「二老人」 と言う短編の要約を記そう。

それは私の一冊目の本「バンカー、そして神父」

http://books.rakuten.co.jp/rb/4122150/

の終わりの章の導入に用いた文章をさらに短くしたものだ。

それが WYD と何の関係があるかは、後を読めばすぐ明らかになる。

レフ・トルストイ

 ロシアの田舎の二人の老人が、エルサレムへの巡礼を思い立った。一人は金持ちでイェフィームといい、もうひとりはイェリセイという並みの出の男だった。

 二人の老人は、5週間歩き通し、やがて、凶作地帯に差し掛かった。途中、喉の渇いたイェリセイは、遠くに見える農家に水をもらいに行った。すぐ追いつくからという友達の声に、イェフィームは休まず歩き続けた。

 小屋に入ってみると、そこには飢え、病んで死にしそうな女と、男と、老婆と、3人の子供たちが倒れていた。イェリセイは持っていたパンを分け与え、井戸に水を汲みにいき、皆に飲ませた。買い物をし、暖炉に火を入れ、お粥を食べさせた。日が暮れかけたので、その日のうちに仲間に追いつくことをあきらめて、そこで一夜を明かした。

 翌朝からイェリセイは働き始めた。百姓道具も、着るものも、みんな食い物にかえてしまっていた彼らのために、全部新しく買い揃えた。四日目には出発するつもりだったが、また問題が起きた。

 旅は続けたいが、このまま見捨ててもいけない。「よし、もう少しここに残ろう。そうしないで、はるばる海を越えてキリスト様をさがしに出かけても、自分の心の中のキリスト様を見失ってしまうことになる。」 と決心して、イェリセイは眠りに付いた。

 一日がかりで全てを整え、翌朝、みんなが寝静まっているうちに、イェフィームのあとを追って旅にのぼった。明るくなると、あらためての残りの金を数えてみた。とても海を越えて旅が出来る額でないことがわかった。しかたなく例の村を迂回して、家路についた。

 喜んで迎えた家のものには、ほんとのわけを話さなかった。「なあに神様のお導きがなかったのよ」とだけ言った。

留守家族は円満に栄えていた。

 一方、イェフィームは、イェリセイが病人たちのところに泊まる事にした日、少し歩いてから腰を下ろして、そのうち寝てしまった。やがて、目を覚まし、なお日が暮れるまで待ったが、イェリセイはやってこなかった。ひょっとすると、寝ている自分に気がつかず、もう通り過ぎてしまったのではないかと思って先へ進んだ。今夜の宿で落ち合えるかと思ったが、出会えなかった。イェフィームは、仕方なくそのまま旅を続けた。

 エルサレムに着いて、巡礼の目的地、キリストの聖墳墓教会に参った。ミサが捧げられているその場所には、群衆がひしめき合って、身動きが出来なかった。

 主のお墓の礼拝堂を見つめていると、なんと不思議なことだろう!みんなのいちばん前に、貧相な身なりの小柄な年寄りが立っていた。その年寄りが振り向いた。それは紛れもなくイェリセイその人だった。しかし、どうしてそこにいるのか、不思議だった。

 ミサが終わって群衆が動き出すと、イェリセイを絶えず目で追ったが、とうとう見失ってしまった。

なお6週間かけて、キリストゆかりのあらゆる聖地をくまなく巡り歩いて、イェフィームは家路に就いた。

留守家族は様々な不和といさかいで崩壊していた。

 

私たちの巡礼はイェリセイ爺さんの聖地巡礼にどこか似ている。

 イェフィームのように金持ちでない我々は、大手の旅行代理店に言い値の大金を払って無難な旅を計画しなかったかもしれない。しかし、現地の知人を信頼して安いオファーのバス会社に決めたことが、この惨憺たる結果につながったとしても、誰の落ち度でもない。そのことを70匹の素直で大人しい羊たちは本能的に知っているのだ。彼らにとって、巡礼が当初のスケジュール通りに運ぶかどうかはさほど重要ではない。彼らにとっては、この旅を通して神様が自分の進路の選択について何を語ってくださるか、こそが大切だった。

 金持ちのイェフィームの場合は違った。彼にとって聖地の聖墳墓教会に辿りつくことが最優先の課題だった。だから、その目的の障害になるものは道々全て切り捨てて進んだ。連絡が取れなくなったイェリセイ爺さんを探すために時間を失うことも論外だった。聖地では有名な巡礼スポットをきっちりカバーして、達成感に満ち足りて帰路に着いたに違いない。しかし、家で彼を待っていたものは?

