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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

南朝の都城と「太宰府」

2018年05月31日 | 古代史

 「大宰府政庁」については現在地上に見える礎石の下に同じような配置の礎石が確認され、さらにその下層に「掘立柱建物」の柱穴があり、計「三期」に及ぶ遺構であることが明らかになっています。しかも「第Ⅱ期遺構」は「条坊」と「ずれている」事が判明しています。
 例えば「朱雀大路」は最終的に「政庁第Ⅲ期」段階で「条坊」の区画ときれいに整合する事となりますが、それ以前の「朱雀大路」は「条坊」と明らかに食い違っているのです。(「政庁中軸線」の延長が「条坊」の区画の「内部」を通過しています)これは「条坊」区画が既に存在しているところに「政庁中軸線」を「別途」設けたために、既存条坊とずれてしまったとみられています。(この事は当然当初の「朱雀大路」は別にあったと言う事になります。)
 つまり「大宰府政庁第Ⅰ期」は条坊と整合しているというわけですが、それは少なくとも「政庁」が「掘立柱建築」という初期段階で条坊があったこととなります。さらにそれ以前に「プレⅠ期」とでもいうべき時期があり、その時点では「都城」の中央部付近に「宮域」が設けられたという可能性が指摘されています。(それは「藤原宮」との類似からの推論のようですが)
 その場所は「右郭南方」に存在する「通古賀地区」がそれであったとされ、そうなれば、現在の「太宰府政庁遺跡」の最下層建物(政庁第Ⅰ期古段階)の「柱穴」は、当然「通古賀地区」にあった「宮域」が「北辺」に「移動」した際に形成されたこととなります。(これは「移築」でしょうか)
 
 『周礼考工記』によれば「都城」には縦横とも中央を貫く幹線道路を設けることとされています。つまり、真ん中に「朱雀大路」的道路を設け、東西南北に直交する幹線道路を設けるというように指示されているわけです。「通古賀地区」が本来の「真ん中」であり「宮域」であったとすると、そこを中心として「朱雀大路」があったはずということとなりますが、その場合「右郭四坊線」がそうであったと推定され、この仮想「朱雀大路」を「南側」に延長すると「基山」の山頂を通過します。(正方位から一度以内の差です。)このことはこの時点の「都城」(「政庁プレ第Ⅰ期」)の設計というものが「基山」を基準として造られたことを推定させるものです。
 また、この「政庁プレ第Ⅰ期」が「周礼考工記」に準拠して造られたとすると、「王城」の大きさも同様であったと思われますが、そこには「方九里」という規定がありますから「通古賀地区」が中心(宮域)であったと仮定して、この規定を当てはめてみると、(「一坊一里」ですから)「方九里」とは「九区画四方」(九坊四方)という範囲を意味し、これを「条坊」に当てはめて考えてみると、ちょうど現在見られる「右郭」の南側半分程度の範囲となります。
 その東端としては現在「朱雀大路」跡と思われているところが該当することとなり、また「朱雀門」礎石が出た場所は「区画」の東北の隅に当たります。これらのことからも、これらの「位置関係」が当初から「計算」されたものであることを示すものです。

 そもそも「遣隋使」が派遣されたのが『隋初』つまり「開皇の始め」であるとすると、まだ「隋」の新都である「大興城」はかなりの部分が未完成であったと思われると同時に「北周」以来の都である「長安城」は「周礼」に基づいておらず、「遣隋使」が「都城制」について学ぶとすると「北辺」に「宮域」を持ついわゆる「北朝式」の都城を学んだはずであることとなります。
 しかし「政庁プレ第Ⅰ期」は「周礼」に基づいていると考えられるわけですが、「都城プラン」が「周礼」に基づいているものとしては「漢魏」以降存在していた「洛陽城」がありました。これを参考にしたとも考えられます。
 『隋書俀国伝』では「倭国」の都について「無城郭」とされています。つまり「城郭」がないというわけですから、「城」とそれをめぐる「郭」がなかったこととなります。これは「遣隋使」以前の倭国の「都」に関する情報ですから、それが「隋」以前のものであるのは明らかであり、この点については南朝の都「建業」の都城との比較が参考になるでしょう。「建業」には「羅城」がなかったとされ「木製」の柵で区切りとしていたとされています。
 「倭国」と南朝の関係を考えると、このような「南朝」の都の情報を「倭国王権」が知らなかったとは考えにくく、少なくとも「百済」を通じるという形でその情報を得ていたと見るべきでしょう。

 「北魏」の「洛陽城」と「南朝」の「建業」とはいずれもその中心付近に「宮域」を持ちその北側には「華林園」という「緑地帯」を持っていたとされ共通したデザインコンセプトであることが確認されていますが、それはその前代の「魏晋洛陽城」において実現したこととされています。
 「魏晋」ではその前代の「後漢」の「洛陽城」をそのまま継承したとされていましたが、実際にはデザイン変更が行われており、その「魏晋洛陽城」がその後の南北朝における各首都のデザインの祖型となったとされています。当然それは「百済」「倭国」など「魏晋朝」やそれ以降の「南朝」と長く交渉があった諸国に伝来したとして不思議はありません。
 「百済」では「泗沘城」と「青馬山城」というように「都城」と「山城」という組み合わせが「普遍的」であり、それは「倭国」においても「筑紫都城」と「大野城」等の山城という組み合わせが多分に「百済的」であるところに現れていると考えられますが、その「泗沘都城」)に存在していた「定林寺」などの発掘から、「百済」の仏教建築や瓦製造技術などが「南朝」(特に「梁」)からの伝来であることが強く想定されていますから、その流れが「倭国」においても「同笵瓦」と「四天王寺式」という形式を共有する「飛鳥寺」「四天王寺」などの一連の寺院の存在に現れていると考えられ、その意味でも「周礼」に基づく「条坊」を伴った「都」というものも「南朝」との関係をまず考えるべきと思われることとなり、「倭国」の都においても「中心付近」に「宮域」があり、周囲は簡単に「木柵」で囲う程度の「郭」があったものと推定され、それを『隋書俀国伝』では「無城郭」と称していると思われます。(この形状は「難波京」においても同様であったと思われ、周辺から「柵」状のものが出土しています)

