柏崎百景

柏崎の歴史・景観・民俗などを、なくならないうちにポチポチと……。
「獺祭」もしくは「驢馬の本棚」。

久しぶりに海岸を歩く

2006年11月20日 | 
 久しぶりに「渚を歩く会の」採集会を行った。場所は柏崎市大湊海岸。
 海岸についた時は小雨がぱらついて肌寒く、帽子を忘れ、うつむいて歩く私の後頭部も濡れがちだったのだが、いつの間にか日が差してきて、暖かくなった。


その日の海岸と米山の様子



海鵜ではありません 元気なサーファーたち


 最近大荒れの日はなかったから、特段の大物がうち上がってはいなかったが、波が底をさらっているのか、波打ち際3メートルほどのところには、一面貝殻が目立った。
 私は怠け者に徹して、「なんだか訳の判らないもの」を見つけるのに専念し、後は写真を撮るばかり。

 そのうち娘が


アオイガイ


を、見つけた。中のタコが入った状態で上がるのはかなり珍しいとのこと。残念ながらこのタコは既に死んでいた。
 標本にできるという事で、持って帰ったが、洗っているうちに身と貝殻が離れて可愛そうな格好になってしまったが、佃煮のビンの中に今もある。

 怠け者の私は波打ち際に


小さなエビ


を見つけた。
 これはまだ生きていた。その気になって波打ち際をたどって、10ミリメートル~25ミリメートルほどのエビ4体を見つけた。
 同行のM氏が海水水槽を持っているとの事で、そこで飼育し、種類を見定めてもらうこととして預けた。



 更新が滞っているのは、「続鏡月堂日記」の翻刻に専念、乏しいながら仕事もしなければならないからで、万が一、拙ブログで楽しんでいる方が居られるとしたら申し訳ない。この先も活発な更新ができかねる状態であります。

(陸)


トレジャーハンター 怪しげな一行

2006年05月18日 | 
 渚を歩く会のフィールドワークとして、糸魚川方面へ出かけた。
 見学箇所は糸魚川の「フォッサマグナミュージアム」「青海自然史博物館」があるのだが、もっぱら心は海岸でヒスイを探す事に向いているようだ。もう一の見学箇所に市振のヒスイハンターO氏の話を聞くことも、海岸を歩く事も含まれている。

 まずはフォッサマグナミュージアム。


中庭にあるフォッサマグナの範囲を示す日時計


 ナウマン博士の見つけたフォッサマグナ、古い地層と新しい地層境ので、「糸魚川静岡構造線」は知っていたが、最近では「柏崎千葉構造線」と「新発田小出構造線」が知られ、その線の広い範囲がフォッサマグナなのだ……とは知らなかった。
 先般の地震はこの線の近傍で起こったのだな……という感慨は別にして


こんな標本がたっぷりあって、鉱物マニアの友人の耽溺振りが解る気がした。


巨大なヒスイの原石



海岸漂着したヒスイの原石


 写真では解らないが、一見単なる堅そうな石に見えるが、光を通し、見る角度によって様々な表情がある。古代の人間がこれを崇高なものと尊んだ気持ちと、何が何でも加工して身につけた気持ちが良く判る。


 ピアパークで昼食の後ヒスイ探しに挑戦。
 ピアパークの人は「たくさんの方が探しに歩いてらっしゃいます」と、これは言葉だけで一寸冷ややかな表情だった。
 W氏「あそこにも、ここにもあるぞ!」とずいぶん意気盛ん……。
 この後は、青海自然史博物館を見学した後、ヒスイハンターのOさん(親子。母堂と御子息)の処で、コレクションを見せて貰いながら話を聞き、鑑定を願うという段取りだ。


O氏に話を聞き鑑定を願うと


 私たちの拾った石は、どれもこれもハズレ


O氏のコレクション



O氏のコレクション


 以下のことを再確認

 1)乾いた状態でも光沢がある。
 2)不透明様ながら光を通す(日にかざす。ライトを当てる)。
 3)他の石に比較して重い。
 4)堅い。堅いので、丸まらず多角形様である。


 O氏のコレクションを眺めながら、目を肥やし。再び挑戦。


市振の海岸で再挑戦……


 結果は言わずもがな。そうこう簡単に見つけられては、貴重さがなくなる道理。近頃は車で寝泊りして捜し歩く人が居るとか。

 私はくじ運が悪い家系で、その上「どうでもこうでも」という気がなく、はなから諦めているので腐りもしない。山菜採りもキノコ採りも下手な口だからねぇ。拾った石はそっと捨てるような事はせず、庭の隅にでも置こうと持ち帰った……そのつもりで漬物石くらいの大きさを選んで。

