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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「高市皇子」への挽歌と『古事記序文』

2018年09月11日 | 古代史

 『万葉集』に「柿本人麻呂」が作ったとされる「高市皇子」への「挽歌」があります。(全文を掲げます)

「万葉百九十九番歌」
「かけまくも  ゆゆしきかも  [一云  ゆゆしけれども]  言はまくも  あやに畏き  明日香の  真神の原に  ひさかたの  天つ御門を  畏くも  定めたまひて  神さぶと  磐隠ります  やすみしし  我が大君の  きこしめす  背面の国の  真木立つ  不破山超えて  高麗剣  和射見が原の  仮宮に  天降りいまして  天の下  治めたまひ  [一云  掃ひたまひて]  食す国を  定めたまふと  鶏が鳴く  東の国の  御いくさを  召したまひて  ちはやぶる  人を和せと  奉ろはぬ  国を治めと  [一云  掃へと]  皇子ながら  任したまへば  大御身に  大刀取り佩かし  大御手に  弓取り持たし  御軍士を  率ひたまひ  整ふる  鼓の音は  雷の  声と聞くまで  吹き鳴せる  小角の音も  [一云  笛の音は]  敵見たる  虎か吼ゆると  諸人の  おびゆるまでに  [一云  聞き惑ふまで]  ささげたる  幡の靡きは  冬こもり  春さり来れば  野ごとに  つきてある火の  [一云  冬こもり  春野焼く火の]  風の共  靡くがごとく  取り持てる  弓弭の騒き  み雪降る  冬の林に  [一云  木綿の林]  つむじかも  い巻き渡ると  思ふまで  聞きの畏く  [一云  諸人の  見惑ふまでに]  引き放つ  矢の繁けく  大雪の  乱れて来れ  [一云  霰なす  そちより来れば]  まつろはず  立ち向ひしも  露霜の  消なば消ぬべく  行く鳥の  争ふはしに  [一云  朝霜の  消なば消とふに  うつせみと  争ふはしに]  渡会の  斎きの宮ゆ  神風に  い吹き惑はし  天雲を  日の目も見せず  常闇に  覆ひ賜ひて  定めてし  瑞穂の国を  神ながら  太敷きまして  やすみしし  我が大君の  天の下  申したまへば  万代に  しかしもあらむと  [一云  かくしもあらむと]  木綿花の  栄ゆる時に  我が大君  皇子の御門を  [一云  刺す竹の  皇子の御門を]  神宮に  装ひまつりて  使はしし  御門の人も  白栲の  麻衣着て  埴安の  御門の原に  あかねさす  日のことごと  獣じもの  い匍ひ伏しつつ  ぬばたまの  夕になれば  大殿を  振り放け見つつ  鶉なす  い匍ひ廻り  侍へど  侍ひえねば  春鳥の  さまよひぬれば  嘆きも  いまだ過ぎぬに  思ひも  いまだ尽きねば  言さへく  百済の原ゆ  神葬り  葬りいまして  あさもよし  城上の宮を  常宮と  高く奉りて  神ながら  鎮まりましぬ  しかれども  我が大君の  万代と  思ほしめして  作らしし  香具山の宮  万代に  過ぎむと思へや  天のごと  振り放け見つつ  玉たすき  懸けて偲はむ  畏かれども」

 この「挽歌」の中に書かれた描写は従来「壬申の乱」を示しその中で「高市皇子」が活躍したことが書かれていると理解されてきましたが、古田武彦氏の研究により、ここに描写された内容は「壬申の乱」ではないと理解するべき事が明白となりました。
 古田氏や正木氏の「論」(※)で示されたように、確かにこの歌の中では、この「戦い」が「冬」に行われたことを示すことが書かれていると判断されます。たとえば「冬こもり  春さり来れば」、「み雪降る  冬の林に」、「大雪の  乱れて来れ」、「露霜の  消なば消ぬべく」などの数々の(比喩)表現が使用されていますが、いずれも「冬」という時期に限定されるものばかりであり、これは実際にその戦闘の行なわれた時期が「冬」であるからこそ「リアル」な意味を持って迫ってくるものと思われるものです。
 しかし前述したように、『書紀』の「壬申の乱」の記事は「(旧暦)七月」に行われたこととなっており、上記「挽歌」の示す時期と「齟齬」しています。つまり、「吉野」を脱出したのが「六月辛酉朔甲申」であり「大友皇子」の首が検分されて戦いがおよそ終了したのが「七月庚寅朔乙卯」となっています。このように主要な戦いが「七月」に行われたのにも関わらず、「挽歌」には「冬」の戦いであることを「暗示」するものしか書かれていないことは、はなはだ不審であるわけです。

 また、「挽歌」の中には「東の国の  御いくさを  召したまひて」とありますが、「壬申の乱」の「大海人」側の主要な勢力は「西」に偏しているように見えます。
 「反近江朝廷」側の構成を見てみると「高市皇子」がおり(彼は「宗像の君」の「孫」に当たるわけであり、その「宗像」は「筑紫」の氏族です)「大分の君」、「筑紫太宰」という肩書きの「栗隈王」、彼の息子という「美濃(三野)の君」、さらに、「吉備太宰」という肩書きの「当摩の君」があり、「伊勢国司」という「三宅連」、他にも「上毛野君」、「丹比君」、「対馬国守」、「難波吉士」、「出雲臣」、「三輪君」、「紀臣」というように「東国」もその範囲に含んではいるものの、多くが「九州」から「瀬戸内」、「近畿」などの領域であり、これに「宗像氏」と友好関係にある「阿曇勢力」も加わったであろう事を推察すると、ほぼ「近畿」以西の勢力であったと考えられます。しかも、『書紀』の「壬申の乱」記事中には「東」からの勢力を「遮断」している記事があり、それらを見ると「大海人側」は「東国」に「強大」な勢力があったわけではないことが窺えます。つまり、彼は「不破道を塞ぐ」ように指示を出しているわけですが、この「不破道」は「東海道」と「東山道」の集合点であり、ここを止めることで「東国」からの援軍を阻止しようとしていたと考えられます。このことから「東国」に勢力があったのは「逆に」「近江朝廷」側だったと思料されるものです。
 彼等(大海人側)に対する援軍としては「信州」の勢力が加わった可能性が高いものの、「広範」な「東国」勢力がこれに加わったと言うようには見えません。
 (「信州」が応援に来たのは、「高市皇子」の母方である「宗像氏」との関連が考えられるものです。「諏訪氏族」も「建御名方神」を信奉していたと考えられ、「宗像氏」と浅くない関係があったためと思料されます。)
 このような事から考えて、この「高市皇子」への「挽歌」は、確かに「壬申の乱」を示したものではないと考えられ、その点については古田・正木両氏の意見に同意します。しかし、両氏の研究などでは、この戦いの描写は「白村江の戦い」など「半島」での戦闘の様子を描写したもの、とされているようです。
 確かに『旧唐書』などの資料から判断すると「百済を救う役」というのが「冬」に行われたことは間違いないと思われます。その意味では上記の「挽歌」と時期的に重なることは確かです。しかし、この「挽歌」の中に書かれた「戦い」を「百済国内」の出来事とするには「地名」に特定性が著しく欠けると考えられます。

