古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

年末挨拶

2017年12月31日 | 日常身辺雑事

このブログを御覧いただいている皆様、本年も残り僅かとなりました。

熱心に当ブログを御覧いただき、また重要なコメントをいただくなど、ご支援のほどありがとうございました。

来たる年が皆様にとってより良き年であること強く祈っています。

a Happy New Year!

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「隋帝」からの「訓令」について(二)

2017年12月15日 | 古代史
 「隋」の「高祖」は「皇帝」に即位した後すぐにそれまで抑圧されていた仏教(及び道教)を解放し、(特に)仏教に依拠して統治の体制を造り上げたとされており、『隋書』の中では「菩薩天子」と称され、また「重興仏法」つまり一度「廃仏」の憂き目にあった仏教を再度盛んにした人物として書かれています。
 それ以前の「周」(北周)が「儒教的雰囲気」の中にあり、学校教育の中身も「儒教」が中心であったわけですが、「高祖」はその「学校」を縮小したことが知られています。それは仏教を重視するあまりの事であるとされていますが、そのように仏教に傾倒し、仏教を国教の地位にまで昇らせた彼が「夷蛮」の国において「未開」な土着信仰とそれを元にした政治体制の中にいる(と彼には考えられた)「倭国王」に対して、やはり仏教(特に「南朝」からもたらされた「最新」の仏教)を示しそれを国教とすべしとしたという可能性は高いものと推量します。それが特に「法華経」ではなかったかと思われ、そのため派遣した「隋使」にそれらを講説させたものではないでしょうか。
 これに関しては『二中歴』の「端正」の項に「唐より法華経始めて渡る」という記述がこの「訓令」に関連していると考えられます。

「端政五年己酉 自唐/法華経始渡」(「自唐」以降は小文字で二行書、また「/」は改行を意味します。)

 この「端正」は「五八九年から五九三年」までであったと思われますから、この年次以前に「遣隋使」が派遣され、その「表報使」として「隋」から使者が派遣されたことを如実に示すものといえます。
 彼が「訓令書」を携え、「倭国王」に対し「統治」の体制を見直すことを強く「指示」したというわけです。そしてその具体的方策として「法華経」が示された(講義された)ものと考えられるものですが、同時に「文帝」が「大興善寺」を都の中心に据えて仏教を国策の中心とするシンボルとしたように、「倭国」においても国策の中心としての寺院を「都」に建設するべきという進言(あるいは勧告)をしたものではなかったでしょうか。そのために必要な技術と人材及び物資を「援助」したという可能性が考えられます。

 既に考察したように「高麗大興王」という存在は(その「大興」という表表現から)実際には「隋帝」を意味するものであり、「高麗大興王」からの援助という黄金も実際には「隋帝」からの援助であったと思われるわけです。そしてその「黄金」が使用されて「丈六仏像」が完成したのが「元興寺」であったというわけですから、この「元興寺」は「隋」における「大興善寺」の役割を負っていたものと考えられます。
 ここで「隋使」が行ったと思われる「講説」を受けて「法華経」に基づく仏教文化が発展するわけであり、「六世紀末」から「阿弥陀信仰」が急速に発展すると云うところにこの「訓令」の影響があったものと思われます。(それは特に「法隆寺」に関することに強く表れているものであり、「玉虫厨子」の裾部分にも「阿弥陀像」が押し出しで描かれているなどのことに現れています。またその「法隆寺」には「瓦」などを初めとして「四天王寺」や「飛鳥寺」などのように「百済」の影響がほとんど感じられず、かえって「隋・唐」の影響があると見られることがあり、それらは深く関連していると考えられます。)
 このような仏教文化の発展には色々な要素があったものと思われますが、この時「文帝」から「訓令」されたことが一つの大きなインパクトになっていると考えられるものです。

