チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「劉邦」

2017-07-15 09:13:48 | 独学

 142.  劉邦(上、中、下)  (宮城谷昌光著 2015年6月)

 ”89.劉邦と項羽” で、文芸春秋の記事を紹介しましたが。私は、宮城谷の作品である三国志が文藝春秋に連載されていましたが、読めませんでした。宮城谷の作品は、史実に忠実ですが、漢字があまりに多く、スーと頭の中に入りませんでした。

 今回 ”劉邦” を読んでみて、毎日新聞に連載されただけあって、漢字の割合が少なく読みやすいなと感じました。現在の中国に宮城谷より中国史についての深く研究している研究者が、”いるのかなあと” ふと考えてしまいました。


 ”劉邦と項羽” の中で、以下のように述べています。 

 『 秦王朝の末期には、劉邦のみならず、多くの英雄が生まれました。進路に迷う人々は自分の夢や将来を「この人に托そう」と考えて、それぞれの選んだ英雄に期待を寄せました。

 そして、最後に最も多く期待を集めた英雄が劉邦だったのです。私は、個人の才能や徳ではなく、天下の人々が劉邦に托した意望の強さと多様性を書くことで、より多面的で複雑な劉邦像を描けるのではないか、と考えたのです。

 ではなぜ、劉邦はそれだけ多くの期待を集めることができたのでしょうか。その理由を探っていくと、一つの結論に行きつきます。劉邦は聴く耳を持った男だったということです。ライバルだった項羽と最も大きな違いです。 』


 劉邦(紀元前247年~195年)は、前漢(紀元前221年~西暦8年)の高祖で、都を長安に定め、長安はシルクロードによって、西アジアから地中海に至った。(長安が全盛だったのは、唐(西暦618~907)の時代です)

 私がこのインターネットの英語全盛に時代に、何で紀元前の中国の話と思われるかもしれませんが、集団で死力を尽くして戦うためには、現代でも、紀元前でも、リーダーの度量にかかっているからです。

 では、最初に上、中、下を本の帯から紹介した後、中巻の最初の部分を読んでいきます。


 劉邦(上)の帯より、『 秦末、王朝を覆す「天子の気」を遠望した始皇帝は、その気を放っ者を殺すように命じる。配下に襲われた泗水亭長・劉邦は九死に一生を得る。始皇帝の死後、陵墓建設のため、劉邦は百人の人夫を連れて関中に向かうことを命じられるが……。 』

 劉邦(中)の帯より、『 民に推されて沛県の令となった劉邦は、近隣の県を平定しながら勢力を拡大していく。行軍中に名軍師張良との出会いがあった。楚と結んだ劉邦は項羽と共に秦の城を攻めるが、戦地に衝撃の一報がもたらされ……。

 劉邦(下)の帯より、『 秦王の降伏を受け劉邦は秦の都・威陽に入る。しかし、項羽によって劉邦は、巴、蜀、漢中の王となって左遷されることに、項羽と天下を争うことを決意した劉邦は、関中に兵を挙げる! 』


 『 なぜかうわさのほうが劉邦(りゅうほう)の帰還より早く沛(はい)県に着いた。 「沛公が秦(しん)軍を破った」 沛県の官民は歓喜にふるえた。劉邦の将器(しょうき)を疑っていた者たちも、———沛公はぞんがい用兵に長じている。

 と、ようやく安堵(あんど)のため息をついた。もしも劉邦が負けて帰ってくるようであったら、かれらは父老(ふろう)に強く迫り、城門を閉じて劉邦の帰還をこばみ、あらたな県令を立てたであろう。

 胡陵(こりょう)と方与(ほうよ)という二県の攻撃に成功をおさめなかった劉邦にとって、監平(かんへい)の軍と野天(のてん)で戦えたことは天祐(てんゆう)のひとつであったといってよい。

 凱歌(がいか)とともに帰着した劉邦を、県丞(けんじょう)である蕭何(しょうか)、獄をあずかっている任敖(じんごう)、それに父老らがにこやかに出迎えた。

 だが、劉邦は冴えぬ表情で、「大切な子弟をすくなからず喪(うしな)ってしまった」 と、父老にむかって頭をさげた。父老はおどろいた。秦王朝のもとでは、兵卒の死に心を痛めた将など、ひとりもいない。