 地名として出てくるのは「度会」「埴安」「御門の原」「百済の原」「香具山」です。このうち「百済」と関係がありそうなのは「百済の原」ですが、これは、後半部分の「賓宮」の地であり、戦いの場所ではないと考えられます。また、その名称からも「百済の原」については「百済」の地ではないと考えられるものです。つまり、「百済」の地において「百済の原」という地名に何らかの「特定性」があるとはとても考えられないからです。「百済」にはそれなりの「固有」の地名などが当然あるわけであり、「百済国内」で「賓宮」が営まれたとしたらその地名がここに表現されて然るべきと考えられ、このように「抽象的」地名しか出てこないと言うことは、この場所が「百済」以外の土地にあってこそ「特定性」が発揮されるものであり、これは「倭国」の内部に求めるべきものであると考えられるものです。

 また「東の国の  御いくさ」という表現に対する理解も「不審」なものとなります。実際に「百済を救う役」として派遣された戦力が「東の国」から徴集された勢力が主体であったと言うことは『書紀』では窺えません。
 『書紀』による「百済」への軍派遣記事は以下の通りです。

「(斉明)七年(六六一年)八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津守護百濟。」

「(天智称制)二年(六六三年)三月。遣前將軍上毛野君稚子。間人連大盖。中將軍巨勢神前臣譯語。三輪君根麻呂。後將軍阿倍引田臣比邏夫。大宅臣鎌柄。率二萬七千人打新羅。」

 派遣された人名を見ると、これらのうち「明らかに」「東国」にその拠点があると考えられるのは「上毛野君稚子」だけではないかと考えられ、全体としてはごく少数であったのではないかと考えられます。つまり、「百済を救う役」の描写として「東の国の  御いくさを  召したまひて」という表現は実態と「齟齬」しているのではないかと考えられるものです。
 その後「唐」から「捕虜」となっていた人たちが解放されて帰国したという記事がありますが、その中に「蝦夷」地域から徴発されていた人の記録があり、東国から誰も「百済を救う役」に参加していなかったということではないことは窺えますが、その後「唐」や「新羅」などから帰国した人々の大部分は西日本の人達であったことが以下の記事などから判ります。

「慶雲四年(七〇七)五月癸亥 讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。各(おのおの)衣一襲及鹽穀とを賜ふ。初百濟を救ひしとき官軍利あらず。刀良等唐の兵に虜(とりこ)にせられ、沒してと作り、?餘年を歴て免(ゆる)されぬ。刀良是に至りて我が使粟田朝臣眞人等に遇ひて、隨ひて歸朝す。其の勤苦を憐れみて此の賜(たまもの)有り。」『続日本紀』

 これによれば彼らの出身地は「讃岐國那賀郡」「陸奥國信太郡」「筑後國山門郡」となります。
 また、『天武紀』にも「大唐学問僧」と同行帰国した「捕虜」の例が書かれています。

「(天武)十三年(六八四年)十二月戊寅朔癸未。大唐學生土師宿禰甥。白猪史寶然。及百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。傳新羅至。則新羅遣大奈末金儒。送甥等於筑紫。」

 ここでは「大唐学生」の他に「捕囚」となっていた二人が一緒に帰国したことが書かれていますが、そのうち一人(筑紫三宅連得許)は明らかにその出身地が「筑紫」であったと考えられます。
 更に『持統紀』にも捕虜の帰国記事があります。

「(持統)十年(六九六年)夏四月壬申朔…戊戌。以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石。并賜人■四匹。絲十鈎。布廿端。鍬廿口。稻一千束。水田四町。復戸調役。以慰久苦唐地。」

 ここには「伊豫國風速郡」の「物部藥」と「肥後國皮石郡」の「壬生諸石」という二人について書かれています。これらの記事を通観すると捕囚を体験して帰国した彼らはいずれもほぼ西日本出身者です。もちろん上の「捕虜」であったものが帰国した記事の中に「陸奥國信太郡」出身のものがいることは事実です。しかし、それは例外的であり、編成全体から見て「百済を救う役」の主体的な勢力は「西日本」の地域の人々であり、「東国」は補助的であったと見られます。つまりこの「高市皇子」の挽歌に詠われた戦いは「百済を救う役」ではないという可能性が高いと思われ、この「挽歌」に書かれた内容は「百済」国内ではなく「日本国内」の事実を歌っていると考えられるものです。

 この「挽歌」は実際には『古事記序文』とは整合しているとみられます。
 『古事記序文』では「即位」の日付として「二月」と書かれており、そこで描写された「戦い」はその直前に行われものである可能性が高く、やはり「冬」であったものと思料されます。戦いそのものも「十日間」程度で終わったもののようですから、それから即位までそれほど日にちが経過したとは考えられないこととなりますから、戦いそのものも「冬」であったという可能性が高いと思われます。
 これが『書紀』の言う「壬申の乱」であると考えると「戦い」が終了して即位まで「半年以上」経過していることとなり、不審なものがあります。

 通常の皇位継承の場合は「前倭国王」の「殯」を営む必要がありますが、この時の「戦い」は時の「政権」を「武力」で打倒したわけですから、「即位」に日にちをかける意味が不明です。そう考えるとやはり「二月」至近にこの「戦い」があった可能性を想定すべきでしょう。
 すでにみた『古事記序文』に書かれた「人事共洽 虎歩於東國」という表現と「挽歌」に言う「東の国の  御軍士を  召したまひて」という表現とは共通のものであり、この時の「主人公」である人物の「主たる勢力」が「東国」にあったことを想定させます。
 このことは、この「挽歌」と『古事記序文』に書かれた内容とが「同一」の事実について述べていると見なすことが可能であることを示すものですが、それは同時に、この『古事記』序文に書かれた人物は『書紀』に書かれた「壬申の乱」を勝利した「天武」(「大海人」)とは違うということを意味していることにもなります。


(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2018/01/02)(旧ホームページ記事の転載)

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『古事記序文』の主人公について(続)

2018年09月11日 | 古代史

 『古事記』序文に見られる戦闘の描写と『書紀』の「壬申の乱」の様相には明らかな違いがあり、その「動機」、「契機」となったこと、「移動の方法」等が全く異なっています。
改めてその違いを確認してみます。

 まず『古事記』「序文」に描かれた「動機」についての描写があります。『古事記』ではいってみれば「野心」そのものであり、少なくとも、当初から「政権」を「奪取」する目的で行動しているように受け取ることができます。単に「時期」を待っていただけというものであり、「人事」が整ったので行動を開始したと言ってはばからないわけです。それに対し『書紀』には以下のように「防衛的」に、「やむを得ず」行動するという「根拠」としての文章があります。

「朕所以讓位遁世者。獨治病全身。永終百年。然今不獲已應承禍。何默亡身耶。」(『天武紀』「六七二年」夏五月条)

 つまり、「自分はただ病気もあって『遁世』しているのに、『禍』を受け身を亡ぼされようとしている。」というわけであり、「やむを得ず」戦うという事とされているわけです。
 ただし、この程度の違いであれば、「自己弁護」もあって「防衛的」に書いているという推測も可能ではあるでしょう。