 このような趣旨で「隋使」が「講説」を行ったとすると、それが行われた場所(地域)として「倭国王」の所在する場所であり、また「遣隋使」により「俗」として「如意寶珠」があり、「祷祭」が行われているとされた「倭国」の本国である「九州島」において、まず「新・法華経」が講説されたみられることとなるでしょう。
 「九州島」が「倭国」の本国であることは『隋書』の中でも「阿蘇山」を初めとする「九州島」内部の様子の描写が物語っているものであり、そう考えると「倭国」の主要支持勢力も九州島の中に求めるべき事となるでしょう。その筆頭にあげられるのは「海人族」であり、「住吉」「宗像」「安曇」などの諸氏です。(そもそも「如意寶珠」は「海中の大魚の脳中にある」とされますから、海人族との関係が最も深いものと推量します。)
 そして特にその「法華経」(「堤婆達多品」の補綴されたもの)の内容が「九州」の有力者であった「宗像君」にとってはあたかも自分自身のことを言われたような衝撃を受けたとしてまた不思議はないと思われます。
 その新しい「法華経」の白眉としては「女性」が(でも)「往生」できるとする立場です。その典型的な場面は「女人変成男子」説話です。これは「文殊私利菩薩」が「海龍王」の元に行き「法華経」を講説したところ「海龍王」の娘が悟りを開いたという説話であり、その際「娘」は「男性」に姿を変えた上で「悟り」を開いたとされます。(これ自体はそれ以前の仏教が抱えていた「女性差別」という欠陥に対するアンチテーゼとしての「男性」への変身であり、「法華経」自体の主張ではないとされます。)
 このような内容は「王権」やその支持勢力の女性達にとって「斬新」であり、興味をかき立てられたことでしょう。「宗像君」の周辺の女性達もまた例外ではなかったと思われ、積極的反応を示したのではないでしょうか。
 実際に「複数」の娘がいたと思われる「宗像君」にとってみればこの「法華経」の内容はまさに自分自身のことであり、「娑竭羅龍王」に自分自身を重ね合わせることはたやすいことであったものと思われます。そのため彼自ら「率先」して「法華経」に帰依したものと思われ、その結果彼の一族も挙って「法華経」の布教・拡大に乗り出すこととなったものと思われます。それはもちろん彼らにとっては「瀬戸内」の制海権を手に入れるという実質的利益を確保する狙いもあったものでしょうけれど、また「倭国王権」の意志に沿ったものであったのが大きいと思われます。

 こうして「厳島神社」「伊豫三島神社」など「瀬戸内」の西側まで「宗像三姉妹」を核とした「法華経」が伝搬したものと思われます。
 この時点以前にすでに「市杵島姫」を初めとする「宗像三姉妹」に対する信仰は、特に海人族において篤かったものと思われますが、それが「法華経」という外来のものに結びつくことで伝搬力が増したという世界もあったのではないでしょうか。つまり「堤婆達多品」が添付された形で「隋」から伝わったと思われる「法華経」が、「宗像三姉妹」により受容され、在地信仰と一体化した形での強い伝搬(いわば「神仏混交」の発生といえるでしょうか)がこのとき発生したものであり、それ以前の「百済」からの純粋仏教とは異なる性質を持っていたものです。
 これら「宗像族」による「法華経」信仰とその拡大は「倭国王権」の意志に適うものであり、強く歓迎されたものと思われます。
 このように「訓令」により「統治体制」と「宗教」について改革が行われることとなったと思われるわけですが、さらにそれが現れているのが「前方後円墳」における祭祀の停止であり、「薄葬令」の施行であったと思われます。

 この「前方後円墳」で行われていた祭祀の中身は不明ですが、明らかに仏教以前に属するものであり、それと「兄弟統治」と解される「統治体制」が「古典的」と称すべき同じ時代の位相に部類するのは理解できるものです。
 「祭政一致」と云われるように「統治」と「祭祀」とは不可分のものであり、「訓令」により「統治」の根拠を仏教とすべしとされたなら、古来からの「祭祀」についても改革されるべき事となるのは当然であり、そのような「祭祀」が必須であったと思われる「前方後円墳」そのものの築造停止というものも国内諸氏に求められたものと思われます。
 別に述べましたが、「薄葬令」は「七世紀半ば」に出されたとすると遺跡などとの齟齬が大きく、これは「六世紀末」あるいは「七世紀初め」に出されたと理解するべきものであると思われ、これが「隋」の皇帝からの「訓令」の影響あるいは効果によるものであったと見る事ができると考えられるものです。

 ところで、「小野妹子」が「百済」国内で「国書」を盗まれたというのは「虚偽」であると考えられるわけですが(国書不携帯の隋使という現実を糊塗するためのもの)、この「盗まれた国書」というものがこの「訓令書」であったというような理解があるようです。しかし、それもやはり従えません。「訓令書」についてもそれが「皇帝」から「倭国王」へという「親書」というものである限り「国書」と同様の扱いであったはずであり、「隋使」が終始所持・保有していたはずです。「皇帝」の「勅使」としての重大性を考えるとそのような「訓令書」についても当然「隋使」が「肌身離さず」所持して当然であり、また「訓令」は本来「皇帝」が「倭国王」に対して直接行うものですが、遠距離のため皇帝の代理として「隋使」が「倭国」を訪れ「倭国王」に対し「読み上げ」「訓令」することとなるわけですから、その瞬間まで「訓令書」が他の誰かの手に渡るはずがないこととなるでしょう。いずれにしても「小野妹子」の主張は真実ではなく、それは「隋帝」(高祖と推定される)が激怒した結果「宣諭使」としての「使者」が「国書」を持参しなかった「言い訳」であったと判断できるでしょう。(ただしこの「訓令書」が「国書」と同一であったという可能性もあります。つまり「国書」の末尾に「訓令」が書き加えられていたという体裁であった可能性もあると思われるからです。その場合『推古紀』の国書には「続き」があったということとなるものと思われますが、詳細は不明です。)
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「隋帝」からの「訓令」について(一)