 以上から「通古賀地区」に「宮域」があった当時の「原初型」としては、現在の「太宰府」のほぼ「四分の一」程度の広さであったこととなり、その後「都城域」は時代の進展と共に拡大されたものと見られ、(つまり「左郭」は後になってから増加された部分と思われることとなります)そのタイミングはいわゆる「大宰府政庁第Ⅰ期」と考えられている遺構の時期を指すと思われます。その時点で「北朝形式」の都城が形成されたと考えられ、その時期としては「白村江の戦い」の後のこととする見解が大勢ですが、この「北朝形式」の「都城」プランが「遣隋使」が持ち帰った知識に基づくという可能性が考えられることを前提とすると、実際の時期としては「六世紀後半」あるいは「七世紀前半」という年代ではなかったかと推定され、その完成を示しているのが「九州年号」の「倭京改元」付近ではなかったかと考えられます。


(この項の作成日 2011/08/28、最終更新 2015/05/23)(ホームページ記載記事を転記)

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「神籠石(神護石)」遺跡について

2018年05月31日 | 古代史

 「神護石」(神籠石)遺跡というものがあります。この遺跡は「北部九州」「山口県」などかなり広範囲に渡って築かれたもので、全国で「十箇所ほど」確認されているものですが、山の山頂から中腹付近にかなり大規模な「土塁」と「石積み」の遺構があるものですが、いつ頃の年代のものか、誰か設置したのかなどで議論になっており、今だ結論が出ていないものです。
 現代の考古学者は「神籠石」という名称は使用せず、単に「古代山城」としているようです。そして、その評価としては「唐」の軍隊に対する防衛の為のものとされ、また、官人や民衆の「緊急避難」のためのものという考えでもあるようです。
 これに関しては「大野城」などと同時期ではないか、という説もあり、確かに「朝鮮式山城」としては「大野城」などと「同様」と推察されてはいるものの、明らかにそれに「先行する」様式であり、築造の時期としてもっと早い時期を想定すべきものと思慮されます。
 (「高良山」の「神護石」遺跡はその北半分が崩壊しているようであり、これが「六七八年」の「筑紫大地震」に関わるものと推察され、この「神護石」の建設された時期の「下限」としてはこの地震時点と考えられるものです)

 この「遺構」の分布は明らかに「筑紫」が中心域となっており、外敵からの侵入に対し「筑紫」を防衛する体制を構築しているように見えます。この「神籠石」というものが「筑紫」を防衛するためのものであるとすると、「神籠石」が構築されたのは「筑紫」に「王権」があり「倭国」の本拠があった時期を想定するべきですが、「筑紫」は「倭の五王」以前の中心地であり、その後は「肥後」に移ったと考えられます。つまり、「前方後円墳」の分布及びその石室の形式の変遷などを見ると、中心地は「筑紫」から「肥後」へ移っていたものと考えられます。
 
 中国で「四世紀初め」「西晋」が滅び「五胡十六国」の群雄割拠状態になると、半島に対する影響力、統制力が低下してしまい、それは「倭国」を含む「半島諸国」に対して「対外拡張策」を取る道を選ばせ、半島内は、倭国も含む半島諸国がしのぎを削る舞台となったと推量されます。そのようなことが起きた理由の一つは「鉄」であったと考えられます。「鉄」という重要戦略物資を入手するためには「半島」においてある程度の「覇権」を握る必要があり、各国ともかなり熾烈な戦いを演じていたものと思われます。
 そのような中で「防衛戦略上」「倭国王権」は「首都」を「筑紫」から「肥後」へと移動させたと考えられますが、その後も継続して「肥後」に中心があったものと思料されます。そのことは「五世紀」に入り、「阿蘇熔結凝灰岩」を使用した「古墳」が近畿に造られるようになることとも関連しています。
 そもそも「近畿」など「東国」に「前方後円墳」ができる、ということ自体が「東国」からみて「外部」からの政治的、宗教的圧力によるものと見られており、石室材料やその形式など各種の徴証から「九州」などの外的勢力の存在が関与しているというのは「近畿王権一元説」の立場からも議論されているほどです。(※)
 つまり、「倭の五王」時代の対外拡張政策は「肥後」を起点として行われていたものと見られ、この時点での「筑紫」は「旧都」であり、また「半島」からの圧力に対する「水際防衛」の最前線として存在していたと思われます。
  
 最終的に「筑紫」が本拠になったのは「六世紀末」から「七世紀初め」のことと考えられ、『隋書』に云う「阿毎多利思北孤」や「利歌彌多仏利」のころのことと考えられます。そうであれば、「四世紀」より前か、「六世紀」より後かどちらかの時期に、この「神籠石」が構築されたと考えなければならなくなりますが、その意味では「七世紀」半ばに「大野城」などとほぼ同時期に構築されたという考えも可能性としてあり得るものですが、全ての「神籠石」がその時代に作られたと考えるのは「考古学的証拠」と合致しません。それは、一部の「神護石」遺跡からは非常に古い「祭祀」に関わる土器が出ていて、そのことからすでに「古代」からそこに「城」的遺跡があったと考えられる事を示しており、その起源は「卑弥呼」の時代にまで遡るという可能性もあるからです。
 明らかに「三世紀」の「卑弥呼」の頃には「筑紫」(というより「筑前」)に「王都」が存在していたわけであり、そのことは「古田氏」の数々の研究により明らかにされているところです。

