古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「古田史学の会」のサイト掲載の論考について

2015年09月21日 | 古代史
「古田史学の会」のサイトにおいて会報が順次公開されていますが、最近一一〇号まで新たに追加されたようです。過去の会報はかなりじっくり読ませて戴き、研究の参考にさせていただきましたが、私が会員となった二〇一〇年度以降がなかなか公にならず、先行研究があるかどのような内容なのか調べきれない状態が続いていましたが、今回の公開で空隙が埋められました。担当の方(横田氏か)のご苦労が推察されます。
 自分の投稿したものも公開されましたが、その投稿した時点から四年経過しているわけであり、その短い間に研究の進展につれ論旨がやや変更になったものもあります。そもそも発展途上の極みともいうべき不完全さも多くあって、その意味ではかなり恥ずかしいものともいえます。しかしこれも自分の足跡の一部であり、公開されることについては甘受することとしなければならないでしょう。

 初めて採用された投稿である「「国県制」と「六十六国分国」 -「常陸風土記」に現れた「行政制度」の変遷との関連において」を改めてみてみると、基本的論旨は(当然ながら)変らないものの、遣隋使派遣時期についてその後考察して得られた知見を含んで改めて考えた場合「六十六国分国」事業の時期がもっと早まるという可能性があるというようにやや変更をしなければならないようです。
 上掲論文では『隋書俀国伝』記事を信憑しこれを六〇八年の事実として考えていますが、以前書いたようにそれがもっと遡上すると考えるべきこととなったわけですから、当然「六十六国分国」も遡上することとなります。いずれにしろその時期についてはこの「投稿」の中で「また、ここで施行されたと考えられる「国県制」というものは、明らかに「隋」の「州県制」に関連があると考えられるものであり、そうであればその導入は「隋代」である「五八〇年」から「六一八年」までの間に限定されることとなります。この間(あるいはそれ以前)中国に対し「制度」導入などの意図を持って派遣されたものは「倭の五王」以降は「遣隋使」しかないわけであり、そのことは即座に「国県制」が「遣隋使」によりもたらされたものであると推測されるものです。」と主張したことに尽きており、後はこの「隋代」の中で時間軸をどこに設定するかという問題に帰着します。
 ちなみに現在の当方の見解はこの「六十六国分国」の事業については、「仁寿元年」の「隋文帝」の「舎利塔」造営事業に関わるものであり、それを承けて当時の倭国王権も「舎利塔」の造営を行ったものであって(それは前回ふれたように各地に残る「古代官道」と同様に正方位をとる「塔」として遺跡から出土するものがそれに当たるものと見ています)、その造営とともに分国も同時に行われたと見て「仁寿元年」の至近の年に行われたものではないかと考えています。

 また「肥後」という記事の存在は即座に「六十六国分国」につながるものではないと考えるようになりました。これはそれ以前にすでに三十三国に分国されていたという記事との関連を考えるべきものと現時点では考えています。
 「筑紫」領域の拡大が「肥」の分割をうながしたものであり、「筑紫」の分割以前にすでに「肥」は分割されていたと思えるわけです。またそれは「肥」の地位低下と筑紫の比重の増大を意味するものですが、それは「磐井の乱」の記事において「筑紫」に本拠があるように書かれていることと関係しているようです。
 「江田船山古墳」から出土した黄金製馬具や冠などが百済王(武寧王)のものとほとんど違わないという事実からもこの時(五〇〇年付近か)の「倭国王権」の本拠がまだ「肥」にあったことは確実と思われますが、その後「筑紫」へ「遷都」したという可能性も考えられるでしょう。それは「対半島」との交渉の実務という点からの要請でもあったと思われます。その時点付近で行政制度の充実の一環として「九州島内」の倭国王権のお膝元というべきと地域に対し分国作業が行われたものと見ることができるでしょう。ただし「筑紫」が本拠となっていたとするとここが分けられることとなるのはかなり後のことであったと思われ、それが「六十六国分国」の時点ではなかったかと考えています。

