:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 病める「福音と社会」

2023-04-25 23:35:45 | ★ LGBTQ+

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病める「福音と社会」

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 記録によると、2023年2月18日に以下のような投稿が「福音と司会」の編集者の山内継祐氏にメールで送られていた。彼はその受理を確認している。

* * * * *

福音と社会

「LGBTQについて思う事」

 谷口神父の記事を膝を打ちながら読んだ。今までこのような、LGBTQ運動に対する真実を、真っ向から切り込む意見をキリスト教関係者が述べるのを見た事がなかったからだ。

 私は個人的に興味があり、以前よりNHK等で時々放送しているLGBTQについての番組を観ていた。基本的に番組ではLGBTQの当事者達について好意的かつマジョリティである視聴者達に彼らの生きづらさや、理解を求めるものがほとんどである。その中でローズと名乗るトランスジェンダーの当事者が、結婚して20年以上も経ってから女装に目覚め、戸惑う妻を尻目に、金髪に真っ赤な口紅を塗り、ミニスカートで出歩く姿があった。そして自分の女物の下着を妻に洗わせ、身の回りの世話をさせている姿に非常に違和感を覚えた。また別の番組では、自分を男だと思う高校生の少女が、性別移行の処置を受け、詰襟の制服を身につけて一旦は望む通りな自分になったはずだった。その後やはり違ったと元に戻ろうとするも、一旦ホルモン治療を受けた身体はバランスを崩し、鬱病にもなり正常な社会生活は送れない姿を写していた。

 さらにここ最近流行りのSDGSの波に乗り脚光を浴びるLGBTQ運動について、一部の女性達が抵抗しているのをネット上で頻繁に見かけるようになった。彼らの主張はLGBTQの中でも主にT、トランスジェンダーについてである。なぜならトランス女性は女性ですという事で、女性自認の身体男性を、女性スペースにいれるべきという論調が高まってきたからだ。始めは私もはるな愛や、佐藤かよのような一般女性よりも可愛いらしいトランス女性をイメージしていたので、その問題性に気づけなかった。だが、海外からの情報も含めネット上に散見されるのは女性スペースに侵入する事に異常な執着を見せる、悍(おぞ)ましいモンスターのような男達の姿であった。その中にはトランスを名乗るオートガイネフィリア(自己女性化偏愛性倒錯症)の変態達も多く含まれ、目を覆うばかりの悍しい事実が広がっていたのである。

 書きたくもないが、彼らは女性トイレに侵入し、隣の個室から聞こえる女性の排尿の音に興奮し、女子トイレ内で女性用下着を身につけたあられも無い姿を自撮りし、自慢気にSNSに投稿しているのだった。またスザンヌみさきというトランスジェンダーのYoutuberが、女湯に入り、全くの男目線で女湯で見た光景を嬉々としてレポートする動画が炎上したばかりである。

 また今日も、心は女性と偽り、部下に性暴力を行った男が逮捕された。

 このような連中が女性スペースに侵入してきたらどうなるか。ただでさえ性犯罪の多い現状で、何が起こるか容易に想像がつく。

 ほとんどの女性は幼少期から、一部の異常な男達から何らかの性被害を受けてきたからだ。そして性自認が認められた先にある危険性に気づいた市井の女性達が大勢声を上げ始めた。

 ところが活動家達は彼女達にTERFのレッテルを貼り、トランスこそ守るべき一番の弱者とし、実際に危険に晒される女性と子供は無視し、女性達の口をヒステリックに塞ごうとしているのである。まさに朝田理論、お話にならない状況だ。

 女性達が危惧しているのは性犯罪だけではない。言葉巧みに洗脳を行い、思春期にありがちな自分探しに悩める子供達をトランスに導くようなやり方だ。

 そして時流に乗りトランスする事で脚光を浴びたい、承認欲求を満たしたい若者や、一部発達障害の若者も取り込みまるで最先端の活動のように持て囃されている。一時の気の迷いで、取り返しのつかない身体になり、ハイヤー氏の様に脱トランス活動に転換する若者も増えている。

 トランス旋風が巻き起こる海外では主にトランス女性による問題が次々起きているが、リベラルのファシスト達により無視され、逆に差別者として糾弾されている。LGBTQ に対する批判はすべてヘイトとし吊し上げる異常性は谷口神父の記事にある通りである。

 またトランス女性を容認する事で被害を受けるのは主に女性達と子供だが、被害の対象にならない男性がトランス女性を擁護し、声を上げる女性達の声を塞ごうとする様子はまるで正義を装った新手の女性迫害の惨状だ。彼らは被害を恐れる女性達に石を投げる前に、加害者である男性に向って加害を無くすよう訴えるべきである。トランス差別をするなと言うのなら、まず加害者をなくせと言いたい。女性からすれば、実態が不明な「心は女性」と言う身体男性を信用できるわけがないのだ。

 奇しくも先日のグラミー賞では、人気歌手でゲイのサム・スミスとトランス女性のキム・ペトラスが大ヒット中の曲「Unholy 」を歌い、サタンそのもののパフォーマンスを披露した。

 LGBTQを擁護するリベラルなクリスチャン達は、トランスジェンダーの不都合な現実から目を逸らさず、自分達が推進するその活動の先にあるものをしっかりと見るべきである。

 リベラルなクリスチャン達の善意と正義感を利用して、サタンは狡猾に神に背くよう誘導しているのである。

増田圭子

* * * * *

 実際は、約束に反して、この投稿記事は「福音と社会」(Vol.326)には掲載されていなかった。

 私は不審に思って、編集者山内継祐氏になぜ載らなかったのかを問い合わせたところ、彼からは、直接投稿者に面会して原稿の変更(追加)を依頼して了承されたのに、その変更記事が届かなかったので掲載しなかったから、という返事だった。

 しかし、その釈明は事実に符合しない。 ストレートに言えば 真っ赤 な嘘である。

 なぜなら、投稿者は―以下のやり取りを見てもわかる通り―いったんは検討を約束したかもしれないが、その後の展開を見て、最初の投稿内容の変更の必要性を感じなくなって、元のまま掲載することを求め、それを編集者は了解していたからだ。(以下はそのやり取り):

From: john19xxxx@gmail.com
Sent: Saturday, March 25, 2023 2:54 PM
To: フリープレス 山内 <hkeisuke@freepress.co.jp>
Subject:

山内さま

増田圭子さんから、以下の文の転送依頼がありました。

山内様

先日はありがとうございました。 (投稿者が編集者の要求で面会に応じたときのこと。カッコ内谷口加筆)

あれから、LGBT に寄り添う一文を考えていました。 (編集者に求められた加筆のこと)

この2週間で刻一刻と事態は変化し、

とうとうパパ様(教皇)も、トランスイデオロギーは危険だと声明を出しました。

https://twitter.com/2022meimei3/status/1634714757101129728?s=46&t=Y710t4T7y4Ii7tqfnT7Juw

今までこの問題に関心のなかった、一般男性たちも注目し始め、もはや以前のようなLGBT 擁護の声は、だんだんと小さくなり、むしろおかしなイデオロギーに反対する声の方が大きくなっています。

福音と社会の編集部に届く批判も、減ってきているのではないでしょうか?

ここ最近では、トランスジェンダーのよだかれん氏が、トランスジェンダーを女性スペースから排除するなと発言し、大勢の女性たちから非難をされていました。180センチもある大男が、このように軽々しく発言することは、まさにトランス女性は男であるという証明でしかありません。

LGBT当事者たちからも、続々とLGBT 法案は不要で、むしろ社会の分断を生むだけだという声が上がっています。

ですので、もう一部の活動家達に忖度する意味はなくなってきたと考えます。

先日校正をして下さったそのままの文章で、掲載していただけないでしょうか?

谷口神父様の書評が炎上した時とは状況が違ってきているのです。パパ様の声明を受けた今、むしろ正平協議会、カトリック新聞が谷口神父様に謝罪するべき事態になってきています。

どうかご一考いただけないでしょうか。

増田圭子

以上です。(谷口)

* * * * *

それに対して、編集者は以下のように返信しています。

From: hkeisuke <hkeisuke@freepress.co.jp>
Sent: Saturday, March 25, 2023 7:32 PM
To: john19xxxx@gmail.com
Subject: お取り次ぎへの感謝とご相談

谷口神父さま

増田さんのお便りを転送していただき、ありがとうございます。

増田さんお申し出の趣旨、了解しました。カトリック社研内での私の立場に変化がない限り、次号に掲載させていただきます。

そこでお願いなのですが、私が増田さんの原稿に赤入れした「整理稿」の現物を、増田さんご自身にお目通しいただくため、お預けしたままになっています。再度赤入れすることも可能ですが、増田さんのお手元にある整理稿との間に食い違いが生じるといけませんので、コピーをお取りになった上で、小生宛に現物を返送していただけないでしょうか。整理稿の内容のまま掲載します。

今月中に落手すれば、次号締切に間に合いますので、この旨を増田さんにお伝えいただければ幸いです。

山内継祐 拝

* * * * *

それを受けてなされた最後の交信は:

From: john19xxxx@gmail.com <john19xxxx@gmail.com>
Sent: Tuesday, March 28, 2023 12:58 PM
To: 'hkeisuke' <hkeisuke@freepress.co.jp>
Subject: RE: お取り次ぎへの感謝とご相談

山内さま

ふりがな「たけだけしい」を「おぞましい」に訂正するように伝えたと連絡したら、すぐ折り返しに「ありがとうございました」という返事がありました。(いずれもラインのSMSです。)

谷口

さらに、

From: hkeisuke <hkeisuke@freepress.co.jp>
Sent: Tuesday, March 28, 2023 4:49 PM
To: john19xxxx@gmail.com
Subject: RE: お取り次ぎへの感謝とご相談

 

谷口さま

ルビ訂正の件、承知しました。

山内

* * * * *

 これが、326号発行前の最後の交信でした。編集者は投稿者に対して、3月末の時点では、この投稿が掲載されることを、ジャーナリストのプライド道義「首」に賭けて確約したことになっています。

 それなのに、普段は発行と同時に関係者に贈られるはずのサンプル誌が私にも投稿者にも届かなかったので、はてな?と思って請求したら、数日後、私宛に2冊とどきました。

その驚きの結果は 不掲載「ボツ!」でした。

 編集者山内氏は「福音と社会」Vol.325のP.106の【編集部から】に「カトリック司祭・谷口幸紀執筆者の「書評」について、(中略)多様な意見が寄せられています。それらは(中略)誌上でご紹介してまいります。」と記している。それなのに、増田さんの投稿だけはなぜ載せられなかったのかの説明がない。

 自分の投稿は「ボツ」にされて、その代わりに掲載されたほかの投稿を見て、彼女の反応は、普段冷静な彼女らしくもなくやや取り乱して(?)いるかの感もありますが、まず、彼女の気持ちを聞いてあげて下さい:

今、「福音と社会」を読み怒りに震えています

なんですかあれ

真実を見ずに、活動家の一方的な主張を鵜呑みにし、

谷口神父様を悪者に仕立て上げるあれじゃあ、

元々私の文なんて載せる気なかったんじゃないですか

山内さんには心底失望しました

「福音と社会」にも

無知な大馬鹿たちがまんまとサタンの片棒担いで、正義ヅラとは

欧米は問題山積で、バックラッシュがおきているのに、

周回遅れでなにトンマな記事のせてるんでしょうね

 

いずれ自分たちのしたことを恥じるようになりますよ

あれじゃ、パパ様(ローマ教皇)の声明も目に入ってないんでしょうね

今の時代ネットを見ていない、ってこういうことです

 

主要なメディアはすでにサタンに取り込まれていますからね

 

* * * * *

どうです!この小気味よい威勢の良さ!ふだん冷静で控えめな彼女、大爆発です‼

事前に本人の了承を求めたら、「恥ずかしい、これは神父様だけに書いたのだから」と同意はキット得られそうにないので、敢えて彼女に無断で暴露します!(ごめんなさ~い(+_+)!) (ブログがアップされた後、それを読んだ彼女の同意とサポートが得られました!)