 この時代「狗奴国」など国内には反対勢力がいるわけであり、それは「卑弥呼」の「共立」される経緯から見ても、国内が「一枚岩」でなかったことは明白なわけですから、この時点では「筑紫」を防衛しなければならない必然性があるものと考えられます。(海からの上陸に対する防衛としては「一大率」などがその任に当たっていたと考えられます)
 つまり「神護石」の一部のものについてはこの段階で「邪馬壹国」など当時の倭国王権を防衛するためのものとして築造されたと考える事もできそうです。
(「大宰府」防衛のための「水城」についても一部については「卑弥呼」の時代にその起源が遡るものもあるという可能性も指摘されており、「神護石」と同時代のものという考えもあり得ると思えます。またそのことから「邪馬壹国」という「卑弥呼」の所在する場所についても「水城」の背後であると云うことも推定できるでしょう。)
 このように、「神籠石」の一部については「四世紀」以前の「筑紫」防御施設として機能していたものも含まれていると考えられるものですが、他方「神護石」遺跡の中にはかなり「新しい」と考えられるものもあり、それらは「七世紀中葉」とされているものです。
 このように多様な性格があるわけですが、新しいものについては『隋書俀国伝』に現れる「利歌彌多仏利」以降に「筑紫」防衛の必要性が出て来た事を示していると考えられ、それは「太宰府政庁第Ⅰ期」発掘調査などで判明している「大宰府」都城完成時期(七世紀初め)以降であることを示しているものであり、また「難波副都」建設の時期と考えられるものです。

 「難波副都」建設は「遣隋使」派遣以降「宣諭事件」以降「隋」との関係がかなり悪化し、緊張関係が高まった中で行われたものであり、「筑紫」はその段階で首都であると同時に「水際防衛」の重要拠点でもあったわけです。この場所を防衛する必要性がこの時期にはあったことは確かであり、その時点で「朝鮮式山城」(ただし「新しいタイプ」)である「大野城」などを「修造」する必要性が高まったことを示しており、最新の「年代測定」などから「七世紀半ば」(六四八年)という年次を示していることが明らかとなっていますが、これは「修造」という語が示すように「創建」時期を表わすものではないと思われます。
 国府などの遺跡の調査などからその建て替え間隔は約五十年であることが明らかとなっており、これに従えば「大野城」等の筑紫の山城についてもその修造が約五十年目であったとすると、その創建は六世紀の末のこととなります。
 この時期に創建されたとするとその目的はやはり「隋」との関係を第一に考える必要があるものと思われ、後に述べるような「宣諭事件」以降「琉球侵攻」によって「隋」の意思と能力を見せつけられた「倭国王権」は「東国」へ主たる支配地域を移動したと云うことが考えられ、「難波副都」がこの時点で作られたことを意味すると考えられます。
 このように「神護石」は「三世紀」以降の各時代に「筑紫」を防衛するために造られたと考えられるわけですが、しかし、その必要性の一番高かったのは、実は「物部」が「筑紫」を奪い「制圧」していた時期ではないでしょうか。

 「物部」は「磐井の乱」以降、「倭国王権」から「筑紫」を「奪った」と見られるわけ訳ですが、当然「倭国王権」の反撃が想定されるものですから、それに備え各所に「山城」を築き、武器や食料を蓄えていたのではないかと考えられます。つまり、「神護石」遺跡の大部分は、「物部」が築いた山城ではないかと考えられ、これらは当然「六世紀」半ばの「築造」ではないかと考えられることとなります。

 「神護石」と「物部」が深く関係しているというのは、「物部」の本拠地とも「象徴」とも考えられる「高良大社」のある「高良山」の「山腹」に大規模な「神護石」が存在している事、また「神護石」という「名称」も本来「高良山」に特有なものだった事からも窺い知れるものです。
 そもそも「物部」は「戦闘集団」ですから、「防御」施設でありまた「戦闘」の際の基地ともなったと思われる「山城」の構築とそこに陣を敷いた戦闘に、「物部」という氏族が「無縁」であったとは考えにくいものです。
 「物部」は古代より「筑紫」を防衛するための施設として残っていた「山城」を「再利用」して、強固な「防衛ライン」を構築し、「倭国王朝」の「筑紫」に対する「圧力」に対抗しようとしていたのではないでしょうか。
 それを示すように『書紀』による「神功皇后」の「征討」のルートは「神護石」の分布域に沿っており、例えば「田油津姫(たぶらつひめ)は女山(ぞやま)に籠って」「神功皇后」を迎え撃っていますが、「女山」には「女山神護石」遺跡があり、この「田油津姫」がこの「神護石」という「山城」に立て籠もって戦ったことが推察されるわけです。
 そして、「神功皇后」は実際には「阿毎多利思北孤」の「母」の投影ではないかということを推測したわけであり、であればこの戦いは正に「倭国王権」と「物部」の戦いであり、「物部」の勢力が「神護石」を「山城」として防衛線を構築していたことを示すと考えられるものです。


(この項の作成日 2011/10/02、最終更新 2015/04/14)(ホームページ記載記事を転記)

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「阿蘇溶結凝灰岩」の使用停止と「蕨手文古墳」の発生と終焉

2018年05月31日 | 古代史

 「磐井の乱」以降、「倭国王権」が一時「雌伏」させられたと考えるのは、「磐井の乱」とほぼ同時期以降、「近畿」で「阿蘇熔結凝灰岩」を使用した古墳が造られなくなることなどから推察できます。これは約六十年間続きます。
 「近畿」では五世紀中頃から、「阿蘇熔結凝灰岩(灰色岩)」による石棺などが使用された古墳が造られていました。(産地としては熊本県の氷川と菊池川上流があります)
 その石棺の形も九州(熊本)の古墳のものと同一でした(舟形石棺と呼ばれます)。これはちょうど「倭の五王」の頃に重なっており、形式も材料も「九州」から調達したものと考えられ、墓制の共通化・統一化が図られていった様子がわかります。(※1) 
 この「阿蘇熔結凝灰岩(灰色)石棺」を使用した古墳が造られなくなるのが、「六世紀前半」から「六世紀終末」までの「約六十年間」なのです。ちょうど「磐井の乱」が起きた頃とほぼ同時期から「阿蘇熔結凝灰岩(灰色)石棺」を使用した古墳が造られなくなるわけですから、これらの間には重大な関係があると思われます。
 「墓制」の統一と云うものは「連帯」と「服属」とを意味すると推定されるものであり、それを止めてしまったわけですから、「服属」という行為そのものを止めたのだと考えるのが理解しやすいことと思われます。つまり、「筑紫王朝」による列島支配、という構図に「破綻」ないし「狂い」が生じたものと思われます。
 それを示すように『書紀』の『推古紀』に以下のような記事があります。

