古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「朱鳥」改元と「日本」国号使用開始

2016年06月20日 | 古代史

 「朱鳥」改元と「日本国」へ国号変更という事象について続けて考察します。
『新唐書』には以下のような記述があります。

「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦夷人偕朝。蝦夷亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中。天智死,子天武立。死,子總持立。咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以為名。或云日本乃小國,為倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄夸其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。長安元年,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。…」

 この『新唐書』のこの部分は(というより「編年体」で書かれた史書は基本そうですが)、「歴代」の倭国王を列挙しながら、随時その時点(治世)に関連すると思われる「情報」を適宜挿入する形で記事が構成されています。そのようなことを踏まえると上の記事から以下のことが推察されます。
 「天智」「天武」「總持」と続いたところで「咸亨元年」記事が挿入されています。この「咸亨元年」は「六七〇年」を意味しますから、これが「時系列」に基づいているとすると「六六〇年代」という時点で既に「總持」(これは「持統」か)まで、「代」が進行していることとなります。
 また、その「挿入記事」である「咸亨元年」の「賀使」の文章につづけて「後」という表現がされており、このような書き方はそれ以前に書かれた「年号」や「干支」などからその記事の年次を「切り離す」ための文言と考えられ、それがいつかは明確ではないものの、「長安元年」(七〇〇年)記事の前に挿入されていますから、「粟田真人」の遣唐使以前に別の遣唐使が派遣されているらしいと推定できます。そして、その時点で「倭国」から「日本国」への国名変更を説明していること。つまり「国名変更」は「文武」の時代の「粟田真人」の遣唐使以前のこととなると思われ、「總持(持統)」段階であるらしいことが理解できます。(遣唐使そのものが三十年の長きにわたり送られていなかったもの)
 また、この『新唐書』に対する理解は『旧唐書』からも裏付けられます。『旧唐書』においても「国名変更」についての情報は「貞観二十二年」記事と「長安三年」記事」の間に書かれています。
 いずれにおいても「長安年間」記事以前に「国号変更」が書かれているわけであり、これは『新唐書』も『旧唐書』と同様に「長安三年」以前の情報がそこに書かれていると理解するべきことを示します。つまり「(粟田)朝臣真人」の遣使以前に「国号変更」が行われていたことを推定させるものであり、「日本国」への国号変更というものはが、一般に考えられているような「八世紀」に入ってからのものという理解が、実態とはかなり乖離することが疑われます。

 『歴代建元考』の記述は上に述べた『旧唐書』の内容分析と合致しており、国号変更に関する推察を補強するものです。また、この記事では「国号変更」の時期としては「朱鳥改元」から幾ばくもない年次であることが推定できます。(「持統」へ倭国王権の主宰者地としての地位が移った時点か)
 そもそも「国号変更」という事象は軽々ななものではなく、「王朝交代」などの事象を伴わないと考えるのは困難です。そうであれば『歴代建元考』が言うように「朱鳥」と改元された直後に「国号」変更があったわけですから、この時点で「禅譲」により新王朝が成立したとみて不思議ではないこととなります。それは「倭」から「日本」への変更と「朱鳥」が「あかみとり」という「訓読み」であることとはつながっていると考えられるからです。
 「新唐書」や「旧唐書」には「倭」から「日本」への変更は「倭」とう「名」が「雅」ではないと理解したからとありますが、「倭」というものが「倭国」が自ら名乗ったものではないと言うことが根底にあることをこの時点で意識したのではないでしょうか。
 この「倭」というのは「古」から続く由緒あるものではあるものの、自称ではなく「中国」側から見てつけられた名前であると思われ、そのことを意識したものと思われるわけです、そうであればこの時「国号」として採用された「日本」は「自称」と考えられる訳ですから、その発音は「音」つまり中国流の発音ではなく「朱鳥」と同様「訓」つまり「日本流」の発音で呼んだという可能性が高いでしょう。つまり「ひのもと」と自称したものではないかと推察されるわけです。そうであれば『書紀』の「飛鳥浄御原宮」の命名のエピソード記事の文章は本来以下のようなものではなかったでしょうか。つまり「戊午。改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名宮曰飛鳥淨御原宮。」とある文章は実際には「戊午。改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名国曰日本。日本。此云比能母騰」のような記述が本来ではなかったかと推察されることとなるわけです。(『書紀』内の童謡に使用されている万葉仮名からの類推)
 ここに使用されている「仍」は『書紀』の中では『歴代建元考』の中の用例とは異なり、ほぼ「よって」あるいは「だから」のような「理由」としての使用例しか確認できず、ここでも同様と思われます。
 「日本」と「朱鳥」の間に「皇祖」と「皇孫」の関係が対応しているとすればこのような命名理由も納得できるものです。

