「だから大切なことは、勉強をして、自分の頭で考えて、説明をする。そして受け売りを止めることです」(NRIグループ、「この人にインタビュー」2005年1月掲載)、
という、リチャード・クーの言葉は、それはホントに仰るとおりなのであって、「受け売りの継ぎ接ぎ」で日々を生きる私なんぞは、こんなふうに言われてしまうと恥ずかしい限りではあるのだが、
「受け売り」もまた、考えようによってはそれほど悪いものでもない。
例えば私が本を読むとき、小説でもエッセイでもビジネス書でも哲学書(読まんか?)でも、すべからくすることは、蛍光ペンで気になった部分をマークすることである。
それは「お勉強」をするときの、要点へのマーキングという意味は持っておらず、言い回しや考え方の「お気に入り」を選ぶ、という行為なのである。そしてそれを(主にここで)披瀝する。
さらに出来得れば、それを自分で咀嚼し説明をすれば尚よろしいのだが、なかなかそうはいかない。
いかないがしかし、そうやって私にとっての「お気に入り」を選択するという行為を繰り返すうちに、それらの集合は自分の考え「のようなもの」になるのだ(つまり「受け売り」)。
そうすると、きちんと「自分の頭で考えて」ないうちは付け焼刃がすぐはがれ、底の浅さを露呈するということになるのだが、
それはそれで、それによって「恥をかく」ことの繰り返しが、自分自身の成長の糧なのだと考えると、そんなに悪いことではない。
したがって、冒頭の言葉を私のような凡人流にしてしまえば、
「だから大切なことは、勉強をして、誰にでもいいから受け売りを出力して、そこで気づいた理解不足を自分の頭で考えて、また出力する。そして自分のものとすることです」となる。
心がけなければならないのは、「出力する」ということである。
「出力」をしないでインプットの量をいくら増やしても、自己満足の域を出ない。
その行く末はメタボなアナタであり、メタボな私である。
だから、「受け売り」でもなんでもいいから、「しゅつりょくしようぜ、えぶりばでぃ!」なのである。