古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「蝦夷」と「朔旦冬至」

2021年03月28日 | 古代史
 『新唐書』の「蝦夷」記事については、「天智」の時代というこの『新唐書』の記事を『書紀』とそのまま直結して考え「六六八年」の「遣唐使」記事がこの時の「蝦夷」同伴記事であるという考え方もあるようですが、このときの「使者」が「高句麗」が「唐」により討伐されたことを祝するという趣旨の「遣唐使」であることを考えると、この時「蝦夷」を同伴する意味が良く理解できません。
 「蝦夷」の同伴についてはその意味が、「日本国天皇」が夷蛮の地域から朝貢を受ける程高貴で且つ強い権力を持ち広い範囲を統治できる存在であることを強調するイメージ戦略という見方が多くあるようですが、この「六六八年」という時期は、その直前ともいえる時期に「唐・新羅」の連合軍に敗れたばかりであり、「倭国」としてはその軍事的能力など「国力」の実態を既に「唐」に知られてしまっているといえるものですから、そのような中で「蝦夷」を引率して引見したとしても、「虚勢」としか見られないと思われます。つまりそれは非常に考えにくいものといえるものです。
 そうであれば『新唐書』に書かれた記事は「高宗」の時代より後ではなく、もっと前であったという可能性も考えるべきこととなり、「太宗」の時代のことであったということもあり得ると思われることとなります。その意味で『仏祖統紀』の記事に正当性があるということもできそうです。

 また「六五九年」の遣唐使が一旦「長安」に向かったのも「前回」の「冬至之會」が「長安」で行われたからということが理由としてあったという可能性もあるでしょう。単に「首都」に向かったというよりは前回の経験を踏まえて「長安」に目的地を定めたものではないでしょうか。しかし「顕慶二年」に「洛陽」は「煬帝」以来の「東都」とされ、格段に扱いが高くなったものであり、しきりに「高宗」と「武后」は「洛陽」へ行幸するようになります。さらに「顕慶三年」には「禮制」が改定され、推測によればその中で「冬至」の「祭天」は「東都」である「洛陽」の南郊で行うこととなったものと見られます。(ただし「顕慶礼」はその後逸失しているため不明ですが。)

「(顕慶)三年春正月戊子,太尉趙國公無忌等脩新禮成,凡一百三十卷,二百五十九篇,詔頒於天下。」(『旧唐書』帝紀/高宗(上)より)

 これは「洛陽」の郊外で「祭天」を行っていた「周」の時代に戻る意義があったと見られ、「武后」がその後「唐」を改め「周」と国名を変更する素地ともなったと見られます。
 「魏晋朝」においては「堯舜」の禮制に戻り、「洛陽」の南郊の「粟山」を「圓丘」として「日」を祀るとされ、「冬至」などの儀式がここで行われたとされており、これを視野に入れて「顕慶礼」でも「洛陽」で「冬至之會」を行うこととなったものではないでしょうか。
 このような事情により「高宗」は「閏十月」の末には「洛陽」に移動していたものであり、それを知った「伊吉博徳等」は慌てて「長安」から「洛陽」へ馬に乗って急行してやっと間に合ったというわけです。(「伊吉博徳書」には「…馳到東京。天子在東京。」と書かれています。)
 このように「六五九年」の遣唐使は「冬至の祭典」に列席するために渡唐したとみられるわけですが、その十九年前にも「蝦夷」を伴った「遣唐使」があったと推定するものであり、「十九年」を隔てて再び「遣唐使」が赴いたと見られることとなります。そのように期間が空いているのはそもそも「太宗」から「遠距離」であるため「毎年朝貢」の必要がないとされたという記事が関係しているでしょう。

「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢。」(旧唐書/倭国伝)

 さらに後の時代に日本からの留学僧「円載」からの質問への回答として天台山国清寺の僧侶「維蠲」が作成した「唐決集」(開成五年(八四〇年)の中には「日本」からの朝貢は「約二十年に一度」とされていたことが書かれています。

「六月一日天台山僧維蠲謹献書於/郎中使君〈閣下〉維蠲言去歳不稔人無聊生皇帝謹擇賢救疾朝端選於衆得郎中以恤之伏惟/郎中天仁神智澤潤台野新張千里之〈忄+壽〉再活百靈/之命風雨應祈稼穡鮮茂几在品物罔不恱服南嶽高僧思大師生日本為王天台教法大行彼国是以/内外経籍一法於唐『約二十年一来朝貢』貞元中僧/冣澄来會僧道邃為講義陸使君給判印帰国…」(唐決集)

