:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 性的マイノリティーへの差別 「福音と社会」の記事を巡って ③  

2023-03-10 01:11:17 | ★ LGBTQ+

 

性的マイノリティーへの差別

  「福音と社会」の記事を巡って ③  

 LGBT当事者 カトリック信徒

 

 

カトリック新聞の3番目の記事が私の手に届きました。

 今回は匿名の記事で、前の二つの記事よりは目立ってトーンダウンしている印象です。しかし、まだ「偏見に満ちたヘイト記事」とか、「読む人に偏見と恐怖を植え付けようとしている」などの紋切り型の「レッテル貼り」と一方的な「決め付け」は相変わらずです。しかし、問題とされている私の記事はこのブログに全文を開示しているので、それに対する決め付けが当を得ているかどうかは、各々の読者が判断すべきものであって、わたしから別に何か言うこともありません。

 とにかく、カトリック新聞に掲載された今回のシリーズの ③は、全体としてカウンターコメントに値するほどの内容のものではありませんでした。

 LGBTの一部の人は、私の記事を巡って、まるで蜂の巣をつついたような大騒ぎになりましたが、「全文公開」という「びっくり水」でシュンとなり、結局は竜頭蛇尾に終わったということでしょう。

 悪意のあるレッテルを私にべたべたと貼り、人々から私を遠ざけ、私の記事が人に読まれないようにしようと企てた隠ぺい、口封じ、のあらゆる工作は徒労に終わったばかりではなく、かえって一気に何十倍も、ひょっとしてそれ以上の多くの人に読まれるように宣伝広告してくれた逆効果に終わったので、むしろ私の方から感謝しなければならないのかもしれません。 

 そんなわけで、この3番目の記事についてはほかに何も言うことはありませんが、せっかくなので、もう一杯の「びっくり水」を用意しました。

 

ジェンダー問題を切る

ジェンダー問題の4つの当事者

 

 私は、この一文をもって、ジェンダー問題を複雑にし、扱いにくいものにしている隠された意図とメカニズムを明るみに出そうと考えています。以下の手順で始めましょう。

 

セクシュアリティを決める4つの要素

  ① 身体的性:Sex:男、女、Mutant (ミュータント=突然変異:異形)

  ② 性自認:Gender Identity : 自分はこの性であると考えている性

  ③ 性表現:Gender Espression:自分が表現したい性

  ④ 性的指向:Sexual Orientation:恋愛感情、性的衝動、性欲の向かう対象

これらの4つの要素はジェンダーの問題を考えるうえで重要な要素ですが、これは私が今論じたい「ジェンダー問題の4つの当事者」の話ではありません。

 

4つの主要ジェンダー(LGBT)

性的マイノリティにはさまざまな形態が言われています。

L:レスビアン:性自認が女性で、性的指向の対象が女性の人

G:ゲイ:性自認が男性で、性的指向の対象が男性の人

B:バイセクシュアル:性的嗜好が男性と女性の両性に向いている。

T:トランスジェンダー:身体的性と性自認が一致せず、それについて違和感を感じているセクシュアリティ

しかし、これら4つも、今私が論じようとしている「ジェンダー問題の4つの当事者」ではありません。そして、この4つのジェンダーのほかにも、

Q:クェスチョニング(Questioning):性自認や性的志向を決められない、決めていない、迷っている

Q:クィア(Queer): 「風変わりな」「奇妙な」「奇異な」「異様な」と訳される:同性愛者の一面をとらえようとする言葉(実は私には何のことだよくわかっていません)。

I: インターセックス(Intersex):身体的性において男性と女性の両方の性別を有する?自然界、特に下等動物に多くみられる両性具備のこと?人間にもあるのか?

A:アセクシュアル(Asexual):どの性にも恋愛感情や性欲を感じない。

+:は、その他何でもあり。その中には必然的にペドフィリア(小児性虐待)、お稚児、喝食、獣姦・屍姦(ネクロフィリア)などの倒錯した性嗜好までも含まれるものと思われる。

 これらを含めて短く総称として一般的に“LGBT”と言うこともできるようですが、私の言わんとする「4つの当事者」はこの観点に立つものではありません。

 

 性的マイノリティの旗印としての「虹」(レインボー)

 性的マイノリティの運動にしばしばレインボー「虹」が旗印として用いられていますが、欧米の子供たちに「虹」の色は何色と聞くと、たいてい四つ(赤、黄色、緑、青)がせいぜいです。ところが、日本の子供たちに聞けば、ほとんど七色と答える。そして、どんな色と聞くと、せき(赤)とう(橙)おう(黄)りょく(緑)せい(青)らん(藍)し(紫)とすらすらと出てきます。それほど日本語は感覚的語彙が豊富なのです。私の座右の色鉛筆は36本、36色です。LGBTQIA+の性の多様性もそれにも劣らず多種多様なのでしょう。