 また隠棲先の「吉野」からの移動の手段という点についても違いがあります。『書紀』では「駕する」と書かれており、これは「馬」に乗る、あるいは馬に引かせた「馬車」に乗るという意義がありますが、「序文」では「皇輿」(みこし)です。これは基本「人間が担ぐ」ものです。しかも『書紀』では最初「徒歩」であったように受け取られますが、「序文」では「最初から」「皇輿」であったと解されます。しかし、これについてもやはり「大きな違い」ではないと言う事もできるかもしれません。しかし、三番目として移動のルートという点に関してはかなりの違いと言えるのではないでしょうか。
 『書紀』に言うような「裏街道」を山越えするようなルートでは短期間に移動は不可能ではないかと思われます。この『書紀』による移動ルートを確認すると、隠棲先である「吉野」から、「奈良県宇陀」、「三重県名張」、「三重県桑名」と移動し、そこの「桑名郡家」で宿泊しています。『書紀』によればここまで「三日」で移動したこととなります。さらに「鈴鹿峠」を越えて「美濃の国不破」(関ヶ原町)へ入ります。

(以下『天武紀』より)
六月辛酉朔(中略)甲申。(二十三日)將入東。
丙戌。(二十五日)是日。天皇宿于桑名郡家。即停以不進。
丁亥。(二十六日)高市皇子遣使於桑名郡家以奏言。遠居御所。

 これらの移動に要した日数は計四日間であり、この間の総移動距離は(地図に落として計測してみると)130キロメートルほどありますから、一日あたり30キロメートル程度は移動したこととなります。しかも、このルートが全て「山道」ないしは「整備」されていなかった「裏通り」的なものであることを考えると、いかに「馬」に乗っていたとはいえ、これだけの距離をこの日数でしかも「連続」で移動するのは著しく困難といえます。
 「表通り」とも言うべき「官道」(高規格道路)であれば、「平坦」でもあり「早馬」であれば日100キロメートル程は移動可能であったようですが、その場合でも「馬」の乗り継ぎなどが必要であり、実際に「王」などの移動にはその半分以下ではないかと考えると、せいぜい50キロメートル程度あるいはもっと少ないかと考えられ(後の『養老令』の規定によれば「車駕」による行程は「一日三十里」、「人が歩く」場合は「五十里」とされていました。)
 また、「古代官道」の「駅間距離」も同じく「三十里」とされていますから、基本的には「車駕」であれば「官道上」を移動する際は「一日一駅」、「歩く」場合は「二駅」程度とされていたようです。『古事記』の表現では「輿」に乗ったと見られますが、これは「人が担ぐもの」と思われますから、「歩く」という場合に近いかと思われます。すると「二駅」程度が一日で移動できる距離となりますが、これは現在のメートルで表すと約30キロメートル程度となり、一見数字は合いそうですが、こちらは「官道」という整備された直線道路であり、片や山道であり、屈曲があり、また高低差や狭隘な部分があるなどの条件がある道路(といえるかどうかさえ怪しい)ですから、これらは全く条件が異なり同列には扱えません。つまり、「官道」のような条件がよい場合でもその程度と考えると、この場合の「裏街道」を踏破するには、もっと日数を要すると考えるのが自然です。(そもそも「駅鈴がなければ官道は移動できず。そのため「古京」の「留守司」である「高坂王」に駅鈴を「請う」ています。そしてそれを明確に「拒否」されています)

 更に彼は「人事共給」されたことにより「東国へ虎歩」したとされています。これは「明らかに」この時の「人事」が「東国」から提供されたことを意味していると考えられます。
 この時点での「東国」という表現についてもいくつか説がありますが、ここでは『常陸国風土記』に言う「我姫」(あづま)を指すとみるべきであり、「七世紀」の始め「惣領」が派遣され、「倭国王権」の統治が隅々まで行き渡るような「改革」が成された、ある意味「記念すべき」領域であり、「新しい」勢力範囲の地が彼の支援勢力となったものと考えられます。
 このように「支援勢力」を「外部」に求めなければならないと言うことにおいても「正統」な権力継承のあり方ではないことを意味していると考えられるものです。

 またこの「序文」の中では「明日香清原大宮御宇天皇」という人物が別に居る中で、「潜龍」として描かれています。この「潜龍」という用語については一般には「皇位継承権」のある「太子」の事を指すとされていますが、そうとは限りません。たとえば『隋書』では「高祖」の「北周」時代について「潜龍」という表現がされており、この時点で「高祖」は別に「太子」という次の皇帝の座が約束された地位にいたわけではありません。この場合もこれと同じと思われ、もし「天武」が「太子」という地位にいたとすると「皇位」に即くのに「武力」に物を言わせる必要がないわけであり、このことはこの人物には「正当な継承権」がなかった事を示すものと考えられます。
 また、この「潜竜」という用語は『懐風藻』の中では「大津皇子」についても使用されていますが、彼が正当な皇位継承者であったという記録はありませんし、またそのため彼は「謀反」を起こしたというわけであり、彼に対する前例としてこの『古事記序文』があるとすれば(時系列で言えば「大津皇子」は後です)、それは「造反者」の意味があるということになるのではないでしょうか。その意味では「隋の高祖」のように後に「受命」により皇帝位に即いた人物も広い意味では含まれるかもしれません。
 また「昇則天位」、つまり「昇る」という言い方からも、この「人物」が「即位」の「正統」な権利を有していないものと推測できます。「草壁皇子」などは『書紀』では「日並皇子」と称され、これは「天皇」と代わらない「権威」と「地位」があったことを示す用語ですが、「潜竜」と言われている「大津」にはそのような「敬称」が付加されていません。つまり、「昇」という語が使用されている「序文」の人物の場合も、「大津」と同様「天皇」と同格あるいはそれに準ずると言うよりはもっと「低位」の位置にいたことを示唆します。

 さらに、ここに書かれた「飛鳥清原大宮御大八洲天皇」という「天皇」は通常「天武」自身を指すと考えられているようですが、その場合、その時点における「天皇」について「言及」がないこととなり、それもまた考えにくいものです。この「潜龍」が上で見たようにまだ「帝位(皇位)」に付いていない「皇子」のことを言うとすると、この時点で存在したであろう「天皇」とは当然「別人」となります。そもそも「同一人物」について「天皇」と、「潜竜」という語が「並ぶ」こととなり、文章として整合しないと考えられます。また、ここで使用されている「曁」という言葉も、その語義が「およぶ」とか「いたる」というものであるとされていますし、「御大八洲天皇御世」というように「治世期間」を示す表現となっていることからも、その「期間」内に「潜竜」自身が存在することとなってしまうのは「矛盾」であると思われ、やはり「潜竜」と「飛鳥清原大宮御大八洲天皇」とは「別人」であると考えるべきであり、「天武」自身のことを指すものではないと考えられます。

 さらにこの「序文」ではこの戦いが「短期間」に終結したと受け取れる表現があります。そこには「未移浹辰氣自清」とあります。ここに書かれた「浹辰」とは「十二支が一周する十二日間」を指す言葉であり、この戦いが十二日間に満たずして決したように書かれているわけです。しかし、『書紀』の記事ではもっと日数がかかっているように見えます。

