古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「荒神」信仰と「津波」

2019年01月27日 | 古代史

 「出雲」で「銅剣」が大量に発見された「荒神谷」という地名は近くに「荒神」の社があったことから命名されたといいます。その「荒神」信仰は神道や仏教というような区分とは異なり、かなり「土着」的信仰であったと思われています。その「荒神社」はほとんど「瀬戸内沿岸」に集中しており、「岡山」を筆頭に「広島」「島根」「兵庫」「愛媛」「香川」「徳島」「山口」などの他「島根」など日本海側にも一部数えられます。その祭神としては「道祖神」の他「奥津彦命」「奥津姫命」「軻遇突智神」といういわゆる「火の神」に類する神が選ばれており、「竈神」として俗間の信仰が深かったものです。また、その他「牛頭天王」との関係も深いとされています。

 これらを見て感じることはそもそもその信仰されている地域として「弥生中期」に発生したと思われる「大地震」「大津波」の被害が特に大きかった地域と重なっているように思われることです。それはまたこの時代に形成されたと思われる「高地性集落」の地域とも重なっていると考えられるものです。
 この事から「推測」として「荒神社」という信仰が発生する要因となったものは「大地震」と「津波」ではなかったでしょうか。それを示唆するのが「牛頭天皇」と関連があるとされていることです。「牛頭天皇」は「素戔嗚尊」が道教的信仰に変化したものであり、「祇園社」の祭神となっていますが、この「祇園社」と「祇園祭」の起源に関係しているとされているのが「貞観地震」と呼ばれている今からおよそ千百年前に起きた東北を襲った大地震とそれによる大津波です。

 これについては以前( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/2c625fee02e83df6b33a954595a744b7 )などで簡単な考察をしましたが、『三大実録』や八坂神社の社伝である『祇園社本縁録』などによると「貞観地震」の十二日後に「清和天皇」は「御霊会」を行うこととしたものであり、「逆鉾巡行」の儀式を行っています。それは「素戔嗚尊」に対する鎮魂の儀式であったものです。
 当時「素戔嗚尊」は「高天原」にいるとされ、また「高天原」は関東(東の地の果て)にいるとされていたものです。地震はちょうどその場所で起きたものであり、「素戔嗚尊」の「祟り」がその原因と考えられたもののようです。「荒神社」の祭神として「素戔嗚尊」に関連する「牛頭天皇」が関係しているとされているのも「大地震」等の天変地異がその背後にあるのではないでしょうか。それを示すのが「民間」において「荒神」に対する信仰として「あやつこ」と呼ばれる風習があったことです。これは子供の「お宮参り」の際に、鍋墨(なべずみ)や紅などで、額に「×」印や「犬」という字を書くというものです。これは「悪魔よけ」とされていますが、これは「祇園社」から発行される「お守り」に「宇迦之御魂之神」という名前と共に「×印」が書かれている事に通じるものであり、更に「荒神谷」の銅剣に記された「×印」につながっているのではないかと考えます。

 「荒神谷遺跡」からは「三五八本」という多数の「銅剣」が出土しましたが、その大半に「×」印と思われるものが付けられていました。これらの「銅剣」は「武器庫」から出されたままの状態であったと推測したわけですが、「未使用」であったというわけではありません。それは「刃こぼれ」としか見えない傷が多くついていることから判断できます。これは「鋳造」の際に付着する「バリ」であるとする見解もあるようですが、そうではないと思われます。なぜならそのような「バリ」状のものは「刃」の部分にしか確認できないからです。「刃」以外には「バリ」らしいものが見えないようであり、握る部分だけバリをとったと理解するしかありませんが、それは合理的な理解とはいえないと思われます。 そう考えればこれは「刃こぼれ」と判断するべきであり、実際に使用されたと見ることができそうですが、そうであれば「×印」の意味も「荒神」信仰と同様「魔物よけ」であり、「戦い」の中で自分に対する危険を振り払う「呪術」として作用したと見ることができるでしょう。