(陸)


「快水浴場百選」に番神・西番神が選ばれる

2006年05月11日 | 
 タイトルの写真は番神ではなく、荒浜海岸のサーファーだ。
 一寸気が早いようだが海水浴場の話。

環境省が「快水浴場百選」 快適に泳げる海・湖 (共同通信) - goo ニュース

環境省が「快水浴場百選」 快適に泳げる海・湖

2006年 5月10日 (水) 17:42

 環境省は10日、快適に泳げる全国の海や湖計100カ所を「快水浴場100選」として選定、うち浄土ケ浜海水浴場(岩手県)や琵琶湖のマキノサニービーチ(滋賀県)など総合的に評価が高い12カ所を「特選」とし、公表した。

2001年選定の「日本の水浴場88選」を発展させたもので、人が水に直接触れることができる快適な場所の普及を図るのが目的。同省は3年後に100選を見直すことにしている。

ほかの特選10カ所はいずれも海水浴場で、小田の浜(宮城県)◇慶野松原(兵庫県)◇那智(和歌山県)◇片男波(同)◇大砂(徳島県)◇本島泊(香川県)◇下阿蘇ビーチ(宮崎県)◇万座ビーチ(沖縄県)◇リザンシーパークビーチ(同)◇ルネッサンスビーチ(同)。

goo ニュースより



- 柏崎日報 Online -

「快水浴場百選」に番神・西番神

 快適な海水浴場を広く普及させる目的で環境省が10日発表した「快水浴場百選」の中に、市内の番神・西番神海水浴場が入った。評価項目の一つである「清らかな水辺」の基準で満点の5つ星を獲得するなど高得点。県内ではほかに村上市の瀬波温泉海水浴場と佐渡市二ツ亀海水浴場が選ばれた。番神・西番神がこうした認定を受けたのは昨年「極めて水質の良好な水浴場」(全国12カ所)に選ばれたのに続く。

 この百選選定は、環境省が1998年度から開始した「日本の海水浴場五十五選」などを継承する事業。年間利用人数が1万人以上の海水浴場の中から、水質要件などを満たして都道府県の推薦を受けた191カ所が対象となった。

(2006/ 5/10)柏崎日報 Onlineより



柏崎の海水浴場についてはKashiwazaki Sea Stageを参照。もっともこのページトップに「柏崎の海岸線の総延長は、なんと36Km。そこには12の海水浴場があります。」とありますが、これは合併前の話。現在は43㎞、海水浴場は足す事の3で、15だったと思う(HP更新をサボってますね)。西山町分は石地海水浴場を参照されたい。

柏崎の海水浴場2005/7/30このページの最初の「中央海岸」の写真。解りにくいが、浜辺の左側黄色い細長いサーフボード様の物が見えると思う。その下13枚目「鯨波海岸」にも同じものが見え、SURF RESCUEの文字が読み取れると思う。柏崎の海岸には、柏崎の誇る優秀なライフセーバーが常駐しているので、安心して楽しんでいただきたい。
で、終わろうと思ったが一言。中央海岸には駐車場やシャワー・更衣施設があり、浜辺に車で入っていけることから、近年水上バイクが集まるのだが、彼らの傍若無人さが非常に顰蹙を買っていることを付け加えておく。又、市街地公園の駐車場などに夏の間中車を停めて過ごす、キャンパーの連中も。締め出しを食わないように心されよ。

(陸)


海での定めは

2006年04月07日 | 
 さて、船が遭難しそうになったら、或は遭難などの事故、或は犯罪に遇ったらどうしたのだろうか。次に掲げるものは延宝八年の「浦定条々」だ。