 しかし、LGBTの旗印を見ると、なぜか6色の虹色です。とにかく、それも私の「ジェンダー問題の4つの当事者」と関係がありません。

 

 では、私の分類する「ジェンダー問題の4つの当事者」とは何でしょうか。

 答えは:

  ① 本来の意味での性的マイノリティとしてのLGBT

  ② LGBTの特異グループとしての活動家

  ③ アライ

  ④ 悪魔(サタン;Satan)

 

 これからこの「4つの当事者」を個別に吟味しましょう。そして、その巧妙、かつ複雑な相関関係についても。

 それらはLGBTを巡って互いに絡み合っているが、実は別々の存在で、相互に利害が一致する面もあり、相反する面もあります。

これからこの「4つの当事者」を個別に吟味しましょう。

① 厳密な意味での性的マイノリティ

 成長していく過程で自分が世間のマジョリティとは違うLGBTであることに目覚め、気付き、孤立し、悩んでいる人たち。彼らはほとんどが心優しく、傷つきやすく、世間からは隠れている、あるいは隠されています。彼らはシャイで、自己主張したり、騒がしく声を上げたりすることはまずありません。彼らは見出され、優しく護られ、同伴され、支援を受け、権利を保障され、差別されることなく平等に扱われ、マジョリティと対等の人権を認めら、活動が保証されるべき人たちです。

 たとえが良いかどうかわかりませんが、盲人を転落から護るために社会資本を投入してホームドアが設置されるように(それは同時に自殺予防の目的もあるが)、成熟した社会は性的マイノリティへの差別を撤廃しその平等の権利を保障するために必要な社会投資を惜しんではならないと思います。

 その意味において、私は他のアライの人たちに引けを取らないほど熱心なLGBTの弁護者であり、擁護者であることをあらためて声を大にして言いたいとおもいます。私がそういうものであることを知りながら、故意に「LGBTQ+の方々に対する無知と偏見、差別や侮辱、憎悪に満ちたヘイト記事」「言葉による暴力」などのワンセットのレッテルで封じ込め、脅し、口封じをしようとする人たちは、虚言者であり、私に対しても社会に対しても大きな不正を行っていると言わざるを得ません。

 そもそも、性的マイノリティと一口に言っても、その内容は必ずしも均一ではありません。

 身体的性と性自認は明白に男または女であっても、性的嗜好が同性に向かう人はホモセクシュアル(Homosexual)と呼ばれますが、LもGもその意味ではホモセクシュアルです。

 元来、日本語は他に類例を見ないほど優れた豊かな言語です。表意文字の漢字の他に、表音文字のひらがなとカタカナがあります。加えて、外来語を表記するために多用されるカタカナは、外来語を短縮して表記する場合が多いです。パソコンはpersonal computer であり、テレビはtelevision setであり、スマホはsmart phoneであり、カタカナで短縮表記しても意味が分かる場合はどんどん短縮します。ホモセクシュアルの人が自分たちの仲間うちではを自嘲と卑下をこめてホモと呼び合っているのに、外部の人からホモと呼ばれると、それは差別だと大声を発するのは、テレビジョンセットがテレビと短縮されると差別されたと言って文句を言うのと同じではないでしょうか。

 被差別部落の場合、関連の差別用語はウエブサイトの「差別用語の一覧リスト」からも消されているほどですから、子供時代に何げなく使っていた言葉も敢えてここで例示しない方が安全というものです。

 いずれにしても、原因は様々でも同性愛的傾向は、健全なクリスチャン家庭の子女の間でも稀に見られ得る極めてデリケートな問題であるわけで、細心の注意をもって対応されケアーされなければならないことは言うまでありません。

② LGBTの活動家

 これは、性的マイノリティの運動の中でも特に積極的発信性の高い活動家たちのことです。その代表格は、身体的性が男性で性自認が女性のT(トランスジェンダー)の女性たち(MtF)で、そのほかにもゲイの中でも特にゲイプライド(実はこの言葉の意味は私にはまだよくわからない)と自称する人たちがこのグループに属すると言えるでしょう。それに対して、L(レスビアン)の人たちや社会的発信性の少ないG(ゲイ)の人たちはここで言う「活動家」とは別の範疇、つまり、上の①厳密な意味での性的マイノリティ」の範疇に留まるのです。

 私への攻撃に中に、「(MtF)T」を差別しているというのがありましたが、私はその人たちを差別なんかしていない。ただ、その人たちを巡って不都合な事象が多発していると、具体例を挙げて述べたにすぎません。私は差別者ではありません。