 これらのことはこの「荒神」あるいは「荒神社」という存在と「魔除け」という一種の信仰がつながっていることを示しますが、それはこの「荒神」という存在が「祟り神」であることの裏返しではないかと思われるのです。
 「シリウス」に対する信仰の所でも触れましたが、本来の信仰は自然に対する「畏怖」に発するものであり、人間にはどうにもならないことが起きたときに、これを「祟り」つまり人間の何かの行いがその結果を招いたとする考え方となった可能性が高いと思われます。これを深く敬い、祭りを欠かさないことで「祟り」から逃れようとすることが原初的な信仰ではなかったかと思われるものであり(「太陽神信仰」もマウンダー極小期のように太陽活動に起因すると思われる気候変動がその契機と思われる)、この「荒神」も同様のものではなかったかと思われます。その「荒神」の集中している地域はすでに見たように明らかに瀬戸内周辺であり、この地域に何らかの「天変地異」が起きたことを推測させます。そして瀬戸内の「本州側」と「四国側」の両岸で同様に猛威をふるったとすると可能性が高いのは「大地震」とそれにともなう「大津波」ではなかったかと思われますが、それを示すのがこの地域で見られる「高地性集落」ではないかと考えます。
 既に述べたように「二〇〇〇年前」の地震と大津波に先立ち紀元前二五〇年付近でもかなりの規模の地震と津波があったと思われる訳であり、この「津波」発生時点で「銅鐸」が破棄されることとなったと見ているわけですが、それは「荒神信仰」と裏返しであったように思われる訳です。
 「銅鐸」という「祭器」が持っていた「神聖性」が「天変地異」の前に崩れ去ったときそれは「廃棄」されたものであり、改めて「祟り神」としての「荒神」が信仰されるようになったものであり、それは「出雲王権」の弱体化を示すものであったと思われるのです。それに対し「筑紫」の勢力はこの時の地震と津波の影響をそれほど受けなかったものではないでしょうか。それは「荒神社」が「筑紫」に見られないという事に現れているように思われます。「肥後」に僅かにあるようですが、そこより北には見られません。
 この時の大地震が「紀伊半島沖」に震源があったとすると九州島の内部ではそれほどの被害ではなかったという可能性が強いでしょう。(「龍神池」にも津波は侵入していないわけです)
 このように「荒神」に対する信仰が起きていたとすると「荒神社」の近くに「銅鐸」「銅剣」が廃棄されていたのは「偶然」ではないこととなるでしょう。

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「松帆銅鐸」の埋納時期と「津波」の関係

2019年01月27日 | 古代史

 今回通りすがりの素人様より「銅鐸」の埋納と大津波及び「高地性集落」の形成等に関連して考察した拙論に対し「松帆銅鐸」の存在の指摘があり、埋納時期と津波の関係にやや見直しが必要と考えられる事となりました。