    条々
一公儀之船ハ不及申諸廻船共ニ遭難風時ハ、助舟を出し船不破損様ニ成程可入精事
一船破損之時其ちかき浦之者、精ニ入荷物・船具等取揚へし、其場所之荷物之内浮荷物ハ二十分一・沈荷物ハ十分一・川船ハ浮荷物三十分一・沈荷物二十分一取揚者ニ可遣事
一沖ニテ荷物はね捨る時ハ着船湊ニをひて、其所之代官・下代・庄屋出合遂穿鑿、船ニ相残荷物・船具等之分可出証文事
  附船頭浦之者と申合、荷物盗取はね捨たるよし偽申にをひてハ後日ニ聞といふとも、船頭は勿論申合輩悉可行死罪事
一湊ニ永々船を懸置輩あらは、其仔細を所之者相改日和次第早々出船いたさすへし、其上にも令難渋は何方の船と承届、其浦の地頭・代官へ急度可申達事
一御城米まハす時、船具並水主不足の悪き船に不可積之、日和能節若於船破損は船主・沖之船頭可為曲事、惣而理不尽之儀申懸、又は私曲有之ハ可申出之、縦雖為同類其科をゆるし御褒美可被下之、且つ亦あたを不成様ニ被可仰付事
一自然寄船並荷物流来ニおゐてハ揚置へし、半年過迄荷主於無之は揚置輩可取之、万一右之日数過荷主雖出来不可返之、然とも其所之地頭・代官可受指図事
一博奕惣而賭諸勝負弥堅可為停止事
右条々如先規弥可相守之、若悪事仕ニをひてハ申出へし、急度後褒美可被下之、科人ハ罪之軽重ニしたかひ可為御沙汰者也
  延宝八年七月日
             奉行

(柏崎市史資料集 近世篇2下より)




 公私を問わず難に及びそうな船は助けなければならず、もし船が破損したら、積荷や船具を引き上げるように指示している。積荷を引き揚げた者には、海上に浮かんだ物なら二十分の一、海中から引き揚げた物なら十分の一、川に浮かんだ物なら三十分の一、川底から引き揚げれば二十分の一を与える事になっている。
 沖合いで荷物を捨てざるを得ないような状況の時はその船が着く予定の湊で取調、残った荷の証文を出さなければならないのは、次に続くように、盗み取る(荷抜き)輩が出ることを警戒してだ。荷抜きをしたものは厳しく死罪としている。後の条にもあるように、賭け事盗みなどの犯罪を強く戒め、自訴してきた者には同類と雖も罪を許し、褒美を与えられるとしているのは、この頃の条の常でもある。
 湊に用も無いのに停泊してはならず、長期の日和待ちにはするには届がいる。
 流れ着いた荷物は、半年の後誰も持主として名乗り出なければ、引き上げた者の所有となる。これは、現在の遺失物取得の扱いに同じだが、この頃に元があるのだろうか。

 この条では荷抜きは死罪となっているが、先に「塩引き」の例で挙げた「破損の船からの荷物横領」の一件では死罪にはなっていない。同じ江戸の時代とはいえ、時代が下って罰が緩やかになったのか。或は、横領分を弁済するという事で、示談となったのか。
 だが、この件での実際支払われた弁済金額は、「塩引き分」代金五百三十四両余の内二百六十七両で、二百六十七両余は「用捨被成下候事」。他に前年に借りた元金十九両余も、右同断。更に米、大豆、酒などを隠し売った代金九十四両余も勘弁してもらっている。誠に寛大な措置だが、水主の地位が高かったのだろうか。
 江戸後期には千石船でも二十人に足りない人数で運用していたというから、やはり貴重な専門職であったのかもしれない。
 ちなみにこの件に関わった人間十人、それぞれに親類惣代二人、組合の人間四名が連名押印して詫び状を入れている。

(陸)


イギリス船に助けあげられ

2006年04月06日 | 
   乍恐以書付奉願上候
御領分越後国刈羽郡宮川宿役人惣代豊吉奉申上候、当宿政佐衛門舟沖舟頭彦次郎外九人之者松前江戸表商荷積罷越、当七月廿九日長州下関江向ケ出帆仕候処、奥州秋田沖におゐて及難舟漂流致居候中、同八月九日英吉利舟ニ被助揚一旦支那上海へ被□□右舟ニ而差送り貰ひ、同十月十五日箱館江着いたし候ニ付、同所御奉行様ニおゐて御吟味之上、右人当私共へ御引渡可被遊旨江戸御役所江御達ニ相成候間、早速箱館表へ罷越度、依之村役人代豊吉当月廿八日村方出立箱館御奉行所様江罷出度候間、乍恐御添翰頂戴被仰付□度奉願上候、以上
         御領分
          越後国刈羽郡宮川宿
慶応三卯年十二月廿六日   庄屋
                佐藤次(朱印)
                 次郎(朱印)
   与板
    御役所


