古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「三野王」について

2018年09月30日 | 古代史

『書紀』に「三野王」という存在が書かれています。この人物は「筑紫大宰」である「栗隈王」の子息として登場します。
以下「三野王」記事をピックアップしてみます。

「(六七二年)元年…
六月辛酉朔…
丙戌…且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色即殺之。於是。磐手到吉備國授苻之日。紿廣嶋令解刀。磐手乃拔刀以殺也。男至筑紫。時栗隈王承苻對曰。筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。時栗隈王之二子『三野王』。武家王。佩劔立于側而無退。於是男按劔欲進。還恐見亡。故不能成事而空還之。」

(六八一年)十年
三月庚午朔癸酉葬阿倍夫人。
丙戌。天皇御于大極殿。以詔川嶋皇子。忍壁皇子。廣瀬王。竹田王。桑田王。『三野王。』大錦下上毛野君三千。小錦中忌部連子首。小錦下阿曇連稻敷。難波連大形。大山上中臣連大嶋。大山下平群臣子首令記定帝妃及上古諸事。大嶋。子首親執筆以録焉。」

「(六八二年)十一年…
三月甲午朔。命『小紫三野王。』及宮内官大夫等。遣于新城令見其地形。仍將都矣。」

「(六八四年)十三年…
二月癸丑朔…
庚辰。遣淨廣肆廣瀬王。小錦中大伴連安麻呂及判官。録事。陰陽師。工匠等於畿内。令視占應都之地。是日。遣『三野王。』小錦下悉女臣筑羅等於信濃令看地形。將都是地歟。」

「(同年)閏四月壬午朔。…
壬辰。『三野王』等進信濃國之圖。」

「(六九四年)八年…
九月壬午朔。日有蝕之。…
癸卯。以『淨廣肆三野王』拜筑紫大宰率。」

 これ以降単体の「三野」を含む表記そのものが現れなくなります。それに対し「音」は同じである人物として「美濃」王がいます。彼は「壬申の乱」時点で「美濃国」の「王」として現れます。

「(六七二年)元年…
六月辛酉朔壬午…即日。到菟田吾城。大伴連馬來田。黄書造大伴。從吉野宮追至。於此時。屯田司舍人土師連馬手供從駕者食。過甘羅村。有獵者廿餘人。大伴朴本連大國爲獵者之首。則悉喚令從駕。亦徴『美濃王』。…」

 ここでは「美濃王」は「菟田」から「甘羅村」に至って「徴」されたとされますから、この周辺にその拠点がある人物とみられ、この「美濃王」とその進行方向にある「美濃」という領域との間には関連があるとみるのが相当です。

「(六七三年)二年…
十二月壬午朔…
戊戌。以小紫『美濃王』。小錦下紀臣訶多麻呂。拜造高市大寺司。今大官大寺是。時知事福林僧由老辭知事。然不聽焉。」

「(六七五年)四年…
夏四月甲戌朔…
癸未。遣小紫『美濃王』。小錦下佐伯連廣足祠風神于龍田立野。遣小錦中間人連大盖。大山中曾禰連韓犬祭大忌神於廣瀬河曲。」

 これ以降「美濃王」は全く姿を現しません。
 ところでこの両者とは別に「弥努王」という人物が『続日本紀』に現れます。
 
「(七〇一年)大寳元年…
十一月…
丙子。始任造大幣司。以正五位下『弥努王』。從五位下引田朝臣爾閇爲長官。」

「(七〇八年)和銅元年…
三月…
丙午。以從四位上中臣朝臣意美麻呂爲神祇伯。右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣。大納言正二位藤原朝臣不比等爲右大臣。正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。正四位上小野朝臣毛野。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位上中臣朝臣意美麻呂並爲中納言。從四位上巨勢朝臣麻呂爲左大弁。從四位下石川朝臣宮麻呂爲右大弁。從四位上下毛野朝臣古麻呂爲式部卿。從四位下『弥努王』爲治部卿」

 さらに「美弩王」という表記も現れますがこれも「弥努王」と同一人物と思われます。(ここで表記に使用されている「弩」は大型の弓を示し、戦争で使用する兵器ですから彼に軍事力があることを強く示唆する名前となっています)

「(七〇八年)和銅元年…
五月…
辛酉。從四位下『美弩王』卒。」

 また「美努王」という表記もあります。

「(天平)十八年(七四六年)春正月癸丑朔。…
己夘。正三位牟漏女王薨。贈從二位栗隈王之孫。從四位下『美努王』之女也。」

「天平寳字元年(七五六年)春正月庚戌朔。…
乙夘。前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨。遣從四位上紀朝臣飯麻呂。從五位下石川朝臣豊人等。監護葬事。所須官給。大臣贈從二位栗隈王之孫。從四位下『美努王』之子也。」

