柏崎百景

柏崎の歴史・景観・民俗などを、なくならないうちにポチポチと……。
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「ふみ子の海」と天皇陛下の御散歩道

2006年04月04日 | 景観
柏崎ロケ始まる 映画「ふみ子の海」
飯塚邸、旧別俣小で

 上越市などで撮影中の映画「ふみ子の海」(C.A.L)製作の柏崎ロケが二十七、二十八日、市内新道の史跡・飯塚邸と鵜川神社で行われた。
 原作は、今月末に閉校する高田盲学校の元教諭で上越市、市川信夫さん(73)の同名小説(理論社刊)。同校教諭として生涯を視覚障害者教育にささげた故粟津キヨさんがモデルだ。柏崎出身の本間信行プロデューサー(58)=(C.A.L)=が映画化までに四年をかけた。(略)
 柏崎ロケにはスタッフ約四十人が入り、飯塚邸では料亭シーンを撮影。「本番、よーい、スタート」の掛け声で邸内に緊張感がみなぎった。(略)
 四月一日には旧別俣小学校で病室と教室シーンを撮影する。地元小学生がエキストラで出演する。その後市内の海岸で「母ちゃん、海ってきれいだ」というふみ子のせりふで作品テーマにもつながる場面の撮影も予定されている。出演は中村敦夫さん、水野久美さん、高橋恵子さんほか。(略)

(平成18年3月29日 柏崎日報より)



 このロケ隊すでに柏崎での分は撮り終え、上越市旧高田の雁木通りでの撮影をしていると「新潟日報」に載っていた。原作者の市川信夫さんが高橋恵子さんにマッサージを受けるという出演シーンがあるそうで、まったくもって羨ましい。
 この頃にわかに活発化したフイルムコミッション(柏崎FC・上越FC。長岡FCももうすぐ発足するそうだ)の話もいいし、旧別俣小学校の行方の話もいいのだが、今日は改めて飯塚邸を取り上げる。
 監督から「色々に使える有能なロケ地」というようなお墨付きを貰ったようだが、今回は建物の事でもない。

 昭和天皇は昭和二十二年十月、甲信越を御巡幸なされ、十日、十一日の両日飯塚邸で過ごされた。
 「──十一日の午前中、雨にぬれた庭園を散策になり、その後裏門からお散歩にお出かけになった。その後一時間半にわたって飯塚邸附近を歩かれた。御巡幸の中では珍しい出来事と言われている。
 その後、昭和天皇の御散歩を大変な名誉とし、新道村(当時)の有志で道順に沿って記念の石碑が18ヵ所に建てられた。表面には碑文としてその場所での出来事と時間が、裏面には寄贈者の氏名が彫られている。
 道順をたどって碑文を読むと、終戦から2年経た当時の世相や、昭和天皇のあたたかい人柄を偲ぶことができる。(「昭和天皇の御散歩道と新道の柿」より)」







 飯塚邸の周囲と現在柿団地になっている風牧山、それに沿った礼宝山には、全国的にも珍しい「天皇陛下の御散歩道」がのこされているのだ。
 この様子は飯塚邸の内部にパネル写真で紹介しているから、ご覧になった方は多いかもしれない。去年この「御散歩道」を予に知らしむべくパンフレットが作られた。私の仲間で「綾子舞街道通信(毎月1回発行)」の発行者の骨折りによる。

 天皇陛下御散歩の御様子には、同行した記者による面白いエピソードなどもあるのだが、パンフレット発行の際お伺いを立てた宮内庁に「断定はできないことだから」と採用を見合わせた話もあるので、機会があればいずれ。
 このパンフレット「飯塚邸」「柏崎市立博物館」「ふるさと人物館」「高田コミュニティセンター」などで手に入る。

「綾子舞街道通信」は国道353号線沿いを、綾子舞にちなんだ街道として紹介、活性化しようというもので、群馬県の側にまで交流が進んでいる。この件もおいおい紹介していきたい。

(陸)


『柏崎』の中の名勝古跡 其四

2006年03月02日 | 景観
  『柏 崎』より

【剣野山】極楽寺の南一帯の丘陵を総称して剣野山と云ふ。満山只松樹、昇に難からず青々たる松林を透して遙かに日本海上白帆の去来を見る所、人をして神往くの思あらしむ。春秋の二季市人伍をなして酒を此所に酌む、特に秋季は茸狩をなす者隊をなし、林間縷々笑語歌声の洩るゝを聞くあり。
 剣野山の一角を御殿山と云ふ。土豪星野氏嘗て御殿を建てたるの所今は旗亭「後天楼」あり。楼に昇れば東の方遙かに刈羽の平野を望み、近くは又「三島の森」と相対す。真に近郊の遊覧地たるを失はず、浴場の施設あり。

【三島の森】{西南へ五丁}三島神社の神域清閑幽雅にして、遠く熱閙の地を去る、古松数株あり轟々天を摩す。新緑の美最も掬すべし。

【琵琶の城跡】{西南へ七丁剣野村}剣野山の麓にあり、今僅かに其一部を存す。応安年間宇佐美満秀其主上杉房方に従うて伊豆より来り築くと伝へ、又宇佐美孝忠伊豆より来り築造すとこ称せらるる。──欠──

【上條城跡】柏崎を去る南二里黒滝村にあり、上杉房方の五男に兵庫頭清方あり、其子定實此城による。後関ヶ原の役上杉の旧臣此地に占拠して乱す、城為に破却せらる。上條小学校のある所は其本丸なりしと云ふ。

【黒姫山】柏崎駅の正南遙かに鈍三角形の峰巒立てり、是れ黒姫山なりとす。海抜二千九百十七尺中央より少しく下りて一祠あり、六月一日祭典を執行す、清水谷より登る道より岐れて中腹を廻れば、鵜川水源の一たる出壷に達すべし、清冽の水岩石の空隙より■流して、崖下に落下する所洵に一大奇観たり。

【北条城山】柏崎の東北安田北条二駅の間、直に鯖石川を臨んで西の方突兀たる一峯を、郷人呼んで城山と云ふ。山麓「長國の碑」と称するものあり。即ち北条長國を指せる也。長國は毛利丹後守景廣とも称し謙信の幕下なり。
 城山の麓、北条村専弥寺は時宗の古刹にして、毛利氏累代の古文書を蔵し、又霜峯公の戦衣をも蔵す。

【広田の湯】{北条駅の東一里柏崎を去る四里}冷泉なりリウマチス及び瘰癧に特効ありと称す。

【八石の湯】{柏崎を去る南へ三里}柏崎停車場によりて臨む最左端の峰巒即ち八石山なり、山の西に二瀑あり不動滝屏風滝と云ふ。三伏の候炎塵を茲に避くるの者頗る多し、不動滝の附近二三の小亭あり。
 「瀑布巌高多石瘤  跳珠亂打百群頭
  疑是明王奇幼戯  化身千億沫飛流」

【茱萸(ぐみ)山の桃園】{西へ二十丁比角村}俗に「団子山の桃」と云ふ、新田村阿部和兵衛始めて荊棘を拓きて、梨樹を植ゑ、明治二十七年更らに桃樹を培ひしより里人競ふて其為に倣ひ、沿岸悉く桃梨を栽培せしかば、花時の盛観近郊罕に見る所となれり、されば土人の吟■を曳くものも亦少なからず、今は県の試作場たり。