 また「無文銀銭」についての議論である「「無文銀銭」 - その成立と変遷 -」についても同様に現在も基本的な部分では変わりありません。つまり「無文銀銭」は当初「隋代」に「五銖銭」の互換財として使用されるようになったものの「唐」が「開通元宝(開元通宝)」を鋳造し使用しはじめたため互換性を維持するためとして「銀小片」を付着させたものと見るべきというものです。ただ、現在はこの「無文銀銭」について、「倭国王権」において鋳造したものではなく、(多分)「新羅」から「貢納物」としてもたらされたものであり、その段階ですでに「貨幣状」になっていたものをそのまま「倭国王権」で「威信財」あるいは「交換財」として使用するようになったものと見ています。(この時点では銀の製錬技術などは倭国王権にはなかったと見られるため。)
 そしてその後「正式」に「開通元宝(開元通宝)」に対応するべく鋳造されたものが「冨本銭」であったと見て、その鋳造開始時期を従来の時期よりずっと遡上するものと考えるものですがその論はまた別途。
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「檀林寺」と「筑紫尼寺」

2015年09月12日 | 古代史
 「橘嘉智子」が「檀林寺」に「筑紫」から「鐘」を持ち込んだとするとその対象となった寺も(檀林寺同様)「尼寺」であったものと推測され、その意味で「筑紫尼寺」という存在が注目されます。

「大宝元年(七〇一年)八月甲辰条」「太政官處分。近江國志我山寺封。起庚子年計滿卅歳。觀世音寺筑紫尼寺封。起大寳元年計滿五歳。並停止之。皆准封施物。」(『続日本紀』より)

 また寺封に関する記述からこの「筑紫尼寺」の創建は「観世音寺」と同時であるかのように受け取ることができそうですが、(もちろん同時並行して作られたと考える必要はありませんが)この両寺院がほぼ同時期に「筑紫」という同一の地域に建てられたとすると、この両寺院の「梵鐘」もやはり同時期に鋳造された可能性が高いと思われ、「観世音寺」と同じ木型が使用されたとみることはそれほど不自然ではないでしょう。その意味で「妙心寺」に伝わる鐘との共通性が高いものと推量できます。
 この「太政官処分」記事では「筑紫尼寺」は「観世音寺」と並んで書かれています。この「観世音寺」は「元明」の「詔」(以下)で明らかなように「天智」の勅願寺であり、また「元明」の勅願寺でもあるといえます。

「(和銅)二年(七〇九年)二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」(『続日本紀』巻二より)
 
 また同様の文脈の中に出てくる「近江國志我山寺」についても「天智」と深い関係があるとするのが通例ですから、ここに出てくる「筑紫尼寺」についても同様であった可能性が高いと推量できるでしょう。そうであれば「桓武天皇」に始まる「天武系」から「天智系」へ尊崇する皇統を切り替えた中で、この「筑紫尼寺」が注目されたと言うことも考えられます。「桓武」の時代には「天武」の「国忌」が守られなくなるなど「天智」への傾倒が強くなったことが多くの諸氏の論により明らかとされています。その「桓武」は「橘皇后」の夫である「嵯峨天皇」の父であるわけです。
 「由緒」も正しくまたその音高も「黄鐘調」であったと思われるその「筑紫尼寺」の「梵鐘」がその後「橘皇后」の御願により建てられた「壇林寺」に移されたという想定はあながち的外れではないものと考えます。

 ただし、「観世音寺」の鐘と「妙心寺」の鐘には「銘文」の有無のほか微妙な違いがあり、若干「観世音寺」の鐘のほうがその製造時期として先行すると見方もあり、その意味では明らかな「同時期」とは言えない可能性もありますが、それがどの程度の時間差を伴うものかは不明とされ、同一の「木型」を使用しているとすると大きな時間差(年次差)は想定するのは困難ではないかと思われます。(同一の「鋳物師」によるとする説(※1)もあるようです。)
 (現在「観世音寺」では頒布資料などで「六八一年」製作としているようですが、これはその根拠となる事実関係が不明であるため、確定したものとは言えないと思われます。)
 さらに、この「筑紫尼寺」については『続日本紀』の誤記とする説が支配的であり、その理由のひとつとして資料から明確に「尼寺」と判断できる寺が「筑紫」周辺にないことがあるとともに、『扶桑略記』の中に上の『続日本紀』とほぼ同文記事があり、そこでは『筑紫尼寺』という寺院名が「削除」されていることがあり、さらにもし「筑紫」にそのような寺院があったのなら「観世音寺」がそうであったように「大宰府管内」の「尼寺」を統括する立場にあったはずであるのに、それを裏付ける資料がないとされていることなどが挙げられています。(※2)
 しかし『扶桑略記』のことで言えば『続日本紀』に比べはるか「後代史料」であるとともに、『続日本紀』にないような独立史料ならともかくほぼ同内容の記事ならばその信憑性は「先行史料」である『続日本紀』が優先されてしかるべきと思われます。(『扶桑略記』はその時点の「常識」で書き換えられているという可能性が考えられるでしょう。)その意味では「筑紫尼寺」という表記は一概に誤記とはいえないと思われます。
 また確かに「仁明天皇」の代の『続日本後紀』の記録をみると、「観世音寺」(観音寺)が「国分寺」「国分尼寺」をはじめとする「大宰府管内の全ての寺院」を統括していたように書かれています。