 慶応三年七月宮川(柏崎市)の政佐衛門所有の船が、彦次郎以下九人の乗組員とともに、秋田沖で遭難。十日ほど漂流してイギリス船に救助され、イギリス船の目的地上海へ行き、同地から十月十五日に函館へ送り還された。函館奉行所で吟味の後引き渡される事になったので、身柄を引き取りに行きたいから添え状を頂きたい。宿役人惣代の役所への願である。なおこの頃宮川は与板藩領である。

 この願書を見るまで、郷土に外国船に助けられた人がいたとは思っても見なかった。海運、漁業が盛んな海里であればこんな例が無いわけではないのは当然だろう。
 この頃の日本の沿岸には多くの外国船が集まっている。通商条約での取引以外にも、偵察の軍艦も来ていたはずだ。越後周辺も例外ではない。『中村篤之助公用録』の慶応三年七月によれば五日に新潟の湊に夷船が入港したとあり、柏崎沖を航行したらしく
 「十日 晴天 今申之刻頃夷国船相見候よし家内のもの申聞候に付不取敢浜江懸出見受候処夷船は一艘にて下モの方より上の方へ通り抜ケ遠鏡にて見候へば只三帆相分り候而巳也直に引取
十三日 晴天 今巳之刻過夷船壱艘沖江相見候よし申来り親父様町会所江一寸御出勤被成今夜何れ江か出帆いたい候よし」
 と記されている。新潟の港に入った船と柏崎沖で見かけた船が同じだとは、私の勝手な推測だが。

 近世の日本では、アメリカの捕鯨船に助けられた土佐のジョン万次郎や、伊勢のにっぽん音吉、ロシアを経てほぼ世界一周をした石巻の若宮丸の一行など、漂流民の例は数多ある。いずれも、廻船の船員や漁師で、後に外国事情を伝えたり、通辞となって日本の開国へ大きく寄与したのは間違いのないところだろう。

 私の子供時分の必読書のいくつかはこの漂流物で『ロビンソン・クルーソー漂流記』や『十五少年漂流記』だったのだが、いまはどうなのだろう。この二作品はフィクションで、無人島へ漂着し無余儀生活の後辛くも帰還するというお話だが、日本にもこの例は実話で存在する。
 私が知っている一番壮絶な例は、天明年間「鳥島」に漂着した例だ。先ず土佐の漁師一行、次いで大阪の廻船の一行、そして薩摩の漁師一行が漂着したのだったと記憶している。流れ着く流木をためて船を造船、鳥の羽を編んで衣類にし、ようよう十余年の歳月を経て帰還した話だ。
 この話は小説の題材にもなっている。吉村昭『漂流』、久生十蘭『藤重郎の島』。鳥島には他にも漂着した例が多い。
 又、帰還望郷の執念といえば、噴火で住めなくなった「青ヶ島」へ、ようよう五十年の歳月を経て帰島する『青ヶ島還往記』(柳田國男)もすさまじい。これもやはり小説になっていて『島焼け』というが、私は未読。この青ヶ島の話と鳥島の話は同時期で、関連がある。


 昨日の分に書こうと思って忘れていた事がある。
 仕事中、目を休めるために鵜川の川岸で風に当る事がある。月曜日の午後、土手を降りていると、右手の堰の口(引き潮の頃は小魚が堰に向って体を並べていることが多い)辺りから緑色の塊が飛び出した。あれだあれだ……と思う間に輝きながら飛び去ったのは「カワセミ」であった。もう少し上流の土手に、遠目で見たことはあったが、こんな河口近くで見たのは初めてだ。
 いまひとつ。火曜日から「ウグイス」がいい声で鳴き始めた。最初はテープの音かと訝ったくらい上手に鳴く。極楽寺の境内だ。桜の枝も赤く染まりかけている。

(陸)


弁財(べざい)船の値段

2006年04月05日 | 
   船玉譲証文之事
一弐拾反帆辨才廻船      壱艘
   但諸道具別紙注文書之通リ
  代金五百九拾両
    壱〆百拾壱文
      内金弐拾両  梶壱羽代引
   残而金五百七拾両
     壱〆百拾壱文
右は拙者所有之船貴殿江譲渡し書面之代金不残慥ニ請取、船並ニ船具不残相渡し申処相違無御座候、此船ニ付外方~如何様之儀申出候共、拙者何方迄も罷出急度埒明貴殿江少しも御迷惑相掛申間敷候、為後日之船玉譲証文仍而如件
       天保十五辰年二月 早川 長谷川次郎佐衛門
                    代 金兵衛
                新潟宿 高橋次郎佐衛門
                口入人 本間屋太郎平
  荒浜 米屋石三郎殿
  御宿 嶋屋喜兵衛殿