2017年12月15日 | 古代史
 『隋書』によれば「倭国」から派遣された使者が「隋帝」(高祖)に対し「兄弟統治」と思われる政治体制を紹介したところ、「無義理」とされ「訓令」によりこれを「改めさせた」という一件があります。

「…使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:此太無義理。於是『訓令』改之。」(『隋書倭国伝』における「開皇二十年記事」)

 ここで言う「義理」については以下の『隋書』の使用例等から帰納して、現在でいう「道理」にほぼ等しいものと思われます。

「劉曠,不知何許人也。性謹厚,每以誠恕應物。開皇初,為平鄉令,單騎之官。人有諍訟者,輒丁寧曉以『義理』,不加繩劾,各自引咎而去。…」(『隋書/列傳第三十八/循吏/劉曠』より)

「元善,河南洛陽人也。…開皇初,拜內史侍郎,上每望之曰:「人倫儀表也。」凡有敷奏,詞氣抑揚,觀者屬目。陳使袁雅來聘,上令善就館受書,雅出門不拜。善論舊事有拜之儀,雅不能對,遂拜,成禮而去。後遷國子祭酒。上嘗親臨釋奠,命善講孝經。於是敷陳『義理』,兼之以諷諫。上大悅曰:「聞江陽之說,更起朕心。…」(『隋書/列傳第四十/儒林/元善』より)

「華陽王楷妃者,河南元氏之女也。父巖,性明敏,有氣幹。仁壽中,為黃門侍郎,封龍涸縣公。煬帝嗣位,坐與柳述連事,除名為民,徙南海。後會赦,還長安。有人譖巖逃歸,收而殺之。妃有姿色,性婉順,初以選為妃。未幾而楷被幽廢,妃事楷踰謹,每見楷有憂懼之色,輒陳『義理』以慰諭之,楷甚敬焉。…」(『隋書/列傳第四十五/列女/華陽王楷妃』より)

 いずれも「道理」を示しそれにより「説得」あるいは「教諭」しているものと見られます。これらの例から考えて「高祖」は「倭国王」の統治の体制として「道理」がないつまり「筋道」として間違っていると見たものと思われますが、それは「天」と「日」の関係を兄弟とし、その「天」を自分自身に見立てている点にあったでしょう。
 中国的観点としては「天」とは「天帝」であり、「皇帝」に対応するものでした。ですから「倭国王」が「天」に自分自身を見立てているとすると「皇帝」と同格となってしまうわけです。もちろん「倭国」側にはその様な「対等」を表現する意図は(この段階では)なく「古代」から続く「天」と「日」に対する意識を「統治」の実際に置き換えて表現しただけであったと思われ、それに何か問題があるとは考えていなかったものでしょう。これについては「高祖」は「僭越」とは思ったものの、国交開始時点の段階であり、また絶域の夷蛮のこととして「訓令」により改めさせることに留めたものと推量されます。では、ここで行われた「訓令」とはいったいどのような内容を持っていたものでしょう。

 そもそも「訓令」とは「漢和辞典」(私の所有する角川『新字源』)によれば「上級官庁が下級官庁に対して出す、法令の解釈や事務の方針などを示す命令」とあります。ここでは「隋帝」から「倭国王」に対して出された「倭国」の統治制度や方法についての改善命令を意味するものと思われます。
 「中国」の史書にはそれほど「訓令」の出現例が多くはありませんが、例えば『後漢書』を見るとそこに以下の例があります。

「建初七年,…明年,遷廬江太守。先是百姓不知牛耕,致地力有餘而食常不足。郡界有楚相孫叔敖所起芍陂稻田。景乃驅率吏民,修起蕪廢,教用犂耕,由是墾闢倍多,境內豐給。遂銘石刻誓,令民知常禁。又『訓令』蠶織,為作法制,皆著于鄉亭,廬江傳其文辭。卒於官。」 (『後漢書/列傳 循吏列傳第六十六/王景』より)

 ここでは「廬江太守」となった「王景」という人物が「廬江」の民に対して「養蚕をして絹織物を造るよう」「訓令」したというのですから、彼らに生活の糧を与えたものであり、これは厳しい態度で接する意義ではなく、何も知らない者に対して易しく教える呈の内容と察せられます。
 また『旧唐書』の例も同様の意義が認められます。

「二月戊辰朔…丙子,上觀雜伎樂於麟德殿,歡甚,顧謂給事中丁公著曰:「此聞外間公卿士庶時為歡宴,蓋時和民安,甚慰予心。」公著對曰:「誠有此事。然臣之愚見,風俗如此,亦不足嘉。百司庶務,漸恐勞煩聖慮。」上曰:「何至於是?」對曰:「夫賓宴之禮,務達誠敬,不繼以淫。故詩人美『樂且有儀』,譏其屢舞。前代名士,良辰宴聚,或清談賦詩,投壺雅歌,以杯酌獻酬,不至於亂。國家自天寶已後,風俗奢靡,宴席以諠譁沉湎為樂。而居重位、秉大權者,優雜倨肆於公吏之間,曾無愧恥。公私相效,漸以成俗,由是物務多廢。獨聖心求理,安得不勞宸慮乎!陛下宜頒『訓令』,禁其過差,則天下幸甚。」時上荒于酒樂,公著因對諷之,頗深嘉納。」(『舊唐書/本紀第十六/穆宗 李恆/長慶元年』より)