 WYD の参加についても、飛行機で移動し、快適なホテルに泊まり、リオでの公式行事に参加し、教皇の野外ミサには上席で与かり、主な観光地をゆっくり巡り、ブラジルの土産をどっさり買い込み、無事に帰国できれば大成功。その上、参加者を募るチラシにあった助成金までもらえたとあっては、いいことずくめの格安海外旅行と言うことだろう。

 我々イェリセイ組は、神様が次々に差し向けて下さる想定外のハプニングや試練を、信仰をもって受け止め、予定の変更やスケジュールの遅れの不都合にもしなやかに対処し、心から満足していた。彼らが体験した無数のエピソードの中から2-3の例を紹介しよう。

 4000ドル事件で、あらかじめ組まれていた予定が全部狂った以上、あとは手探りで前に進むほかはなかっただろう。各所で態勢を立て直すのに手間取り、理由が明かされないままの待ち時間も長くなる。そんなとき一同は何かしら有意義なことを探して時を埋めていく。

突然コーラスが聞こえ始めた。日本を発つ前に、資金稼ぎを兼ねたコンサートツアーで歌いこんできたから、息はピッタリ合って、ハーモニーにも磨きがかかってきた。

 仲間を引き取ってくれるホームステイ先の家族が集まった時など、聴き手がいると見るや、さっと集まって歌うのだが、はてな?今ごろ誰に向かって歌っているのだろうか?

 かき分けて前に出たが誰もいない。 ???と思ったが、良く見ると、いや、居た、居た!彼らの前にショボクレたオジサンが一人、可愛い顔をしてチョコンと椅子に座らされていた。


 

王様のように玉座に座ってコーラスを聴くオジサン。  楽しく明るく歌いかける若者たち

 どうやら、この可哀想なおじさんが、希望のない不幸な顔をして地べたに坐って物乞いをしているのを見つけて、少しのお金をあげて、「神様はいるよ!神様はあなたを愛しているよ!」 と囁きかけ、元気づけるために王様のように手近な椅子に座らせて、彼を囲んでコーラスを聞かせてやっているらしかった。カメラを向けると、嬉しそうにこちらを向いた。ここしばらく、彼が笑ったことがあっただろうか。今日の彼は、嬉しくて泣いていた。

 行きずりの我々が彼のために歌ったからと言って、明日からの生活が急に安定する保証は何もない。それでも、何もしてあげられないから、せめて歌を聴かせたいのだ。

 私は、この日の出来事が、もしかしたら彼の人生にとってただ一度の、神さまと人から注目され、大切にされ、愛された、生涯忘れられない特別な思い出として残ることを知っている。

ついでにこんなエピソードも付け加えよう。

 深夜の運転手逮捕事件で生じた決定的な時間の損失を取り戻そうにも、私たちは飛行機に乗り換えることも出来ず、近道もなかった。動かせないWYDの教皇ミサに追いつくためには、有意義な交流や祭儀の予定も、必要な休息さえも殆ど犠牲にして、ただひたすら予定のコースをバスで走り続ける他に方法はなかった。

 そんな追い詰められた状況の中でも、リーダーの若い神父たちが省かなかった予定が一つあった。それは、名もない小さなカルメル会の女子修道院の訪問だった。それはいわゆる観想修道会のひとつで、一旦入ったら、世間と隔絶した塀の中の閉じられた空間で、祈りと犠牲と労働にすべてを捧げ、生涯をそこで終える厳しい修行の場だ。

 ここに私たちと同じ新求道共同体の精神を生きる姉妹が入っている。彼女を訪れ、入る前の彼女の歴史と、入ってからの今の生活の体験をきいて、私たちの半数以上を占める若い姉妹たちの今後の進路選択の参考にしようと言う試みだ。

 彼女は青春を謳歌する多感な普通の少女から、キリストの愛に触れられてこの生活を選び、いま「キリストの花嫁」として生きることがどんなに幸せなものであるかを淡々と語った。


彼女の笑顔に曇りはない


  

左の彼女はまだ体験入会1週間目。右の写真には我々の一行の中でただ一人洗礼をまだ受けてない青年がいた。シスターたちは格子から手を差し伸べ、彼の心に信仰が育ち洗礼に至ることを日々祈ると約束した。


 まだ付き合う相手に巡り合っていない女の子も、彼氏と一緒にこの巡礼に参加した子も、一様に真剣にその告白に聞き入った。愛している彼女が自分を棄てて、修道院に入ると言い出したらどうしようと、一瞬不安になった彼氏もいたかもしれない。今もって彼氏に巡り合えない自分は、ひょっとしてこういう生活に召されているということか、と考える子もいるかもしれない。彼氏が自分を棄てて、突然神父になる、宣教師になると言い出しはしまいかと言う恐れを内心抱きながらこの巡礼に参加している子もいないとは限らない。

