知的生産の技術 (岩波新書) | |
梅棹忠夫 | |
岩波書店 |
「いごっそラーメン店長」へ行ったのは11時20分ごろ、まだ行列にはなってないだろうという私の考えはしかし、大甘もいいところで、すでに20人以上はいたであろう。しかもガードマンさんが交通整理をしていた。
あ、やめやめ、とあっさり撤退した私は、読みかけの本を読む。
『知的生産の技術』、梅棹忠夫の名著、1969年初版というからもはや古典の類にはいるのだろう。
ここで知的生産というのは、人間の知的活動が、なにかあたらしい情報の生産にむけられているような場合である、とかんがえていいだろう。この場合、情報というのは、なんでもいい。知恵、思想、かんがえ、報道、叙述、そのほか、十分ひろく解釈しておいていい。つまり、かんたんにいえば、知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら-情報-を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ。(P.9)
ふむふむ、そういうことならば、十分オレの土俵であるな、そう思いながら読んだ。
ここに書かれてある内容は、単にテクニカルな部分でいえば現代に適応できないことが多々ある。そりゃそうだ。私たちは、パーソナルコンピューターとインターネットというやつを手に入れてしまった。
だが、内容の本質が古いかというとさにあらず。さすが巨人梅棹忠夫。今でもキラキラと光彩を放つことがらばかりであるのだ。
たとえば、「整理と事務」という項ではフォルダリングやファイリングの技術について説明されていて、表層だけの理解であれば、大容量PCを使う今、そんな整理法がなくともパソコンはいくらでも取り入れてくれるじゃないか、となるのだが、本質はそこにはあらず、
知的生産の技術のひとつの要点は、できるだけ障害物をとりのぞいてなめらかな水路をつくることによって、日常の知的活動にともなう情緒的乱流をとりのぞくことだといっていいだろう。精神の層流状態を確保する技術だといってもいい。努力によってえられるものは、精神の安静なのである。(P.96)
てなふうに書かれた日にゃあ、う~むと唸って腕組みをしてしまう。
進歩した技術のなかで生きているはずの私は、いったいほんとに進化しているのだろうか。
「文房具の進化形」としてのパソコンを手に入れて悦にいっているだけではないのか。
そう思って坊主頭をひねるのである。