古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

軍事拠点としての「難波宮」

2021年06月27日 | 古代史
『書紀』には「百済を救う役」の際に「難波宮」で「軍器」を閲した記事があります。

(六六〇年)六年…十二月丁卯朔庚寅。天皇幸于難波宮。天皇方随福信所乞之意。思幸筑紫將遣救軍。而初幸斯備諸軍器。

 これによれば「難波宮」で「諸軍器」を「初幸」したとされています。確かに「斉明」は『書紀』による限り「難波」には行ったことがなかったようですから、「初幸」という表現も当然ですが、この時点で「筑紫」に行くのに際して「難波宮」で「諸軍器」を確認したらしいことが窺えます。つまり「難波宮」には「軍器」が揃っていたということですが、確かに『書紀』には「難波宮」の「兵庫職」についての記事があります。

(六八六年)朱鳥元年春正月壬寅朔…乙卯。酉時。難波大藏省失火。宮室悉焚。或曰。阿斗連藥家失火之。引及宮室。唯兵庫職不焚焉。

これによれば「兵庫職」は焼けなかったとされていますが、この「兵庫職」とは儀礼や実際の戦闘の際に必要な物資を保管している場所であり、そのような重要な建物であったことから「耐火建築」(漆喰などを使用した)であったのかもしれません。そして、軍事行動や儀礼の時など必要なときにそこから取り出すというわけですが、それを実行しているのが上の「六六〇年」の記事というわけです。つまりこのとき「難波宮」には「諸軍器」が揃っていたというわけであり、「難波宮」が軍事拠点としての機能があったことが窺えます。
 「難波宮」にそのような機能が必要だったのは、そこが「東方の諸国」(言い換えると「近畿王権」)に対する警戒と威圧の中心であったというのが大きな理由であったと思われ、より「近畿王権」の支配領域に接近していることがそのような緊張状態を作り出していたと言えるでしょう。(構造と設置場所の状況が「山城」的であるのも「軍事」がメインの施設であったためと思われるものです)
 逆に言うと「飛鳥宮」(「斉明」が本拠としていた宮)には「軍事力がなかった」ということが推定でき、その意味からも「飛鳥宮」は「軍事拠点」ではなかったものであり、単なる「離宮」的な場所であったとみます。
 このような軍事的理由により「斉明」は戦いの前に「軍備」を整えるために自身の拠点である「飛鳥宮」ではなく「難波宮」に赴いたと理解するべきでしょう。

 また外国使節や蝦夷に対する対応も「難波宮」で行ったらしいことが書かれています。

(六五五年)元年…
秋七月己已朔己卯。『於難波朝』饗北北越。蝦夷九十九人。東東陸奥。蝦夷九十五人。并設百濟調使一百五十人。仍授柵養蝦夷九人。津刈蝦夷六人冠各二階。

 ここでは「百済調使」の他「蝦夷」も「饗」していますが、メインは「百済調使」であり、至近に存在していた「難波津」に到着していたものと推量されます。(蝦夷は「陸路」「難波」に来たものと推量します)
 「難波津」はすでに見たように「筑紫」あるいは「百済」等「西方」の使者の往還に使用すべき港湾であったものであり、また彼ら用の迎賓館らしきものがあったとされています。この「難波津」が「西方」との窓口的役割があったのは、「法円坂遺跡」に見られるような「倉庫」(多分に「邸閣」的機能を持っていたと思われる)が設置されていた時代からではなかったかと思われ、それは「倭の五王」の時代の東方進出という事業の徴証と思われるわけですが、その「難波津」の至近に「宮殿」がある訳ですからこの「難波宮」はこの「難波津」と深い関係があるのは当然であり、それを考えると「難波宮」は「孝徳」の末年に「放棄された」というわけではなく、吏員により維持管理されていたと思われ、重要な拠点(それも特に「軍事」的な意味での)として機能し続けていたことが窺えます。

 中国都城の研究からの帰結して「条坊制」を持つ都城の性格として、外部勢力によって作られたものであること、またそのことから必然的に「軍事的意味」が強くなることが挙げられています。(※)
 「難波宮」はその高台状の場所に立地しているという戦略上の利点を持っていることやそこに条坊制があったこと、古代官道が接続されていたことなどを考えると中国都城の例と同様に「軍事に特化した存在」であることが推測できます。その意味ではこの場所にそれほど軍事的意味を持たせる必然性が、近畿王権にとってみると薄いと言えます。なぜならこの周辺地域とそこにある勢力は彼らにとって関係が深いものであったはずであり、そのような場所に対して「軍事力」を保持する必然性がないと思われるからです。
 このような「軍事力」を保有する(せざるを得ない)理由としてもっとも考えられるのは、周辺が「非友好的」あるいはまだ「統治下に完全には入っていない」ような勢力である場合でしょう。そのような場合「出先」周辺に対する警戒のため「関」等の軍事拠点を周辺の交通の要所に設け、警戒に当たるべきですが、その意味で以下の記事は(時期としては違和感がありますが)内容は整合するものです。