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「日本」国号変更と「朱鳥」改元

2016年06月18日 | 古代史

 すでに「シリウス」と「朱鳥」の近似について述べたわけですが、その「朱鳥」への改元については中国の「清」の時代「鐘淵映」という人物が撰んだ書物に『歴代建元考』というものがあり(これはこの時点で知られていた国内外の「元号」について書き表したもの)、その中の「外国編」の「日本」のところに以下のように記載されています。

「…天智天皇 舒明太子母皇極天皇 在位十年仍用白鳳紀年/天武天皇 舒明第二子名大海人天欲禅位避吉野山 大友皇子謀簒将兵討之遂立 在位十五年仍用白鳳紀年後改元二朱雀/朱鳥/持統天皇 吾妻鏡作總持 天智第二女天武納為后 因主國事始 更號日本仍用朱鳥紀年 在位十年後改元一 太和…」『歴代建元考』

 これらの記事を見ると「仍」とは「継続して」という意味に使用されているようであり、「持統」の時点で「朱鳥」という年号を「天武」から続けて使用していたが、後に「太和」と改元したと読めます。そして、彼らの「知りうる範囲の知識」では「日本」と国号を変更したのはその「持統天皇」であり、それは「朱鳥」時点であるように読めます。
 またこの記事では「持統」については他の天皇のように「立」という表現を用いておらず、「即位」という観念とは異なる実情であったことを示唆します。ここで使用されている「因主」という表現は微妙ですが、前天皇の「后」であったがゆえに「主」となったということではないかと思われ、そのため彼女が「主」となって「国事」を始めたとも読めます。

 ところで、この「朱鳥」への改元は彼の「後継者」が「皇孫」であることを踏まえたものとみることができるのではないでしょうか。つまり『書紀』でも「天武」の後継者については「幼少」であるという旨の発言がありました。

「今朕無與計事者。唯有幼少孺子耳。奈之何。」(天武即位前紀)

 つまり、「天武」(大海人)は自分には「幼少」「孺子」の子供しかいないと言っているわけです。
 ここで使用されている「孺子」は「前漢」の末期に「王莽」が「二才」の「孺子」である「嬰」を立てたという『漢書』の記載などの使用例や、我が国の使用例からも「三歳以下」の幼児をいうと考えられます。
 また、「養老令」では「十六歳以上」は「正丁」とされ、「十六未満」を「少年」「少女」というとされています。
このことから「幼少」とは「三歳から十六歳」までの子をいうと考えられます。また、それは「推古天皇」の以下の記事からも推測できるものです。

「豊御食炊屋姫天皇。天國排開廣庭天皇中女也。橘豊日天皇同母妹也。幼曰額田部皇女。姿色端麗。進止軌制。年十八歳立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后」(『推古紀』の冒頭記事)

 つまり、「幼」いときは「額田部皇女」といったが、「十八歳」になったとき「皇后」となったというのです。つまり「十八歳」は「幼少」ではないことを意味しますし、「幼少」ではなくなったために「結婚」する事が可能となったものでしょう。
 この事から「幼少」という場合は「養老令」にいう「十六歳」という年齢がやはりその境界線と考えられるものです。
 つまり、ここで「天武」は「自分には十六歳以下の子供しかいない」と言っていることとなりますが、この当時「高市皇子」という人物は「十九歳」であったと考えられ、ここには「矛盾」があるようです。(他の例で「十九歳」を「幼少」とした例が見いだせません)この「天武」の言葉に嘘がなければ、この「高市皇子」という人物は「天武」の子供の中には入っていなかったこととなります。
 また、ここでその「高市皇子」という人物が「天武」の言葉に応えて、以下のように言うわけです。

「…近江群臣雖多、何敢逆天皇霊哉、天皇雖独、即臣高市、頼神祇之霊、請天皇之命、引率諸将而征討、有距乎…」(天武即位前紀)

