古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

国分寺の「西偏」と札幌の街並み

2015年10月20日 | 古代史

 「古田史学の会」のサイト(古賀代表のブログ  http://furutasigakukai.gates.jp/koganikki/?p=1567他)や「肥沼氏」のブログ( http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2015/10/12-4136.html など)で「国分寺」についての話題が出ています。そこでは多くの国分寺の基準線が「西方」にわずか「偏位」しているということが出ており、それが「磁針」(コンパス)を使用した形跡ではないかと論じられていました。
 この議論を見ていてそう言えばと気が付いたのが(「古代史」とは関係なさそうですが)、私の住んでいる札幌の町並みです。
札幌は街区が碁盤の目のように仕切られていることで知られていますが、山鼻地区においてその碁盤の目がズレています。

 北海道の開拓は札幌に開拓使を(札幌本府)を建設した時点から本格化しました。その「札幌本府」の建設の基準となったものは「大友掘」という用水路でした。この水路は「大友亀太郎」という人物が開削したもので、これを基準として札幌の町が形成されました。
 札幌中心部は条丁目で表され、その南北(条)の基準は「大通公園」、東西(丁目)の基準は「創成川」となっていますが、この「創成川」の前身が「大友掘」です。
 この「大友掘」は東西の基準つまり「南北」に中心部を貫いて流れるように作られたわけですが、この「南北」が「真北」つまり「正方位」ではないことが知られているのです。
 この用水路は現在の「南3条」から北に延びていたわけですが、この直線部分は実際には「西」に「9度」傾いています。つまり札幌の町並みは全体としてわずかに「西」に傾いているというわけです。これは「磁北」が基準となったのではないかと推量されます。(札幌市資料館ではこの点について不明としていますが)

 この「大友亀太郎」は1844年生まれとされ、函館に赴任したのが23歳の時とされます。この若さで開拓使の仕事を命じられて北海道に来たわけですが、それは彼の師が「二宮金次郎」であったという点が重要と思われます。
 「二宮金次郎」は若い時からその能力を藩主に見込まれ、藩の財政と農地開墾と整理に多大な働きをしたとされ、周辺の藩からも呼ばれて農地開墾や改良にその腕を振るいました。その彼を師としたという「亀太郎」も当然同じように農地の開墾と改良等に意欲を持っていたと思われるわけですが、また実務の能力も「金次郎」から得たものと思われます。それを見込まれて北海道の開拓に携わったというわけですが、当初「木古内」「大野」という現在の函館近郊の地域で開拓に従事していました。その後「札幌本府」の建設に従事することとなったものですが、彼は低湿地帯であった当時の札幌の土地改良と物流の便を図るため「用水路」を建設することとなったものです。
 この「用水路」が「大友掘」と名付けられたものですが、それが「西」に傾いている理由は彼の測量の方法にあったものと推量されます。
 彼の師の「金次郎」は測量術を心得ていましたが、基本的には独学であり、それを弟子である「亀太郎」に伝授したとみられるわけです。その内容に関しては「金次郎」が使用した測量用器具の購入記録から判断できるものであり、そこでは「小方儀」がみられることが注目されます。(「二宮金次郎記念館」にある記録に書かれているようですが、実見はしていません)この「小方儀」は「羅針盤」つまり「磁針」を利用した方向指示器であり、その「北」は「磁北」でした。
 そもそも当時この「羅針盤」を使用した測量は広く行われていたものであり、簡易に基準線が得られるということから一般的に測量はこの「羅針盤」(小方儀)に拠っていたものです。「伊能忠敬」の全国測量にもこの「小方儀」が使用されたとされます。(「深川」の「富岡八幡宮」や「香取市」の「佐原公園」の銅像も手に「小方儀」を持っています)
 当然「金次郎」の弟子であった「亀太郎」も「大友堀」を作る際の測量ではやはり「小方儀」を使用したとみられ、それであれば「西」に「9度」というずれ方には合理的理由があることとなります。
 現在の札幌における「偏角」は西に9度20分ほどであり、これは一見近い値ですが、地磁気に関する研究( http://www.iugonet.org/meetings/2013-08-19_20/T_Hatakeyama.pdf )によればデータとしては江戸や大坂などの地域の彼の時代には「偏角」として3~4度ではなかったかとみられており、また国土地理院のデータ( http://vldb.gsi.go.jp/sokuchi/geomag/menu_03/magnetic_chart.html にあるもの)によると札幌はそれより2度強「西偏」が強い傾向があるということを考えると(これはシベリアの地下に地磁気異常があるためと思われる)、当時の札幌は6度強程度の西偏ではなかったかとみられます。これは西に9度というずれ方とやや差異があるものの、「測定誤差」の範囲とも思われます。
 また「伊能忠敬」の時代には「偏角」がほぼ0度であったことが知られ、「小方儀」を使用してもほぼ真北を得ることが容易であったものです。そのこととこの時代以降測量の際に「小方儀」が一般的になったこととは関係があるとも思われ、その「常識」が「金次郎」「亀太郎」と継承され「磁針」で用が足りると思っていた可能性があるでしょう。

