古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『隋書』における「俀」表記に関する議論について

2020年11月23日 | 古代史
 『隋書俀国伝』について古田史学の会では(会報で)議論がおこなわれています。(「岡下氏」「日野氏」などの議論)いずれも「俀」という表記についての解釈が中心ですが、公定された『隋書』の前に「王劭」が記した『隋書』があることを想定に入れていません。さらに「大業年間」に「皇帝」(煬帝)の言動を記した「起居注」という根本史料が『隋書』編纂時すでに失われていたという点も見落とされています。『俀国伝』に記された「阿毎多利思北孤」からの国書に対する「皇帝」の反応はまさに「起居注」にしか記録され得ないものであり、この記事が何に拠ったかを検討していないのは「手落ち」というべきです。
 「起居注」が入手できなかったとすると、この「俀国」からの「国書」記事は別の資料によったことは明らかであり、候補の筆頭に上がるのは「隋の高祖」時代の「秘書監」であった「王劭」によってすでに書かれていた『書」であり、これが初唐の『隋書』編纂時書庫にあったことは『隋書』が「北宋」代に「刊行」(出版)される際の末尾に書かれた「跋文」からも窺えます。

「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。…」(「隋書/宋天聖二年隋書刊本原跋」 より)

 つまり『隋書』の原史料としては「王劭」が書いたものがあるもののそれは「高祖」(文帝)の治世期間である「開皇」と「仁寿」年間の記録しかないというわけです。『隋書』の『経籍志』中にも確かに「雑史」の部の最末に「隋書六十卷未成。祕書監王劭撰。」とあり、『隋書』の編纂者はこの「王劭」の書いたものを承知していたらしいことが窺えます。
 さらに「唐」の高祖からの『隋書』編纂の指示に対して結局完成させることができず、その理由として「起居注」始め重要史料の紛失が言われ、それを市中に求める提言が行われ、また実行されたことが同じく跋文に書かれています。結局『隋書』は次代の「太宗」の時代になって「魏徴」を初めとするメンバーによりようやく完成するわけですが、その経緯についても疑問があるとされます。武則天時代にまとめられた『魏鄭公諌録』という史料によれば「太宗」から「大業年間」の「起居注」について問われた「魏徴」は以下のように答えています。

「太宗問侍臣:「隋《大業起居註》,今有在者否?」公對曰:「在者極少。」太宗曰:「起居註既無,何因今得成史。」公對曰:「隋家舊史,遺落甚多。比其撰?,皆是采訪,或是其子孫自通家傳參校,三人所傳者,従二人為實。」(王方慶撰『魏鄭公諌録』巻四・対隋大業起居注条)

 つまり太宗(二代皇帝)が「隋の大業起居注はあるか」と聞くと魏徴は「ほとんど残っていない」と答えており、太宗が「起居注がなくてどのように『隋書』を編纂したのか」と問うと、魏徴は「隋の記録は遺落が多かったので、『隋書』編纂に際しては、探訪して調査し、また子孫が家伝に通じていれば、三人の記録のうち二人が一致した場合にそれを事実として採用した」と答えているのです。
 結局、この問答からも『大業起居注』はそもそも不備であったか、あっても逸失のまま取り戻すことはできなかったものであり、せいぜい各家の家伝を参考資料とする事しかできなかったことを示します。そのようなものは本来正史に使用できるレベルとは言えなかったと思われ、そうであるなら「魏徴」の言葉は単なる「言い訳」であり、彼としても正確には答えられない部分もあったということではないでしょうか。そもそも「太宗」がこのような質問をしたという時点で「太宗」自身が『隋書』の編纂の内情に疑いを持っていたことを示すものといえるでしょう。

 これらを考慮すると『隋書俀国伝』の中身は「大業年間」に実際にあったことと言うより「王劭」書いたという「書八十卷」を下敷きにしたものであり、「開皇・仁寿年間」の記事の移動によって構成されていると疑う余地が十分あると思われるわけです。
 これらを考慮した上での議論が必要と思われるものです。
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