 この言葉を聞いた「天武」は大いに喜び、「軍事」に関する権限(後の「軍防令」に定められている「軍監」という立場と思われる)を彼に与えたわけですが、彼が「十六歳以下」であればそのような事が可能であったとは思われません。
 つまり、この時の「高市皇子」という人物は「天武」の子供ではないか、あるいは子供であっても「十六歳以下」ではないと考えられるものです。それを示すように「朱鳥」改元直後に「天武」が死去した際には、皇后である「持統」が「称制」により「即位」していますが、この場合の「称制」は、「本来」の意義通りのことであったと思料され、「天武」の子供がいないかあるいは「未成年」であったたために、「皇太后」(持統)が「代理」により即位し、「成年」に達するまでの期間を「つなぎ」として「即位」した事を示すと考えられます。(「持統」という「漢風諡号」自体が「つなぎ」という意味なのです)

 また『続日本紀』においては「文武」は「持統」の「孫」とされていますから、その意味でも確かに「皇孫」といい得るわけです。これらを踏まえて「朱鳥」と改元したとすると、その意義は「神話」の現実化を意識したものであった可能性が高いものと思われることとなります。つまり「朱鳥」が「シリウス」を意味するとした場合、それは即座に「瓊瓊杵尊」を意味するものと考えられるというわけですから、「天孫降臨」、つまりいわゆる「天下り」がこのとき行われたことを示すと思われるわけであり、「天照」と「瓊瓊杵尊」はそのまま「持統」と「文武」に置き換えられるということとなって、それは「神話」の成立事情と現実が見事にミックスしていることを意味するものであるわけです。

 このときの「日本」という国号変更と「朱鳥」への改元とは結局「太陽」と「シリウス」の関係に相当するものであると同時に「皇祖母」と「皇孫」との関係でもあったと思われることとなります。つまり「朱鳥」と「日本」という国号はいわば「直結」していることとなるわけです。

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「シリウス」と「朱鳥」

2016年06月12日 | 古代史

 ここまで、「シリウス」について考察しており、紀元前八世紀付近で増光しさらに色を変えて「赤く」なったとみたわけですが、これらの考察がもし正しいならば、その「増光」という現象は地球上のどこでも確認できたはずであり(それが列島では「瓊瓊杵尊」の神話となったと見るわけですが)中国においても同様に「シリウス」が「赤く」、「昼間も見えた」という記事等の史料がなければなりませんが、それを示すのが「朱鳥」の持つイメージではないでしょうか。
 この「朱鳥」とは「四神」つまり「青龍」「玄武」「白虎」とならぶ「獣神」であり、「天帝」の周囲を固めるものでした。その起源は「殷代」にまで遡上するとされ、その時点の図像などを見ると元々「鷲」の類であったとされますが、(※)その後「鳳凰」やその意義を持った「雀」などの「鳥」とされるようになったものです。(以下「朱鳥」の例)

「臣某言:臣聞乘雲駕羽者,非以逸樂其身;觀風設教者,將以宏濟於物。故後予胥怨,幾望湯來,吾王不遊,?思禹會。伏惟天皇察帝道,敷皇極,一日二日,智周於萬幾;先天後天,化成於四序。雖鴻名已建,銘日觀而知尊,而膏澤未流,禦雲台而不懌。市朝之邑,天地所中,四方樞會,百物阜殷,爰降恩旨,行幸東都。然以星見蒼龍,『日纏朱鳥』,清風用事,庶彙且繁,桑翳葉而眠蠶,麥飛芒而?雉。…」(『全唐文/卷0217/ 代皇太子請停幸東都表』 崔融(唐)より)

「…東方木也,其星倉龍也。西方金也,其星白虎也。『南方火也,其星朱鳥也。』北方水也,其星玄武也。天有四星之精,降生四獸之體。…」(『論衡 物勢篇第十四』(王充)より)

「…南方,火也,其帝炎帝,其佐朱明,執衡而治夏。其神為熒惑,其獸朱鳥,其音徵,其日丙丁。…」(『淮南子/天文訓』より)