事ここに及んで、編集者の山内氏はなおおめおめとその職にとどまっていられるのでしょうか?それとも、もう辞表は叩きつけて、きっちり落とし前を着けていたら、それはそれであっぱれですが。

彼は、「ほかにいろいろ当たってみな断られた。これについてカトリックで書けるのはあなたぐらいしかいない」、と言って持ち上げて、「書いたら大反響になるよ」と言ったら、「それこそ望むところだ」と言わんばかりの余裕を見せていた編集者だったのに。

それが、「カトリック新聞」も、「カトリック正義と平和協議会」も、どうやら編集者のバックである「JOC」もそろってあちら側に回してしまって、「福音と社会」の管理者との板挟みになって、弱気にも生き残りをかけて日和ってしまったのでしょうかね。そんな彼を見たくなかったな。

いうまでもなく、「カトリック新聞」も「正義と平和協議会」もカトリック司教団のもとにある。今や、日本のカトリック司教団はフランシスコ教皇の教えから離反してしまったのだろうか。もしそうなら、すっかり病んでいるというほかはない。

教皇様はそのような傾向を憂い、厳しく警鐘を鳴らしておられるのに・・・

まあ、いずれにしても、「福音と社会」なんて、御大層なタイトルを語ってはいるが、私のドタ感で測れば発行部数1000部にも満たない、したがって、定期購読者はその7掛けに満たない泡沫出版物に過ぎない(推定が間違っていたら、お叱り下さい、訂正にはやぶさかではない。日本のカトリック教会そのものが信徒数40万人のミニ宗教団体だ。

そんな小さな世界の中で、不掲載は怪しからん、ボツにされて悔しい、などとコップの中の嵐を呼んでも、けち臭い話ではありませんか。それより、そのボツのおかげでこのブログに取り上げられ、発行部数の何倍もの社会の良識ある人々の目に事実が届く結果になったのだから、かえって良かったのではないか。「瓢箪から駒」というべきか。

「福音と社会」には、編集者の上司に発行人がいるようだが、その発行人はVol.326 の表紙裏に「読者様へのお詫び」という一文を乗せている。

 「お詫び」しなけれればならない事態を直接招いたのは編集者だろう。しかし、その人物の上司には同等の共同責任がある。政界や普通の企業なら、責任者の処分をもって、お詫びの落とし前をつけるか、その上司が身を引くのが筋というものではないか。しかし、今、屋台骨の山之内氏を切ったら、次号からの発行を続けることが出来ないから、その解雇は同時に「福音と社会」誌の廃刊を意味する。

 編集者は発行人のその弱みを利用して、ジャーナリスト魂を燃やして、約束通りに増田さんの投稿記事を載せることもできたのではないか。しかし、増田さんの記事を没にすることによって、発行人は「福音と社会」の廃刊を免れ、編集者は―本意か不本意か―首がつながったというズブズブの馴れ合いということか。

 私は、編集者がかつて「カトリックグラフ」を編集していた時、「金大中の KCIA による拉致事件」を大手の「アサヒグラフ」や「毎日グラフ」を出し抜いて、政府の緘口令にも逆らって、単独スクープしたときの歴史的快挙のことを今鮮明に思い出す。ヤクザのような KCIA に怒鳴りこまれて震え上がった発行人「生母の騎士」修道会は、編集責任者山内氏を即時解雇し、「グラフ」誌は廃刊にした。その後の彼の目の醒めるような身の処し方を、今、敬愛の情をこめて思い出している。あなたは解雇されても、親の土地と家のすべての私財をなげうって、破産するまで「カトリックグラフ」を一人で出し続けた。あの時の山内氏のカッコよさはどこに行ってしまったのか。

 ブルータス、お前もか?と言いたい。「福音と社会」という日本のカトリックの一郭がまた一つ、LGBT を背後から操っているサタンの軍門に下って去勢されてしまった。この転落の後遺症には重いものがある。

 

 

 

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★ カトリック新聞4月2日号の「意見」欄 

2023-04-01 00:08:50 | ★ LGBTQ+

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カトリック新聞4月2日号の「意見」欄

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 カトリック新聞の4月2日号には、「意見」欄に山下暁子という名の人の記事が載っていました。

 その記事には、私が神父であることを熟知したうえで、私を「谷口幸紀氏」と呼び、私の書いた書評を、編集者の市川真紀さん、小宇佐敬二神父様と全く同じ言葉を使って性懲りもなく「無知と偏見、差別や侮蔑、憎悪に満ちたヘイト記事」だという決まり文句のレッテル貼りをしています。

 しかし、そのようなレッテルが全く事実に反したでたらめの真っ赤な嘘であることは、「書評」(上)(中)(下)の全文を私のブログで読んだ数千人(あるいはそれ以上)の読者の皆様がすでに知っておられる紛れもない事実です。もし、まだ読んでいない人がいたら、ぜひご自分で原文を読んで確認してください。(2月22日にアップした 9、10、11編前のブログです)

 それが見え透いた嘘であるのを承知の上で、まだ性懲りもなく敢えてそのような投稿に大きな紙面を割いて掲載したカトリック新聞は、日本のカトリック教会の広報誌としての品位信用を自分で地に落としめていることに気が付かないのでしょうか。恥ずかしい限りです。

 私がレッキとしたカトリック司祭であることは、2019年11月の教皇フランシスコが司式した東京ドームでの教皇ミサで共同司式を認められたことでも明らかです。それを知りながらカトリック新聞の編集部が山下氏の投稿の「氏」を「神父」に直す当然の校正上のイロハを敢えて適用しないままに放置しているのも、ずいぶんおかしな話です。

 教皇フランシスコは2023年3月10日夜、ナショナルカトリックレジスター(National Catholic REGISTER)誌のインタビューに答えて、「今日ではジェンダーイデオロギーは最も危険なイデオロギー的植民地化である(ideological colonization)」と述べられました。なぜ最も危険だと言うのかとの問いに対して、教皇は、「なぜなら、それは男であることと女であることの差異とその価値を曖昧にするものだからだ」と答えられました。教皇はこうも言われました。「すべての人類は差異の間に存在する緊張関係の中にあるべきものであり、人類は差異を通して成長すべきものだ。ジェンダーの問題はその差異を薄め、世界を同質化し、全てを退屈な似通ったものにしてしまうが、これは人類の召命に相反するものである」と断定されました。

 教皇フランシスコは、彼の10年の在位期間を通して、「植民地化のイデオロギー」という言葉を頻繁に用いてこられました。特に開発途上国への援助資金が「避妊」、「堕胎」、「不妊化」、そして「ジェンダーイデオロギー」と結びつけられる場合について語る場合に、この言葉を用いておられます。

 また、2016年にポーランドの司教たちと対話したときには、「今日、子供たち―子供たちですよ!―が学校で誰でも男のまたは女の性を選ぶことが出来ると教えられている。なぜそのようなことを教えるのですか?なぜならそのような教科書が彼らにお金を渡している人々や機関から提供されているからです。これらの『イデオロギー的植民地化』の形態は影響力の強い国々からの支援もうけているのです。そして、これは酷いことです。」さらに、「なぜなら、往々にして人々は少し思慮が足りなすぎて、それがまるで進歩への道であるかのように信じている」からだとも語っておられます。

 教皇様に言わせれば「彼らは『性差の尊重がなんであるか』ということと、すでにジェンダーの人間論である『性嗜好がなんであるか』の区別が出来ていない」のです。

 そして、この「往々にして少し思慮が足りなすぎて、それがまるで進歩への道であるかのように信じている」人々の中に責任の重い司牧や教育の現場を担う何人かの聖職者や修道女方が含まれているのは誠に残念なことです。彼らは、教皇様がご指摘の通り、「性差の尊重が何であるか」またジェンダーイデオロギーが言う「性嗜好が何であるか」の識別さえもできていないのです。

 私は、教皇様に言わせれば「少し思慮の足りなすぎる」人々が牛耳っている「カトリックの広報誌」によって悪し様に書き立てられることをむしろ名誉なこと、光栄なことだと思っています。私たちの唯一の主、イエス・キリストも、同時代のユダヤ教の指導者たちに同じようにあしらわれたのですから。

 とにかく、谷口幸紀氏の書いた「無知と偏見、差別や侮蔑、憎悪に満ちたヘイト記事」などというものは「福音と社会」には掲載されていません。そこにあるのは谷口幸紀神父の書いた、教会の正統な教えに沿った真っ当な「書評」です。

 そして、山下氏の意見投稿を掲載したということは、カトリック新聞が信仰と道徳の守り手であるカトリック教会の普遍的立場をかなぐり捨てて、教皇様が最も危険なものと言われるLGBTイデオロギイーに偏向し、加担し、毒されていることを明白に示すものであります。同様の傾向は「カトリック正義と平和協議会」にも見られます。彼らがいま叩いているのは、教皇庁のイニシャティブで始まった「正平協」がまだ世界の平和と社会の正義を守るために健全に機能していた頃の活動の猛者(もさ)、大先輩の国内委員長だった人物であるとは、よくも相手を間違えたものだと言いたいですね。

 イデオロギー化したLGBT論とその背後にある確信犯的勢力(悪魔)の問題は、看過できない重要さと深刻さと危険性を孕んでいます。

 カトリック新聞は、私の書評を叩いている暇があったら、どうしてこの教皇様の大切な指摘をこそ紙面で紹介しないのか、全く理解に苦しみます。

 

これが教皇様が最も危険と考えるジェンダーイデオロギーの目に見える姿です

彼らに取り込まれレインボーの旗を持たされて犠牲になるのは人類の未来を担う幼い子供たちです

その背後にあってすべてを操作し働いている存在の名前は、人間よりはるかに賢い霊的実在である悪魔(サタン=お金の神様=資本)です

 

狙われているターゲットは明日の教会の基礎細胞である「家庭」を担う子供たち

彼らの将来は一体どうなるのでしょうか?