 父老はとまどって蕭何をみた。そのまなざしを承(う)けた蕭何は、「戦えば、かならず死者がでます。が、戦わなければ、もっと多くのものが死ぬでしょう」 と、いった。———そうであろうか。

 それは儒教(じゅきょう)的詭弁(きべん)ではないか。そうおもった劉邦は、とにかく戦いというものは、勝っても負けても、気が重くなるものだ、と実感した。 


 『 兵を解散させた劉邦は、妻子の顔をみるまえに県庁にはいり、蕭何とふたりだけで話あった。

 最初に劉邦は、「戦場で勲功を樹(た)者に与える賞がない。秦が作った級(きゅう)とは、便利なものだな。銭や物を与えるかわりに、級をあげてやればよい。制度とは、そういうものか、とよくわかった」 と、苦笑を蕭何にむけた。

 人民を階級わけする。この発案者は商鞅(しょうおう)という戦国時代の大才である。その案が新法となって実施されたのは、秦の孝(こう)公のときである。

 国主が王ではなく公であることからもわかるように、当時の秦は雄国(ゆうこく)と呼ばれる以前の後進国で、現状を嘆いた孝公が他国からきた商鞅を鈎用(こうよう)しておこなわせた大改革のひとつがそれであった。

 極端ないいかたをすれば、商鞅の新法が天下統一の道を拓(ひら)いた。それはそれとして、その階級についていえば、最下級は一級であり、「公士」(こうし) と、いう。最上級が十七級であり、「大良造」(だいりょうぞう) と、いう。

 公士も大良造も、正確には爵名(しゃくめい)であり、級名とはいわない。それらの級は軍籍に適用される。公士は兵卒にすぎないが、大良造は大将である。

 ちなみに、のちにその級数と爵名に多少の変更があり、二十等爵となる。敵兵の首をひとつ獲れば、公士となり、ふたつ獲れば上造(じょうぞう)となる。 「首級」(しゅきゅう) ということばは、その制度による。

 「たしかに秦の制度はよくできています。 が、血のかよっていない制度は改めなくてはなりますまい」 蕭何は法官ではないが、秦の法令の欠点はわかっている。 』


 『 その血のかよっていない法令によって痛い目にあわされた劉邦は、「皇帝ひとりを守る法令を、人民を守る法令に更(か)えればよい、ということではないのか」 と、いった。

 すこしまなざしをさげた蕭何は、「皇帝ひとりを守るだけの法令はたしかにまちがっています。陳勝(ちんしょう)が起こした叛乱は、そのまちがいを匡(ただ)そうとしたものです。しかし法令は人民を守るためにあるのか、国家を守るためにあるのか、と考えてゆくと難解さにつきあたります」 と、慎重に答えた。

 ———われはなんのために挙兵したのか。基本的には沛県の民の総意に従い、沛県の民を守ろうとしたにすぎない。陳勝の志行(しこう)にはとてもおよばない。 「これから、われはどうすべきかな」 劉邦は素直に蕭何に訊(き)いた。

 もしも劉邦が今後の戦略的方向を問うのであれば、その問いを曹参(そうさん)にむけるであろうと考えた蕭何は、答えをひとひねりした。

 「陳勝は秦の法令の批判者であったことはたしかですが、是正(ぜせい)者にはなれなかった。あなたさまが是正者になればよろしいではありませんか。あなたさまが新法となり、人民を守る。それ以外に、あなたさまが為(な)すべきことがありましょうか」

 「ふむ……」 蕭何の回答はやや抽象的ではあったが、劉邦がばくぜんと想(おも)ってきた理念に比(ちか)かった。 いうまでもなく劉邦はおのれの利益のために挙兵したわけではない。

 苦しんでいるもの、哀(かな)しんでいる者など弱い立場におかれている者たちを助けようとして立ったのである。ただし秦に叛逆するかたちで立つかぎり、強者にならなければ、理念は具体化できない。