 この記事では「橘諸兄」について、「美努王」の子供であり「栗隈王」の孫であるとしていますから、「美努王」は「三野王」であることとなります。また「木簡」では「美濃」は「三野」と表記されるのが普通ですから、「美濃王」は「三野王」と同一人物という可能性は高いと思料します。上によれば「六八二年」と「六七三年」というような近接した時代に「美濃王」と「三野王」が「官位」も共に「小紫」という同じ存在として書かれており、これらのことから「美濃王」は「三野王」であり、「栗隈王」の二人の子供のうちの一人であると認めることができそうです。ただし「壬申の乱」の中に登場する「美濃王」が同一人物かはやや微妙です。それは「日付」です。この人物が登場する記事の日付は「丙戌」ですが、「壬申の乱」中の「三野王」記事の日付は判然としません。移動に要する時間を考えると「大海人」が移動して「美濃」に入ってから少し後なのではないかと思われ、「美濃王」もそれに先駆け移動して「筑紫」に行っていたと考えることは可能かもしれません。山陽道の交通に使用する「駅鈴」は筑紫(大宰府)で保有していたはずですからこれを「父王」から授けられたとすれば官道を使用しての高速移動も彼には可能であったはずです。

 また「栗隈王」は「大宰率」でしたが、「三野王」も同様に「大宰率」に任命されており、すでに「栗隈王」が「筑紫」にその権力基盤を持つ勢力であったと推定しましたが、そうであれば彼と「三野王」が親子であって、この時点でいわば「筑紫」の(全体ではないと思われるものの)「領有権」(支配権)を父から相続したということと考えれば同様に「大宰率」とされていることも不自然ではないでしょう。
 また彼は「小紫」という位階として書かれていますが、この「小紫」は元々上から数えて六番目でしたが、「大宰率」に任命されたという記事では「浄広肆」という位階が記されており、この位階も「従五位下」付近に相当しますからほぼ同等と思われるものであり、その意味でも連続性があります。


(この項の作成日 2017/08/24、最終更新 2017/10/14)旧ホームページ記事の転載

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「天智」という人物について

2018年09月21日 | 古代史

 『古事記』序文には「投夜水」(夜水に「投」(いた)りて)という表現があります。

「…曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 濳龍體元 雷應期 聞夢歌而相纂業 投夜水而知承基 然天時未臻 蝉蛻於南山 人事共洽 虎歩於東國 皇輿忽駕 浚渡山川 六師雷震 三軍電逝 杖矛擧威 猛士烟起 絳旗耀兵 凶徒瓦解 未移浹辰 氣自清 乃放牛息馬 愷悌歸於華夏 卷旌戈 詠停於都邑 歳次大梁 月踵侠鍾 清原大宮 昇即天位 道軼軒后 德跨周王 握乾符而摠六合 得天統而包八荒 乘二氣之正 齊五行之序 設神理以奬俗 敷英風以弘國 重加智海浩瀚 潭探上古 心鏡煌 明覩先代…」

 この文章の中の「聞夢歌而相纂業」という部分は「夢占い」のこととされていますが、後半の「投夜水而知承基」という部分に関してはやや意味不明に受け取られています。一般には「投」を「至る」意味で解釈していますが、「夜水」に「至った」事と、「基を承ける」事との関係が曖昧です。諸々の解説書を見ても納得のいく説明が為されていません。
 以下は、全くの推測になりますが、この部分は「前半」部分同様何らかの「占い」を行なったのではないかと考えられ、「投」を「投げる」という意味にとると、「灌頂」の一種である「結縁灌頂(けちえんかんじょう)」を行なったのではないか、と考えることもできるのではないでしょうか。