(六七九年)八年…十一月丁丑朔…是月。初置關於龍田山。大坂山。仍難波築羅城。

 ここでは周辺の山に「関」を置き、「羅城」を「難波」に築いたとされますが、「難波」に「羅城」を築くなら周辺に対する警戒は当然必要であり、「龍田山」と「大坂山」の背後(向こう側)に潜む勢力に対する警戒というものが厳然として存在していることを表しているようです。
 これも「近畿王権」の中心としての「難波宮」であったとするとこの「龍田山」「大坂山」に「関」を設ける意味が不明でしょう。このような状況は「東方」に対する警戒を表し、「難波」の周辺地域がいわば「仮想敵」状態であったことを窺わせるものですから、この「難波宮」の主がより「西方」にその中心権力を持つ王権であることを示しています。

(※)妹尾達彦「中国都城の方格状街割の沿革 都城制研究(三)」奈良女子大学二十一世紀COEプログラム報告集Vol.二十七)二〇〇九年三月
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「治部卿」と「礼式」

2021年06月26日 | 古代史
 以下の記事は以前投稿したものとほぼ同趣旨ですが、最近気がついた点を含めて再度投稿いたします。

 最新の「淡海三船」の著と言われる『懐風藻』の「葛野王」の伝記の欄に、「高市皇子」の死去後、後継者(日嗣)についての審議があったとされる記事があります。そこには以下のように書かれています。

「高市皇子薨じて後、皇太后、王公卿士を禁中に引きて日嗣を立てん事を謀る」

 古代では「日嗣(ひつぎ)」は「皇位」と同じ意味です。「日嗣皇子(御子)」とはまったく事なるものであり、「日嗣ぎ」は皇位そのものです。そして、この記事が「草壁皇子」の死去に伴うものならまだしも、「高市皇子」の死去後に「日嗣」についての「審議」があった、ということ自体が「不審」な事と思われます。それは『書紀』によれば「草壁」の死去から「高市」の死去まで相当な年数が経過しているからです。
るからです。

(六八九年)(三年)四月乙未。皇太子草壁皇子尊薨。

(六九六年)十年…秋七月辛丑朔。…庚戌。後皇子尊薨。(高市皇子)

 この「後皇子尊」が確かに「高市」を指すのであれば、「草壁」死去から実に「七年」が経過していますから、「高市」の死去に伴って「草壁」の後継者を決めるとは到底考えられることではないこととなります。さらに「高市皇子」が「皇太子」でも「天皇」でもなかったとされていることも当然ながら重要です。そのような人物が(たとえ太政大臣であったとしても)死去したとしても、それを理由として「日嗣」について審議する必要があるとは思えません。このことは「高市皇子」と「日嗣」の間に深い関係があったことを示唆するものと思われます。(死去した際には「後皇子尊」と「尊」の字が使用されているのは軽々には考えられません。)
 そもそも、「草壁」は『書紀』によっても「皇太子」のまま死去したこととなっており、即位していないわけですから、『書紀』に即して考えても皇位継承に関する原則には該当するはずがないのです。「直系」云々は「即位」した人物からの継承順についての話であり、「即位」していなければこの原則から外れることとなるのは当然です。(「即位」していない人物からは「皇位継承」ができるはずもないのです)
 また、文中に「皇太后」とありますが、これは通常の理解では「持統女帝」とされていますが、この「皇太后」という表現から考えて、その時点の「天皇」は「皇太后」と称される人物とは異なるのは自明であり、この「皇太后」が「持統」を指す、とすると「持統」はこの時点での「天皇」ではない、という論理進行となります。
 「皇太后」とは『続日本紀』のその他の記事においても前天皇が死去し「新天皇が即位した時点」における前皇后への尊称とされますから、その意味でもこの「皇太后」呼称は「持統」以外の人物が「皇位」にあったということを想定せざるをえないこととなり、そのことと「高市皇子」の死去によって「日嗣ぎ」の審議を行うこととなった、という事を重ねて考えると、「高市皇子」が「日嗣」の座にあったという先の推定は更に補強されると思われます。
 
 この時「葛野王」(「大友皇子」の長子)は「直系」相続を主張したとされています。彼がこの時意見具申しているのは彼は当時「治部卿」であったことと関係していると思われます。このような場合定められた「礼式」に則っているかどうかということを判断するのが「治部」の職掌ですから、彼が意見を述べるのはある意味当然であったと思われます。
 『資治通鑑』によれば「唐」の太宗の時代(貞観年間)「諸王」(太子の兄弟)に対する「礼」が行き過ぎであるという「礼部尚書」の指摘に「太宗」が怒り詰問するシーンがあり、そこで「太宗」が「太子」に何かあれば「諸王」が太子になる可能性があるというと、「礼部尚書」に代わり「魏徴」が次のように反論します。

