古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

瓦編年について(続2)

2018年08月31日 | 古代史

 「老司式」、「鴻臚館式」という瓦は「複弁蓮華紋」を基本として共通しているものです。この「複弁蓮華紋」という様式は「近畿」では「七世紀」の第二四半期に初めて確認されるものであり、この時期を「下限」として考えられています。(つまり時代としてはそれより遡らないと言うことです)しかし、このように認定する理由は、この「複弁」様式が「近畿」でそれまで見られない、というただそれだけの理由からなのです。
 つまり「近畿」にないものは「新しい」ものであるという、「テーゼ」とも言うべきものに支配された論理なのです。しかし、そのような「論理」に科学的正当性はありません。

 実際には、この「複弁蓮華紋」は「漢代」以降、中国北半部で多く使用されたものであり、それはそのまま「北魏」から「隋」へと受け継がれていきます。(「北魏」の「平城京」からは多くの「複弁蓮華文」式の瓦が出土しています。)
 これに対し「単弁蓮華紋」の系統は「中国」南半部で多く見られ、「南朝系統」とも考えられます。「半島」では基本的に「南朝」系統が優勢であり、「単弁蓮華紋」が全盛となります。
 『書紀』に「百済」から「瓦博士」を招いたという記事が『推古紀』にあり、そのことは「飛鳥寺」「四天王寺」「若草伽藍」などが「百済」形式の「瓦」を(しかも「同笵瓦」として)使用していることでも判ります。
 これら「四天王寺式」と言われる各寺院に共通している、南に「堂」、北に「塔」という直線的配置は「高句麗」の系統を引く様式と一般には言われていますが、「高句麗」の瓦は「蓮華文」ではなく「蓮蕾文」という様式が主たるものであり、これは独自形式となっています。この「高句麗」の瓦に近似したものは国内からほとんど確認されていません。

 これに対し「複弁蓮華紋」が「近畿」に現れるのは上に見たように「七世紀」第二四半期と考えられているわけであり、このことから、従来の理解では「倭国内」では「単弁蓮華紋」が先行し「複弁蓮華紋」が遅れる、と考えられていたわけです。しかも「単弁」から「複弁」へ「変化」したとされており、あたかも同一系統の上の事と見なされていますが、それは全く認識が錯乱しています。
 上で見たように「単弁」系瓦と「複弁」系瓦はその出自が違います。「単弁」が「複弁」に変化するというわけではありません。この二つの系統は「単に」「弁」の形状が異なるだけではなく、寸法、重量、厚み、整形の技法など全てが異なっており、全く別の「技術」とその「技術」を携えた「人間」(技術者)の存在を考えなければなりません。
 「七世紀」第二四半期にそれらの存在が「近畿」に現れる理由については、従来は「遣唐使」という存在を想定しているわけですが、そう考えるには時期が遅すぎます。
 『隋書たい国伝』の記述からも「遣唐使」の前に「遣隋使」という存在が確実にあったわけであり、彼らによって「隋」の文化や制度などが「倭国」に導入されたと見られる訳ですが、『隋書たい国伝』の新たな解析により「六世紀末」の「隋」成立直後というかなり早い段階で「隋」から制度・文化などの導入があったと見られることとなりました。その中では仏教に関するもの(「元興寺」の建設など)がその主たるものであったと考えられることとなったものです。この時に「隋」から「瓦」に関する技術も伝えられたとするのはそれほど無理なことではないでしょう。
 