【刈羽の桃林】{越後鉄道刈羽駅柏崎を去る二里}荒浜村の東砂丘の蜿蜒たるものあり世俗砂山と云ふ。此山の背後里余に亘りて桃林あり。夭桃四月白緋絹を争ひ、絳雲燃えんとする美観は、頸城馬正面の桃林と県下に並び称せらる。近年栽培の区域益拡大し、年産額附近を合して五万貫匁、郡内重要輸出品に数へらる。──欠──
            能院法師
  しなさかる波のうね/\傳へきて歩み苦しき越の高濱
            冷泉為兼
  降りつゞく雪の高濱はる/\と帆かけも見えぬ越の浦風

【西山油田】{越後西山駅柏崎を去る四里}鎌田、長峰、伊毛等の油田地を称して西山油田と云ふ。越後石油二大油田の一にして日産二千石、越鉄西山駅に降車すれば、井櫓林立奇観たるを失はず。

【椎谷観音】{柏崎を去る東北四里}堂宇は弘仁の頃より存在したりと伝へられ県下に其名高し。例年六月廿四日より七月二日迄馬市を行ふ。八月九日の九万九千日は信者群集して全山に溢る。


「琵琶の城跡」「上條城跡」「北条城山」この辺り一帯山を拠点にした古城跡が散在しているが、私はこの辺の歴史に弱い。

「黒姫山」山への畏敬信仰の形は今に至っても変わらない。米山と同様毎年盛大に山開きが行われる。
 高尾からの登山ルートだと六合目附近(磯之辺)にキャンプ場があり、舗装道路があるのでそこから一時間弱で登ることができる。登り始めてじきに「鬼殺しの水」がある。殆どがブナの林を縫う路で、一部イタヤカエデの原生林が有る。観音堂は山頂より少し下がった所にあって、実質の山頂。木が繁っているので眺望はあまり望めないが、本当の山頂は更に何も見えない。夏の時期にはオニヤンマに追われながら登る事になる。
 登山で流した汗は、すぐ麓の「じょんのび村」の湯で流せる。
 高柳町(ちょう)岡田からの登山ルートは廃村になった白倉という所を通ってゆく。廃村の碑の脇に豊富な湧き水がある。

「広田の湯」近郷農家の湯治場として人気が続き、現在も変わらずにあり根強いファンが多い。

「八石の湯」は未詳。今のところ史料にめぐり合えない。

「茱萸山の桃園」すでにその面影はなく、住宅地となっている。大戦の後復員兵の為に市営住宅が作られ、住宅地化が始まったと聞いたことがあるのだが、定かではない。
 私の子どもの時分、この辺りに自家畑を所有していた。学校の帰り道、友達と苺を貪り食ったのだが、後に一区画隔たった他人の畑であったと知った……ヒヤヒヤ。何ともすっぱいようなせつない記憶ではある。

「刈羽の桃林」現在でも一面桃林で、春の開花時期にはその名も「桃祭り」が催される。農家の高齢化が進んでいるのはこの桃林とて例外でなく、後継者不足即ち桃林のニセアカシヤ林化が懸念される所。この一帯は砂山で、ニセアカシヤが繁茂して時期には一面白く花を咲かせ養蜂業者の来る所でもある。

 私が小学校の遠足で、いわゆる刈羽の砂山へ行った。その頃は松林の中に小さな石油櫓がいくらでも見られた。無人の井戸はキーコキーコと音を立てて黙々と石油をくみ上げていたものだった。この井戸の林も何時とはなしに無くなってしまった。レプリカでもいいから少し再現してみたいものだ。
 蒲田や伊毛(いも)の井戸から資材・原油運搬用のトロッコが礼拝、西山駅まで通っていたそうだから、軌道の跡を探してみようと思っている。

「椎谷観音」椎谷岬の先端、頓入沙弥が独力十八年間をかけて築いた長い石段を登って小高い丘の上にある。弘仁年間開山と伝えられているが、現在の建物は明和七(1770)年、火災消失からの再建によるもので、市の記念物となっている。堂内にある数多の絵馬は市指定の民俗文化財。同鰐口は有形文化財。
 春先に行くと筍を分けてもらえる。但し有料。
 

(陸)


『柏崎』の中の名勝古跡 其三

2006年02月23日 | 景観
  『柏 崎』より

【塔の輪】{鯨波駅を去東へ三丁}鯨波北部の岬角を称して「塔の輪」と云ふ──当の輪村は岬角の東更らに三四丁の所にあり──風景佳絶明治十一年先帝東北御巡幸の際霎時風輩を止めて附近の風光を称し玉ふ所、今記念のための駐■の碑を立つ。

【鯨波駅】{柏崎を去る一里鯨波駅あり}駅の西方一帯の地は嘗ッて戊辰の際、東西両軍の戦へし古戦場なり、今は沿道随一の避暑地として其名高く高稜の松林中には蒼海ホテルを始め幾多紳縉の別野あり附近亦名勝に富む。(旅館)蒼海ホテル 浪花屋 若松屋(附近名勝)番神堂 河内白雲瀧 福浦 鬼穴

【????】──欠──左手は峨々たる米峰の麓、絶壁断崖相接して屏立し、右手は日本海の怒涛を噛んで物凄し。然れば其風光の絶佳なる事、北越沿線並ぶものなしと称せらる鯨波、鉢崎両駅の中央に青海川駅あり、避暑に適する好地なりと云ふ。

【鬼穴】{鯨波駅の北へ一丁}当の輪岬の角の丘腹一大洞穴あり、所謂鬼穴は是也、鬼穴の中に魚藍観音を祀り、洞外に翁の句「暫らくは花の上なる月夜哉」の石碑を建つ。鬼穴の外方海に面して平坦なる岩あり、玉屋の座敷岩と云ふ。伝へ云ふ古昔鯨波村に玉屋なるものあり、此巌上に舘を設けて豪遊を試みたる遺跡なりと。

【福浦】{青海川の東北一帯の海岸}鯨波駅より西一里青海川駅に至る海岸一帯を称して福浦と云ふ、或は巨巌突兀として海中に聳ゆるあり、或は洞穴其奥を窺め難きものあり、千状万態其寄伝云ふベ可からず。天気晴朗波高からざるの日は、鯨波より舟を賃して往きて遊び得可し。

【旗持山】{鉢崎駅の東へ半里柏崎より三里}米山の山麓、裾を曳いて海に入る所兀たる孤峰あり、是れ即ち旗持山なりとす。昔上杉氏此峰嶽に一壘を築き、米山口の番城と謂ふ。此峯の中腹に胞衣権現あり、義経奥州下りの時夫人京の方分娩、此地に胞衣を埋蔵したりと伝称す。祠の北方に甕破坂あり、京の方分娩の地なりと云ふ、元文年中長尾景虎兄晴景の軍と甕破坂に戦ふ事、史に見え──欠──弁慶金剛杖を以て突き得たる所と。往年此附近茶亭あり弁慶の力餅を売れるが、今は胞衣神社道の下麓に移転せり。
 名寄に云ふ「上輪は賤しき里なれ共、何か謂ありて五月帯をする事なし今の世に至ツても難産なし」と此地方一帯の土俗子なきは、此社に祈り乳乏しきは此所に賽し効験ありと云ふ、故に春秋の候婦人嬰児の来り詣づる者甚だ多し。