 通常はこの「約二十年に一度」という頻度については「八世紀」に入って以降派遣された遣唐使について適用されるものと考えられているようですが、私見では「太宗」からの「勅」の中にこの「年数」についての言葉があったものであり、少なくとも「朔旦冬至」の際に行われる「冬至之會」への参加だけはするようにと言う趣旨ではなかったかと考えられます。

(ただし、上のように推定した場合「永徽の始め以降咸享元年」までのどこかの年次をその「蝦夷」来唐の時期とする『新唐書』の記事配列に反することとなりますが、『新唐書』の編纂にあたって参考とした資料にあった「高宗」時代の遣唐使と混乱したという可能性はあると思われ、一般に想定しているものと逆の混乱があったと見ることも可能と思われます。)

 このように「朔旦冬至」の政治的重要性を「倭国王権」が認識していたとすると、「倭国」でも「朔旦冬至」に関連したイベントがあったとして不思議ではなく、それが「伊勢神宮」の「式年遷宮」であったとみることもできると思われます。
 「倭国」にとってもこの年次が重要であったのは間違いないと思われますが、「式年遷宮」は「天下り」を模したものという意見もあり、そうであれば「六四〇年」という年次が「倭国王権」にとって画期となるものであったという可能性が高いものと思われます。
 「蝦夷」が統治範囲に入ったと云うことをアピールする意味があったとすると、「日本」への改元にも「東国」への領域拡大という政治的変化が反映しているという可能性があるでしょう。それは上の『仏祖統紀』の記載にも現れています。

(再掲)「蝦夷 。唐太宗時倭國遣使。偕蝦夷人來朝。高宗平高麗。倭國遣使來賀。始改日本。言其國在東近日所出也。」

 この文章は周辺各地域の国情などを記した巻にあるわけですが、そこでは「蝦夷」についての記事でありながら「日本」という国号変更について記されており、そのことは「変更理由」として「蝦夷」との間に関係(の変化)があった事を示唆しており、蝦夷の地域を版図に編入したという自負の現れを示している事が推察されます。

 またこのような「六四〇年」の「朔旦冬至」を「倭国王権」が意識していたであろうことは「舒明天皇」の「百済大宮」の完成が「六四〇年十月」であったとされていることでもわかります。

「(六三九年)十一年…秋七月。詔曰。今年造作大宮及大寺。則以百濟川側爲宮處。是以西民造宮。東民作寺。便以書直縣爲大匠。」

「(六四〇年)十二年…冬十月…是月。徙於百濟宮。」

 もちろんこれは「十一月一日朔日」に「新宮」で「冬至」の儀式を行うためのものであったと思われ、「新宮」の完成はそれに間に合わす意味があったものと思われます。(新宮の南郊で行うものであったか)

以上旧ホームページより加筆して転載
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「伊吉博徳」の記録に出てくる「蝦夷」について

2021年03月28日 | 古代史
斉明紀に遣唐使として派遣された「伊吉博徳」の記録によれば、唐の皇帝に謁見する際に「蝦夷」の人間を連れて行き、同時に謁見したことが書かれています。

秋七月朔丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。

しかしこの文面には疑問があります。それは以下に続く「伊吉博徳」の記録と微妙に「合わない」からです。

天子問曰。此等蝦夷國有何方。使人謹答。國有東北。天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類有三種。遠者名都加留。次者麁蝦夷。近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷。毎歳入貢本國之朝。天子問曰。其國有五穀。使人謹答。無之。食肉存活。天子問曰。國有屋舎。使人謹答。無之。深山之中止住樹本。天子重曰。脱見蝦夷身面之異。極理喜恠。使人遠來辛苦。退在館裏。

これによればこのとき伊吉博徳等遣唐使に同行したのは「熟蝦夷」とされていますが、この問答が行われた「六五九年」の前年と四年前に「蝦夷」に対して饗応した記事があります。

(六五五年)元年…
秋七月己已朔己卯。『於難波朝』饗北北越。蝦夷九十九人。東東陸奥。蝦夷九十五人。并設百濟調使一百五十人。仍授柵養蝦夷九人。津刈蝦夷六人冠各二階。

(六五八年)四年…
秋七月辛巳朔甲申。蝦夷二百餘詣闕朝獻。饗賜贍給有加於常。仍授柵養蝦夷二人位一階。渟代郡大領沙尼具那小乙下。或所云。授位二階、使検戸口。少領宇婆左建武。勇健者二人位一階。別賜沙尼具那等鮹旗廿頭。鼓二面。弓矢二具。鎧二領。授津輕郡大領馬武大乙上。少領青蒜小乙下。勇健者二人位一階。別賜馬武等鮹旗廿頭。鼓二面。弓矢二具。鎧二領。授都岐沙羅柵造闕名。位二階。判官位一階。授渟足柵造大伴君稻積小乙下。又詔渟代郡大領沙奈具那検覈蝦夷戸口與虜戸口。