 ここでは「天寶」年間(玄宗皇帝の治世期間)以降「風俗」が「奢靡」(過度な贅沢)になり「宴席」において「ただ騒がしく」したりまた「音楽」に没頭するなどの様子が目に余るとし、そのような状況を「皇帝」が「訓令」してその行き過ぎを停めることができれば「天下」にとって幸いであると「諫言」したというわけです。
 また以下の例で「「訓令」そのものではありませんが、「隋」の「高祖」の言葉として、「弘風訓俗,導德齊禮」することで「四海」つまり「夷蛮の地」を「五戎」つまり「武器」に拠らず「修めた」としています。

「閏月…己丑,詔曰:「禮之為用,時義大矣。黃琮蒼璧,降天地之神,粢盛牲食,展宗廟之敬,正父子君臣之序,明婚姻喪紀之節。故道德仁義,非禮不成,安上治人,莫善於禮。自區宇亂離,緜歷年代,王道衰而變風作,微言絕而大義乖,與代推移,其弊日甚。至於四時郊祀之節文,五服麻葛之隆殺,是非異說,踳駁殊塗,致使聖教凋訛,輕重無準。朕祗承天命,撫臨生人,當洗滌之時,屬干戈之代。克定禍亂,先運武功,刪正彝典,日不暇給。今四海乂安,五戎勿用,理宜『弘風訓俗,』,綴往聖之舊章,興先王之茂則。』…」(『隋書/帝紀第二/高祖 楊堅 下/仁壽二年』より)

 この例では「俗」を「訓」したとするわけであり、「導德齊禮」というようなことが行われたとされますが、当然各国ごとに個別の事情があったわけであり、対応もまた個々の国で異なったものとなったでしょう。「倭国」の場合は「兄弟統治」と思しきものが「遣隋使」から語られたことで、「統治」の方法と体制という重要な部分について「前近代的」と判断されたものと思われ、そのため派遣された「隋使」の役割として「国交」を始めた段階における通常の儀礼行為を行うことに加え、「統治」に関して「旧」を改め「新」を伝授するという具体的な方策を示すことであったと思われます。

 ここでは「倭国王」は「天」に自らを擬していたわけですが、それはそれ以前の倭国体制と信仰や思想に関係があると思われ、「非仏教的」雰囲気が「倭国内」にあったことの反映でありまた結果であると思われます。確かに「倭国王」は「跏趺座」していたとされこれは「瞑想」に入るために「修行僧」などのとるべき姿勢であったと思われますから、「倭国王」自身は「仏教的」な雰囲気の中にいたことは確かですが、「統治」の体制として「天」と「日」の関係など「倭国」の伝統による独自性が現れていたものであり、それは「高祖」の「常識」としての「統治体制」とはかけ離れたものであったものと思われ、そのためこれを「訓令」によって「改めさせる」こととなったものと思われるわけですが、それは「統治」における「倭国」独自の宗教的部分を消し去る点に主眼があったものと推量します。
 そもそも「改めさせる」というものと「止めさせる」というものとは異なる意味を持つものですから、単に「倭国王」の旧来の「統治形態」を止めさせただけではなく「新しい方法」を指示・伝授したと考えるのは相当です。

 「高祖」は自分自身がそうであったように「政治の根本に仏教を据える」こと(仏教治国策)が必要と考えたものと思われ、そのために「最新の仏教知識」を東夷の国である「倭国」に伝えようとしたものではなかったでしょうか。そのため派遣された「隋使」(これは「裴世清」等と思われる)は「倭国王」に対して「訓令書」を読み上げることとなったものと思われますが、その内容は「倭国」の伝統(これを悪しきものと認定したもの)に依拠したような体制は速やかに停止・廃棄し新体制に移行すべしという「隋」の「高祖」の方針が伝えられたものと思われ、その新体制というのが仏教を「国教」とするというものであったと思われるわけです。
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『日本書紀』における「伊吉博徳」達の移動日数の疑問について

2017年12月13日 | 古代史
 ところで『書紀』の『斉明紀』に記された「伊吉博徳」が参加した「遣唐使」一行の行程には不審があります。
 以下に『伊吉博徳書』の関係部分の抜粋を示します。(黒板勝美「国史大系『日本書紀』」による)

「(斉明五年)秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。
潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到東京。天子在東京。卅日。天子相見問訊之。…十一月一日。朝有冬至之會。々日亦覲。所朝諸蕃之中。倭客最勝。後由出火之亂。棄而不復検。…」(『斉明紀』より)