 「倭国」は「隋」との外交手段として仏教を重視することとなったわけですが、それは明らかに「隋」の高祖「文帝」が仏教へ強く傾倒していたことが原因していると見られます。さらに「文帝」から「訓令」を受けた事が強い契機となって「倭国」においても「仏教推進」、「寺院建立」などが政策として行われることとなったものと思われます。
 つまり「百済」からの文化に遅れて「隋」からの仏教文化も流入したこととなると思われるわけですが、それが「七世紀第二四半期」に現れるというのはいかにも「遅すぎる」と言えるでしょう。このことは「遣隋使」が持ち帰った文化制度が一旦「近畿」(大和)以外の場所で「咀嚼」された後に改めて「近畿」へ伝来したと見るべきことを示します。
 つまり「六世紀末」から「七世紀初め」という時期に「隋」から「瓦」を含めた「仏教文化」がもたらされたことは確実であり、それが「近畿」にその時代のものとしてみられないと云うことは、「近畿」に「隋」の制度等がその時期には伝来しなかったことを示すものです。そして、それは当然「九州」に一旦伝来したと見るべきであり、その時点の「倭国」の中心領域が「九州」であったことの明確な証明といえるでしょう。
 また、その「近畿」への伝来は「倭国」の「難波遷都」という事業との関連が考えられるところです。そう考えると前項で述べたような「藤原宮式」よりも「太宰府政庁」の「鴻臚館式」や「観世音寺」の「老司式」の方が遅れるとは考えにくいこととなります。

 また「瓦」の一種である「鬼瓦」についても「鬼面紋鬼瓦」が国内で初めて使用されたのも「大宰府政庁」とされています。
 この「鬼面紋鬼瓦」は「北魏」に始まり「隋」・「唐」へと続くものですが、それが最初に「大宰府政庁」で使用され、遅れて「平城京」に使用されるのです。それまでの近畿では「獣面紋鬼瓦」しか確認されておらず、これは「半島」各国にあるものであり、特に「新羅」の影響が感じられるものですが、「隋」・「唐」の影響を感じさせるものではありません。
 これらのことは「北魏」など「北朝」側から仏教文化全般(「寺院」やそれに付随する全て)が「六世紀末」付近までにすでに「九州」に伝搬していたということを示唆するものであり、「九州」内で発見される「複弁蓮華紋」瓦は「開皇年間」に行われた「遣隋使」による交流の成果と推測され、「近畿」への「単弁蓮華紋」に僅かに遅れて「九州」へ流入したと言うことを想定すべきではないかと思料されます。
 「近畿」はそれ以降「七世紀第二四半期」に至ってようやく「複弁蓮華文」の発現を見るわけですから、「北朝」からの仏教に関わる技術についての蓄積は、「近畿」に対して「筑紫」がかなり先行していたといえるでしょう。

 また「法隆寺」(元興寺)の創建「瓦」は「複弁蓮華紋瓦」でありまた「粘土紐巻付け」方式であったと見られ、「老司式」「鴻臚館式」「藤原宮式」「薬師寺式」などの諸寺院の瓦と異なる形式のものであることが知られています。これについては『書紀』の記事と「部材」に対する年輪年代測定法の結果から「六七〇年代」以降の「再建」と理解されていますが、「心柱」の伐採年代に良く現れているように当初の創建時期はかなりそれらを遡上するという可能性が考えられ、そうであれば「元興寺」として「隋」からの直接の影響を受けて創建されたのは遅くとも「七世紀初め」と考えられることとなって、いわば「ミッシングリンク」が今「法隆寺」として「近畿」にあることとなるでしょう。
 この「元興寺」を「嚆矢」として「国内」に「複弁蓮華紋瓦」が(それも一斉に)同じ「粘土紐巻付け」という技法によって作られるようになるのです。このように「仏教文化」が広く「九州」を中心として流入していたと考えると「寺院」に関する事物全体が他地域よりも「九州」が先行していたと考えても不思議はないものと思われます。
 従来の「瓦編年」は『書紀』の「藤原京」についての記述を根拠として編年しており、それは「須恵器」などの土器についても同じことがいえるわけですが、『書紀』の編年自体に問題があるとするならこれらの編年には全く信がおけないこととなるでしょう。
 フラットな目で見れば「粘土紐巻付け」という方法で作られた「複弁蓮華紋瓦」は「遅くても」「七世紀初め」にはこの列島に現れていたと見るべきこととなります。その嚆矢となったのは後に「法隆寺」となった「元興寺」であり、その後この寺院を基準として各地に寺院が造られていくようになったものと思われ、七世紀半ばにはこの「瓦」が標準として作られまた使われるようになったものと思われます。