 「よく、いってくれた。これからも迷ったわれをさとしてくれ」 これほど素朴な劉邦をみたことがなかった蕭何は、感動して、しばらくことばをだせなかった。———また器量が大きくなった。 』


 『 時が劉邦を急速に変えているともいえる。ここにいるのは、泗水貞長(しすいていちょう)であった劉邦ではない。そう断定しておかなければ、その変化についてゆけない、と蕭何は軽い恐怖をおぼえながらおもった。

 「ところで、ひとつ解せぬことがある」 泗水群府から兵がでたのは当然であるとして、群府には交誼(こうぎ)の篤(あつ)い周苛(しゅうか)がいるのだから、かれはそれに関してなぜ黙ったままであったのか。

 「周苛のことだから、われが窮地(きゅうち)におちいりそうになったことを推測したはずなのに、なんの報(しら)せもよこさなかった。よこさなかったのではなく、よこせなかったのか。それが気がかりでならぬ」

 「あなたさまは、それほど周苛を信頼なさっていたのですか」 蕭何は劉邦と周苛のつきあいの深さをはじめて知った。

 「周苛にはずいぶん助けられた。もしも周苛が苦境に立たされているのであれば、助けたい」 「わかりました。しらべてみます」 蕭何の答えにうなずいた劉邦は県庁をでて帰宅した。

 三日間、妻子とともに過ごした劉邦は県庁にでなかった。四日目には樊噲(はんかい)と妻子それに尹恢(いんかい)や夏侯嬰(かこうえい)などを招いて慰労の会を催した。

 この会で、表情に魯(にぶ)さのある劉邦に気づいた樊噲は、「どうなさったのですか」 と、問うた。

 「ふむ、周苛がどうしているか、まったくわからなくなった。蕭何にかれの消息をしらべさせているが、なにもいってこない。まだわからないということだ」 すると尹恢が、

 「周苛の実家は、ここ沛県にあります。明日にでもわたしがたずねてみます」 と気働(きばたら)きをみせた。翌日、県庁へでるつもりの劉邦であったが、尹恢の報告を自宅でまった。

 「お待たせしました」 そういってなかにはいってきた尹恢の表情にも冴えがなかった。 「なにもつかめなかった、と顔に書いてある」 

 「その通りです。あなたさまが挙兵なさるまえから、実家には便(たよ)りがなくなったそうです。じつは周苛の従弟の周昌(しゅうしょう)の家もおなじで、いまふたりがどこにいてどうなっているかは、実家でもまったくわからないそうです。ついでに申しますと、すでに蕭何の属吏(ぞくり)が実家にしらべにきたということです」

 「なるほど、蕭何にはぬかりはなかったということか」 劉邦はやるせなげにうつむいていた。 「あなたさまとの密(ひそ)かな通好(つうこう)が、郡守に知られたのでしょうか」 

 「われに通じたと見なされれば、かならず斬られる。みせしめのために郡守はその屍体(したい)を沛県へ送りつける。そうなっていないのだから、周苛と周昌は生きている」

 「そうあってもらいたいものです」 この尹恢の声をきいて、劉邦は県庁へ行った。執務室に坐るや、蕭何がはいってきた。その顔をひと目みて、———手がかりがあったな。 と、劉邦は感じた。

 「まだ憶測(おくそく)にすぎませんが、周苛は薛(せつ)にいるのではありますまいか」 と、蕭何は述べた。 』


 『 現今、諸城の門が閉じられているので、情報の蒐集(しゅうしゅう)は困難をきわめている。 が、蕭何は多くの属吏を三方に放って、うわさをも摭(ひろ)わせた。そこでわかったことは、泗水郡と薛郡が連合しようとして、泗水郡守が薛県へ往ったという事実である。

 「これはまちがいないところです。当然、泗水郡の兵も郡守に従って薛県へ行ったはずですが、その一部があなたさまを急襲した。すなわちその急襲は予定になかったことなので、周苛はあなたさまに報せようがなかった。