 (この二つの記事は「重出」という指摘もあります)「六五五年」記事では「蝦夷」として二種類書かれており「北」(越)と「東」(陸奥)が朝献したとされていますが、その記事の中では「越」に対して「柵養蝦夷」、「陸奥」に対して「津刈蝦夷」という呼称が用いられているようです。
 また「六五八年」記事では「柵養蝦夷」として「渟代郡」の人物が充てられており、それ以外には「津軽郡」などの呼称がされており、これは「都加留」を指すと思われます。
 これらを見ると「東」つまり「陸奥」の「蝦夷」に対して「津刈」という呼称が用いられており、これが「伊吉博徳」の記録に出てくる「遠者名都加留」であるとすると、連れて行ったという「熟蝦夷」とは「柵養蝦夷」のことであった可能性が高いと思われます。
 「熟」とは「育つ」「こなれる」等の意味があり、「倭人」に対して「慣れた」という意味合いで用いていると思われますが、他方「柵養」とは「柵」(当時の「城」あるいは「砦」)の中に養われているという意味であり、帰順した「蝦夷」のことと解釈されます。意味上の共通点からもこの「柵養蝦夷」が「熟蝦夷」であることとなりますが、それが冒頭の文面と食い違っているのは指摘したとおりです。そこでは「陸奥蝦夷」とされていますからこれでは「津刈」つまり「都加留」となってしまいそうです。
 この食い違いは別の資料からも言えます。後代史書ではありますが、『佛祖統紀』という書の中に収められている「世界名體志」の中の「蝦夷」の部分には「唐」の「太宗」の時に「倭国」が遣使してきてその際「蝦夷人」も来朝したと記されています。

「…東夷。初周武王封箕子於朝鮮。漢滅之置玄菟郡…蝦夷。唐太宗時倭國遣使。偕蝦夷人來朝。高宗平高麗。倭國遣使來賀。始改日本。言其國在東近日所出也…」(「大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二〇三五 佛祖統紀五十四卷/卷三十二/世界名體志第十五之二/東土震旦地里圖」より)

 この記事に従えば「太宗」の時に「倭国」からの使者に「蝦夷」が同行したというわけであり、これは「六三一年」の「犬上氏」などの遣唐使を指すと理解するのが通例でしょうが、そうとしても『書紀』ではその際には「蝦夷人」は引率しておらず、食い違いがあります。そうであればこの「蝦夷」記事については「高宗」時点のことを『仏祖統紀』の編纂者が誤認したと考えるのが穏当かもしれませんが、そうではないという可能性もあります。なぜなら「伊吉博徳書」に書かれた「蝦夷」記事と『新唐書』記事とが同じ事実を記したものとは思われないからです。

 『新唐書』には「天智」即位と記された後に「明年使者と蝦夷人が偕に朝でる」とされています。

「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦夷人偕朝。蝦夷亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中…」