 「灌頂」とは「頭頂」に水を注いで緒仏や曼荼羅と縁を結ぶ儀式を指し、多く見られるのが「投華得仏」を行なう「結縁灌頂」というものです。これは目隠しをして曼荼羅の上に華(はな)を投げ、華の落ちた所の仏と縁を結ぶ、つまり「帰依する仏を選ぶ」というものです。これは後の「戦国時代」などでは「武運」を祈るための儀式ともなっていました。
 この儀式は仏教発祥地であるインド(天竺)においては「王」の即位や「立太子」での風習であったらしく、それも含めて「天智」のこの行動が自らの「大義名分」を求めてのものであったことが窺えるものです。
 「天智」は「夜水」でこのような「儀式」を行ない、「帰依する仏」を選び、それを名目に自らの行動を正当化しようとしたと推測されます。推測すると、特定の「仏」を選ぶことが「基を承ける」事を意味するような「意味付け」が行なわれていたのではないでしょうか。(この事に関して後代「天智」と「弥勒信仰」が関連して語られている説話が多く見られるのが注目されます)
 そして、この「儀式」後「夜水」(この場合「筑後川」を指すと思われます)を「渡って」、「筑紫」側に進入したことを示すものと思われ、「肥後」から続く古代官道もこの時点ですでに存在していたと想定すると、これを通って軍を「筑後川」まで派遣して来たのではないかと推察されます。そして、その時点でさしたる抵抗もなく「容易」にこれを越えることができたため、それ以降に軍を進めることを最終的に決断したのではないでしょうか。
 「筑紫」から「筑後」に至る領域は「薩夜麻」が支配していると考えられ、(彼は「筑紫の君」なのですから当然ですが)その分水嶺とでも言うべきものが「筑後川」であったものと思われ、これを越えることが「決断」の瞬間であったものでしょう。それを「灌頂」により正当化したものと思料されます。
 また、確かにこの時点の「倭国」は「筑紫」の「南方」地域への備えは薄かった可能性が高いと思われます。それは「伊勢王」時代に「隼人」に対して「内属」させるなどの政策をとった結果、「南九州」に対する警戒が薄くなったということはあり得ます。
 また当然「半島」での戦闘発生という事態が、列島内部の「軍事力」の「空洞化」を招いたということもあるでしょう。
 
 同じく「序文」の中では「南山に蝉蛻(せんぜい)し」とされており、この「南山」は『筑後国風土記』「磐井」の逃げ込んだ場所を示すのに使用された「南山」と同じと思われます。

『筑後國風土記』磐井君(前田家本『釋日本紀』卷十三「筑紫國造磐井」條)

「…俄而官軍動發,欲襲之間,知勢不勝,獨自遁于豐前國上膳縣,終于南山峻嶺之曲.…」

 つまり「磐井」は「上膳の縣」の「南側にある山」の中に逃れたと言うことのようであり、この「南山」については「高良山」などではなく、「筑後」と「肥後」などの間にある「高取山」などの山岳地帯を指すと考えられるでしょう。「南山」をこう解釈すると上に見た「夜水」との関係も整合的となると思われます。そう考えると「天智」がいわゆる「筑紫」に元々いたものではなく、「肥後」(阿蘇)に所在していたという可能性が高い事を示すものです。その場合、現「菊池市」至近に存在する「鞠智城」がその「拠点」として考えられるでしょう。
 「天智」の「革命」時点以前に「筑紫宮殿」を含むその周辺防備施設の改修が行なわれたと考えられ、この「鞠智城」においても同様に整備されていたと推察され、この段階で「実用」されていたものと考えられます。
 既に触れたようにこの場所は「倭国」の「古都」であり、「倭の五王」以降「筑紫」遷都が行われるまでの二〇〇年余りの間「倭国」の「首都」であったと考えられます。(『隋書俀国伝』の行路記事からも「裴世清」が来たのはこの場所ではなかったかと推察される事はすでに述べました。)

 「天智」の出自については、彼が「天命」を受け、「革命」を起こしたといういきさつからも、「前倭国王」と「親子」や「兄弟」ではないことは明白です。ただし中国の「天命」「寶命」などの使用例を見ると「甥-叔父」の交替の際に「天命」という用語が使用されたことがあり、(「南朝劉宋」の「明帝」の例)、そのような関係が「天智」と「前倭国王」との間にあったという可能性は否定できません。
 「天智」はこの「革命」の際に「東」(我姫)の勢力の支援を受けています。また、この「東国」勢力とは、当地の「新羅系」勢力である「中臣」「高向」などと連係した勢力であると考えられます。このことから「天智」と「高向」「中臣」の間に深い関係があることが推測できます。

 また、「天智」が武力により国内を制圧した時点以降、「近畿王権」をはじめとしてかなり多くの地域が彼の支配下に入ったように見えます。「革命」を起こすという時点でかなりの勢力が彼の支援に回ったと見られることや、その支援をまとめるのに余り時間が掛っていないようにも見えることから、彼の「実力」が「以前」から「評価される」事が幾度かあったことを示すと考えられます。つまり彼は以前よりそれなりに倭国内では人望も名声もあった人物と考えられます。
 そのような人物としてはいろいろ想定できますが、その際には『書紀』の「天智」という人物に対する描写が参考になると思われます。
 『書紀』で「天智」について「孝徳」から見て「姉」の「子供」とされており、これは「実際」の「天智」の家族構成を反映したものかもしれません。そう考えると、『書紀』では「伊勢王」と「孝徳」の入れ替わりが行われていると考えられますから、「天智」は「伊勢王」の「姉」の「子供」である、という可能性もあるでしょう。つまり「伊勢王」には「弟王」がいたわけですが、その他に「姉」もおり、その子供が「天智」であるという可能性もあります。
 こう考えると、「天智」という人物の立ち位置として「利歌彌多仏利」に対する傾倒が強いと考えられる事も理解できます。彼は「天智」から見て「祖父」に当たるわけであり、「利歌彌多仏利」の時代の政治理念のようなものに「共感」していたのかも知れません。また、彼は「利歌彌多仏利」同様、「東院」という「法号」を貰うほど仏教に強く帰依していた人物であると推定され、それもまた「利歌彌多仏利」からの影響かも知れません。
 いずれにしろ「宣諭」されるという事態が発生し「倭国王」が退位するという時点において国内では「有力」な実力者であったという可能性は大きいものと思われます。