 実は、この巡礼の旅は彼らの多くにとって、単なる海外旅行、あるいはWYDと言うイベント参加の旅ではなく、生涯の進路を識別する真剣な道行きなのだ。

 今付き合っている彼女は、彼氏は、本当に生涯の伴侶になるべき相手か、神様はわたしを神父に、修道女に、呼んでいるのではないだろうか、まだ相手にめぐり会っていないが、結婚に召されているならどうか相応し相手を与えて下さい、とか、様々な祈りが心を駆け巡っている。

 日長一日バスに乗り続ける移動の間どうするか?ただ漫然と単調な景色を眺め、居眠りをし、隣の席とお喋りをするだけではない。一緒に「教会の祈り」(昔、神父がラテン語で唱えていた「聖務日祷」)に沿って、朝、昼、晩の祈りをする。黙想をする。歌を歌う。ロザリオの祈りを唱える。一人一人、順番に前のマイクのところにやってきて、あらためて自己紹介をする。自分の信仰の遍歴を分かち合う。聖書をランダムに開いて、出てきた聖句について、自分のインスピレーションに従って短い感想を述べる。神父がそれをフォローする。等々。結構バラエティーに富んだメニューで時間が埋まっていく。

 トルストイの話に戻る。私の理解では、この短編はトルストイ自身の聖地巡礼体験に基づいて書かれたものではないかと思う。そして、二人の老人は、実はトルストイの心の中にある二つの面を分けて人格化したものだろう。トルストイ自身は金持ちの地主だが、彼の心の中にはイェリセイ的な信仰と愛がある。しかし、結果的にはイェフィームとしての自分が勝ち、巡礼を完結して帰途に就いた。イェリセイになり切って旅を途中で放棄できない自分があった。彼の晩年は崩壊した家庭生活を抜け出して旅に出て、孤独な死で終っている。

 この70人の若者たちの多くは、決してトルストイのような金持ち、成功者、になることはないだろう。しかし、彼らはトルストイの心の半分であるイェリセイ爺さんの生き方を実践することは出来るだろうとわたしには思われる。

(つづく)

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★ WYD-⑤ 大アクシデント発生! 巡礼は風前のともし火?

2013-12-07 19:11:38 | ★ WYD 世界青年大会

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WYD-⑤ 大アクシデント発生! 巡礼は風前のともし火?

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 2013年7月23日はイグアスの体育館を出て、日本人移民の多いロンドリーナの町へ行って、日系ブラジル人への宣教とミサをする予定で、長距離バス移動に備えて、早朝5時起き、7時出発と言う発表だった。

 前晩のレストランが深夜に及んだので、これは厳しいスケジュールだったが、それでもみんな頑張って、7時には入り口に勢ぞろいした。しかし、待機しているはずのバスの姿が無い。この施設には、他にも大勢の若者が泊まっていたが、我々より遅い出発予定のグループが、迎えのバスに乗って次々に出ていき、一番早く発つはずだった我々だけが最後に取り残された。それでもバスは来ない。

 年寄りの私はすぐ異変の臭いを嗅ぎ取ったが、敢えて平静を装った。経験から自分は意外に危機管理に強いと知っていたが、ここで表に出て指揮をとったら、若い神父たちの顔を潰すことになる。

 なんでもない。ただ運転手の携帯が応答しないだけ。サンパウロのバス会社はまだオフィスが開いていないが、もうすぐ連絡が取れるから、大丈夫!大丈夫!と彼らは言う。

 出発後にバスの中でするはずだった朝の祈り(教会の祈り)を、野外の空気の中で一緒にした。祈りも黙想も歌も終わったが、やっぱりバスは来ない。みんなはと見ると、ギターと太鼓を鳴らして楽しく輪になって踊ったり、おしゃべりをしたり、芝生に寝袋を延べて足りなかった睡眠を補ったりと屈託がない。疑いも、不満も、苛立ちのかけらも全く感じさせない。こいつら天使たちか、ただちょっと足りないだけか?なんて、内心ひどいことを考えたものだ。ああ、神様ごめんなさい。 

 見かねて、リーダーの神父に、誰にも言わないから本当の事を言ってくれないかと迫ると、実は4000ドル(約40万円)を強要してきたが、手持ちの現金にそんな余裕はなく、ブラジルの共同体の有力者を通して、後で必ず払うから取り敢えずすぐにバスを出してくれるように交渉中、と言う。

 恐れが的中した。そう言えば、昨夜レストランの片隅で、何やら深刻な話し合いをしている様子が目に止まっていた。これは現場の運転手の不当なゆすり行為ではないか。遠方の有力者の口約束では切り抜けられるはずがない。