 この記事によれば「蝦夷」の居住する地域について「海島」と記され、また瓠を(多分頭に)載せて数十歩離れたところから矢を放って外すことがなかったとされています。この記事を見る限り実際におこなったと見られ、かなり注目されるイベントであったと考えられます。この記事と「伊吉博徳書」に書かれた記事を見比べると実は全く異なる事と理解できます。
 『新唐書』の記事では「蝦夷」は「海島」にいるとされますが、上に見るように「伊吉博徳書」では三種いるとされる「蝦夷」のうちこれは「熟蝦夷」であるとされ、最も近いところの人達であるように書かれており、食い違っています。
 「伊吉博徳」の遣唐使記事の前の「地の文」に出てくる「蝦夷」については「仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子」とあり、「陸奥」の蝦夷であることが明記されていますが、それがまた「熟蝦夷」でもあるということとなります。しかし『新唐書』では「蝦夷亦居海島中」とあり「倭国」がそうであったように「蝦夷」もまた「海島」に居住しているとされているわけです。そうすると「陸奥」に「海島」があったこととなってしまいますが、それは不審といえるでしょう。「陸奥」は上に書かれているように本来「陸道奥」であり、これを見ても「道」でつながっていなければならないはずですが「海島」となると「陸道奥」とは明らかに異なると言えます。そうであれば他に「島」に住む「蝦夷」という形容の可能性があるものは「北海道」しかないのではないでしょうか。しかし「北海道」であるとすると「陸奥」のさらに向こう側であり、『新唐書』の「蝦夷」は最も遠い場所の種である「都加留」と呼ばれる種族であった可能性が高いと思われることとなり、少なくとも「熟蝦夷」ではないと思われるわけです。(ただしこの時期に「北海道」の「蝦夷」が勢力下に既に入っていたとはやや考えにくいことは事実ですが)
 またこの「伊吉博徳書」と同じ時に派遣された「難波吉士男人」の「書」にも「向大唐大使觸嶋覆。副使親覲天子。奉示蝦夷。於是蝦夷以白鹿皮一。弓三。箭八十。獻于天子。」とあり、「蝦夷」が同行したことは確かであると思われるものの、「弓矢」で「瓠」を射るようなデモンストレーションについての記事が全くありません。これはかなり衆目を集める記事ですからもし行われたなら両者ともそれを記録しなかったはずがないと思われます。
 このように考えると『新唐書』の記事と「伊吉博徳書」とは全く別の時点の記事である可能性が高いと思われ、「蝦夷」が唐へ赴いた時期には前後二つの時期があったこととなるでしょう。「儀礼」の一環として新しい「皇帝」により遠方の地域の人物を謁見させるというものがあった可能性もあります。(「周代」に箕氏朝鮮に引率案内された「倭人」の例を想起させます)
 ただしいずれも「朔旦冬至」の年であり、これは「唐」から「招集」されたと見るのが相当と思われるものです。そう考えるとこの「六五九年」の時に「遣唐使」に随行した「熟蝦夷」とは「前年記事に出てくる「渟代郡大領沙尼具那」と「少領宇婆左」の二名であったものではないでしょうか。もっとも「遣唐使船」は二隻に分乗していたようですから、可能性としては「大使」の乗る船には「沙尼具那」とその妻、「副使」の船に「宇婆左」とその妻が乗船していたものて推測され、「唐皇帝」に謁見できたのは「副使」の船に乗っていた「宇婆左」の方ではなかったかと思われることとなります。

 「伊吉博徳」達の「遣唐使」が派遣されたのは「六五九年七月」とされ「十一月一日」に行われる「冬至の会」に出席する予定であったと思われますが、その一年前の七月に蝦夷が朝献してきたというわけですが、これは「偶然」ではなく「唐」から「冬至の会」への出席要請があったことを下敷きに考える必要があり(少なくとも前年には伝えられるものと思われます)、「蝦夷」を随行させる意味で王権に「目通り」させたものではなかったでしょうか。
 つまり「柵養蝦夷」から選抜した人物(推薦があったであろうと思われます)を随行させる目的で朝献と称して「朝廷」に連れてきたものであり、彼等を随行させることで「支配領域」の広さを印象として植え付けることが有益と考えたものと推量します。そう考えるのは「百済」と「新羅」の関係が悪化し、「新羅」が「唐」に援助を求めたという情報が「百済」の使者からもたらされた可能性があるからです。
 「斉明朝」になってから幾度か「百済」から使者が来ており、最新情報を得ていたと見るのは自然です。「百済」と接近していた「倭王権」にとって(斉明の夫であった「舒明」は「百済大宮」を造ったとされるほか亡くなったときは「百済の殯」と称されたと書かれているなど非常に「百済」に近い王権であったと思われます。)「新羅」と「唐」が協力するとした場合「百済」及び「倭国」にとっていい方向の展開とは言えなくなるわけであり、その「抑止」対策の一貫として「蝦夷」の引率を考えたという可能性が高いと思われ、その前段階として「六五八年」の「蝦夷」の朝献があるのではないでしょうか。
 加えて「遣唐使」を派遣した同じ「六五九年」には「阿部臣(比羅夫か)」により「討蝦夷國」という征討作戦を行っています。

(六五九年)五年…三月戊寅朔。…是月。遣阿倍臣。闕名。率船師一百八十艘討蝦夷國。阿倍臣簡集飽田。渟代二郡蝦夷二百四十一人。其虜卅一人。津輕郡蝦夷一百十二人。其虜四人。膽振鉏蝦夷廿人於一所而大饗賜祿。

 その中では引率した二人の住居がある「渟代」を含む領域と戦った結果「捕虜」となった人たちも併せて「大饗賜祿」したとされ、支配領域をさらに拡張しようという意志が見えるようです。(ただし戦ったという割には捕虜が少なく、すでに多くの蝦夷の人々は帰順意志を持っていたように思われ、それはすでに「「渟代郡大領沙尼具那」と「少領宇婆左」」を代表として朝献した人々が、大多数の蝦夷の意志を代表していたことが窺えます)
 この戦いを踏まえ「柵養蝦夷」の二人を「帰順した蝦夷」の代表として「唐」に随行させたものと思われるものです。
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「飛鳥」の地の性格について