(この項の作成日 2012/05/25、最終更新 2015/03/13)旧ホームページ記事の転載

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『古事記』偽書説について

2018年09月15日 | 古代史

 『古事記』については以前から「偽書説」の立場から多数の論が成されており、その中には全体が「偽書」であるとするものや「序文」だけが偽書であるという説あるいは「序文」については後代の成立であるという説など、多数乱立しているようです。
 「序文」が「並序」として「上表文」の体裁をなしていることを捉えて「後代成立」とする論者もありますが、「序」と「上表文」が同時に共存している論理性については「古田氏」により詳細に論究されており、この「上表文」という形式から「後代成立」とか「偽書」というような結論には直結しないものであるのは明らかです。(※1)
 また「一九七九年」に「太朝臣安萬侶」と書かれた「墓誌」が発見され、その表記が「序文」の署名と同じであったことから、「後代成立」や「偽書」という考え方には論理性がないこととなりました。
 また「本文」における「上代特殊仮名遣い」という「奈良朝」における「母音」の書き分けが「正確」に行われていることや、「本文」中の万葉仮名に「呉音」が使用されていると考えられることなどからも、「後代成立」や「偽書」というような論が成立しないのは明らかであり、やはり、その成立がかなり「古かった」つまり、奈良時代或いはそれ以前であったという可能性の方がはるかに高いものと思料するものです。

 また、『日本書紀』も「平安時代」に「編纂」(再編纂)されたものと考えられ、「嵯峨天皇」の時代に大幅な書き換えが行われたと見られます。この時代に「中国」の「北朝」の影響を顕著に受けるようになるわけであり、その思想の元にそれまで存在していた『日本紀』を今見るような『日本書紀』に「改定」したものと思料します。
 この『日本書紀』の元となった『日本紀』はそもそも「親百済的」史料であったものと考えられ、それはその「編纂」の参考資料として「百済系資料」が頻繁に引用されたり、明示せずに本文中に取り入れられたりしていることからも明らかです。しかし「倭国(日本国)王朝」の没落後その受け皿となった「新日本国王権」は明らかに「新羅」「唐」に偏倚した王権と見なせますから、『書紀』から「百済」的イメージの払拭に努めたように見受けられます。彼らは実際には「北朝」的立場から出来うるかぎりの「改定」を行ったというのが正しいと考えられるものです。
 『古事記』の後代成立説はこのような時期に『古事記』(その『序文』)も編纂されたとするわけですが、その場合「嵯峨帝」などの「親北朝」意識に沿ったものとなって当然のはずでしょう。しかし『古事記』はその「万葉仮名」の表記にほぼ「呉音」を使用しており、これは「南朝」の系統に属する発音であり、「唐」以降の「北朝」の王権からは「蔑視」されていたものです。このことは「平安時代」という時代背景や「嵯峨帝」が行った「漢音」重視という政策の中では際だって「異色」であり、時代の流れと即していないといえます。 また、この「呉音」は「太安万侶」の出自と関係あるという可能性もあり、そうであれば「時代」としては整合しますから、「偽書」とするには無理が出てくるでしょう。

 ただ、古田氏が批判の対象とされた三浦氏の論(※2)には興味深い観点が指摘されています。それは「序文」の「史書」選定経過と『書紀』の「史書」選定経過は「全く異なっている」というのです。
 氏は以下のように主張します。

「…序文が絶対的な矛盾を抱え込んでいるという理由はどこにあるかということですが、古事記「序」を正しいとみると、天武天皇は、天武紀十年三月に書かれている「帝紀及び上古の諸事」の記定と、古事記「序」にあるような「帝皇日継及び先代旧辞」の誦習という、まったく性格の異なった二つの史書編纂事業を同時に行おうとしていることになり、その点について大きな疑問を感じるからです。…」

 ここで氏が主張していることについては、「帝紀及び上古の諸事」と「帝皇日継及び先代旧辞」とが「内容」が異なると言う事なのか、「記定」と「誦習」の違いを問題にしているのかはやや曖昧です。
 以下に「序文」『天武紀』の関係部分を見てみます。

(以下「序文」)
「於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭 然運移世異 未行其事矣」

それに対応すると考えられる『天武紀』は以下の通りです。

「天武十(六八一)年三月庚午朔癸酉、葬阿倍夫人。丙戌、天皇御于大極殿、以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以?焉。庚寅、地震。甲午、天皇居新宮井上而試發鼓吹之聲、仍令調習」