「承和十一年(八四四)四月壬戌十条」「大宰府言。管大隅薩摩壹伎等國嶋司言。建國任職。大小是同。除災祈福。彼此不異。如今比國皆有講讀師之職。修正月安居等事。而件國嶋既無講讀之職。還失鎭護之助。加以國分二寺雜物。觸類夥多。既無綱維。令誰検領。望請准諸國之例。置講讀師者。府司商量。所陳有理。望請准管内諸國博士醫師之例。府司於觀音寺。与彼講師共簡試部内僧精進練行智徳有聞堪任講筵終始無變者。將補任之者。勅。講師者。依請補任。讀師者莫更置之。但安居齋會之日。依延暦廿五年三月格。以國分寺僧次第請之。」(『続日本後紀』巻十四より)

 このことからも「筑紫尼寺」という存在に対して疑問が発生するとされているわけですが、この記事が置かれた「八四四年」という年次の直前の「八四二年」には「嵯峨上皇」の「七七御齋」(いわゆる四十九日)が「檀林寺」で行われたという記事があります。

「承和九年(八四二)九月乙未四。修太上天皇七七御齋於檀林寺。」(『続日本後紀』より)

 この時点で「檀林寺」がすべて完成していたということではないとは思われるものの、明らかに主要な機能はすでに備わっていたものと思われます。さらに『続日本後紀』には「八三六年」という段階で「造檀林寺使」という役職の存在が書かれています。

(『続日本後紀』巻五承和三年(八三六)閏五月壬午十四条」「壬午。右京少属秦忌寸安麻呂。『造檀林寺使』主典同姓家繼等賜姓朝原宿祢。」

 これらのことから考えてもし「筑紫尼寺」から「梵鐘」を「檀林寺」へ移したとすると、この時点以前には「筑紫尼寺」がまだ存在していた可能性があることとなりますが、それを示唆するのがこの時点以前には「観世音寺」の統治権が「尼寺」には及んでいなかったと受け取ることのできる記事があることです。

「天長八年(八三一)三月乙巳七条」「乙巳。仏舎利五百粒、令大宰府観音寺講師光豊、安置彼府管内国分寺及諸定額寺。」(『日本後紀』巻卅九逸文(『日本紀略』)より)

 上の記事からは、この「八三一年」という段階では「観音寺」講師の権能は限定的であり、「国分寺」に対しては統括的立場にあるものの「尼寺」については記述されておらず、早い時期から「観世音寺」が「僧寺」「尼寺」の双方を監督していたものとはいえないことがわかります。(「国分二寺」という言い方がされていないという点で、末尾にある「諸定額寺」の中に「国分尼寺」が含まれていたとは言いにくいと思われます。)
 つまりこの時点付近まで「筑紫尼寺」は存在しており、その「大宰府管内尼寺」に対する支配力もこの時点付近までは継続していたものではないかと考えられる訳です。その後「観世音寺」が「僧寺」「尼寺」の双方を監督する立場に変ったというわけですが、それは「八三六年」に「造檀林寺使」が任命されていることと関係していると思われ、この年次付近で「筑紫尼寺」という存在が「廃寺」となって「筑紫」から消えたと考えると「八四四年」の記事との関連が整合するといえます。

 またこのことは「鐘」だけを移設したというより「伽藍」全体が「移築」されたと考えることも可能かもしれません。もとよりどちらの寺院も何らの遺跡も発見されておらず詳細が不明ですから、このような推定はほとんど「妄想」に近いかもしれませんが、可能性としてはありうると思われます。「移築」してしまうと「礎石」以外何も残らなくなってしまいますから、「諸史料」に「筑紫」周辺に「尼寺」の存在が確認できないというのも道理であることとなります。