2021年03月27日 | 古代史
評木簡には数種類ありますがこれは「時期の違い」と考えられます。一つは「評」から始まるもので「国」も「年次」も書かれないものです。その中でも「五十戸」表記があるものと「里」表記のものがあります。

「評」から始まるもので「五十戸」制
三方 評 耳五十戸土師安倍→? 031 荷札集成-132(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
湯 評 大井五十戸凡人部己夫 011 飛鳥藤原京1-109(荷札 飛鳥池遺跡南地区

「評」から始まるもので「里」制
三方 評 竹田部里人粟田戸世万呂塩二斗? 031 荷札集成-135(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区
板野 評 津屋里猪脯 032 荷札集成-232(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区

二つ目は「国名」が「前置」されるものです。(ただし「干支」は前置されない)
これも「五十戸」が表記されるものと「里」のものとあります。

「国」が前置されるもので「五十戸」制のもの
遠水海国長田 評 五十戸匹沼五十戸野具ツ俵五斗 051 荷札集成-62(木研25-4 飛鳥京跡苑池遺構
高志国利浪 評 ツ非野五十戸造鳥 081 荷札集成-141(木研25- 飛鳥京跡苑池遺構

「国」が前置されるもので「里」制のもの
妻倭国所布 評 大野里 081 荷札集成-3(木研5-81 藤原宮跡北辺地区
海国長田 評 鴨里鴨部弟伊同佐除里土師部得末呂 081 荷札集成-63(木研5-82 藤原宮跡北辺地区
吉備中国下道 評 二万部里多比大贄 031 荷札集成-223(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
上毛野国車 評 桃井里大贄鮎 031 荷札集成-110(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
三川国波豆 評 篠嶋里大贄一斗五升 031 荷札集成-53(木研5-85 藤原宮跡北辺地区

三つめが「年次」(干支)が冒頭に書かれるものです。

「干支」が前置され「国」も書かれるもので「五十戸」制のもの
乙丑年(665)十二月三野国ム下評 大山五十戸造ム下部知ツ従人田部児安 032 荷札集成-102(飛20-29 石神遺跡
乙亥歳(675)十月立記知利布 五十戸 止下又長部加小米 081 木研27-39頁-(46)(飛1 石神遺跡(ただしこれは「国」名が書かれていない)
丁丑年(677)十二月三野国刀支 評 次米恵奈五十戸造阿利麻舂人服部枚布五斗俵 032 飛鳥藤原京1-721(荷札 飛鳥池遺跡北地区
丁丑年(677)十二月次米三野国加尓評久々利 五十戸 人物部古麻里? 031 飛鳥藤原京1-193(荷札 飛鳥池遺跡北地区
戊寅年(678)四月廿六日?富 五十戸 大 039 荷札集成-87(木研26-2 石神遺跡 (ただしこれは「国」名が書かれていない)
戊寅年(678)十二月尾張海評津嶋 五十戸 韓人部田根春舂赤米斗加支各田部金 011 荷札集成-22(木研25-4 飛鳥京跡苑池遺構(ただしこれは「国」が省略されている)
庚辰年(680)三野大野評大田 五十戸 ?部稲耳六斗(〈〉)(裏面(〈〉)削り残 033 荷札集成-92(木研27-3 石神遺跡
辛巳年(681)正月生十日柴江 五十戸 人若倭部?◇三百卅束若倭部〈〉◇ 011 木研30-198頁-(1)(伊 伊場遺跡 (ただしこれは「国」「評」名のいずれも書かれていない)
辛巳年(681)鰒一連物部 五十戸   032 木研30-14頁-(14)(飛2 石神遺跡(ただしこれは「国」「評」名のいずれも書かれていない)
辛巳年(681)鴨評加毛 五十戸 矢田部米都御調卅五斤 032 荷札集成-68(木研26-2 石神遺跡(ただしこれは「国」名が書かれていない)
丙戌年(686)月十一日大市部 五十戸 人 019 荷札集成-38(木研27-3 石神遺跡(ただしこれは「国」「評」名のいずれも書かれていない)
丁亥年(687)若狭小丹評木津部 五十戸 秦人小金二斗? 031 飛鳥藤原京1-18(荷札 飛鳥池遺跡南地区(ただしこれは「国」が省略されている)