 バスを出してしまったら、約束なんか反故にされるに決まっている、と思う彼らは、いちかばちかの勝負に出ている。

 本当の事を話して、みんなから現金を集めて用意する他に前へ進む道はない、と言うのが世間を知っている私の結論だったが、楽観的な交渉の努力はなお空しく断続的に続けられた。

 世界中から250万人の巡礼が教皇フランシスコ主催世界青年大会(WYD)に向かって殺到している。ブラジルの動かせる観光バスは高値で総動員だ。この売り手市場で、足元を見てバス料金の割り増しを吹っかける者が現れても驚くに値しない。

 時間だけはいたずらに流れて行った。バスで半日走って、昼休みに開かれるはずだったパニーノ(パンに肉と野菜を挟んだもの)の袋も食べ尽くされた。

 やっと現実に目覚めて、皆が呼び集められ、事実が明らかにされ、予定外の現金の収集が行われたのは、確か午後の2時ごろではなかったか。

 共同体の収集の仕方は一風変わっている。必要額の4000ドルが提示されるだけだ。仲間の人数を頭において割り算すると一人60ドル弱になるとみんな理解するが、貧しい若者たちの事だ。60ドルの現金を持ち合わせていないものもいるかもしれない。最初に決められた参加費以上に出すことに抵抗を感じる者もいるだろう。他方では、その気になりさえすれば100ドルもそれ以上も出せる者も中にはいるだろう。みんなきっちり頭割りの60ドルしか出さなかったら、出せない人、出したくない人がいることを想定すれば、全部で4000ドルに届かないことは初めから明らかだから、自分が幾ら出すべきか、あとは本人と神様の問題になる。

 お金は拝むべき尊いもの=「神様」=ではなく、手垢に汚れた「必要悪」にすぎないという観点から、たいてい黒いビニールのゴミ袋が回される。みんな拳に裸の現金を握り、袋の中に手を突っ込んで放す(ゴミのように棄てる)。あとは、二人以上の計算係が数えて結果を報告する。足りなかったときは、あと幾ら足りないからと言って、もう一回ごみ袋を回す。たいていそれでことが足りる。誰が幾ら出したのか、本人と神様しか知らない仕組みになっている。(出せないのもいる。少ししか出さないのもいるに違いない。しかし、多く出すのもいるのだ。)

 幸い今回は一回目の収集で目標額を上回った。ドル、円、現地通貨、ユーロも少々、合わせて4000ドル相当以上集まった。本当にいい子たちだ。

 自称危機管理に強い私に言わせれば、定刻朝7時にバスの姿はなく、運転手が携帯電話に出ないなら、9時にバス会社の対応を見極めた上、10時には非常事態を宣言してこの収集を決行すべきだった。しかし、それはビジネスの世界で難局を何度も潜り抜けてきた「荒海の老狼」の言うことだ。ここは、対応に右往左往し、この結論にたどり着いた若いリーダーたちを、よくやったと労うべきだろう。

 こうして貴重な日中の時間がマル一日分失われた。ロンドリーナの日系人との交流、街頭宣教、現地の信者たちとの合同ミサなどの予定が全部吹き飛んで、夜遅く疲れ果てて到着し、ひたすら寝るだけとなった。

 4000ドル事件の遅れで、その後の日程はもはや全部あって無きが如し。最後までずれ込み、キャンセル、順送りの連続となった。

別の機会に起きたもう一つの事件の事も、ここで合わせて報告しよう。

 数日後のこと、前晩の宿を提供してくれたサンパウロの兄弟たちと一緒に、その日の夜までにリオに入り、翌日はコパカバーナの海岸のWYD会場で早めに陣取りをして、前夜祭に参加し、そのまま砂浜で野宿して、次の日のクライマックス、教皇の250万人野外ミサに与かるはずの時だった。

 サンパウロの兄弟たちのバスは予定の時間に来て待機したが、我々のバスがまた姿を見せない。地元の兄弟たちは仕方なく出発を遅らせて待ってくれた。数時間遅れて我々のバスがやっと着いた。しかし、一台しか来なかった。今度は、金の要求ではなかった。もう一台は故障していま修理中、もうすぐ直るからあと少し辛抱してほしい、と言う話だった。

 それを知った現地の兄弟たちは諦めて、遅くなっても今夜のうちに宿にたどり着けるようにと、そそくさと発っていった。そうしないと彼ら自身のWYD参加が危うくなるからだ。

 だいぶ経ってからさらに悪いニュースが入った。修理は今日中には間に合わない。代わりのバスを探しているが時間がかかりそうだ、と言うことだった。

 この時期、250万人の若者がブラジル中のバスを借り切って動き回っている。遊んでいる予備のバスなどすぐに見つかるわけがないではないか。案の定、とっぷり日が暮れて、とっくにリオの宿に着いているはずの頃になって、やっと代わりのバスがやって来た。昨夜のホストファミリーは既にリオに発っていないから、今夜はもうこの町には泊まれない。月夜の道をひた走りバスの車内泊で少しでも後れを取り戻せば、まだぎりぎりWYD参加できる可能性が残っているのではないか?