 このような経緯で「鐘」が「檀林寺」に入ったとすれば、その後の鎌倉時代になっても宮廷の人たちは「檀林皇后」と呼ばれるようになる「橘嘉智子」という人物のイメージと共に、このような時代的政治的背景を(当然)よく承知していたはずであることとなりますから、『とはずがたり』において「後深草院」が「浄金剛院」の鐘の音を聞いてすぐに「観世音寺」そして「都府楼」へと連想して詠ずる場面にはそれなりの「必然性」があったこととなるでしょう。


(※1)坪井良平『新訂梵鐘と古文化 つりがねのすべて』(ビジネス教育出版社二〇〇七年)によります。
(※2)高倉洋彰「『続日本紀』の筑紫尼寺」(『年報大宰府学』第七号二〇一三年三月)によります。
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「檀林皇后」と「妙心寺」

2015年09月12日 | 古代史
 『とはずがたり』の中で「浄金剛院」にあったとされたこの鐘は、それ以前「嵯峨天皇」の皇后であった「橘嘉智子」により「檀林寺」という禅院が創建された際に(どこからか不明ではあるものの)持ち込まれたものでありその後その「檀林寺」が「廃寺」となって以降その跡地に建てられた「浄金剛院」に設置されることとなったという経緯が知られています。
 『大日本地名辞書』には「妙心寺」の項に「…庫門の西に古鐘あり、世に黄渉調と号す、寺説に嵯峨の檀林寺浄金剛院伝来の物とぞ、…」とあり、さらに「檀林寺址」の項には「…一條帝の比に及び已に廃し、其鐘地に委す今妙心寺の古鐘或は之を傳ふる者歟、…」とされています。また「浄金剛院」は「檀林寺」の跡地に建てられたとする記事が多く確認できること(『増鏡』など)、さらに「廃寺」となった「檀林寺」で「鐘」が「御堂」(本堂か)の隅に残っていたという趣旨の記事が「赤染衛門」の著作(『赤染衛門集』)に書かれているなどのことから『浄金剛院』の鐘は以前『檀林寺』の鐘であったと推量され、それが『妙心寺』に伝来していると理解できます。
 そもそも「橘皇后」が鐘をどこからか持ち込んだ理由というのもその音高が「黄鐘」という古律にかなった音高を発するものであって、「無常」を表すものであったからではないかと考えられます。
 彼女はその「無常」を体現するために死後埋葬されることを望まず、飢えた鳥獣に身を与えるという「風葬」あるいは「鳥葬」とでも言うべき扱いを遺詔したとされます。(実際に行われたようです。)そのような彼女であれば鐘の音(音高)にも「無常」が表現されるべきであったと考えても不思議はありません。それは「仏教寺院」における「梵鐘」の存在意義ともつながるものであり、仏教的には「無常」を表す音高を発することで「衆生」を済度するという目的があったものとみられます。そのため本来はそのような意図に適う鐘を新たに鋳造するはずであったものが、希望した音高が得られず、やむを得ず「どこか」から「黄鐘調」の音高を発する鐘を探し出してきたものと推測されるわけです。
 『徒然草』の記述でも「西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。」とあり、ここには「西園寺」(これは「西園寺公経」が「北山殿」に造った寺院を指す)の鐘を鋳造しようとしたものの「都」には「黄鐘調」で鋳造する技術がなくなっていたこと、それを「遠国」に求めたことが記されています。同様の事情がすでに「檀林寺」創建の際にも起きていたという可能性が考えられます
 一般に「梵鐘」は重量も大きくなり、運搬の難を考えるとその寺院の「近隣」で鋳造するのが通常であったものであるのに対して、「西園寺」の場合のように狙い通りの音高が鋳造できないからといって「遠国」までそれを求めるというのは、「黄鐘調」の音高を発する「梵鐘」がいかに都の近隣にはなかったかと言うことを示すものです。またこの「遠国」というのが「律令制」に言う「遠国」と一致するとはもちろん限りませんが(この「兼好法師」の時代には「律令制」はとうの昔に崩壊していたわけですから)、使用法としてはおよそ変らないものと思われ、明らかに「西海道」はその中に含まれています。仮にそれが同義ではなかったとしても「都」を遠く離れた場所を指すことは間違いなく、「寺院」が多く存在していた過去があり、また「古音律」に則った鐘が使用されていたという条件を満たす地域を探すと「西海道」つまり「筑紫」が該当する可能性が最も高いと思料します。(『徒然草』の中では例えば「東国」に関する記事では「東国」と明確に書かれており、「西園寺」に関する「遠国」という表記は「東国」とは異なることが推察されます。)
 このようなことから「檀林寺」創建においても「遠国」つまり「筑紫」から鐘を調達したものではないかと考えられますが、それはその鐘、つまり「妙心寺鐘」の「銘文」(以下のもの)からこれが「糟屋評」という「筑紫」の中心とも言うべき場所で鋳造されたものと推定されていることからも言えることです。

「戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造舂米連広国鋳鐘」

 この銘によれば「戊戌年」つまり「六九八年」という年次に「糟屋評」の「評造」である「舂米(つきしね)連広国」が「鐘」を鋳造したとされています。ただしこの「舂米連広国」については「発願者」であり、「鋳造者」ではないという意見もあるようですが、「筑紫」には「弥生」以来「銅製品」を鋳造していた遺跡が豊富であり、この七世紀代においても銅鏡などの他、寺院で使用する銅製品などを製造する工房があったものと見られ、この「梵鐘」のような「銅製品」についてもそこで作製されたものと見ることは不自然ではありません。
 「筑紫」周辺の「旧倭国王権」時代の寺院は八世紀に入って「廃寺」とさせられたものが多かったとみられますから、元々この鐘が納められていた寺院にしても同様の運命となっていた可能性があり、そのような寺院から移されたものと見ることができるかもしれません。その寺院については、「檀林寺」が皇后の御願によって建てられたという事情から考えて、当然「梵鐘」についても「由緒正しい」ものでなければならなかったはずであり、「大宰府」近辺の「旧倭国王権」に近かった寺院が措定されるべきでしょう。

 ところでこの「檀林寺」は「皇后の御願である」という事からも推察できるように「尼寺」であったと思われます。

「嘉祥三年(八五〇)五月壬午五条」「…后自明泡幻。篤信佛理。建一仁祠。名檀林寺。遣比丘尼持律者。入住寺家。仁明天皇助其功徳。施捨五百戸封。以充供養。…」(『文徳実録』より)

 ここでは「檀林寺」を創建した際に「比丘尼」を「持律者」として遣わし、また住まわせたとされていますから、これは明らかに「尼寺」として創建されたことを示します。(これに関しては「唐」から「義空」という僧を招請し「壇林寺」に住まわせたとする記録もありますが、『元享釈書』などでは当初「義空」の来日時点では「橘皇后」がこの「檀林寺」に住していたように書かれており、創建時は確かに「尼寺」であったとみられます。後にそこへ「義空」が常住することとなったという経緯が考えられます。)
 この「檀林寺」が「尼寺」であるならば「鐘」がもたらされることとなった(筑紫の)元の寺院も同様に「尼寺」であったという可能性を考えるべきと思われます。その意味では『続日本紀』に「筑紫尼寺」という寺院の存在が明記されていることが注目されます。
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「観世音寺」の鐘と「浄金剛院」の鐘

2015年09月12日 | 古代史
 鎌倉時代に「二条」という「後深草院」の「女房」であった人物が書き残した『とはずがたり』という随筆様の文学があり、その巻三の中に以下のような記述があります。

「…夜ふけゆくまゝに嵐の山の松風雲井にひゝくおとすごきにしやうこんかう院のかねこゝもとにきこゆるおりふし一院とふろうはをのつからとかやおほせいたされたりしによろつの事みなつきておもしろくあはれなるに…」(『とはずがたり(巻三)』「六十二 嵯峨殿の祝宴」より)

 ここでは「しやうこんこういんのかね」がなると「一院」(後深草院)がつられたように「とふろうはをのつから…」と詠じたとされます。
 この「しやうこんこういん」とは「浄金剛院」を指し、「かね」とはその後「妙心寺」に入ることとなった「観世音寺」と兄弟とされる「鐘」を意味します。その「鐘」が鳴るのが低く聞こえてくると「後深草院」はすかさず「とふろうは…」と詠じたというわけですが、これは「菅原道真」の「漢詩」(以下)をふまえたものとするのが一般的です。

「一従謫落就柴荊/万死兢々跼蹐情/『都府楼纔看瓦色/観音寺只聴鐘声』/中懐好遂孤雲去/外物相逢満月迎/此地雖身無撿繫/何為寸歩出門行」(『不出門』)