「…自周以來,皆子孫相繼,不立兄弟,所以絶庶孼之窺窬,塞禍亂之源本,此爲國者所深戒也。…」(『資治通鑑』貞観十二年(戊戌、六三八年)条)

 つまり「周以来、子孫が相継いでいたものであり、兄弟が立つことはなかった」というわけです。具体的には「嫡子」つまり「皇后」の子だけに相続の権利があるものであり、「庶子」つまり「第二夫人以下」の子にはそのような権利は元々なかったとされ、そのような人物に対する「礼」としては行き過ぎであるというわけです。
 「唐」における「礼部尚書」に相当するのが「治部卿」であることから考えてここで「葛野王」が発言するのは職務上当然であったわけであり、その発言内容はこの「唐」の例に合致していると言えます。
 ただし「葛野王」が主張している内容は『書紀』をみるとそれ以前に「嫡子」以外への相続が確認できますから、実態とは合っていないと思われるわけですが、これはいわば「建前」論であり、それは「太上皇」にとって受け入れやすいものであったと思われます。(このような「唐」における例は「遣唐使」の派遣などが行われていた中で情報としてもたらされていたものと思われ、それを踏まえて「礼式」(つまり「浄御原令」)が制定されていたものと考えられますから、それを根拠とした発言ではなかったでしょうか)
 この主張は通常「持統」、「草壁」、「文武」という「直系」が正統であると言う発言と解されていますが、文中にはそのようなことは(全く)書かれていません。それは「恣意的」な理解であり、『書紀』からの後付けの論理です。
 このとき誰を「日嗣ぎ」にするかこの審議により決まったものと思われますが、その人物の名前は書かれていません。これは「意図的」なものと考えられ、「あえて」曖昧にしているとしか考えられません。『懐風藻』の作者(淡海三船と推測されています)にとって、このことを正確に書くわけにはいかない事情があったものと思われます。 
 これが「高市」死去後の審議であることから考えてこの文章を「素直に」理解すると、「葛野王」の意見というものは、「亡くなった」「高市」の「兄弟」ではなく、彼の「子供」(嫡子)へ「日嗣」が継承されるべきである、という主張とみるべきでしょう。
 そしてこの主張に「弓削皇子」は異議を唱えようとしたとされ、「葛野王」は彼を叱責して黙らせた、と言うように書かれていますが、「弓削皇子」にしてみれば、「兄弟」である「高市皇子」からの「皇位継承」を狙っていたのかもしれませんが、その道が断たれてしまうこととなりますから、重大問題であり、異議を唱えようとしたものでしょう。
 そもそも「高市皇子」死去時点では「天武」の「皇子」としては「弓削皇子」「舎人皇子」「新田部皇子」「穗積皇子」「忍壁皇子」「磯城皇子」がいます。
 彼らには「全く」皇位継承権がなかった、あるいは「設定」されていなかったと見るべきでしょう。「審議」するに到ったのはあくまでも「嫡子」が幼少であったためであり、「兄弟」の中から誰かを選ぶという選択肢は元々なかったものではなかったでしょうか。
 この「葛野王」の意見は上に見るように「隋・唐」という「中国王朝」における「王朝」継承において「直系相続」であることを基本としていることを念頭に置いたものであり、「治部卿」として当然主張すべき事柄であったと思われます。

 ところで「葛野王」はこの『懐風藻』にあるように「持統」の時代に「浄大肆」で「治部卿」であったと思われると同時に、「大宝元年」に「正四位上」「式部卿」となったことが推定されています。しかしそのことは『書紀』にも『続日本紀』にも全く現れていません。(『公卿補任』にも全く現れません)
「大宝二年」の正月には「大伴安万侶」が式部卿に任命されていますが、それ以前にも「式部」(省)記事はあるものの「式部卿」つまり最高責任者が誰なのかの記事が欠落しています。

(七〇二年)二年春正月己巳朔。…乙酉。以從三位大伴宿祢安麻呂爲式部卿。

 『懐風藻』の記事からはこれ以前に「式部卿」であったように受け取れそうですが、そのことは書かれていないのです。またそれ以前の「文武」の時代にも「持統」の時代にも「治部卿」が誰なのかが書かれていない、というより「治部」自体全く現れません。
 『懐風藻』では「高市皇子」の死去時点で「治部卿」であったとされますが、それも他のどのよう記録にも表れないものです。結局『書紀』『続日本紀』を通じて「葛野王」について書かれているのは「死去」記事だけなのです。

(七〇五年)二年…十二月…丙寅。正四位上葛野王卒。

 「大友皇子」の長子であるということは「天智」を始祖としていただいている新日本王権にとって「葛野王」は無視はできない存在と思われるのに関わらず、その姿が希薄です。これは「葛野王」が「持統」を頂点とする「別の王権」の重要人物となっていたということと関係していると言え、このこともまた「元明」以降の王権から「持統」が忌避されていることの表れとも言えるでしょう。
 すでに私見では「元明」以降の王権から「持統」の王権は「忌避」されている、あるいは「否定」されているとみているわけですが、それをある意味補強するものと考えられるものです。
コメント