 以前の記事で「弥生中期」あるいは「弥生後期」というような表現がありましたが、これについて(今更のようですが)検討してみます。
 「弥生時代」の実年代については以前は「弥生早期~前期初」が紀元前四〇〇~三〇〇年ごろ/弥生前期末が紀元前二〇〇~一七〇年ごろ/弥生中期末は紀元後一~五十年ごろ/弥生後期末は紀元後二五〇年ごろとされていましたが、「歴博」の「弥生時代」の始まりを五百年早めるという説の登場以来、大方の理解は「弥生早期と前期」を「紀元前七五〇年頃から紀元前四〇〇年付近、弥生中期をそれ以降紀元前後付近まで、それ以降二五〇年付近までを後期」と見るようになったと理解しています。それは「高知大学」の津波痕跡の調査からもいえるものであり、この地震が発生したと思われる約二〇〇〇年前である「紀元前後」に「弥生中期」と「後期」を分ける分岐点があると考えられることを示しており、それは即座に「近畿」で高地性集落が多く見られる時期に相当することとなり、また銅鐸が一斉に廃棄されるタイミングでもあったと見たわけです。ところがその理解を覆すものが淡路島から発見された「松帆銅鐸」と言われるものです。
 この銅鐸の「内部」の土中から「有機物」(樹皮など植物片)が出土し、その炭素年代測定の結果「紀元前四世紀中頃~前二世紀中頃」までの間にそれが土中に埋められたと推定できることとなりました。そのことはこれら「松帆銅鐸」そのものも同様の時期に埋められたと考えるべきことを示します。このことから銅鐸の埋められた時期として従来理解していた上記年代には疑いが生じることとなったものであり、実はもっと以前のことであったということになる可能性が高くなったものです。
 これに関して「通りすがりの素人」様は二〇〇〇年前という津波時期の推定に実際にはかなりの幅(誤差範囲)があることから、大津波の時期をもっと遡上して考え紀元前一五〇年付近と考えれば「松帆銅鐸」の埋納時期と重なるとされましたが、その推定と誤差の範囲でも重ならないサンプルがあることから、この提案は無理なのではないかと考えました。
 しかし「ただす池」(高知県須崎市)には二〇〇〇年前とは別に「前二五〇年」付近の津波堆積イベントも記録されており、このことは「二〇〇〇年前」の津波の時期の推定を遡上させるよりも、別の津波があったと見る方が合理的であることを示しているように思われます。これを基に更に検討した結果以下の推論が可能ではないかということとなりました。

 今回高知大学の津波痕跡の探索対象の池のうち痕跡が確認されたものとして「大分県佐伯市米水津の龍神池」「徳島県阿南市の蒲生田大池」「高知県須崎市のただす池」「高知県土佐市の蟹が池」「高知県南国市の石土池」「徳島県海部郡の田井ノ浜の池」「高知県高知市の住吉池」の計六箇所があり、このうち九州東岸の「龍神池」だけが紀元前二五〇年付近の津波痕跡が認められていないように見えます。他のより東方の池ではこの時にも津波痕跡が確認されているようであり、この時の地震の震源域として南海(紀伊半島沖)が想定できそうです。この場合であれば津波が来たとしても九州東部では陸域にある池まで及ぶことはなかったと見られます。しかしより震源域に近い「淡路島」においてはかなりの被害があったと見る事ができそうですから「松帆銅鐸」の土中廃棄と関連を考えることができるのではないでしょうか。そして更にそこから二〇〇年ほど経過後いわゆる「南海トラフ」の同時多発地震が起き、より広い範囲に被害があったと見ることも可能と思います。

 前二五〇年付近の最初の地震による津波が紀淡海峡から侵入し、瀬戸内周辺に被害を及ぼしたと見られ、この時点でこの地域を中心として「高地性集落」が形成されたと見られ、また「淡路島」と同様古い銅鐸の埋納が行われたという可能性があるでしょう。
 また「紀伊半島」においてもこの時点で「高地性集落」が形成されると共にかなりの銅鐸が「埋納」されたと見られます。(ただし一部はまだ低地に残留したものではなかったかと思われます)そしてそこから二〇〇年ほど経過してより規模の大きい地震があり、それに伴う大津波により各地に壊滅的被害があったと見られ(この時点で既に高地に移動していた勢力は生き残ったものとみられる)、この時点では「龍神池」にも津波の流入があったものであり、被害が九州北部にも及んだという可能性があります。このため各地でより多くの高地性集落が形成されたと見られ、多くの地域で「古い銅鐸」の土中廃棄が行われたと見ています。