「(推古)十五年(六〇七年)春二月庚辰朔。(中略)戊子。詔曰。朕聞之。曩者我皇祖天皇等宰世也。跼天蹐地。敦禮神祗。周祠山川。幽通乾坤。是以陰陽開和造化共調。今當朕世。祭祠神祗。豈有怠乎。故群臣共爲竭心宜拜神祗。」

 ここで言う「宰世」とは「天下を治める」ことを意味する言葉であり、文章全体の意味としては「昔は」(あるいは「以前は」)「吾が皇祖天皇は」「宰世也」「天下を治めていた」と語っているわけです。そして、その時は「ひどく謹み恐れながら、神祇を敦く敬った」というわけであり、(今自分もそのような立場に立ったので、)同様のことをする、と言うわけです。
 この「推古」の言葉からは「昔」と「今」の間に「宰世ではなかった」時期がある事を暗黙に語っていると思われます。これは「磐井」が「物部」に「筑紫」から「追放」されたことを物語っているのではないでしょうか。
 その「昔」とはいつのことかを推察できる記事が『垂仁紀』にあります。

「『日本書紀』巻六垂仁天皇廿五年(丙申前五)春二月丁巳朔甲子甲子条」
「詔阿倍臣遠祖武渟川別。和珥臣遠祖彦國。中臣連遠祖大鹿嶋。物部連遠祖十千根。大伴連遠祖武日。五大夫曰。我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇。惟叡作聖。欽明聰達。深執謙損。志懷沖退。綢繆機衡。禮祭神祇。剋己勤躬。日愼一日。是以人民富足。天下太平也。今當朕世。祭祀神祇。豈得有怠乎。」

 つまり「我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇。」つまり「崇神天皇」が「神祇」に対する「禮祭」を一日も怠らず続けていたものを自分の代で怠るわけにはいかない、というわけです。そして、それとほぼ同じ文章が『推古紀』に現れるわけです。このことから、「推古」にとって「皇祖」とは、垂仁の言う「我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇。」つまり「崇神天皇」であることとなるでしょう。
 これは「垂仁」の後、「推古」までの間に「主権」を奪われていた期間があることを示すものです。
これが「磐井」が「筑紫」を追放されていた期間を表すとすると、「垂仁」と「倭王武」が重なることとなるでしょう。
 その「垂仁」の「皇后」である「日葉酢媛命」が亡くなられたとき、「垂仁天皇」は「出雲」の「野見宿禰」の提言を取り入れ、それまで「生身の人間」を埋めていた「殉葬」をやめて「埴輪」に代えさせたとされ、これが「近畿」の実態とは整合しないというのは有名な話であり、いわゆる『書紀』不信論の代表とされています。

「垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯条」
「皇后日葉酢媛命(一云。日葉酢根命也。)薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰。從死之道。前知不可。今此行之葬奈之爲何。於是。野見宿禰進曰。夫君王陵墓。埋立生人。是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者。喚上出雲國之土部壹佰人。自領土部等。取埴以造作人馬及種種物形。獻于天皇曰。自今以後。以是土物。更易生人。樹於陵墓。爲後葉之法則。天皇於是大喜之。詔野見宿禰曰。汝之便議寔洽朕心。則其土物。始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰。自今以後。陵墓必樹是土物。無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功。亦賜鍛地。即任土部職。因改本姓謂土部臣。是土部連等主天皇喪葬之縁也。所謂野見宿禰。是土部連等之始祖也。」

 しかし、考古学的には「人型埴輪」に関する事実(時系列)は、実際には「近畿」ではなく「筑紫」に適合した話であり、そのことからもこの「垂仁天皇」及び「皇祖」である「崇神天皇」は「九州」を拠点としていたことが推察できると思われ、それは「磐井」の墓とされる「岩戸山古墳」が「筑後」にあることと正確につながっているといえるでしょう。そしてこの場所は元々「肥の国」の領域であったものです。

 このように「磐井」を打倒した、とされている「物部」ですが、「筑紫」には「物部」の本拠があったと見られています。
 「筑後一宮」である「高良大社」の祭神は「高良玉垂命」であり、その「高良大社」の史料である「高良記」には、歴代の「玉垂命」が「物部」であり、このことは「秘すべし」とされ、もし洩れたら「全山滅亡」とまで記されているとされます。
 「氏姓分布」から見ても「九州」内では「物部」姓は「うきは市浮羽町」に集中しているのが確認できます。(ただし全国的には岡山県にかなり多数がおられるようです)
 『和名類聚抄』には「筑後国生葉郡物部郷」という地名が存在していたことが確認され、「物部郷」は「浮羽町」の近隣にあったと見られます。

 ところで、「装飾古墳」には多種多様の文様が描かれていますが、それらは多くの古墳に共通であり、その「傾向」、例えば「地域」と「装飾文様」の対応などについて何らかの「有意」な事実を見いだすのはなかなか困難なのですが、ただ「蕨手文」という文様については、その描かれている地域に共通する特徴があると考えられています。
 「蕨手文」というのはその形が「蕨の芽」に似た形状をしていることからからつけられた名称ですが、具体的に何をイメージしたものか、何を抽象化したものかはっきりとはわかっていませんが、「盾や短甲に取り付けられた装飾」に起源するという意見があります。つまり、「死者」を守る為の防具の一部というわけですが、また「武門」に関係するものでもあります。(その後も刀剣の装飾として出土例が多い)(※2)
 「装飾古墳」の中で、「蕨手文」が描かれている古墳はわずか八つしかありませんが、そのうち七つが筑後川流域と水縄山地の周辺に集中していること、「肥後」には皆無であるという重要な特徴があります。
 この「蕨手文」が描かれている古墳の初出は、「若宮古墳群」にある「日ノ岡古墳」というものですが、時期的には「六世紀前半」であり、「岩戸山古墳」とほぼ同時期と考えられ、「物部」が「磐井」を打倒した時期に重なっています。しかも、これら「若宮古墳群」がある「福岡県浮羽郡吉井町」という場所は先述した「物部郷」があったと考えられている場所の至近です。
 また、「蕨手文古墳」からはほかに「靫、盾、太刀」などの武器文様が描かれている例が多く、これらは戦闘集団「物部」にふさわしいと考えられます。しかも、最後の「蕨手文古墳」と考えられる「重定古墳」が六世紀最終のものと推定されているのも、「物部」の滅亡時期と重なっていて興味深いものです。
 「蕨手文古墳」が「肥後」には皆無である点も、「磐井の乱」で「磐井」の一族が最終的に「肥の国」に逃れたと考えることで理解できるものです。つまり、この「蕨手文古墳」は「物部」の古墳であり、「物部」が「筑紫」を制圧していた期間に作られていたものと考えられるわけです。