 「序文」ではその中で「詔」としてまず「帝紀及び本辞」と言い、次に「帝紀を撰録し、旧辞を討覈して」と表現しています。当然この二つは同じ内容を指すと思われます。でなければ「話」が一貫しません。それを行動に移したのが「勅」として「帝皇日継及び先代旧辞」という表現として書かれているのですから、これも同じ内容を持つ者とみるべきです。同じ人間(天皇)の発言なのですから、この三つが異なると考える「余地」がないのは明らかです。
 また、これに対応する『天武紀』の「帝紀及び上古の諸事」というものも、推測では同じ内容であると考えられます。つまりいずれも「史書」編纂に必要な内容であり、史書の体裁(「紀伝体」であるか「編年体」であるかなど)の違いに拘わらず、等質の内容であると考えるものです。
 つまり氏の主張がそうなのかは不明ですが、「帝紀及び上古の諸事」と「帝皇日継及び先代旧辞」の内容は「異なる」ということは当たらないと考えられますが、「記定」と「誦習」は明らかに異なります。「記定」はまさに「定める」ものであり、「皇子」「諸官人」などの共同作業により「諸史料」を校合して「史書」を実際に「執筆」していく作業を行ったこととなりますが、「誦習」はまず「諸家」にある「帝紀」などについて「阿礼」が「読んで」それを「記憶する」という作業であり、それを「紙に」落とす作業が欠けています。
 これは「記定」とは全く違う作業と考えられ、それを氏が主張しているのなら、確かにその通りと思われます。そして氏は「日本書紀の記事と古事記の序文とを並べた時、どちらかがウソをついていると考えざるをえない」とされ、結果的に『書紀』を「真」とし、「序文」を「偽」とすることとなったのです。
 しかし、そもそもそのような「食い違い」ないしは「論理上」の混乱の原因は、上で述べたように『古事記』の編纂が「天武」ではなく、それに先だって「天智」が指示したことであり、そこに書かれた内容も「天智」に関することが書かれているにも関わらず、「天武」であると誤解されたことが原因であると考えられ、編纂を指示した者の「立場」の違いと「時代」の違いがそのまま「史書」の内容に現れているという事と思われます。
 そのように考えれば『古事記』序文を「後代」のものと認定する根底が覆ります。

 また、山尾幸久氏は「古事記についての一問題」(『日本思想史研究会会報』第4号、1985.7)で以下のように述べています。

 「古事記の本質をどのように見るかは、いくつかの立場がありうるが、ほぼ疑いのない一つは、それが、全体として天皇縁起の性質をもっているということであろう。(中略)これから始まる新しい現実が、未来永劫に続かねばならない正当性根拠の呈示という性質を、古事記はもっている。その論理が、天皇の地位は神の意思の現実態だとするものである。」

 「今まさに新たに生み出そうとしている律令国家の君主の、正当性根拠を、なぜ古事記は、初源における神勅の存在という形式で発想したのか。」

 ここで氏が述べられていることを言い換えると、『古事記』には「初代王」が書かれているという主張とほぼ同一であると考えられます。
 ここで発せられた「問い」に対する答えというものは、『古事記』が「天智」の「革命」を正当化するために書かれた史書であるというものであり、「天智」が「初代」王であるとしたならば、彼の「権威」は「連綿」として続く「倭国王権」には重ならないわけであり、そのため、『古事記』は(その編纂者は)氏が言うような「これから始まる新しい現実が、未来永劫に続かねばならない正当性根拠の呈示」を「新た」に行なう必要が「絶対」にあったものです。そして、それは必ず「神勅」という形を取らざるをえないものであったと思われるわけです。


(※1)古田武彦『学界批判 『古事記のひみつ』著者、三浦佑之氏へ』(『真実の歴史学 なかった』第四号ミネルヴァ書房 二〇〇八年二月所収)
(※2)三浦佑之『古事記のひみつ - 歴史書の成立』(吉川弘文館、二〇〇七年四月)


(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2012/05/26)(旧ホームページ記事の転載)

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『古事記』の成立事情と「隠蔽」について

2018年09月15日 | 古代史

 彼(天智)はこの「序文」の中にもありますが「帝紀及本辭」を書き換えようとしたとみられます。(以下『古事記』序文より)