「列伝」と「起居注」

2021年06月17日 | 古代史
 以前の投稿を再度(再再度?)提示します。

 『隋書』に限らず、史書の根本史料として最も重視されるのは「起居注」と呼ばれるものです。「起居注」は皇帝に近侍する史官が「皇帝」の「言」と「動」を書き留めた資料であり、その皇帝本人もその内容を見ることはできなかったとされる「皇帝」に直接関わる記録です。
 「隋代」の「起居注」については「大業年間」のものが「唐代初期」の時点で既に大半失われていたという説があります。たとえば『隋書経籍志』(これは『隋書』編纂時点で宮廷の秘府に所蔵されていた史料の一覧です)を見ても「開皇起居注」はありますが、「大業起居注」は見あたらず、漏れているようです。
 また、「唐」が「隋」から禅譲を受けた段階ではすでに「秘府」(宮廷内書庫)にはほとんど史料が残っていなかったとさえ言われています。特に「大業年間」の資料の散逸が著しかったとされます。たとえば「隋代」から「唐初」にかけての人物である「杜宝」という人物が著した『大業雑記』という書の「序」に、「貞観修史が不完全だからこれを書いた」という意味のことが書かれている事や、『資治通鑑』の「大業年中」の記事に複数の資料が参照されており、「起居注」以外の資料を相互に対照していることなどから「推測」されていることです。(※1)

「(大業雑記十巻)唐著作郎杜寶撰。紀煬帝一代事。序言貞観修史未尽実録。故為此以書。以彌縫闕漏」(「陳振孫」(北宋)『直斎書録解題』より)

 また同じことは『隋書』が「北宋」代に「刊行」(出版)される際の末尾に書かれた「跋文」からも窺えます。それによれば「隋代」に『隋書』の前身とも云うべき書が既にあったものですが、そこには「開皇」「仁寿」年間の記事しかなかったと受け取られることが書かれています。

「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。唐武德五年,起居舍人令狐德?奏請修五代史。《五代謂梁、陳、齊、周、隋也。》十二月,詔中書令封德彝、舍人顏師古修隋史,緜?數載,不就而罷。貞觀三年,續詔秘書監魏?修隋史,左僕射房喬總監。?又奏於中書省置秘書?省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬宗撰隋史。?總知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆?所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,?等詣闕上之。…」(「隋書/宋天聖二年隋書刊本原跋」 より)

 つまり『隋書』の原史料としては「王劭」が書いたものがあるもののそれは「高祖」(文帝)の治世期間である「開皇」と「仁寿」年間の記録しかないというわけです。(『隋書』の『経籍志』中にも確かに「雑史」の部の最末に「隋書六十卷未成。祕書監王劭撰。」とあり、『隋書』の編纂者はこの「王劭」の書いたものを承知していたらしいことが窺えます。)

 「王劭」については以下に見るように「隋」の「高祖」が即位した時点では「著作佐郎」であったものですが、その後「職」を去り私的に「晋史」を撰し、それを咎められ「高祖」にその「晋史」を閲覧され、そのできばえに感心した「高祖」から逆に「員外散騎侍郎」とされ、側近くに仕えることとなったものです。その際に「起居注」に関わることとなったというわけです。
 「高祖」が亡くなり、「煬帝」が即位した後「漢王諒」(「高祖」の五男、つまり「煬帝」の弟に当たる)の反乱時(六〇四年)、その「加誅」に積極的でなかった「煬帝」に対し「上書」して左遷され、数年後辞職しています。

「…高祖受禪,授著作佐郎。以母憂去職,在家著齊書。時制禁私撰史,為?史侍郎李元操所奏。上怒,遣使收其書,覽而悅之。於是起為員外散騎侍郎,修起居注。…」(『隋書/列傳第三十四 王劭』より)

「煬帝嗣位,漢王諒作亂,帝不忍加誅。劭上書曰:「臣聞黃帝滅炎,蓋云母弟,周公誅管,信亦天倫。叔向戮叔魚,仲尼謂之遺直,石碏殺石厚,丘明以為大義。此皆經籍明文,帝王常法。今陛下置此逆賊,度越前聖,含弘寬大,未有以謝天下。謹案賊諒毒被生民者也。是知古者同德則同姓,異德則異姓,故黃帝有二十五子,其得姓者十有四人,唯青陽、夷鼓,與黃帝同為姬姓。諒既自絕,請改其氏。」劭以此求媚,帝依違不從。遷祕書少監,數載,卒官。 」(同上)

 このことから彼が「起居注」の監修が可能であったのは「仁寿末年」(六〇四年)までであり、「大業年間」の起居注を利用して『隋書』を作成していたというわけではないことがわかります。
 実際に下記のように彼の「著作郎」としての期間は「仁寿元年」までの二十年間であったと記されているわけですから、あくまでも「王劭」は「開皇」「仁寿」という文帝治世期間のデータしか持っていなかったこととなります。