                              

         その夜の月は半月よりやや太っていた  (よーっく見て頂きたい 南米の人々は月を日本人とは逆さまに見ている)

         (左 リオの月) 子供のころから南米に行ったら自分の目でこれを確かめたいとずっと思っていた (右 野尻湖の月)


 待つことにはすっかり慣らされたが、待つという仕事は結構体力を消耗する。窮屈な姿勢と悪路の振動に耐えながら何とか車中で浅い眠りに落ちた頃、突然バスは止まった。なんだ?車内灯は消えているし、外にも人家の明かりはない。時計を見ると深夜の2時を回っている。どうやら荒野の一本道で警察の検問に引っかかったらしい。


ブラジルのパトカーは日本の白黒ワンちゃんより色彩豊かで恰好いい いいツラ構えだ!


 何しろ教皇フランシスコと言う第一級のVIPめがけて世界中から大量の外国人が流れ込んでいる。最も恐れられるのはテロ攻撃だ。団体バスの中に不審者が紛れ込んでいないとも限らない。リオを遠巻きに幹線道路では其処ここで徹底した検問を実施している。重装備の体格のいい警官が2階建てのバスに乗り込んできて、パスポートの写真で一人残らず首実検してまわる。やっと乗客全員にOK! が出た。やれやれ、これであと一眠りすれば明日の昼ごろにはリオに着くか、とホッとしたが、そうはどっこい、いつまで待っても動き出す気配がない。

検問所の陣容はかなりなものだ


 外に出てお巡りさんに聞いた。不審者はいなかったのだろう?どうして行かせてくれないのか?曰く、乗客は全員OK! だった。だが運転手の一人は駄目だった。トラックの免許は持っていたが、客を乗せた大型バスを運転できる免許を持っていない。その上薬物反応も出た。この男はここで逮捕だ。運転させるわけにはいかない。そんなご無体な!


彼が逮捕された問題の無免許・薬中の運転手。観念したか、ふて腐れて寝たふりだ。

4000ドル事件も彼の仕組んだことか?こんな男に我々のバスを運転させた会社の責任はどうなる?


 このだだっ広いブラジルの荒野の一本道で、この深夜に運転手を取り上げられて、我々は一体どうすればいい?ブラジル中の動けるバスは全部出払い運転手も総動員体制だ。今頃遊んでいる運転手を見つけるなんて奇跡に等しい。それに夜が明けても9時ごろまではバス会社に事情を伝えることすら出来ない。代わりの運転手が見付かっても、それをここまで連れてくるのに、どれだけ時間がかかる?トイレは?水は?食料は?


 


 やっと交代運転手が着いたのがいつ頃だったかはっきり覚えないが、ヨーロッパがそっくり納まるほど広いブラジルだ。飛行機で1時間かそれ以上の距離を、貧しい我々はひたすらバスで移動する。8時間、10時間のバス移動は当たり前の話。すでに予定より丸1日分ほど遅れている。

 

これらの写真は、二つの事件の間の移動中にサービスエリアのテレビに映っていた教皇フランシスコの映像

 教皇は数日前からリオに入ってWYDの公式行事をこなしていた。 (右はリオの司教座大聖堂の教皇ミサ)  

 

 我々がリオの郊外に近づいたころには、はるかコパカバーナの浜辺の会場では教皇を囲んだ前夜祭がもう終わろうとしていた。我々はと言えば、夜遅く、とある教会にバスが横付けされたのだった。

 

夜遅くたどり着いた教会のポスターの教皇フランシスコに挨拶するメンバーの女の子


 ガランとした広い教会堂の木のベンチやコンクリートの床が今夜の宿だ。WYD世界青年大会のクライマックスは既に始まっているというのに、今夜我々は会場からほど遠いところで冷たいコンクリートの床に寝袋を広げて死んだように寝ている。腹の減ったものは三々五々連れ立って近所のコンビニに餌の調達に行った。


   

 

      何処でも好きなところで心ゆくまでお休み ベンチは狭くて傾いている 床は平らで広いが冷たい       


 明日の10時の教皇ミサに間に合って会場の入るためには朝5時起きかとひとり覚悟をしたが、リーダーの神父は、みんな今日は遅くなって疲れているから、明日の起床は8時だ、という。 ???! ・・・そうか! きのうのうちにリオの宿に泊まり、今日早いうちからコパカバーナの砂浜に陣取りをして、今頃ゆっくり前夜祭に参加することの出来なかったものは、明日の朝少々早起きしたぐらいでは、もう250万人の若者に埋め尽くされた会場に割り込むことはおろか、交通規制で会場に近づくことすら不可能なのだと深く思い知らされた。ははるばる日本からWYDに参加するためにやってきたのに、すぐそばまで来ていながら、その会場の熱気に触れることもなく、すごすごと日本に帰る運命がとっくの昔に確定していたのだった。