 

 

今日は4月1日 

これがエイプリルフールであってくれればよいのですが・・・

 

コメント (14)
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★ 性的マイノリティーへの差別 「福音と社会」の記事を巡って ③  

2023-03-10 01:11:17 | ★ LGBTQ+

 

性的マイノリティーへの差別

  「福音と社会」の記事を巡って ③  

 LGBT当事者 カトリック信徒

 

 

カトリック新聞の3番目の記事が私の手に届きました。

 今回は匿名の記事で、前の二つの記事よりは目立ってトーンダウンしている印象です。しかし、まだ「偏見に満ちたヘイト記事」とか、「読む人に偏見と恐怖を植え付けようとしている」などの紋切り型の「レッテル貼り」と一方的な「決め付け」は相変わらずです。しかし、問題とされている私の記事はこのブログに全文を開示しているので、それに対する決め付けが当を得ているかどうかは、各々の読者が判断すべきものであって、わたしから別に何か言うこともありません。

 とにかく、カトリック新聞に掲載された今回のシリーズの ③は、全体としてカウンターコメントに値するほどの内容のものではありませんでした。

 LGBTの一部の人は、私の記事を巡って、まるで蜂の巣をつついたような大騒ぎになりましたが、「全文公開」という「びっくり水」でシュンとなり、結局は竜頭蛇尾に終わったということでしょう。

 悪意のあるレッテルを私にべたべたと貼り、人々から私を遠ざけ、私の記事が人に読まれないようにしようと企てた隠ぺい、口封じ、のあらゆる工作は徒労に終わったばかりではなく、かえって一気に何十倍も、ひょっとしてそれ以上の多くの人に読まれるように宣伝広告してくれた逆効果に終わったので、むしろ私の方から感謝しなければならないのかもしれません。 

 そんなわけで、この3番目の記事についてはほかに何も言うことはありませんが、せっかくなので、もう一杯の「びっくり水」を用意しました。

 

ジェンダー問題を切る

ジェンダー問題の4つの当事者

 

 私は、この一文をもって、ジェンダー問題を複雑にし、扱いにくいものにしている隠された意図とメカニズムを明るみに出そうと考えています。以下の手順で始めましょう。

 

セクシュアリティを決める4つの要素

  ① 身体的性:Sex:男、女、Mutant (ミュータント=突然変異:異形)

  ② 性自認:Gender Identity : 自分はこの性であると考えている性

  ③ 性表現:Gender Espression:自分が表現したい性

  ④ 性的指向:Sexual Orientation:恋愛感情、性的衝動、性欲の向かう対象

これらの4つの要素はジェンダーの問題を考えるうえで重要な要素ですが、これは私が今論じたい「ジェンダー問題の4つの当事者」の話ではありません。

 

4つの主要ジェンダー(LGBT)

性的マイノリティにはさまざまな形態が言われています。

L:レスビアン:性自認が女性で、性的指向の対象が女性の人

G:ゲイ:性自認が男性で、性的指向の対象が男性の人

B:バイセクシュアル:性的嗜好が男性と女性の両性に向いている。

T:トランスジェンダー:身体的性と性自認が一致せず、それについて違和感を感じているセクシュアリティ

しかし、これら4つも、今私が論じようとしている「ジェンダー問題の4つの当事者」ではありません。そして、この4つのジェンダーのほかにも、

Q:クェスチョニング(Questioning):性自認や性的志向を決められない、決めていない、迷っている

Q:クィア(Queer): 「風変わりな」「奇妙な」「奇異な」「異様な」と訳される:同性愛者の一面をとらえようとする言葉(実は私には何のことだよくわかっていません)。

I: インターセックス(Intersex):身体的性において男性と女性の両方の性別を有する?自然界、特に下等動物に多くみられる両性具備のこと?人間にもあるのか?

A:アセクシュアル(Asexual):どの性にも恋愛感情や性欲を感じない。

+:は、その他何でもあり。その中には必然的にペドフィリア(小児性虐待)、お稚児、喝食、獣姦・屍姦(ネクロフィリア)などの倒錯した性嗜好までも含まれるものと思われる。

 これらを含めて短く総称として一般的に“LGBT”と言うこともできるようですが、私の言わんとする「4つの当事者」はこの観点に立つものではありません。

 

 性的マイノリティの旗印としての「虹」(レインボー)

 性的マイノリティの運動にしばしばレインボー「虹」が旗印として用いられていますが、欧米の子供たちに「虹」の色は何色と聞くと、たいてい四つ(赤、黄色、緑、青)がせいぜいです。ところが、日本の子供たちに聞けば、ほとんど七色と答える。そして、どんな色と聞くと、せき(赤)とう(橙)おう(黄)りょく(緑)せい(青)らん(藍)し(紫)とすらすらと出てきます。それほど日本語は感覚的語彙が豊富なのです。私の座右の色鉛筆は36本、36色です。LGBTQIA+の性の多様性もそれにも劣らず多種多様なのでしょう。

 しかし、LGBTの旗印を見ると、なぜか6色の虹色です。とにかく、それも私の「ジェンダー問題の4つの当事者」と関係がありません。

 

 では、私の分類する「ジェンダー問題の4つの当事者」とは何でしょうか。

 答えは:

  ① 本来の意味での性的マイノリティとしてのLGBT

  ② LGBTの特異グループとしての活動家

  ③ アライ

  ④ 悪魔(サタン;Satan)

 

 これからこの「4つの当事者」を個別に吟味しましょう。そして、その巧妙、かつ複雑な相関関係についても。

 それらはLGBTを巡って互いに絡み合っているが、実は別々の存在で、相互に利害が一致する面もあり、相反する面もあります。

これからこの「4つの当事者」を個別に吟味しましょう。

① 厳密な意味での性的マイノリティ

 成長していく過程で自分が世間のマジョリティとは違うLGBTであることに目覚め、気付き、孤立し、悩んでいる人たち。彼らはほとんどが心優しく、傷つきやすく、世間からは隠れている、あるいは隠されています。彼らはシャイで、自己主張したり、騒がしく声を上げたりすることはまずありません。彼らは見出され、優しく護られ、同伴され、支援を受け、権利を保障され、差別されることなく平等に扱われ、マジョリティと対等の人権を認めら、活動が保証されるべき人たちです。

 たとえが良いかどうかわかりませんが、盲人を転落から護るために社会資本を投入してホームドアが設置されるように(それは同時に自殺予防の目的もあるが)、成熟した社会は性的マイノリティへの差別を撤廃しその平等の権利を保障するために必要な社会投資を惜しんではならないと思います。

 その意味において、私は他のアライの人たちに引けを取らないほど熱心なLGBTの弁護者であり、擁護者であることをあらためて声を大にして言いたいとおもいます。私がそういうものであることを知りながら、故意に「LGBTQ+の方々に対する無知と偏見、差別や侮辱、憎悪に満ちたヘイト記事」「言葉による暴力」などのワンセットのレッテルで封じ込め、脅し、口封じをしようとする人たちは、虚言者であり、私に対しても社会に対しても大きな不正を行っていると言わざるを得ません。

 そもそも、性的マイノリティと一口に言っても、その内容は必ずしも均一ではありません。

 身体的性と性自認は明白に男または女であっても、性的嗜好が同性に向かう人はホモセクシュアル(Homosexual)と呼ばれますが、LもGもその意味ではホモセクシュアルです。

 元来、日本語は他に類例を見ないほど優れた豊かな言語です。表意文字の漢字の他に、表音文字のひらがなとカタカナがあります。加えて、外来語を表記するために多用されるカタカナは、外来語を短縮して表記する場合が多いです。パソコンはpersonal computer であり、テレビはtelevision setであり、スマホはsmart phoneであり、カタカナで短縮表記しても意味が分かる場合はどんどん短縮します。ホモセクシュアルの人が自分たちの仲間うちではを自嘲と卑下をこめてホモと呼び合っているのに、外部の人からホモと呼ばれると、それは差別だと大声を発するのは、テレビジョンセットがテレビと短縮されると差別されたと言って文句を言うのと同じではないでしょうか。

 被差別部落の場合、関連の差別用語はウエブサイトの「差別用語の一覧リスト」からも消されているほどですから、子供時代に何げなく使っていた言葉も敢えてここで例示しない方が安全というものです。

 いずれにしても、原因は様々でも同性愛的傾向は、健全なクリスチャン家庭の子女の間でも稀に見られ得る極めてデリケートな問題であるわけで、細心の注意をもって対応されケアーされなければならないことは言うまでありません。

② LGBTの活動家

 これは、性的マイノリティの運動の中でも特に積極的発信性の高い活動家たちのことです。その代表格は、身体的性が男性で性自認が女性のT(トランスジェンダー)の女性たち(MtF)で、そのほかにもゲイの中でも特にゲイプライド(実はこの言葉の意味は私にはまだよくわからない)と自称する人たちがこのグループに属すると言えるでしょう。それに対して、L(レスビアン)の人たちや社会的発信性の少ないG(ゲイ)の人たちはここで言う「活動家」とは別の範疇、つまり、上の①厳密な意味での性的マイノリティ」の範疇に留まるのです。

 私への攻撃に中に、「(MtF)T」を差別しているというのがありましたが、私はその人たちを差別なんかしていない。ただ、その人たちを巡って不都合な事象が多発していると、具体例を挙げて述べたにすぎません。私は差別者ではありません。

「活動家」と目される性的マイノリティは、権利意識が高く、多くは要求的、拡張主義的、攻撃的で、良くも悪くもプライドが高い人たちです。

 カタカナのプライドと言うと、日本では「誇り高く尊厳を重んじる」良い意味で使われる場合が多いですが、英語を始め諸外国語では「誇り高く尊厳を重んじる」良い意味と「傲慢・尊大」という悪い、否定的な意味の両方に同じ pride (プライド)という言葉が用いられることは注目に値します。

 LGBTのマイノリティーの人たちとマジョリティの人々との間の摩擦や軋轢や葛藤などの不都合な問題は、もっぱらこの「活動家」グループとの間の問題です。

③ アライ

 LGBT活動の同調者:自らは性的マジョリティに属しながら、LGBTの活動家を支援し、場合によっては自らも運動のイニシャティブをとる人たち。(アライはアライアンスの短縮語:連帯というよりは、同盟の意味が正しいか?)

