チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「劉邦」

2017-07-15 09:13:48 | 独学

 142.  劉邦(上、中、下)  (宮城谷昌光著 2015年6月)

 ”89.劉邦と項羽” で、文芸春秋の記事を紹介しましたが。私は、宮城谷の作品である三国志が文藝春秋に連載されてましたが、読めませんでした。宮城谷の作品は、史実に忠実ですが、漢字があまりに多く、スーと頭の中に入りませんでした。

 今回 ”劉邦” を読んでみて、毎日新聞に連載されただけあって、漢字の割合が少なく読みやすいなと感じました。現在の中国に宮城谷より中国史についての深く研究している研究者が、”いるのかなあと” ふと考えてしまいました。


 ”劉邦と項羽” の中で、以下のように述べています。 

 『 秦王朝の末期には、劉邦のみならず、多くの英雄が生まれました。進路に迷う人々は自分の夢や将来を「この人に托そう」と考えて、それぞれの選んだ英雄に期待を寄せました。

 そして、最後に最も多く期待を集めた英雄が劉邦だったのです。私は、個人の才能や徳ではなく、天下の人々が劉邦に托した意望の強さと多様性を書くことで、より多面的で複雑な劉邦像を描けるのではないか、と考えたのです。

 ではなぜ、劉邦はそれだけ多くの期待を集めることができたのでしょうか。その理由を探っていくと、一つの結論に行きつきます。劉邦は聴く耳を持った男だったということです。ライバルだった項羽と最も大きな違いです。 』


 劉邦(紀元前247年~195年)は、前漢(紀元前221年~西暦8年)の高祖で、都を長安に定め、長安はシルクロードによって、西アジアから地中海に至った。(長安が全盛だったのは、唐(西暦618~907)の時代です)

 私がこのインターネットの英語全盛に時代に、何で紀元前の中国の話と思われるかもしれませんが、集団で死力を尽くして戦うためには、現代でも、紀元前でも、リーダーの度量にかかっているからです。

 では、最初に上、中、下を本の帯から紹介した後、中巻の最初の部分を読んでいきます。


 劉邦(上)の帯より、『 秦末、王朝を覆す「天子の気」を遠望した始皇帝は、その気を放っ者を殺すように命じる。配下に襲われた泗水亭長・劉邦は九死に一生を得る。始皇帝の死後、陵墓建設のため、劉邦は百人の人夫を連れて関中に向かうことを命じられるが……。 』

 劉邦(中)の帯より、『 民に推されて沛県の令となった劉邦は、近隣の県を平定しながら勢力を拡大していく。行軍中に名軍師張良との出会いがあった。楚と結んだ劉邦は項羽と共に秦の城を攻めるが、戦地に衝撃の一報がもたらされ……。

 劉邦(下)の帯より、『 秦王の降伏を受け劉邦は秦の都・威陽に入る。しかし、項羽によって劉邦は、巴、蜀、漢中の王となって左遷されることに、項羽と天下を争うことを決意した劉邦は、関中に兵を挙げる! 』


 『 なぜかうわさのほうが劉邦(りゅうほう)の帰還より早く沛(はい)県に着いた。 「沛公が秦(しん)軍を破った」 沛県の官民は歓喜にふるえた。劉邦の将器(しょうき)を疑っていた者たちも、———沛公はぞんがい用兵に長じている。

 と、ようやく安堵(あんど)のため息をついた。もしも劉邦が負けて帰ってくるようであったら、かれらは父老(ふろう)に強く迫り、城門を閉じて劉邦の帰還をこばみ、あらたな県令を立てたであろう。

 胡陵(こりょう)と方与(ほうよ)という二県の攻撃に成功をおさめなかった劉邦にとって、監平(かんへい)の軍と野天(のてん)で戦えたことは天祐(てんゆう)のひとつであったといってよい。

 凱歌(がいか)とともに帰着した劉邦を、県丞(けんじょう)である蕭何(しょうか)、獄をあずかっている任敖(じんごう)、それに父老らがにこやかに出迎えた。

 だが、劉邦は冴えぬ表情で、「大切な子弟をすくなからず喪(うしな)ってしまった」 と、父老にむかって頭をさげた。父老はおどろいた。秦王朝のもとでは、兵卒の死に心を痛めた将など、ひとりもいない。

 父老はとまどって蕭何をみた。そのまなざしを承(う)けた蕭何は、「戦えば、かならず死者がでます。が、戦わなければ、もっと多くのものが死ぬでしょう」 と、いった。———そうであろうか。