(柏崎市史資料集 近世篇2下より)




 二十反の巾帆を持った弁財船を五百九十両で売り渡した証文だ。
 此頃の船の大きさは千石船など、船に積載可能な嵩で表すが、課税の対象になったのは帆の大きさで、この帆巾でふねの大きさ(石数)が分るという。
 帆反数 十反なら百石船、十八反なら四百石船、千石船は二十五反巾。
 積載量の「石」という単位は、穀類に使う石とは違い、材木の容積を量るのにも使う単位で、一石=十立方尺(約0.28立方メートル)。一石の十分の一で一才という単位もある。千石船の容量は280立方メートルという事になる。
 この証文の船は二十反巾の船だから五、六百石積みの船に当るのだろう。五百石としてみると140立方メートルで、四角い箱を想像するに、長さ10㍍×高さ2㍍×巾7㍍……ちょっと寸胴すぎるから10×3.7×3.7程ならよかろうか。
 千石船の二十五反巾の帆は巾十九メートル、高さ二十メートルにもなったという。それを張る帆柱は太さ七十五センチから一メートル角!

 船は当然中古品であろうが、五百七十両の値段をどう判断したらいいものか。海運業は賭けのようなところもあったが、当ると莫大な利益が得られたとされる。
 同じ資料集に「一金五百参拾四両永四百文 鮭塩引壱万三千二百六十本代、直段金壱両ニ付塩引弐拾五本買」という文がある。この文は、難破した船の積荷を水主達が横領し訴えられた、その詫び状なのだが、これが荷の総てではない。船の石数を記してはいないから、直に比べる事はできないだろうが、塩引きだけで五百両の売り上げになる。
 上り下りの航海に空荷で行くはずも無いから、それぞれの寄港地にふさわしい荷を乗せ、港港で商いをしているのだろう、一航海で元が取れるようなこともあっただろうと想像される。

 だが、先にも言ったように賭けのような所があったというのは、難破の危険が付きまとっていて「板子一枚下は地獄」の覚悟が必要だったようだ。

 弁財船の名誉のために記しておくが、弁財船は決して鈍重な船ではない。日本の近海航行する海運の用途に特化して進化した船で、船足は他国の多帆式帆船よりも早く(競技用のヨットを連想すればいいそうだ)、竜骨という骨格構造を持たぬ単純な構造でありながら強度は優れていたそうだ。洋船のように甲板を持たぬ故、大型の帆と、強引な大型の舵故、荒天に弱かったのだ。

 運が悪いとどういう運命になったかというのは次回に。

(陸)



新潟市沿岸でイルカショー

2006年03月28日 | 
 期せずしてクジラ・イルカの話題が続く。


新潟日報 NIIGATA NIPPO NEWS
 海原舞台“イルカショー”
 沖合い200メートル群遊泳

 新潟市中心部にある西海岸公園沿岸に二十七日、イルカの群が登場。元気に水しぶきをあげて跳ぶ姿が見られた。
 市水族館「マリンピア日本海」によると、群は日本海や太平洋などに生息するカマイルカ。黙視できるほど海岸に近づくのは珍しいという。
 群が現れたのは同日午前九時ごろ。海岸から約二百㍍沖に集り、午後一時ごろまで泳ぐ姿が確認できた。
 カマイルカは背が黒、腹部が白く、体長は約2.5㍍。「餌のイワシやアジの群を追いかけて沿岸まで来たようだ。今日は海が穏やかで、イルカも良く見えた」と同水族館は話す。釣りをしていた同市旭町通二の販売員、渡辺豊さん(五八)は「二十頭ほど集っていたように見えた。びっくりした」と話していた。

[新潟日報 03月27日(月) 上記記事は28日朝刊より]



 クジラとの衝突多発
 日韓高速船 効果薄い音波装置

 福岡市と韓国・釜山を結ぶ高速船が、対馬海峡などでクジラと見られる生物と衝突する事故が相次いでいる。運行会社は種類を特定して対策の効果を上げようと懸命だが、衝突を完全に避けるのは難しいとの指摘もあり、頭を悩ませている。(略)
 