 またその性格として「南方」、「昼」、「夏」に強く関連し、色は「赤」とされます。
 以上のような例を見ると、「朱鳥」は天球上の明るく輝く赤い星からのイメージと思われ、そこから転じて「火」や「火炎」の意義が発生したものであり、「五行説」でも「火」であるとされています。
 また、「鳳凰」は「火の鳥」ともいわれ、火の中から再生するともいわれており、「不死鳥」のイメージも併せ持っています。
 天文学的には一般には「うみへび座」のアルファ星「コル・ヒドラ」がそのイメージの原初的背景にある星ではないかと思われているようです。理由としては「コル・ヒドラ」の南中時刻(真南に来る時刻)が日没直後になるのは旧暦でいうと「二月の始め」頃であり、ちょうど「春分」の頃となり、その意味で「春分」を代表する星ともいえるからです。また「赤色巨星」に分類される星であり、確かに「赤い星」といえるからです。
 これについては、すでに述べたように紀元前のかなり長い期間「シリウス」が赤く、しかも明るく輝いていたことが推測されることとなりました。しかも「ローマ」では太陽とシリウスが同時に出ているから夏は明るく暑いと称して赤犬をシリウスに捧げていたとされるほどであり、これは「シリウス」が「太陽」の近くに)ハッキリと見えていたことを示すものと思われるわけですが(「シリウス」は天の赤道から25度ほど離れているものの昼間も見えていたとすると同じ視野方向で双方とも見えるはずです)、それは中国の伝承でも「朱鳥」について「日」(太陽)に纒りつくともいわれていることから考えても首肯できるでしょう。「鳳凰」が太陽を抱きかかえている図像も多く見られるところであり、これはまさに「太陽」と「朱鳥」が接近していてしかも両方見えていたことの表現ではないかと思われるわけです。
 またこの「朱鳥」の起源は「殷周代」まで遡上するとされますから、時代的にも齟齬しません。後に別の星、「うみへび座」のアルファ星「コル・ヒドラ」(別名「アルファルド」)が「朱鳥」の星であるとされるようになるのは「シリウス」が今のように「白い星」となって以降のことではなかったでしょうか。つまり、その色が「朱鳥」の名に似つかわしくなくなった時点以降「コル・ヒドラ」が「朱鳥」とされるようになったものと推測します。
 確かに「コル・ヒドラ」は「赤色巨星」に分類される星であり、「赤い星」と言い得ますし、また「シリウス」と「コル・ヒドラ」は天球上でそれほど離れてはいないことも重要な点です。「おおいぬ座」の一部は「うみへび座」と境界を接しており、また「シリウス」と「コル・ヒドラ」は天球上の離角で40度ほど離れているものの、春の夜空を見上げると同じ視野の中に入ってきます。このことからいわば「シリウス」の代役を務めることとなったものではないでしょうか。しかし「コル・ヒドラ」がそれほど明るい星ではないことは致命的です。周囲に明るい星がないため目立つといえるかもしれませんが、「天帝」を守護するという重要な役割を担う「四神」の表象の一つとするにはかなり弱いといえるでしょう。(2等級です)これが「朱鳥」として積極的に支持される理由はほぼ感じられなく、「シリウス」の減光と「白色化」によって急きょ選ばれることとなったというような消極的選定理由が隠れているようにみえます。

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紀元前八世紀という時代(補足)

2016年06月11日 | 古代史

 すでに述べたように「弥生時代」という時代の画期として「シリウス」の「新星爆発」現象があったと見たわけですが、これについては「超新星」と混乱される向きもあるかもしれません。「超新星」は一つの銀河系で一世紀に数回あるかないかと言うぐらい頻度の少ない現象であり、なおかつそのとき放たれるエネルギーが桁違いに多いことで知られます。このような「超新星」となるパターンはいくつかあるようですが、その一つに主星としての「巨星」と伴星としての「白色矮星」という組み合わせがあります。この両星が「近接」している場合主星から「ラグランジュ点」を通じて伴星である「白色矮星」に大量の質量が移動し、それが高温となったとき(衝撃波などによって)「白色矮星」そのものの破壊にまで及ぶような大爆発となるとされますが、「シリウス」星系においてはそのようなことは起きえません。(シリウス伴星の質量がこの現象の発生限界を下回っているため)
 実際にはこの「主系列」と「白色矮星」という組わせについては極端な爆発現象などが起きにくいこともあり、それほど研究が進んでいないのが現状です。天体の世界で多く観測にかかるのはもっと頻度が多く短いタイムスケールで起きる現象であり、「近接連星」が起こす変光や新星爆発あるいは超新星爆発などがそのメカニズムも含めかなり研究の俎上に載せられていますが、シリウス星系のような場合見ている限りは安定しており、ほぼ異常な事態が起きないことから多くの研究が蓄積されているとは言い難い部分があります。