 それは儒教(じゅきょう)的詭弁(きべん)ではないか。そうおもった劉邦は、とにかく戦いというものは、勝っても負けても、気が重くなるものだ、と実感した。 


 『 兵を解散させた劉邦は、妻子の顔をみるまえに県庁にはいり、蕭何とふたりだけで話あった。

 最初に劉邦は、「戦場で勲功を樹(た)てた者に与える賞がない。秦が作った級(きゅう)とは、便利なものだな。銭や物を与えるかわりに、級をあげてやればよい。制度とは、そういうものか、とよくわかった」 と、苦笑を蕭何にむけた。

 人民を階級わけする。この発案者は商鞅(しょうおう)という戦国時代の大才である。その案が新法となって実施されたのは、秦の孝(こう)公のときである。

 国主が王ではなく公であることからもわかるように、当時の秦は雄国(ゆうこく)と呼ばれる以前の後進国で、現状を嘆いた孝公が他国からきた商鞅を鈎用(こうよう)しておこなわせた大改革のひとつがそれであった。

 極端ないいかたをすれば、商鞅の新法が天下統一の道を拓(ひら)いた。それはそれとして、その階級についていえば、最下級は一級であり、「公士」(こうし) と、いう。最上級が十七級であり、「大良造」(だいりょうぞう) と、いう。

 公士も大良造も、正確には爵名(しゃくめい)であり、級名とはいわない。それらの級は軍籍に適用される。公士は兵卒にすぎないが、大良造は大将である。

 ちなみに、のちにその級数と爵名に多少の変更があり、二十等爵となる。敵兵の首をひとつ獲れば、公士となり、ふたつ獲れば上造(じょうぞう)となる。 「首級」(しゅきゅう) ということばは、その制度による。

 「たしかに秦の精度はよくできています。 が、血のかよっていない制度は改めなくてはなりますまい」 蕭何は法官ではないが、秦の法令の欠点はわかっている。 』


 『 その血のかよっていない法令によって痛い目にあわされた劉邦は、「皇帝ひとりを守る法令を、人民を守る法令に更(か)えればよい、ということではないのか」 と、いった。

 すこしまなざしをさげた蕭何は、「皇帝ひとりを守るだけの法令はたしかにまちがっています。陳勝(ちんしょう)が起こした叛乱は、そのまちがいを匡(ただ)そうとしたものです。しかし法令は人民を守るためにあるのか、国家を守るためにあるのか、と考えてゆくと難解さについあたります」 と、慎重に答えた。

 ———われはなんのために挙兵したのか。基本的には沛県の民の総意に従い、沛県の民を守ろうとしたにすぎない。陳勝の志行(しこう)にはとてもおよばない。 「これから、われはどうすべきかな」 劉邦は素直に蕭何に訊(き)いた。

 もしも劉邦が今後の戦略的方向を問うのであれば、その問いを曹参(そうさん)にむけるであろうと考えた蕭何は、答えをひとひねりした。

 「陳勝は秦の法令の批判者であったことはたしかですが、是正(ぜせい)者にはなれなかった。あなたさまが是正者になればよろしいではありませんか。あなたさまが新法となり、人民を守る。それ以外に、あなたさまが為な)すべきことがありましょうか」

 「ふむ……」 蕭何の回答はやや抽象的ではあったが、劉邦がばくぜんと想(おも)ってきた理念に比(ちか)かった。 いうまでもなく劉邦はおのれの利益のために挙兵したわけではない。

 苦しんでいるもの、哀(かな)しんでいる者など弱い立場におかれている者たちを助けようとして立ったのである。ただし秦に叛逆するかたちで立つかぎり、強者にならなければ、理念は具体化できない。

 「よく、いってくれた。これからも迷ったわれをさとしてくれ」 これほど素朴な劉邦をみたことがなかった蕭何は、感動して、しばらくことばをだせなかった。———また器量が大きくなった。 』


 『 時が劉邦を急速に変えているともいえる。ここにいるのは、泗水貞長(しすいていちょう)であった劉邦ではない。そう断定しておかなければ、その変化についてゆけない、と蕭何は軽い恐怖をおぼえながらおもった。

 「ところで、ひとつ解せぬことがある」 泗水群府から兵がでたのは当然であるとして、群府には交誼(こうぎ)の篤(あつ)い周苛(しゅうか)がいるのだから、かれはそれに関してなぜ黙ったままであったのか。

 「周苛のことだから、われが窮地(きゅうち)におちいりそうになったことを推測したはずなのに、なんの報(しら)せもよこさなかった。よこさなかったのではなく、よこせなかったのか。それが気がかりでならぬ」

 「あなたさまは、それほど周苛を信頼なさっていたのですか」 蕭何は劉邦と周苛のつきあいの深さをはじめて知った。

 「周苛にはずいぶん助けられた。もしも周苛が苦境に立たされているのであれば、助けたい」 「わかりました。しらべてみます」 蕭何の答えにうなずいた劉邦は県庁をでて帰宅した。