「活動家」と目される性的マイノリティは、権利意識が高く、多くは要求的、拡張主義的、攻撃的で、良くも悪くもプライドが高い人たちです。

 カタカナのプライドと言うと、日本では「誇り高く尊厳を重んじる」良い意味で使われる場合が多いですが、英語を始め諸外国語では「誇り高く尊厳を重んじる」良い意味と「傲慢・尊大」という悪い、否定的な意味の両方に同じ pride (プライド)という言葉が用いられることは注目に値します。

 LGBTのマイノリティーの人たちとマジョリティの人々との間の摩擦や軋轢や葛藤などの不都合な問題は、もっぱらこの「活動家」グループとの間の問題です。

③ アライ

 LGBT活動の同調者:自らは性的マジョリティに属しながら、LGBTの活動家を支援し、場合によっては自らも運動のイニシャティブをとる人たち。(アライはアライアンスの短縮語:連帯というよりは、同盟の意味が正しいか?)

 アライには大別して二通りあります。一つは、単純で純情で深く物事を考えないで乗せられやすい人。政治家、自治体の公務員、教育者、などに多いタイプです。「マイノリティを差別するのは良くない。彼らは差別に苦しんでいる。彼らを支援しなければ。」とひたむきに考えて、その結果についてはあまり深刻に考えていない彼らの多くは、後ろから煽られると調子に乗って活動をひろげます。しかし、少し覚めた良識のある人は、LGBTの運動の陰に伴う様々な不都合な面に気づき、その行き過ぎに疑問を抱き、立ち止まり、遠ざかっていく人も大勢います。

 もう一つのタイプは、トランスジェンダリズムのある側面が世の中にどれだけの不都合、害毒、悪影響を及ぼすかを知っているひとたちです。だが、同時にトランス運動がどれほどおいしい利権に繋がっているかも知っています。だから、彼らは自分がLGBTの専門家として振る舞えば、多額のコンサルタント料を企業から貰い政府から援助金をもらえるとわかってやっている確信犯です。彼らにとってすべてはお金のためなのです。

④ 悪魔(サタンSatan)

 神を信じない人は天使も悪魔も信じないでしょう。それは当たり前のことです。しかし、実際に悪魔は人間よりも賢い霊的存在として実在します。このサタン(悪魔)=マンモン(お金)の働きを考察の重要な要素として取り入れなければ、現実のLGBTの奥深い複雑な闇の問題の解明は不可能になります。

 しかし、ほとんどの人は悪魔の存在など考えたこともありません。それもそのはず、悪魔は姿を隠す天才だからです。悪魔は人間の前にその気配を消すことに成功すれば、すでに目的の8-9割を達成したも同然です。気付かれずにやりたい放題ができるからです。だからふつうは隠密に働き、通常は決してその姿を現しません。稀に図に乗って油断してその姿や名前を表わしますが、それは状況が有利に展開していると過信し勝ち誇ったときに限られます。私が偶然拾った下の写真などは稀な例の一つです。

 では、なぜ悪魔は存在するのでしょう。神は悪魔を創造しなかったはずなのに。神は最高の被造物として天使を創造しました。その天使の中で最高の輝きを放ったルチフェル(光を運ぶ者)は、頂いた神の能力、つまり理性と自由意思を濫用して神よりも偉いものになろうという傲慢(プライド)の罪を犯して地獄に落ち、そこの主となりました。彼は神に愛された人間に対して妬みを抱き、人間を神から離反させ、人間を地獄の仲間に引き入れようと、日夜眠らず画策しています。

 LGBT劇場の主な配役のプロフィルはこれぐらいで十分でしょう。

 残る問題は、これら4つの当時者たちの役割と相関関係ですが、一回のブログでは語りきれないので、ここで一休みして、続きは一回で終わればよし、さもなければ、さらに続けることにいたしましょう。

 請うご期待!

 

コメント (9)
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★ 東京マラソン2023-03-05 メダリスト我が家に投宿

2023-03-07 00:00:01 | ★ LGBTQ+

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東京マラソン2023-03-05

メダリスト我が家に投宿

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 1週間ほど前から、エクアドル出身のカルロス君(50歳)が我が家に泊まっていました。

 ただで泊まれるところを探していたようです。

冷蔵庫開放の B&B が条件で、1泊0円。お互いに気を使わない楽しい仲間になりました。東京見物と体慣らしのジョギングで彼は昼間ほとんど家にはいません。

 4日、本番の前日は、エビをたっぷり入れたチャーハンのようなエクアドル料理も作ってくれました。おいしかったー!

