古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「筑紫都督府」について(続)

2018年07月08日 | 古代史

 「百済鎮将」という語に関しこれを制度に則ったものという指摘をしたが、それに関し、類似の呼称と思われるのが『善隣国宝記』に見える「郭務悰」に与えたという「日本鎮西筑紫大将軍」という署名である。

(『善隣国宝記』上巻 (天智天皇)同三年条」「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物悰看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總*管。使人朝散大夫郭務悰等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總*管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 ここに現れる「鎮西」という用語を後代のものと見る立場もあるが、すでにみたように「隋」「唐」の用語使用法との関連で考えると、これはこの時点で使用されていたと見るのが実際には相当と思われる。
 その意味でこの「鎮西筑紫大将軍」という記事は「筑紫都督府」の存在とつながるものであり、「筑紫」に「鎮」を置きそれが「大鎮」であったものであり、そのため「都督」として「大将軍」が任命されていたこととなる。
 ただし、『書紀』では「筑紫都督府」記事はもっと後ではあるが、それは「近江遷都」の直後の記事であり、明らかに「筑紫都督府」の設置が「近江朝廷」によるものとする立場で書かれていると思われる。
 「天智」は「筑紫大宰」として後事を託されていたと思われ、彼の意志として「鎮西」(これは「筑紫」から見て「西」の「唐」をさすものではないか)「筑紫大将軍」と号していた可能性があると思われる。(この名称は通常の「鎮東将軍」などと違い「筑紫」という地名が入っているのが特徴であり、これは「筑紫君」の別称ではないかとも思われる。「薩夜麻」に後事を託されたとすると彼(筑紫君)の近縁者が選ばれていた可能性が高く、「天智」も同様であった可能性が高いと推量する)

 この時点での倭国側の対応は「津守連吉祥」と「伊岐史博徳」が主に担当しているようだが、この時点での「筑紫太宰」は『書紀』では不明である。最後に「筑紫大宰」記事が出るのは「六四八年」に「蘇我日向」が「筑紫大宰帥」に任命されているが、その後全く記述がなくなり、次に現れるのは「六六八年」という「皇太子即位」記事の後である。このことは「筑紫大宰帥」であったのは「天智」自身ではなかったかと考えることができることを示している。
 彼が「大宰帥」として後事を託されたものであり、さらに国内に発生した軍事的空白を利用し「日本国天皇」の地位を継承したとすると「即位」直後に「大宰帥」を任命している(栗前王)ことも、『善隣国宝記』において「称筑紫太宰辞、実是勅旨」という文章が存在するのも理解できることとなる。

 また九月に行われたとされる「郭務悰」に対する口頭での返答の後「文書」として正式な回答を行った時点での表函の表書きは「日本鎮西筑紫大将軍」としており、これは回答の相手先とのバランスを考えたものであると思われる。つまり交渉の相手である「郭務悰」が「行軍總管(総管)」という軍人であったため、回答する倭国側も軍人が相当とみたものと思われ、名称として「将軍」というものが書かれたものと思われる。ちなみにここに「倭国王」とあっただろうという推定がされる場合があるようだが、そもそも「私辞」であるとして返却するのに「倭国王名」で表函の表書きが書かれていたはずがなく、その意味で不当と思われる。

 さらに『善隣国宝記』の別の部分では「天智」「天武」に対して「国書」を「唐皇帝」の使者として「郭務悰等」が持参したとされている。しかし「郭務悰等」とは「百済」の「熊津都督府」にいた唐人のはずであり、もし「筑紫」に「唐」が設置した都督府があったのなら彼らは「熊津都督府」から「筑紫都督府」へ伝送され、そこから「倭国王」の元へ派遣されたこととなるが、そうなるとその時点で「倭国王」が同時に存在はできないはずである。「都督府」という存在と「倭国王」という存在は両立できるはずがないからである。
 彼らはあくまでも「熊津都督府」から派遣されてきたものであり、その行く先は「倭国王」である。