【米山薬師】{柏崎を去る四里}米山は海抜三千二百十八尺、以て甚だ高しとなす可らず、而かも其山容の俊秀なると輝虎の古戦場たりしと、頂上の薬師の霊験崇高なるとによりて、天下の名山に推さる。実にや之に昇れば郡峯朝泰瞰下眼を遮るなし。毎年陰暦四月八日より十月八日に至る間、登山者絶ゆる事なく遠く蒲原地方の農夫群れをなして来り賽す。登山道三あり柿崎駅より米山寺村を経て上るもの、柏崎より谷根小菅村を経るもの、及び上條村方面よりするものと是なり。
 「勞々盡日跨征鞍  海角山崖路百盤
  暮々朝々多變態  雨雲八十八峯巒」

【大清水観音】{鉢崎駅の南西里余柏崎を去る五里}寺は大清水寺と称す、持統天皇の勅願所にして越智の泰澄建つる所と伝称す、新義真言宗、安置する千手観音像は泰澄所刻なりと云ふ。遠近の老若賽するもの絶ゆることなし。


 「塔の輪」、「鯨波」周辺は常々の説明通り。

 「鬼穴」は古い小説になるが、松本清張氏の『不安な演奏』で死体遺棄のトリック(犯行の眼くらまし)様に使われて、探偵役の主人公が調査に来るという風に登場する。直江津からタクシーに乗って鯨波にゆくという時代(確か昭和30年代の小説だったと。私が読んだのはずっと後だが)。登場する旅館は蒼海ホテルだと思って読んでいた。他にも地元の小説家瀬下耽(せじも・たん)氏の作品にも登場する。
 鯨波辺だと古くは尾崎紅葉や、坂口安吾、の作品にも。蒼海ホテルは萩原朔太郎ゆかりだが……。ホテル旅館の記述は大正期のことゆえ、もし利用されるようならご自分で確認を。柏崎刈羽ゆかりの文学作品は『柏崎刈羽文学散歩』(巻口省三 編著/玄文社刊)に詳しいのでご一読を。

 「米山薬師」は言わずもがな、日本三薬師(伊豆、越後、伊豫)の一つとして世情知られる米山薬師のこと。豊作祈願、雨乞い、海上安全と広く信仰を集めている。
 米山は単独峰で裾野が海に落ち込んでいるので眺望絶佳。標高も低く比較的昇り易いので、手軽に登山できる山として広く親しまれている。
 いずれ特別項目で解説したい。 

 「大清水観音」は国指定の文化財で、「大泉寺観音堂」。
「堂は、けた行三間、はり間四間、一重屋根寄席棟づくり、茅葺の禅宗様建築で簡素な構造であるが、虹梁(こうりょう)、大瓶束(たいへいづか)、拳鼻(こぶしばな)などの絵様や曲線などに再興時以前の時代形式や手法がみとめられる。(柏崎市教育委員会刊 『柏崎市の文化財』より)」
 小高い海の見下ろせる山上にあって安らぐ場所。国道八号線を上越方面に向って米山町を過ぎ、しばらく行くと左手に案内板が見える。
 

(陸)


『柏崎』の中の名勝古跡 其弐

2006年02月17日 | 景観
  『柏 崎』より

【ねまり地蔵立地蔵】{西へ五丁乃至七丁大町扇町}大町にあるもの俗にねまり地蔵と称すれ共、実は薬師如来の石刻像にして、長六尺有余あり共日光佛の立像をも刻す。昔市街の中央に南向して立てり半身土中に埋もれたるを以て「根埋地蔵」と名付く、十一年龍駕北巡の際立地蔵と共に往還を避て路傍にうつす、立地蔵は扇町にあり、長八尺余往古市街中央に東向して立つ、地蔵の頭部上層船後光の中央に普光寺の三字を刻す、恐らくは後世の偽刻なるべし。此石仏二基「自然湧出の霊石」と称せらる。
 「ねまり地蔵や立地蔵、ほとけ、佛に似合はぬ魚のばんぞうなされます」三階節

【祗園舎】{東へ八町長町}八坂神社を云ふ。嘗て花街の巷に近接して居しがため四時参詣の人を絶たざりしが、遊郭移転の今日は左程にもあらず。然れ共地鵜川の河口に近き高台にあり、北日本海を展望して夏夜の納涼に適す、七月中旬の祇園祭には煙火を打揚げ遠近の人参集して雑閙す。是れ又柏崎年中行事の一なりとす。

【香積寺】{──島町}謡曲「柏崎」に 柏崎勝長の──欠──

【こほろぎ橋】柏崎町と大窪村との間に架せる大橋と云へしが貞享年間一町二十五間川下なる、現今の地へこれを移し名を大橋と改めたり。香積寺門前にある小石橋を俗に「こほろぎ橋」と称し、古昔の遺跡なりと伝ふれ共疑はし。

【西光寺の松】{西へ十丁大洲村}西光寺は柏崎の西南丘陵の上に在りて展望に可なり。日本石油会社は山麓一帯の地を占む。境内に一老松あり、偃蓋数十間附近罕に見るの巨木なり。西光寺の麓鵜川の曲折せる所を俗に「鐘が淵」と云ふ。

【極楽寺の桜】{西へ十丁大洲村}西光寺丘陵の南麓鉄路を距てゝ相対するものを極楽寺となす。桜花を以て名あるのみならず、幽遠閑雅、古松老柏欝乎として蒼々、四時遊覧に適せざるなし。
  「老木峻厳古佛塲  白雲深銷隔塵郷  驚雷送雨天風起  午院還添一段涼。」

【豊ヶ岡】{西へ十丁大洲村}大洲村北方の高地を指す、雲煙縹渺の間砂州を望み近くは番神椎谷の両岬一望の裡にあり。鵜川麓を流れ柏崎の全町容易に俯瞰し得べし。
「寒濤莽々送孤舟  隔海遙青見佐州。
 落日帝陵何處是  数峰雲色渺生愁。」
「海天浮紫翠  日落轉氣氣  應是黄金氣  蒸爲五色雲。」

【勝願寺】{西へ二十丁大洲村}大藤山と云ふ、楽翁公の筆になる「大藤山」の変額あり。近郷の境内に巨刹にして境内に桑名藩戊辰戦死者の墓あり。
  平生侠骨不消磨。  一死酬恩遑問也。
  今日吾来棒香花。  満山新緑雨滂沱。
──欠──

【番神堂】{西へ約一里下宿村}番神岬頭にあり。去今六百年前当寺は真言宗にして海岸山大乗寺と称せるが文永の頃、日蓮佐渡よりの帰路此所に漂着して止まれるより改宗して法華宗となる。後柏崎妙行寺と合し寺号を廃して単に普盆殿と称し、或は番神堂と云ふ。現堂宇は柏崎の名匠篠田宗吉作る所、堅牢秀麗を以て附近に聞ゆ。
 「下宿番神堂はよく出来た、御拝、御拝のしかけは新町宗吉大てがら」 三階節
番神の岬頭展望甚だ可なり。旗亭二あり北溟館、岬亭なり、避暑景観勝の客逐年増加するを見る。堂より下瞰する所即ち下宿湾なり。朝夕の出船入船画趣に満つ。特に夏の夜の漁火、眺め更に捨て難きものあり。
 「宗祖艱難倚此場  今見静浪愛海岸
  南無妙法蓮華経  安穩浮盃傾酒觴。」