 アライには大別して二通りあります。一つは、単純で純情で深く物事を考えないで乗せられやすい人。政治家、自治体の公務員、教育者、などに多いタイプです。「マイノリティを差別するのは良くない。彼らは差別に苦しんでいる。彼らを支援しなければ。」とひたむきに考えて、その結果についてはあまり深刻に考えていない彼らの多くは、後ろから煽られると調子に乗って活動をひろげます。しかし、少し覚めた良識のある人は、LGBTの運動の陰に伴う様々な不都合な面に気づき、その行き過ぎに疑問を抱き、立ち止まり、遠ざかっていく人も大勢います。

 もう一つのタイプは、トランスジェンダリズムのある側面が世の中にどれだけの不都合、害毒、悪影響を及ぼすかを知っているひとたちです。だが、同時にトランス運動がどれほどおいしい利権に繋がっているかも知っています。だから、彼らは自分がLGBTの専門家として振る舞えば、多額のコンサルタント料を企業から貰い政府から援助金をもらえるとわかってやっている確信犯です。彼らにとってすべてはお金のためなのです。

④ 悪魔(サタンSatan)

 神を信じない人は天使も悪魔も信じないでしょう。それは当たり前のことです。しかし、実際に悪魔は人間よりも賢い霊的存在として実在します。このサタン(悪魔)=マンモン(お金)の働きを考察の重要な要素として取り入れなければ、現実のLGBTの奥深い複雑な闇の問題の解明は不可能になります。

 しかし、ほとんどの人は悪魔の存在など考えたこともありません。それもそのはず、悪魔は姿を隠す天才だからです。悪魔は人間の前にその気配を消すことに成功すれば、すでに目的の8-9割を達成したも同然です。気付かれずにやりたい放題ができるからです。だからふつうは隠密に働き、通常は決してその姿を現しません。稀に図に乗って油断してその姿や名前を表わしますが、それは状況が有利に展開していると過信し勝ち誇ったときに限られます。私が偶然拾った下の写真などは稀な例の一つです。

 では、なぜ悪魔は存在するのでしょう。神は悪魔を創造しなかったはずなのに。神は最高の被造物として天使を創造しました。その天使の中で最高の輝きを放ったルチフェル(光を運ぶ者)は、頂いた神の能力、つまり理性と自由意思を濫用して神よりも偉いものになろうという傲慢(プライド)の罪を犯して地獄に落ち、そこの主となりました。彼は神に愛された人間に対して妬みを抱き、人間を神から離反させ、人間を地獄の仲間に引き入れようと、日夜眠らず画策しています。

 LGBT劇場の主な配役のプロフィルはこれぐらいで十分でしょう。

 残る問題は、これら4つの当時者たちの役割と相関関係ですが、一回のブログでは語りきれないので、ここで一休みして、続きは一回で終わればよし、さもなければ、さらに続けることにいたしましょう。

 請うご期待!

 

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★ 東京マラソン2023-03-05 メダリスト我が家に投宿

2023-03-07 00:00:01 | ★ LGBTQ+

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東京マラソン2023-03-05

メダリスト我が家に投宿

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 1週間ほど前から、エクアドル出身のカルロス君(50歳)が我が家に泊まっていました。

 ただで泊まれるところを探していたようです。

冷蔵庫開放の B&B が条件で、1泊0円。お互いに気を使わない楽しい仲間になりました。東京見物と体慣らしのジョギングで彼は昼間ほとんど家にはいません。

 4日、本番の前日は、エビをたっぷり入れたチャーハンのようなエクアドル料理も作ってくれました。おいしかったー!

 さて、昨日は、朝から本番のマラソンを走って、夕方、いささか疲れて帰ってきました。3万5000人が走って、彼も無事完走。4時間半かかったそうです。予報に反して雨が降らなくてよかった。

 

記念にメダルをもらってきた。れっきとしたメダリストだ!

 

記念の頭陀袋のような着物も土産にもって帰る。

 

記念にエクアドルの国旗に私への感謝の言葉を書いてサインして贈ってくれました。

 

 

 

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★ 神父様、これをお読みになって下さい。

2023-03-06 00:00:01 | ★ LGBTQ+

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神父様、これをお読みになって下さい。

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私の iPhone に以下のようなショートメールが届きました。

* * *

 神父様、これをお読みになって下さい。

 このような情報は、けっして Twitter 以外のメディアには出てこないのです。

 これを知っているのといないのでは、見える世界が違います。

 昨夜、Twitter のスペース(リアルタイムでの生の声での討論会です)で、都民ファーストの会の橋本久美氏とMTF当事者のトランス女性、性別違和のあるレズビアンの女性の会話を聴きました。

 LGBTQ 界隈は、発達障害、精神疾患を抱える人達が実はものすごく多い。未熟な男がそこに向き合わず、逃げ道としてトランスしたがっている例など、興味深い話が沢山ありました。

 活動家達のあの有無を言わさない態度、何でも差別と決め付け攻撃する姿勢、まさにそういう事ではないでしょうか?

 彼らは恐れているのでしょう。自分の問題と向き合う事を。男のプライドと言いますが、彼らの頑なさは正に男のプライドの歪んだ形とも言えないでしょうか。

 だから、女性が抵抗するのが許せない。ターフを殺せ、ターフをしばけ、と彼らが異常な熱意で女性の口を塞ごうとする原因な気がするのです。

 女性達はトランスを殺せなどとは全く言っていません。ただ、女性スペースを守りたいと主張しているだけです。

 最近、ビートきよしや楽しんごが、女だと主張すれば男が女風呂に入れるなんておかしいと発言し、また世間の人達が知る事となりました。

 前杉並区議会議員の田中ゆうたろう氏も、活発に活動しておられます。

 昨夜もクリスチャン(たしかプロテスタント)でゲイの男が、LGBTQ に異論を唱えるのは宗教右派だと相変わらずの思考停止な発言をして、オウム真理教事件で有名滝本弁護士にたしなめられていました。

 だんだん風向きが変わっています。

 カトリックでこの現実をわかっているのは、谷口神父様だけです。どうかこれからもよろしくお願いします。わたしもできる事をいたします。

iPhoneから送信

* * *

 実は、この上のコメントの末尾にはある URL がついていたのですが、開いてみたらとても長いもので、そのすべてを自分で裏をとって追認できそうになかったので、この引用からはあえてカットしました。しかし、その内容は極めて明快に問題の本質を突いている印象でした。とにかく、その URL まで踏み込まなくても、上の導入のショートメールの部分だけでもメッセージ性は十分です。

 ですから私はこれをブログに敢えて公開しました。これを今公開するのは、一つには「つなぎ」の意味もあります。

 実は、私は今、もう一杯の「びっくり水」を準備中ですが、あと2、3日時間を要します。その間にも私を攻撃する次のカトリック新聞が出る予定です。それは友人から明後日の晩までにその切り抜きとして届くでしょう。もしかしたら、そちらに先に対応しなければならないかもしれません。それでこの「つなぎ」をアップしておく次第です。

 LGBT の特定の側面に関して、各方面から異論を唱える声が上がり始めています。私もその一人ですが、私たちは安直に「LGBTQ+ に対する無知と偏見、差別や侮辱、憎悪に満ちたヘイト記事」「言葉による暴力」「原理主義者」などという常套句の罵詈雑言を浴びせられてビビったり、口を封じられたりするほどヤワではありません。

 権威あるべき「協議会」や「新聞」がそういう言辞をほしいままにするようでは、自らの権威と品位を自分で貶めていると言われても反論できないのではないでしょうか。

 

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★ 日本の教会の基本方針と優先課題

2023-03-03 00:00:01 | ★ LGBTQ+

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日本の教会の基本方針と優先課題

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 昨日、表記のタイトルでペンネーム「新米信徒」さんから、以下のようなコメントが私のブログに寄せられました。ここに再録します。

2023/03/01 22:54:23

「日本の教会の基本方針と優先課題」
谷口神父様 

 JP 通信の流れを見て、1981 年から1985 年の間は、第二バチカン公会議を経た日本のカトリック教会にとってとくに大切なときであったように感じます。

 カトリック中央協議会の site に、「日本の教会の基本方針と優先課題」があることを知りました。司教団・司教協議会 諸文書 日本司教団関連文書、で、日付は、1984/06/22 です。前文は 8 つの項目からなります。この項目の 2 に関わることですが、この基本方針にある「社会の福音化」と谷口神父様の記事は全く相反しているのでしょうか? それから、無知な者の感想ですが、上記の文書にある「福音」は、何を指しているのでしょうか?

 さっそく、カトリック中央協議会のsite に入って1984年の「日本の教会の基本方針と優先課題」の一文に難なく辿り着きました。

 新米信徒さんの私への最初のご質問は、「前文は 8 つの項目からなります。この項目の 2 に関わることですが、この基本方針にある「社会の福音化」と谷口神父様の記事は全く相反しているのでしょうか?」ですが、まず、「日本の教会の基本方針と優先課題」の大まかな構成を見ますと、それは8項目の「前文」と2項目の「基本方針」から成っています。

 さて、問題の「前文」の項目の2は、その前の項目1にある「『全世界に行き、全ての者に福音を宣べ伝えなさい』(マルコ16・15)これこそ主イエスが教会すなわち、神の民全員に与えた使命である。」を受けて、「この使命を積極的に果たすためには、神の民全員が福音の力によって刷新され、また、その同じ福音の力によって日本の社会のすべての営みを、内部から新たにしていくことが必要である。これこそ、われわれが目指す日本における福音宣教である。」と述べています。

 つまり、新米信徒さんの第1番目の質問は「福音の力によって日本の社会のすべての営みを、内部から新たにしていくことこそ、日本における福音宣教である。」というのと、谷口神父の記事は全く相反しているのでしょうか、と言い換えることができます。

 このご質問は多くのニュアンスを含んでおり、一言で、相反している、ともいないとも断定しかねます。正しい答えを出すためには、まず問題の司教協議会の文書の時代的背景を見なければなりません。

 それにしても、「基本方針と優先課題」はずいぶんと偉そうな大ぶろしきを広げたものだと感心します。項目1のマルコの福音の個所をそんな風に解釈するのですかね。「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1・15)という呼びかけは、社会改革の呼びかけなんでしょうかね?

 同文書が書かれた1984年と言えば、大2バチカン公会議から20年、私が上智大学文学部中世哲学科博士課程の象牙の塔から足を洗って、国際金融業に鞍替えし、昼間は金の亡者たちに仕え、夜はカトリック正義と平和協議会の国内委員長として活動していた二足の草鞋(わらじ)の一方を脱いで、ただひたすらお「金の神様」(マンモン)の奴隷として、世界のひと握りの超金持ちをさらに富ませ、世界の貧しい人々を貧困と飢餓と内戦の地獄に放置する資本主義のカラクリに奉仕しながら、ちゃっかり高級を食む快適な生活に溺れていた時代で、その間に起こった日本の教会の変質には全く気付いていませんでした。

 その後、2足目の草鞋も脱いで、回心して裸足の浮浪者として父の家「教会」に帰り、高松の深堀司教様に拾われてローマに送られ、神父になってしばらくは高松で小教区の主任司祭や司教館で教区会計の仕事をしたり、教区立神学校の建設資金調達に走ったり、神学校が日本では閉鎖に追い込まれ、ローマに亡命して元大分の平山司教様がローマに避難した「日本のための神学院」の院長になられると、老司教様の通訳、兼運転手、兼雑用係でお側にいる間、日本の教会の変質について、司教様の口からしっかりと内情を聞かせていただきました。

 

ヌメリ派の司教たち 在りし日の深堀司教(左)と、まだお元気だった平山司教(右)

 

 深堀司教様はすでに天国に旅立たれ、平山司教様も97歳(?)で、この復活祭まで大丈夫かとあやぶまれる状態だが、お二人から聞いた話を要約すれば、おのずと新米信徒さんの1番目の質問にお答えすることになるだろうと思います。