 さて、昨日は、朝から本番のマラソンを走って、夕方、いささか疲れて帰ってきました。3万5000人が走って、彼も無事完走。4時間半かかったそうです。予報に反して雨が降らなくてよかった。

 

記念にメダルをもらってきた。れっきとしたメダリストだ!

 

記念の頭陀袋のような着物も土産にもって帰る。

 

記念にエクアドルの国旗に私への感謝の言葉を書いてサインして贈ってくれました。

 

 

 

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★ 神父様、これをお読みになって下さい。

2023-03-06 00:00:01 | ★ LGBTQ+

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神父様、これをお読みになって下さい。

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私の iPhone に以下のようなショートメールが届きました。

* * *

 神父様、これをお読みになって下さい。

 このような情報は、けっして Twitter 以外のメディアには出てこないのです。

 これを知っているのといないのでは、見える世界が違います。

 昨夜、Twitter のスペース(リアルタイムでの生の声での討論会です)で、都民ファーストの会の橋本久美氏とMTF当事者のトランス女性、性別違和のあるレズビアンの女性の会話を聴きました。

 LGBTQ 界隈は、発達障害、精神疾患を抱える人達が実はものすごく多い。未熟な男がそこに向き合わず、逃げ道としてトランスしたがっている例など、興味深い話が沢山ありました。

 活動家達のあの有無を言わさない態度、何でも差別と決め付け攻撃する姿勢、まさにそういう事ではないでしょうか?

 彼らは恐れているのでしょう。自分の問題と向き合う事を。男のプライドと言いますが、彼らの頑なさは正に男のプライドの歪んだ形とも言えないでしょうか。

 だから、女性が抵抗するのが許せない。ターフを殺せ、ターフをしばけ、と彼らが異常な熱意で女性の口を塞ごうとする原因な気がするのです。

 女性達はトランスを殺せなどとは全く言っていません。ただ、女性スペースを守りたいと主張しているだけです。

 最近、ビートきよしや楽しんごが、女だと主張すれば男が女風呂に入れるなんておかしいと発言し、また世間の人達が知る事となりました。

 前杉並区議会議員の田中ゆうたろう氏も、活発に活動しておられます。

 昨夜もクリスチャン(たしかプロテスタント)でゲイの男が、LGBTQ に異論を唱えるのは宗教右派だと相変わらずの思考停止な発言をして、オウム真理教事件で有名滝本弁護士にたしなめられていました。

 だんだん風向きが変わっています。

 カトリックでこの現実をわかっているのは、谷口神父様だけです。どうかこれからもよろしくお願いします。わたしもできる事をいたします。

iPhoneから送信

* * *

 実は、この上のコメントの末尾にはある URL がついていたのですが、開いてみたらとても長いもので、そのすべてを自分で裏をとって追認できそうになかったので、この引用からはあえてカットしました。しかし、その内容は極めて明快に問題の本質を突いている印象でした。とにかく、その URL まで踏み込まなくても、上の導入のショートメールの部分だけでもメッセージ性は十分です。

 ですから私はこれをブログに敢えて公開しました。これを今公開するのは、一つには「つなぎ」の意味もあります。

 実は、私は今、もう一杯の「びっくり水」を準備中ですが、あと2、3日時間を要します。その間にも私を攻撃する次のカトリック新聞が出る予定です。それは友人から明後日の晩までにその切り抜きとして届くでしょう。もしかしたら、そちらに先に対応しなければならないかもしれません。それでこの「つなぎ」をアップしておく次第です。

 LGBT の特定の側面に関して、各方面から異論を唱える声が上がり始めています。私もその一人ですが、私たちは安直に「LGBTQ+ に対する無知と偏見、差別や侮辱、憎悪に満ちたヘイト記事」「言葉による暴力」「原理主義者」などという常套句の罵詈雑言を浴びせられてビビったり、口を封じられたりするほどヤワではありません。

 権威あるべき「協議会」や「新聞」がそういう言辞をほしいままにするようでは、自らの権威と品位を自分で貶めていると言われても反論できないのではないでしょうか。

 

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★ 日本の教会の基本方針と優先課題

2023-03-03 00:00:01 | ★ LGBTQ+

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日本の教会の基本方針と優先課題

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 昨日、表記のタイトルでペンネーム「新米信徒」さんから、以下のようなコメントが私のブログに寄せられました。ここに再録します。

2023/03/01 22:54:23

「日本の教会の基本方針と優先課題」
谷口神父様 

 JP 通信の流れを見て、1981 年から1985 年の間は、第二バチカン公会議を経た日本のカトリック教会にとってとくに大切なときであったように感じます。

 カトリック中央協議会の site に、「日本の教会の基本方針と優先課題」があることを知りました。司教団・司教協議会 諸文書 日本司教団関連文書、で、日付は、1984/06/22 です。前文は 8 つの項目からなります。この項目の 2 に関わることですが、この基本方針にある「社会の福音化」と谷口神父様の記事は全く相反しているのでしょうか? それから、無知な者の感想ですが、上記の文書にある「福音」は、何を指しているのでしょうか?