 この「大友掘」を基準線として大通公園をはじめとして札幌本府の街区が形成され、今に至る札幌の中心部の町並みが作り上げられたわけですが、上に述べたように「山鼻」地区において条丁目に食い違いというか「ズレ」があります。
 「山鼻地区」はその基準が「石山通」となっており、これは「西11丁目」通りに相当します。この「山鼻地区」は屯田兵が入植した地域ですが、その入植の前年(1876年)に、幹線道と兵村中央道路をかねた道路を(直線として)引いており、この道路がこの「石山通」(現在の国道230号線)です。
 この「石山通」は元の名を「本願寺道路」といいました。この「道路」は明治新政府が初めて作った「函館」から「札幌」につながる街道であり、その工事主体は「東本願寺」によるものだったのです。
 「東本願寺」はその信仰の主たる地域が「徳川家」に重なり、中部地域に多くの信者がいました。また「明治維新」まで「幕府」とほぼ一体として行動していた関係で、明治維新後は政治的に非常に厳しい立場におかれました。
 宮中の会議では「東本願」の焼き討ちまで議題に上ったとされます。これを回避する意味で「誓文」を提出し、どのような仕事もしますと誓わされました。これを盾に取り、新政府は「札幌」への街道整備を「東本願寺」にやらせたというわけです。
 当時18歳であった「門主」の「大谷光瑩」ともども「東本願寺」の一門の僧や門徒は一団となって北海道へ向かったわけです。
 彼らは道すがら当地のアイヌを動員してこの道路の開削を行ったことが知られていますが、中山峠を越え石狩平野に入ってきて、札幌の町中に入る地点から「北」へ向けて直線部分が作られました。この直線の部分がほぼ「正方位」つまり「極北」(北側の地軸)の方向を「北」として作られているのです。ただし、実際には西に3度ほど傾いており、これを磁北を基準としたからとする説もあるようですが、この当時(1876年付近)の札幌における「偏角」は西に7度程度であったと思われますから、そう考えると誤差が大きいと思われ、これは下記に示す南北を設定する方法によったものであり、その計測誤差のためにわずかに西偏しているという可能性が高いと思われます。
 この時の「測量」を実施したのは「三河」の出身の「大浜和助」であったという記録がありますが、彼の測量術が何によったかは不明です。しかし「羅針盤」つまり「小方儀」とは違う方法で南北の基準線を設定しているものと思われるわけです。
 考えられるのは日周運動から正方位を知る方法であり、鉛直に立てた棒(「ノーモン」と称する)の日影の先端部分をプロットして最も短くなるポイントの方向を「南北」方向とするものです。あるいは、作家の渡辺淳一氏の「リラ冷えの街」という小説の中で、屯田兵村は北極星にあわせて開削した、とされているように、「磁針」によらず「棒」を立てたか、「糸」を垂らすなどして、少し離れた場所から星がさえぎられて消える場所を探して「棒」や「糸」からその場所までを基準線としたという可能性もあります。(ただし、裏付ける資料はないとされます)
 ここで基準線を得るためのツールとして「磁針」ではなく「ノーモン」が使用され、それによって南北方向が設定されているとみられるのは、「簡易」な方法ではいけないとする理由が(おもに「本願寺」側に)あったからと思われます。それは、この道路を造る作業が「明治天皇」のいわば「勅」による工事であり、精度として一級のものが要求されたことが挙げられるでしょう。
 この時、東本願寺の門主は明治天皇に謁見した後北海道へ向けて出発しており、この「道路」建設事業はほぼ「勅命」であったとみられることとなります。(「勅書」「開拓御用本願寺東新門主」と書かれた表札を掲げて行進したとされます)
 民間では「磁針」による簡易測量が行われていましたが、この部分についてはそのようなレベルではなく第一級の測量によるべしという特に「東本願寺」側に強い意識があったとみられ、成果をよりハイレベルなものとすることにより「東本願寺」に対する批判や圧力をかわすとともに技術力に対する優越性をアピールすることで生き残りをかけようとしていたために正確な基準線の設定が行われたとみられるわけです。
 以上のような事情のため札幌の町並みは二つの基準線が別々に設定された結果その接合部分において「食い違い」が出ることとなったわけです。
 