 第2バチカン公会議が開かれた当時すでに司教であった深堀、平山両司教様と同世代の司教たちは、みなそれなりに公会議から刺激を受け、日本のカトリック教会をどうにかしようと真面目に考えただろうと思います。

 今の常設司教委員会の名称と役割分担は分からないが、深堀、平山両司教様の時代には主な司教委員会には「宣教司牧委員会」と「社会問題委員会」があったらしいです。前者は現有信者の信仰を深め、子供の世代に信仰を受け渡し、未信者(私はこの言葉が好きではないが)と求道者を洗礼まで導き、信徒の数を増やし、ひたすら教勢拡大に努める委員会であり、後者は84年の「基本方針」の2にあるように、信者は増えても減っても別に構わないが、弱者の側に立ち、抑圧、差別に反対し、「社会と文化を変革する『福音』」の担い手となる委員会でした。

 前者はやや軽蔑をこめて「ヌメリ派」と呼ばれ、「社会派」の司教たちからはあまり尊重されていなかったようです。この「ヌメリ派」の名称は、ラテン語で「数」を意味する「ヌメルス/ヌメリ」という単語から来ていて、いっぱい洗礼を授けて、信者の数を増やすことに情熱を傾ける古いやぼったい司教と目され、弱者を助け差別と闘い社会の変革の旗手となる恰好のいい社会派の司教たちはすでに優勢だったようです。

 実際問題として、高度成長期の日本社会では人々の目は物質的価値の方に向いていて、見えない神を説き魂の救済を告げる「福音宣教」の成果は一向に上がりませんでした。それに反して、社会問題に目を向け、正義と平和を高らかにうたう社会派司教たちは、諸宗教と宗派を超えて連携し時流に乗っていきました。

 平山司教様が「ヌメリ派」の代表格だった頃には、日本のカトリック教会の16人の司教のうち約3分の1、5~6人の司教たちがどちらかと言えばヌメリ派を支持し、多数派の20人ぐらいが社会派だったようです。

 だから、高松の深堀司教が新しい「国際宣教神学院」を設立したころには、その5~6人の司教様たちは神学院を支持し協力的でした。しかし、その後、古手のヌメリ派の司教たちが75歳の定年を迎え相次いて退職した後に誕生した若い司教たちにとっては、第二バチカン公会議はすでに過去の出来事で、しかも現役の先輩司教はみな社会派だったのでその流れにのみこまれていきました。

 それでも私がまだ二足の草鞋を履いて、名古屋の相馬司教のもとでカトリック正義と平和協議会で活躍していた頃は、第二バチカン公会議の精神はまだ機能していました。その後いつ「正平協」の変質、変節が起きたのかはっきりわからないが、第1回福音宣教推進全国会議(NICE-1;1986年)かNICE-2(1993年)のあとあたりではなかったでしょうか。平山司教様は私に、ある時、司教協議会の中のヌメリ派の「宣教司牧委員会」が消滅し、社会派が占める「社会問題委員会」だけが生き延びた、と言われました。不思議と、新米信徒さんが引き合いに出した1984年の「日本の教会の基本方針と優先課題」の基本方針1,の「教会の一人ひとりが、宣教者として、より多くの人を洗礼に導き救いのみ業の協力者となる。」という言葉と符合します。

 つまり、より多くの人を洗礼に導くのは、一人ひとりの信者の(当然の)仕事であり、司教委員会レベルで取り扱うほどの重大事ではない、と言っているようにも聞こえます。

 こうして、司教レベルで取り上げるべき重要課題は、もっぱら社会問題であり、信仰の土着化(インカルチュレーションのイデオロギー)であり、諸宗教対話であり、1984年の「基本方針-2」の「反差別、反抑圧、全ての人を大切にする社会と文化に変革する福音の担い手になる」こととつながっています。

 それで、新米信徒さんの1番目の質問の「『日本の教会の基本方針と優先課題』(1984)の『基本方針』にある『社会の福音化』と谷口神父様の記事は全く相反しているのでしょうか?」に対しては「宣教と司牧」を放棄した形での「社会の福音化」とは相反する面もあるが、本来の意味での「マイノリティーの人々に寄り添い、差別に反対し、平等な社会的地位を確保するという点では、「社会の福音化」に全く反しないのだが、その反面、今の正平協が相いれないものとして私を叩いてくるところを見ると、正平協の方が変質し変節していることを自ら告白しているのだと思います。お判りいただけたでしょうか。何とも折れ曲がったややこしいお返事になってしまいましたが・・・。

 ところで、新米信徒さんの2つ目の質問、「上記の文書にある「福音」何を指しているのでしょうか?」については、私は正直なところ「全く分かりません」と答えるほかはありません。

 「上記の文書にある」という限定を取り除いて、ストレートに「福音」とは何かと問われれば、その答えは新米信徒さんもすでに持っておられる通り、「福音とはイエスの、そして教会の告げるケリグマ(良い報せ、喜ばしい救いの言葉)と答えます。それが教会の答えです。

 生きた信仰をもった人の口から「福音」(ケリグマ)が告知されると、その福音が人の心に届いたとき、神の聖霊が働き、その人の心に信仰に火が灯り、人は洗礼まで導かれて教会の一員になります。その結果教会の信者の数は増え、教勢は盛んになります。

 キリスト教社会派のイデオロギーによって狭められ歪(ひずみ)を与えられた「福音」が具体的に何を指すかは、そのイデオロギーの信奉者に聞いてみないとわかりませんが、その「福音」が人の心に信仰の火をともすことになるかどうか、私にはわかりません。

 「福音宣教」を放棄し、あるいは二の次にして、社会問題にのめり込んでいく教会は、キリスト教の名に値しないと思います。『全世界に行き、全ての者に福音を宣べ伝えなさい』 (マルコ16・15)は、第一義的には「福音宣教」への促しであって、それは人の魂を神に気づかせ神へ方向付けることです。地上的、社会的問題に埋没することではありません。

 それは、「あなた方は地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなた方は世の光である。ともし火をともして桝の下に置く者はいない。」(マタイ5・13-15)とあるように、味を失った塩、覆われたともし火として無益なものとなり、捨てられるものとなることです。ケリグマとしての「福音」を時なるも時ならざるも叫び続け、人々を神の国に招く第一の責務を放棄して、無神論者、自然宗教者と手を携えて社会の福祉と正義のために没頭する教会はキリスト教の教会ではない。

 ブログのコメント欄にはたくさんの貴重なコメントが寄せられていて、きわめて示唆に富んでいます。新米信徒さんも常連です。ブログのコメント欄では、ほとんどリアルタイムで意見の交換が可能です。それに読む人の数は圧倒的に多いです。どうか覗いてみてください。

 極めて限られた発行部数の、しかも「福音と社会」のように隔月発行では、その投書欄で議論を戦わせようにも間延びがしてお話になりません。カトリック新聞のように週刊新聞でさえも、意見の広場としてはスピード感が今一つです。その意味で、ブログのコメント欄は読みに来る人の数においてもスピードにおいても、申し分ありません。その意味で、私のブログのコメント欄を、話し合いの広場として開放したいと思います。どうぞ自由にご利用ください。

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★ 性的マイノリティーへの差別 「福音と社会」の記事を巡って ②

2023-03-02 00:00:01 | ★ LGBTQ+

性的マイノリティーへの差別

「福音と社会」の記事を巡って ②

東京カリタスの家理事

小宇佐敬二神父 (東京教区)

 

 

 カトリック新聞3月5日号に載った上の記事の冒頭には、また私の記事に対して「LGBTQ+の方々に対する無知と偏見、差別や侮辱、憎悪に満ちたヘイト記事」「言葉による暴力」と言う名誉な評価をいただきました。

 それがいかに検討外れの悪意に満ちた誹謗中傷であるかは、私のブログ「【続】ウサギの日記」で「福音と社会」に公開された私の「書評」(上)、(中)、(下)の全文をお読みになった方々はすでによくご存じです。

 このような悪意の策動は、私の書いたものが良識ある善意の人々に読まれて共感と支持を得るのを恐れて、何とかそれを人目に触れぬまま闇に葬りたくて、焦って書き募ったものにすぎません。しかし、その意図は皮肉にもかえって人々の目を私の書いた「書評」にひきつけ、日本中に拡散させる結果を生んでいることに気づいておられないのでしょうか。

 すでにどこかに書きましたが、私のブログはグーグル社の無料編集プログラムを使って書かれています。今日現在、同じプログラムでブログを書いている人は全国に 3,149,657 人おられます。

 私の「書評」記事に対して猛烈な攻撃が「正平協」などからなされたのを受けて、対抗上「書評」の全文をブログ上に公開したとたん、私のブログのランキングは314万件中818位に躍り出ました。トップにはタレントや有名人のブログが多数ひしめいていると思われる中で、無名のカトリック司祭のブログとしては異例の健闘と言えないでしょうか。

 私を叩いている「日本カトリック正義と平和協議会」も「カトリック新聞」もその事務所を東京都江東区潮見2-2-10の日本カトリック会館に置いています。この会館の主は「日本カトリック司教協議会」です。今起こっていることは、その建物の住民が今回の「福音と社会」に載った「LGBTに関する『書評』は注目に値する必読の記事だよ」というお墨付きを与えて宣伝してくださっているのと同じ結果を生んでいます。当初の意図に反して、このブログの人気を支え、さらに拡散し宣伝することに貢献しているのが、潮見発の私への「誹謗中傷」のキャンペーンなのです。

 しかも、そのキャンペーンのおかげで私の記事を読む人が増えれば増えるほど、あの人たちの発する私への「誹謗中傷」がいかに酷い不当な嘘であるかが浮き彫りになっていくのです。

 私は四国の教会で主任司祭をしていた時、土地の言葉の「びっくり水」と言う表現を覚えました。それは讃岐うどんを茹でるために煮たぎっている釜にコップ一杯の水を差すと、瞬時にして釜の湯がシュンと静かになる状態を指しています。同じように、けたたましいバッシングのさ中に、問題記事の全文をブログに掲載して不特定多数の読者が自由に読める状態にしたとたんに、インターネットの各サイトで賑やかだった私に対する誹謗中傷が一瞬ピタリと鳴りを潜めたそうです。「そうです」というのは、私にはいろいろなサイトを読み漁る暇はないのですが、好意ある読者がまめにモニタリングして教えてくれたからわかったことです。

 皆さん、まだ読んでいない方は、私のブログ「【続】ウサギの日記」で検索して

    2月16日 「岸田総理、あなたは大丈夫ですか?」

    2月21日 「【声明文】カトリック正義と平和協議会とLGBT」

    2月22日 【書評】「LGBTとキリスト教」(上)(中)(下) オリジナル全文

    2月25日 「カトリック正義と平和協議会と私」

    2月27日 「【続】カトリック正義と平和協議会と私」

    2月27日 「性的マイノリティーへの差別」

 をお読みください。ツイッターでもフェイスブックでも拡散中です。皆さんも「いいね」を押し、「リツイート」して大いに拡散してください。そうすれば、自分で枝葉末節の攻撃にいちいち反論しなくても、直接読んだ良識ある読者が、上に引用した誹謗中傷こそ問題であことが明らかになるでしょう。