 さっそく、カトリック中央協議会のsite に入って1984年の「日本の教会の基本方針と優先課題」の一文に難なく辿り着きました。

 新米信徒さんの私への最初のご質問は、「前文は 8 つの項目からなります。この項目の 2 に関わることですが、この基本方針にある「社会の福音化」と谷口神父様の記事は全く相反しているのでしょうか?」ですが、まず、「日本の教会の基本方針と優先課題」の大まかな構成を見ますと、それは8項目の「前文」と2項目の「基本方針」から成っています。

 さて、問題の「前文」の項目の2は、その前の項目1にある「『全世界に行き、全ての者に福音を宣べ伝えなさい』(マルコ16・15)これこそ主イエスが教会すなわち、神の民全員に与えた使命である。」を受けて、「この使命を積極的に果たすためには、神の民全員が福音の力によって刷新され、また、その同じ福音の力によって日本の社会のすべての営みを、内部から新たにしていくことが必要である。これこそ、われわれが目指す日本における福音宣教である。」と述べています。

 つまり、新米信徒さんの第1番目の質問は「福音の力によって日本の社会のすべての営みを、内部から新たにしていくことこそ、日本における福音宣教である。」というのと、谷口神父の記事は全く相反しているのでしょうか、と言い換えることができます。

 このご質問は多くのニュアンスを含んでおり、一言で、相反している、ともいないとも断定しかねます。正しい答えを出すためには、まず問題の司教協議会の文書の時代的背景を見なければなりません。

 それにしても、「基本方針と優先課題」はずいぶんと偉そうな大ぶろしきを広げたものだと感心します。項目1のマルコの福音の個所をそんな風に解釈するのですかね。「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1・15)という呼びかけは、社会改革の呼びかけなんでしょうかね?

 同文書が書かれた1984年と言えば、大2バチカン公会議から20年、私が上智大学文学部中世哲学科博士課程の象牙の塔から足を洗って、国際金融業に鞍替えし、昼間は金の亡者たちに仕え、夜はカトリック正義と平和協議会の国内委員長として活動していた二足の草鞋(わらじ)の一方を脱いで、ただひたすらお「金の神様」(マンモン)の奴隷として、世界のひと握りの超金持ちをさらに富ませ、世界の貧しい人々を貧困と飢餓と内戦の地獄に放置する資本主義のカラクリに奉仕しながら、ちゃっかり高級を食む快適な生活に溺れていた時代で、その間に起こった日本の教会の変質には全く気付いていませんでした。

 その後、2足目の草鞋も脱いで、回心して裸足の浮浪者として父の家「教会」に帰り、高松の深堀司教様に拾われてローマに送られ、神父になってしばらくは高松で小教区の主任司祭や司教館で教区会計の仕事をしたり、教区立神学校の建設資金調達に走ったり、神学校が日本では閉鎖に追い込まれ、ローマに亡命して元大分の平山司教様がローマに避難した「日本のための神学院」の院長になられると、老司教様の通訳、兼運転手、兼雑用係でお側にいる間、日本の教会の変質について、司教様の口からしっかりと内情を聞かせていただきました。

 

ヌメリ派の司教たち 在りし日の深堀司教(左)と、まだお元気だった平山司教(右)

 

 深堀司教様はすでに天国に旅立たれ、平山司教様も97歳(?)で、この復活祭まで大丈夫かとあやぶまれる状態だが、お二人から聞いた話を要約すれば、おのずと新米信徒さんの1番目の質問にお答えすることになるだろうと思います。

 第2バチカン公会議が開かれた当時すでに司教であった深堀、平山両司教様と同世代の司教たちは、みなそれなりに公会議から刺激を受け、日本のカトリック教会をどうにかしようと真面目に考えただろうと思います。

 今の常設司教委員会の名称と役割分担は分からないが、深堀、平山両司教様の時代には主な司教委員会には「宣教司牧委員会」と「社会問題委員会」があったらしいです。前者は現有信者の信仰を深め、子供の世代に信仰を受け渡し、未信者(私はこの言葉が好きではないが)と求道者を洗礼まで導き、信徒の数を増やし、ひたすら教勢拡大に努める委員会であり、後者は84年の「基本方針」の2にあるように、信者は増えても減っても別に構わないが、弱者の側に立ち、抑圧、差別に反対し、「社会と文化を変革する『福音』」の担い手となる委員会でした。