 「装飾古墳」は「倭国王権」に近い存在にのみ許されたものと考えられ、そのような中で「物部」が「装飾古墳」の一種である「蕨手文古墳」を作っていたということは、自らを「倭国王」に「擬していた」と云うことと考えられます。
 そして、この「物部」滅亡後「近畿」で再び「阿蘇熔結凝灰岩(灰色)」を使用した「石棺」を伴う「古墳」が造られるようになります。(植山古墳など)
 それまでの「石材」の運搬ルートは、「生産地」である「菊池川」上流から川を下り、「有明海」に出て北上し、今度は逆に「筑後川」を遡り、途中でこの当時存在したと考えられる「運河」により北上して「博多湾」へ出て、そこから「海岸沿い」に東行し、瀬戸内海へ入るというものであったと思料されます。つまり、この経路は「筑紫」という地域が自家のものである場合には有効であるものの、そこを物部に押さえられてしまうと使用できなくなるわけであり、このため、「近畿」で「阿蘇熔結凝灰岩」を使用することが出来なくなったものと考えられます。
 そして、再び「九州倭国王権」がその指導的位置を取り戻し、その権威を列島内に及ぼし始めた事により、「筑紫」が解放され、以前のように「石材」を運搬することが可能となったものと推察されます。

 つまり「近畿」において「古墳」の石室の石材として「阿蘇熔結凝灰岩」を使用しなくなる「六十年間」と、「筑後」において「蕨手文古墳」が見られる「六十年間」それに「物部」が「磐井」を「打倒」(追放)して「筑紫」を制圧していたものが「守屋」に至って滅ぼされるまでの「六十年間」がぴったりと重なっているのです。
 これらのことは「磐井の乱」の「実在の証明」でもあり、また「倭国王」の「逼塞」の事実の証明でもあると思われるのです。


(※1)『古賀事務局長の洛中洛外日記第207話』「九州王朝の物部」(二〇〇九年二月二十八日)
(※2)伊東義彰「装飾古墳に描かれた文様~蕨手(わらびて)文について」(古田史学会報七十七号 二〇〇六年十二月八日による)


(この項の作成日 2011/01/14、最終更新 2015/07/10)(ホームページ記載記事を転記)

コメント (3)

「猪」と「家畜」

2018年05月31日 | 古代史

 「磐井」が生前に築いたとされる「岩戸山古墳」には「猪窃盗犯」の裁判の場が描写されているとされます。なぜ「磐井」は自らの業績を誇るために、石像などで特に「猪窃盗犯」の裁判風景を描写したのでしょう。
 他の物品でも良さそうなものではないか思われるわけですが、ここで「猪」が特に登場しているのには、「意味」があるのではないかと考えられるのです。
 それは「当時」「猪」が最高級品であったからではないでしょうか。一番高価なものを盗んだ事に対して行なわれた「審判」の情景を「例」としてそのまま「陳列」し「展示」すると言うこととなったのではないかと推察されます。
 
 後に『天武紀』で「肉食禁止令」が出されますが、そこでは「且莫食牛馬犬猿鶏之完」とされ、「猪」が含まれていません。このことは「以前」から「猪」は食べて良いという事になっていたことを示すと考えられますが、その肉は「高級品」であり、「庶民」はなかなか口にできないものであり、そのため「家畜化」され、それを「盗み」転売するようなことが横行していたという可能性もあります。
 つまり、「磐井」の古墳の「裁判」の場にも表されている「猪」は「盗まれた」ものですが、それはこの「猪」が「家畜」として飼われていた(といっても「檻」などの狭いところに押し込められていたとは思われませんが)ものであったことを表すものと思料します。
 これが「他人」が狩猟して得た獲物である「猪四頭」を「横取り」したと想定する、推定される「猪」の狩猟の実体と矛盾します。
 たとえば「埴輪」や「陶器」などには「猪狩」の描写がされている例がありますが、そこでは「猪」と格闘しているシーンと思われる例もあるなど、「猪狩」は「犬」と「人間」にとって「命がけ」であったことが判ります。
 『播磨風土記』では「応神天皇」と思しき人物が「猪狩り」を行ない、伴の「犬」が「猪」に殺されてしまうことなどが書かれています。
 つまり「猪狩」は狩猟の際には必然的に「殺され」てしまうものであったと考えられ、現場で解体され「肉」として運ばれたのではないかと思料されます。それは「丸ごと」「盗品」として裁判の場に出されていると考えられる事と矛盾するといえるでしょう。それは『雄略紀』の記事からも推測できます。

 『雄略紀』には狩猟に出かけ獲得した獲物をその場で解体するという場面が出てきます。

「(雄略)二年…冬十月辛未朔…丙子。幸御馬瀬。命虞人縱獵。凌重■赴長莽。未及移影、■什七八。毎獵大獲。鳥獸將盡。遂旋憩乎林泉。相羊乎薮澤。息行未展車馬。問羣臣曰。獵場之樂使膳夫割鮮。何與自割。羣臣忽莫能對。於是天皇大怒。拔刀斬御者大津馬飼。…語皇太后曰。今日遊獵大獲禽獸。欲與羣臣割鮮野饗。歴問羣臣莫能有對。故朕嗔焉。皇太后知斯詔情。奉慰天皇曰。群臣不悟陛下因遊獵場置宍人部降問群臣。群臣黙然。理且難對。今貢未晩。以我爲初。膳臣長野能作宍膾。願以此貢。天皇跪禮而受曰。善哉鄙人所云。貴相知心。此之謂也。皇太后視天皇悦歡喜盈懷。更欲貢人曰。我之厨人菟田御戸部。眞鋒田高天。以此二人請將加貢。爲宍人部。自茲以後大倭國造吾子篭宿禰。貢狹穂子鳥別爲宍人部。臣連伴造國造又隨續貢。」(『雄略紀』より)