「…劭在著作,將二十年,專典國史,撰隋書八十卷。…」(同上)

 つまり彼の撰した『隋書』は「開皇」「仁寿」年間に限定されたものであったと推定され、やはり「大業」年間の記事はその中に含まれていなかったと考えられることとなります。(「高祖」文帝の「一代記」という性格があった思われます)
 その後「唐」の「高祖」(李淵)により「武徳年間」に「顔師古」等に命じて「隋史」をまとめるよう「詔」が出されますが、結局それはできなかったとされます。理由は書かれていませんが最も考えられるのはここでも「大業年間」以降の記録の亡失でしょう。

 さらに『旧唐書』(「令狐德棻 伝」)によれば「武徳五年」(六二二)に秘書丞となった「令狐德棻 」が、「太宗」に対し、「経籍」が多く亡失しているのを早く回復されるよう奏上し、それを受け入れた「高祖」により「宮廷」から散逸した諸書を「購募」した結果、数年のうちにそれらは「ほぼ元の状態に戻った」とされています。

「…時承喪亂之餘,經籍亡逸,德?奏請購募遺書,重加錢帛,增置楷書,令繕寫。數年間,羣書略備。…」(『舊唐書/列傳第二十三/令狐德棻 』より)

 ここでは「亡逸」とされていますから、それがかなりの量に上ったことがわかります。しかし、同様の記述は「魏徴伝」(『旧唐書』)にも書かれています。

「…貞觀二年,遷秘書監,參預朝政。?以喪亂之後,典章紛雜,奏引學者校定四部書。數年之間,秘府圖籍,粲然畢備。…」(『舊唐書/列傳第二十一/魏徴』より)

 ここでも「典章紛雜」と表されていたものがその後「粲然畢備」とされ、「魏徴」等の努力によって原状回復がなされたように書かれていますが、この時点でも全ての史料を集めることができたかはかなり疑問と思われます。
 少なくとも「経籍志」の中に「大業起居注」が漏れていることから、これらの資料収集の結果としても「大業起居注」という根本史料は見いだせなかったこととなります。推測によれば「大業起居注」に限らず多くの史料がなかったか、あっても一部欠損などの状態であったことが考えられるものであり、これに従えば「大業三年記事」もその信憑性に疑問符がつくものといえるでしょう。
 また、これに関しては「太宗」が「魏徴」に『隋書』の編纂について質問したことが記録にあるのが注意されます。

「太宗問侍臣:「隋《大業起居註》,今有在者否?」公對曰:「在者極少。」太宗曰:「起居註既無,何因今得成史。」公對曰:「隋家舊史,遺落甚多。比其撰?,皆是采訪,或是其子孫自通家傳參校,三人所傳者,従二人為實。」又問:「隋代誰作起居舍人?」公對曰:「『崔祖濬』『杜之松』『蔡允恭』『虞南』等臣毎見、『虞南』説『祖濬』作舎人時大欲記録但隋主意不在此毎須書手紙筆所司多不即供為此私將筆抄録非唯經亂零落當時亦不悉具。」 (王方慶撰『魏鄭公諌録』巻四・対隋大業起居注条)

 つまり太宗(二代皇帝)が「隋の大業起居注はあるか」と聞くと魏徴は「ほとんど残っていない」と答えており、太宗が「起居注がなくてどのように『隋書』を編纂したのか」と問うと、魏徴は「隋の記録は遺落が激しかったので、『隋書』編纂に際しては、探訪して調査し、また子孫が家伝に通じていれば、三人の記録のうち二人が一致した場合にそれを事実として採用した」と答えているのです。さらに「そもそも大業年間には起居舎人はいたものの彼らによってしっかりした記録がとられなかった」旨のことが指摘されています。記録がないのは混乱のせいだけではないと言うことのようであり、「隋主」つまり「煬帝」がその様な事を気にかけなかったと言うことのようです。
 結局、この問答からも『大業起居注』はそもそも不備であったか、あっても逸失のまま取り戻すことはできなかったものであり、せいぜい各家の家伝を参考資料とする事しかできなかったことを示すものです。(ただ「家伝」というのが誰のことを指すのか不明ですが、「起居舎人」のことを指すならば、彼等が自分の知り得たことを私的に書いていたとは思われず、使える史料があったは思われません。また「口伝」の類であるなら、およそ正確性に欠くものであり、正史に使用できるレベルとは言えなかったのではないでしょうか。そうであるなら「魏徴」の言葉は単なる「言い訳」であり、彼としても正確には答えられない部分もあったということではないかと思われる訳ですが、そもそも「太宗」がこのような質問をしたという時点で「太宗」自身が『隋書』の編纂の内情に疑いを持っていたことを示すものといえるでしょう。)