 佐渡汽船も二件発生
 新潟港と両津を結ぶ佐渡汽船の高速船「ジェットフォイル」でも、クジラと見られる障害物との衝突による人身事故が一九九二年九月と九五年十一月に発生、それぞれ乗客八人、十三人がけがをしている。
 事故を受けて同社でも九六年からクジラが嫌がる音波を出す水中スピーカー装備に着手。現在運行する全三艘が〇.五秒間隔の“警告音”を発している。
 しかしそうした体制が整ってからもクジラとの衝突、接触は四回あり、いずれも負傷者などは無かったものの一昨年と昨年の十一月のケースでは水中翼がゆがみ、修理が必要となった。
 同社の古川原芳明・高速船部長によると、クジラと遭遇しやすい“危険遅滞”は新潟─両津航路のちょうど中ほど、約二十二㌔区間。そこでは時速を約十㌔落とし約七十㌔で航行するようにしているという。
 同部長は、さらに「シートベルト着用呼びかけや見張を徹底したいと話している。

[新潟日報 03月26日(日)より]




 時速八十キロ出る高速船とクジラの泳ぐ速度では、自転車と自動車ほどの差があるだろう。生身のクジラには気の毒だ。クジラと遭遇しそうな海域をゆっくりと航行すれば、季節によっては「クジラウオッチング」も楽しめる航路となるだろうにと思う。まったくの思いつきだが。
 柏崎の対岸は佐渡の小木だ。かつては佐渡航路は寺泊発と柏崎発で占めていたという。佐渡情話の生まれる由縁だ。
 この頃しきりに佐渡へ行きたいと思うのだが、船が苦手。ん十年前のあまり精神状態がよろしくないときに、北海道旅行をして礼文島へ立ち寄った。よせばいいのに島の山の頂上に立って、遠くの利尻島よりほかは海ばかりの景色を見て、腹の底が冷えるような孤独感にさいなまれて以降、島もなんだか苦手であった。
 その後一度佐渡へ渡っているのだが、酒で神経を麻痺させていたから、あまりよろしい記憶が無い。高速船ならへ揺れもしまいから、今年は行こうかな。

(陸)


流れ着くものたち 其三

2006年03月13日 | 
渚のフィールド・ノート
─「渚を歩く会」の活動から〈下〉─

渡辺三四一〈柏崎市立博物館学芸員〉


 渚の比較民俗学


 とはいえ、浜歩きを重ねていくと、打ち上がったゴミにも様々な楽しみ方があり、愛着も少しずつ涌いてくる。
 例えば、使い捨てライター。三十年程前から普及し、いまや漂着ゴミの横綱各である。国産品以外でも、ハングル文字の韓国や、漢字の中国・台湾製が数多く打ち上がる。ごく希にロシア製のライターも見つかる。
 中国や台湾製と思しいライターの中には「恭喜友財」や「財源广迸」とか「自由」といったスローガンが印刷され、そのお国ぶりを伝える。数少ないロシア製品については、使い捨て文化になじまぬ国情だからだろうと、勝手な予測を立てている。
 外国製品の漁具もたくさん拾う。数で最も多いのが、漁網用のプラスチック製の浮子(うき)である。オレンジ色が大半だが、中にはクリーム色の浮子もあり、大きさや形状にも微妙に差がある。網の規模や種類、取り付け位置などと関係するのだろう。
 浮子の胴部に陽刻された商標を見ると、ほとんどが韓国や中国・台湾製であった。中には「フロート」と日本語の商品名を記す中国メーカーもある。日本人が横文字を使いたがるのと、きっと同じ感覚なのだろう。現在六社の製造元を確認した。
 ところで、韓国人はアナゴ好きらしい。それはあちことに打ち上がっている黒いプラスチック製の筌(ウケ)という漁具から窺える。本来、筌は竹製で、一方がすぼまった円筒状の胴部の内側に、入ったアナゴが出られないよう朝顔状のカエシを取り付ける。その竹製の民具が、いまやプラスチックの工業製品に転換している。同じことは蛸壺にも言える。
 このように中国・台湾や韓国では、プラスチックによる漁具の大量生産が一般化した。これとは対照的に、シラカバの樹皮をロール状に捲いた浮子も打ち上がる。おそらくロシアの物とも考えられるが、この地域差がおもしろい。
 隣国の漁具の変遷と差異、はたまたま食文化が、いながらにして見て取れる。渚とは卑近な比較民俗学のフィールドでもある。