「秋七月庚寅朔辛卯(二日)。天皇遣紀臣阿閇麻呂。多臣品治。三輪君子首。置始連菟。率數萬衆。自伊勢大山越之向倭。且遣村國連男依。書首根麻呂。和珥部臣君手。膽香瓦臣安倍。率數萬衆。自不破出。直入近江。」

 これによれば「七月二日」以降戦いが始まり、「大友皇子」の首が検分されて、実質的な戦いが終了したのが「七月庚寅朔乙卯(二十六日)」とされていますので、明らかに「三週間以上」かかっているわけであり、とても「十二日間」以内の出来事であったとは言えません。もしこれを「双方の軍」が初めて衝突した「大伴吹負」と「大野君果安」の戦いの時点から、「近江軍」が潰敗した日までとして数えたとしても、「癸巳」(四日)から「辛亥」(二十二日)までの「十八日間」となり、やはり『古事記序文』の言う日数とは整合しないのです。

 以上見てみると両記事で整合しているところはほとんどないといえる状況であり、このことはこの二つの史書に書かれた内容は別の時点の別の事案ではなかったかと疑わざるを得ないこととなります。


(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2015/02/07)(旧ホームページ記事の転載)

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『古事記』序文の主人公について

2018年09月11日 | 古代史

 前回の記事では「天智」という人物について「革命王」とする見方を提示していましたが、その論拠等詳細については以前述べていますが、今改めて以下に記し理解の一助としたいと思います。

 すでに「唐・新羅連合」との間に行われた戦いの過程において、「筑紫君」という「薩夜麻」が捕囚となっている間に別の人物が「倭国王」として筑紫にいたらしいことを推定しました。この「薩夜麻」については別途述べますが、「筑紫君」という称号が示すように「筑紫」地域のリーダーであるのはもちろん、それだけではなく当時「筑紫」に中心をおいていた「倭国九州王朝」の王者でもあったことと推定します。その「薩夜麻」捕囚の間に「倭国」を制圧していた人物が別にいると思われ、それが「天智」として『書紀』に描写されていると考えたものです。
 ここで彼について考察しようと思いますが、そのためにまず「太安万侶」が記したという『古事記』の「序文」について検討してみます。以下にその一部を記します。
(以下の読み下しは「倉野憲司」校注の『古事記(文庫版)』によります)

「曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 濳龍元を體し ?雷期に應じき 夢の歌を開きて業を纂がむことを相はせ 夜の水に投りて基(もとひ)を承けむことを知りたまひき 然れども天の時未だ臻らずして 南山に蝉蛻(せんぜい)し 人事共洽(そな)はりて 東國に虎歩したまひき 皇輿(こうよ)忽ち駕して 山川を浚え渡り 六師雷(いかづち)のごとく震ひ 三軍電(いなづま)のごとく逝きき 杖矛威(いきほひ)を擧げて 猛士烟のごとく起こり 絳旗兵(つはもの)を耀(かがや)かして 凶徒瓦のごとく解けき 未だ浹辰を移さずして 氣れい自から清まりき 乃ち牛を放ち馬を息(いこ)へ 愷悌して華夏に歸り 卷き旌(はた)を戈(ほこ)おさめ ?詠して都邑に停まりたまひき 歳(ほし)大梁に次(やど)り 月侠鍾に踵(あた)り 清原の大宮にして 昇りて天位即きたまひき 道は軒后に軼ぎ 德は周王に跨えたまひき 乾符を握(と)りて六合(りくごう)を摠べ 天統を得て八荒を包ねたまひき 二氣の正しきに乘り 五行の序を齊へ 神理を設けて俗(ならはし)を奬め 英風を敷きて國を弘めたまひき 重加(しかのみにあらず)智海は浩瀚として 潭く上古を探り 心鏡は?煌として 明らかに先代を覩たまひき 是に天皇詔りたまひしく 朕聞きたまへらく諸家もたる帝紀及本辭 既に正實に違ひ 多く虚僞を加ふ、といへり 今の時に當りて 其の失を改めずは 未だ幾年も經ずして 其旨滅びなんとす 斯れ乃はち邦家の經緯 王化の鴻基なり 故惟れ帝紀を撰録し 舊辭を討覈して 僞はりを削り實を定めて 後の葉(よ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ 時に舍人有りき 姓は稗田名は阿禮 年是れ廿八 人と爲り聰明 目に度れば口に誦み 耳に拂るれば心に勒しき 即ち阿禮に勅語して 帝皇日繼及先代舊辭を誦み習はしめたまひき 然れども運(とき)移り世異(かは)りて 未だ其の事を行なひたまはざりき」

 この「序文」はその叙述から「元明天皇」に向けて書かれた「上表文」であるとされています。そして、従来この「序文」には「天武」が描かれていると(一般には)考えられてきました。それはここに書かれた「即位年次」と『書紀』の記載が合致するのは「天武」しかいないという理由が最大の理由であったと思われます。しかも、即位の前に「壬申の乱」を彷彿とされる「闘争」が描かれており、そのこともあり、ここに書かれた「天皇」を「天武」とする見解は「定説」となっています。
 しかし、この「序文」に示されている「闘争」の経過を「注視」すると『書紀』に書かれた「壬申の乱」とは「明らかに」食い違っていると思われるのです。このことについては、既に古賀達也氏により論究が為されていますが(※)、その「違い」については『書紀』と『古事記』の「編集姿勢」の違いであるとされているようであり、氏の認識によればここに書かれた「闘争」の描写は「壬申の乱」であり、また描かれた中心人物が「天武」であるということについて疑われているわけではないようです。
 氏はその論でも「『古事記』序文の「壬申大乱」記事」というように表現されており、ここで描写されている「戦い」が「壬申の乱」であると決まっていると思われているようです。
 これに果敢に挑んでいるのが(と当方が勝手に思っているだけかもしれませんが)西村秀己氏であり、この人物について「文武」であるとされています。(※2)
 氏はこの中で、「序文」の人物を「天武」ではなく「文武」とする根拠としていくつか挙げられた後、「最大」の問題として以下のように述べられています。

「そもそも古事記や日本書紀は何の為に書かれたのか。それは八世紀以降の近畿天皇家の正統性を主張するためである。いや、極言すれば文武即位の正統性を主張するためだ。何故なら、文武が正統であるなら彼に続く歴代は全て正統となるからである。(しかも、文武はこの序文の第一読者である元明の息子なのだ)すなわち、古事記・日本書紀はただ文武一人のために書かれたとしても過言ではない。にもかかわらず、その古事記の序文が文武に一行も触れようとしないとは。有り得ることではない。」

 氏の論は当方には、ここには明らかに「初代王」が書かれているが、それが「文武」でないとするとおかしいという主張のように受け取れます。しかし、ここで描かれている人物が「文武」であったとしても、ここで示された「戦い」については「天武」の「壬申の乱」を指すと云う見解については(明確ではないものの)維持されているようであり、その場合西村氏の提示された「天武が稗田阿禮に詔勅を下したのが天武の最晩年である朱鳥元年(西暦六八六年)であったとしても、この時から元明が執筆命令を発動した和銅四年(西暦七一一年)まで二十五年もあることである。」という疑問は「依然として」残ることとなってしまいます。つまり、この「戦い」の描写を「壬申の乱」のものと考える限り「矛盾」は残るわけです。