(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2014/10/26)旧ホームページから転載

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「瓦編年」について(続)

2018年08月31日 | 古代史

 既に述べたように私見では「法隆寺」は「元々」「元興寺」であったものであり、それは「隋」から直輸入とでも云うべき形で伝来し創建されたものと見られます。
 この「元興寺」の創建は倭国王の勅願寺であったと同時に「隋皇帝」からの直々の下賜によるものではなかったかと考えられ、そのためその「瓦」の「笵」は他の寺院には提供されず、「元興寺」だけで使用されたものと見られます。(「七弦琴」などと同様の現象に思われます)それに対し他の寺院では「同型」のものを「模して」作るしかなかったものと推量されます。
 その「他の寺院」の分布というものが「近畿」(特に「飛鳥」)と「筑紫」「肥後」という場所であり、「元興寺」に使用された形式と建設技法が「倭国王権」と関係の深い地域に広がったとみることができるでしょう。そこで「紐付け技法」とそれを駆使した「複弁蓮華紋瓦」が製造されることとなったものと見られます。
 またその分布は「隋」の文化が「どこに」もたらされたのか、「遣隋使」はどこから発せられたのかを如実に示しているといえるでしょう。
 「遣隋使」が「近畿」から派遣されたなら「筑紫」はともかく「肥後」にそれが現れる理由が全く不明となるでしょう。逆に言うと「遣隋使」は「筑紫」ないしは「肥後」から派遣されたと考えると整合すると言えます。そう考えれば「老司式」と「鴻廬館式」が「藤原宮式」に先行すると考えて当然と言えるでしょう。

 既に指摘したように従来の「瓦」編年については「近畿」の寺院が「基準」となっていることは現在多くの「瓦」研究者の(あるいは多くの考古学者の)念頭に染みついてしまっています。しかし、「藤原京」の宮域下層から「溝」が発見され、そこからは「藤原古段階」という「奈良盆地外」(淡路産)の瓦窯で製造された瓦が発見されています。この「藤原京古段階」の瓦はもっぱら「回廊」などに葺かれたとされていますが、その回廊の完成は「七〇二年」以降ではなかったかと推定されており、「観世音寺」の工事進捗を促す「元明の詔」が出された年次との関係が指摘されています。それはこの「回廊」に使用された瓦と「観世音寺」の瓦(老司Ⅰ式)の「後期タイプ」とは同一様式(兄弟関係)とする見解も現れてきていることからもいえることです。

 「観世音寺」はその創建について「六六〇年代後半」を推定させる史料が複数確認されているものの、その直後(多分「薩夜麻」が帰国した時点付近で)、建設が止められたものと思われます。つまり、この段階では全体完成にはほど遠かったと見られ、「金堂」等の全ての建物に「瓦」を載せるまで工事が進捗していなかった可能性が高いと思われます。そして、そのまま長期間に亘り工事が中断あるいは放棄されていたと見られますが、それが「七世紀末」から「八世紀」にかけ、工事が再開されたものであり、そう考えると「藤原京回廊」と「観世音寺」の工事再開がほぼ同時であるのは不自然ではありません。
 しかし、上に述べたように「老司」式瓦は「筑紫」の瓦窯で焼かれたものであり、それが「筑紫」の技術に拠っているのは当然です。この技術がオリジナルであり、これが遅れて「近畿」あるいはその周辺の地域の瓦窯に伝わり、それが「藤原宮」に使用される事となったと考えるべきでしょう。

 また「観世音寺」の工事再開に伴って使用された瓦である「老司Ⅰ式『後期』型」は「老司Ⅱ式」の影響から造られたとする主張もあり、そうであれば「観世音寺」の工事再開の前に「大宰府政庁Ⅱ期」が造られたこととなります。その場合「必然的に」「藤原宮大極殿」の完成以前に「大宰府政庁」はできていたこととならざるを得ません。
 従来の考え方でも「老司Ⅰ式」と「老司Ⅱ式」の間は「十~十五年」程度の時間差が考えられており、そのことから「太宰府政庁」が瓦葺きとなったのは「六八〇~六九〇年」付近と推定されます。
 「地域」を異にすることによる「時間差」を考慮すると、「藤原宮大極殿」のかなり以前に「大宰府政庁第Ⅱ期」が造られたことを想定するべき事となり、「六八〇年代」であるとしても不自然ではなくなります。つまり、一部で言われ始めているように「藤原宮式」瓦に「先行」して「老司Ⅱ式」や「鴻廬館式」瓦が製造された可能性があるのです。