 似たような例としてはこの「貞観修史」の中で『晋書』の再編集が行われていますが、この『晋書』の場合はさらに惨憺たるものであり、数々の民間伝承の類をその典拠として採用していることが確認されており、その信憑性には重大な疑義が呈されています。
 これも『隋書』同様に「秘府」から必要な資料が散逸していたことがその理由と考えられ、『隋書』をまとめるための資料も実際には「開皇年間」(及び仁寿年間)の記事しかなかったものであり、「大業年間」記事はあってもわずかなものであったと考えられるものですが、それならば、この「大業三年記事」を含む多くの記事はいったい何を元に書かれたと考えるべきでしょうか。特に「起居注」によるしかないはずの皇帝の言動が「大業年間」の記事中に散見されるのは大いに不審であるわけです。典型的な例が「倭国」からの国書記事です。そこでは「皇帝」に対して「鴻臚卿」が「倭国」からの使者が持参した「国書」を読み上げ、それに対して「皇帝」が「無礼」である趣旨の発言をしたとされており、そのようなものが本来「起居注」にしか記録されるはずのない性格のものであることを考えると、このときの「記事」が何に拠って書かれたかは不審としかいいようがありません。

 これに関しての研究(※2)では「『大業起居注』は利用できなかっただろうから、王劭『隋書』がその年代まで書いてあればそれを利用しただろうし、出来ていなければ、鴻臚寺ないし他の公的な書類・記録によっただろう。」とされています。しかし、上に見たように「王劭」版『隋書』には「仁寿」年間までしかなかったとされているわけですから、「大業年間」記事があったとするならそれなりの証明が必要ですし、「鴻臚寺」他の記録についてもそれが「秘府」に保存されていた限り亡失してしまったと見るのが相当と思われますから、そのような資料があっただろうと言うのはかなり困難であると思われます。
 また上に見た『大業雑記』については「煬帝」に関する記事は相当量あったものと思われますが、それが『雑記』という書名であるところから見ても正式な「起居注」やそれに基づく記事は含んでいなかったと見るべきであり、やはり皇帝に直接関わる記事は「大業起居注」を初めとして大業年間のものについては結局入手できなかったと考えられることとなるでしょう。
 そもそも「起居注」は本来「史官」だけが記録できる性質のものであり、例え「鴻廬卿」といえど内容を「起居注」とは「別に」「記録」として保存するというようなことは「越権行為」であったと思われます。元々「起居注」は皇帝自身さえその内容を見ることが出来なかったとされるものであり、それは「皇帝」の至近で行われる事柄が本来「非公開」のものであり、「コンフィデンシャル」なものであったわけですから、それを本来の職務を逸脱して「鴻臚寺」で記録していたとすると大いに問題であったはずです。それを考えると「起居注」が存在しない場合は「皇帝」に関わる「言動の記録」は存在していなくて当然のはずということになるでしょう。そう考えると『隋書俀国伝』の「倭国」からの使者に対する皇帝の発言や対応はどのような資料を基に欠かれたものなのでしょうか。

 「使者」を「倭国」に派遣したのは「煬帝」ではないのではないかという「疑い」は後の「元寇」の際に「招慰」のため派遣された「趙良弼」の発言からもうかがえます。
 「元」はいわゆる「元寇」と呼ばれる「文永の役」「弘安の役」の以前に日本「招慰」のためとして「使者」を派遣していますが、それが「趙良弼」という人物でした。彼が日本へ着くと(博多湾近隣の島でしょうか)「大宰府」から人が来て「国書」を見せるように要求したのに対して、「趙良弼」は「倭国王」に直接会ってお渡しすると言ってはねつけたとされます。その時の彼の言葉が「元史」に残っています。

「隋文帝遣裴清來,王郊迎成禮,唐太宗、高宗時,遣使皆得見王,王何獨不見大朝使臣乎」(元史/列傳 第四十六/趙良弼より)
 
 つまり「隋」の文帝、「唐」の「太宗」と「高宗」の派遣した使者はいずれも「倭国王」に面会しているというわけです。これを見ると「煬帝」の派遣が書かれていません。「趙良弼」の発言の背景は『隋書』の「大業三年記事」に対応していますから、「煬帝」が派遣したという『隋書』の記事内容に対して実際には「文帝」つまり「楊堅」の時ではなかったかと考える余地が生まれることとなるものです。

(※1)中村裕一『大業雑記の研究』(汲古書院二〇〇五年)
(※2)榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」 (『アリーナ 2008』、2008年3月)

上に見るような投稿を以前行っていました。

「列伝」は「諸国」に関する情報が含まれますが、その情報は「使者」の往還によって得られたものです。その使者は時に「鴻臚寺」だけではなく「皇帝」の面前に引率されることがありました。そのような場合「皇帝の言動」は「起居注」にだけ記録されたはずですから、「列伝」を構成するためには「起居注」の存在が必須であったこととなります。しかし「大業年間」の「起居注」がないとなればその時代の「列伝」の記録が不正確なのは当然と思われるわけです。「魏徴」がどれほど有能であり、優秀な歴史家であったとしても存在していない史料から史書を構成することはできないはずですから。
この点に目を向けての議論が必要と考えていますが、いかがでしょうか。