 それならば、せめて早いうちに夕べたどり着くはずだったホテルに入って、テレビでWYDの実況を見ようではないか、と提案したが、会場から半径何キロとやらは、テロ対策か何かで、夕方5時まで許可のない車は一切通行禁止なのだそうだ。悪いことに、我々の宿は一部その禁止区域を通らなければ近づけないのだ。これで万策尽きた感じだった。しかたなく、我々はWYDとはおよそ関係のない郊外の大型ショッピングモールで時間をつぶし、食事をし、通行規制が解かれるのをひたすら待つ羽目になった。自棄(やけ)になって買い物をしようにも、虎の子の現金は4000ドルの一部に吸い上げられてすでになかった・・・。

 それでも、このおとなしい70匹の子羊たちは、文句ひとつ言うでもなく、平和に楽しげに、この理不尽な運命のいたずらを甘受し、それに諾々と身を委ねている。


私の隣の席の彼女は疲れて椅子にずり落ちて寝てしまった (なぜロザリオの十字架をくわえているの?)


 お前たちはどうして不満をぶちまけず、泣きごとを言わないのか?と怒りたくなる。

 では、この詰めの甘い計画は大失敗だったのか?

 そうではない!

 なぜそう断言できるのか?

  それはこの次の話にとっておこう。

  (つづく)

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★ WYD-④ 〔映画〕 「ミッション」 の世界

2013-11-29 10:28:21 | ★ WYD 世界青年大会

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WYD-④ 〔映画〕 「ミッション」 の世界

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最初の巡礼地のイグアスの滝を見たとき、私は映画 「ミッション」 の事を思い出したと言った。

次の巡礼地はパラグアイにあるイエズス会の 「ミッション」 の史跡だ。

今回の巡礼に参加した70人余りの若者たちの多くは、

心の準備としてあの 「ミッション」 の映画を見てきたのだが、

そのころ私はまだローマにいてその機会に恵まれなかった。

あの映画と結びつけてものを書くには、古い記憶だけでは不十分と、ウィキペディアのページを開いた。

人間の記憶とはいよいよ曖昧なものだ。私は川に流され滝から落ちていく十字架の事を鮮明に覚えていて、

てっきり映画の最後の部分だと思い込んでいたが、実際は映画の主人公たちが登場する以前に宣教を試み、

失敗して原住民に殺され、十字架に括り付けて川に捨てられた憐れな宣教師の姿だった。

(以下、この色の字は私の言葉。)

 

 

ストーリーを再現するとおよそ次のようになる。

 巨大な滝へとつながるイグアス川の上流で、十字架にかけられた男がインディオたちの手で流れに押し出されていた。南米内陸奥地のインディオたちに神の教えをもたらそうとしたイエズス会の神父ジュリアンだ。彼は、十字架にかけられた無残な亡骸となった。

 

 

 彼のかわりガブリエルが布教にきた。殺気だった雰囲気の中で、彼はオーボエを吹き、その美しい音色にインディオたちの心は柔らいだ。1750年ごろ、スペイン統治下のパラナ川上流域では、キリスト教の布教が、険しい地形とジャングル、そして剽悍で誇り高い先住民グアラニー族の抵抗に阻まれ、多くの宣教師が命を落としていた。こうした中、宣教師として現地に送り込まれたガブリエル神父は、「音楽」を共通の言葉としてグアラニーの民の心をつかんでいく。

 やがて裸のグアラニー族の子供たちが、今日のウイーン少年合唱団顔負けの天使のようなポリフォニーの聖歌を歌い、おとなたちの手作りのバイオリンはヨーロッパに輸出しても通用するほどの精緻なものを生み出していった。

 一方スペインでは、神学者たちがこの裸の動物には人間の霊魂が宿っているか、それとも猿の一種か、と議論していた。


 一方、同じスペイン人植民者でありながらガブリエルとは犬猿の仲であった、軍人で奴隷商人のメンドーサは、許婚の女性をめぐるいさかいから自分の弟を誤って殺してしまい、一時は生ける屍のようになるが、ガブリエルのすすめで改悛、イエズス会に入会し、以後ガブリエルの指揮する布教活動の有能なスタッフの一人となった。

 

 グアラニー族への布教は急速に成果を上げていくが、農場での収益を平等に分配し、逃亡した先住民奴隷を惹きつける布教区は、植民地社会の有力者にとって次第に疎ましい存在となっていった。