 やはりおおむね「俳句の中の柏崎」で紹介した箇所に重なる。
 ねまり地蔵立地蔵の所「龍駕北巡」とは明治天皇御巡幸のこと。
 「西光寺」「極楽寺」は切り通しの信越線で隔てられているが、かつては一山にあった。極楽寺の桜はかつての花見場所として茶屋小屋もかけられたようだ。この一帯鵜川河岸の改修で、かつての面影はない。それでも境内の桜の樹は見事な花を咲かせていたが、何れも老木となり数年前整理され、花の幔幕と言えなくなってしまった。
 柏崎の花見場所は、この「極楽寺」から「御殿山(剣野町)」、「水源地(河内)」に移り、現在は「赤坂山公園」となっている。赤坂山公園は極楽寺御殿山の西側、御殿山の北側に当たる。

 ムラサキシキブのおやじぃさんから
>長岡工専の木伏さんが柏崎八景も調査されています
>http://www.nagaoka-ct.ac.jp/ci/sotsuron/2004/pdf/2004ci13.pdf
>その中の地図によれば「空間内の風景は約1~2kmと狭い」と記述されています。
>柏崎八景の中心はどこだったのでしょうか?大久保あたりなのかな・・
 というコメントを頂いた。
 柏崎八景のうち「黒姫募雪」「米山晴嵐」を除いた六景を地図上にしるした時に中心点(観察者の視点)がどこにあるのかということで、大久保のかつての陣屋の辺りに中心があるようにみえる。
 「柏崎八景」ができたのが1705年、陣屋ができたのがその後1742年。まして柏崎の商人連れが陣屋をありがたがった(心の支えにした)様子もないので、偶然だろうと思っていたが、この「豊ヶ岡」の記述を見てある意味納得した。逆に陣屋を作るにして、柏崎が一望できる景勝地を選んだのだと。厳密に「豊ヶ岡」が、どこを指して、どんな地形だったのかは調べぬままの、私は怠け者ではある。

「三階節」に歌われる「新町宗吉」は、(四代目)篠田宗吉のこと。文政十年生まれで、明治三十六年に亡くなる。
 建立した社寺は、柏崎・刈羽では番神堂・妙行寺・閻魔堂・光円寺・八坂神社・宮川神社・東福院、京都の東本願寺のほか高田、出雲崎、北海道にもある。
 晩年は函館高竜寺本堂を建立。その時の副棟梁は沢田吉平、彫刻は原篤三郎、金子九郎次、石工は小林群鳳ほか多数の職人が活躍し、柏崎で木材を刻み北前船で運んだ。一行は本堂完成に心血を注ぎ竣工式は感慨無量であったと推測される。
 その顕彰碑は八坂神社に建つ。

(陸)


『柏崎』の中の名勝古跡 其壱

2006年02月16日 | 景観
 大正四年に柏崎でその名も『柏崎』という本が出版された。
 巻頭に「此小冊子は現在の柏崎を説明することに私共の注意を集注──第一篇に於ては柏崎及び柏崎人に対する批評──第二篇に於ては柏崎の内容──第三篇に於ては柏崎と特殊の関係ある、石油縮布等の話及び比較的詳細な説明を要する工芸文学演芸等に関する話を揚げました」とあり、当時の柏崎が余すことなく紹介されていて、、地勢の古さを抜きにすれば現在に至っても、これを超える柏崎の紹介批評本は無いように思われる。
 前回までの「俳句の中の柏崎」は文芸と挿絵という視覚での柏崎の描写であったが、今回から『柏崎』の中に取り上げられた「名勝古跡」の件を、文章での描写として紹介する。文中に写真は添えられているが、古い本で写真の精度も悪く、まして原本ではなくコピーの本であるので、あえて写真は掲載しない。
『小太郎』は1715年の刊行、『柏崎』は降ること丁度二百年後の1915年の刊行だ。書き手は明治(当然江戸の教養を引き継いだ)の教養を持った人達で、所々に漢詩が挟み込まれている。往時の人達は柏崎をどのように記しているのかをご覧頂きたい。

※この当時の柏崎は「柏崎町」であって、現在の本町通り周辺のごく狭い地域で成り立っている。下宿村、大洲村(現番神鯨波)が合併するのが大正13年だ。
※先に記したとおり、原本をコピーしたものを使用しているので、読みづらく、ページによっては本のノドの部分が読み取れない所もある。その部分は──欠──とした。
※{ }内は本文中の割注。かなづかいはそのまま。漢字は地名表記などは現行用法に従ったが、熟語、漢詩などは原稿通りとした。つぶれて判読不能な文字は■とした。
※第一篇の柏崎の人間性に対する批評「魚なき池」が非常に面白い(柏崎は桑名の領地で地の士が居なかったこと、藩学が無かったこと、桑名藩士が遊山気分で柏崎に任じていた等々)のだが肝心な所が落丁しているので、今回は見送りいずれ紹介したい。
※著者や編集の協力者は最終回に紹介したい。


  『柏 崎』より
   名勝古跡


【諏訪の森】{駅を去る北へ三丁}柏崎神社を俗に諏訪社と云ふ。境内松樹多し、柏崎は度々舞馬の災いにかゝりて緑樹の美を欠く、独り此社付近一帯の地、松籟颯々市塵を絶つ。

【招魂場】{北へ三丁}諏訪の森の後方砂丘より上にあり、戊辰役に戦死せる王軍の士を埋めたる所、当年墓木として植えたる松樹今や欝然繁茂憑弔の人をして自ら感慨にたへざらしむ。
 「古碑苔厚委平沙  一夢茫々幾歳革
  此是英雄埋骨處  招魂祗合種櫻花。」

【翠光軒跡】{東へ三丁田町}原松州文化八年此地に来りて永住す。学徒相集まりて田町旧神明社の東に学舎を建築し先生に贈る、翠光軒は此舎を称して謂へる也。

【一里塚】新助町と下町との界、常福寺大門より表通りへ出づる東角は、往古一里塚の跡なり。近年一里塚の市兵衛なるもの在住し、柏崎の旧家の一つなりと誇称し居たるが今や乃ち亡し。

【大木戸】柏崎に大木戸二あり、一は橋詰に他は閻魔町に。

【閻魔堂】{東へ八町閻魔町}今は市街の中央にありて、人家稠密の裡に伍すれ共俳書「小太郎」の挿絵によれば二百年以前には荒寥たる原野中にありたるものゝ如し。
 例年六月十日より二十日迄十日間祭礼を行はる。俗、称して「閻魔市」と云ふ。近郷の土人参集して大いに雑閙す、柏崎年中行事の一つなり、内十五十六の両日最も賑ふ。最近二年間仝日の柏崎駅乗降客──欠──
      大正三年          大正二年
        乗     降     乗     降
  十四日  四四六   九三七   四〇三   五九七
  十五日 一〇一四  一八四七   七五四  二二〇三
  十六日  九九五  一二四八  一四一八  一七七四