(この項の作成日 2014/03/15、最終更新 2017/11/12)

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倭国王と日本国天皇

2021年06月14日 | 古代史
 以前『善隣国宝記』の記事について解析しましたが、その中で「天武」に対して「倭王」という称号が使用されていることを記しました。
 ところで「天武」の場合「表函」の上書しか言及されておらず「国書」そのものは受け取らなかった可能性があります。
 「天智」退位の後は「捕囚」となっていた「倭国王」と思われる「筑紫君薩夜麻」が復帰する予定であったと見るわけですが、すぐにそれが実現できたかどうかが問題です。やはり「唐」の意向を含んだ王権の成立を拒否する人達も数多くいたことは間違いないものと思われ、それが「壬申の乱」という内乱として現実のものとなったということではないでしょうか。
 表函が開けられ、国書を受け取るという儀典の中に「唐」との関係がより従属的になることは避けられず、それでは国内に対する指導力を発揮できないという問題があることを「薩夜麻」がよく知っていたとすると容易に「表函」は開けられなかったであろう事が推測され、そのような葛藤の中に「薩夜麻」の苦悩も見え隠れするように思われます。
 しかし「郭務悰等」という人物は「百済」の「熊津都督府」にいた唐人のはずであり、彼らはあくまでも「熊津都督府」から派遣されてきたものであり、その行く先は(もし「筑紫都督府」があれば)「筑紫都督府」へ伝達されたはずのものですが、文章からはそうとは受け取ることができません。
 『善隣国宝記』によれば「郭務悰」が持参した「国書」は「筑紫」で提出しています。このことは「筑紫」には「都督府」がなかったという推測を裏付けるとともに、その時「筑紫」には「倭王」がいたことを強く示唆しています。つまり「天智」は「郭務悰」の来倭にともない「筑紫」に出向き、そこで「国書」を受け取ったとみられます。
 この時の「天智」への国書と「天武」への国書持参は同時期の訪問であり、このことは双方への国書は当初から用意していたことを示唆させます。つまり推測としては「唐使」(郭務悰等)は「天智」という存在及び「日本国」「天皇」という呼称により表現される統治体系を認めないという唐朝の意思と、それに代わる人物「天武」を旧来通りの「倭王」としてなら認めるという趣旨を伝達したものと思われます。
 「天智」は「日本国天皇」を自称していたものとみられるわけですが、『釈日本紀』によれば、「日本」という国号は(自ら名乗ったというより)唐から「号」された(名づけられた)ものとされています。どの段階で「号」されたかというのは「唐の武徳年中(つまり太宗の治世)」になって派遣された遣唐使が「国名変更」を申し出、受理されたとされていますが、さらにそれ以前にも「隋朝」に対し「倭」から「日本」へという国名変更を願い出たものの、同時に「天子」を自称するという挙に出たためそれを咎められることとなった影響で認められなかったとみられます。
 実際には『推古紀』の「国書」の内容から見て(「倭皇」という表記が見られる)「日本国」という国名変更は承認されなかったものの、「天皇」自称は一旦認められたものと思われますが、その後の「遣使」の際の「天子」称号の迂闊な使用から「宣諭」されるという失態を犯した段以降、元の「倭国王」(というより「俀国王」)に差し戻されていたものではないでしょうか。
 その後「唐朝」になり「太宗」の元に「使者」を派遣した際に再度「日本国」「天皇」号を認めるよう請願し一旦認められたものと思われますが、返答使として派遣された「高表仁」とのトラブルによって、またもや「倭国王」に戻されたと推察され、この後国交が途絶えた後「高宗」即位後「新羅」を通じて「起居」を通じるようになった時点以降(これは「高表仁」の件を「謝罪」したものと思われ、その甲斐あってのことと思われるが)「日本国」「天皇」号を認められるに至っていたものと推測します。
 「隋代」以来の経緯を踏まえた「天智」は(というより「倭王権」は)「天子」自称はせず(「伊吉博徳」の遣唐使派遣記録では「唐皇帝」を「天子」と称しており、自らを「天子」とする立場にはおいていないのは確かです)、しかもこの「伊吉博徳」の書をみるとこの時「日本国」という自称を「高宗」は受け入れていた模様ですが、それは倭国側が「新羅を通じて起居を通じる」(六四八年)という記事が唐側史料にあるところから見て、「高表仁」の一件について「謝罪」したからではなかったでしょうか、それを「唐」が受け入れた結果「日本国」という呼称変更とともに「天皇」自称を認めていたと思われのです。つまり「唐」の「天子」(皇帝)に対し「天皇」という位取りはそれほど僭越とは言えないため、これを「唐朝」として認めていたものと思われるわけです。そしてこれが「天智末年」まで続いていたと思われるわけです。
 そしてその時点で「白村江の戦い」等「百済」をめぐる戦いに関与した責任を問われる中で、再再度「倭王」という称号まで引き戻されていたものであり、これが「天武」から「持統」へと引き継がれた時点付近まで継続していたものです。