 これについては一般には「鐘の音」という現象からの単なる連想と思われているようですが、これはそれほど単純な話ではなく、両寺院の鐘が兄弟関係にあるという認識が当時の宮廷人にあったことがその背景にあると考えるべきでしょう。でなければ「大宰府」や「観世音寺」まで発想が飛躍する理由が不明となると思われます。

 研究によれば「妙心寺」の鐘は「観世音寺」の鐘と兄弟(同じ「木型」(鋳型の元となるもの)から作られた)とされています。さらに高さ及び厚みなどの寸法・構造も同じとされますから、当然発する音高も同じとなるはずです。(一般に鐘の音高は「開口部」の断面積に反比例し、開口端の厚みに比例するとされます。)
 実際に二〇一二年に行われた「九州国立博物館」における両鐘の「鳴り合わせ」イベントの際の動画データ(YouTubeで公開されているもの)を音声スペクトル解析ソフト(『WavePad』)で高速フーリエ変換したものを見てみると(もちろんネットから取得したデータと言うことで正確性は欠けますが)、共に同じ129ヘルツ付近に「基音」(最も低い音高)があるように判断できます。ただし、高周波成分については両鐘でやや差があり、それが音色の違いとなっているように思えますが、このような高周波成分は減衰も大きく、遠方まで聞こえるものではありません。低音部はエネルギーも大きいため減衰も少なく遠く野山を越えて聞こえるものですからその部分こそが「梵鐘」の機能として重要であり、それは両鐘で共通しているというわけです。またその「129ヘルツ」という周波数から考えて音高は確かに「日本音律」ではなく「隋代」あるいはそれ以前の「古音律」にいう「黄鐘」(こうしょう)であると推定できます。
 つまりこの時の宮廷の人々は「浄金剛院」の鐘と「観世音寺」の鐘が兄弟関係にあること、「浄金剛院」の鐘の音高が京内の他の寺院とは異なっており、「観世音寺」の鐘と同じ音高であるということ、それはもともと「文武朝期」に作られた古式ゆかしいものであることをが良く承知していたとことが強く示唆されるものです。
 このことに関連して「浄金剛院」の鐘の音高については『徒然草』の中に興味ある指摘があります。
 『徒然草』に「天王寺」の鐘について書かれた段があり、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられていますが、その末尾に「浄金剛院」の鐘についても同様であるというように書かれています。

「…其聲黄鐘調のもなかなり。寒暑に随ひてあがりさがり有べき故に,二月涅槃會より聖靈會までの中間を指南とす。秘蔵の事也。此一調子をもちていつれの聲をもとゝのへ侍るなりと申き。/凡鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり。西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。『浄金剛院の鐘の聲,又黄鐘調也。』」(『徒然草』第二百二十段)

 つまり『徒然草』によれば「浄金剛院」の鐘が奏でる音高は「黄鐘」であるというわけですが、それはまた「無常」を表すものであったものであるというわけです。これに対して、当時(「鎌倉時代」)の他の寺院の鐘は「平安時代」以降発生した「日本音律」を「基準」として鋳造されたものが多く、音高が変化した結果「無常」を表す「黄鐘」の音高は(当時の京都では)「浄金剛院」の鐘だけであった可能性があり、それは「観世音寺」の鐘と同じ音高であったということとなります。
 これについては当時のわが国では「寺院」の鐘というものは「黄鐘調」の音高を発するべきと言う思想があったと見ることができると思われます。それは「寺院」の「梵鐘」というものが「無常」を表す意義があったとみられるからです。

 有名な『平家物語』の「序」にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文章は単なる「無常観」を表現したものではなく、実際に「鐘の声」は「黄鐘」という「音律」に則ったものでなければならなかったものなのです。これについては「黄鐘」という音高は「四季」を表すものであり、その意味で「移り変わり」を表すことから「無常」観につながっているものとする論もあります。上の「徒然草」においても「凡そ鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり」とあり、「寺院」の「鐘」というものはすべからく「黄鐘調」でなければ「無常の調子」とならなず、そうでなければ「祇園精舎の無常院の鐘と同じにならない」としています。
 つまり「浄金剛院」の鐘の音高と「観世音寺」の鐘とは「兄弟」であるわけですが、同時にどちらも「無常」を奏でる音高であったと言う事もまた重要であると思われ、それらの事情を「後深草院」以下諸々の宮人はよく承知していたということが示唆されるわけです。そのようなことがなぜ把握されていたのかということについて述べた論(※)では「元寇」などにより「宮廷」の人たちに「大宰府」に対する知識が増えたことがその原因であるというようなことが言われていますが、「観世音寺」と「浄金剛院」の鐘同士の関係については「観世音寺」や「大宰府」についての表面的な知識や理解では容易に知られない事情というべきであり、そのような特別の事情を「宮廷」の人たちが知ることとなるには別の理由があると見るべきでしょう。


