:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「新しい酒と古い皮袋」 =キリストのたとえ話= (その-3)

2008-06-13 17:11:34 | ★ 聖書のたとえ話

2008-06-13 21:10:40




 「新しい酒と古い皮袋」のたとえ話。では、ルカの福音書ではどうなっているのでしょうか。先ずテキストを引用しましょう。

「まただれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れなければならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
( ルカ5章37-39節)


 このルカの福音書の平行箇所には、マルコにもマタイにもなかった新しい表現が見られます。

 「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

と言うのがそれです。
 私にとって、この箇所は長年理解できない謎でした。なぜならば、このことばは、たとえばなし全体のトーンから浮き上がってしまうように、私には思え、読む度に頭がこんがらがってしまうからです。
 私は、長年の国際金融マンの生活を通して、日本でも海外でも、一本何万円もする「よい酒」を飲む機会に多く恵まれました。フランスワインの赤の場合が特にそうですが、「よい酒」はただ値段が高いだけではなく、みな古い酒だったと記憶します。
 この経験が、私の頭の中でキリストの「新しい酒と古い皮袋」のたとえ話の理解を妨げてきました。「新しい酒は」その脈絡では、なんとも味の物足りない安物の酒、ということになってしまうからです。
 ところが、聖書のたとえ話では、イエスは「新しい酒」と「新しい皮袋」に結ばれており、ファリサイ人と「古い酒」と「古い皮袋」がセットメニュー、と言う設定になっています。善玉と悪玉の単純な区別で言えば、何で悪玉のファリサイ人が「高価な希少なよい酒」で、イエスが「安物の悪い酒」になるの?なぜそうなるの?と考えれば考えるほど頭がこんがらがってしまうのでした。昨今のねじれ国会ではないが、なんとも訳が分からなくてお手上げでした。
 それが、目の前の教会の現状を鍵に、このたとえ話を解き明かしていく内に、アッ!なるほど、目から鱗、と納得がいったのです。
 そもそも、イエスがこのたとえ話をした時代の状況を考えると、ぶどう酒をビンに詰めコルクできっちり栓をして、温度管理の効いた薄暗い低温倉庫に金をかけて高値がつくまで何年でもじっくり寝かせておけるわけがありません。皮袋に入れて、常温、それもかなりの高温に晒されていたのでしょう。当時「古い酒」と「よい酒」は同義で無かった可能性があると思いませんか。それを頭に入れて考える必要もあったのです。
 今風に言えば、イエスとその教えは、確かに「新しい酒」ではありますが、スーパーの「酒売り場」の入り口に無造作に積み上げられた、大量生産のつまらない安物のぶどう酒のことではありません。選りすぐれた極上のボジョレヌーボーのように、香りも味も最高の力強い酒のことでなければなりません。それに対して、ファリサイ人達は「古い酒」ですが、それは、エチケットのブランド名と古い年代の数字だけが自慢の、味がとっくに峠を越した、ほとんど酢になりかけの赤黒い液体に過ぎないなのです。彼らも、遠い昔には、「優れた新しい酒」であったのでしょう。それまで否定するつもりはありません。
 こう読めば、イエスのことばが、いかに強烈な皮肉を込めたものであるかがわかってくるというものです。
 
 「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

 これは、古いぶどう酒に酔い痴れ、自分の酒がいつまでも最高と自己満足に膨れ上がってしまった者は、当然「新しいものを欲しがらない」、ということではないでしょうか。そんな彼らには、新しいもののよさを認める包容力などあるはずもありません。受け入れる力もないでしょう。何しろ、彼らの皮袋はすっかりしなやかさを失い、固くなり、脆くなってしまっているからです。

 「まただれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。」

(この「酒」談義、まだ続きますが、今回はここまで。)

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