 ところで「本薬師寺」の瓦の中には「藤原京古段階」の「瓦」の「笵」を利用しているものがある事が判明しています。つまり、「薬師寺」の完成以前に「藤原京古瓦」が焼かれていることが推定できます。「本薬師寺」の完成については「門前」の「幡」を挿すための「木枠」の年代測定が行われ「六八八年」という結果が出されています。
 つまり、明らかにこの「瓦」はそれ以前には焼かれ、屋根の上に乗せられたものであり、それと「藤原京古瓦」とがほぼ同一時期であることが推定されるものであり、これは「第二次藤原京」の完成時期に大きなヒントを与えるものであると考えられます。
(この年代推定は先に述べた「移築」と若干矛盾するかのようですが、そう即断はできません。なぜなら「移築」では「全ての部材」が運ばれる訳ではなく、破損などで新材に取り替えられる例がかなり多いからです。この場合、「幡」を指すための「木枠」は下方が地中にあったものであり、「腐食」などで再利用できなかったという可能性は高いと思われます。)

(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2014/10/25)旧ホームページ記事を転載

 

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瓦編年について

2018年08月31日 | 古代史

 いわゆる「瓦編年」では①「大宰府政庁に使用されている瓦(「老司Ⅱ式」と「鴻廬館式」)については「『藤原京式』瓦に後出する」とされます。②また「観世音寺創建瓦」である「老司Ⅰ式」は「老司Ⅱ式」や「鴻廬館式」に対して「十~十五年『早期』と見られる」と考えられているようであり、③更にこれらは「薬師寺創建瓦」に対しては「かなり後出する」とされているようです。しかもこれらは「同じ形式」に部類されるものであり、相互に深い関係があるとされています。
 つまり「薬師寺」-「藤原京」-「観世音寺」-「大宰府政庁」という時系列が従来想定されているわけであり、それぞれ「『書紀』との同定から」判断して「薬師寺」が「六八〇年頃」、「藤原宮」が「六九五年」ごろとされていますから、「観世音寺」は八世紀に入ってすぐの頃、大宰府はそれからやや遅れた「七一〇年代」という推定がされることとなるわけです。

 例えば森郁夫氏の想定によると(※1)「老司式軒平瓦は、偏行唐草文の特徴から本薬師寺式ではなく藤原宮式の系統に属す」と見て、「老司式の制作年代が本薬師寺に先行ないし並行することはありえ」ないとされ(藤原宮より本薬師寺が先に創建されているとみて)、「藤原宮造営時に偏行唐草文が採用された後に老司式が製作された」と結論づけています。
 この想定は言い換えると「本薬師寺」が最初にできた後、「老司式」と「藤原宮式」瓦が続けてできた事を示唆するものでもあります。
 しかし、「老司Ⅱ式」や「鴻廬館式」は「筑紫」を大地震が襲った時点以降、復旧と整備が行われた時点で「掘立柱」から「礎石造り」に変更となった際に使用された瓦とみられますが、この整備は数年後には完成したと考えられることから、「瓦」についても同様の時期(六八〇年代後半か)が想定できます。
 またこれ以前(推定では六七〇年頃)に「観世音寺」が創建され、その際「老司Ⅰ式」という「瓦」で屋根が葺かれる事となったと考えられますから、上の「森想定」はその意味で破綻しているといえるでしょう。
 ただし、観世音寺の瓦について言うと「老司一式」瓦には更に大きく二種類あるとされており、それは時代の差であると考えられているようです。それは「創建」の年次と「進捗」を促す「元明」の詔の年次付近とふたつの時期があったことと重なる事実です。つまり「老司一式」により屋根が葺かれている「観世音寺」は「薬師寺」に続いて創建されたと考えられ、その後「藤原宮」と「太宰府政庁」に「藤原宮式」と「鴻臚館式」という異なるタイプの瓦が葺かれ、さらにその後停止していた「観世音寺」の造営が再度始められ「老司二式」の瓦が乗せられるということとなったという推移が想定できます。このことは「本薬師寺」の創建の年次の想定に関わってくるものです。