 「シリウス」は連星系を形成していますが、その公転周期は50年といわれています。この周期から考えられる双方の距離は「20天文単位」と計算されており、太陽系でいえば「天王星」軌道付近となります。(ただし、「離心率」が大きいため「8.1天文単位」から「31.5天文単位」まで変化するようであり、近点では「土星」軌道よりも近くなります。)この距離では「近接連星」とは言えません。(過去はともかく) 
 シリウス星系が現状のようになるには、以下のようなストーリーが考えられます。
 元々伴星である「白色矮星」は「巨星」であったものであり、本来こちらが「主星」であったと思われます。先に「進化」した結果、重力崩壊を起こし周囲に「外層部分」を吹き飛ばしてその終末を迎えたわけですが、その際そのうちの一部の質量は現在のシリウスに流入することとなったものと思われ、「質量増加」という結果になったものと思われます。(他の例では周囲にガス流として滞留しているケースもあるようです)そのようなことは「シリウス」に金属元素が多いという観測結果からも言えるとされます。基本的に「金属元素」や「重金属」元素は「重い星の内部」で作られるものであり、その金属元素は「赤色巨星」(これは重い星)からもたらされたものであると考えると理論的に整合するといえるわけです。
 ところで「巨星」が進化して「白色矮星」となると、単独の場合はそのまま静かに死を迎えるわけですが、「シリウス」のように「主系列」との連星である場合は少々違うストーリーになります。主星との距離によっては「主星」から(以前とは逆に)質量が「伴星」である「白色矮星」側にもたらされるからであり、そのガスの量によっては、白色矮星の周囲でガスが熱的反応を起こす場合があります。
 たいていの場合「衝撃波」や「摩擦熱」などによって「電波」(X線や紫外線など)を放出するわけですが(これは今でも「シリウス」や「αケンタウリ」などで観測されています)、このような状況が続くと「時折」燃料に火が付いて核融合反応が起きることがあります。これを「再帰新星」と呼びますが、シリウスもそうなのかもしれません。そのような事象が起きて増光していた期間がちょうど「紀元前八世紀」という時期であったという可能性が考えられるわけです。この期間はかなり長期間「昼間」でも見えていたのかもしれません。昼間でも見えるためには少なくともマイナス4等級以上はなければならないと思われ、再帰新星の場合の増光割合が普通8等級から10等級程度ということを想定すると、元の明るさは4-5等級程度あったとも考えられ、元々現在より明るかったということも考えられます。ただし普通の「再帰新星」と異なるのは「降り積もる質量」つまりシリウスからもたらされる質量があまり多くないため核融合反応が起きるまでかなりな時間がかかると見られることです。
 そもそも「シリウス」も「伴星」も現在は「ロッシュ限界」内にあるわけであり、「ラグランジュ点」(双方のロッシュ限界が接する場所)が形成されておらず、質量移動は一定かつ大量なものとはなり得ないこととなります。そうであれば「再帰」の間隔は大幅に長くなるものと思われ、降り積もる水素ガスにより形成される「降着円盤」が巨大化するのに一〇〇〇年単位で時間がかかるということも充分考えられるところです。(「シリウス」からアトランダムに放出される質量の一部がたまたま伴星に獲得される場合などが想定されます)
 しかしもし紀元前八世紀にそれが起きたとすると既に2800年程度は経過しているわけですから、「大地震」などと同様、油断は禁物です。もしそのようなことが起きれば「極域振動」が起き気候パターンが大きく変化することは必至ですから、私達の生活に大きな影響があるのは当然のこととなります。

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紀元前八世紀という時期(続の続2)