 ここでは「雄略」が自分で「鳥獣(禽獣)」を料理すると言いだして群臣を困惑させていますが、基本的に「狩猟」は料理人を連れて行くのが原則であり、その場で調理する場合もあったらしいことが窺えますが、この場合の「禽獣」の中に「猪」もいたであろうと思われることから、「猪狩」の場合も「生け捕り」はかなり困難であり、その場で解体することが常態として行われていたことを示唆するものといえます。

 ところで「家畜」というものが「古代」の「倭国」にもいたことは『書紀』の「大国主」と「少彦名命」の説話の中でも語られていることから推察できます。

「一書曰。大國主神。亦名大物主神。亦號國作大己貴命。亦曰葦原醜男。亦曰八千戈神。亦曰大國玉神。亦曰顯國玉神。其子凡有一百八十一神。夫大己貴命與少彦名命。戮力一心。經營天下。復爲顯見蒼生及畜産。則定其療病之方。又爲攘鳥獸昆虫之災異。則定其禁厭之法。」(『神代紀』第一巻第八段より)

 ここでは「畜産」と書かれているだけであり、どのようなものが「家畜」とされていたかはっきりしませんが、一番可能性のあるものが「猪」ではないでしょうか。
 『天武紀』にあるような「禁止された」他の動物よりは「猪」の方が考えやすいでしょう。基本的に「食用」以外に用途がありませんし、一頭から採れる肉量も多いですから「繁殖」さえうまくいけば有効なタンパク源として機能させられるでしょう。もちろん「家畜」とすると、狩猟に伴う危険性が減ることや、常に狩猟を続けなければならないという逼迫性が減少するということも重要です。そのような「家畜」の存在は『播磨風土記』に「猪」を「放し飼い」にしたという記事があることからも推定できます。

「播磨風土記賀毛郡山田里の条」「山田里土中下 猪飼野 右 号山田者 人居山際 遂由為里,名猪養野 右 号猪飼者 難波高津宮御宇天皇之世 日向肥人朝戸君 天照大神坐舟於 猪持参来進之 可飼所 求申仰 仍所賜此処 而放飼猪 故袁猪飼野」

 ここで「猪」を「放し飼い」にしたとされていますが、「飼う」事とした理由については当然、安定的食料供給源として考えたためであると推察できますから、いわゆる「家畜」として考えるべきものでしょう。
 また、これは後代の例ですが、『聖武紀』では「私畜」している「猪」を「解放」するように「詔」が出ています。

「天平四年(七三二年)秋七月丁未条」「詔。和買畿内百姓私畜猪■頭。放於山野令遂性命。」

 これはこの年「天候不順」などで「凶作」が予想されたために、(この直前の「詔」では、「從春亢旱。至夏不雨。百川減水。五穀稍彫。」と表現されています)「聖武」が自らの不徳の至りとして「大赦」などを行なった一環として、「私畜」している「猪」などについても解放するように指示を出したものです。この「私畜」という表現からは、やはり「猪」が一般に「飼われている」という実態があったことを示すものです。このような「猪」の飼育というものはかなり以前から(天武紀の禁止令以前)行なわれていたものではないでしょうか。それを示すのが、「猪養」という「姓」(かばね)があり、またそれを名を持つ人物がいたことです。

「養老七年(七二三年)春正月丙子。天皇御中宮。授從三位多治比眞人池守正三位。…正六位上引田朝臣秋庭。河邊朝臣智麻呂。紀朝臣猪養。」

 たとえば「牛養」「馬養」「犬養」(犬飼)はいずれも「部民」であり、それを職掌としていた氏族があったこと、それは「官」として存在していたものであり、「王権」に深く結びついていたことを表すものですが、同様に「猪養」という名前もそのような「職掌」があったことを示すものと考えられます。それが「猪使氏」ではなかったかと思われ、彼等は後の「宮城門」(「偉鑒門」)の整備にも活躍しています。

「日本後紀卷二逸文(『拾芥抄』宮城部)延暦十二年(七九三)六月庚午【廿三】」「同年六月庚午。令諸國造新宮諸門。尾張美濃二國造殷富門、伊福部氏也。越前國造美福門、壬生氏也。若狭越中二國造安嘉門、海犬耳氏(海犬甘)也。丹波國造偉鑒門、猪使氏也。但馬國造藻壁門、佐伯氏也。播磨國造待賢門、山氏也。備前國造陽明門、若犬甘氏也。備中備後二國造達智門、多治氏(多治比)也。阿波國造談天門、王手氏也。伊與國造郁芳門、達部(建部)氏也。」

 「猪」を「使う」といっても、意味は不明ですが、「猪養」(猪飼)が転じたものとも考えられ、「家畜」として「猪」を飼養することを「職掌」とする氏族がいたことを推定させるものです。
 そのような氏族がかなり大きな勢力として扱われているらしいことは、「猪」の肉がほぼ「王権」専用であったらしいことを推測させるものであり、それを盗んだ人間が厳しく罰せられたというのが「磐井」の「墳墓」の様子から窺えるものです。