 そもそも、隔月刊誌「福音と社会」の定期購読者数は何人ぐらいいるでしょうか。カトリック社会では類例を見ない質の高いオピニオン誌ですが、その内容の質の高さゆえに読者層を狭めている恐れがあります。だから、多く見積もってもせいぜい2000-3000部ではないかと想像するのですが、編集者に問い合わせても今のところ回答はありません。

 ではカトリック新聞はどうでしょうか。潮見のカトリック中央協議会の発表によれば、カトリック信徒総数はいま43万5千人だということです。昨今、カトリック人口のうち毎週日曜日にミサに行って信仰を守っている信者の数は世界的に見て10人に1人から5人に一人と言われていますから、まあ、多く見積もって日本では10万人ほどの信者が能動的に信仰に生きていると言ってもいいかもしれません。では、そのうちカトリック新聞を定期購読している信徒はどれぐらいでしょうか。厳しい見方をする人からは、発行部数2万部、定期購読者1万人がいいところではないかといわれています。もしこの推測が実体からかけ離れていたら、ぜひ次の号でご指摘いただきたいと思います。

 しかし、もし正しければ、「福音と社会」も「カトリック新聞」も日本の一般社会では弱小泡沫出版物に過ぎないと言えるでしょう。その中でいくら喧々諤々LGBT論に火花を散らしても、所詮それはコップの中の嵐に過ぎません。しかし、それがインターネットの大海原の問題となった場合は事情が違ってきます。いやしくも「世界のカトリック」の一翼を担う日本のカトリック教会の広報機関誌である「カトリック新聞」(その責任者は広報担当の司教様)が、一人の司祭が教会の正統な教えに沿って真面目に書いた「書評」を指して、「無知と偏見、差別や侮辱。憎悪に満ちたヘイト記事」「言葉による暴力」呼ばわりして、根拠も指摘できないまま「原理主義者的」と一方的に決めつける露骨なヘイト記事を平気で掲載するというのは、教会とカトリック新聞の品位を貶める由々しき事態ではないでしょうか。

 もし「原理主義的」という言葉で私の書いたものを決めつけるのであれば、それが教会の教えに基づくオーソドックスな主張であることを指しているというのであれば、それを私は勲章として謹んでいただきましょう。しかし、「イスラム原理主義」や「神は6日間(144時間)で今のような世界を創造したなどと言って138億年の創造的進化を否定する「原理主義的キリスト者一派」と同様に扱うのであれば、それこそ不当なヘイト発言ではないでしょうか。正確な定義の確定していない差別用語で、一人の人格にレッテルを貼って貶めようとする文章を、無神経にも平気で掲載する新聞は、カトリックの名に恥じると良識ある読者に判断されても仕方がないでしょう。 

 私がそのような「原理主義者」とは正反対の意識の持ち主であること、私が性的マイノリティーの人々を差別するものではなく、かえって彼らを愛し、弁護し、支援し、手厚く擁護するものであることは、私のブログに公開されている「書評」の全文を公平に読んだ多くの人たちが共感とともに証言してくれるでしょう。

 最後に、小宇佐神父様の神学と聖書理解は、大変失礼ながら―たとえて言えば遠藤周作レベルの―亜流神学の臭いがいたします。ローマのグレゴリアーナ大学の口頭試験をお受けになったら、果たしていいお点を頂けるかどうか、老婆心ながらいささか心配いたしております。

 

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★ 性的マイノリティーへの差別

2023-02-27 14:47:52 | ★ LGBTQ+

性的マイノリティーへの差別

「福音と社会」の記事をめぐって ①

担当編集者 市川真紀

 

 

表記の記事が2月26日発行の「カトリック新聞に掲載されているのを、22日に友人に見せてもらって初めて知りました。私はカトリックの司祭でありながら、1994年に叙階されて以来ほとんど半分の時間をローマで過ごした関係もあり、カトリック新聞を購読したことがなかったのでいつも同新聞の記事に関する情報が遅れます。上の記事は、いま問題のカトリックオピニオン誌「福音と社会」に同誌の依頼で「書評」記事を書いた本人として、無関心ではいられません。

 上、中、下、の3回に分けて書いたその (上) が出版されるや否や、私のもとには、非難と攻撃と脅しともとれるような言葉が殺到しました。密にコンタクトは取っていないが掲載誌の編集部にも同様のアプローチがあっただろうことは想像に難くありません。

 私に対する声の最も切迫したものは、「掲載を辞めろ」、「沈黙せよ」、というものでした。そこから、私がものを言うことはある人たちにとっては非常に不都合な望ましくないものであることがわかりました。

 さらに、私の記事に関しては、「無知と偏見、憎悪に満ちた差別記事」という一方的なレッテル貼りがほとんどでした。その種の一連の字句がカトリック教会の公的機関から発せられれば、善良な信者たちは、問題の神父は「無知と偏見、憎悪に満ちた差別主義者の悪い神父に違いない」という印象を刷り込まれることになります。そして、直接記事を読んで判断するすべを持たない人たちは、きっとその記事にはそのような「無知と、偏見と、憎悪に満ちた差別的な」内容で満ち溢れているのだろうと想像することになるでしょう。そういう印象をばらまくことが、レッテル貼りのキャンペーンの常套手段、本当の目的に違いありません。

 しかし、普段私を直接個人的に知っている人の大部分は、そのような意図的キャンペーンが虚偽であり、不当であり、明らかな不正だと知っています。

 では、私を個人的に知らない人たちが、そのような意図歴なキャンペーンに惑わされず、そういう策動が不当であり不正であることを見破るためにはどうすればいいのでしょうか。

 それは意外と簡単なことです。百聞は一見にしかず。生の記事を一人一人に直接読んでもらって、言われていることは本当か、私の記事がそれほど邪悪で劣悪なものであるか、あるいはそのようなキャンペーンこそ不正な歪んだものであるかが一目瞭然となるから、それでめいめい自己責任でそれぞれの心証を形成してもらえばいいわけです。おせっかいなバイアスのかかった宣伝を聞く必要はなくなります。

 それで、私は21日の「正平協」に関するブログの末尾で、「明日のブログで私の『書評』の全文を公表すると予告し、22日に3編のブログに分けて上、中、下のすべての記事を掲載しました。

 カトリック新聞の26日号の原稿は約1週刊前の19日前後に印刷に回されたはずですから、それ以前に書かれた記事は、私の「書評」の全文がまさかブログに公表されるなどということは想定していなかったから、言いたい放題、書きたい放題で私を叩いたのでしょう。もし想定していたら、「無知と偏見、憎悪に満ちた差別記事」などという見え見えの誹謗中傷はとても書く勇気が出なかったはずです。真実と事実はすべての歪曲された誹謗や中傷を打ち破ります。

 だから、私が明日「書評」の全文をブログで公表すると予告した直後、お願いだから思いとどまって公表をしないでくれ、お願いだから!」と、もはや半狂乱の哀願調の声が殺到しました。よほど真実が明らかになることが恐ろしかったのでしょう。それを受けて、こちらは、これは何が何でも公表しなければ、と必要性の確信を深くしたものです。

 私の「書評」を直接原文で読んだ人は、私が差別主義者であるどころか、誠実な差別反対論者であり、(下)の「『LGBT』の二面性」でも書いている通り、差別の犠牲者である性的マイノリティーの人々は「社会から手厚く護られ、支援の手が差し伸べられなければならない」とハッキリ書いて、私のLGBT差別反対の立場を明確に述べています。

 私は、LGBTのマイノリティーの人々はあらゆる差別から護られ、擁護され、偏見を受けることなく、平等に扱われる権利があり、社会生活において不都合をきたさないように手厚く同伴されなければならないと主張する正真正銘の「反差別論者」であることを声を大にして宣言したいと思います。

 その私をどうすれば「差別主義者」と呼べるのか聞いてあきれます。私に差別主義者のレッテルを貼って排除しようという動きは、明らかに悪意を持った虚言者から来るものに他ならないと思います。

 私は「LGBTの二面性」の項で、そのような悪意に満ちた虚言者集団に対して、「教会は警鐘を鳴らし、毅然とした対応をしなければならない。」と書いたに過ぎません。

だから、カトリック新聞は私の「書評」記事を「LGBTに対する無知と偏見、憎悪に満ちた差別記事」という事実に反する攻撃をしたことに対して、謝罪と訂正広告を出すべきであると思いますが、私の「書評」を読んだ公正な読者はどうお考えになるでしょうか。

 私の「書評」のどこが、「科学的根拠や客観性を欠く偏見と差別に満ちた論調」なのか、私の文章に沿って具体的に指摘できるものなら指摘していただきたいと思います。もし指摘できないのなら、間違った意見を意図的に書いたことを率直に認め、「訂正と謝罪」をなさるべきではないでしょうか。読者はもう「書評」の内容がそのような非難に値しないものであることを直接読んで知っておられます。

 なお、まだ私の「書評」を読んでおられないために態度を保留しておられる方は、私の2月22日のブログをぜひ読んでいただきたい。

それは「【続】うさぎの日記」で検索しても「john-1939」で検索してもすぐに読めます。

これからも頑張ります。是非ごひいきにお願いいたします。

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★ 【続】カトリック正義と平和協議会と私

2023-02-27 00:00:01 | ★ LGBTQ+

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【続】カトリック正義と平和協議会と私

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 グーグルの無料ブログ編集サービスを利用してグログを書いている人は、今日現在日本中に 3,149,281 人いるが、書いている本人は自分のブログのアクセスランキングとアクセス人数がリアルタイムでわかるようになっている。

 ちなみに、2月16日の私のブログ岸田総理、あなたは大丈夫ですか? 私もLGBTQ+論争に巻き込まれてしまいました。」は 314万人中 818位 と 1000位 を切って、それ以来今日まで引き続き 1000位台 をキープしている。これは私のブロガー人生のなかでも特筆に値する記録だ。

 しかし、毎日寄せられるコメントをどれぐらいの人が読んでくださっているかまではわからない。私は悪意を感じる投稿は論外として、賛否両論のコメントを平等に開示して、自由な言論の広場として開放している。

 各ブログの末尾の右下に目立たない小さな字で「コメント」とあるから、そこをクリックするとコメントの全てが読める。実に面白いので、ぜひそこまで読んでいただきたい。

 さて、最近の「日本カトリック正義と平和協議会」「声明文」に関連して、興味深いコメントが寄せられているので、敢えてブログの本体に再録して、それに対する私のコメントもご紹介しておきたい。

 

ペンネーム「新米信徒」さんのコメント
 
2023/02/25 23:52:29
協議会という名称

谷口神父様 
何も知らなかったので、(宗教法人)カトリック中央協議会の site の「『カトリック教会』に法的に根ざしている組織である『日本カトリック司教協議会』の『カトリック正義と平和協議会』」を見ると、「できるだけ広く参加を求め、運営の民主性を示すために、協議会の名称を使用しています。」とあります。不思議に思い、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「正義と平和評議会」の解説を見ると、「日本では『正義と平和司教委員会』および『正義と平和協議会』として 71年に発足したが,74年には一本化されて『日本カトリック正義と平和協議』となった。」とあります。このようなことを書かないと、「運営の民主性を示すために」ということが伝わらないように感じます。
 