「於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭 然運移世異 未行其事矣」 

 この『古事記』序文の中にある「削偽定実」の話は、そもそも不審です。「諸家」に「帝紀」があるという事も奇妙な話といえるでしょう。文の趣旨としても「諸家の所有する帝紀」が「正実」ではない、と言っているわけですが、もしそれが「正実」と違っていたところで「天皇家」にある「帝紀」が「正実」であると言えば良いだけのはずです。しかし、ここでは各氏族が個別に所有している「帝紀」を照らし合わせて「正統を伝えている」と認定されるものを選びだそうとしているようです。なぜそうしようとしているか、というとこの時の「天智」(「近江(淡海)大津宮御宇天皇」)の下には「帝紀」がなかったからであり、それは彼が「初代王」だからと考えるのが相当と思われるわけです。
 彼は「革命」を起こしたわけですが、当時の「倭国」ではまだまだ「大義名分」というものが「統治」の際の大きなウェイトを占めていたと考えられ、「初代」であることは逆に「統治」の障害となる可能性が高く、このため「初代王」であることを「隠そう」としたもののようです。そのため、「制圧」した領域である「近畿」の地に以前から勢力を張っていた「近畿王権」の系譜に連なろうとしたものでしょう。

 古田氏が指摘したように「唐」の永徽年間に「長孫無忌」が「太宗」に上表した『五経正義』の「序」と『古事記』の「序」は「酷似」しています。(このことから少なくともこの「序」そのものは「永徽年間」以降に書かれたことが推察できます)
 『五経正義』とは『周易』『尚書』『毛詩』『禮記』『春秋左氏傳』の五経の「疏」を言うものですが、そのうち『尚書正義』の「序」に『古事記』の「序」が酷似しているというわけです。
 『尚書正義』の場合は「焚書坑儒」により多数の「書」が失われたという前提の元に「記憶」されていたものを「誦習」し、それを記録したというわけですが、それに対し『古事記』の場合は「天智」が「初代王」であるがために「連綿」として継続した「帝紀」などが「自家」に「ない」とみられ、そのため「諸家」の所有する書(「家伝の書」であったものでしょう。)を集め、その中から「適当」なストーリーを選び出し、それを新たな「帝紀及本辭」として選定し、それを「稗田阿礼」が読み下し記憶したものと考えられます。
 「阿毎多利思北孤」の改革により「近畿王権」の支配領域も含め各地に「広域行政体」が置かれ、その「長」として「国宰」が任命され(倭国中央から派遣された人物がそれに充てられたと考えられます)、そのことにより「諸国」の「王」による「支配体制」が崩壊したと思われ、そのため「近畿王権」の系譜は「推古」までしかない、ということとなったもの思われます。(それは「薄葬令」による「前方後円墳」の築造停止によるものであり、そこで行われていた「王」の交替儀式などを不可能とする施策であったものと思料されます)
 そのため「王紀」(諸国の王の年譜のようなもの)の記載も中断せざるを得なくなったものであり、結果としてそれらは「古文書」と化する事態となったものでしょう。それらはすで特定の「史官」などにしか読み下すことができなくなっていたものであり、その能力を持っていた(当然それなりの教育を受けたものでしょうが、それは「秘伝」であったかもしれません)「稗田阿礼」に対してこれら「近畿王権勢力」の各家に伝わる「家伝」に対して「読み下す」よう命じたものです。

「時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心」

 「森博達氏」の議論から推察して、すでに「倭国王権」により「持統朝」時代に『日本紀』(『日本書紀』の原型)の原型と言えるものが書かれていたと考えられるわけですが、これはあくまでも「倭国王朝」のものであったため、「八世紀」の「近畿王権」としては全面的に自分たちの「近畿王権」の年譜に書き換える必要があったものです。
 『推古紀』までの「近畿王権」の「年譜」が入手できれば、それ以降については「倭国資料」から「借用」して、接続、盗用することにより、穴埋めが可能となります。
 また、「帝紀」(帝王日継)と並んで「旧辞」(本辞)を対象としていますが、中国の例でも「先代」あるいは「旧辞」とは、自分たちの王朝ではなく「先朝」の王についてのものを指すものですから、ここでは自分たちの「革命」によって打倒された「先朝」の中の有徳であったり勇猛であったりするような「王」についての記録を示すと考えられます。それらを自分たちの歴史に無理に「接着」させ、「新しい」歴史書を造ろうとしたのでしょう。そのために、「天武朝」(浄御原朝)が終わった後、あらためて、「史書」編纂事業が始められ、まだ「存命」していた「稗田阿礼」に、記憶していたものを思い出させて読ませ、それを書き写したものが『古事記』であると考えられます。そして、その「序」で「太安万侶」が「天智」を賞賛する文章を書いたものです。

 このように「史書」編纂着手が長引いたのはもちろん、「東国」にその支援母体があった「天智」が始祖となった「近江朝廷」が、「壬申の乱」といういわば「反革命」により「滅亡」したため、その機会がなかったという「やむを得ない事情」によるものと思われます。
 それは「上」に挙げた「序文」の末尾に以下にのように「言葉少な」に書かれているところからも察せられるものです。