 また郡府のある相(しょう)県に郡守がおらず、周苛が残っているのであれば、報せを密送(みつそう)することが可能です。だがそれができないとなれば、周苛は郡守の近くにいて、遠ざかることができない、と想うのが妥当(だとう)です」

 「ははあ、それで周苛は薛にいると推理したのか」 劉邦はすこし安心した。 「ただし周苛はあなたさまにひそかに通じているのではないかと郡守などの上司に疑われているのでしょう。なにしろ沛県の出身ですから」

 周苛が実家にも何も伝えなかったのは、用心を累(かさ)ねて、自分にむけられている疑いの目をかわそうとしたためであろう。

 「ひとつのことがわかると、わからぬことがひとつ生ずる。人は、悩みの種(たね)が尽きぬものだな」 劉邦はあえて笑ってみせた。

 「べつに不可解が生じましたか」 「なんじは一をきいて十を知るほどの怜悧(れいり)さをもっているのに、ときどき一をきいて二がわからぬことがある。それとも、わからぬふりをしているのか」

 「何のことでしょうか」 蕭何はとぼけてみせた。 「では、問おう。 薛郡の守は泗水郡の守を招き、両郡の兵を合わせた。何のためであるか」

 「沛公すなわちあなたさまを討滅(とうめつ)するためでしょう」 「しかしながら、われが沛県にもどってから五日目になるのに、薛の兵に動きはない。なにゆえであろう」

 「そのことですか……」 両郡の兵が連結したのに起(た)たないのは事実である。劉邦はその理由を知りたがっているが、蕭何はその原因を知りたいとおもっている。 疑問の質がややちがう。

 「あなたさまの問にお答えできるのは、一をきいて十一を知るものだけです。薛には、兵をだせぬ事情がある、と申すしかありません」

 不確実な情報をもとに推量をかさねていっても事実には到達しない。なぜであるかわからないが、薛は討伐軍を起こさない。 が、この状態がいつまでもつづくとはかぎらないので、防備をおこたらないでおく、というのが蕭何の任務である。

 「一をきいて十一を知る者か……。そのような者はいまい。十年後のことを知る占い師でも、十一のことはわかりそうもない。時が教えてくれるのを待つか」 そういって劉邦は蕭何をさがらせた。』


 『 たしかに時はかくされた事情を曝露(ばくろ)する力がある。十月の末に、ひとりの男が薛県をぬけだして沛県に趨(はし)りこんできた。氏名を、「陳胥(ちんしょ)」と、いう。

 かれは薛の有力者の使者である。その有力者とは、「陳武(ちんぶ)」である。劉邦がつけている竹皮冠(ちくひかん)は、薛に住んでいる冠職人が作ったものである。

 往時(おうじ)、薛にしばしば行った劉邦であるが、陳武の名は知らなかった。が、蕭何と曹参はその名を知っていた。

 「数百人を養っている豪族ですよ。ただし威勢を張りだしたのは数年まえですから、ご存じないかもしれません」と、蕭何が説明した。

 「その陳武が、われに訴願(そがん)することがあるらしい。なんじらもわれとともにその使者に会ってくれ」ほどなく三人のまえにあらわれた陳胥は武骨そのものの人物であった。

 直観にすぐれている劉邦は、―――ひとくせありそうだが、欺騙(きへん)の人物ではない。と陳胥をみた。「至急のたのみごとであるときいた。それはどのようなことか」

 この劉邦の声に、一礼した陳胥は、いささかも口ごもらずに述べはじめた。「来月の三日の明け方に、薛を攻めていただきたい」突飛(とっぴ)な申し出である。

 劉邦は眉(まゆ)をひそめ、蕭何と曹参は顔をみあわせて目語(もくご)した。

 正確には、明日が十月の晦日(かいじつ)で、明後日が十一月一日である。三日の明け方に薛城の攻撃を開始するためには、軍を明後日に発たせ、しかもどこかで夜行しなければまにあわない。

 徴兵にてまどると、一日に出発できない。「むりです」蕭何が目で劉邦に伝えた。が、劉邦はいきなり使者の申し出を拒否せず、「三日の明け方に何があるのか」と陳胥に問うた。