 ちなみに、この家畜化された「猪」を「豚」であるとする理解もあるようですが、そうとは思われません。「豚」は「猪」を人間が家畜化したものであり、そのためにはかなりの時間(年月)を要します。当然「猪」と「豚」は見た目もそうですが、区別がされてしかるべき別の動物であることとなりますが、『書紀』の中では「猪」という名称しか現れません。しかも「応神紀」では「猪」を狩るのが命がけとされていますから、これは明らかに「豚」ではないと思われます。
 また「猪」は本来野生動物ですから、「豚」のように「柵」で仕切った狭い場所(檻など)に入れて飼育するというようなことは困難であったと思われます。それは当然「放し飼い」というスタイルとなったものと思われますが、これを(献上するために)捕らえて縛り上げるというようなことは誰にもできることではなく(「猪」は「猛獣」ですから)、専門の職掌がいたであろう事は想像ができ、それが「猪使部」という名称に現れていると思われます。

 ところで「猪」を家畜として飼育していたとするとその用途の第一は食用とするための「肉」の確保と考えられる訳ですが、そのためには「」の必要があります。それには「利器」(刃物の類)が必要です。特に切れ味が鋭くなければ「一太刀」では殺せません。「」の方法としては「崇峻」の記事にあるように「首」を切り落としていたと思われますが、そのためには「剣」の腕も「切れ味」も良くなければならないとすると、それに従事した「猪使」(猪飼)達は特別に訓練されていたと考えられると共に、「命」を奪い「血」を流させるという意味で「畏怖」され「嫌われていた」とも考えられます。このような職掌は「解部」との関連を考えさせられるものでもあります。

 「解部」は「犯罪」の取り調べから「刑」の執行まで行なっていた下級官吏であり、その際には「剣」や「杖」「笞」などの道具を使用していたと考えられますから、その取り調べなども「拷問」や「杖」などによる「脅し」を含んでいたものと見られます。彼等も「死刑」の一種である「斬首」の際にはその切れ味鋭い「剣」と「技」でこれを行っていたものと思われますが、(当然のように)一般からは「畏怖され」「嫌われていた」と思われます。


(この項の作成日 2013/06/06、最終更新 2015/05/01)(ホームページ記載記事を転記)

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「如意寶珠」と「潮滿瓊及潮涸瓊」(二)

2018年05月31日 | 古代史

 このようなタイプの神話そのものはある意味「普遍的」であり、主に「南太平洋」の諸国に同様の神話・伝承があるとされています。その意味では、古来より伝えられてきた「純粋」な「神話」が底流にあり、それを「アレンジ」してこの「潮満瓊」と「潮干瓊」が出てくるストーリーが造られたと考えられますが、このような「新しい」と考えられるストーリーに関係があると思われるものが「法華経」中の「提婆達多品」にある「八歳の龍女の成仏説話」です。

 『法華経』中の「提婆達多品」の中では「文殊師利菩薩」が「娑竭羅龍王」の宮に行き、そこで『法華経』を説いたところ、「龍王」の「八歳の娘」(竜女)が悟りを開いた、という場面で「寶珠」が出てきます。そこでは「竜女」から「釈迦」に「寶珠」が贈呈されており、この「寶珠」は望むところ何でも叶う「三千世界に大なるもの」とされています。
 この「如意寶珠」のエピソードが元からあった「神話」に取り込まれ、「海神」から「潮滿瓊及潮涸瓊」を貰う話となったのではないかと考えられます。
 その『法華経』の倭国への伝来は『扶桑略記』に引用されている『日吉山薬恒法師法華験記』によると以下の通りとなっています。

「藥恒法花驗記云。敏達天皇六年丁酉。百濟國獻二經論二百餘卷一。此論中。法華同來。」

 つまり、「敏達天皇六年(五七七年)に「百済」から「経論二百巻」が招来されたがその中に『法華経』の経典があった、という事のようです。
 ところが『二中歴』の年代歴の「端政」の項には以下のようにあります。

「端政五己酉」(自唐法華経始渡)

 つまり「端正」年間(推定五八九年~五九三年)に『法華経』が伝来したことを記しているようですが、この二つの例はその伝来元が「中国」(隋)と「百済」というように異なり(『二中歴』には「唐」とありますが、『二中歴』の中では「中国」は全て「唐」と表記されており、この場合は「隋」のことを指すと考えられます)、また年次も異なることから全く別の時点の別のことと考えられますが、より大きい差は「提婆達多品」が添付されていたかどうかでしょう。つまり「敏達天皇」時代の伝来は「提婆達多品」はまだ補綴されていなかったとみられるわけですが、「端政年間」の伝来の際には「提婆達多品」が補綴されていたとみられるわけです。

 そもそも『法華経』は「鳩摩羅什」により「四〇六年」に訳され(『妙法蓮華経』)、その時点ではこの「龍女説話」を含む「提婆達多品」は脱落していたものです。そしてそれが「敏達時代」に「倭国」に伝来したものと見られ、それを示すように「聖徳太子」の撰と通常言われている『法華義疏』には「提婆達多品」は存在していないようです。(「古田武彦氏」「古代は沈黙せず」駸々堂および「古賀達也氏」「『日出ずる処の天子』の時代 試論・九州王朝史の復原」「新・古代学」古田武彦とともに 第五集等ご参照願います)
 その後隋代に「提婆達多品」(及び「普門品偈頌」)が加えられ、「八巻二十八品」となったとされています。これを「遣隋使」あるいは「隋使」が列島に持ち込んだと考えられるわけです。(「提婆達多品」の成立そのものは二-三世紀と考えられているようです)
 つまり、『法華経』は最初に「提婆達多品」がないものと、後にそれが補綴されたものの二種類が時差を持って倭国に流入したものと推察されるわけであり、そして、当初の『法華経』伝来の時点付近で『法華経』に影響されたと考えられる動きがすでにあったと見るべきですが、それが「(四)天王寺」「法興寺」「斑鳩寺」さらには「吉備廃寺」などの建立であり、それらには「百済」を通じた「南朝」の影響が感じられます。たとえば瓦の文様なども「単弁蓮華文」ですし、その寺院のレイアウトなども「百済」を通じて中国南朝に淵源するものです。
 またこれらの寺院には「瓦」に同笵関係(つまり同じ「型」から造られたと考えられる)があると考えられており、そのことから上に挙げた「(四)天王寺」「法興寺」「斑鳩寺」さらには「吉備廃寺」がほぼ同時期に同一瓦製造技術者により造られたと見るべき事を示します。(但し『書紀』や「聖徳太子」関連史料ではそれほど遡上する時期のこととして書かれているわけではありません。)
 それに対し「端正年間」に伝来した「提婆達多品」が補綴された『法華経』の影響と考えられるものが「厳島神社」「善光寺」「伊予三島神社」等々の寺社です。これらの寺社に共通しているのはその縁起録などに「娑竭羅龍王や竜女」など「提婆達多品」に関連したものが残されていることです。たとえば、『平家物語』の中に「善光寺炎上」という段があります。