 『善隣国宝記』では「郭務悰」が国書を持参しており、さらに「筑紫」でその国書を提出しているが、このことは「筑紫」には「都督府」がなかったという上の推測を裏付けるとともに、その時「筑紫」には「倭王」がいたことを強く示唆している。
 後の時代に「元」から「招慰使節」として派遣された「趙良弼」という人物の言葉によれば「高宗」の派遣した使者は「倭国王」に面会しているとしていますから、この「郭務悰」も当然「天智」と面会したはずということとなる。
 また、この時の「天智」への国書と「天武」への国書持参はや同じ訪問機会のことであり、このことは双方への国書は当初から用意していたことを示唆させる。つまり(これは推測となるが)「唐使」(郭務悰等)は「天智」を認めないという唐朝の意思と、それに代わる人物「天武」を旧来通りの「倭王」としてなら認めるという趣旨を伝達したものと思われるのである。

 「天智」は「日本国天皇」を自称していたものとみられるわけだが、それは以前「隋朝」に対し「倭」から「日本」へという国名変更を願い出たものの同時に「天子」を自称するという挙に出たためそれを咎められ、そのことも含め認められなかったと思われることと関係していると思われる。この経緯を踏まえた「天智」は(というより「倭王権」は)「天子」自称はしないこととなった模様である。「伊吉博徳」の遣唐使派遣記録では「唐皇帝」を「天子」と称しており、自らを「天子」とする立場にはおいていないのは確かである。しかもこの「伊吉博徳」の書をみるとこの時「日本国」という自称を「高宗」は受け入れていた模様である、それは倭国側が「新羅を通じて起居を通じる」(六四八年)という記事が唐側史料にあるところから見て、「高表仁」の一件について「謝罪」したからではなかったか、それを「唐」が受け入れた結果「日本国」という呼称変更とともに「天皇」自称を認めていたものであったものと思われのである。つまり「唐」の「天子」に対し倭国側の「天皇」という位取りはそれほど僭越とは言えないため、これを「唐朝」として認めていたものと思われるわけである。

 「倭王権」はこの時以降「倭王」としての自称を「天皇」としつつ国名は「伊吉博徳」の記事からもわかるように「日本」という当初予定していたものに変えていたものであり、これらを通じて自らの立場の主張を表明していたものであるが、「百済」をめぐる戦闘の後、結果として「唐」はそれを「隋」と同様否定することとなったものであり、それは「天智」という存在とともに否定することとなったものであろう。その理由が「百済」に援軍し、唐軍と戦火を交えたという(唐から見て)重大な「反乱行為」にあったからとみたのは明白であり、その責任を「天智」に帰着させるものであった。

 「唐」に対しその後「天智」がその地位を失い、「天武」が「倭王」として存在することとなったが、彼もまたその時点で「筑紫」にいたものであり、そこで「倭王」として国書の提出を受けたとみられる。
 推察するに「六四八年」以降「倭国」の体制が「日本国」と「天皇」という存在の元であったとすると、「薩夜麻」も同様「日本国天皇」であったこととなる。
 彼は「百済を救う役」に先頭に立って参戦したものの、いわば初戦敗退した結果となっており、それ以降「唐・新羅側」に拘束されていたものであるから、「白村江の戦い」という直接唐軍と戦火を交える戦闘に対し何らかの指示もできる状態ではなかったものと認定されていた可能性がある。そうであるとすると「唐朝」としては彼に責任を問うことはしないしできなかったであろうと思われ、必然的にそれらに対する責任は「薩夜麻」不在時点において国内を総括していたはずの「天智」に帰着することとなるのは当然と思われる。(ただしその地位が後事を託されたことに由来するか、簒奪したものかは微妙である。私見では後者とみている。)
 「薩夜麻」が「唐」の側にいわば寝返っていたかどうかは何とも言えないが、それが理由で責任を問われなかったとはいえず、あくまでも捕囚の身であった彼が戦闘指示などできたはずがないという一点で責任を免れたものと推量する。