【御家流小路】徳原泰輔柏崎に居る、御家流を善くす、其居は現今の郵便局前火防線と上條街道との中間にある路地にありければ、今も其れを称して御家流小路とは云ふなり。

【はたご町】今の大町辺、十数年前迄旅舎軒を接して建てり、俗此れ辺一帯を称して今も尚はたご町と云ふ。


 おおむね「俳句の中の柏崎」で紹介した箇所に重なる。
 招魂場は現学校町、柏崎小学校脇。御家流小路は国道352号(広小路)の一本東側の路地。はたご町(今の大町)とは現西本町二、三丁目付近。

(陸)


俳句の中の柏崎 其拾五

2006年02月13日 | 景観
 宝永二年の『柏崎八景』
   忘 庵

 元禄十六年の『俳諧柏崎』正徳五年の『小太郎』の間に『柏崎八景』といふ一書が宝永二年に刊行されてある。年号が違ふから余程隔たってゐるやうに見えるが、元禄十六年と宝永二年とは、中に宝永元年が一年挟まってゐるだけで、俳諧柏崎が出た翌々年に柏崎八景が出たのである。編者は同じ長井郁翁、出版元も同じ井筒屋、装訂、製本総て同調子。柏崎八景は俳諧柏崎の続編と見るべきである。

 柏崎八景は在来の瀟湘八景、近江八景等に倣って、柏崎並みに付近から見どころ八ヶ所を選び、夫々に夜雨だの晩鐘だのとくっつけ、其題下に句を配列してある。柏崎人所作の分左の如し。

   柳橋夜雨
 蝙蝠の妻や柳の夜の雨      重 英
 青柳よ宝は子なり夜の雨     郁 翁
   鏡沖秋月
 夕月や鼻に引こむ早稲の香    重 英
 見はやすや田家の娘秋の月    郁 翁
   栄松晩鐘
  (栄松山は浄土寺の山号である)
 入相よ砧の槌は他所に聞ク    重 英
   下宿帰帆
 夕顔が咲き迎へたり釣舟     重 英
 白浪よ笠ぬく春の帆掛舟     郁 翁
   米山晴嵐
 青當帰肌まとふや山あらし    重 英
 朝霧や嵐呑ンで山の形      郁 翁
   鵜川夕照
 鱗や紅葉をかつく夕日影     重 英
 はなれ鵜や夕日にすくむ岸の猿  郁 翁
   黒姫慕雪
 暮る程麓あかるし雪の色     重 英
 たそがれや雪の黒ます流川    郁 翁

 八景の句の柏崎作者は藤野重英、長井郁翁の二人に限られ、他は京都在住の俳人のみだ。重英と郁翁とが相携へて上洛した時に、編せられたものらしい。
 同所には又重英郁翁の巻いた連俳百韻が載せられてある。是は一流口の俳諧師が遣ったと思はれる程巧に出来てゐるが、余に長いから割愛する。巻末は普通の句集である。其中から柏崎人の作数句を抜く。

 田長舞ひ船人■(ごんべん+嵐)ふ初日和   重英
 元日や羽織袴の渡し舟       紫風
 御代の春麻上下や身のかため    悠水
 春の雪女笑はん細小路       郁翁
 捨子泣く方を有明さくら哉     同
 若竹の節かぞへけり都入り     同
 衣かへ二日過けり風車       同
 里合や我かたびらのぬれ所     同
 名月や鵜居なほる一木橋      同
 二上りもめいりし音や小夜時雨   同

 元禄から正徳へかけての柏崎俳壇は有力者といふ関係から、長井郁翁が牛耳を握り、優れた句を吐いたのは藤野重英だったと察しられる。
「越後タイムス」 昭和二十四年十月二十三日号より)


 其弐で(句の良し悪しは私にはよく分からない。観念的に頭で作った句もあれば、その場に立って作ったのもあるだろう。必ずしも写生的なものばかりでないだろうから適当に選んだ。)と記したが、全くくじ引きや「ちゅうちゅうたこかい」のあてずっぽうで選んだわけではない、一通り目を通して己が好みを載せた。忘庵翁の解説を見ている限り、私の選もまんざらではないようだ。
 これらの俳書を詳しく知りたい方は、原典に当たっていただくとして、柏崎の文学は俳句ばかりではない。大正4年発行の『柏崎』に「柏崎に於ける文学の芽生えが俳諧の畑に於てであった事は前節に於て叙説する所があった。併し乍ら徳川時代文学の主潮が漢文学にある事を知る以上は、そして漢文学の興起以前に於ける柏崎文壇の」とあり、寺澤石城以下の漢文学者を紹介している。又『柏崎市史』でも中巻の第五節を丸ごと宛てて「漢文学の展開」として記している。続いて漢文学の紹介となればいいのだろうが、元は景観を含んだ俳諧書を紹介と言う名目であったし、漢文は私には荷が余るので、ネタを仕込んでの何れの機会ということにしたい。
 

(陸)


俳句の中の柏崎 其拾四

2006年02月09日 | 景観
『小太郎』を紹介した「今は昔柏崎四十八題」には署名が無いが、連載中の越後タイムスの同じ紙面に『俳諧柏崎』と『柏崎八景』の解説記事が見られ、文体も同じなので勝田忘庵翁の文章だろうとした。
 また、順序が逆になってしまったが『俳諧柏崎』と『柏崎八景』の紹介記事を転載する。出版の順序からいうと、この『俳諧柏崎』が一番最初の開版で、一番古いことになる。


 俳諧柏崎

   忘 庵

 元禄十六年に俳諧柏崎といふ書物が刊行された。上下二巻。紙は上質、版も刷りも見事なもので、先づ豪華本の方である。京都で拵へた事は版元として、寺町通二条上ル井筒屋と署してあるから文明だ。此書物を編集発行したのは柏崎の俳人長井郁翁だ。
 郁翁は通称與次右衛門、伴幽軒とも称した。いふ所の本陣長井の主人だ。同家は今の本町二丁目南側の東端に大分大きな構えをして居った。其傍の路地を近年いろは小路と呼んだが、昔は長井小路と呼ばれたのだから、其位置は判然している訳だ。家格もあり、本陣の名を冠せられた程、旅宿としては第一位。家業も相当に栄え、隋て生計に余裕のあった事は、此豪華本を自費出版したことでも察しられる。此郁翁は享保十八年五月二日に歿した。
 俳諧柏崎の第一巻は郁翁が京阪地方へ出向いて、当時俳壇の巨星言水、我黒晩山、好春、方山等と数回に亘り三十六韻の連歌を巻いたのが掲げてある。夫を其時主となった宗匠が親しく筆を執って版下を認め忠実に刻してある点が見ものである。
 末の方には郁翁が其友藤野重英と手を携へて信州路から江戸へ出て、東海道を経て京都へと吟行した句が載せてある。此同行者重英は俗名源右衛門、幼名は源蔵、新町(今の本町二丁目)の住。享保七年五月に歿した。此吟行句の中から、気に入ったものを勝手に摘んでみる。

   鯨波村といふところ
 夏芝や牛のいびきも波の音    重 英
   関川を渡るとて
 水涼し女の髪もあらたまり     同
   追分
 おひ分や扇に躍る馬の尻      同
 夕くれに背をのす坂や閑古鳥   郁 翁
   二川
 牛の尾に槍持續ヶ雲の峰     重 英
   宮川
 若竹の杖ちびはてゝて都哉    郁 翁