「然運移世異 未行其事矣」

 ここでは「理由」も何も示されず、ただ、「まだ行われていない」とだけ述べられています。あえてその「理由」とか「事情」について触れないのは、書くに忍びない事情があったものであり、そのことを巧まずして表現しているようです。

 「天智」が王朝を創始したことを『書紀』が明確に書いていないのは、このように「大義名分」の問題があるからであると思われます。「新日本国王権」の彼らは「持統」、つまり「倭国王」からの「禅譲」を「装って」居ますから、「天智」が「革命」を起こした人物であるとすると代々の「倭国王」が持っていた「大義名分」が「文武」以降の「新日本国」王朝には「ない」と言うことになってしまいますから、明確に書くわけにはいかなかったものと思料します。
 しかし、上に見るようにこの『古事記』にはそれが「明確」に書いてあったのです。このことが『古事記』を歴史から消え去る原因ないしは動機となったものと考えられます。
 それは「唐」に対する遠慮であり「恐怖」です。つまり、「天智」は前倭国王が「隋皇帝」から「宣諭」され、それに対して屈服したものを「否定」して「革命」を起こしたものとみられ、そのようなことは「隋」「唐」という中国皇帝の権威に対する挑戦以外の何者でもないわけですから、そのような「人物」を「八世紀」日本国王朝が「皇祖」として戴いていることが露骨に書かれているような「史書」は「唐」に見せるわけにはいかなかったと言うことではないでしょうか。

 当時の関係者には、「序文」を見るとそこに「天智」が「書かれている」とすぐに分かったものと思われ、それは「対唐」という観点で考えると非常に「不都合」な事であったものと思料されます。『古事記』の「本文」は「万葉仮名」つまり「日本語」であるわけですが、「序文」は「漢文」であり、この部分は「唐」の人間でも「読解」が可能であるため、彼等に見せるわけには行かないと考えたものでしょう。このため後に編纂された『書紀』からは「天智」が明確に「革命」を起こしたとは判定できないように、「その部分」が抹消されてしまい、代わって、その「天智」を継承した「大友」が滅ぼされる戦いがあり、それを継承したのが現在の政権であるという「虚偽」を書いて「唐」に対する顔向けができるようにしたものと考えられます。


(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2016/08/21)(旧ホームページ記事の転載)

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八世紀「新日本国王権」と「天智」

2018年09月11日 | 古代史

 前述したように『書紀』の「壬申の乱」記事と、『古事記』序文記事とは相違する部分が多く、これを「同一の事象」を記した別の史料とは考えにくいと思われます。この「両記事」の違いは『書紀』と『古事記』の「編集方針」の違いとか「表現方法」の違いというようなレベルではなく、この二つの記事は全くの「別物」であって、「別の時点」の「別の事象」を記したものではないかと考えるべきでしょう。
 その考えをさらに補強するのが「八世紀新日本王権」の、「天智」とされる「近江(淡海)大津宮御宇天皇」への傾倒です。以下にいくつか上げてみます。

 そもそも、この「序」が上表された相手である「元明」は「天智」の皇女です。それに対し「天武」は自分の夫である「草壁皇子」の父であるとされていますが、また「天智」の後継であった「大友」(元明の「異母兄弟」となる)を打倒して「即位」したものであり、そのような人物を(だけを)激賞するような「上表文」が有り得るのかというと大変疑問ではないでしょうか。
 ある意味「元明」にとっては、「天武」という存在は「不本意」なものであったという可能性もあると考えられます。少なくとも「元明」にとって誰よりも「依拠」すべき存在であったのは亡き父である「天智」であったと考えるのは当然でしょう。
 それは彼女だけではなく、「元明」の「即位の詔」や「聖武」の「即位の詔」などにも現れている、「八世紀」の王朝全体の意志であったと考えられます。
 後にも述べますが、「八世紀」の「日本国王権」はその「皇位継承」の際に(「近江大津宮御宇天皇」(これは通常「天智」とされている))により作られた「不改常典」を継承することを宣言していました。これを知っていたはずの「太安万侶」が「天智」を賞賛するのではなく、「天武」を賞賛する上表文を提出したものとすると余りにも「不可解」であり、「無思慮」と言われるものでしょう。
 つまり『続日本紀』によればこの時点の「新日本国王権」は、形の上では「持統」から「文武」への禅譲としながらも、拠るべき「権威」は「天智」に連なっているという、「変則的」な主張をしているのが分かります。つまり「倭国王権」の正統性、大義名分を「持統」から継承したこととなっているにも関わらず、その実「初代王」としては「天智」を戴いてることとなっているのです。