 この一連の流れの中で最初の津波により被害が生じた瀬戸内の人々の「出雲」の祭祀(これが「銅鐸」を祭器とするもの)に対する「権威」が低下した結果「銅鐸」の土中廃棄が行われたものと思われますが、そこに「筑紫」の勢力が機に乗じて王権の移動を迫ったことで、この時点で「出雲」王権は完全に失墜したものであり、この時「銅剣」「銅矛」などの兵器も同時に埋納され、いわゆる武装解除が行われたと見ています。「淡路島」の「松帆銅鐸」も出雲の銅鐸と同笵関係が確認されており、「出雲」の影響下にあったことは確実と思われ、その意味で「出雲」を「祭祀」とし重要視していたものが行われなくなったことを示すと思われます。
 そしてその後の大津波により全国で被害があった時点以降被害がそれら他地域に比べ軽微であったとと思われる「筑紫」の勢力は一気にその影響範囲を拡大したものであり、ここに広い地域を統治する「王権」が移動したことを中国に報告し、それを認めて貰うため遣使したと思われ、それが『後漢書』にいう「漢委奴国王」の金印を授与された王権と思います。(私見ではこれはその後『倭人伝』にも出てくる「倭の奴国王」であったと思っています。)
 これ以降近畿中心に「見る銅鐸」が盛行し「出雲」とも「筑紫」とも重ならない別の勢力により地域的権力者が発生したものと思います。こちらは『倭人伝』にいう「狗奴国」ではないかと考えます。

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「瀚海」について(その後)

2019年01月26日 | 古代史

 山田様のブログ( http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/01/post-af54.htmlhttp://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/01/post-aa39.html など )で引き続き「瀚海」についての議論が行われています。その議論を見ていて考えたことを以下に書きます。

 「瀚海」は(想定によれば)「邪馬壹国」からの使者がその帰途「魏」の使者を同行した際に説明を受けた中にあったと見られ、そう考えた場合「瀚海」は「邪馬壹国」という内陸にあった王権に属する人達の命名であり、九州島から見た視点で述べられていると思います。これを「対馬」に住む人達から聞いたとするなら彼らの感覚では「壱岐」との間も「半島」との間もさほど広さに変わりはないわけであり、特に「壱岐」との間だけに「翰海」という命名をする必然性に欠けるといえるでしょう。つまり「壱岐」を含んだ「九州島」側から見た視点での命名と思えるわけです。たとえば「壱岐」に「一大率」の本拠があったとすると、明らかに「広い」のは「対馬」の方向ですから、彼らが命名したとして不自然ではありませんが、より自然なのは「九州島」の内部にある地域の人達による命名というケースです。彼らにとって「壱岐」から向こう側に広がる海は「広い海」といえるのではないでしょうか。そもそも現代と船の構造や性能が全く異なりますから、私たちが現代の感覚で「海峡」が「広いはずはない」あるいは当時の人がこの海峡を「広いと感じていたはずがない」と考えるのは「単なる思い込み」ではないかと思います。

 そもそも「瀚海」ではなく「翰海」と理解すべきならそう表記するはずではないでしょうか。「卑弥呼」の場合は「表音」として使用されていますから、「卑」でも「俾」でも良いと言うこと思われ、基本的には「人偏」を取って意味が変わっても問題があるわけではなかったと言うことでしょう。また「渡る」と「度」では既にこの時代で「度」で「渡」として通用していたと言う事情があったものです。もし「瀚海」を「翰海」として理解しようとするなら「翰」という文字が「瀚」として通用していたと言うことを示す必要があると思われます。「瀚」と「翰」は全く意味が異なるものであり、「瀚海」が「表音」ではなく「表意」であったと見るなら、「さんずい偏」を取って理解しようとするのは無理だと思われます。
 但し「瀚海」の「瀚」は「呉音」が「ガン」のようですから、当時の「魏晋音」が「呉音」に近いとみれば後代の「玄海」の「玄」と近い発音となります。これを偶然ではないと考えるならば(呼称の対象となる海域は「玄海」の方が広いようですが)、そのまま現代に継承されているという可能性が考えられ、その場合「翰海」はそもそも「表音」であったかもしれません。しかしそうであっても「ガン」あるいは「ゲン」という発音を聞いて「瀚」の字を充てたのは「魏」側となりますから、その字面の撰定には意味があったこととなると思われ、やはりこの当時「瀚」と「翰」が通用していたということが証明されない限り「広い」という意味で「魏」側が使用したと理解せざるを得なくなります。
 またそう考えた場合「翰海」はあくまでも「倭人」からの聴き取りの結果であることとなりますから、「倭王権」がこの海峡にだけ「名称」をつけていたという推測はますます可能性が高くなることにもなります。