 この記事によれば彼らは「斉明五年(六五九年)七月三日」に「難波」を出発し「九月」の終わりには「餘姚縣(その後の会稽郡)」に到着したとされています。そして、そこから首都「長安」に向かったものの、「皇帝」(高宗)が「東都」(洛陽)に行幸していたためその後を追って彼等も「洛陽」に向かい、「潤十月」の「二十九日」に到着し「翌三十日」に皇帝に謁見したという行程が書かれています。
 この時「高宗」は「洛陽」に移動して「冬至」の祭天を行ったと見られるわけですが、当時祭天を行うべき「天壇」は本来「長安」の南郊に造られていたものです。しかしそれにも関わらずこの時は「洛陽」に移動して祭天を行っているようです。これはその直前に改められた「禮制」(『顕慶禮』)の中で「東都」(洛陽)で行うということが決められたのではないかと推察されます。その背景としては「高宗」と「即天武后」が「周代」の古制を重んじ、「洛陽」を「都」(東都)として機能させていたことがあったためと思われます。そのため「洛陽」の郊外で「祭天」を行っていた「周」の時代に戻る意義があったと見られ、それは「即天武后」がその後帝位について以降「唐」を改め「周」と国名を変更する素地ともなったと見られます。(ただし『顕慶禮』はその後逸失しているため実際には不明です。)
 このような事情により「高宗」は「六五九年」(顕慶四年)の「閏十月」の末には「洛陽」に移動していたものであり、それを知った「伊吉博徳等」も「長安」からその「洛陽」へ馬に乗って移動しなんとか「十一月一日」以前に高宗に謁見することができたというわけです。

 しかし、先の行程を見ると明らかに不審な点があります。「餘姚縣」に船が到着したのが「九月二十二日」とされているのに対して、「長安」に向かって移動を開始し「越州の底」に到着したのが「潤十月一日」ですから、一ヶ月以上も「餘姚縣」に上陸してから動かないでいたこととなります。それにしてはその後「乘騨」つまり「馬」に乗って移動しているように見られますが、この「乘騨」という表現は決して高速で馬を走らせる意義ではなく、単に「馬に乗って移動した」以上のものではないのです。それにしては「越州の底」から「長安」まで「十五日間」という短期間での移動となっているように見えます。これは通常の移動の速度を遙かに上回っています。

 この「越州の底」というのが具体的にどこを指すかやや不明であり、またどのようなルートをとったかも不明ですが、仮に現在の浙江省の南側地域(温州付近か)から「寧波」「杭州」「上海」「無錫」「合肥」「武漢」「鄭州」「洛陽」というルートを取って「長安」(現在の西安)まで移動したとすると、ざっと道のりで二千キロメートル程度あります。(さらに距離を短縮できるルートはありますがその場合でも千五百キロメートル以上は確実にあります)これを十五日間で移動している事となりますから、一日百キロメートル以上の移動距離が必須となってしまいます。確かにこの行程は徒歩ではなく馬に乗ったと見られるわけですが、例えそうであったとしても、現実の問題としてこのような行程は無理なのではないかと思われます。
 後の「養老令」では馬による移動としては「緊急の場合」に限り一日百キロメートル以上の移動が許可されていましたが、それも「官道」を使用するという前提でした。この時の「倭国」からの遣唐使が「唐」の官道を使用できたとも思われませんし(そうであれば「唐」側の「官人」が案内したものと考えられますが、その場合は「阿利麻」達のように「洛陽」へと案内されたはずです)、彼らは一般道を使用したと思われますが、高低差もかなりあるわけであり、そう考えるととても一日百キロメートル以上もの移動が可能であったとは思われません。つまり、十五日間で千五百から二千キロメートルというような長距離を走破したというような想定は非常に考えにくいものとなるわけです。というより、元々その予定であったならもっと出発を早めて当然とも言えるでしょう。(これ以前の「高表仁」来倭の際の「遣唐使」も同様のルートを使用して「長安」に向かったと推定されますから、行程に対して無知であったとは思われません)
 この「謎」についての考え方としては色々考えられるでしょうが、可能性が高いのはこの『伊吉博徳書』の文章の中での「潤」の一語の入る場所の誤記載ではないでしょうか。

 この行程に関する部分をよく見ると「越州の底」に到着したのが「潤十月一日」とあるのに対して「長安」に到着した時点では単に「十月十五日」とあります。(※1)その前に一ヶ月以上の空白があることを考えると、この「潤」の字は本来「到着」の日付である「十月十五日」に冠されるものであったと考えられないでしょうか。それを裏付けるのはこの『伊吉博徳書』の中での日付表記のルールです。