 前者はやや軽蔑をこめて「ヌメリ派」と呼ばれ、「社会派」の司教たちからはあまり尊重されていなかったようです。この「ヌメリ派」の名称は、ラテン語で「数」を意味する「ヌメルス/ヌメリ」という単語から来ていて、いっぱい洗礼を授けて、信者の数を増やすことに情熱を傾ける古いやぼったい司教と目され、弱者を助け差別と闘い社会の変革の旗手となる恰好のいい社会派の司教たちはすでに優勢だったようです。

 実際問題として、高度成長期の日本社会では人々の目は物質的価値の方に向いていて、見えない神を説き魂の救済を告げる「福音宣教」の成果は一向に上がりませんでした。それに反して、社会問題に目を向け、正義と平和を高らかにうたう社会派司教たちは、諸宗教と宗派を超えて連携し時流に乗っていきました。

 平山司教様が「ヌメリ派」の代表格だった頃には、日本のカトリック教会の16人の司教のうち約3分の1、5~6人の司教たちがどちらかと言えばヌメリ派を支持し、多数派の20人ぐらいが社会派だったようです。

 だから、高松の深堀司教が新しい「国際宣教神学院」を設立したころには、その5~6人の司教様たちは神学院を支持し協力的でした。しかし、その後、古手のヌメリ派の司教たちが75歳の定年を迎え相次いて退職した後に誕生した若い司教たちにとっては、第二バチカン公会議はすでに過去の出来事で、しかも現役の先輩司教はみな社会派だったのでその流れにのみこまれていきました。

 それでも私がまだ二足の草鞋を履いて、名古屋の相馬司教のもとでカトリック正義と平和協議会で活躍していた頃は、第二バチカン公会議の精神はまだ機能していました。その後いつ「正平協」の変質、変節が起きたのかはっきりわからないが、第1回福音宣教推進全国会議(NICE-1;1986年)かNICE-2(1993年)のあとあたりではなかったでしょうか。平山司教様は私に、ある時、司教協議会の中のヌメリ派の「宣教司牧委員会」が消滅し、社会派が占める「社会問題委員会」だけが生き延びた、と言われました。不思議と、新米信徒さんが引き合いに出した1984年の「日本の教会の基本方針と優先課題」の基本方針1,の「教会の一人ひとりが、宣教者として、より多くの人を洗礼に導き救いのみ業の協力者となる。」という言葉と符合します。

 つまり、より多くの人を洗礼に導くのは、一人ひとりの信者の(当然の)仕事であり、司教委員会レベルで取り扱うほどの重大事ではない、と言っているようにも聞こえます。

 こうして、司教レベルで取り上げるべき重要課題は、もっぱら社会問題であり、信仰の土着化(インカルチュレーションのイデオロギー)であり、諸宗教対話であり、1984年の「基本方針-2」の「反差別、反抑圧、全ての人を大切にする社会と文化に変革する福音の担い手になる」こととつながっています。

 それで、新米信徒さんの1番目の質問の「『日本の教会の基本方針と優先課題』(1984)の『基本方針』にある『社会の福音化』と谷口神父様の記事は全く相反しているのでしょうか?」に対しては「宣教と司牧」を放棄した形での「社会の福音化」とは相反する面もあるが、本来の意味での「マイノリティーの人々に寄り添い、差別に反対し、平等な社会的地位を確保するという点では、「社会の福音化」に全く反しないのだが、その反面、今の正平協が相いれないものとして私を叩いてくるところを見ると、正平協の方が変質し変節していることを自ら告白しているのだと思います。お判りいただけたでしょうか。何とも折れ曲がったややこしいお返事になってしまいましたが・・・。

 ところで、新米信徒さんの2つ目の質問、「上記の文書にある「福音」何を指しているのでしょうか?」については、私は正直なところ「全く分かりません」と答えるほかはありません。

 「上記の文書にある」という限定を取り除いて、ストレートに「福音」とは何かと問われれば、その答えは新米信徒さんもすでに持っておられる通り、「福音とはイエスの、そして教会の告げるケリグマ(良い報せ、喜ばしい救いの言葉)と答えます。それが教会の答えです。

 生きた信仰をもった人の口から「福音」(ケリグマ)が告知されると、その福音が人の心に届いたとき、神の聖霊が働き、その人の心に信仰に火が灯り、人は洗礼まで導かれて教会の一員になります。その結果教会の信者の数は増え、教勢は盛んになります。

 キリスト教社会派のイデオロギーによって狭められ歪(ひずみ)を与えられた「福音」が具体的に何を指すかは、そのイデオロギーの信奉者に聞いてみないとわかりませんが、その「福音」が人の心に信仰の火をともすことになるかどうか、私にはわかりません。