 「薬師寺」の創建年代に関しては、「藤原京」の「下層条坊」よりも「薬師寺」が建てられたのが遅れるのは確かとなっていますが、この事からすぐには「薬師寺」の「創建年代」については云云できません。それは「薬師寺」についても「移築」の可能性があると考えられるからです。
 そもそも「薬師寺」の創建に関わる事象として「皇后の病気」が挙げられていますが、正木氏の研究によっても「寺院」を創建するなどの契機となった「天皇」などの発病はそのまま死に至るケースばかりであり、「治癒」「回復」したという事例がありません。その意味では「薬師寺」の創建説話は不審といえるでしょう。

 また、通常「塔」は「卒塔婆」の表象とされ、「釈迦」の「墓」そのものを示すとされますから、「東西」二塔あるのはその意味からは「不自然」であることとなります。
 このような「卒塔婆」の表象といえる「塔」が二つあるというのは「釈迦」に擬されるほどの人物が二人いたと云うことの反映といえ、この二つの塔の存在は、「法隆寺」の光背銘から「釈迦」に擬されたと思われる「上宮法皇」とその「太子」ではないかと考えられます。それは各々「阿毎多利思北孤」とその太子「利歌彌多仏利」を意味するものと思われ、この二人に対する「畏敬」の念を表すとすると理解できるのではないでしょうか。
 そうであれば「本薬師寺」の創建は彼らの活動時期とそれほど違わないという推定が可能と思われ、「九州年号」の中の「命長」という年号の存在、そして、その年号が使用されている「善光寺文書」の「書状」の中で「延命」を願うかのような文章の存在などを考えると、「六四〇年代」にその「書状」の差出人である「厩戸勝鬘」が「利歌彌多仏利」に対する「延命」を祈願して創建されたと考えるべきものと思われます。そうであれば「本薬師寺」は「法隆寺」などと同様「移築」であったという可能性が高いと思料するものです。
 この推測は「六八〇年」に記されている「薬師寺」創建と「皇后不豫」記事は「六四六年」付近の事実であった可能性が高いものと思料します。確かにこの年次の創建であれば「大宰府」「藤原京」等の瓦に対して「かなり早期」の瓦という考えも当然のこととなります。

 また「藤原宮」の瓦については「藤原京下層条坊」との関連に注意すべきです。
 この「下層条坊」は「第一次藤原京」ともいうべきものであり、それは「日本国」の都として作られたものと思われますが、その時点では「瓦葺き」ではなかったと思われます。この時期の「日本」の伝統的「宮域」の建築様式はまだ「板葺き」(+掘立柱)であったものと思われ、またこの時点ではまだ「筑紫都城」(太宰府)も整備が進んでいなかったと思われますが、「六七八年」に筑紫を襲った「大地震」により「筑紫都城」は相当程度破壊されたのではないかと考えられ、整備が必要となったものと推量します。現実に遺跡を調査すると「断層」や「液状化」の跡が明瞭に残っており、建物への影響はかなり深刻なものがあったと考えられます。そのため「整備」が行われることとなった段階で「瓦葺き」建物へと形式が発展したものと思われますが、その段階の直前に「西日本大震災」とでも言うべき大地震(及び津波)が起き、地盤がそこそこ安定しておりまた津波にも強かったと思われる「難波京」を除き、壊滅的打撃を承けたものと考えられます。その後「第二次藤原京」の構築が行われた思われますが、ほぼ同時に「筑紫都城」についても整備されていたこととなります。そのことは共に「礎石建物」で「瓦葺き」という共通な形式を採用していることでも理解できます。ただし、「瓦」の形式は「藤原宮式」と「鴻臚館式」とで異なるわけですが、「本宮」と「別宮」とで「瓦」の種類を変えていたという可能性があると思われ、用途と重要度で別形式の瓦を使用するという配慮があったものと考えられるでしょう。

 この「第二次藤原京」とでも言うべき時期は(上に述べたように「筑紫宮殿」の再整備時期と同様)「六八〇年代後半」と思われます。これを裏付けるように従来の「瓦編年」で言うと「老司式」などは「藤原宮」の瓦より「遅れる」とされていましたが、近年「老司式」瓦をもっと遡らせる研究が増えてきたようです。(※2)この「藤原宮」瓦と「老司式」瓦では、「通説」では「藤原宮」から「大宰府政庁」へという流れでしか論じられていませんでしたが、最近の研究では「老司Ⅰ式」「Ⅱ式」とも「藤原宮」に先行するものという考え方も出てきており、少なくとも「藤原宮」と「大宰府政庁」がほぼ同時に造られたとする「研究」も現れてきています。(※3)上の推論はそれらの考え方とも整合すると言えるでしょう。

 またこの考え方は「瓦」の製造技法の変遷とも関係していると思われます。
 「瓦」は「粘土」を整形して焼成し作るわけですが、その「整形」の技法には「紐巻付け技法」と「板付け技法」があるとされ、端的に言って「単弁瓦」に対して「板付け技法」、「複弁瓦」に対して「紐巻付け技法」が適用されていると思われ、さらにそれは別の言い方をすると「南朝」形式と「北朝」形式とに分類できます。
 「北魏」の「洛陽城」遺跡から発見された「瓦」はその多くが「複弁蓮華文瓦」であり、また「粘土板紐巻付け技法」であるとされています。それに対し「単弁蓮華文瓦」は「百済」から伝来したものですが、本来は「南朝」の形式であり、「板付け技法」で作られていると考えられています。
 「列島」における「瓦」が「単弁瓦」が先行し「複弁瓦」が遅れて登場すると言うことと、「百済」からの仏教と寺院の建設が先行すること、さらに「遣隋使」が送られることにより「北朝」からの仏教と寺院建築及びそれに付随する瓦技法が伝来するというのは事実としての歴史的な流れであり、これに沿って考える必要があります。
 そう考えると、「複弁蓮華文瓦」の登場は即座に「紐付け技法」の登場となるわけですが、上に見たようにまず「本薬師寺」に「複弁蓮華紋瓦」が現れ、その後「観世音寺」「藤原宮」「太宰府政庁」と連なるというわけですが、これらの研究には「法隆寺」の「複弁蓮華紋瓦」が脱落しています。
 「法隆寺」の「複弁蓮華紋瓦」はその特徴が独特であり、他に類がないものであり、そのため「法隆寺式」と呼称されています。また「同笵瓦」(同じ鋳型から造られたもの)も確認されておらず、「同型瓦」しかなく、それは「西日本」に偏って分布しているのです。
 
※1 森郁夫「老司式軒瓦の系譜」『大宰府古文化論叢』下 吉川弘文館
※2 高倉洋彰「筑紫観世音寺史考」同上
※3 山崎信二「藤原宮造瓦と藤原宮の時期の各地の造瓦」『文化財論叢Ⅱ』同朋舎出版


(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2014/10/25)旧ホームページ記事を転記

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「那須直韋提」の碑文解釈をめぐって

2018年08月26日 | 古代史

 古田史学の会のサイトなどで展開している古賀氏のブログで関西例会の様子が書かれていますが、その中に谷本氏の「那須直韋提」の碑文にある「永昌元年」に関する論が触れられています。その詳細はわかりませんが、それ以降書かれている古賀氏の記事内容から見て「国造」と「追大壱」が授与されたのが「永昌元年」と考えられているようであり、これは古田氏の説を踏襲したものと思われますが、当方はその理解に対し異議を唱えており、この「永昌元年」という時点で「国造追大壱」であった「韋提」が「評督」を賜ったものと考えています。
 そのあたりについては既に「那須直韋提の碑文について(一~六)」(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/7efea600a66e2dc051b383309d481743他)などで書いていますが、この「六八九年」という年次において「評督」である人物に「国造」という地位を与えたとは考えられません。