 そのような折、スペイン・ポルトガル両国によって南米領土の国境線引きが行われ、イエズス会布教地区はポルトガル領に編入、先住民には布教村からの移動、宣教師たちには退去が命じられた。(当時のこの地域において、ポルトガル領では奴隷が合法で、奴隷狩りも行われていた。)

 (しかしスペイン領ではポルトガル領から奴隷を買うことはできたものの、奴隷収集は非合法であった。)だが宣教師たちはこれに背いて先住民と行動を共にすることを選択。植民地当局の軍隊が迫る中、ガブリエルが村人たちとともにミサを守る一方、メンドーサは宣教師のおきてにあえて背き、一度捨てた剣を再び取り、グアラニーの男たちとともに戦うことを決意する。現代のフランシスコ会のレオナルド・ボフ神父やイエズス会のグチエレス神父らの 「解放の神学」 の原点を見る心地がする。

 宣教師たちは死に絶え、ミッションの住民になっていたグアラニー族も、裸に戻り、文明を棄て、元の森の生活に戻るか、奴隷になってポルトガル人に使役された。そしてミッションは廃墟となった。

 

『ミッション』(The Mission)は、1986年のイギリス映画。1750年代、現在のパラグアイ付近を舞台に、先住民グアラニー族へのキリスト教布教に従事するイエズス会宣教師たちの生き様、彼らの理想と植民地社会の現実や政治権力者の思惑との葛藤を描く。1986年度カンヌ国際映画祭パルム・ドール、アカデミー撮影賞、ゴールデングローブ賞脚本賞受賞。


では、ミッションの廃墟は今どうなっているか。このバスの運転手がご案内しよう。

ン?どこかで見たような・・・

 

いざ国境を越えてパラグアイへ

 

バスが止まると物売りの子供たちが寄ってくる。

裸になれば映画のエキストラが十分勤まるな、と思った


右手がミッションの入り口でございまーす!


中の芝生に入ると、こんなおしゃれな鳥たちがお出迎え


ここには立派なカテドラル風の教会があった。設計はスペイン人のイエズス会神父だが

その指導で石を加工して築きあげたのは全てグアラニー族の裸の原住民たちだった


パラグアイ観光局の案内人も、裸になればそのまま映画に出ることが出来そうだ

 

教会、イエズス会士の修道院、原住民の集合住宅、工場、作業所、etc. 

広大な敷地に数千人のグアラニー族の集合住宅が整然と並んでいた。

こんなミッション(宣教拠点)が何か所も展開し

インターネットこそなかったが、

のろし台の煙を使ってミッション同志が互いに通信し合い、団結して外敵(スペイン人?)に備えていた

 

居住棟の回廊部分

 

 

 

こんな繊細な彫刻も装飾も、彼らの手になった。改宗し洗礼を受けて深い信仰を持つにいたった。

 

一夫一婦制を受け入れ、一家族単位ででこんな空間に住んでいた

綺麗なモザイクの石の床は日本のウサギ小屋よりはるかに立派だった。

すくなくとも同時代の日本の民家と比べれば・・・。

 

 

無数にある石像の頭部。ヨーロッパ人の顔ではない。

右はスペイン人神父の骨だろうか。


見学に疲れると、ここでもギダーとボンギのリズムに合わせて、さあみんな輪になって踊りましょう!

半数は教皇によって派遣されて日本に 「ミッション」 に来た宣教家族の子供たちだ。

 

ブラジル領に戻り、この巡礼で初めで最後?のレストラン食

ブラジル名物キュラスコという焼肉料理だった

 

夜はまたイグアスの滝に近い体育館でごろ寝。

明日大事件が起きるとはつゆ知らず、早朝出発に備えてぐっすりと寝た

夢のなかで、高松の神学校の廃墟の庭にいて私は思った。

キリストは十字架の上で死ななければならなかった。

250年前のパラグアイでも、理想に燃えたイエズス会士の夢は空しく消えた。

この宣教家族の子供たちも、今おなじ歴史の波にもてあそばれている。

しかし、キリストは三日目に復活した!