ゴミも積もれば……

 いま博物館の一室には、上記以外にもペットボトルやガラス瓶、流木や木の実、変った石やおもちゃ類など、様々なモノたちが分類別のパン箱に納まっている。この夏開催する特別展「渚モノがたり──漂着物から見た越後・佐渡」の展示資料の一部である。ただ「現代の漂着物」を語るには、まだ数と種類が足りない。ゴミも積もれば展示になる、というのが当会の合言葉である。
 採集物には会員の手により、採集地と最終日が注記される。手間のかかる作業だが、これにより単なるモノが資料となり、三十年後、五十年後の比較も可能となる。もちろん、物好きな学芸員と市民がいればの話だが……。
 果たしてその頃、どんなモノが渚に打ちあがっているのか。そもそも渚は健在か。楽しみでもあり、心配でもある。

「越後タイムス」平成18年3月10日号より




 3月11日「渚を歩く会」の活動に参加してきた。
 快晴無風で暖かく、波もない穏かな大崎海岸を歩いた。そこ此処にアオサを摘む人の姿が見られる。
 採集にあたって何かテーマを決めねばなるまいと思うのだが、貧相な頭に思い浮かぶのは、海賊が埋めた宝の地図をつめたラム酒の瓶……。瓶なら無難だろうと、私はビン類と娘には貝を拾わせる。ロシアのウオッカの瓶、チンタオビールの瓶……よしよし。だがいくらも歩かぬうちに気が付いた。ガラス瓶は重い。ひょうろくだまはすぐに初志を曲げる。ドリンク剤かソフトドリンクの瓶に。
 これは捨てているのではないよ、と独り言を言って今まで拾った瓶を形よく並べて置き去りに。

 結句、私は中型のレジ袋一杯の瓶と奇跡的に割れずに漂着した電球を六つばかり拾い集めた。電球にはどういう具合で入るのか、中に海水や砂が溜っている。船舶用・コクヨと印がある、世の中の常とは別のメーカを知る事になる。
 渡辺氏は引きちぎれたような救命胴衣をモノにしていたが、人が着用していたものだとしたら、その人はどうなったのであろうか……。
 これらは七月に開催される私立博物館の特別展に展示物として並ぶ。おかしなもの、不思議なものが数多ある。ご期待あれ。
 

(陸)


流れ着くものたち 其弐

2006年03月06日 | 
オウギハクジラ米山海岸に漂着
外傷なし、国立科学博物館へ

 市内米山町の海岸に鯨の死体が漂着しているのを近くの工事現場の人が二十八日発見し、市に届け出た。
 私立博物館で確認したところによると、オウギハクジラのメスで、体長は三六〇㌢、胴回りは二〇八㌢、推定体重は三五〇㌔から四〇〇㌔。三歳くらいの幼体らしい。
 オウギハクジラは日本海に生息しているクジラで、ほとんど生態が知られていない。柏崎から西山にかけての海岸では近年、五頭が死体で漂着している。これまでは大きな傷があったり、腐敗していることが多かったが、今回のクジラは外傷などは全くなく、調査した博物館の学芸員も「こんなにきれいなクジラは珍しい。食べたものが入っているのか、腹もしっかりしていた」とビックリ。クジラは一日、研究用として東京にある国立科学博物館に送られた。

「柏崎日報」2006年3月2日(木)より





渚のフィールド・ノート
──「渚を歩く会」の活動から <上>──

渡邊三四一 <市立博物館学芸員>



文化としての浜歩き


吹けや西風 あがれやじばさ
 かわいとのさの 磯まわり

 民謡「柏崎おけさ」の唄い文句どおり、かつて磯周りは海辺の人々の日常的な習慣であった。
 打ちあがった海藻類は味噌汁などの具にし、干しては畑の肥料となった。塩気を含んだヨロギ(流木)は、雨ざらしにして焚き物にし、冬のハリセンボンは膨らませて玄関の魔除けとして。荒れた日の翌朝には、これから海からの贈り物を拾う磯周りの姿がみられた。
 一方、じっくりと砂浜にしゃがみこんで、美しい海石や貝拾いを楽しむ人々もいた。昭和四十七年、柏崎海石会が「柏崎の海石展」を旧図書館で開催した。十名の会員が長年集めたメノウや不思議な文様の海石が所狭しと並んだ。マスコミも大きく取り上げ、しばらく柏崎は「宝石の打ちあがる海岸」の町として名を知られた。
 このように一時代前の柏崎には、四季を通して渚を楽しむ人々が大勢いた。それは里山と寄り添って暮らした農民の姿にも通じる。
 博物館では、この渚の文化伝統を受け継ごうと、昨秋から市民参加の「渚を歩く会」を立ち上げ様々な漂着物の観察と採集を楽しんでいる。