 このような測量法の差異は江戸時代に急に現れたものとは思われず、「簡易」な方法としての「磁針」によるものはかなり古代からおこなわれていたものではないかと推量されます。それに対し「正方位」を基準線とする方法はその設定に少なくとも一日や一晩はかかるわけですから、よほど重要で正確さを要求されるような建物や道路などの建設以外には使用されなかったと思われます。古代においてそのような重要で高度な正確性が要求されるものは「天皇」に関わるものしかないと思われ、しかもその「天皇」の権威が非常に高かった時期に限定されると考えれば(この本願寺道路もその意味で同様です)「律令時代」と「明治以降」に限定できるのではないでしょうか。その意味で「古代官道」の方位と「国分寺」の「塔跡」の方向がほぼ正方位であるのも、それがともに強力な王権の下に造られたものだからであり、高い精度を要求される性質のものであったことを意味するものと思われます。また逆に「国分寺」の基準線が「磁針」を利用したものとみられることは、それを命じた「聖武天皇」個人やその時代の「天皇」の権威の低下と関係している可能性が高く、そのため各地において簡易な方法で国分寺が建設されることとなったものではないでしょうか。

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古田武彦氏の訃報に接して

2015年10月16日 | 古代史
古田武彦氏がお亡くなりになられました。謹んで哀悼の意を表します。
「古田史学の会」の古賀代表からメールをいただきました。ついに…という思いです。

このブログはその表題でもわかる通り古田武彦氏の研究に共鳴し、古田武彦氏の提唱した多元史観に立脚して自分の知るところ、思うところを縷々記してきています。(そのつもりです)また私自身「古田史学の会」の現役の会員でもあります。

私のように一介の市井の人間が古代史などという領域に足を踏み込むこととなったのもすべて古田氏の影響によるものであり、その意味で研究上の師でもあり、また人生の師でもあったといえます。
今そのような人物の死の報に接して感慨深いものがあります。

思えば今から40年ほど前、まだ学生の頃に古田氏の著書『「邪馬台国」はなかった』に出会い、感動というよりその論理に「合点」がいったことを覚えています。その後仕事が忙しく御本を読む機会も減っていましたが、その後20年ほど経ってから改めて氏の著書を多数買い揃え熱心に読みふける日が続きました。
 読み進むうちにほかの学者、研究者の見解や研究の過程を知りたくなり、おりしもデジタル時代、インターネット時代に入り、多くの論文等がデジタルで閲覧可能となったため、これを利用して既存の研究者の見解やそれに至る論証の過程を知ることができるようになりました。そうすると、それら既存研究の中に古田氏の考え方の補強となるべきものが多数あることに気が付いたのです。それらは先入観や固定された研究姿勢に拘束され、既存の説の補強に使われていたものですが、それらを取り払ってみると実際には古田氏の考え方のほうをより正確に事実を説明できる性質のものであると考えられるものでした。

 また古田氏は精力的に多方面に研究の材を取り、熱心に私たちにいろいろな学説を提示しつづけていましたが、一個人のパフォーマンスにはやはりおのずと限界があり、束となって研究を行っている既存説があたかも有力な説であるかのような印象を与えることとなっていました。それを見て自分にも古田氏と多元史観へのアシストとして何かできないかと思いがつのり(かなり大胆ですが)、ついに自分でも書き始めたというわけです。そのスタンスとしては古田氏が触れていないこと、古田氏の網から漏れているものを拾い上げるという精神ではじめたものです。
 その方法としては「インターネット」を利用することであり、当初「ホームページ」を立ち上げ、多くのことを書き連ねていましたが、中に自分ながらかなり重要と思われる発見(というよりせいぜい思い付きに近いものですが)があり、この発表の機会を得るために「古田史学の会」の会員となり、論文として投稿するようになったものです。
 インターネットに載せるという意味と論文にして発表するという意味はやってみると全く違うものであり、論理進行やその根拠物(論文など)の提示などを精緻に行う必要があることが、研究を加速させるとともに精度を上げる重要なステップとなりました。
 残念ながらそれらは古田氏の目に留まるものではなかったとみられ、生前に何らかのコメントを頂けることはなりませんでした。
 最新のものとして書いたものには従来の古田氏の説とはやや異なる記述も含まれており、それは「師の説にななずみそ」という「本居宣長」の言葉を座右の銘としていたという古田氏の批判を是非いただきたいと思っていたものですが、はなはだ遺憾ながらそれもかなわぬこととなりました。
 
 思えば当方が迷路に入り行く先に迷った時にふと視線を上げると遠くに古田氏が灯台のように光り輝いているのが目に入り、安心感とともにどちらに行くべきかの判断材料を与えていただいていたものです。
 古田氏は亡くなられましたが、これからもきっとその存在は消えることなく、私たちの行く先を照らし続けることでしょう。
 真の古代史を白日の下にさらけ出し、多くの人の目に明らかなものとするために微力ではありますが、これからも自分のできることを続けていきたいと思います。
 改めて古田氏のご冥福をお祈りいたします。
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