 この「十月十五日」を除くすべての例において同月の場合は「月名」表示がされていません。つまり『伊吉博徳書』の中では同月の場合は以降出てくる日付には「月名」を表示しないという彼なりの決め事があったように見受けられるのです。(以下『伊吉博徳書』の中の日付の全出現例)
 「己未年七月三日」「八月十一日」「九月十三日」「十四日」「十五日」「十六日」「廿二日」「潤十月一日」「十月十五日」「廿九日」「卅日」「十一月一日」「十二月三日」「庚申年八月」「九月十二日」「十九日」「十月十六日」「十一月一日」「十九日」「廿四日」「辛酉年正月廿五日」「四月一日」「七日」「八日」「九日」「五月廿三日」

 従来はこの中の「十月十五日」という表記は「潤」の一語が脱落しているとみていたわけです。なぜなら(その使用されている暦が「元嘉暦」であれ「戊寅元暦」であれ)並びとしては十月の次が潤(閏)十月であり、その次に十一月が来るわけです。そう考えると上の例の中の『「潤十月一日」「十月十五日」』という並び順は明らかにおかしく、その意味で「十月十五日」には「潤」が脱落しているとみていたわけですが、そうであれば上にみた彼自身の「同月内では月名を書かない」という表記ルールに反していることとなるわけです。そうでなければ「十月十五日」の例が同月でありながら月名が表示されている唯一の例外となってしまいます。(しかも「潤」字が脱落していることとなる)
 上にみたように長安までの行程に疑義があることを踏まえると、この「十月十五日」を例外と考えるよりは「潤」字の入る場所が違うという可能性の方が考える方が合理的であり、「潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。」という文章は実際には「十月一日。行到越州之底。潤十月十五日乘騨入京。」というのが本来あるべき表記ではなかったかと考えられることとなります。(※2)

 このように考えると「越州の底」に到着してから「入京」つまり「長安」に「到着」まで「四十五日前後」となりますから、この間全て移動に費やしたとすると一日あたりでは三十キロメートル前後となり、まだしも可能な移動速度と思われます。その後「高宗」の不在を知って「長安」から「洛陽」まで約三百五十キロメートルを十四日間で移動していますが、この場合は一日あたり二十五キロメートル程度ですから、それと比較してもやや早い程度であり、非現実的ではないと思われます。(ちなみに「高宗」は同じ「長安―洛陽間」を二十日間かけて移動していますが、威儀を示しながらの行進であったはずであり、かなり「ゆっくり」としたものだったとみられます。)

 この行程のペースについては彼らの帰国する際の行程に要する日数が参考になるでしょう。彼らは「百済」が「唐・新羅」連合軍に敗れ「義慈王」以下が「洛陽」に連行された時点以降解放されたとされ、その後帰国の途に就いています。
(以下『書紀』に引用された『伊吉博徳書』の関係部分)
「(斉明六年)十一月一日。爲將軍蘇定方等所捉百濟王以下。太子隆等諸王子十三人。大佐平沙宅千福。國弁成以下卅七人。并五十許人奉進朝堂。急引趍向天子。天子恩勅。見前放著。十九日。賜勞。廿四日。發自東京。…辛酉年正月廿五日。還到越州。…」
 これによれば「洛陽」から「越州」(「還到」という表現からこれは出発時の「越州之底」と同じ場所を示すと思われます)までおよそ二ヶ月(六十日)要しています。この間の距離は約千四百から千六百キロメートルと推測され、一日あたりでは約二十五キロメートル前後となります。これは「洛陽」に移動するために「長安」から要した移動の行程とほぼ同程度となりますが、「往路」と違ってある程度「余裕」を持った行程ともいえるでしょう。「往路」は期限(日程)が切られているという事情から多少急ぐのは自然ですから、三十キロメートル程度であれば想定としてそれほど不審ではなく、そう考えると『伊吉博徳書』の記載の「潤」の入る位置はやはり誤記載と思われるわけです。

(※1)この「十月十五日」という表記については、参考にした国史大系本『日本書記』や江戸時代の伴信友の校訂本や一九二〇年代に出された『仮名日本史書紀』などには「十月」という月名が書かれていますが、近年の「岩波」の「古典文学大系」や「新古典」などやその他新しく出版されたものでは「省略」されています。多分根拠としては『釈日本紀』で「潤十月」の後に出て来る「十月」は誤りであるとしたものに従ったものでしょう。(「潤十月」の項)誤りとした事情は上に述べたような矛盾によるというものであり、そのため「十月十五日」という表記から月名を削除したものと思われます。しかしそれでも別の矛盾があるとしたのが本論の趣旨です。
(※2)「潤(閏)」月の設定は「中気」を含まない月を「潤(閏)」月とし、その月名としてその前月の月名に「潤(閏)」を前置するというものです。また「中気」とは一年の長さを二十四等分して二十四節気を定め、そのうち雨水・春分など偶数番目のものをいいます。
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「日本」国号への変更時期と事情