(つづく)

 

コメント (2)
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★ WYD-③ 世界最大の瀑布 『イグアスの滝』

2013-11-22 16:11:52 | ★ WYD 世界青年大会

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WYD-③ 世界最大の瀑布 『イグアスの滝』

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この巡礼の旅の最初の目的地は、ブラジルとアルゼンチンの国境にあるイグアスの滝だった。

どうしてこの場所が我々の巡礼地の一つに入っているのか

私は旅の日程の企画段階で関わっていないのでよくわからないが、

立案した若い司祭たちにはそれなりの意味付けがあったのだろう。

とにかく単なる観光だけでないことは確かなようだ。

そう言えば、

26-7年前に 「ミッション」 と言う映画を見たことがある。

目の奥に焼きついた幾つかのシーンの中で確か映画の終わりの頃だったと思うが

実際に人間が磔になっていたかどうか定かではないが大きな木の十字架が河を流れ下り

この大瀑布からゆっくりと落ちていくシーンを忘れることが出来ない。

この河はブラジルの500年に亘る宣教の歴史を、その最初の輝かしい成功と

それに続く悲劇的な失敗と、その失敗を乗り越えて辿った南米最大のカトリック国への道と、

現代の世俗化の波に呑み込まれて、毎年300万人以上のカトリック信者が

カトリックを棄てて新興宗教に流れていく現状をすべて見守ってきた。

かつて、キリスト教的ヨーロッパ世界で教会の長女と呼ばれていたフランスが

今や回教国になりつつあるように、ブラジルは急速にカトリック国の名を返上しつつある。

そんな時に初の南米出身の教皇が選ばれたのも偶然ではあるまい。

新教皇フランシスコは教会生き残りの命運をかけて、このブラジルに世界中の若者を招いた。

日本からの我々70人は、その使命に感じてこの滝の前に立っている。

この新大陸に最初にキリスト教が伝えられた時のドラマと

思わず神を賛美したくなるようなこの大自然の驚異との間に深い関わりがあり、

神の創造の神秘を想い人間の歴史を黙想するにふさわしい巡礼の場所であると思った。



南アメリカ大陸が発見され今のブラジルにヨーロッパ人が足を踏み入れたのは西暦1500年だと言われる。

映画 「ミッション」 に描かれたグアラニー族の原住民はまだ裸で生活していたと想像される。

原住民が奴隷として狩られ、動物のように使役されていた時代のことだ。

ヨーロッパの教会では神学者たちが真顔で「彼らはただの動物か、霊魂をもった人間か?」

「洗礼を授けてキリスト教徒に改宗させるに値するか?」

「動物の一種として使役するままが正当か?」

と議論し合っていた時代があった。


7月後半の南半球は冬で、ブラジルの南の方はけっこう寒い。日は短く太陽はすでに西に傾きかけていた。

滝に向かう前の集合写真。皆、滝のしぶきに備えて雨合羽を着ている。

6-7人欠けているが、それは私の周りでデジカメを構えている仲間だ。


この写真はインターネットから勝手に拝借したものではない。飛行機から自分で撮ったものでも、無論ない。

この深い逆U字型の谷は幅4000メートル高さ82メートル275の滝が集まった世界最大の瀑布。

この写真の全面が川で、画面左の端から右の端まで岩と樹木の間に見える白いものは

全て流れが速くなって白く泡立つ河の水なのだ。

滝が密集した一番奥の部分は 「悪魔の喉笛」 と呼ばれ、年中水しぶきで姿を隠している。

左手前20%がブラジル領、残り80%がアルゼンチン側に属する。

画面真ん中下の中段になっているところに川に沿って下から上へ細く蛇行している線が我々の歩いた遊歩道。

道の先端からは悪魔の喉笛の方角が微かに遠望できる。(以下の写真は自分で撮ったもの)

遊歩道に降りて行く道の途中で

虹は横に弧を描くものとばかり思っていたが、ここでは縦に立っていた

  

遊歩道を行くほどに激流は足の下を流れて右のはるか崖下の川に落ちていく

カメラのレンズは吹き上げて来る滝のしぶきでたちまち濡れていく

その水は左側の滝から轟々と落ちて岩に打ちつけている

動画でないと声をかき消す大音響と岩を震わす水の質量感は伝わってこない


滝の裏のような位置にあるエレベーターで上の台地に出ると見慣れない動物に出会った

 

ズーム目いっぱいで撮って引き延ばしたらこんな姿だった

中型犬ほどのこの動物 アライグマでもレッサーパンダでもない 顔が全然違う

1メートル近い長い太い尾が特徴的

日本中の動物園でついぞ見られたことのない動物だと思う

尖って反った鼻 三つの白い点はどれも目ではないみたい 

シャッター二回が精いっぱい アッと言う間に茂みに姿を消した


冬の太陽はつるべ落とし 早くも寒空には満月が昇り始めた

露出をマニュアルで -2 ほど落としていれば

月のうさぎさんが上向いているか下向いているか分かったのだが・・・

夜も更けて バスに揺られて体育館の冷たい床に寝袋を延べて寝る今夜の宿に戻った

 

(つづく)

追伸:罪のないコメントが入ったので応答しました。良かったら開いて読んでみて下さい。

右下の 「コメント」 ↓  をクリックしてください。

 

コメント (5)
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