 「太安万侶」の奏上の日時は「序文」に「和銅五年正月二十八日」とありますから、「即位」した「天皇」が「文武」であるとすると「即位」の「前段」に書かれた「戦い」の時期もこの日付に接近していることとならざるを得ないのではないでしょうか。このことは、「前段」の「闘争」は「壬申」の年(六七二年)よりももっと「最近」(文武即位の時期から見て)に起きたことを書いたものであると考えざるを得ないこととなります。
 しかし、そのような戦いが「七世紀末」にあったとするならそれをまず証明することが必須なのではないでしょうか。しかし実際にはそれを示唆するどんな「徴証」も『書紀』や『続日本紀』には見あたりません。この事から判断して、「文武」という人物がこの序文で描いている「王」であり「八世紀日本国王権」にとって「初代王」である、と言う解釈そのものに問題があるという事になると思われることとなります。つまりここに書かれた人物は「天武」ではないことは確かと思われるものの、「文武」でもないということとなるでしょう。

(※1)古賀達也「『古事記』序文の「壬申大乱」」(古田史学会報月第六十九号 二〇〇五年八月八日)
(※2)西村秀己「削偽定実の真相 -古事記序文の史料批判-」(古田史学会報第六十八号 二〇〇五年六月一日)


(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2014/11/30)

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「舒明」「皇極」「天智」という存在の意味

2018年09月08日 | 古代史

 『書紀』には「六二〇年」を初出とする天文観測記事があります。しかし、「皇極」の時代以降約「三十年間」観測記事が消えてしまいます。次に現れるのは「壬申の乱」の前年です。この間よく目立つ「日食」などあったと思われますが、一切記録されていません。つまり、「皇極」「孝徳」「斉明」「天智」の四天皇の時代「天文観測」は行われなかったと考える必要があります。
 また、その後『天武紀』になると、天文観測記録が再び現れますが、「持統」の時代になると不思議なことが起こります。そこには「日食」の記録があるのですが、書かれた全ての「日食」記録が「日本では観測できない」ものばかりです。つまり、ここに書かれた記録は「観測したもの」ではないわけです、これらは「予報」(推測)であったと思われ、それを「観測したあるいはそのような事象があった」として書いていることとなります。
 これらに関しては不明な部分が多いのですが、最小限度言えることは、『持統紀』においても「天文観測」はしていない、ということであり、そして、それを隠そうとした、ということではないでしょうか。

 天文観測記録がない理由としては「暦を作る必要(権利)がなくなった」からか、この間の記事自体が「捏造」であるからだと思われます。「捏造」と言う場合は実際の天文事象との整合が問題になるため、記録を書かなかった、(書けなかった)という場合です。
 ところで、この期間の記事については「本格漢文」で書かれており、明らかに他の部分の「倭臭漢文」と趣を異にしており、用語法なども違うこと、さらにそのためか他の部分に比べ「訓注」が頻出している事実があり、この「天武紀」付近は「森博達氏」のいわゆる「α群」(※)であり、「唐人」により編集された部分と推定され、彼らは「稗田阿礼」のように記憶していた種々の記録を彼らが口誦するのを耳で聞いて紙に落としたとされますから、この部分の日付や日食等の記録についても同様に実際に残されていた古資料に依拠したものとみるべきかもしれません。しかし「暦」とそれに基づいた「日食予報」が記憶されていたとは思えませんから、この部分は後になってからの書き足しである可能性を考えるべきでしょう。この期間の記事が「実際」の資料に拠っていない可能性があると考えられるのは、この「三十年間」の各天皇には(「皇極」から「天智」までの天皇も含みます)以下の「疑問と矛盾」があることからもいえます。

 たとえば、有力豪族である「大伴」「物部」の系譜には「舒明」「皇極」(斉明)に「仕えた」という記事が見当たりません。彼らの記録によると「推古」に仕えていた人物の息子の代には「孝徳」に仕えていたこととなっています。この事は、彼らが仕えていた「天皇」の記録としては、『推古紀』と『孝徳紀』が元々連続していたことを示すものであり、さらにそこから直接『天武紀』へとつながるものではなかったかということとなるでしょう。

 また疑いを生じるものとして「石上神宮」への「奉祭」記事があります。この両天皇(及び「天智」については、「石上神宮」の奉祭記事が『書紀』に見えません。しかしそれ以前の代には存在しており、彼らだけが「奉祭」しなかった理由が不明です。
 これについては、この「奉祭」は以前「石上神宮」の神宝を管理していた「物部」の独占する所であったものが、「守屋」滅亡後「蘇我」に相続権があるということが「蘇我」の側から主張されるようになり、その結果「祭祀」の権利が奪取されたとされます。(「物部守屋」が滅ぼされた時点で「守屋」の財産を継承可能な人物が彼の妹である「蘇我馬子」の妻であったためと推定されています)
 そして、いわゆる「大化の改新」で「蘇我」が排除されたため、その後「奉祭」する人間がいなくなったと理解されているようですが、しかし、それはその前代の「舒明」の時代において既に「奉祭」がされていない説明がつきません。つまり「大化改新」がその原因ではないとみられるわけです。

 また「伊勢神宮」への新天皇即位の際の皇女派遣という制度(慣習)についても、この三天皇(舒明・皇極・天智)について派遣記事がありません。もっとも、確実な「斎宮派遣」は「天武」に始まるという説もあります。(「壬申の乱」の際の「伊勢神宮」への祈願の代償として斎宮が派遣されたという考えです。)こう考えると「斎宮」派遣記事がないのは理解できるといえますが、それではそれ以前の天皇の代になぜ派遣記事があるのかが不審です。これら以前の「天皇」の代の「斎宮派遣記事」が「潤色」であったとすると、逆になぜ彼ら(舒明・皇極)の代にはその潤色が施されていないのかが不明となり、やはり「矛盾」が残ります。

 さらに「和風諡号」に「たらし」(足)が付く天皇は古代の天皇を別にするとこの二人しかいないということも指摘されています。
「舒明」の場合は「息長足日廣額天皇」、「皇極」(斉明)の場合は「天豐財重日足姫天皇」とされ、ともに「足」(たらし)がつきます。この「足」(たらし)という語の意義がやや不明であるわけですが、明らかに「称号」的な要素を持つものであり、「充分に足りている、充ち満ちている」等の美称とみるべきですがこの称号が『書紀』の中の近い過去の代においては彼らだけに使用例があるのは、彼等と他の天皇の出自が異なるという可能性を示唆します。