「干支」が前置され「国」も書かれるもので「里」制のもの
癸未年(683)十一月三野大野 評 阿漏里阿漏人白米五斗? 059 荷札集成-91(飛20-27 藤原宮跡大極殿院北方 (ただしこれは「国」が省略されている)
甲申年(684)三野大野 評 堤野里工人鳥六斗 032 荷札集成-95(木研26-2 石神遺跡
乙酉年(685)九月三野国不→ 評 新野見里人止支ツ俵六斗? 011 荷札集成-88(飛20-30 石神遺跡
戊子年(688)四月三野国加毛 評 度里石部加奈見六斗 011 荷札集成-103(木研25- 飛鳥京跡苑池遺構
庚寅年(690)十二月三川国鴨 評 山田里物部万呂米五斗 032 荷札集成-46(飛20-30 石神遺跡
辛卯年(691)十月尾治国知多 評 入見里神部身〓三斗 032 荷札集成-33(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区(ただしこれは「国」名が書かれていない)
甲午年(694)九月十二日知田 評 阿具比里五木部皮嶋養米六斗 031 荷札集成-32(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区
丙申年(696)七月三野国山方 評 大桑里安藍一石 031 荷札集成-101(飛20-28 藤原宮跡内裏・内裏東官衙地区
丁酉年(697)月〈〉〈〉 評 野里若倭部〈〉? 031 荷札集成-120(飛20-28 藤原宮跡内裏東官衙・東方官衙北(ただしこれは「国」が省略されている)
丁酉年(697)若侠国小丹生 評 岡田里三家人三成御調塩二斗 011 荷札集成-127(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区
丁酉年(697)若佐国小丹〈〉生里秦人己二斗? 011 荷札集成-117(飛20-27 藤原宮跡北面中門地区
戊戌年(698)若侠国小丹生 評 岡方里人秦人船調塩二斗? 011 藤原宮3-1165(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区
戊戌年(698)三野国厚見 評 里秦人荒人五斗 032 藤原宮3-1163(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区
戊戌年(698)六月波伯吉国川村 評 久豆賀里 039 藤原宮3-1174(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区
己亥年(699)十月吉備中→ 評 軽部里 039 飛20-27上(荷札集成-2 藤原宮跡北面中門地区
己亥年(699)十月上?国阿波 評 松里 039 荷札集成-75(木研5-84 藤原宮跡北辺地区
己亥年(699)十二月二方 評 波多里大豆五斗中 011 藤原宮3-1173(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区 (ただしこれは「国」名が書かれていない)
庚子年(700)四月若佐国小丹生 評 木ツ里秦人申二斗? 031 荷札集成-125(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区