「其比善光寺炎上の由其聞あり。(中略) 同三年三月上旬に信濃國の住人、麻績の本太善光と云者都へ上りたりけるに、彼如來に逢奉りたりけるに、軈ていざなひ參せて、晝は善光、如來を負奉り、夜は善光、如來に負はれ奉て、信濃國へ下り、水内郡に安置し奉しよりこのかた、星霜既に五百八十餘歳、炎上の例は是始とぞ承る。「王法盡んとては、佛法先亡ず。」といへり。さればにや、さしも止事なかりつる靈山の多く滅失ぬるは、王法の末に成ぬる先表やらんとぞ申ける。」(「平家物語 善光寺炎上の段」より)

 この「善光寺」炎上事件は「平家物語」の「巻二」に書かれており、この「巻二」は全て「治承元年」(安元三年、一一七七年)の出来事と考えられていますから「善光寺」炎上というものも「一一七七年」の事かと考えられますが、そこから文中に書かれた「五百八十餘歳」を逆算すると「善光寺」が創建されたのは「五八八年」から「五九六年」の間のこととなります。この年次の範囲は上の「端正年間」を包含しており、この時代に伝来した「後期法華経」の影響が考えられるところです。
 また「厳島神社」はその社伝で、創建は「端政五年」(五九二年)とされており、これもまた上の「端正年間」を包含しています。さらに「後期法華経」の伝来と関係すると考えられるものが「前方後円墳」の築造停止です。

 西日本では「六世紀末」、東日本では「七世紀初め」という時期に「前方後円墳」はその築造が停止されます。この事は「古墳造営」に必須の「祭祀」儀礼の「禁止」というものが定められたものと推測され、「仏教」(特に『法華経』)の「布教」「伝搬」を阻害する要因となるものを排除する姿勢を示したものであり、「倭国」の伝統的な「古神道」形式の祭祀を禁止したものと推量されますが、それは(私見によれば)「隋」の「高祖」から受けた「訓令」によるものと考えられます。

 「倭国」からの使者が「兄を天とし日を弟とする」という内容の説明をしたところ「無意義」であるから改めさせたという記事が『隋書』にあります。これにより倭国(倭国王)は否応なく(当時の倭国王が隋皇帝の「訓令」を拒否することができとは考えられませんから)を廃止することとなったものと思われるわけです。
 またその後送られた「遣隋使」の国書で「隋皇帝」の怒りを買った際にも「隋皇帝」を「海西菩薩天子」と呼ぶなど、自らを「海東菩薩天子」と自負していた風情が読み取れ、それは即座に彼自身が『法華経』に帰依(出家)したという可能性を強く示唆するものです。

 このように考えてくると、『聖徳太子伝』に書かれた「寺院」を諸国に造らせ、その最初が「四天王寺」の「五九四年」建立というのは上の推測と合致しないこととなります。『扶桑略記』にいう五七七年の伝来というのが正しければ、その影響がもっと早期にできて不自然ではなく、五九四年まで遅れたとすると違和感があります。

 『聖徳太子伝記』のこの部分には「年次」を示すのに「九州年号」が使用されていないことからも、これが実際の年次ではないのではないかという疑いが生じるところですが、これについてはすでに指摘したように「隋」との使者の往還は「六〇〇年」が最初ではなく、「隋使」を迎える儀礼の解析などからかなり早期に互いに使者の往来を実現させていたことが推定でき、「開皇年間の始め」(五八〇年代)に使者の往還があったと見られ、その際に「訓令」を受けたと見るのが相当と思われることを示しました。そしてその時点で「提婆達多品」が補綴された『法華経』が伝来した(隋使が持参し、また講釈した)とみれば「五九二年」付近に創建が伝えられる寺社において「提婆達多品」との関連が見えるのも偶然でもなければ、後代の作り話でもないこととなるでしょう。

 また当然「百済」からの「前期法華経」による「寺院」造作はもっと早期であるということにならざるを得ず、伝来の年次とされる「五七七年」に程近い時期に「四天王寺」他の「百済系」寺院の建立があったと見るべきこととなります。(「疫病の蔓延」などの情報の解析からも、実際には「敏達」の時代ではなく「欽明」の時代であったと見られることとなりますから、これも同様であったと見るのが相当ということとなるでしょう。)

 更にその後「全国」を『法華経』に基づき「三十三国」に分国する「行政制度」改定事業を実施し、それまでの(成務天皇が分国したという)「三十三国」と合わせ「六十六国」としたとされています。(これについては古賀達也氏「続・九州を論ず-国内資料に見える『九州』の分国」「九州王朝の論理」所収をご参照願います)これも同じく「隋」の高祖が行った、全国に「塔」を立てるようにという指示にのっとったものとみられ、「隋」の高祖の指示にもあるようにそれまで寺院がなかった場合は「塔」だけでも造るようにという指示に沿った形で、国内でも「塔」を中心とした伽藍を作ることが始められたものであり、それは倭国王の強い意思の表れと推量しますが、それは塔の方位が「正方位」であることからも裏付けられるでしょう。この当時「正方位」を取得する技術は高い測量技術に裏付けされるべきものであり、それは王権の独占とされていたという可能性が考えられます。そう考えると現在各地に確認できる「正方位」をとる「塔」及びそれを中心とする伽藍は(少なくともその「塔」だけでも)、直接王権が関与して作られたという可能性が考えられ、強力な王権の存在をベースに考える必要がありそうです。
 

2012年1月18日作成 会報へ投稿(但し未掲載)

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