 上に見た『皇極紀』以降の三十年間(『天智紀』終わりまで)天文観測記録がない、という事実と、いわゆる「森博達氏」の研究による「α群」とされる期間がこの三十年間にぴったり重なっている事実、そして、この「α群」が『持統紀』に書かれた、と推察される事、そして「舒明」「皇極」「斉明」について近畿王権内の豪族に「仕えた」記録がないことなど上に見た事案を総合して考えると、これらは「天智」が「革命王」であったとしたとき始めて首肯できるものです。
 つまり「舒明」と「皇極」(「斉明」も)は「天智」の両親であったものの、彼が「革命王」であるなら、彼等は当然「倭国王」ではなかったし、「近畿王権」の王でもなかったのですから、彼等に「物部」や「大伴」が仕えたはずがないからです。
 それに対し彼らの間に挟まるように存在している「孝徳」には二人のような不思議な部分はありません。「物部」「大伴」両氏族には彼に仕えた記事があり、その他の点でも存在が確実な人物なのです。
 ところが、これが『万葉集』になると一変し、この「舒明」「皇極」「斉明」という三天皇の事跡、歌が複数掲載されています。逆に「孝徳」の歌は全くありません。
 また『伊豫三島縁起』を見ると、冒頭に各代の「異族来襲」を撃退した話やそれに関連する事績などが書かれていますが、「舒明」「皇極」のところだけ「飛んで」います。つまり「舒明」「皇極」の前後を見ると以下のように記事が並びます。

「三十三代崇峻天王位。此代従百済國仏舎利渡。此代端正元暦。配厳島奉崇。面足尊依有契約。同奉崇彼島。毘沙門天王顕彼嶋秘書也。三十四代推古天王位同二暦《庚戌》。三島迫戸浦雨降。此〔石+切〕〔号+虎〕横殿。于今社壇在之。〔車+専〕願元年《辛丑》。従異國渡同亡。三十七代孝徳天王位。…」

 ここでは「辛丑」とされる「〔車+専〕願元年」記事が「推古」の条に書かれているように見えるのがわかります。これは西暦で言うと「六四一年」のはずですから、「舒明」の末年であり、また「皇極」の初年でもあります。しかしあたかも彼らはいなかったかの如く「推古」の代の記事として書かれているように見えるわけであり、「推古」からいきなり「孝徳」へとつながるように見えます。
 また、これ以前には「用明」の代が「飛んで」いますが、彼は「三年間」と短い治世であったためという理由付けが可能であるかもしれませんが、「舒明」「皇極」は両者ともそれほど治世期間が短いとはいえず、また特記すべき事項がなかったともいえません。さらに「用明」の代は確かに飛んでいるものの、彼の治世の中の記事であるにもかかわらず他の天皇の代として書かれているということでもありません。そう見ると、明らかに「舒明」と「皇極」の不在は不審といえます。

 また「意外」に思えるかもしれませんが、「飛鳥」に宮殿を構えた天皇はこの「三天皇」(「舒明」「皇極」「斉明」)と、それに加え「天武」だけなのです。彼らの宮殿だけが「飛鳥(明日香)」を冠して呼ばれているのです。たとえば「推古」は「小治田」を冠して呼ばれていますし、「孝徳」は「難波」に宮殿がありました。 
 これらのことから、この「飛鳥」の地については、ある特別な意味を持った場所であることが推定されます。彼らは上に見たように「近畿王権」に深い関係があると考えられる「大伴」「物部」などと縁が遠く、「倭国王朝」の勅撰集が元となっていると考えられる『万葉集』には出てくるという性格があり、しかも「彼ら」の宮殿のあった場所である「明日香」という土地は「近畿王権」の誰も「王宮」を建てていないのです。しかもその王宮は「正方位」つまり正確に「南北」を向いた建物だけで構成されていました。これらのことから、ここが「倭国王権」の聖地であり、(いわゆる)「天領」であり、「離宮」が造られていたと考えられます。
 「近畿王権」はこの土地には「オフリミット」であり、関与することが出来なかったと考えられます。後の「藤原京」もこの土地の至近に造られるわけであり、それも「聖地」に造られることとなったものと思料され、倭国王権の都であったことが推定できます。

 この「離宮」は本来の「王宮」のある場所と同じ土地名がつけられたと考えられ、その「雰囲気」としても「元の王宮」を良く再現するものであったと考えられます。
 この土地(宮殿)が「飛鳥浄御原」と名付けられた理由(事情)が『書紀』に書かれていますが、それによれば「改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名宮曰飛鳥淨御原宮。」と改元理由と関連して語られているようです。しかし、この文章はいわば「意味不明」であり、「朱鳥」と「飛鳥浄御原」の間にどんな関係があるかは全く触れられていません。というより「明らかに」この二つの間には「何の関係」もないと思われます。(「朱鳥」の方は国号変更と関係していると思われます。)
 つまり「飛鳥浄御原」という宮殿名の命名理由は全く別個のことと考えられ、これは「離宮」の「本宮」である「筑紫」の「地名」ないし「宮殿名」を単になぞったものという可能性があるように思われます。つまり「筑紫」の地にこのような「地名」なり「宮殿名」が存在していて、それをこの「奈良県」の「飛鳥」の地に「コピー」したものではないかと思われるわけです。

 筑紫に「飛鳥」という地名があったことは、「宇佐神宮」の『八幡託宣集』の中にも出て来ます。

「…御由来記に曰く大帯姫御八幡此の朝に其れ渡り給いして、浄地を占いて御在所定め給いし時、大帯姫占いて香椎に枌(そぎ)を逆に植え給い『阿須加』枌 是也。…」

 これによれば「香椎」に地に「あすか」と発音する地名があったことは明確であり、しかもその地は「浄地」とされていることから此の場所ないしは至近に「飛鳥浄御原宮」があったと考えることが可能です。
 ただし、この「近畿」の「明日香」の地はあくまでも「離宮」的場所であったと思われ、「都」(京)とするものではなかったと考えられます。それは建物群が「正方位」を取ってはいるものの、「条坊」が造られなかったことでもわかります。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2015/06/06)旧ホームページ記事から転載

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「文武」と「孝徳」の類似点

2018年09月05日 | 古代史

 今回の投稿は2016年10月に一度投稿しているものと基本同じですが、記事のつながりの関係もあり再度投稿します。

 既に見たように当初の『日本紀』は「七世紀半ば」までしか書かれておらず、『続日本紀』はその「七世紀半ば」以降について書かれていたと推定した訳であり、『文武紀』は実は『孝徳紀』の場所に入るべき「記事」でありまた、「倭国王」ではなかったかと考えられることとなったわけです。
 これについては一般に(多元史観論者の中でも)これを「文武」が実在であり、「孝徳」が「造られたもの」という理解がされているようです。それは『孝徳紀』が「宣命体」の文章や『大宝律令』を背景とした記述などが推定され、そのことから「八世紀」の事実を反映したものという理解からのようです。しかし、それは「予断」「偏見」の類ではないでしょうか。つまり、その様なもの(「律令」的制度や文言あるいは「宣命体」の詔等)が「七世紀半ば」に「あったはずがない」といういわば固定観念に縛られている結果と思えます。
 しかし、逆に考えれば、「たかが」数十年程度の差などあって無きに等しいのではないでしょうか。その「年差」はそれほど「絶対視」出来るものであるかと考えると、そうではない見方があっても不思議ではないと考えます。
 