 「福音宣教」を放棄し、あるいは二の次にして、社会問題にのめり込んでいく教会は、キリスト教の名に値しないと思います。『全世界に行き、全ての者に福音を宣べ伝えなさい』 (マルコ16・15)は、第一義的には「福音宣教」への促しであって、それは人の魂を神に気づかせ神へ方向付けることです。地上的、社会的問題に埋没することではありません。

 それは、「あなた方は地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなた方は世の光である。ともし火をともして桝の下に置く者はいない。」(マタイ5・13-15)とあるように、味を失った塩、覆われたともし火として無益なものとなり、捨てられるものとなることです。ケリグマとしての「福音」を時なるも時ならざるも叫び続け、人々を神の国に招く第一の責務を放棄して、無神論者、自然宗教者と手を携えて社会の福祉と正義のために没頭する教会はキリスト教の教会ではない。

 ブログのコメント欄にはたくさんの貴重なコメントが寄せられていて、きわめて示唆に富んでいます。新米信徒さんも常連です。ブログのコメント欄では、ほとんどリアルタイムで意見の交換が可能です。それに読む人の数は圧倒的に多いです。どうか覗いてみてください。

 極めて限られた発行部数の、しかも「福音と社会」のように隔月発行では、その投書欄で議論を戦わせようにも間延びがしてお話になりません。カトリック新聞のように週刊新聞でさえも、意見の広場としてはスピード感が今一つです。その意味で、ブログのコメント欄は読みに来る人の数においてもスピードにおいても、申し分ありません。その意味で、私のブログのコメント欄を、話し合いの広場として開放したいと思います。どうぞ自由にご利用ください。

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★ 性的マイノリティーへの差別 「福音と社会」の記事を巡って ②

2023-03-02 00:00:01 | ★ LGBTQ+

性的マイノリティーへの差別

「福音と社会」の記事を巡って ②

東京カリタスの家理事

小宇佐敬二神父 (東京教区)

 

 

 カトリック新聞3月5日号に載った上の記事の冒頭には、また私の記事に対して「LGBTQ+の方々に対する無知と偏見、差別や侮辱、憎悪に満ちたヘイト記事」「言葉による暴力」と言う名誉な評価をいただきました。

 それがいかに検討外れの悪意に満ちた誹謗中傷であるかは、私のブログ「【続】ウサギの日記」で「福音と社会」に公開された私の「書評」(上)、(中)、(下)の全文をお読みになった方々はすでによくご存じです。

 このような悪意の策動は、私の書いたものが良識ある善意の人々に読まれて共感と支持を得るのを恐れて、何とかそれを人目に触れぬまま闇に葬りたくて、焦って書き募ったものにすぎません。しかし、その意図は皮肉にもかえって人々の目を私の書いた「書評」にひきつけ、日本中に拡散させる結果を生んでいることに気づいておられないのでしょうか。

 すでにどこかに書きましたが、私のブログはグーグル社の無料編集プログラムを使って書かれています。今日現在、同じプログラムでブログを書いている人は全国に 3,149,657 人おられます。

 私の「書評」記事に対して猛烈な攻撃が「正平協」などからなされたのを受けて、対抗上「書評」の全文をブログ上に公開したとたん、私のブログのランキングは314万件中818位に躍り出ました。トップにはタレントや有名人のブログが多数ひしめいていると思われる中で、無名のカトリック司祭のブログとしては異例の健闘と言えないでしょうか。

 私を叩いている「日本カトリック正義と平和協議会」も「カトリック新聞」もその事務所を東京都江東区潮見2-2-10の日本カトリック会館に置いています。この会館の主は「日本カトリック司教協議会」です。今起こっていることは、その建物の住民が今回の「福音と社会」に載った「LGBTに関する『書評』は注目に値する必読の記事だよ」というお墨付きを与えて宣伝してくださっているのと同じ結果を生んでいます。当初の意図に反して、このブログの人気を支え、さらに拡散し宣伝することに貢献しているのが、潮見発の私への「誹謗中傷」のキャンペーンなのです。

 しかも、そのキャンペーンのおかげで私の記事を読む人が増えれば増えるほど、あの人たちの発する私への「誹謗中傷」がいかに酷い不当な嘘であるかが浮き彫りになっていくのです。