 重栄の句には興味を覚ゆるものがある。牛の尾だの馬の尻だのを捉へ来って、巧に其場の情景を現はしてゐる。当時郁翁をめぐる俳人中、重栄が最も頭角を現はしてゐたといふ。此藤野の後裔は何うなったか。其後優れた人は出なかったらしい。
 第二集は世間並みの句集となって居り、日本国中、東は南部地方から西は京阪地方の俳人の句が収録されてある。左に柏崎人の俳句中から十数句を拾ふ。

   鶯
 鶯の片面汚スかきね哉     桜井 直水
   田螺
 塊も泡となりたる田螺哉    藤野 紫風
   雑春
 牛の尾に供槍つゞく春日哉   重英
   時鳥
 寝た家の上ゆくもあり時鳥   長井 暁水
   蛍
 ほろ/\の雨に君なき蛍哉   長井 郁翁
   蝉
 舎り場の榎枯らすな蝉の声   市川 悠水
   雑夏
 人柄も忘れつ夏のみだれ髪   長井 一○
   踊
 草臥を主に見せざる踊かな   長井 直水
   魂祭
 さりとては桔梗鼠尾草物いはず 長井 郁翁
   肌寒
 秋寒し寂しさめて物煮る昔   藤野 重英
   蕎麦花
 狐釣りよあけとなりぬそばの花  招   月
   時雨
 市女笠時雨ぞはしる一つ橋   市川 悠水
   霰
 剃たての頭打けり初霰     山田 木枝
   年忘
 乳の味を乙子に問つとしわすれ  秋  夕

 乙子、柏崎地方ではオトゴと言ひ、数多き兄弟の最も末の子を指す。斯く乙子と特に断って居る所に、父も母も相当の年配になり、相好を崩して乳飲子をあやす様子がほの見え、面白く読んだ。此秋夕には柏崎とだけあって、姓を脱してある。前の招月といふのも然うである。招月の蕎麦の花の句も佳作と思ふ。
 此俳諧柏崎が出てから僅々十数年の後、同じ柏崎から俳句集小太郎といふのが出た。が、小太郎の編者市川筌滉の名がこの中に見えないのは、異様に感じられるが、或は悠水といふのが改号したのかも知れない。市川姓のでは如柳といふのもあったが其句は採録しなかった。
 元禄から正徳にかけては柏崎は俳句趣味の地であったことは肯ける。

(越後タイムス 昭和二十四年十月十六日号より)



  ※文中の本町二丁目は、現西本町三丁目辺り。
  ※鼠尾草とは、「みそはぎ」のこと。
  ※(勝田)忘庵とは
  書画・地方言論界に偉大な足跡
勝田忘庵 <柏崎市学校町 明治9年(1876)~昭和37年(1962) 86歳>
縮商の嘉助の長男、通称加一、雅号は忘庵、溪雨、鉄幹など。
5歳で原松洲の門人沢田折枝の寺小屋で習字を学ぶ。
10歳で柏崎柳橋の長倉才助塾に漢詩のてほどきを受ける。
明治28年29歳で月刊「越山」発行、明治34年東京専門学校(現早稲田大学)政治科を卒業。
明治35年週刊「中越新聞」、明治38年「柏崎日報」、明治44年「越後タイムス」など創刊。
明治末年より十数年間日本石油社員となり、日石30年史を編集。
大正3年頃篆刻を始める。篆刻は徐々に周知され全国一流人の中に選ばれる。
戦後の後半生は随想・書・篆刻のほか陶芸・骨董・マージャンなどに傾倒。
地元はもとより広く文人・知識人芸術家と親交を結び異才を放つ。
■柏崎ふるさと人物館「芸術・文化に生きた人々<書画>」http://www.city.kashiwazaki.niigata.jp/life/talent/jinbutsukan/gb3.htm#katsutaより引用




 伊福部昭先生がお亡くなりになりました。謹んでご冥福を祈ります。
 222322232223……
 今夜は「SF交響ファンタジー第一番」を聞いてビールを飲むことにします。■■■

俳句の中の柏崎 其拾三

2006年02月08日 | 景観




弥彦山雲

 雲中に蒸や木実の弥彦山     筌 滉
 いかや上の弥彦山や雲の岑    招 月

 蒲原平野の海側にぽっこりと立つ「弥彦山」(634m)と角田山の姿は印象的だ。柏崎からは海岸線沿いに北北東の方向に望める。距離はおよそ四十キロメートル。麓に越後一ノ宮弥彦神社があり信仰を集めている。弥彦神社は石油関連事業者が参拝するというから、弥彦、出雲崎、西山から柏崎までの海岸線沿い一帯、石油業に絡んで柏崎に縁が深いといえる。

椎谷崎嶇(しいやきく)

 蒙連れて佐渡望也雪の岸     重 英
 若草に牛の道なし岩続      梅 水

 番神から西側の海辺は断崖岩場のせいもあって、海へ出なければ目の当たりにすることは難しいが、椎谷の岬は海岸から一望でき、市民には馴染みが深い。また、この岬に立って南西向きの眺めは格別だ。殊にカンと晴れた冬の青空と、白く波立つ日本海の背に米山、頸城の山並み、更にその奥に富山や飛騨の山並みか(詳しい方教えて)重々と連なる様子は神々しい。
 




八谷飛流

 夏滝や鷺横たふて十文字     筌 滉
 夏山の藍にはそまぬ白布かな   招 月

 刈羽三山の一つ「八石山(514m)」には「不動瀧」「屏風瀧」の二つの瀧がある。山は峰が連なり、その姿は人が臥しているように見える。地元の人達の努力があって、登山道や山小屋の整備が行き届いていて、その気になれば1時間で登ることができ、頂からの眺望もよい。
 
芥川千鳥

 打浪や尻にきかせて飛千鳥    筌 滉
 幾群て波の音消す浜千鳥     涼 月

「三階節」に歌われた「悪田の渡し」があった、現在の「鯖石川」河口付近。今、架け替えが進められている「安政橋(安政年間に作られた故の名)」は小太郎の頃には無い。今は下水処理場ができた辺りが、往時を偲ばせる湿原で野鳥の楽園でもあった。この西側の現「中央海岸」は童謡「浜千鳥」の生まれた浜でもある。

 『小太郎(柏崎四十八題)』はひとまずこれにて大尾となりますが、「俳句の中の柏崎」はもう弐回続きます。

(陸)


俳句の中の柏崎 其拾弐

2006年02月07日 | 景観




塩屋煙霧

 たかぬ日ハ霧立替る塩屋哉          重 英
 しほ釜や焦れて霧も立やらん         涼 雅

 柏崎の海岸では概ね何処でも塩焚(製塩)をしていたようで、かなり記録が残っているようだ。「瀘鞴夜光」に登場した大久保の鋳物師が製塩用の釜を作っていた。釜とて安くないものでそれを貸して財を成した者もあると聞く。実際働く者の苦労は別にして、たなびく煙の眺めとは風流に違いない。

三石潮音

 潮音や馴て昼寝の薄原            郁 翁
 夕浪の音に呼出す時雨かな          宇 曲

 築港や後の道路拡張のため、現在は地名(交差点名)しか残っていないが、「凹凸のはげしい岩礁が海へ突き出て、夫を北海の荒海が洗ふので壮観である(今は昔四十八題)」で、その付近に別荘まで出来ていたそうだ。幼い頃見てたはずだが記憶に無いのが残念。