 既に触れたように『書紀』と『続日本紀』を見比べてみると「孝徳」と「文武」には多くの「共通点」があるように思えます。

(1)共に「女帝」からの「譲位」であり、且つその死去後再度「女帝」が皇位に即いています。
 「孝徳天皇」は「皇極天皇」からの譲位であり、「文武天皇」は「持統天皇」からの譲位です。また、死後「斉明天皇」と「元正天皇」(共に女帝)が跡を継いでいます。

(2)さらに両者とも即位した年の内に「改元」あるいは「王代年」の開始となっています。彼ら以外の天皇は『書紀』で見る限り即位は「前天皇」の死去した年次の「翌年」の正月となっており、際だった違いがあります。
 「孝徳」が「皇極」から譲位を受けたのは「皇極四年」の「六月」(十四日)ですが、「改元」は同じ月の「乙卯」(十九日)に行われています。(大化)

「天豐財重日足姫天皇四年六月庚戌。(十四)天豐財重日足姫天皇思欲傅位於中大兄。而詔曰。云々。中大兄退語於中臣鎌子連。中臣鎌子連議曰。古人大兄。殿下之兄也。輕皇子。殿下之舅也。方今古人大兄在。而殿下陟天皇位。便違人弟恭遜之心。且立舅以答民望。不亦可乎。於是。中大兄深嘉厥議。密以奏聞。天豐財重日足姫天皇授璽綬禪位。策曰。咨。爾輕皇子。云々。輕皇子再三固辭。轉譲於古人大兄更名古人大市皇子。曰。大兄命。是昔天皇所生。而又年長。以斯二理可居天位。於是。古人大兄避座逡巡拱手辭曰。奉順天皇聖旨。何勞推譲於臣。臣願出家入于吉野。勤修佛道奉祐天皇。辭訖。解所佩刀投擲於地。亦命帳内皆令解刀。即自詣於法興寺佛殿與塔間。剔除髯髮。披著袈裟。由是。輕皇子不得固辭升壇即祚。…
乙卯。(十九)…改天豐財重日足姫天皇四年爲大化元年。」

 これに対し「文武」は「持統」から「譲位」されたのが「持統十一年」の「八月」であり、その年から「文武」としての年数が数え始められています。

「(持統)十一年(六九七年)…八月乙丑朔。天皇定策禁中禪天皇位於皇太子。」(書紀)
「(文武)元年(六九七年)八月甲子朔。受禪即位。」(続日本紀)
「(六九八年)二年春正月壬戌朔。天皇御大極殿受朝。文武百寮及新羅朝貢使拜賀。其儀如常。」

 『書紀』では「孝徳」以外の天皇の即位(及び改元)は「前天皇」の死去した年次の「翌年」の正月となっており(「踰年改元」あるいは「越年改元」と称する)、他の天皇の即位とは際だった違いがあります。また『続日本紀』では「文武」以外の天皇の場合を見ると、(例えば「慶雲」の場合など)年度途中に瑞祥があり「改元」したとしていますが、紀年の数え方としてはその年の頭から始められています。(これを「立年改元」という)「文武」がその例の最初となっていますがこのような改元も「孝徳」と共通しているのです。
 本来このような「立年改元」は「前王権」「前王朝」などの権威を速やかに棄却する必要がある場合に行われるものであり、この「孝徳」と「文武」の場合が「禅譲」とされていることと明らかに反します。
 「禅譲」の場合は一般に前王権や前王権の権威を否定するようなことはしないのが普通です。そうでなければ、その王権から継承したはずの自らの権威さえも否定してしまいかねないからです。このことは「孝徳」と「文武」の王権が本当は「禅譲」によったものではなく、新たに打ち立てた権力であったことを示していると思われますが、それは「大化」と「大宝」という「元号」が立てられた理由ともなっています。
 『書紀』上では「大化」は改元とはされるものの「初めて」の元号として現われます。また「大宝」は明らかに「建元」されたとされていますから、これも「初めて」という性格があります。このような「新規性」という性格が双方の王権に共通しているといえるものです。
 
(3)両者とも「明神」「現神」という「神」を前面に出した称号を使用して「詔」を出しています。
 「孝徳天皇」が出したとされる詔には「明神」という称号が使用されています。

「大化元年秋七月丁卯朔 丙子。高麗。百濟。新羅。並遣使進調。百濟調使兼領任調那使。進任那調。唯百濟大使佐平縁福遇病。留津館而不入於京。巨勢徳大臣。詔於高麗使曰。『明神』御宇日本天皇詔旨。」
「大化二年二月甲午朔戊申『明神』御宇日本倭根子天皇(後略)」

それに対し「文武天皇」の詔には「現神」という称号が使用されています。

「文武元年(六九七)八月庚辰十七 庚辰。詔曰。『現御神』止大八嶋國所知天皇(後略)」

 これらの称号はほぼ同じ意味であり、「自ら」を「神」の位置に置くものと思われます。つまり、「天帝」とみなされる「天照大神」からの「直系」という意識が言わせる用語と考えられ、彼らに共通しているのは、自らを「皇祖」「瓊瓊杵尊」と同格な存在と規定していることではないかと考えられます。

(4)共に「皇子」時点の名称は「軽」です。
 「孝徳天皇」は即位前「軽」皇子でしたが「文武天皇」も即位前「軽」(可瑠)皇子でした。「名前」が同じなのです。(ただし、「文武」については『書紀』にはその皇子としての名前は出てきません)同様な「軽」が付く名前としては「木梨軽皇子」がおりますが、彼には「木梨」という地域を表すと思われる名前がつけられており、特定性がありますが、「孝徳」と「文武」にはそれがなく、一見区別がつきません。

(5)また、共に予定された「皇太子」ではなく、また「即位」でもありませんでした。
 「孝徳天皇」はそもそも皇太子ではなく、「皇極天皇」譲位の際に「中大兄」「古人大兄」両者から譲られて、「予定外」の天皇即位となったとされます。これに対し「文武天皇」は「草壁皇子」の子供ですが、いつ「皇太子」となったのか明確ではありません。『書紀』にはそれについての記載がないのです。
 父である「草壁皇子」は「皇太子」でしたが、他に「高市皇子」「川嶋皇子」「舎人皇子」など多数いる中で、その「天皇」にもなっていない「草壁皇子」の子供が「自動的に」皇太子になるようなシステムはこの時点では存在していませんでした。(『懐風藻』に書かれた「日嗣の審議」に拠ったという考えもあるようですが、そこには人物を特定する表記がなく、そこに書かれた皇子が「軽」皇子であるとするには別途検証が必要です)

(6)「改革」のパートナーが共に「藤原氏」であること。
 「孝徳天皇」は「鎌足」をそのパートナーとしましたが、「文武天皇」はその息子である「不比等」をパートナーとしました。
 『孝徳紀』には「軽皇子」が彼の夫人(妃)に「鎌足」に「奉仕」させる記事があり、「鎌足」はその恩を感じたという記事があります。