渚のロマン・渚の現実

 夏の夕方六時に、柏崎では「椰子の実」のメロディーが流れる。作詞は島崎藤村。実はこの詩は、後に日本民俗学を創始する柳田國男が、親友の藤村に聞かせた話から誕生した。
 明治三十年夏、学生だった柳田は渥美半島の伊良湖岬でひと夏を過ごし、散策の折に椰子の実を見つけた。遙か南方の種子が黒潮に乗って漂着したことに驚き、人や文化の移動に思いを馳せた。柳田は漂着物(寄りもの)を「風と潮のローマンス」と呼び、その感動を熱く藤村に語ったのである。
 当会の十五名の会員のうち三分の二が女性で占められるのも、あるいはこの「椰子の実」の影響かもしれない。だが、あれから一世紀を経た今日、残念ながらその期待は、すぐには叶えられない。
 私たちの歩く渚は、いまやプラスチックや発泡スチロールなどの人工物のゴミが打ちあがる空間と化した。南方の種子や美しい貝や石は、圧倒的な量のゴミに隠蔽され、ロマンより先に現実を直視することから始まる。
 昨夏、市広報が注意を促した中国製の医療器具は、わずか九回の活動ですでに百点を越えた。行く先々の海岸に、使用済みの注射針や点滴用の薬瓶が散乱している。現代の渚とは、不法投棄などの人間の悪行が露呈する考現学のフィールドでもある。

「越後タイムス」平成18年3月3日号より






※「渚を歩く会」の活動を日曜日と紹介したが正しくは
毎週土曜日(三月二十五日は休み)九時、「ふるさと人物館」集合であった。


 文中の「ジバサ」は海草。「ハリセンボン」は体中針の生えたフグで、膨らませたものを家の軒先につるして魔除けにした。昭和三十年代の新聞を見ると柏崎のみやげ物として力を入れていこうという話が載っている。私も子どもの頃は見かけた記憶があるが、いつの間にか見なくなった。それでも又近年、復活させようという声が上がっているようだ。腐れないように、縮まないように固めるのが難しいと、笠島の漁師の方が話していた。

流れ着くものたち

2006年01月27日 | 
 前回の柏崎の漂着物に引き続き二度目。今度はオットセイが打ち上げられた。昔の八坂神社の所にあった水族館に居たのはオットセイだったか、アシカだったか。少し前に絶滅危惧でもある南方の亀「マイタイ」が弱っていたのを保護し、寺泊水族館に送ったという記事を見たのだが、ネットの上には上がっていないようだ。



オットセイが青海川海岸に漂着

 市内青海川の海岸で25日午前、死んだオットセイが打ち上げられているのを近くの人が見つけ、市立博物館に届け出た。同館で調べたところ、市内では初の漂着例となるオスと分かった。
 このオットセイは体長1メートル88センチ、胴回り1メートル36センチ、体重約200キロ。頭部に損傷があった。博物館によると、市内の漂着記録は1971年、88年、93年、04年の4回で、いずれもメス。88年、04年は中央海岸、安政町で生きて漂着した。
(2006/ 1/26)

「柏崎日報」より



ポリ容器、上越にも漂着

 上越市名立区から柿崎区の海岸に25日、大量のポリ容器が漂着しているのが見つかり、同市は107個を回収。うち1個には液体が入っていたため、県が成分を調べている。ポリ容器には中国語やハングル文字で「リン酸」「硝酸」などの表示があるという。24日に佐渡市でも同様のポリ容器が漂着している。

[新潟日報 01月26日(木)]より
( 2006-01-26-9:47 )



 同日の同新聞には、25日佐渡でも383個回収されたと報じている。
 このポリ容器は柏崎の海岸にも漂着し、26日柏崎市の広報で触れないように呼びかけた。
 非常に腹立たしい。
 

(陸)