屋型(おくがた)岩窟

 汐めくる花藻や岩に藤巴           筌 滉
 ところてん岩屋則氷室かな          重 英

 鯨波の鬼穴の辺りともう一説、番神岬の下に豪族が住んでいたらしい館跡をさすというが、句からすると鯨波鬼穴辺をさしているらしい。

岩島苔摘

 雪のりハ鷺か烏と成にけり           重 英
 のり摘や手の胼(ヒゝ)吹て番代(カハリ)   う 曲

 句にあるとおり寒中に採り「雪海苔」と呼んでいた。自然に岩についた海苔を摘むもので、番神から笠島まで採っていたと言われる。現在は「笠島の岩海苔」が有名で、毎年岩を洗って種を蒔くと聞く。これもまた寒中に働く姿、見ているだけなら風情があろう。

(陸)




俳句の中の柏崎 其拾壱

2006年02月06日 | 景観




三嶋神松

 白砂や又青砂や雪のまツ        暁 水
 松風の青ふて赤し朝霞         郁 翁

 剣野町にある「三島神社」。天平十三(七四一)年創立で延喜式神社名帖にも載っている由緒正しい神社。社領五百石、社家十二軒、舞の役人宅五軒というから凄いが、小太郎の頃には旧社は火事にあったりして最盛の面影は無かったたようだ。

洞雲禅寺

 山風や雲と青葉を折重ね        郁 翁
 緑香の秋を待てや結跏趺坐       筌 滉

 常盤台の「宝龍山洞雲寺」かつては山の上にあったのが、枇杷島城主宇佐美家の帰依によって現在の場所に移ったとされる。「貞心尼」の墓があることでも知られる。




八幡宿鴉

 見よや月鴉も西を跡にセす       無 正
 夜の雪木すえハ何と烏羽玉の      重 英

「枇杷島の鵜川神社の事である。鵜川神社は高田村新道にもあって、其何れが延喜式内に記され、越後風土記上にあるのに相当するかは厳密に調べた上でなければ断ずる訳に行かないが(今は昔四十八題(十一))」絵には欅の大木が描かれていないようだから、新道の鵜川神社?

金郭鮭簗(かなぐるわさけやな)

 鮭簗の裸も酒の力かな         佐 治
 川尻は紅葉ならてや上り鮭       重 英

「枇杷島から剣野へ抜ける唯一の橋──越後なる鵜川に鮎のすむものをとまで古歌に詠じられた鮎も鮭も此の十年スッカリ登らなくなった。これは──(同前)」明治から始まった石油産業が川を汚したのだと。簗場があったとは私も信じられない。




 史料を探していて見つけた記事。
 昭和二十五年十一月、柏崎福浦八景選定委員会による「柏崎福浦八景」が選定された。 柏崎福浦八景は以下のとおり。
柏崎海岸温泉
八坂公園
 喬柏園、プール、鵜川河口、祇園花火
番神岬
 番神堂、日蓮上人上陸の地、番神海水浴場、番神水族館、お光吾作碑
御野立公園
 明治大帝駐所、グラウンド、キャムプ場、アベック道路、眺望
鯨波海岸
 鬼穴、海水浴場、水族館、弁天岩
福 浦
 海の福浦、陸の福浦、(田の尻ヶ鼻)
米山遠望
芭蕉ヶ岡
 笠島、六宜閣、牛ヶ首断層

(昭和二十五年十一月二十六日 越後タイムスより)


 「八坂公園」の所に見える「プール」は現在は無い。「鵜川河口」は護岸工事や港の防波堤整備前だから、風情もあったのだろう。「祇園花火」は「ぎおん柏崎祭」の大花火大会として近年大盛況(H17年は雨に祟られてしまったが)。
 「番神水族館」というのは岩場に作った生簀のことで、今でも名残がある。八坂公園に水族館が作られたのは昭和二十九年七月(昭和四十三年閉館)。
 御野立公園「キャンプ場」に酒樽のバンガローができたのがこの後(バンガローは今は無い)。「アベック道路」という響きが懐かしいが、私の知っているのは現「海岸通り」のことだがこの頃は別の場所を指していたのだろうか。
 鯨波の「鬼穴」も、今は道路トンネルと変な東屋があってなんだか……。「鯨波海岸」の「水族館」というのは浪速屋の水族館のことか。
 「六宜閣」は市内上輪新田にある旅館で鯛料理で名を馳せる。建物は“国登録有形文化財”。
 この頃の柏崎市は、柏崎町+下宿村+大洲村+比角村+枇杷島村+鯨波村+上米山村。米山村は昭和三十一年に合併。

(陸)


俳句の中の柏崎 其拾

2006年02月03日 | 景観




雙林桟門(そうりんさんもん)

 桟門や餓鬼の相撲も施行腹      暁 水
 桟門や川に浮むて涼船        筌 滉

 「小太郎に描かれてある建造物で、今日其儘の姿を保ってゐるのは、西光寺の楼門であらう。──境内に巨松があって伝説まで生じた程であるが約三十年前に枯れた。(今は昔四十八題(十))」

瀘鞴(ふいご)夜光
 いまた湯の鐘も夜分の瀘鞴哉     重 英
 瀘鞴火や冬木桜の下涼        宇 曲

 現大久保に続く鋳物を吹く光。大久保鋳物師の根源は河内和泉にあり、初めは現在の鯨波河内に流れ来、後に現在の大久保に移り住んだという。大久保鋳物師の作とされる釣鐘等が主に県内に二百三十点余残されている。『柏崎日記』の渡邉勝之助も、度々釣鐘を吹く現場を見物に行っていた。




琵琶花園

 吹たツる桜の塵やはツ霞       郁 翁
 さくらちる跡や無弦の琴の音     重 英

 「枇杷島城の城跡に梅櫻などが植えられ、夫が鑑賞に値するやうになつてゐたのであらう。」その後果樹園を始めたが永続きせず、製糸工場を経て農業学校(現在総合高校)の敷地となっている。枇杷島城は慶安年間(1648~)に築かれたとされる宇佐美家の城。

十字店舎

 雉は海へ鰤は山へと師走かな     暁 水
 人心一銭重し極月市         郁 翁

 広小路と旭町島町の通りが交叉する角で、現西本町二丁目小林文英堂の辺りを指し、常設市場として賑わっていたらしい。生田萬の落し文も青竹に挟んでこの角に立てられていたという。



 今朝仕事場を掃除していたら、テーブルタップの下にダンゴ虫を二匹見つけた。仕事場というのは元工場を改造したオフィスビルの一室のその又一画だ。この建物は時々変な生き物に遇える。川が近いせいだというのは理解できるが、沢蟹が廊下を歩いていたのに二度会った。コウロギやカマドウマは時期になればしょっちゅうだが、この季節のダンゴ虫は何処からやってきたものやら。雪の降りそうな外にやるのも忍びないので、建物の中にあった観葉植物の鉢の中に非難させてやったのだが。

(陸)