2016年06月08日 | 古代史

 ところで、既にシリウスの新星爆発により発生した宇宙線が地球に飛来し上層大気にエアロゾルを大量に生成するという影響を与えたと考えたわけですが、太陽フレアのように割と頻繁に起こる小爆発の場合、太陽から飛来する宇宙線の速度は光速のせいぜい20~30%程度ですが、新星爆発のような希少なイベントの場合光速に匹敵するほどの速度ものも飛来すると思われ、「シリウス」は太陽から近距離(8.7光年)であり、「シリウス」でそのような爆発が起きたとすると、気候変動に対する影響は増光とさほど変わらない時期から起き始めたと推定出来るでしょう。そう考えると、多くの人々はシリウスの増光と気候変動を関連して考えたとしても不思議ではなく、「ロビガリア」のような儀式が発生する一因となったものと考えられるわけです。
 そして、同様の影響としてこの時大量の「C14」を生成したとも考えられるわけですが、その場合大気中のC14の生成率は紀元前のある時期それまでと全く異なる値を示したと考えざるを得ないこととなります。それは「年輪年代」と比較較正した「国際較正曲線」をみると明らかとなるはずです。上の考え方によれば紀元前八世紀付近に年輪年代法による暦年代とAMS法による放射性炭素年代とでかなりの乖離が発生することが予想されます。
 もし大気中のC14の量が一定でかつ植物などがいつも一定の代謝を行うならば、年輪年代法と炭素年代法は1対1で対応し、その交点群は傾き一定の直線となるはずですが、実際には直線からずれが生じる年代があるのです。そして、まさに紀元前八世紀付近でかなり長期に亘って「傾き」が変化するのがみてとれます(急峻になる)。
 曲線を見てみると2800BPから2700BPまでの値が大幅にC14年代の方が新しいと出ています。つまりこの時期C14が大量に生成されたためそれを取り込んだ遺物も大量のC14を残していると考えられるわけです。
 通常はこのような宇宙線変動は遠方の超新星爆発に伴うものと考えたり、太陽活動の低下が(マウンダー極小期のように)相当長期間継続したとみるのが通常ですが、近傍にその飛来源があるとみても不自然ではありません。なぜなら新星爆発現象の方が宇宙では普遍的であり、頻度も桁違いに多いのですから、それが近傍で起きたと考えることは不自然ではないわけです。それは近傍に白色矮星を持つ星系がかなり多いと言うことからもいえることであり、白色矮星という存在が主星との質量移動という相互作用をかなり普遍的に行っているらしいことからも、紀元前八世紀の宇宙線増加が新星爆発現象によるものという解釈は成立する余地があると考えられるわけです。
 このようなことが実際に起きたことを示唆するのがいわゆる「二四〇〇年問題」です。

 「二四〇〇年問題」というのは、弥生時代と思われる2400BP付近より以前の時期において、放射性炭素の残存量が実年代(暦年代)に関わらず一定となる現象です。つまり2800BP付近から2400BP付近までにおいて放射性炭素測定の結果はほぼ一定となり、そのことから、この期間においては放射性炭素による年代測定が非常に困難となっているとされるものです。
 このようなことが起きる原因はもっぱら「海洋リザーバー効果」によるとされます。つまり「海洋」から大気中に放射性炭素が放出されることで、大気中の放射性炭素の量が増加してしまい、それがちょうど半減期による崩壊量を打ち消した状態となっているというのです。もしそれが正しければ、海洋中から大気に放出される炭素(というより二酸化炭素)の量が異常に増えたか、量は増えていないがその中に含まれる放射性炭素の割合が多かったのかのいずれかであることとなります。
 海洋からの放出量が異常に増加するというイベントがあったと見るには実際にはその根拠が曖昧です。深海からの上昇流が表面に現われた段階で海面から放出されたとするとその流れのサイクルが異常に速くなったか、気温が異常に高くなり、それにより蒸発が盛んになった結果大気中の二酸化炭素も増加したというようなことを考えなければなりません。しかし現在の研究では紀元前に大きな気温上昇とそれに伴う海進現象があったとは考えられていません。このことは気温上昇などによる大量の二酸化探査の大気中への放出という現象の可能性を否定するものです。そうとすればこの時期海洋に蓄積された二酸化炭素の中に大量の放射性炭素が含まれていたと見なさざるを得ないこととなります。通常この「リザーバー効果」というもののタイムラグとして400年間程度が推定されていますから、その意味からもその大量の放射性炭素の由来として最も考えられるのは、すでに述べた「シリウス」の新星爆発に淵源する放射線による大量の放射性炭素の生成という現象です。
 BP2800付近でシリウスからの宇宙線増加という現象があり、それはその時点の植物など光合成を行う際に取り込まれた二酸化炭素にも影響を与えたと思われると同時に、海洋に取り込まれた二酸化炭素にも同様に大量の放射性炭素が含まれていたことを推定させるものです。そして、それから数百年の間大気中に高い濃度の放射性炭素が含まれた二酸化炭素を放出し続けたとすると、まさに「二四〇〇年問題」に現われる現象となったと見ることができるでしょう。


(※1)増田公明「宇宙線による微粒子形成」名古屋大学太陽地球環境研究所(J. Plasma Fusion Res. Vol.90, No.2 (2014))
(※2)武井大、北本俊二 (立教大学)、辻本匡弘 (JAXA)、高橋弘充 (広島大学)、向井浩二 (NASA)、Jan-Uwe Ness (ESA)、Jeremy J. Drake (SAO)「新星は新たな宇宙線の起源か?」(アメリカ天文学会研究報告誌( Takei et al. 2009, ApJL, 697, 54 )

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