 
それに対する私のカウンターコメント
 
2023/02/26 09:32:09
 
新米信徒さまへ
 いつも的確なご指摘を有難うございます。
なるほど、「日本では『正義と平和司教委員会』および『正義と平和協議会』として 71年に発足したが,74年には一本化されて『日本カトリック正義と平和協議会』となった。」ということですね。
 それならわかります。つまり、「司教委員会」の名前は消えて、同時に民主的な信徒の活動家に開かれた「協議会」も解散消滅し、「協議会」の名を改変して「日本」をつけて「日本カトリック正義と平和協議会」とし、そこに名を消した「司教委員会」が入りこんで実質「正義と平和司教委員会」が「日本カトリック正義と平和協議会」として生き延びて今日に至る、ということですね。要するに民主的な信徒の活動家を主体とした「正平協」はつぶされて、「(宗教法人)カトリック中央協議会の 「カトリック教会法」に根ざしている組織である「日本カトリック司教協議会」が誕生したということですね。
 そして、その改変を機に本来の「正平協」が「死に体」化したということでしたか。それなら、正平協の変節の説明がつくというものですが・・・。

 しかし、ちょ―っと待ったー!!
 自分の日記を見ると、私が「正平協」で活動していたのは1977年にドイツから帰国してからのことだから、その時にはもう上の組織改編は終わっていたわけではないですか。
 改変後も、相馬司教のもとでは民主的な信徒のイニシャティブによる活発な活動があったのはどうしたことでしょう。
 正平協の変節が起きたのはそれより数年あと、つまり、私が国際金融マンを辞めてローマで神父への道を歩み始めた時より後のことではなければならないと思われます。だから私は知らなかったのではないか・・・と
 とにかく、私がメンバーであった時の「正平協」と現在の「正平協」とは掲げている理念もやっていることも正反対の印象を受けます。
 それでなければ、今頃私は「正平協」に招かれて復帰していて、「正平協」の人間としてLGBTに関する私の意見を発表していてもいいはずです。それなのに「正平協」は反対に私の口を封じようとしています。
 私自身は若かったあの頃も今も信念も情熱も全く変わっていない。だとすれば変節したのは「正平協」だとしか思えないではないですか。
 
 他にも、各ブログの末尾にはいろいろ興味深い「コメント」が寄せられています。どうかそこまで読んでくださるように、お招きいたします。(谷口)
 

 

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★ カトリック正義と平和協議会と私

2023-02-25 00:00:01 | ★ LGBTQ+

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カトリック正義と平和協議会と私

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 私は1970年代の後半、「日本カトリック正義と平和協議会」のメンバーで、国内委員会の委員長をしていた。そのころのエピソードを私の一冊目の本「バンカー、そして神父」(亜紀書房2009.5.8.第3刷)に書いた。ここにその部分の抜粋を転載する。

 

突然の解雇

 ある日の午後3時ごろ、所長のシュナイダーが私を部屋に呼んだ。彼の机の上には横長の角封筒が一つ置いてあった。中身をこの場で読めと言うから出してみると、一枚の紙に、「貴殿と我が社の信頼関係が修復不可能なまでに破壊された故に解雇する。本日5時までに私物を纏めて事務所を去るように。」と英語で書いてあった。理由も何も、具体的なことは一切記されていなかった。人の生活の土台を奪う解雇って、意外に簡単なセレモニーで完了するものだと感心している場合ではなかった。

 しかし、その私には、胸に思い当たる事が一つあった。それは、数日前の新聞に載った小さな記事が原因のはずであった。私の側からすれば、何も首になるような重大事件ではないと言いたいのだが、新聞沙汰になってばれてしまった以上、企業がそう判断するのも致し方が無いことか、とも思った。

 地下アーケードまでエレベーターで下りて行って、通い慣れた文房具屋から特大の紙袋を二つ買ってきた。それに机の中の私物を黙黙と詰め込み、皆には「じゃ、さようなら」と言って、タクシーでさっさと家に帰ってしまった。一人になって、ベッドの上にひっくり返って天井を見つめながら、起きたばかりの出来事を心の中で反芻した。そうしているうちに、一旦はしょうがないか、とあっさり受け入れたこの解雇、やはりどこか承服し難い一面があるぞ、という思いが次第に膨らんできた。そこで、キ政連を通じて知っていた中平健吉弁護士を、銀座の事務所に訪れて相談してみることにした。

 キ政連とは、正しくは「キリスト者政治連盟」と言い、国政レベル、地方レベルを問わず、選挙に立候補して政治家になろうとするキリスト者を、宗派を超えて支援する政治団体で、よく知られた名前では、後に社民党の党首になったプロテスタントの土井たかこ氏や、自民党で郵政大臣になったカトリックの白浜仁吉氏などを応援していた。

 先生は、「人権の中平」と呼ばれ、敬虔なプロテスタント信者で、元東京高裁判事、当時はアムネスティーインターナショナル日本支部長を務める傍ら、社会の様々な人権問題に、採算抜きの弁護活動を展開してきたことで有名だった。

 先生は、私の話にじっと耳を傾けられた。私がコメルツバンクの社員であること。個人としては、クリスチャンであり、カトリック正義と平和協議会の活動的メンバーであること。同委員会の国内問題小委員会の委員長として、国内の公害問題に取り組んでいたこと。具体例としては、千葉川鉄公害訴訟として有名になった、川崎製鉄の千葉焼結工場から排出された公害物質による環境汚染の責任追及のため、夜な夜な川鉄の社長宛にカトリック正平協の名(カトリック正義と平和協議会会長相馬信夫名古屋司教)による公開質問状の原稿などを書いていたこと。

 その同じ私が、昼間は川崎製鉄の4000万マルクの外債発行幹事銀行の担当者として、同社の資金部と毎日のように接触していたこと。なお、この4000万マルク(約50億円)の資金は、千葉の古いプラントを、フィリッピンのミンダナオ島に移設して稼動を続けるための資金として使われるらしいこと。このプラントを何年稼動させると、どの程度の環境汚染が広がり、どの程度の公害病患者を生むか、すでに千葉の被害状況で実証済みであったが、新たな設備投資を必要とする公害対策を施すより、そのまま第三世界に移転する方が安上がりと言う判断が背後にあるらしい事などを、東大の有名な万年助手、宇井純氏の「公害原論講座」に顔を出して学んでいたこと。私のしていた反公害活動が、「活動するキリスト者」シリーズの記事として新聞に取り上げられ、実名と顔写真が出てしまったこと。解雇のタイミングから見て、その新聞記事が直接の解雇理由だと思われること、などであった。

 話を聞き終わった中平弁護士は、もし本当に私の言う通りなら、不当解雇で訴えれば勝てるかもしれない、と言われた。私も、一人の人間がどういう哲学を持ち、個人の自由な時間にどのような活動をするかまで、企業が干渉するのはおかしい、と考えていた。今回は、仕事上の関係先と、個人の社会的活動の対象がたまたま重なってしまった、いわば全くの偶然に過ぎず、私の意識の中では公私整然と分けられるものと考えていた。

 私は、裁判と平行して、自分で出来ることは何でもやってみようと思った。手始めに、普段から仕事の上で親しくしていた証券会社の国際金融担当者らに手紙を書いた。自分は解雇されたが、この解雇には承服しがたいものがあるから、裁判で戦うことにした。支援してほしい、という趣旨であった。できれば、コメルツバンクのトップに、解雇を撤回するよう圧力をかけてほしいとも頼んだ。

 これが意外と効を奏した。実に沢山の人から、コメルツバンクのフランクフルトやデュッセルドルフの役員に、この解雇には疑義がある、という趣旨のテレックスや手紙が送られたのである。中には、私の依頼を受けて社内で検討したが、他企業の内政干渉になるので、社名を出しての直接介入は出来ないが、負けるな、頑張れ、という個人的な励ましが届いたりもした。

 このような展開になった背景には、実は、当時の駐在代表のシュナイダーという男の評判の問題がひとつあった。彼は決して悪い人間ではなかったが、できる人間でもなかった。

 一般論として、私は自分の信じるところは簡単に妥協しないため、すぐ上の小物の人間とはギクシャクすることが多かったが、遠くにいる大物のボスたちからは受けが良かった。シュナイダーは私よりいくつか年若かったが、何かにつけて地位を傘に見栄を張り、仕事は人に任せて、パーティーを好むタイプだった。本店でもその辺はわかっていたのだろうと思う。だから、彼が私を首にしたいと申し入れたとき、一旦はOKを出したものの、その後の取引先からの抗議の殺到など予想だにしなかった本店は、この新しい事態を前に、シュナイダー!一体お前は何をしておる?と言う雰囲気になったとしても不思議ではなかった。

 急遽、フランクフルト本部から役員が東京入りして、事態の掌握と収拾に乗り出すことになった。私を自宅から呼び出した役員は、二人だけの席で、「とにかくすぐに戻ってくれ。頼む!ついては、いくら欲しいか?」と切り出した。私は金が欲しくて裁判しているわけではなかったので、それには答えなかった。中平先生のところに行って、こうこう言っていますがどうしたものでしょうかと訊ねると、「このようなケースは極めて稀だが、法廷の外で問題の解決が図れるのなら、それに越したことは無い」と言われ、タイミングを失することなく速やかに復職に応じるよう助言された。私は、解雇が不当であったことをはっきりと公に認めて、従前どおり働けるようにしてくれさえすれば、金は要らないと言った。ただし、私の側に生じた費用は全て会社が支払うよう要求した。

 中平先生は笑いながら、自分は依頼を受ける案件の性格上、今まで弁護士報酬規定通りの弁護料を受け取ったことが無かったと言われた。そこで、今回はひとつ、規定が許す目一杯の弁護料を計算して、それを全額請求しようではないかと言うことになった。

* * * * *

 

 以上が私の著書からの引用だが、私は若いころから曲がったことが許せなかった。それが災いして、83年間の人生で、何度か窮地に立つことがあった。

 今回のLGBTの問題でも、「福音と社会」誌からの依頼に応じて真面目に書いた「書評」が原因で、あらぬ迫害を受けることになったが、恐れない。戦いの相手はLGBTのマイノリティーの人たちではない。シンパの活動家たちでもない。本当の相手はその背後で彼らを操っている闇の勢力、悪魔(サタン)であることを自覚している。彼は人間よりも賢(かしこ)い。ルチフェル(光を運ぶ者)と呼ばれた最高の天使として神に愛され創造されながら、神よりも偉くなろうとして傲慢の罪を犯し、天から追放されて地獄の闇に落ち、今や暗闇の帝王となった。以来その闇の底から神の寵愛を受ける人類に対する妬(ねた)みに燃え、神に愛された人間を滅ぼそうと執念を燃やしている恐ろしくも侮りがたい霊的存在だ。