 ちなみに「其北岸」については( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/441b6def7288dce95aaae8595198f4f7 )で論じましたが、「North」なのか「Northern」なのか前後関係で判断するよりないと考えますが、「狗邪韓国」はその語尾に「韓国」という表記がされていることや、「官名」「風土の紹介」等の詳細情報が書かれていないことからも「倭王権」の統治下にはないと判断したものであり、その場合「北」は「Northern」つまり「北方の」という意味として理解すべき事となります。つまりここまで来ると対岸に「倭地」つまり「対馬」が見えるというわけです。そう考えた場合「朝鮮水道」に「倭王権」側から「海域名」(海流名としても)命名がなかったとしても納得できることとなるのではないでしょうか。

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「瀚海」について

2019年01月20日 | 古代史

 山田氏のブログで『倭人伝』の中に出てくる「瀚海」について書かれています。そこでは「半島」と「対馬」の間ではなく「対馬」と「壱岐」の間に「瀚海」という名称が書かれている事について述べられています。( http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/01/post-6cf2.html )
 そこで述べられていることについて肥沼氏から「古田氏」の解釈にもとづく意見があり、それに対して山田氏が反論をしています。
 私見では山田氏の考え方が正しいと思われ、基本的に同意します。「瀚海」は確かに指摘されているように「対海国」(対馬)と「一大国」(壱岐)の間の海峡の名称と考えるのが相当でしょう。またこの「名称」(漢語)は「倭人側」の命名とみるのもまた正しいと思います。またそれらを含めて古田氏の言説をそのまま受けとらず理性的に判断しようとする姿勢にも賛意を表します。

 このように私が山田様のご意見に賛意を表するのは、ここだけに特に名称がついている理由として「対馬」までが「邪馬壹国」率いる「倭王権」の範囲であろうという当方の考えに一致していたからです。「対馬」以降に官名等詳細が記されるようになることからそう考えたものであり、もし「半島」にも「倭王権」の統治が及んでいるのなら「半島」と「対馬」間の「朝鮮水道」にも名前がついていて当然と思うからです。「対馬」に至って初めて「倭王権」の統治範囲に入ったと考えれば、その向こう側の海域には「倭王権」による命名がないのは当然といえます。そして「対馬」から「壱岐」までの間の海峡に名称がついているのは、そこが「倭王権」の領域内で通行・移動するための航海として「陸地」と「陸地」の間が最も距離があった海域だからと思います。
 当時は「沿岸航法」が一般的であったと思いますが、「半島」へ行くためには「一海を渡る」必要があったものであり、その中で特に「広い海峡」であるということから「広い」という意を含んだ「瀚海」と命名されたと考える余地もありそうに思えます。(この点は山田氏とは異なりますが、…)
 『倭人伝』ではこの二つの「一海」は共に「千余里」とされていますが(朝鮮水道も含めると三つの海峡が全て「千余里」となっている)、実際には九州と壱岐の間の距離に比べかなり壱岐と対馬の間の方が広いように思われ、実距離とはやや異なるようです。(これらの「千余里」は「魏」の使者の判断と思います。)

 いずれにせよ山田様の視点の多彩さに敬意を表するものです。

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「銅鐸」「銅剣」の廃絶と「出雲王権」

2019年01月13日 | 古代史

 以前「高地性集落」について書いた中で「銅鐸」について触れました。( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/989208bbf7e02bc3fb583caf49a681f8 )その後「筑紫」に先行する「出雲」という視点を基礎として新たに考察したところ、「銅鐸」と「銅剣」の「廃絶」と「埋納」について「弥生中期」と分類されるものは「筑紫」の勢力による「権力」の委譲・交替を示すものという知見を得ましたので、ここで改めて考察してみます。