 また「天智」が「造籍」させたとされる「庚午年籍」についても、「八世紀」の「文武朝」において「戸籍・計帳」の基準とするように、と言う「詔」が出されています。

「(大寳)三年(七〇三年)秋七月甲午。詔曰。籍帳之設。國家大信。逐時變更。詐僞必起。宜以庚午年籍爲定。更無改易。」

 このように「天智」が造籍させたものを「基準」とすると言うこともまた、自らの権威を「天智」に求める姿勢の表れであると考えられるものです。

また、「天智」の手がけたものについて継続の意志が表明されます。それが「観世音寺」の建設です。
 『続日本紀』には「元明」の詔として「観世音寺」の工事進捗を宣言していますが、そこでも元々「天智」の「誓願するところ」であり、工事が一度は始められながら停滞していたことが書かれています。
(以下続日本紀に書かれた「元明天皇の詔」)

「七〇九年」「慶雲六年」「二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺 淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月差發人夫專加検校早令營作。」

 この「観世音寺」は「天智」がまだ存命中に「創建」されたものですが、工事途中で「天智」が死去し「近江朝廷」が滅亡した時点以降その進捗が停止されていたものです。それをかなり時間が経過した時点である「元明」の朝廷において再開しようというわけですから、「天智」への傾倒がなみなみならないことが窺えるわけです。

 さらに『天智紀』の「近江令」の発布についても以下のように『書紀』の「編纂者」により「注」が書かれています。

「天智十年春正月己亥朔(中略)
甲辰。東宮太皇弟奉宣或本云。大友皇子宣命。施行冠位法度之事。大赦天下。『法度冠位之名。具載於新律令。』」

 末尾の「法度冠位之名。具載於新律令。」とあるのは「八世紀」の「編纂者」の「注」と思われます。 つまり、この『天智紀』で出されたあるいは「出されるはずであった」「法度」「冠位」については「新律令」に載っているというのです。この「注」は当然この「編纂者」の感覚として「新」といっているわけですから「八世紀時点」のものと思われますが、その時点における「新律令」とは『大宝律令』を指すことは間違いないと考えられ、ここに「天智」の意志が反映されているということとなります。ここには「天智」に権威の根拠を置くという「八世紀」の「新日本国王朝」の意志が明確に示されています。つまり、新しく出された「律令」は今「日の目」を見たが、実はそれは「天智天皇」が元々作られていたものなのだと言う、ある意味「強弁」を弄しているわけですが、そこまでしても「天智」の権威を「絶対化」しようとする意志が見えるようです。

 また以下の『続日本紀』の詔にあるように、「天智」の「崩日」は「八世紀」に入ってから「正式」に「国忌」とされています。

「(大寶)二年(七〇二年)十二月甲午。勅曰。九月九日。十二月三日。先帝忌日也。諸司當是日宜爲廢務焉。」
 
 ここでは「天武」の「崩日」(九月九日)についても「忌日」としていますが、「天武」の「崩日」はそれ以前から、既に『書紀』に「国忌」とすると書かれています。

「(朱鳥元年)(六八六年)九月戊戌朔…丙午(九日)。天皇病遂不差。崩于正宮。」

「(持統)元年(六八七年)九月壬戌朔庚午(九日)。設國忌齋於京師諸寺。」

「(持統)二年(六八八年)二月…乙巳。詔曰。自今以後。毎取國忌日要須齋也。」

 この記事から理解されるように「天武」の「崩日」は以前から「国忌」とされていたものであり、その日は「詔」にもあるように今後「毎年」「斎」く事が決められていたのです。
 つまり、この時点までは「天智」に関しては「国忌」とされていたわけではなく、「八世紀」の「新日本国王朝」になって初めて「国忌」とされたわけであり、この「詔」が出されたのは「十二月甲午」とありますから、「十二月二日」と推定され、これは「詔」の中で規定されている「十二月三日」という「天智」の「崩日」の前日となります。このことは「天智」の「崩日」を「急いで」「国忌」として定めたことが推量され、この後間もなく「持統」が死去する事から考えて彼女の「遺言」であったと思われます。
 つまり「八世紀」「持統」から「文武」へと禅譲された後の「新日本国王権」において「天智」は「先帝」とされ「それまでとは違って」特別な存在として扱われ、重大視されることとなったものと見られます。(後にそれはさらに推し進められ「桓武」「嵯峨」両天皇の時代には「天武」の「崩日」が国忌から外され、「天智」と彼に関わる子供達だけが国忌の対象となります。)

 以上より「八世紀」に入ってから「王権内部」の共通な「認識」が変化し、新たに「天智天皇」に対する「畏敬」の対象とすることが形成されたことが推定されますが、『古事記序文』がそのような時期のそのような雰囲気の中で書かれたとすると、そのことが『古事記』の記述に現れていないとは考えられず、その「序」に書かれるべき人物は「天智」でなければならなかったはずと思われるわけです。


(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2016/08/21)(旧ホームページ記事の転載)

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