 そしてその時点以降「日本国」「天皇」号が自称として使用する事が再開されたわけであり、それが『旧唐書』にその事情が書かれることとなった時点であると思われるのです。 
 「倭王権」はこの時以降「倭王」としての自称を「天皇」としつつ国名は「伊吉博徳」の記事からもわかるように「日本」という当初予定していたものに変えていたものであり、これらを通じて自らの立場の主張を表明していたものですが、結果として「唐」はそれを「隋」と同様否定することとなったものであり、それは「天智」という存在とともに否定することとなったものです。その理由が「百済」に援軍し、唐軍と戦火を交えたという(唐から見て)重大な「反乱行為」にあったからとみたのは明白であり、その責任を「天智」に帰着させるものであったようです。
 「唐」に対しその後「天智」がその地位を失い、「天武」が「倭王」として存在することとなりましたが、彼もまたその時点で「筑紫」にいたものであり、そこで「倭王」として国書の提出を受けたとみられます。
 推察するに「六四八年」以降「倭国」の体制が「日本国」と「天皇」という存在の元であったとすると、「薩夜麻」も同様「日本国天皇」であったこととなります。しかし、彼は「百済を救う役」に先頭に立って参戦したのち、いわば初戦敗退した結果となっており、それ以降「唐・新羅側」に拘束されていたものですから、「白村江の戦い」という直接唐軍と戦火を交える戦闘に対し何らかの指示もできる状態ではなかったものと認定されていた可能性があります。その場合「唐朝」としては彼に責任を問うことはしないしできなかったものと思われ、必然的にそれらに対する責任は「薩夜麻」不在時点において国内を総括していたはずの「天智」に帰着することとなるのは当然と思われます。(ただしその地位が後事を託されたことに由来するか、簒奪したものかは微妙ですが。)
 「薩夜麻」が「唐」の側にいわば寝返っていたかどうかは何とも言えないが、それが理由で責任を問われなかったとはいえず、あくまでも捕囚の身であった彼が戦闘指示などできたはずがないという一点で責任を免れたものと推量します。
 この時の「郭務悰等」の「唐使」が派遣される場合、明らかな軍事的な目的があったものであり、このような使者の場合、使者の行動・発言などが法令に準拠しているか監視、また時にはアドバイスなど是正する役割の「判官」(監察御史の類)など事務方など通常の編成に加え、兵器を携えた者など軍事力を伴う一団がその主要なメンバーとして付加されていたはずであり、それが『書紀』に2千人という人数として現れていると考えるべきでしょう。
 こうして「帰国した「薩夜麻」が「唐」側にとって重要な人物であったのは確かであり、彼を「倭国王」として遇することが唐にとって最も好ましい体制と考えられていたことは想像に難くなく、彼はこの時点以降「天武」という「唐」のお墨付きが付いた人物として「倭王権」の頂点に再度つくこととなったものです。ただし「日本国天皇」という称号は「天智」という存在とともにいわば「はく奪」されたものであり、「薩夜麻」は「天武」として旧来通り「倭王」といういわば後退した認識の存在として「唐」から認められることとなったものと思われます。
 ただしこのような経緯で「倭国王」となった彼について全員が賛意を表していたとは思われず(それが端的に表れたのが「大友」による「壬申の乱」であったと思われるわけですが)、以降も国内的には不穏な状態が継続したものと思われ(「謀反」を表す記事や流罪になる高位の者たちがいたことが書かれている)、その影響と思われるのが「大伴部博麻」の帰国の遅延でしょう。
 彼は「薩夜麻」を含む数人の意志あるいは指示を倭国王権に伝達するための旅費等を工面するという目的で「身を売った」とされる人物であり、彼の帰国は「天武」の死後です。これは偶然ではなく「旅費を工面する」という理由だけではこれほどの長期の逗留を説明できず(帰国費用はそれほどの費用とも思われないため)、これほど帰国が遅くなった最大の理由は「天武」の地位に対する不安定要因を避けるためであり、その目的が彼自身に対するものではなかったとしても一時的に「捕囚」の身となっていたという経緯が語られるだけで、彼に対する敬意と信頼を揺るがすに足るものであり、そのため彼の帰国は意図的に遅らせられていたものと思われます。
 その後「日本」と自称するのは「唐」の交渉が30年以上途絶えた後の「倭国」が滅びた後の話であり、いわば「時効」を迎えたと判断してのものと思われるわけですが、その意思の根源は彼らが自らの権威の根拠として「天智」を戴いていたことが重要であったと思われます。
 天智は「日本国天皇」という地位を自称していたわけであり、彼らはその後裔を自称していたものですから、当然のように「日本国天皇」という呼称を自称するようになったものであり、そこに「天武系」(つまり「薩夜麻」系)「倭国」の権威の否定を含んでいたものと思われます。
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