:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 私の「インドの旅」総集編(6)ー c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

2021-11-05 00:00:01 | ★ インドの旅から

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私の「インドの旅」総集編(6)神々の凋落

C) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

       a)自然宗教の凋落

       b) キリスト教の凋落

       c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)田川批判

     (9)絵に描いた餅は食えない

               (10)超自然宗教の復権

 

c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

 

 すでに触れた通り、現代社会では、自然宗教は、4世紀以後のキリスト教も含めて、文明と自然科学の進歩につれて神秘のヴェールがはぎ取られ、凋落の一途をたどり、消滅に向かっているように思われるかもしれないが、どっこい、そうではなかった。

 自然宗教は、自然の偉大な力に対するナイーブな畏怖の念から発生したかもしれないが、時間と共に供え物やお賽銭を引き寄せ、富が集中し、寺院や神殿は荘厳になり、いつの間にか巨大な集金マシーンの様相を呈するようになっていく。世界中あらゆる宗教が、お金、富、に引き寄せられていくのは何故だろう。その謎を解き明かすカギは、禍を遠ざけ恵みを引き出そうという人間の欲望の中に初めから潜んでいた。そして、その行きつくところは「お金の神様」、別の名を「マンモン」という神様の崇拝だった。

 

マンモンと奴隷 サシャ・シュナイダー画

 マンモン(Mammon)の語源は、人類の発祥の地、北アフリカを中心とするアフロ・アジア語族という太古の言語グループに遡るが、人類の歴史と共に古い言葉と言ってもいいだろう。

 マンモンは一般的には「富」を意味するが、マンモンの神として擬人化され、悪魔の姿で描かれることもある。ミルトンの「失楽園」では、人間に対して嫉妬を燃やした堕天使ルシファー(悪魔の頭)の謀略によりアダムとエバは楽園から追われたことになっているが、それはさておき、人間という者は天地万物の創造主である自然宗教のから存在を与えられたのに、誕生の瞬間から、まことの神を離れ、マンモンの神に引き寄せられる運命にあったのかもしれない。 

 

失楽園 ジェームス・ティン画

 もとはと言えば、自然宗教は自然に潜むと考えた神を制御しようとする試みだったが、皮肉なことに、科学技術の進歩とともに宗教のヴェールを脱ぎ捨てて姿を現したのは、人間の欲望の化身、お金の神様、マンモンだった。そして、人間はその神を支配するどころか、逆に組み伏せられ、挙げてお金の神様の奴隷になってしまっている。わたしも、あなたも。

 私はしばらくの間四国の幾つかの教会で主任司祭をしていたが、四国と言えばお遍路さんの巡礼が今も盛んで、それを迎える八十八か所のお寺さんはそれなりに栄えている。わたしは近くの名刹を廻るのが好きだったが、ついでにお賽銭箱の数を数える変った趣味があった。それは、あらゆるお堂、あらゆる仏像の前にあって相当な数にのぼる。さらに、必ず巡礼グッズやお札(ふだ)を売り、ご祈祷や寄進を受け付ける窓口がある。それを見て私は、ここにもマンモンの神が顔をのぞかせているな、と納得する。

 

 

 また、外資系銀行に勤め海外にいた時間に神学生や学生神父として住んだ時間とローマに疎開した高松の神学校に関わった時間を加えると、優に四半世紀に達するが、わたしはその期間を利用してヨーロッパ中の教会を見て廻った。各聖堂の入り口には必ず献金箱があり、あらゆる聖人の像の前にも賽銭箱があって、その数を数えながら、キリスト教の「自然宗教度」を計るという悪趣味を持っていた。どの教会にも当然のようにロザリオや信心グッズを売る店があって、たいていシスターが店番をしていたものだ。