 神の子、救い主イエス・キリストを滅ぼそうとして、罪のない聖者イエスを十字架の上で殺すことに成功した彼だから、この罪にまみれた老いぼれ神父を、交通事故を装って消すことも、暴漢を差し向けてブスリとやることも朝飯前だろう。現にハリーポッターの作者ローリング女史のちょっとした発言に逆上して、たくさんの殺害予告の恫喝をかけ彼女を黙らせようとしたほどだから、無名の私をどうにかする気になればたやすいことだろう。

 今ロシアでプーチンを批判すれば、何年も牢獄に繋がれることになる。それでも勇気ある人はそれに甘んじて声を上げている。いま、LGBT問題で不当な汚名を着せられることを恐れて尻込みをして言うべきことを言わなくなったら、カトリックの神父の名が廃(すた)る。

 聖書のルカの福音書5章「イエスの山上の垂訓」10節には「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」と記されている。今その聖句が私に当てはまるとすれば、信仰者冥利に尽きるというものだ。キリストは十字架上の死を通して復活の命に甦った。私もその復活に与って天の国で永遠の命を得たいものだと願っている。

 それにしても、ノマド28号 というペンネームの読者のから頂いた「スーパーマイノリティ」(2023-02-22 18:22:49)というコメントには興味深いものがある。

〔スーパーマイノリティ〕

 久しぶりにじっくり読みました。LGTPは人間性に深くかかわる課題だけに議論をしないといけないはずなのに、マスコミは一方的な擁護論だけで終始し、自由な発言を阻止しています。発言すれば魔女狩りの餌食になります。今回の評論の一番愉快だったのは、「スーパーマイノリティ」という発言です。

 今はともかく、若いころの私はその一人で子供を5人授かりましたが孫も次々生まれ人生になんの悔いもありません。

 10年以上前に仕事の関係でカトリック正義と平和評議会を知りましたが、この協議会は伏魔殿というか、はっきり言ってカトリックの仮面をかぶった日本破壊集団です。信者として恥ずかしい限りです。いつも司教たちを裏で操作して自分たちの主張を通そうとします。師の評論に全面的に賛成することはできませんが、協議会ととことん戦ってください。応援します。

 私はこの応援に意を強くして調子に乗るわけではないが、ノマド28号 さんの描いた正義と平和協議会の姿が正しいかどうか、かつての正平協しか知らない私には信じがたい話だが、もしそれが正しいとすれば、私が正平協の国内委員長をしていた時のそれと名前は同じでも、中身は180度真逆のいかがわしい存在になり下がったことになる。

 相馬信夫名古屋司教様が正平協の会長だった頃の同協議会は、誠実に世の中の正義と平和の促進・維持のために日常的に積極的に献身する大勢のボランティア活動家を擁していた。私も上記のように職を賭して働いた。

 今の正平協はどんなテーマと取り組んで対社会的活動に何人のボランティアーが活動しているのだろうか。それとも名前だけになって、ボランティアー活動家はいなくなり、具体的テーマのもとに内実を伴った地道な日常活動をすることも、意見・声明を積極的に発信することもやめてしまって、死に体になり下がったのだろうか。

 当時は相馬司教は毎月少なくとも一回、月によってはそれ以上も名古屋から東京四谷の中央協議会まで通われて、自ら若い活動家らの陣頭指揮をし、熱い議論に参加されていた。今のお二人の司教様はどうしておられるのか。ご自分の傘下にそういう活発な若い活動家集団を今も養っておられるのだろうか。LGBT問題についても、カトリックの性に関する正しいモラルの教えを世に広めるためにどんな啓蒙活動・発言を日常的にしておられるのだろうか。具体的には岡山の女子大の「性自認女性」である「男子学生」の入学問題について正平協の正しい見解を発表されたのであろうか。まさか、賛成・同調・賞賛のお墨付きをすでに与えておられないことを祈りたい。

 もし、正平協が一方ではLGBTの様々な問題点を黙認し、賛同し、推進し、他方では信仰と良心と信徒を正しく牧する責任感から、勇気を出して迫害と危害を受けるリスクを顧みず、世の風潮の流れに竿さして孤軍奮闘している弱い老司祭を擁護することをせず、見殺しにするばかりか、正当な理由・証拠も示さず、圧殺し沈黙を強いるために不当な圧力を行使することが正平協の唯一の行動だというのであれば、ノマド28号 さんの発言は真実を突いていることにならないだろうか。

 私は、先日正平協の両司教方に手紙を書いて率直に二つの質問をした。

  ① 司教様はあの声明文を出す前に、私の「書評」全文を原文ですべてお読みになりましたか。

  ② あの声明文はご自分で文案を作成されたのですか。

 バーント司教様(正平協会長)からはいまだにお返事がないが、担当司教のガクタン司教様からはメールでお返事があった。

 そこには直接私の書評になんの関係もない抽象的なお説いろいろ書かれていたが、肝心の ① に対しても ② に対しても明快な「イエス」というお答えはなく、言い訳じみた文言が並んでいた。

 それはそうだろう、「イエス」と答えたら、神様の前に良心が痛む。しかし、正直に「ノー」と答えたら、私から「ではなぜ読みもしないで判断できたのか。他人の書いた声明文になぜめくら判のサインをしたのか」、という次の問いが飛んでくることが予想できる。だから答えられないのだ。

 公正な読者の皆さん。あの声明文は不当なものだとは思われませんか。もし、今の正平協が常設の活動を推進し発信を続けることを辞めて、開店休業の空疎で実体のないものになり下がり、誰かからつつかれた時だけ事案の内容を自分の責任で精査し判断することもなく、誰かが作文した声明文の内容を正確に理解しその責任の重さと社会的影響に思いをはせることもなく、めくら判を押すだけの案山子のような存在になり下がっているのなら、私を非難する資格はないと思うがいかがなものでしょうか。

 ウクライナ戦争が始まって一年の節目に当たり、もし天国の相馬司教さまならどうなさるか、聞いてみたいものだ。私の知っている司教様なら、配下の活動家を叱咤激励して、ウクライナの戦争被災者の救援のために活動するように、プーチンに対しては直ちにウクライナから兵を引くように、声明文を出されたのではないだろうか。それが、正平協の今なすべき急務とだと思うのに、なぜ手をこまねいて何もせず、正しい声を上げた神父を護らず、かえってつぶそうとするのか。

 私の書いた書評のどこがどう間違っているのか。もう一度ゆっくり、分かるまで繰り返し読んで、具体的に答えていただきたいものだ。

 

レインボーパレード

 それにしても、何かがおかしい。当時私は正平協の国内委員長として公害問題に取り組み、大企業の資本の巨悪と戦って、公害被災者の弱者の擁護のために戦った。同じ国内委員会の同和問題(被差別部落問題)部会で活躍していた京都教区の越智神父さんは、部落解放運動の「水平社」の理念に共鳴し、社会の部落差別と闘ったものだ。しかし、越智神父は同和問題に名を借りて、一連の「差別用語」のリストを作って、それを使った有名作家に「差別的」のレッテルを貼って、脅しをかけ、恐喝し金をむしり取るようなヤクザまがりのやからとは厳しく対決した。曽野綾子さんなどは肝が据わっているから、あの言葉この言葉は差別用語だと言い立てて、作家を脅すような輩に気を使っていては、文学は豊かさを失ってしまう、と一蹴していた。そういえば、新共同訳聖書は同じ理由で聖書から「癩」、「癩病」という言葉を削除し「重い皮膚病を患った人たち」と訳し直したが、これなど聖書の教えをわかりにくくする悪しき翻訳だと言いたい。「レプラー」は癩病という特定の病気であり、皮膚病一般の程度のきつい部分に抽象化するのは明らかに誤りではないか。

 LGBTであれ、部落問題であれ、どのマイノリティー問題にも、擁護され保護され差別を撤廃し人権と平等を確保されるべき面、光を当てるべき面と、その陰に忍び寄り執拗にくっついてきて邪悪な意図を実現しようとする陰の部分が付きまとう。そして、その陰の部分に悪(悪魔=サタン)が住み着き、思いを遂げようとする部分がある。この闇の部分を見破ってそれとは戦おうとする者には事実に反して「差別者」のレッテルを貼って排除し、黙らせ、闇の領域を拡大しようとする。人間より賢い邪悪な霊の常套手段で、善意だけの普通の人はコロッと騙されてそちらに流される。

 今、LGBTの陰で暗躍しているその霊は、そのからくりを見抜いて警鐘を鳴らす人たちを、ヒステリックにたたきまわっている。

 私は、性的マイノリティーは手厚く擁護され、同伴され、平等に人としての尊厳を認められなければならないという原則に忠実に声を大にして叫んでも、私のその面は見て見ぬふりをして隠し、ジェンダーのイデオロギーの陰に潜む危険な要素を指摘すると、突如「差別的」のレッテルを貼って大キャンペーンを張って私を葬り去ろうとする。

 相馬司教様も、そのもとで正平協の名で戦った越智神父や当時サラリーマンだった私などが共有していた「正義と平和」の高い理念に基づけば、当然擁護され顕彰されるべきハリーポッターの作者ローリング女史や ”Sex Change Regret” (性転換悔悟)のウオルト・ハイヤー氏や私のような人間を、今の正平協は非難し切り捨て、その対極にいるジェンダーイデオロギーの側につくというのだろうか。この正平協の変節ぶりを天国の相馬司教様は悲しんではおられないだろうか。

 第2バチカン公会議の新しい教会の理想から「カトリック正義と平和協議会」はまずバチカンに生まれ、世界でフォローされ、この闇の巨悪と戦って、成果を上げた。相馬司教のころは、そして私が相馬司教のもとで働いていた頃は確かにそうだった。しかし、あれから60年、その巨悪はマイノリティー問題の光の部分が不可分に、また必然的に伴う闇の部分に忍び入り潜んでいつの間にか正平協にも浸透し乗っ取り羊の皮を着たオオカミとして住み着いたのかもしれない。教会の権威と教会人の善良さを羊の皮としてかぶったオオカミを見抜かなければならない。

 私が指弾しているのは利用されている正平協の機関でもそれを代表する尊敬すべき善良な高位聖職者個人でもない。彼らを知らないうちに利用してしまっている悪しき霊そのものだ。しかしその悪しき霊は私があたかも教会の権威ある組織を攻撃し、聖職者を貶めているかのごとくに宣伝し、自分は無傷で勢力をのばし、ますます悪をばらまこうとしている。彼は人間より賢い。堕落した天使だから。

 「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。」(ヨハネ15:20)とイエスは言った。イエスに似たものになれれば幸いだ。

 キリストを十字架の上で処刑することにさえ成功した邪悪な知恵者だ、私を完膚なきまでに打ちのめして消してしまうことぐらい朝飯前ではないか。

 では本当に正平協は ノマド28号 さんのご指摘どおり、変節し、羊の皮をかぶったオオカミに乗っ取られてしまったのだろうか。私の皮膚感覚では、60年前の正平協と今のそれとははっきり空気が違うのは確かだ。

 

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