 この時のような「郭務悰等」の「唐使」が派遣される場合、明らかな軍事的な目的があったものであり、このような使者の場合、使者の行動・発言などが法令に準拠しているか監視、また時にはアドバイスなど是正する役割の「判官」(監察御史の類)など事務方など通常の編成に加え、兵器を携えた者など軍事力を伴う一団がその主要なメンバーとして付加されていたはずであり、それが『書紀』に2千人という人数として現れていると考えるべきである。これらの軍事力がその存在価値を発揮したと考えられるのは、この時「郭務悰等」に伴われて「筑紫君」という「薩夜麻」たち高官4名が帰国しているが、彼等(特に「薩夜麻」)が「唐」側にとって重要な人物であったのは確かであり、そのため「護衛」の意味を兼ねて多数の兵員を乗せていたものと思われるのである。
 「唐」にとって帰順した彼を「倭国王」として遇することが唐にとって最も好ましい体制と考えられていたことは想像に難くなく、彼はこの時点以降「天武」という「唐」のお墨付きが付いた人物として「倭王権」の頂点に再度つくこととなったものではないか。(「天武」と「薩夜麻」の酷似についてはすでに述べた) 
 ただし「日本国天皇」という称号は「天智」という存在とともにいわば「はく奪」されたものであり、「天武」は旧来通り「倭王」といわば後退した認識の存在として「唐」から認められることとなったものと思われる。

 これらの動きに対し「天智」の太子であった「大友」が同調せず、反旗を翻すこととなったため、「天武」となった「薩夜麻」は唐軍の援助(多分に間接的なものと思われるが)を得ながら東国を含む統一戦線を構築し「大友」を駆逐して旧地位を回復したものである。(ただし今度は「日本国天皇」ではなく「倭王」としてではあり、当然国名もこれ以降「倭国」に戻ったわけであるが。)

 その後「日本」と自称するのは「唐」との交渉が30年以上途絶えた後の「倭国」が滅びた後の話であり、いわば「時効」を迎えたと判断してのものと思われるわけであるが、その意思の根源は彼らが自らの権威の根拠として「天智」を戴いていたことが重要であったと思われる。
 天智は「日本国天皇」という地位を自称していたわけであり、彼らはその後裔を自称していたものであるから、当然のように「日本国天皇」という呼称を自称するようになったものである。 

コメント

「筑紫都督府」について

2018年07月08日 | 古代史

 久しぶりの投稿となった。理由としては公私多忙という点に尽きる。半ば介護状態にありながら、なお仕事は幾何級数的に増えている。古代史について向かい合う機会が圧倒的に減少してしまっている。そのような中でつらつら考えたことを以下に記す。

 『書紀』には「六六七年十一月」という時点で「筑紫都督府」という存在が書かれている。この「筑紫都督府」について「唐」が設置したという考え方がある。しかしそうなら「唐」朝廷は「都督」となる人物について「将軍号」を持った人物を配置すると共に「都督府」に詰めるその他の官人も全て任命したこととなる。しかし「唐側史料」にはそのような記事が一切見当たらない。また国内史料も同様であり、それらは推測の域を出ないというべきである。
 確かに「熊津都督」には帰順した「扶余隆」が任命されており、もし「倭国」にも「都督府」がおかれたとすると帰順した「薩夜麻」が適任であるようには思われる。しかし、私見ではそうとは考えられない。そのような事態があったとは想定できないのである。(ちなみに「扶余隆」は「新羅」との軋轢を恐れて着任しなかったといわれており、「都督府」設置後のトラブルの発生を予見していたようである)