「(皇極)三年(六四四年)春正月乙亥朔。以中臣鎌子連拜神祗伯。再三固辭不就。稱疾退居三嶋。于時輕皇子患脚不朝。中臣鎌子連曾善於輕皇子。故詣彼宮而將侍宿。輕皇子深識中臣鎌子連之意氣高逸容止難犯。乃使寵妃阿倍氏淨掃別殿高鋪新蓐。靡不具給。敬重特異。中臣鎌子連便感所遇。而語舎人曰。殊奉恩澤。過前所望。誰能不使王天下耶。謂宛舎人爲駈使也。舎人便以所語陳於皇子。皇子大悦。」

 このように書かれた後「軽皇子」は「天皇」になっているわけです。そして「大化の改新」の後、「孝徳天皇」即位と同時に「鎌足」(鎌子)に「内臣」と「大錦冠」を授け、「宰相」として諸官の上にある、としたのです。

「…以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣。増封若于戸云云。中臣鎌子連。懷至忠之誠。據宰臣之勢。處官司之上。故進退廢置。計從事立云々。…」(孝徳即位前紀)

 また、『文武紀』にも「孝徳天皇」が「鎌足」の忠誠ぶりを「武内宿禰」に比したことをあげ、その上で「不比等」に「食封を賜った」ことが書かれています。

「(慶雲)四年(七〇七年)…夏四月…壬午。詔曰。天皇詔旨勅久。汝藤原朝臣乃仕奉状者今乃未尓不在。掛母畏支天皇御世御世仕奉而。今母又朕卿止爲而。以明淨心而朕乎助奉仕奉事乃重支勞支事乎所念坐御意坐尓依而。多利麻比■夜夜弥賜閇婆。忌忍事尓似事乎志奈母。常勞弥重弥所念坐久止。宣。又難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状乎婆。建内宿祢命乃仕奉覃流事止同事敍止勅而治賜慈賜賈利是以令文所載多流乎跡止爲而。隨令長遠久。始今而次次被賜將往物叙止。食封五千戸賜久止勅命聞宣。辞而不受。減三千戸賜二千戸。一千戸傳于子孫。…」

 ここで改めて「鎌足」を顕彰する「詔」を出す意味、そして「不比等」に「褒賞」を与える意味がかなり不明です。しかもここでは「鎌足」について「難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状乎婆。」となっており、一般に考える「天智」との関係ではなく「難波朝」に仕えたことについて顕彰しています。
 『続日本紀』の「功田下賜記事」には、「乙巳の変」においての「鎌足」の功績が抜群である(大功とされている)として「褒賞」として、与えられた「功田」について「世世不絶」として「永年」にわたる子孫への継承が許されていることがあきらかとなっています。

「天平寳字元年(七五六年)…十二月…壬子。太政官奏曰。旌功。錫命。聖典攸重。襃善行封。明王所務。我天下也。乙巳以來。人人立功。各得封賞。但大上中下雖載令條。功田記文或落其品。今故比校昔今。議定其品。大織藤原内大臣乙巳年功田一百町。大功世世不絶。…」

 しかし「藤原姓」を与えられるなどのことは「天智朝」において行われているものであり、それらと「難波朝」における「鎌足」の功績というのがしっくりきません。「乙巳の変」においても「鎌足」の出番らしいものは『書紀』には全く書かれておらず、事前の計画段階でも登場しないのです。にも関わらず「大功」であるとされます。
 このように「難波朝」での功績らしいものは特に目立たないのですが、この「文武」の詔によれば明らかに「鎌足」は「難波朝」における功績を激賞されており、「鎌足」の活躍というものは「天智朝」ではなく実際には「難波朝」においてのものであったということとなりますが、その意味では「孝徳」と「鎌足」の関係が深かったことを示唆するものであり、それは「文武」と「不比等」の関係に重なるものであることをこの「詔」そのものが示しています。
 『書紀』や『続日本紀』記事では「中大兄」と「鎌足」というのが「絶妙なコンビ」として描かれているものの、それは実は単なる「印象操作」によるものであることとなるでしょう。

(7)在位期間が近似していること。
 この両者については「在位期間」も似たような長さになっています。

(孝徳天皇)即位:「六四五」六月丁酉朔庚戌(十四日)
    死去:「六五四」白雉五年冬十月癸卯朔壬子(十日)
     在位期間は「六四五年六月 - 六五四年十月」の九年四ヶ月(約一一七ヶ月)

(文武天皇)即位:「六九七」文武元年八月甲子朔(一日)
   死去:「七〇七」慶雲四年六月丁卯朔辛巳(十五日)
     在位期間は「六九七年八月 - 七〇七年六月」の九年十ヶ月(約一二三ヶ月)

 以上のように「孝徳天皇」と「文武天皇」の在位期間は近似しているわけです。

(8)また一見してわかるように「文体」が共通です。
 『孝徳紀』の文章は、まるで『書紀』の中に突然『続日本紀』が出現したような「違和感」があります。これは「宣命体」を下敷きにして書かれていると考えられ、この時点で「宣命体」で「詔」が出されていると「悟られ」ないように、書き改めた結果と思料されます。

 以上、この両者には「類似」(或いは「酷似」と言っても良いでしょう)点があるわけであり、これ「偶然」などではなく「造られた」ものである可能性が強いと思われます。そして、これが「作為」であったとすると、当然それは『書紀』編纂時点であるわけですから、「八世紀」に入ってから行われたものと考えられます。さらに「持統付近」で『書紀』が一部作られていたとすると「文武」に似せて「孝徳」が書かれたはずがないこととなるでしょう。(『日本紀』と『続日本紀』の先後関係から言って)
 つまりこれは「孝徳」に似せて「文武」を作り上げた結果であると考えられるわけです。

 これら上に述べた全てのことは必然的に彼らに禅譲を行った「皇極」と「持統」が酷似していることにもなるでしょう。
 それに関して「皇極」に「堕地獄伝承」があることが注目されます。これは『善光寺縁起』に明確なものですが、「皇極」が死後地獄に堕ち、鬼達に引き据えられ、上半身の衣服をはぎ取られて拷問を受けている様子が描かれています。そのように彼女が地獄に堕ちた理由として挙げられている中に興味ある一節があります。

「…此女人、罪業深重者也、全不可免、其故以五障三従賎身穢十善王位、『妨正道憲法道理』、致非理非法責、故天下不静万民懐愁、吹気成黒煙、只此女人一人身上…」

 ここでは特に『妨正道憲法道理』とされていますが、これに関係があると思われるのが「持統」の「伊勢行幸」です。
 そこでは側近である「三輪君」が「冠」を脱ぎ捨てて諫言したとされますが、それが「聖徳太子」が制定したという「十七条憲法」に違背しているというのがそのような諫言を行った理由と思われますから、「持統」の行いは間違いなく『妨正道憲法道理』であるわけです。
 「聖徳太子」は「阿毎多利思北孤」(上宮法皇)の投影であり、彼は死後「仏陀」と同一化が進行していたようですから、彼に対する違背は「仏陀」に対する「違背」であり、そうであれば「地獄」に落ちたとして不思議ではないこととなるでしょう。その意味でも「持統」と「皇極」は同一人物と見られるわけです。

 上に縷々推定したことから、『文武紀』の記事の中には「七世紀半ば」に遡上するべき記事があることが示唆されます。それを以下に検討してみます。


(この項の作成日 2011/04/28、最終更新 2016/02/27)旧ホームページの記事を転載

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