 ことほど左様に、自然宗教の「お金の神様」は、人類を奴隷にする恐るべき神で、私には、はっきりとした意思と野望を抱いた生ける化け物のように思えてならない。

 ナザレのイエスが説いたキリスト教の神は、三位一体の神と言うことになっていて、同じ一神教のユダヤ教や回教の単純な神と区別されるが、その実態は「理性と自由意思を備えた究極の愛」とか「父と子と聖霊の唯一の神」とか言い替えられても、神学校の教授も、たいていの神父や牧師さんたちもほとんど正しく理解していないのだから、ここでは深入りは禁物だが、わたしにはもちろん一家言ある。ただ、それを今ここで展開し始めたらこのブログは終わらないから他の機会に譲るしかない。

 それに比べると、地上の三位一体は実にわかりやすい。

 私はしばらく外資系の銀行にいた。ニューヨークのウオール街のリーマンブラザーズにもいたことがある。日本では証券会社と思われがちだが、その実体はれっきとした銀行で、しかも、庶民の小口の預貯金に付き合う小売り銀行ではなく、政府機関や大企業、大富豪に特化した強力な卸し売り銀行だった。

 わたしが入社した当時は、ちょうど老舗銀行のクーンローブと新興証券会社リーマンブラザーズが合併した直後で、社名もクーンローブ・リーマンブラザーズという長ったらしいものだった。

 金融業のクーンローブ商会と日本の縁は昔から深かった。当時、日本政府は日露戦争の戦費調達のために海外で戦時国債を発行したが、アジアの弱小新興国が大ロシア帝国軍と戦っても勝ち目はないと踏んだ海外の投資家は、それを買おうとしなかった。後に宰相となる高橋是清は世界中を駆け巡って販売に腐心したが、どこでも思わしくなかった。その時、クーンローブ商会の社主のジェイコブ・シフが是清の前に現れ、日本の国債をブロックで買った。すると、商機に敏いシフが買ったのなら何かあると思った投資家たちが続々と後追いをして、無事国債は売れ、日本は戦費が繋がってロシアに勝つことが出来た。軍艦一杯、砲弾一発も全て外貨で買わなければならない時代だったのだ。

 私は日本の政府機関やトリプルAの大企業に外債発行を薦める営業をかける時、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の中で高橋是清の奮闘を綴った一冊の文庫本を必ずアタッシュケースの中に忍ばせていた。そして、ここぞという所でそれをテーブルの上に出し、「貴社は弊社クーンローブ・リーマンに足を向けて寝ることはできませんぜ!」と一発喰らわせることを忘れなかった。実に安上がりの手土産だった。

高橋是清

 そのリーマンで仕事を始めた頃は、上司も同僚も皆エリートのアメリカ人だとばかり思っていたが、ハッと気がついたら、その実、彼らの殆どがユダヤ人で、おまけにフリーメーソンだったりもした。

 わたしが「ピート!」と面と向かって呼び捨てにしていた会長のピーター・G・ピーターソンは、ニクソン政権の商務長官だった。シニアーパートナーのドクター・シュㇾ—シンジャーは国防総省の高官だった。また、日本担当の若いパートナー(ちょっと名前を思い出せない)はアジア太平洋担当の元大統領補佐官だった。

ピーター・G・ピーターソン 後にソニーの社外重役にもなった

 私が言いたいのは、キリスト教の三位一体の神は神秘のヴェールに包まれて名状し難いが、この地上での「ホワイトハウス」「ペンタゴン」「ウオールストリート」の三位一体は、マンモンの神が目に見える形で世界を支配している姿だということだ。

 マンモンの奴隷である優秀な人材は、この三位一体の三極の間を血液のように絶えず循環しながら、地上の最貧国の血の最期の一滴まで吸い上げて、少数の億万長者がさらに肥え太るために日夜働き続けている。ここに宗教のヴェールをかなぐり捨てた自然宗教の神の本性が露出している。

 モーゼがシナイ山の上でヤーヴェの神から十戒を授かっている間に、麓に残されたイスラエルの民は、黄金の雄牛の像を鋳造してそれを拝んでいた。人間とはかくも弱いもなのだ。

 ナザレのイエスの説いた天地万物の「創造主」であり「愛」である「自然宗教の神と、この世の「自然宗教」のマンモンの神との際立った対比がここにある。

 人は「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)というイエスの言葉の前に、わたしたちはどう振る舞うべきか、明らかではないだろうか。

コメント (9)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする