:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★「痛み」 ヘルマンホイヴェルス随筆より

2024-02-21 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 「人生の秋に」

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痛み

ホイヴェルス著 「人生の秋に」より

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 痛みというものに、私が初めてぶつかったのは3歳の頃のことでした。春の朝、私は東向きの庭の入り口に腰をかけ、温かい陽の光を浴び、庭の中を眺めていました。その時、まだ学校に行っていなかった兄は、垣根の中の黄蜂の巣を発見しました。彼は長い棹を堂々と運んできて、その巣を攻撃しました。一生懸命それを突っつきましたので、黄蜂は驚き、怒って飛びまわり、一匹はいきなりまっすぐ私の方に飛んで来て頬を刺しました。そのとき考えたことは、――この明るい世の中で、どうしてこんな嫌なことがあるのか、しかもいたずらした兄でなく、どうして私の方へ飛んできたのか?

 いま、私は七十の坂を越えましたが、このような事件は人類において、なおかつ疑問であることを学びました。人はみんな全部が、いずれ痛みという、いやなものに衝突する。詩人の悩みは、世の中で最も美しく栄えているものがどうして滅びるのか?哲学者はつねに存在のどん底を探りながら、痛みは神においてさえある不幸だという。あるいは、神を問題にせず、彼は人間の思想と勇気をもって解決しようと思うのです。たとえば、痛みは生物の保護となり、痛みがないなら、動物も人間も不注意からすみやかに滅亡する。また、苦しみのためにこそ人は強きものとなる。とくに、教育の力で鍛錬をほどこさないならば、たいした人格にならない。いろいろ苦労をした人物は顔まで上品さを示す、といったふうにです。

 また東洋の思想では、とくにものの調和を考え、世界の全体において、もののいいつり合いのために、やむをえないこととして、痛みは必要のものだと説きます。こうしてあきらめの心をつくる。西洋では反対に、たびたび、人の心の中に反感が生まれてくるのです。いつもは神を忘れてしまっている人でも、不幸なときには突然、神を思いだして不平を言います。ちょうど私が、あの黄蜂はなぜ、兄ではなく自分に向かってきたのかと言うように、どうして自分のようなおとなしいものに、このような不幸がおこったのか? と。

 でも、どんなに痛みについて論じましても、二つの塊は残っている。まず、「苦しみ」の数は多過ぎる。とくに罪なき人たちや、無邪気な子供たちが。どうしてこの渦巻きの中に引き入れられるのか?すでに旧約聖書の擬人たちが、この世の中の不公平を見て、よく悩んで神に不平を言いました。現在のフランスにおいて、カミュは無邪気な子供の苦しみに対して失望し、自分もまた自動車に乗って、超スピードで、大木に衝突して死んでしまいました。全ヨーロッパの人たちは、あんなに激しい哲学を述べた人が、そのような事故で死んだことを不思議に思いました。あるいはドイツのシュナイデルという思想家は、晩年、オーストリアのウイーンに行き、そこの戦争博物館に陳列されていたおびただしい武器を見物して激しいショックを受け、どういう気持ちになったのかわからぬまま死んでしまった。

 つぎに最も決定的な塊は、「死」です。死というものは鋭い切っ先です。あの子供の時の象徴的な黄蜂のように刺すのです。人は死によって、すべてのものを奪われる。短いその生涯の楽しみも苦しみも。昔から思想家は死の問題について無理に骨を折りましたが、結論は、単なる哲学で死の意味はわかりません。しかし、人には負けたくない心がありますから、こうした哲学者は哲学上の慰めということばを発明しました。

 その意味は〝慰めのない慰め〟であり、ついには沈黙してしまいます。そこで〝反感のあきらめ〟が生まれ、ここに現代では実存主義者が出てきました。また死との戦いにおいて、ハイデッガーは、人生は死に向かって落ち込む。ゆえに人生は、ほほえみをもって勇ましく死につきなさいとすすめています。けれども死の本当の問題は、単なる死ではない、なぜなら動物も死にます。人間はどのような気持ちで、どんな動機で死ぬのかということが問題です。死んでからどうなるか?もし何もないなら、人生は非常に簡単になります。不愉快になったならば安楽死を考えなさい。何の責任もない。したがって生きているときにも、そこに真の責任はないはずです。死後の問題にだけ真の責任が生まれます。普通の常識的な諺では、「死という病気に薬草はない」と言い、医者もその最後のつとめは、死の証明をするにすぎない。

 では、この痛みはどこからか。確かに創造主の神からでないなら、その起源を知ることができません。肉体の中には大変なこみいった痛みの設備があります。人間の体には、どんなに違ったタイプの痛みがあるでしょうか。心の中にも痛みの設備が立派にできています。神は人間を苦しめるために、そんな名作をおそなえになったのでしょうか。

 信仰の方で、この難問の説明はでてきますが、まっすぐに申しますと、神学上でこの痛みの問題の全部は、その学問をもって明らかにすることはできません。旧約聖書はもちろん、この点で足りない。新約においてキリストは、痛み苦しみなどについて、たくさんの理論をお述べにはなりません。むしろ率直に苦しんでいる存在を土台にして、それを忍ぶことを、自ら手本として見せて、おすすめになりました。

 すなわち、キリストは現実にご自分の苦しみと十字架、その復活とをもって、神のご計画なさった苦しみを弁明なさいました。この点において深い神の愛は、苦しみにさいして最も強くはたらきます。しかし世の中で、人が苦しみの玄義を学び取ることはなかなか困難な仕事です。ですから、多くの人は神との通信なしに苦しみの重荷を運んでいます。ニーチェさえも、「もし神を認めないなら、世界宇宙や世の中の出来事に意味が見いだせず、また、君が出会う苦しみには愛がない」と言っています。

 私たちは神の創られた織物の裏ばかりを見て、永遠の世界が、どんなにすぐれたよいものであるかがわからないでいるのです。この智恵は、キリスト教の国においては民間に生きています。

 たとえば、人に突然の不幸が起こると、「神の御手にふれられた」

 また、「神は傷をつけると薬もすぐつけ加える」

 あるいは「毛を刈りとられた羊には、神は暖かい風を吹かせる」などと。

 また、終わりにおもしろい諺をあげておきましょう。

 神はご自分の手の中のトランプをのぞかせない」

 どんなに哲学、神学がその知恵を尽くしても、世の中のすべてのくるしみの有様はきれいに解決することは出来ません。しかし覚えておくべきことは、「神の愛について失望するな」ということです。それは一番おそろしい誘惑です。神は、悪意をもって人を打つということは、絶対にないのです。

 

 

 この短い随筆を読むと、ホイヴェルス師が当時流行っていた実存主義の哲学に対して、深い興味と洞察をもっておられたことがよくわかります。

 フランスのカミュ、ドイツのハイデッガー、ニーチェなどの名前があがっていますが、その他にもサルトルやベルグソンなども深くよみこまれていました。そして、世に名を成した哲学者の到達した深みや限界を冷静に見極め、ご自分の信仰と詩的直観でバランスよく批判しておられる点では、それらの哲学者より一段高い境地に遊んでおられたのが分かります。

 神を知らない哲学者が真面目に最後まで存在の謎を掘り下げていくならば、自殺しかないが、神を知るものが哲学をすれば、こんなに楽しい知的遊戯はないと述べておられました。そして、私には大学の哲学の教授になる道ではなく、「哲学する悦び」の秘伝を伝えようとされたのではないかと今にして思います。

 痛みの意味を直観するためには、イエス・キリストの十字架上の極限苦しみと、その彼方にこそ輝く復活の栄光を黙想しなければならないことを教えておられます。

 神のままでは死ぬことが出来ない「私はある」という名の創造主が、受肉して人となり、ご自分の肉における極限の痛みと死を通して、人類に、私に、そしてあなたに対する無限の愛を示されたのです。痛みの神秘と苦しみの奥義を啓き示されたというべきでしょう。神の被造物に対する愛の極限の現れとして。

 

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