(※)寺尾美子「『とはずがたり』注釈小考 浄金剛院の鐘の音」(『駒澤国文』二十九号一九九二年二月)
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仁寿元年の舎利塔造営と倭国王権

2015年09月08日 | 古代史
 肥沼さんのブログ(※1)と古賀さんのブログ(※2)から「古代官道」と「国分寺域」の「塔」の建立が同時期ではないかということが議論されているのを知りました。(いずれも「武蔵」の話ですが)これは当方の理解では「寺」全体が同時に作られたものではなく「塔」を(先行してというより当初から塔だけを)造ることが目的であったことを示すものと思われるのです。そう考えると、思い起こされるのは「隋」の「高祖」(文帝)による「仁寿」年間の「仏舎利」塔の建造事業です。
 「文帝」は仏教に深く帰依し、仁寿元年(六〇一年)の自らの誕生日である「六月十三日」に合わせ、「詔」を出し国内外各地に「塔」の建造を命じました。

(大正新脩大藏經/第五十二冊 史傳部四/二一○三 廣弘明集三十卷/卷十七/佛篇第三之三/隋高祖於國內立舍利塔詔并瑞應表謝)
「門下仰惟。正覺大慈大悲。救護群生津梁庶品
朕歸依三寶重興聖教。思與四海之內一切人民俱發菩提共修福業。使當今現在爰及來世永作善因同登妙果。宜請沙門三十人 諳解法相兼堪宣導者。各將侍者二人并散 官各一人。陸香一百二十斤。馬五匹分道 送舍利。往前件諸州起塔。『其未注寺者。就有山水寺所。起塔依前山。舊無寺者於當州內 清靜寺處建立其塔。所司造樣送往當州。』僧多者三百六十人。其次二百四十人。其次一百二十人。若僧少者盡見僧為朕皇后太子 廣諸王子孫等及內外官人一切民庶幽顯生 靈。各七日行道并懺悔。起行道日打剎莫問 同州異州。任人布施。錢限止十文已下。不得 過十文。所施之錢以供營塔。若少不充役正丁及用庫物率土諸州僧尼。普為舍利設齋。 限十月十五日午時。同下入石函。總管刺史 已下縣尉已上。息軍機停常務七日。專檢校 行道及打剎等事。務盡誠敬副朕意焉。主者施行
仁壽元年六月十三日內史令豫章王臣暕宣」

 その「塔」を立てた日付というのは「十月十五日」ですが、それは「阿育王(アショカ王)」が「塔」を立てたという日付であり、自らを「阿育王」になぞらえたものであるというのもすでに研究があります。(※3) 
 もちろん「隋」には「倭国」は「柵封」されていませんでしたから、「半島」の三国がそうしたように「仏舎利」を分けてもらうように頼んだりはしなかったと見られますが(※5)、私見によれば当時の「倭国王権」は「宣諭事件」(※6)以来「隋」の「文帝」に対し「服従」の意思を示すことで関係を修復しようとしていたものと思われ、このような「塔」の建造を積極的に真似たものと思われます。その結果国内各地に「塔」の建造を命じたと推定されますが、ただし「隋」と異なるのは当時国内にはまだ「寺」そのものが少なかったものと思われますから、「塔」の建造を命じたとすると、当然「寺」とは全く別途に「塔」が造られることとなったものと思われ、結果的に「塔」が先行する形となったとみられるわけです。
 この時の「塔」は現在も中国とその周辺各地で遺跡が出てきます。たとえば現在のベトナムのハノイ市近郊において二〇〇四年に出土した「石板」はこの時に「舎利」を「奉納」した「函」の一部であったことが明らかとなっています。(※4)そして上に見るようにその「詔」には「其れ未だ寺を注‹さざるは,山水有る寺所に就き塔を起こすこと前山に依れ。舊に寺無くば,當州の內,靜なる寺處において,其の塔を建立せよ。所司は樣を造り,送りて當州に往Šけ…」とあり、「隋」においても「寺」より「塔」が先行した地域があったらしいことが推定されます。このことは「倭国」でも「塔」の建造が「寺」に先行する形で各地で進められたケースがあったと想定して無理がないことを示すものです。
 もちろん遺跡からはそこまで時期として遡上するともまた逆にそこまで遡上しないともいえない状況のようですが、「聖武」の「詔」に無理に引きずられない限りそこまで遡上する可能性を含んで考察する必要があるでしょう。
 後に「聖武」が「国分寺」を造るという段になって、この「塔」を取り込む形で「寺域」が形成された例が多かったと見られますが、古賀氏も述べていますように「塔」が本来寺域に占める位置にその遺跡が確認されている例が少ないのが現実です。「聖武」は「筑紫」に対して「大君遠朝廷」という敬称をしていた人物であり、「倭国王権」の「大義名分」を重視していたらしいことが知られますから、寺域の配置が示すものはそのようなことと関係しているかもしれません。もちろん建築技法の変化がその間にあったと見ると方位が異なるというのも当然といえます。