 以上「分類」しましたが、この中で実態として「年次」と「国名」を伴う「里」制は「三野」を別とすれば「六九〇年代」以前が確認できないことから、「持統」即位付近つまり「庚寅年」の時点で全国的な変更があったものと推定します。ただし「国」が前置されない中で「里」表記のものがありますが、上に見るように「年次」付きの木簡では「里」が「五十戸」に後出するのは明らかですから、この「国」名なしの場合も同様であり、「年次」表記が何らかの理由で省略されたかあるいは「削られた」「折られた」等の理由によると思われます。
「庚寅年」の時点付近より後の時代のものは「藤原宮」周辺からの出土に限られているようですから、「庚寅年」に何らかの「改革」が行われたと考えられますが(そのような徴証は『風土記』他各資料にみられます)、それが「持統」の即位と関係しているとみられるとともにその即位が「藤原宮」においてのものであったということを示すものです。(ただし「掘立柱形式」の仮の大極殿であったと思われますが)
 「三野」は「五十戸制」から「里制」への移行が他国に比べ十年近く先行しているように見えます。それについては別途検討することとして、「里制」が「三野」を先蹤として始められたものであり、それを「庚寅年」に全国展開したというように考えられるものです。そして「庚寅年」以前の「評木簡」の多くが「飛鳥京」周辺から出土していることを捉え、多くの論者が「近畿王権」の下に木簡が集められていたと理解しているようですが、私見とは異なります。
 私見では「飛鳥京」の地域は「倭王権」の直轄領域であり、「近畿王権」の誰もが立ち入ることができない「不可侵」の領域であったと考えています。
 各種資料を見ると「飛鳥(明日香)」を冠して宮殿名が呼称されているのは「舒明」「皇極」「天武」に限られており、他に確認できません。たとえば「欽明」の宮については「磯城郡磯城嶋。仍號爲磯城嶋金刺宮」という記事があり、また「敏達」については「宮于百濟大井」とする記事があります。その後「遂營宮於譯語田。是謂幸玉宮」と遷ったようですがこれも「飛鳥」ではありません。その後の「用明」は「宮於磐余。名曰池邊雙槻宮」と書かれていますし、「崇峻」は「宮於倉梯」と書かれています。さらに「推古」は「皇后即天皇位於『豐浦宮』」とあり、その後「遷于小墾田宮。」とされているなどこれらはいずれも「飛鳥(明日香)」を冠して呼ばれてはいません。これはそれ以前の「王宮」についても同様であり、「飛鳥」を冠して呼称された、あるいは「飛鳥」という地域に宮殿を建てた「天皇」はいないというわけです。つまりこれらの「宮」がある地域は「飛鳥」ではないというわけであり、本来の「飛鳥」はかなり「狭い」地域を指す名称ではなかったかと考えられます。現代では拡大して解釈する論者もおられるようですが、実態としてかなり限定的に使用されていたと思われるものです。
 「飛鳥」を冠する「宮名」は「舒明」の「天皇遷於『飛鳥岡傍。是謂岡本宮』」に始まりその後「火災」?があり「田中宮」を仮宮として過ごした後「百済川」の側に「百済(大)宮」を作ったとされますが、この「百済川」についても「飛鳥」の地を流れる川であり「百済宮」も当然「飛鳥百済宮」と呼称されるべき存在であったと思われます。
 「皇極」の場合は「天皇遷移於小墾田宮。或本云。遷於東宮南庭之權宮。」とあり一見「推古」の「小墾田宮」に遷ったと思われますが、その後の記事で「自權宮移幸飛鳥板盖新宮。」とあることから考えると「或本云。遷於東宮南庭之權宮」という方が正確なようであり、この「東宮」は「舒明」の皇太子(中大兄皇子)の宮を指すと思われ、「百済宮」に付随していたと考えるべきでしょうから、そこに「皇極」のための「宮」を増設したとみるべきであり、これまた「飛鳥」の地にあったと考えるべきでしょう。(ただし「孝徳」の死に際して「冬十月癸卯朔。皇太子聞天皇病疾。乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟公卿等。赴難波宮。壬子。天皇崩于正寢。仍起殯於南庭。以小山上百舌鳥土師連土徳主殯宮之事。」という記事から見て「南庭」には「殯宮」を営んだということもあり得ます。)そしてそこから正式な「宮」として「飛鳥板盖新宮」を新設したとするのです。
 「孝徳」は「改新の詔」は「飛鳥板盖新宮」で行ったとみられますが、すぐに「難波」にその本拠を移動させます。『書紀』によれば「是月。天皇御子代離宮。遣使者。詔郡國修營兵庫 蝦夷親附。或本云。壞難波狹屋部邑子代屯倉而起行宮。」とありますし、その後「壞小郡而營宮」とありますがこの「小郡」は「難波の小郡」を指し、これ以降も「天皇幸于難波碕宮」「車駕幸味經宮觀賀正禮。味經。此云阿膩賦」「天皇從於大郡遷居新宮。號曰難波長柄豐碕宮」とするなど終始「難波」に拠点があったものであり、「飛鳥」とは縁が遠い「天皇」でした。ところが「孝徳」の末年には「往居于倭飛鳥河邊行宮」という事案が発生し、「孝徳」は一人「難波」で死去します。その後の「斉明」はそのまま「飛鳥」に宮殿を構え、皇極時代と同じ「飛鳥板盖宮」に戻ります。その後「災」といいますから「落雷」による火災でしょうか「飛鳥川原宮」へ遷りますが、「於飛鳥岡本更定宮地」ということとなり、「號曰後飛鳥岡本宮」ということとなります。
 「天智」は「筑紫」の「長津宮」で戦いの指揮をとっていましたが、その後「近江」へ遷都しました。その後を襲った「天武」は「飛鳥浄御原宮」に居を構えます。
 これらの推移を見てわかるように「舒明」「皇極」「斉明」「天武」以外に「飛鳥」に「宮」を構築した天皇はいないのです。
 また、ここに挙げた「舒明」「皇極」(「斉明」も)は「物部」「大伴」という「王権」に非常に近いところにいる豪族の系譜に「仕えた」という記録がないことがすでに明らかとなっています。たとえば、有力豪族である「大伴」「物部」の記録によると「推古」に仕えていた人物の息子の代には「孝徳」に仕えていたこととなっており、この事から彼らが仕えていた「天皇」の記録という「近畿王権」系の資料としては、『推古紀』と『孝徳紀』が元々連続していたことを示すものであって、さらにそこから直接『天武紀』へとつながるものではなかったかということとなるでしょう。
 このことについてはたとえば『伊豫三島縁起』をみても明らかです。それを見ると冒頭に各代の「異族来襲」を撃退した話やそれに関連する事績などが書かれていますが、「舒明」「皇極」のところだけ記事がありません。つまり「舒明」「皇極」の前後を見ると以下のように記事が並びます。