 このように思惟する根本として、木簡などでもこの「永昌元年」という時期に「国造」を授与されるというような例が見あたらないこと、そもそもこの時期の木簡に「国造」が表記された例そのものが皆無であり、やはり「評制」が施行されている間に「国造」が同時並列的に「制度」として施行されていたとは考えにくいと考えたからです。
 「評制」が行われなくなった「大宝令」施行後以降「国造」が再び制度して決められたらしいことが「木簡」から窺えるものの、あくまでも「七世紀」においては「評制」が施行されていたものであり、「国造」は「評制」が行われるようになって以降制度としては施行されていなかったものであり、そのようなものを「授与」するとは考えられないと言う事です。 
 逆にこれを「永昌元年」という時点で「評督」という地位を与えたとみれば、これはそれ以前に「国造」であった(あるいは自称していた)「韋提」に「追大壱」を与えた事案があり、それは大地震後に「冠位制」が定められた「六八五年」のこととみるのが相当と思われ、これは地震発生後の乱れた人心を安定させる施策の一環であったと思われます。また彼に授けられた「追大壱」という位階は「辺境」など国内における統治の不完全な地域に対する冠位授与の通例のものであり、不自然ではありません。そしてその後「永昌元年」段階で「韋提」に対し「評督」が授与されたとみています。このような思惟進行に依ればこの「飛鳥浄御原宮」は「評督」を授与しているのですから「倭国九州王権」に連なる存在であるのは当然と考えます。

 また「谷本氏」が提起した「暦」の一年ズレについても上に挙げた記事(「那須直韋提の碑文について(六))で議論していますが、基本としては「周正」(十一月を歳首とする暦)への変更が招いた混乱と考えれば整合するのではないでしょうか。

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「内裏焼亡」史料と「倭国王権」

2018年08月22日 | 古代史

 『古事談』という書物があります。鎌倉時代(初期)に書かれたとされるものです。(説話集とされ、それ以前からあったものを収集したものとされる)その中に興味ある記述があります。その「第一」には「内裏」(宮室)が火災にあった事例が3回あるとされています。

『古事談第一』
「…遷都以後。始内裏焼亡ハ天徳四年九月廿三日也。人代以後者第三度也。難波宮之時一度、藤原宮之時一度也。…」

 この件については『扶桑略記』にも同様に「(村上天皇)(天徳四年九月廿三日)御日記云…人代以後内裡焼亡三度也。難波宮。藤原宮。今平安宮也。遷都之後、既歴百七十年。始有此災。」とあります。

 これによれば「難波宮」と「藤原宮」の「内裏」に火災があったことが記されています。しかし「藤原宮」については『書紀』他の資料で「火災」にあったという記事は確認できません。また(「現在までの発掘では」という条件付きではあるものの)「藤原宮」では火災の痕跡は確認されていません。これについてはこの記事の信憑性を疑うこともできそうですが、『扶桑略記』によれば「御日記」とされ、(村上)天皇の日記が原資料とすると、一概にそれが事実ではないとは言いきれなくなります。つまり私たちが今知っている事実と違う事実が天皇家に伝わっていたという可能性は充分考えられるからです。それは『書紀』の原型と思われるもともとの『日本紀』には書かれてあったことかもしれません。

 また「難波宮」の火災については確かに『書紀』に書かれてはいますが、その『書紀』の記述からは当時「王権」の主役である「天皇」達は「飛鳥」(浄御原宮)にいたように受け取られます。つまり「火災」の際には「難波宮」にはいなかったというわけですが、それが疑わしいのは既に指摘しました。(以下は以前書いた内容です)