2017年12月13日 | 古代史

 日本国という国号に関する議論(西村氏の論とそれに言及した山田氏のブログ)を見まして、中村直勝という方の論文「一字姓と二字姓」(大手前女子大学論集 8号, 1974年)に興味あることが書かれていることを思い出しました。そこでは「平氏」「源氏」という一字姓は、それまでの二字姓より「格」が高いことを示し、そのような一字姓が出現したのは中国へのコンプレックスがなくなったためであり、それは「唐」の没落を契機としたものであって、その時点付近で中国人と同様「一字姓」にしたものというものです。この論はその趣旨として西村氏の論と共通しているように思えます。
 西村氏は『宗主国として戦いに臨み敢無く敗北した倭国は、講和の条件の一つとして一字国名を返上し、唐に媚びたのである。』とされ、「倭国」から「日本国」へという国号変更が「唐」におもねったものという論旨のように受け取ることができそうですが、もちろんそのような見方もあるでしょうけれど、「唐」に屈服したからというより逆に「唐」(あるいは「隋」)に対する傾倒を止めたためということも考えられないでしょうか。その意味で「唐」と距離ができたらしいこともそれを裏付けるといえるかもしれません。「唐」に媚びたとすると「遣唐使」を頻繁に送るような外交も考えられそうですが、実際には「天武」以降確実に「唐」へ派遣された記録は「文武」の時代まで遅れます。このような流れは「唐」に対する「傾倒」の停止がその裏にあることを推測させます。

 そもそも「倭」という「国名」は「自ら名乗った」と言うより「中国」側からの命名である可能性が強いでしょう。それは「倭国」が「受け入れていた」ということではなかったでしょうか。「倭」は「周代」以来「国名」というより(中国側から見た)「地域名」であったものであり、そのような歴史的背景を持つ名称であるために、これを「国名」とした後も改名することもなかった(そのようなことを「中国側」も「倭」の側も考えなかった)ということではなかったでしょうか。
 しかし「七世紀」のどこかで「日本」という国号に変更したというわけですが、それがコンプレックスがなくなったからなのか、戦争による「敗北」という現実を契機に逆にコンプレックスが増大した結果なのかのはなかなか微妙ではないかと考えます。たとえば「日本」という国号が「則天武后」の命名によるという解釈も一部行われているようですが、それはコンプレックスが逆に増大したと考えたときには整合する話ですが、そもそもそれが事実かどうかは不明です。(「自称の追認」ということならあったかも知れません)。
 「倭」から「日本」へと言う変更の中にあるものが何なのか、それを探るヒントは「朱鳥」という年号が「あかみとり」という「訓読み」であることではないでしょうか。

 『新唐書』でも『旧唐書』でも「日本」という国号の変更は「持統」の時代とされています。(少なくとも「文武」以前です)ずっと後代の『歴代建元考』その他の資料でも同様に「持統」の時代に「日本」への国号変更があったとされます。ただし『三国史記』には「文武王十年十二月の記事として「十二月…倭國更號日本 自言近日所出以爲名…」とあり、これは一見「六七〇年」のことと考えそうですが、『新唐書』など見ると「六七〇年」付近には「持統」らしき「倭国王」(總持)の存在が書かれており、『三国史記』がその典拠とした史料群の中に『新唐書』等の先行する中国史料があることを考えると、単にその記事との整合性を考えただけなのかもしれず、信憑性はその意味で下がります。

 『書紀』では「持統」の時代の年号としては「朱鳥」しかなく、このことは「国号変更」と「朱鳥改元」の間に何らかの関係があることを推定させます。
 そもそも国号変更ということが行われた背景に「王権」の交替などを読むのは別に不自然ではなく、いかにもありうることでしょう。そう考えれば「朱鳥改元」と「飛鳥浄御原宮」への遷宮とが関連していると『書紀』にあるわけですから、国号変更と遷宮、改元が統一的におこなわれたらしいことが推定され、禅譲により新王朝が誕生したらしいことが推定できますが、もし「朱鳥」が「訓読み」ならば「日本」という国号も必ず「訓読み」となったはずです。このように「年号」など本来中国起源のものに対して「訓読み」をしていると言うことは「中国」に対するコンプレックスではなく、「対等意識」が言わせるものではないでしょうか。
 中国のやり方や文化が最高最善ではないと考えたからこそ、中国流ではなく我が国独自の方法に切り替えたということであり、それは明らかに「唐」に対する「対抗意識」が言わせたものと思われるわけです。そう考えるともっとも対抗意識が強かったのは「唐使」として「高表仁」が来倭した時点付近ではなかったでしょうか。