 「県内で陳武が挙兵し、郡守らを襲います。まえから陳武は挙兵の機をうかがっていたのですが、それを察してか、郡守は郡外どころか県外にもでません。

 城外に泗水郡の兵の駐屯地があり、そこに三千の兵がとどまったままです。泗水郡の監平の兵が沛公の兵に敗れたため、泗水郡守に従って薛にきた兵も畏(おそ)れて一千以上の兵が逃げ去りました。

 また、どうやら陳王の属将でもある周市(しゅうし)が泗水郡内を東進しはじめたようなので、泗水郡守は相県に帰ることをためらったまま、薛にいます。

 その郡兵が薛の郡守と県令をかばう側に立つと、陳武の苦戦は必至です。そこで沛公には、泗水郡守と郡兵を伐(う)っていただきたいのです。

 三日をすぎても沛公の助力をいただけなければ、おそらく陳武もそれがしも、捕縛(ほばく)されて、処刑されるでしょう」 この語気には力があった。』


 『 もしも陳胥が薛の郡守か県令の配下で、劉邦を誘いだして殺すために弁舌をふるったのであれば、かれの語ったことはほとんど妄(うそ)であろう。

 しかしながら、たとえ妄でも、これほど滔々(とうとう)と語ったのはたいしたものだ、と考えるのが劉邦であった。

 しばらく陳胥を観察するようにみつめていた劉邦は、「陳武は、自身の都合で、われを利用するのか。虫がよすぎないか」と、つき放ちぎみにいった。

 「陳武は、ひごろ秦の悪政を憎み、嘆いておりました。陳勝の挙兵とめざましい進撃を知って大いに喜びましたが、かれが王になったとしり、失望しました。陳武は冷酷さも貪欲さも嫌っています。ところが沛公だけが民も兵もいたわると知って、恃む(たの)むのはこの人のみ、と喜悦したのです」

 劉邦は破顔(はがん)した。―――おだててくれるではないか。すこしからだをかたむけた劉邦は、「なんじと陳武のおだてに乗って、われは薛に征くつもりであるが、急遽(きゅうきょ)、兵をあつめるのはむずかしい。そのときは、われ独(ひと)りで薛の城外に立っているであろう、そう陳武につたえよ」と陳胥にいった。

 「しかと、つたえます」 再拝した陳胥はすみやかに退室した。 「沛公―――」蕭何と曹参が同時に発したのは諫(いさ)めの声である。

 が、片手を挙(あ)げてそれを掣(せい)した劉邦は、「死の淵に片足をいれた者が、助けてくれといってきているのだ。それを、是非を問わず助けるのが義侠(ぎきょう)というものさ。朔日(さくじつ)(一日)の朝までに、集められるだけ兵を集めてくれ」と、強い口調で命じた。

 独りでも行くと名言した劉邦を止めることはできないと判断したふたりは、手わけして兵を集めはじめた。

 帰宅した劉邦が妻の呂雉(りよち)にその話をすると、翌朝に、妻の兄である呂沢(りよたく)と呂釈之(りよせきし)がきて、「兵が足りぬときいた。われらも参じよう」と、いった。

 おどろいたことに、県庁にはいった劉邦に蕭何までが、「参戦したい」と、申し出た。―――よほど兵が足りぬ。そう感じた劉邦は、蕭何の申し出を聴(ゆる)すと、獄の主吏(しゅり)となっている任敖(じんごう)を呼んだ。

 「蕭何がわれに従って薛へゆくことになった。この城を守る者は、なんじを措いてほかにいない。たのむぞ」

 「はあ……」 任敖は、一瞬、くやしそうな表情をみせた。―――参戦したかったにちがいない。任敖の心情を察した劉邦は、「戦いは、はじまったばかりだ。なんじの戦いの場はこれからだ。われがなんじの力量を知らぬはずがないではないか」

 と、なぐさめた。おそらく任敖が守った城は陥落しない。すなわち任敖は墨守(ぼくしゅ)のひとである。そういう長所を任敖自身が意識したことはあるまい。が、劉邦にはわかる。』