「…「朱鳥元年(六八六)正月乙卯一四 酉時難波大藏省失火。宮室悉焚。或曰『阿斗連藥家失火。之引、及宮室。』唯兵庫職不焚焉。」

 この難波宮殿の火災記事によれば「大蔵省」「兵庫職」という官職(職名)が書かれています。これらの「職名」で表される「官衙」がここに存在していたというわけですから、「難波宮」がこの時点で「政府中枢」として機能していたのは間違いないものと見られます。
 また、「阿斗連藥家失火。之引、及宮室。」と書かれていることから、「宮殿」付近に「官人」の住居があったことを示していると考えられます。別の言い方をすれば「飛鳥宮殿」の「近辺」には官人がいなかったのではないかと考えられるものです。
 「飛鳥宮」至近には「都市機能」つまり「条坊制」などが布かれた形跡はなく、また「宮殿」の「至近」に有力豪族や官人などの住まいがあったようにも見えません。つまり「飛鳥宮殿」の「政府中枢機関」としての機能は「限定的」であったことが読み取れます。
 しかし、「難波宮殿」や後の「藤原京」は「統合」された政府機関であり、その中に「国家」の中枢としての全ての機能が集まっていました。このような「宮殿」とそれを取り巻く周辺施設がありながら、あえてそれを使用せず、「飛鳥」にとどまる理由が従来は正確に説明できていません。…」

 このように以前考察したわけであり、少なくとも『書紀』の記事からでさえ「国家」の機能が主に「難波」にあったとみられるいうこととなるわけですが、そのことは「倭国王」もこの時「難波宮殿」の中にいた可能性が高いことをを推察させるものです。
 また上の『古事談』や『扶桑略記』の記事からも「内裏」が焼亡したという内容となっており、「内裏」が「天皇」の住居(私的空間)を含む表現ですから、この時の火災の際に「当時の王権関係者」(天皇含む)に何らかの被害があったとみるのはそれほど不自然ではないでしょう。それを『書紀』の記述に求めると、「六八六年正月」の「難波宮殿」火災記事以降「書紀」には「天武」の「死」を予期させるような記事ばかりが並び、結局その年の十月に死去した、という流れが気になります。

「(朱鳥)元年(六八六年)正月己未(十八日)朝庭大餔。是日御御窟殿前而倡優等賜禄有差。亦歌人等賜袍袴。」

 この記事は「火災記事」の直後の記事ですが、すでに「御窟殿」という「正体不明」の場所名が書かれています。ここで使用されている「窟」という文字は「岩屋」や「洞穴」の類に使用される文字であり、「殯宮」(死んだ後の「喪がり」を行う場所)を連想させるものです。その証拠に「倡優」や「歌人」がその前で、「演技」(所作)を行ったり「歌」を歌ったりしていますが、これは「葬送儀礼」を連想させるものです。つまりこの時「御窟殿」の前で行われた「倡優」による「演技」(悲しみを表す所作か)や「歌」は「喪がり」に奉仕したことを示唆するものであり、「天武」がこの段階ですでに死去していることを意味していると考えられます。それはその火災発生の時刻からもいえます。
 
 この火災発生の時間帯としては「酉時」と書かれていますが、これは当時「日没時間帯」を指す表記ですから、その時点ではあたりはすでに薄闇となっていたと思われ、当時の感覚としては既に就寝時間帯かもしれず、宮殿の奥まったところの「寝所」にいたような場合には逃げ遅れたという可能性もあるでしょう。
  「難波宮殿」は上町台地の一番標高の高いところにありましたから、水利が悪かったという事も考えられます。火災が起きたときに十分な「水」が確保できなかったかもしれません。
 「難波宮」の「発掘調査」からは、北西の「谷」から「湧出水」を利用するための「樋」状の施設が発見されており、その用途についての議論の中では、「宮殿」の内部には「井戸」がなかったという可能性が指摘されています。このため、火災などが発生した場合に必要な「防火用水」としてはその量が不十分であったのかも知れません。

 こうしてみると「難波宮」の「内裏焼亡」という事件は実際には「倭国王権」にとって非常に重大な事案であり、かなり強いダメージがあったとみるべきではないでしょうか。

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