やはりぼくは変わり者で捻くれ者だと、今日このごろはつくづく思う。
それが世界的な時事であり、わが国の世相であり、あるいはごくごく卑近な出来事であっても、特別意図するところもないのに、気がつけば多数派の逆を考えていることが多い。
こんなやつにもっとも相応しい生き方は、「世を拗ねる」だろう。それとも180度転がってその逆をいき、世を牽引する存在になるという手もないではない。だが、それにはそれ相応の能力や器量を有していることが必要だ。
ということは、それ程の能力もなく器でもないぼくに、そもそもその道があるはずもなく、であれば、夜毎昼ごと酒を飲み、飲んでくだまき「世を拗ねる」というのが、それ相応の生き方だったはずのぼくを、なんとかマトモな社会人として踏みとどまらせてくれたのは、なんといっても、妻であり子らであり、つまり家族の存在に他ならない。
そこにおいて自ら負おうと決め、自らに課した責任が、次第に会社という枠にも範囲を広げ、それがいつしか、誰に頼まれたわけでもないのにもっと広い枠組みに対するものにもなっていった。
そうなると、「世を拗ねる」どころではない。
といっても、人の見本になろうとまでは考えもしないが、「正しいジイさん」であるべきだとは思う。
ところが、そうあろうとすると、これがなぜだか不思議なことに、なおさら多数派の逆目を張ることが多い。
だとしても、かつて西部邁が唱えたように、「世論の逆がおおむね正しい」と胸を張ることができるなら、なんぼか楽なのだが、基本的にヘタレなぼくにはそれをすることができないのである。
なんてことをつくづく思う今日このごろ。先日、わが社を訪れていたある人が、ぼくのパソコン画面に目を留め、こう質問してきた。
「これ、どこの国ですか?」
ディスプレイの中央には「環日本海・東アジア諸国図」が、でーんと居座っている。
「日本ですよ」
そう返したぼくの言葉に彼は、その地図がどこかの外国に見えた理由にすぐさま気づき、ナルホドとうなずいた。
「いや、ものごとをある一面からしか見ることがないようにね。戒めですよ、自分への」
「まるで地中海のようですよね」
「ナルホド。たしかにそんなふうにも見えるわね。環日本海・東アジア諸国図というから、むしろそう見てくれた方が正解。けど、今の日本の常識では、地中海沿岸でひとくくりにすることはあっても日本海沿岸でそうすることはほとんどない。こうやって見るとちがった観点から見えるようになる。おもしろいでしょ?」
なんのことはない。常日頃ぼくは、そう心がけているのである。ならば、その成果があがっているだけのことだ。ぼくの感覚的なものだけではなく、実際にぼくの言説が多数派の逆を行くことが多くなっていたとしても、不思議でもなんでもない。
だとすればそれは、自分自身の望ましい姿だと表現しても差し支えないではないか。
それもこれも含めて、やはりぼくは変わり者で捻くれ者だと、今日このごろはつくづく思う。とはいえやはり、そうでございと胸を張りはしないけどね。