 『 ―――敵を知っておく必要がる。と、考えた劉邦は、蕭何と曹参に諮(はか)り、百人程度の隊をつくると、先遣(せんけん)隊として、夜間に出発させた。

 一日の朝に集合した兵の数をかぞえてみると二千未満である。―――これでも多いほうだ。一千の兵でも出発するつもりであった劉邦は、兵にみじかく訓辞を与えると、すぐに兵車に乗った。

 兵車に近づいてきた任敖に、「われが帰らなかったら、王陵(おうりょう)を迎えて、県令に立てよ」と、いった。が、任敖はうなずかず、「まっぴらですな。沛公には子息がいる。仕えるなら、そのご子息がよい」と、いいかえした。

 小さく笑声を立てた劉邦は、全軍を出動させた。慣(な)れた道である。閉じられた泗水亭のまえをまたたくまに通過した。

 そこから東北にすすむと戚(せき)県に到るが、戚県はあいかわらず秦の城なので迂回することにした。その迂路(うろ)で露営(ろえい)した。戚県から兵が出撃しないともかぎらない。

 翌日、さらに東北にすすみ、薛県に近づいた。先遣隊がひきかえしてきた。泗水郡の兵の駐屯地を遠くから実見(じつけん)してきたのである。

 「善(よ)し、夜間にすこしすすみ、明け方にこの駐屯地を襲う」と、劉邦は決定した。かれには迷いも畏れもない。あえていえば、―――周苛ひとりを救いにきた。それだけの水師(すいし)である。

 東の天空が明るくなるまで、すこし待った。本営にいる蕭何は、曹参をみかけたので、「これが薛の郡守がしかけた罠(わな)であったら、われらはひとたまりもない」と、いってみた。

 不安があるわけではないが、すでに三つの戦場を踏んできた曹参がどうみているかを知りたくなったからである。曹参は蕭何の近くにきて、

 「薛の郡守は、泗水の郡守の力を借りようとしたくらいだから、小心者で、みずからが動くことはできない。だからといって、巧妙な策はない、とは断言できないので、罠の有無(うむ)についてはなんともいえない。ただし、泗水郡の兵にはわれらを迎え撃つ用意はない」

 と、はっきりいった。「ほう、どうしてそれとわかる」「けはいだな。待ち構えているのであれば、早めに腹ごしらえをしているはずだ。が、そういうけはいはなかった。あたりが明るくなって、駐屯地に炊煙(すいえん)が立てば、まちがいなく無警戒であることがわかる」

 「なるほど」戦地にあっては、蕭何は曹参から教えられることが多い。 』


 『 このころ劉邦の近くにいた樊噲は本営をでて先陣にむかった。「なんじは先鋒(せんぽう)にくわわり、なるべく早く周苛をみつけて、保護せよ」劉邦にそう命じられた樊噲は、先陣の将である紀成(きせい)への伝言をたずさえていた。

 「矛(ほこ)をさかさまに持っている者を、撃ってはならぬ」劉邦の命令である。矛をさかさまに持つ、とは、敵意のないさま、をいう。劉邦は泗水郡の兵をなるべく多くとりこみたい。

 やがて東天(とうてん)の雲が紅く染まった。雲が多く、天地の暗さが衰えないのに、突然あらわれた紅色はぶきみな美しさをもっていた。それをみた劉邦は、「午下には、雨になるか」と、つぶやいた。

 東天の紅色は徐々にひろがった。その紅色が大きくわかれると淡い水色の天空があらわれた。駐屯地にひとすじの炊煙が立った。直後に、劉邦軍の先鋒が動いた。

 樊噲(はんかい)の比類(ひるい)ない剛力(ごうりき)があきらかになったのは、薛(せつ)の城外においてである。かれは楯(たて)で飛矢をはらいつつすすみ、まっさきに土の壁を登った。

 この侵入者をはばもうと数人の兵がかまえて待ち構えていたが、樊噲が旋回(せんかい)させた矛に吹き飛ばされた。数人が同時に地から浮いて墜落したのである。それを目撃した兵は、「わっ」と、あとじさったまま、樊噲にむかっていけなくなった。