 三日間、妻子とともに過ごした劉邦は県庁にでなかった。四日目には樊噲(はんかい)と妻子それに尹恢(いんかい)や夏侯嬰(かこうえい)などを招いて慰労の会を催した。

 この会で、表情に魯(にぶ)さのある劉邦に気づいた樊噲は、「どうなさったのですか」 と、問うた。

 「ふむ、周苛がどうしているか、まったくわからなくなった。蕭何にかれの消息をしらべさせてえいるが、なにもいってこない。まだわからないということだ」 すると尹恢

 「周苛の実家は、ここ沛県にあります。明日にでもわたしがたずねてみます」 と気働(きばたら)きをみせた。翌日、県庁へでるつもりの劉邦であったが、尹恢の報告を自宅でまった。

 「お待たせしました」 そういってなかにはいってきた尹恢の表情にも冴えがなかった。 「なにもつかめなかった、と顔に書いてある」 

 「その通りです。あなたさまが挙兵なさるまえから、実家には便(たよ)りがなくなったそうです。じつは周苛の従弟の周昌(しゅうしょう)の家もおなじで、いまふたりがどこにいてどうなっているかは、実家でもまったくわからないそうです。ついでに申しますと、すでに蕭何の属吏(ぞくり)が実家にしらべにきたということです」

 「なるほど、蕭何にはぬかりはなかったということか」 劉邦はやるせなげにうつむいていた。 「あなたさまとの密(ひそ)かな通好(つうこう)が、郡守に知られたのでしょうか」 

 「われに通じたと見なされれば、かならず斬られる。みせしめのために郡守はその屍体(したい)を沛県へ送りつける。そうなっていないのだから、周苛と周昌は生きている」は

 「そうあってもらいたいものです」 この尹恢の声をきいて、劉邦は県庁へ行った。執務室に坐るや、蕭何がはいってきた。その顔をひと目みて、———手がかりがあったな。 と、劉邦は感じた。

 「まだ憶測(おくそく)にすぎませんが、周苛は薛(せつ)にいるのではありますまいか」 と、蕭何は述べた。 』


 『 現今、諸城の門が閉じられているので、情報の蒐集(しゅうしゅう)は困難をきわめている。 が、蕭何は多くの属吏を三方に放って、うわさをも摭(ひろ)わせた。そこでわかったことは、泗水郡と薛郡が連合しようとして、泗水郡守が薛県へ往ったという事実である。

 「これはまちがいないところです。当然、泗水郡の兵も郡守に従って薛県へ行ったはずですが、その一部があなたさまを急襲した。すなわちその急襲は予定になかったことなので、周苛はあなたさまに報せようがなかった。

 また郡府のある相(しょう)県に郡守がおらず、周苛が残っているのであれば、報せを密送(みつそう)することが可能です。だがそれができないとなれば、周苛は郡守の近くにいて、遠ざかることができない、と想うのが妥当(だとう)です」

 「ははあ、それで周苛は薛にいると推理したのか」 劉邦はすこし安心した。 「ただし周苛はあなたさまにひそかに通じているのではないかと郡守などの上司に疑われているのでしょう。なにしろ沛県の出身ですから」

 周苛が実家にも何も伝えなかったのは、用心を累(かさ)ねて、自分にむけられている疑いの目をかわそうとしたためであろう。

 「ひとつのことがわかると、わからぬことがひとつ生ずる。人は、悩みの種(たね)が尽きぬものだな」 劉邦はあえて笑ってみせた。

 「べつに不可解が生じましたか」 「なんじは一をきいて十を知るほどの怜悧(れいり)さをもっているのに、ときどき一をきいて二がわからぬことがある。それとも、わからぬふりをしているのか」

 「何のことでしょうか」 蕭何とぼけてみせた。 「では、問おう。 薛郡の守は泗水郡の守を招き、両郡の兵を合わせた。何のためであるか」

 「沛公すなわちあなたさまを討滅(とうめつ)するためでしょう」 「しかしながら、われが沛県にもどってから五日目になるのに、薛の兵に動きはない。なにゆえであろう」

 「そのことですか……」 両郡の兵が連結したのに起(た)たないのは事実である。劉邦はその理由を知りたがっているが、蕭何はその原因を知りたいとおもっている。 疑問の質がややちがう。

 「あなたさまの問にお答えできるのは、一をきいて十一を知るものだけです。薛には、兵をだせぬ事情がある、と申すしかありません」

 不確実な情報をもとに推量をかさねていっても事実には到達しない。なぜであるかわからないが、薛は討伐軍を起こさない。 が、この状態がいつまでもつづくとはかぎらないので、防備をおこたらないでおく、というのが蕭何の任務である。

 



 



 



 

 



 

(時間切れ、続く)

 

 

 

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