 「銅鐸」はそのほぼ全てが「宅地造成」など土地開発中に出土するものとして知られています。遺跡発掘中に出土した例がほとんどありません。また「古墳」などからの「副葬」例が皆無です。またその出土分布の中心は「古墳」の分布中心とは異なっています。これらのことは「古墳」時代の権力者とは異なる地域の権力者による祭祀であったことを示しています。
 また、「銅鐸」はその形状から「音を出すもの」であり、またそれによる「祭祀」を行っていたことを推定させるものでもあります。(実際に吊り下げられた「舌状部」の当たる「内側」の特定の部分が変摩耗している例が確認されており、長期間にわたり「音を出していた」事が推察できます)
 また後に「寺社」となった場所やその近辺からの出土例が多いことも特徴であり、そのような場所が「祭祀」が継続的、連続的に行われてきていたことを示すものであって、その「祭祀」の変遷を反映しているようでもあります。(実際に「銅鐸」を「梵鐘」に鋳つぶしたという例もかなりの数あるようです)

 当時「銅鐸」は「神聖」なものであり「祭祀」の中心的位置にいたものと思われます。 古代においては「死」や「死者」は「穢れ」ているとされ、「忌避」すべきものと考えられていたものです。「寺院」も当初は同様に「寺地」の領域の「穢れ」を嫌っており「墓」は別に作るものとしていましたが、その後江戸時代になると「葬式仏教」となり、その敷地内に「墓」が作られるようになります。しかし「神社」は今でも「死者」を遠ざけています。これは「祭祀」の場所は神聖なものであるという観念が遺存しているためであり、「銅鐸」も当時「神聖」なものとして扱われていたものと考えられます。
 この「銅鐸」が「土中」に「埋められている」状態で発見されているということについては、それが「廃棄」なのか「埋納」も含め「通常祭祀」の一部なのかということが問題とされているわけですが、それが必ず「埋められた」状態で発見されているということや、発見された「銅鐸」に「新古」混じっているものが多数あること、「入れ子」として重ねられているものもあること、さらに山陰あるいは谷の奥など容易に人が近づけない場所に埋められている例が多い事などを考えると、これらの例は「通常祭祀」の範囲を超えていることは明らかと思われ、その多くが「廃棄」されたものと考えるべきでしょう。
 また、「銅鐸」が「祭壇」にあったことを彷彿とさせるような遺跡は全く発見されていないことからは、これら「銅鐸」が「祭祀」の中心的位置から除去され、他の「祭器」に取って代わられてしまい、「祭祀」の内容が大幅にしかも広範囲かつほぼ同時に「切り替わった」事を示すものですが、それは強制力を伴ったものと思われ、いわば「切り替えさせられた」ものと思われるわけです。それを証するように「破砕」されたものも散見されます。これはその「銅鐸」の「神聖性」を毀損して、それが持つ「呪術的能力」を無力化するためであったと思われます。
 このように強力な「強制力」が存在していたとすると、この「銅鐸」が文字通り「青銅製品」であることを考えた場合、その「強制力」は「青銅器」以上の「霊力」を持ったものであることが示唆されるものであり、「鉄製」の製品がその主体であったことが推察されます。
 「出雲」で「銅鐸」が大量に出土した「加茂岩倉」遺跡では、至近の「荒神谷遺跡」に「358本」という大量の「銅剣」が同じように埋められていたことが明らかとなっていますが、これも「廃棄」であり、一種の「武装解除」が行われた徴証ではなかったかと推測されます。
 これらの「遺跡」は「弥生時代中期後半」という時代推定が行われており、この時点付近ではこの「出雲」地域だけではなく中国四国地方から瀬戸内にかけてという広い地域で同様に銅鐸と武器形青銅器が一括で埋められるようになります。つまり「武装解除」はかなり広範囲にほぼ同時期に行われたこととなりますが、それは(後でも触れますが)「大地震」とそれにともなう「津波」という天変地異がそれらの地域を襲ったことから、「出雲」という権力中心の権威を強く毀損することとなったことがその要因として考えられるものです。
 ちなみにこの「358本」という銅剣はある程度の本数ずつ括られていたと見られ、「武器庫」に収納されていた状態のまま「廃棄」させられているように見えます。つまり実際の戦いにならないうちに「全面降伏」したものであり、それは「国譲り」と称される「神話」の世界を彷彿とさせるものです。つまりこれらの「廃棄」と「埋納」は「中心権力」の移動・交代の表れであると思われ、最も考えられるのは「出雲」勢力から「筑紫」勢力への交代あるいは奪取ではなかったでしょうか。
 