 また「古代官道」と同方位というのは「古代官道」というものも「隋」との関係の中で考えるべきことを示唆するものであり、「天子」を自称するような強い権力の発露が「古代官道」の造成にあったのではないかと考えられます。これらはほぼ「正方位」とされますが、「太宰府」の遺跡からの推定でも「正方位」からのズレは「1度以内」とされ、建築・土木の技術的に見て「古代官道」や「塔」と同レベルのものと思われますから、それらの年代としても同時期が推定されます。
 一般に「正方位」をとる建物や街区を構成する場合、遠方に見通しの利く「基準点」を設け、それを目安に「方位」を定めていくと考えられますが「大宰府政庁」の遺構の「第Ⅱ期」の場合、「朱雀大路」を南方に延長すると「基肄城」の門の一つと一致します。しかし「第Ⅱ期遺構」は「条坊」と「ずれている」事が判明しています。(使用された基準尺が異なると考えられているようです)
 「朱雀大路」は最終的に「政庁第Ⅲ期」段階で「条坊」の区画と整合しますが、それ以前の「朱雀大路」(政庁中軸線)の延長は「条坊」の区画の内部を通過しており、明らかに「条坊」を敷設した際の「基準点」は別にあることとなります。
 「大宰府」の南方で特に有力な「基準点」は「基山」であると思われ、この山の「山頂」を基準とした場合、そこからの仮想的南北線は「朱雀大路」ではなく、「右郭四坊道路」と一度以内の誤差範囲で一致します。
 また関東の前方後円墳の築造停止が考古学的に「六一〇年代」であると考えられていることも、この「塔」建立との時系列を考えると整合すると思えます。前方後円墳という存在が「古典的祭祀」と不可分のものであったとすると、「仏教」の中心としての「塔」の建造がそのような「古典的祭祀」の停止という内容を伴うものとなるのも当然であり、(それらは両立しないと思われます)そう考えれば至近の年次で前方後円墳の築造が停止されるのもまた道理であることとなります。


(※1)古賀達也『古賀達也の洛中洛外日記』第1031話 2015/08/22「多元的「国分寺」研究のすすめ(1)」 http://furutasigakukai.gates.jp/koganikki/など。
(※2)肥沼孝治『肥さんの夢ブログ』(2015年8月10日など)http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2015/08/index.html
(※3)今西智「隋の暦学者袁充その周辺 -仁寿年間における舎利塔建立の一背景-」(『印度學仏教學研究』第五十八巻第一号 二〇〇九年十二月)など。
(※4)河上麻由子「ベトナムバクニン省出土仁壽舎利塔銘、及びその石函について」(『東方学報』二〇一三年八十八号)
(※5)「大正新脩大藏經/第五十三卷 事彙部上/二一二一 經律異相五十卷/二一二二 法苑珠林百卷/卷四十/舍利篇第三十七/慶舍利感應表」によれば「…高麗百濟新羅三國使者將還。各請一舍利於本國起塔供養。詔並許之。…」とあり、半島三国には「舎利」が頒布されています。
(※6)『隋書俀国伝』の「大業三年記事」によれば「裴世清」は「倭国」に「宣諭」するために派遣されたことが窺われますが、「宣諭」とは「治安」の安定しない地域に対し派遣される「使者」の主たる責務であったものであり、「皇帝」の権威を示し紛争関係者に対し屈服を強いて平和裡に交渉することを強く求める意義であったことが窺えます。
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