 「唐」が「都督府」を設置する場合には一定の条件があったものとみられる。それは第一に「軍事」に関わることであり、危急の場合に援軍が容易に増派、救援可能な距離であることである。その意味で「倭国」は「遠絶」の地であって設置するのに適地とは言えない。間に「大海」をはさんであり、この状態では軍を派遣するといっても「万余」という数量は困難ではないだろうか。「百済」でさえも「熊津」で「鬼室福信」など旧百済軍が周囲を取り囲む事態となって「劉仁願」は窮地に陥っている。ましてや「大海」をはさんだ遠絶の地で孤立した場合を考えると、そのような地に「鎮」つまり「都督府」を設けることはほぼ考えられないのではないか。(ちなみに「鎮」とは「隋」の高祖の時代に制定された「鎮―防―戍」という辺境防備の軍組織の名称の一つであり、規定によれば「鎮」には「将」が置かれたとされる。「百済鎮将」という表現が『書紀』にあり、一般的にはこの表現は「百済占領軍司令官」的通称と理解されているが、実際には制度に則ったオフィシャルなものであったと考えるべきである。)
 また通常「都督府」がおかれる場所は戦争により帰順させた地域であり、その後の政治的安定を図るために設置するものであるから、「百済」や「高句麗」の地への設置は当然と思われるが、「倭国」は(「倭王」が降伏したとしても)その地が戦場になったわけではなく、その意味でも設置する条件を満たしていないと思われる。

 そもそも「唐」は「高句麗」については「隋」以来の仇敵といえいつかは制圧するつもりでいたものの、常にその背後にいる「百済」の影がちらついており、そのためまず「百済」を討つのが先決と考えていたわけであって、その機会を「新羅」が利用したというわけであるが、「百済」と「高句麗」については作戦の当初から征討の対象であったわけである。さらにその後はいわゆる「羈縻政策」(つまり都護府や都督府を置きそれらにより支配する)を行う予定であったわけだが、元々「倭」はそれらの対象ではなかったと思える。
 彼らと「唐軍」はたまたま戦場で出くわしたというだけであり、戦火を交えたものの「倭」と正面切った戦争を行ったわけではなかったものである。

 このように「唐」が「倭」と戦闘することはない、つまり彼らの作戦遂行の支障とならないというように見込んでいたのは、「伊吉博徳」たち遣唐使団を質に取っていたことからもうかがえる。すでに考察したが「伊吉博徳」たち遣唐使団は「長安」と「洛陽」に分かれて幽閉されることとなったものであり、それは「唐朝」は当初からそうする予定ではなかったかと考えたものである。
 この人質を取る作戦が功を奏して当初の戦いでは倭国と唐が直接戦闘を交えることはなかったわけであるが、それは「倭国」がその「唐」の意図を察知して(というか「唐」に「遣唐使団」がいるうちは「唐」と直接戦闘に入るのは彼らにとって危険と誰しも考えることではある)作戦を変更し直接「新羅」をたたくこととしたことからであろう。しかし「新羅」と戦闘になることは以前に高宗から「璽書」を下され危急の際には「新羅」に助力せよと指示されたことに反することとなるものであるから、その段階以降「唐」からは「朝敵」とみなされていたとしても不思議ではないこともまた確かと思われる。
 しかし、「唐」はそもそも「倭」を征服しようとは思わず、また征服したとも思っていなかったものであり、もちろん「璽書」に反する行動をとったことは確かであるが、そのことで「倭国」と戦争をする、あるいは滅ぼすというようなことを考えていたわけではなかったと思われる。その最大の理由はそれが「遠絶」の「大海」をはさんだ地域であるという一点ではなかったか。もちろん「高昌国」の例のように極端に反旗を翻すようであれば「懲罰」の意味で軍を派遣することもあるが、この時(太宗の時)も「唐」の制度下に置くことはしなかったものであり、その理由は軍事的負担が大きすぎるというものであったものである。そうであれば「倭国」も同様(というよりもっと悪い条件)の理由により「都督府」を設置する意義が認められないものであり、それが「唐側史料」に「筑紫都督府」関連の記事が見られないという事実に現れていると思われる。

 ではこの「筑紫都督府」とはどのようなものであり、誰が設置したものであろうか。

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