「三十三代崇峻天王位。此代従百済國仏舎利渡。此代端正元暦。配厳島奉崇。面足尊依有契約。同奉崇彼島。毘沙門天王顕彼嶋秘書也。三十四代推古天王位同二暦《庚戌》。三島迫戸浦雨降。此〔石+切〕〔号+虎〕横殿。于今社壇在之。〔車+専〕願元年《辛丑》。従異國渡同亡。三十七代孝徳天王位。…」

 ここでは「辛丑」とされる「〔車+専〕願元年」記事が「推古」の条に書かれています。この「辛丑年」は「舒明」の末年であり、また「皇極」の初年でもあるはずです。しかしあたかも彼らはいなかったかの如く「推古」の代の記事として書かれているように見えるわけであり、「推古」からいきなり「孝徳」へとつながっています。つまり「舒明」「皇極」「斉明」は「近畿王権」から見ると「いなかった」ものであり、「没交渉」であったことが窺えます。
 ところが『万葉集』になると状況は変わります。「舒明」「皇極」「斉明」という三天皇の事跡、歌が複数掲載されているのに対して「孝徳」の歌は全くみられません。また『万葉集』中の地名が出てくる歌のうち大多数は「飛鳥」の地のものです。これらの状況は他の資料とちょうど逆になっているようです。
 『万葉集』はそもそも「倭国王朝」の勅撰集が元となっていると考えられますから、そこに「舒明」などの歌があるということから考えて、この「飛鳥」の地については、ある特別な意味を持った場所であることが推定されます。
 彼らは上に見たように「近畿王権」に深い関係があると考えられる「大伴」「物部」などと縁が遠く、宮殿のあった場所である「飛鳥(明日香)」という土地は「近畿王権」の誰も「王宮」を建てていないこととなり、しかも遺跡からはその「王宮」が「正方位」つまり正確に「南北」を向いた建物だけで構成されていたことも明らかとなっています。当時「正方位」をとる建物やそのような技術力を持ちまた行使できる権力者がどこにでもいたとは思えず、ここが「倭国王権」の直轄領域であったことが強く示唆されますが、それは「富本銭」の鋳造所が「飛鳥」の領域内にあったことからも言えると思われ、「貨幣」の鋳造が「王権」の特権的事項であることを考えると、この「飛鳥」が「倭王権」の直轄領域であることを強く示唆するものといえるでしょう。そしてその「富本銭」が「近畿王権」の鋳造でないことは『書紀』『続日本紀』にその姿が一切現れないことでも判明します。
 これらのことと「木簡」が多数集まっていたこととは当然深く関係しているものであり、多くは「荷札木簡」であり「王権」に直送される性質の物資が「飛鳥」の地から検出されるということは、この地域に「倭王権」が存在していたことを示すものです。
 「近畿王権」はこの土地には「オフリミット」であり、関与することが出来なかったと考えられるわけです。(次代の「藤原京」もこの土地の至近に造られるわけですが、その領域の一端は「飛鳥」の地にいわば「食い込んでいる」のが確認でき、「藤原宮」が「飛鳥」の地の「延長」として考えられていたことを推定させます。このことから「持統王権」は「倭王権」の分流の一つであることを示唆させるものです。
 結局「飛鳥宮」は「倭王権」の直轄地であり、そこに「倭国王」がいたことを推定させるものであって、決して「近畿王権」の都であったとは想定できないのです。
 副都として建設された「難波宮」が火災被害を受け、急ぎ「藤原京」を建設することとなった際に一旦「飛鳥宮」に待避していたと考えると納得できるものです。つまり「仮の官衙」として「飛鳥京」周辺の建物が利用されていたと考えられるわけです。
 「天武」は斉明の「宮」とされる「後岡本宮」に「エビノコ郭」を増築して「飛鳥浄御原宮」としたとされており、これが「倭国王」のための「大極殿」の代替建物とすると、そこにいた(あるいはいるはずであった)「倭国王」は「天武」というより「倭姫」ではなかったかと考えられます。
 「倭姫」は「天智」亡き後の「倭王権」の代表者であり、彼女を支援する立場を「天武」は堅持していたとみることもできるでしょう。ただし「倭姫」は「古京」つまり「筑紫」に戻っていたと思われ、この「エビノコ郭」には入らなかったのではないでしょうか。
 「倭姫」は古京である「筑紫」に「殯宮」を構えた後も「筑紫」にとどまりそこに「筑紫尼寺」を建立するなど「筑紫」で「天智」の慰霊を行っていたものと推測します。
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