 かれらをひと睨(にら)みした樊噲は、「秦(しん)の悪政を憎み、正義に与(くみ)したい者は、沛(はい)公に降(くだ)れ。矛をさかさまに持つ者を、われらは撃たぬ」と、大声でいった。

 「どけ―――」 この樊噲に一声で、敵兵が左右にわかれた。樊噲を先頭に十数人が営所のなかを突きすすんだ。まだ樊噲の剛力を知らぬ兵がこの集団を襲ったが、またたくまに蹴散(けちら)された。

 「守壮(しゅそう)は、どこだ」そう叫びながら樊噲は前進しつづけた。かれの背後では乱戦がはじまり、樊噲の声が消されるほどの喚声(かんせい)が挙(あ)がった。

 造りのよい兵舎をみた樊噲は、―――ここが上級の吏人(りじん)のすまいだ。と感じ、なかをのぞいた。くらがりから矛がつきでた。それをかわして柄(え)をつかんだ樊噲は、なかの兵をひきずりだして抛(ほう)りなげた。

 なかが無人になったことを確認した樊噲は、「この舎に、火をかけよ」とうしろの兵にいった。城内では、陳武(ちんぶ)が私兵を率いて郡守と県令を急襲しているはずであるが、連絡をとりあっているわけではないので、現状はわからない。

 この兵舎を焼けば、いちおう合図となる。つらなっている兵舎のなかをいちいちのぞいてゆくわけにはいかないので、「周苛よ、樊噲だ」と、呼びかけながら歩いた。

 また数人の兵にゆくてをさえぎられたが、樊噲はかるがると排除した。ながれ矢がかれの鼻さきを通過した。「おおい、樊噲、ここだ、ここだ」遠い声である。

 いちばん端の兵舎のほとりにふたりの影があった。―――あれだ。高々と矛を揚げた樊噲は、喜び、走った。周苛は泗水(しすい)郡の吏人でありながら、樊噲のような下賤(げせん)な者をさげすまず、山沢(さんたく)に逃げこんだ劉邦を陰で支えてくれた。

うれしい再会である。立ったまま樊噲を待っていたのは周苛と従弟(じゅうてい)の周昌(しゅうしょう)である。周苛は剣しかもっていなかったが周昌は戈(か)をもっていた。

 「やあ、おふたりとも、ごぶじでしたか」そういって歯をみせた樊噲の甲(よろい)をこぶしで周苛は、「遠くからでも、なんじとわかったわ。よくきてくれた」と、ため息をまじえていった。

 その周苛の耳もとで、「沛公はあなたを救いだすための水師(すいし)したのです」と、劉邦の真情を察している樊噲はささやいた。えっ、と小さく叫んだ周苛は目をまっ赤にした。

 かって周苛はこれほど深く感動したことはない。酒屋で酔いつぶれた劉邦の上にかならず龍があらわれるという話からはじまって、劉邦はさまざまな奇談に装飾されてきた。

 それらを奇瑞(きずい)とみて、劉邦とのつきあいをおろそかにしなかった周苛であるが、驪(り)山へむかった劉邦が途中で少数の人夫とともに郡境近くの山沢へ逃げこんだと知ったときには、さすがに、―――あの奇瑞は、まやかしであった。

 と、落胆した。劉邦は山賊になりはてるだけだ、とおもわざるをえなかった。それでも劉邦の力になろう、と危険を承知で蔭助(いんじょ)したのは、義侠(ぎきょう)心というもので、一個の劉邦を一個の周苛が助けようとしたといってよい。

 劉邦は沛公とよばれる県令になったのに、一個の劉邦が一個の周苛を助けにきてくれたのである。周苛は全身でそう感じた。「さあ、沛公がお待ちです。十人ほどつけますので、おふたりは早く駐屯地の外へでて、本営へ趨(はし)ってください」 』


 これ以降、鴻門の会へと続きますが、これまでで、宮城谷の劉邦の雰囲気は十分に伝わったと思います。(第141回) 

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