俳句の中の柏崎 其九

2006年02月02日 | 景観




比角柳塘

 引き水や柳に残る蜆の髭      筌 滉
 一堤何万石の青田かな       松 滴

 現「白竜公園」周辺。以前はこの場所より南側の鏡が沖一帯の灌漑のためのため池で、「ねずみ塘」と呼んだ。「比角塘」が訛ったともまた、盗水を警戒して寝ずに見張っていたところから「不寝見塘」と言われたのが初めとも言う。
 白竜公園は新潟国体のハンドボール会場の予定で作られたが、新潟地震の影響で結局使われなかったと記憶している。

閻魔堂夜灯

 稲守や十王の火を後楯       阿 成
 知恵の灯に燃えて舎利とや夏の虫  筌 滉

 東本町二丁目の「閻魔堂」。往古ここに木戸が設けられていた境界地で、閻魔堂は木戸の外。江戸の中期頃から馬市がこの周辺で行われるようになり、現在も「えんま市(六月十四日から十六日)」として多くの観光客を集める。
 リンク先「特設ステージ」というタイトルのお姉さん(?)達は「ハモ娘(ね)ーズ」というゴスペルグループで、本来は四人組です。私はこの時後でスタッフしてました。今年もやる予定ですすので……。




諏訪遊蛍

 音しるや蛍飛来る宮太鼓      道 寿
 今朝や星蛍を連れて佐渡渡     悠 水

 今の「柏崎神社」は明治九年に改称され、それ以前は諏訪社として、現西本町一丁目にあった。現在の大光銀行脇の小路を諏訪小路という。「無量山蓮池」といい夏の風情が偲ばれる。

石橋暮蛙

 獅子の気や子を江に落す夕蛙    筌 滉
 晩鐘を跪て聞く蛙かな       秋 夕

「広小路を南に下がり柳橋に入り、不二屋旅館の手前に下水かと思はれる程の小さな流れがある。之を石橋と呼んでゐる。(今は昔四十八題(九))」不二屋は新橋にあって、この指す所は別の旅館だと思うのだが? 蛙の声が聞えるとほっとする私は旧人なのかな。

(陸)


俳句の中の柏崎 其八

2006年01月31日 | 景観




旗持孤峰

 旗持や馬の飼料春の草        重 英
 輝虎の威や鹿もなき旗の岑      筌 滉

 旗持山(標高336m)のこと。戦国時代は北国街道の戦略拠点で旗持城があった。別名城山。柏崎の町からは米山の峰と、ポツリと海側に離れたその孤峰を見ることができる。麓には義経ゆかりの願胞姫神社がある。

■陽だまり 旗持山へ登る■



神明苗代

 苗代のあたりを払ふ柳かな      吉 重
 苗代の矢大臣とは案山子かな     郁 翁

 現東本町一丁目にある園通寺の南側にあった社。明治三年に柏崎神社に合祀された。往時一面の田原を望めたのだろう。




汐込芦花

 水泡や葉末に帰芦の花        郁 翁
 黄昏ハ汐吹芦の穂首かな       筌 滉

「今の柏崎駅付近に字汐込といふ所が遣つてゐるさうだ。夏炎天が続き鵜川の水が減じた頃満潮時の海水が其邊まで逆流するので、斯る名があるのであろう(今は昔四十八題)」

橋末松山

 一に橋二子や涼む常盤山       宇 曲
 松風を踏鎮めたり今朝の霜      重 英

「橋末の松山とあるが、此橋が何の邊にあつたのか、今日見当つけかねる。似合はしいのは鯨波の橋から蒼海ホテルの松山を望むのだが、何も然うではなく鵜川に架したる橋を指すらしい(同前)」

(陸)


俳句の中の柏崎 其七

2006年01月30日 | 景観




月皓山(げっこうざん)稲荷

 はツ午に萩咲供御や福の神      郁 翁
 雪の尾を木の下闇のともしかな    重 英

 月皓山は西本町一丁目の遍照寺(へんしょうじ)の山号。この境内に稲荷があって初午の祭をしていた。往時は賑わっていたらしいが、昭和二十年代には「今でも行はれてゐるらしいが、ホンの近所のもの丈の行事といふ所であらう(今は昔柏崎四十八題(七))」とある。

無量山蓮池

 蓮の葉や十文銭の水の上       筌 滉
 水音や蓮に日脚の物語        郁 翁

 無量山は西本町一丁目の聞光(もんこう)寺の山号。「境内には蓮池があって、現在ではスッカリ狭められたが、近年まで其名残をとゞめてゐた(同前)」とある。この辺りより南の方は湿地だったようだから、砂丘の縁にでもあたっているのだろうか。




塔輪(とうのわ)郡牛

 秋の野や色即是空牛の鼻       叡 心
 寝た牛の鼻を貫く蕨かな       重 英

 現在の東の輪。
 大昔は繁華の地であったらしい。「塔の輪千軒柏原」といふ言葉が残ってゐる程で──大伽藍の礎石が遺つてゐたり、何百といふ板佛が地中から現はれたりする所から(略)。小太郎の出来た頃はすでに原っぱとなり今の御野立公園辺り一帯に、牛を放牧しており(略、同前)。
 明治頃まで牛飼いは盛んに行われていて、鯨波鬼穴付近での佐渡牛の陸揚げの様子が絵葉書で残っている。

天満故園

 箒目を葎とちりたり秋の暮れ     心 安
 礎や面影はかり菜種はな       郁 翁

 東の輪の南信越線と国道八号線の間で、現在は天神町の町名はあるが殆どが畑地など。往古天満宮が祭られていたのか。「特筆すべきは、太古住民の使用した土器の破片が出る(同前)」とある。

(陸)


俳句の中の柏崎 其六

2006年01月27日 | 景観




海岸山幽栖(かいがんざんゆうせい)

 我か庵の仁王そ左右の梅柳    日 柳
 松風の覗も秋よひとツ窓     郁 翁

 海岸山とは「妙行寺」の山号。初めは真言宗であったが、日蓮上人着岸が縁となって日蓮宗に改宗した。「高台に在りて境内が広いので、如何にも静である。今でさへ然う感ずるのだから、二百数十年前、幽栖の語を使ったのは然こそと肯かれる(今は昔柏崎四十八題(六)・昭和二十四年)」閑静な場所だったようだ。

納屋客船

 帆柱や葉のなき月の竹林     友 治
 蝦夷のもの蚤蚊のはなし難波人  筌 滉

 納屋町は現「港町」で、船の道具を入れる小屋が並んでいたので納屋町。漁師の多かった下宿と比べ船頭衆が多く春から秋の出船入船で相当にぎわったらしい。昔の港は桟橋が無く、大きな船には伝馬船で通う。港が整備されるまではこの辺りが船着場だったようだ。




番神夜泊

 緋の丸の月明てこそ舟印     筌 滉
 月は海へ落てそ平家物語     重 英

 日蓮上人着岸の地。日蓮は八幡大菩薩の力によって無事上陸することができたと感謝し、菩薩を中心に二十九神を合祈して三十番神堂とし、この時から番神堂と呼ばれる。■陽だまり 番神堂■

佐渡渡帆

 百帆まてかそへたりしを霞けり   顕 耻
 帆の帆のと浦つゝき也雲の    宇 曲

 往古佐渡への航路は寺泊と柏崎が占めていたそうだ(佐渡の金は出雲崎へ揚っている)。「お弁が松」の話はその証左だろう。上の句には「帆を百まで数えたけれど」となっているから、話半分としても相当の賑わいだ。

(陸)