 それ以前に「裴世清」が来倭していたわけであり、この時点で「倭国王朝」は「隋」「唐」の儀礼については熟知していたはずであるのにも関わらず(『隋書』の「裴世清」を迎える記事内容から見て「隋」の「禮制」を承知していたと思われます)、「高表仁」という「唐皇帝」の代理者に対して「夷蛮」の王としての位置に自らを置くことを拒否したというわけですから、これは「唐」に対する対等意識以外の何者でもないと感じられます。
 このようなことを考えると「唐」に対する対等意識が高くなった時期としては「七世紀初め」(第一四半期付近)が最も考えられます。
 『釈日本紀』によれば、「日本」という国号は自ら名乗ったというより唐から「号」された(名づけられた)ものとされています。(実態としては自称を唐が承認したと言うことと理解できます)その自ら名乗ったというのがどの時点であったかというと、同じく『釈日本紀』には「隋の文帝の開皇年間」に「小野妹子」が遣隋使として派遣された際に「文帝」に国名変更を申し出たが、「許可されなかった」とあります。(これは「日出天子」自称と直接結びついていた事案であったために拒否されたと見られます)その後武徳年中(つまり高祖の治世年間)」になって派遣された遣唐使が「国名変更」を申し出、これは受理され、許可されたとされます。(これが「蝦夷」の使者を伴っていたという『仏祖統紀』に書かれた記録と対応するものでしょう)
 さらに「或る書に曰く」として「筑紫の人隋代に彼の国に至る。このことを称している。」とあり、「このこと」とは「委奴国」という国号について「隋帝」に説明したということとも読めますが、当然そのような時期にそのようなことが説明されるはずがなく、明らかに「倭」から「日本」へ改めたという説明をしたはずであり、その際「倭」元々「委奴国」といったという説明をしたものが誤解されたものではないかと推測されます。
この記事は「日本国」への国号変更が「筑紫」の朝廷が行った(行おうとした)ものであり、それは「隋」の「開皇年間」のことであったことを意味していることとなります。それがあり得ないとか不自然であるとかいう感想や見解は『書紀』を盲信するがためのものですから、客観的にみれば「天子標榜」と並列して考えるべきことであり、その意味では蓋然性として決して低いものではないみられるものです。
 またこの後になり(「六四八年」に)「新羅」を通じて「交渉」を再開したというわけですが、この通交再開にあたっては「高表仁」事件に対する「遺憾の意」を表明したであろう事は疑いありません。「唐使」は「唐皇帝」の代理であり、「唐使」に対する「無礼」は「唐皇帝」に対する「無礼」であり、それは「隋皇帝」に対する「天子標榜」と何ら変わらない不遜な態度であるわけですから、「謝罪」や「遺憾の意」の表明なくして通交が再開できるはずがないということになるでしょう。つまり「七世紀半ば」以降は「唐」に対して「対等意識」など持てる状況ではなかったと思われるわけです。

 さらに「白村江の戦い」など「百済を救う役」の敗北以降、「勝者」と「敗者」(少なくともその片割れとでもいうべきものでしょう)とが明確になった時点以降、その勝者としての「唐」に対して「対抗意識」などなお持てるはずもなく、そのように考察すると「日本」国号変更を行った時期としては「七世紀初め」の「阿毎多利思北孤」の「次代」の(「太子」とされた)「利歌彌多仏利」の「倭国王」即位時点付近ではなかったかということとなるでしょう。
 あるいは彼が亡くなった後の「倭国王」(このとき彼の皇后が「称制」したと思われる)の時点の可能性もあります。その場合「持統」の代という記録あるいは伝承は「利歌彌多仏利」の皇后についてのものが残ったものということも考えられるものです。

 そして、そのような「対等意識」や「対抗意識」が芽生えた最大の理由あるいは契機は「裴世清」により「宣諭」されるという衝撃ではなかったでしょうか。
 「隋皇帝」から半ば「敵」と目されるような外交が拙劣であったことは間違いなく、倭国内ではその責任を問う声が上がったとして不思議ではなくその中心的人物は退場させられたものと思われ、その後継としての人物は前任者の方針を改め、「隋」など中国王朝を「師」とするような政策や政治的方向ではなく、「対等意識」を前面に出したものとするよりなかったであろうと思われ、それが「年号」や「国号」を「訓読み」とするような行動に出る要因となったものと思われるわけです。そして「唐使」としての「高表仁」に対して「対等意識」が過剰に出た結果「高表仁」がその「皇帝」からの「朝命」を全うせずに帰国してしまうという更に別の事件になってしまったわけです。この事件は隋代の「宣諭」事件に匹敵する衝撃を「倭国」に与えたものであり、行きすぎた「対抗意識」が事件を引き起こしたことの責任を問う声が起きたものではなかったでしょうか。
 その後「六四八年」まで国交を正常化する動きがなかったわけですが、それは「高表仁」とトラブルを起こした当の本人が「王」であり続けたためだからと思われ、この「六四八年」の方針転換は「王」の交替(死去によるか)など政権内部に変化があったことを意味するものと思われます。この変化が前王への批判を承けたものであることは間違いないでしょう。
 これ以降の「倭国王」(日本国王)が「唐」との関係強化に努めた(努めようとした)ことは間違いないとみられますが、それはあくまでも「従属的立場」としてのものであり、決して「対等意識」からのものではなかったと思われるわけです。(六五九年の「伊吉博徳」の参加した「遣唐使」は「唐帝」に対し「天子」と尊称しており、それを如実に表しています) 

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