 「国譲り神話」で示されているように「出雲」勢力はどこかの時点で「筑紫」勢力へと権力を奪取されたものであり、その際にそれを象徴的に表す行為が行われたものと見られ、それが「銅鐸」(及び「銅剣」)の毀損と廃棄ではなかったかと思われるものです。
 そもそも「銅鐸」の変遷を見るとその初期から中期付近まではその形式の発信源は明らかに「出雲」にあったと見られ、それを採用する領域が「中国地方」から「近畿」「四国」などに広がっていたものであり、それが「鉄器」の伝搬と共に「筑紫」の勢力と入れ替わる形で終わりを迎えたものではなかったかと思われます。この入れ替わりのタイミングは他方「弥生中期」に発生する「高地性集落」との関係も考えられます。
 この「高地性集落」は「弥生後期」の始まりという時代区分の契機となったものと同様「大規模地震」と「大津波」からの避難を目的として作られることとなったものと思われます。この「弥生中期」の場合は「海溝型地震」ではなく「中央構造線」に関わるのものではなかったかと考えられ、特に「瀬戸内」周辺地域に多大な被害を出したものと思われるわけですが、これにより「祭祀」者としての「出雲王権」の「権威」低下が起き、それを衝いた形で「筑紫」の勢力が「鉄器」を背景して権力の委譲を迫ったと見ています。

 上に見たように「弥生後期」以来「銅鐸」出土の中心は「畿内」及び「東海」にあったわけであり、また「弥生終末期」から「古墳初期」になって「消滅」(廃棄)した(させられた)ものです。しかし「卑弥呼」の時代が「三世紀」であってさらにいうと「弥生終末期」であり、またその中心領域が「九州」を中心とした西日本であることを考えると、「銅鐸」は明らかに「卑弥呼」の統治範囲にはないわけですから、『魏志倭人伝』に「卑弥呼」に服さずとされた「狗奴国」の領域で使用されたものであり、彼等の「祭祀」に用いる「神聖」な用具であったと考えられることとなるでしょう。
 『魏志倭人伝』の記事の分析から「卑弥呼」が「女王」として率いる統治領域の範囲はほぼ「明石海峡付近」までではないかと考えられ、それより「東」の地域に「狗奴国」があったのではないかと見られることとなります。この推定される「狗奴国」の支配領域と「後期銅鐸」の分布範囲は重なっており、「狗奴国」の祭祀に「銅鐸」が使用されたのではないかと考えられることとなるでしょう。当然この「銅鐸」は「筑紫王権」ともそれ以前の「出雲王権」とも関係が薄いものと思われ、「近畿」から「東海」にかけて紀元前後に発生した新勢力ではなかったかと思われます。
 彼らは「大地震」と「大津波」発生以降勢力を伸ばしたものであり、「見せる銅鐸」として知られている大型の銅鐸を「神聖な祭器」とする集団であったと思われ、「卑弥呼」率いる「筑紫王権」とは異なる「祭祀」を行っていたものと見られるものです。

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