文と不呂愚、私とPogosyan

異形の蒐集
twitter@MUCHIO_HEAD

もりのバロック

2010年02月09日 02時27分31秒 | Weblog
昨日、水槽の中にいたオトシンクルスが一匹死にました。
五匹いたうちの一匹でしたが、とりあえずピンセットで取り出し、埋葬しました。魚が死ぬといつも庭に埋めて、本来あるべき場所(宇宙の循環)に戻してやるわけです。水槽に水を入れて、その中に魚を入れて、餌をやる生活を10年近く続けてきましたが、今までこうやって2、300匹の魚たちを葬ってきたのかと思うと、多いなと感じます。

宇宙の循環のことを考えると、何もかもが「物質」になります。魚も、人も、水も、空気も、あなたも、私も、すべて物質と考えると話がうまくすすみます。スペースやらコスモスだなんて大きなことですが、人がそれを理解しようとするとどうしてもそうなってしまうわけです。それがもし「科学」呼ばれるものだとすると、それはとても非人間的な思想です。しかしそんな考え方が受け入れられているのは、やはり人が物事を知りたいと欲求するからではないでしょうか。

近頃は南方熊楠という人についての本(講談社学術文庫「森のバロック」中沢新一・著)を自分でも不思議なくらい連日読んでいます。この人は科学者と言われることこそないものの、幼い頃から奇人変人天才ぶりを発揮し、自然を研究しながら独自の思想を作り上げたとして注目されています。中沢新一という人は前々からとても、文章のうまい人だなあと思っていましたが、この本も例外なく、やはり惹きつけられます。読みやすく、ダイナミックな記述が多い。この本を伝記にはしたくないと前書きで述べています。端的に示しているところを引用すると、

「論文や書簡に表現されてあるものをこえて、そこに表現された言葉の下ないしは内部で、ひそかに歌われていた歌を聞き取ることのほうに、私は全神経を集中した。こういう方法で、私は彼について語られてきた『一切の認知しうる歴史』をこえて、南方熊楠という、法外な生命体の、もっとも奥底に潜む思想のマトリックスに、たどりつこうとしたのである。」

前書きは「掴み」が大事だと言われますが、あの熊楠についてここまで言うとは、と思い少し集中して読んでいます。確かに内容も面白い。まだ序盤しか読めていないのだけど、思想家としての熊楠もそうですけど、人間としての熊楠の生活や、考えも示された部分がなんか好い。そちらのほうが共感できるから。

熊楠は次第に民俗学にも没頭していきますが、

「それよりも彼が関心を持ったのは、都市生活といわず、常民世界と言わず、すべての人間世界によって隠されてきた、人類始原の謎なのである。(中略)それは、近代によって隠されてきたものばかりではなく、人間の社会そのものによって、いわば『はじまりのときから隠されてあったもの』を、探求する学問なのだ。」

と言うことなのだそうです。

僕としてはとても惹かれます。「社会そのものによって」「隠されたもの」。まさにそれこそ無意識的にか意識的にか自分が探っているものだと思っているのです。腑に落ちないことが世の中には多すぎてね。常識と呼ばれるものを疑い、否定するのが得意な僕です。熊楠について知れば、もしかしたらもやもやが解消されるのではないかという期待をとても持ってしまいます。そう、期待です。

「熊楠の思想じたいに、もともと父親も後継者もいない。その彼の思想から、私たちは未来に生きるはずの、怪物的な子供をこの世に送り出そうとした。したがってそのやり方からして、この本は非正統的な新しいタイプの思想史をめざしていたことになる。だが、私の考えでは、この方法こそが、世界に隠されてある真実をこの世にあらしめるための、唯一可能な正統的方法なのである。」

大きく出たな、と言う感じもします。そしてよく分からない。何が「怪物的な子供」で(後継者のいない熊楠の思想を記したこの本が、か)、そして「真実」なんてあるのでしょうか。疑い深い僕なのでその言葉がどういう意味で、本当にうそはないのか、見極めたいと思ってしまいます。そして疑いながらも「真実」と言うものを見てみたいと思うのです。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