 私は四国の教会で主任司祭をしていた時、土地の言葉の「びっくり水」と言う表現を覚えました。それは讃岐うどんを茹でるために煮たぎっている釜にコップ一杯の水を差すと、瞬時にして釜の湯がシュンと静かになる状態を指しています。同じように、けたたましいバッシングのさ中に、問題記事の全文をブログに掲載して不特定多数の読者が自由に読める状態にしたとたんに、インターネットの各サイトで賑やかだった私に対する誹謗中傷が一瞬ピタリと鳴りを潜めたそうです。「そうです」というのは、私にはいろいろなサイトを読み漁る暇はないのですが、好意ある読者がまめにモニタリングして教えてくれたからわかったことです。

 皆さん、まだ読んでいない方は、私のブログ「【続】ウサギの日記」で検索して

    2月16日 「岸田総理、あなたは大丈夫ですか?」

    2月21日 「【声明文】カトリック正義と平和協議会とLGBT」

    2月22日 【書評】「LGBTとキリスト教」(上)(中)(下) オリジナル全文

    2月25日 「カトリック正義と平和協議会と私」

    2月27日 「【続】カトリック正義と平和協議会と私」

    2月27日 「性的マイノリティーへの差別」

 をお読みください。ツイッターでもフェイスブックでも拡散中です。皆さんも「いいね」を押し、「リツイート」して大いに拡散してください。そうすれば、自分で枝葉末節の攻撃にいちいち反論しなくても、直接読んだ良識ある読者が、上に引用した誹謗中傷こそ問題であことが明らかになるでしょう。

 そもそも、隔月刊誌「福音と社会」の定期購読者数は何人ぐらいいるでしょうか。カトリック社会では類例を見ない質の高いオピニオン誌ですが、その内容の質の高さゆえに読者層を狭めている恐れがあります。だから、多く見積もってもせいぜい2000-3000部ではないかと想像するのですが、編集者に問い合わせても今のところ回答はありません。

 ではカトリック新聞はどうでしょうか。潮見のカトリック中央協議会の発表によれば、カトリック信徒総数はいま43万5千人だということです。昨今、カトリック人口のうち毎週日曜日にミサに行って信仰を守っている信者の数は世界的に見て10人に1人から5人に一人と言われていますから、まあ、多く見積もって日本では10万人ほどの信者が能動的に信仰に生きていると言ってもいいかもしれません。では、そのうちカトリック新聞を定期購読している信徒はどれぐらいでしょうか。厳しい見方をする人からは、発行部数2万部、定期購読者1万人がいいところではないかといわれています。もしこの推測が実体からかけ離れていたら、ぜひ次の号でご指摘いただきたいと思います。

 しかし、もし正しければ、「福音と社会」も「カトリック新聞」も日本の一般社会では弱小泡沫出版物に過ぎないと言えるでしょう。その中でいくら喧々諤々LGBT論に火花を散らしても、所詮それはコップの中の嵐に過ぎません。しかし、それがインターネットの大海原の問題となった場合は事情が違ってきます。いやしくも「世界のカトリック」の一翼を担う日本のカトリック教会の広報機関誌である「カトリック新聞」(その責任者は広報担当の司教様)が、一人の司祭が教会の正統な教えに沿って真面目に書いた「書評」を指して、「無知と偏見、差別や侮辱。憎悪に満ちたヘイト記事」「言葉による暴力」呼ばわりして、根拠も指摘できないまま「原理主義者的」と一方的に決めつける露骨なヘイト記事を平気で掲載するというのは、教会とカトリック新聞の品位を貶める由々しき事態ではないでしょうか。

 もし「原理主義的」という言葉で私の書いたものを決めつけるのであれば、それが教会の教えに基づくオーソドックスな主張であることを指しているというのであれば、それを私は勲章として謹んでいただきましょう。しかし、「イスラム原理主義」や「神は6日間(144時間)で今のような世界を創造したなどと言って138億年の創造的進化を否定する「原理主義的キリスト者一派」と同様に扱うのであれば、それこそ不当なヘイト発言ではないでしょうか。正確な定義の確定していない差別用語で、一人の人格にレッテルを貼って貶めようとする文章を、無神経にも平気で掲載する新聞は、カトリックの名に恥じると良識ある読者に判断されても仕方がないでしょう。 

 私がそのような「原理主義者」とは正反対の意識の持ち主であること、私が性的マイノリティーの人々を差別するものではなく、かえって彼らを愛し、弁護し、支援し、手厚く擁護するものであることは、私のブログに公開されている「書評」の全文を公平に読んだ多くの人たちが共感とともに証言してくれるでしょう。

 最後に、小宇佐神父様の神学と聖書理解は、大変失礼ながら―たとえて言えば遠藤周作レベルの―亜流神学の臭いがいたします。ローマのグレゴリアーナ大学の口頭試験をお受けになったら、果たしていいお点を頂けるかどうか、老婆心ながらいささか心配いたしております。

 

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