柏崎百景

柏崎の歴史・景観・民俗などを、なくならないうちにポチポチと……。
「獺祭」もしくは「驢馬の本棚」。

柏崎ふるさと人物館 特企画別展

2006年10月25日 | 行事


柏崎ふるさと人物館 平成18年度特別企画展
郷土へのまなざし
郷土史と先人たち


 自分が生まれ育ち、また、生活している土地に関心を持つことは特別な発想ではありません。「昔はどんな生活をしていたのか」という関心を発端にして、その土地の歴史や民俗を明らかにしようとする郷土史研究は、柏崎刈羽地域においても戦前から始まっています。先人たちの成果は市史編纂や懇意地の調査研究に大いに活用されており、その価値はいまだに色褪せることはありませんし、むしろ輝きを増す場合が多々あります。今回は代表的な先人を取り上げその事跡を紹介します。
 点じには、これまで編纂された地誌や郷土史なども取り上げます。中には郷土史に含まれないものもありますが、そこには郷土史とは異なる視点が郷土に向けられています。郷土の関心が多様であったことをあわせて紹介するとともに、郷土の個性を求める動きが身近にあったことも知っていただきたいと思います。

会  期:10月28日(土)~12月3日
開館時間:午前9時~午後5時
会  場:柏崎ふるさと人物館特別展示室
    入館・入場無料


主な展示内容
      ●記述された柏崎
      ●明治・大正の地誌類
      ●郷土資料と図書館
      ●先人たちの事績

休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)
問合せ:柏崎ふるさと人物館 0257-21-8817




 ポスターの写真は左上から 山田八十八郎、中村藤八、関申子次郎、下段は田村愛之助、桑山太市郎、の大先生方。
 山田八十八郎師は明治時代の柏崎の区長などを歴任した政治家で、原修齋門下の漢学者。『刈羽郡旧蹟志』など著書多数。
 中村藤八師は柏崎の図書館の基となった中村文庫を寄贈された方(ふるさと人物館は、元の柏崎市立図書館)。
 関申子次郎師は柏崎地誌の基本文献ともいえる『柏崎文庫』など多数を著した方。この写真は若い頃。
 田村愛之助師は文書の収集まさに汗牛充棟家産が傾くほどだそうで、市の図書館の所有文書の分類項目に名前があるくらい。中村家の文書のほとんどは師の収集による。
 桑山太市郎戯魚堂師、綾子舞を世に知らしめ、民俗関係に特に増資が深い。
 顔写真のバックは関申子次郎の文字で、閻魔堂に関する記述。などとここで説明してもしかたがない。是非現物で確認いただきたい。取り上げられる人物はこればかりではく、鏡月堂日記なども並んでいて、現物が見られるのでぜひに。
 会期が間近に迫り、学芸員の池田氏はあせっているようです。

(陸)


綾子舞街道通信 風土市

2006年10月17日 | 綾子舞街道通信


綾子舞街道観光まちづくり会議
綾子舞街道 風土市
綾子舞街道(国道353号線)沿いで開催


 私たちは「風土」とは自然と人、歴史と人、人と人の関係が安定している地域にあると考えています。言い方を変えれば地域の生き方、暮らし方であり、まさに「地域文化」そのものであります。この地域文化を内外にしめす取組として「風土市」を計画しました。
 今回は、綾子舞街道沿いの個人所有の庭園もご覧いただけます。地域の魅力を体感してください。〔龍雲時庭園(黒滝)、隅田邸庭園、秋幸苑(飯塚邸 有料)、野沢邸庭園、静雅園(綾子舞会館隣)  掲載写真は秋幸苑〕

会  期:10月22日(日)
時  間:午前10時~午後3時
会  場
    ●新道即売所
 柏崎市新道 飯塚邸駐車場
     ・新道柿組合がもぎたて柿を販売
     ・綾子米関連グッズ販売
     ・飯塚邸にてとん汁無料サービス
     
    ●別俣即売所
 柏崎市久米 別俣コミュニティセンター
     ・ぬか釜で炊いた新米コシヒカリを販売
     ・有志農家による朝取り野菜の販売
     ・お汁粉、漬物、ポン菓子の販売
     
    ●鵜川即売所
 柏崎市女谷 綾子舞会館
     ・有志農家による朝取り野菜の販売・味噌の量り売り
     ・みそ漬、米、きのこの販売 ※そば打ち体験(有料)

問合せ:飯塚邸 0257-20-7120  柏崎市観光交流課 0257-21-2334



※『綾子舞街道通信』の企画・製作は海津印刷によるものです。毎月20日発行 発行部数7500 お問合せはTEL 0257-22-3979(海津印刷)まで


 このところイベント告知が続いてしまっている。このまま終らせるのも芸がないので、関連のお話を。
 庭園解放に名の挙がっている黒滝の龍雲時。この辺り一体を上条口と呼んでいて、上条氏の居城としては、上条にある城跡をいうのが一般的だが、時代がさかのぼって室町から戦国時代までは、山城を居館としていたと言われている。その黒滝城があったのが、龍雲寺の後背の山だ。
 龍雲寺の並びの小公園から、城址へ登る道もついているが、今は秋草が生茂っているかもしれない。また、辺りに巡礼塔もあるが、よく見分していないので詳しい事は記せない。
 この城山にこんな伝説が残っていた。城があった頃より、時代が下ったころの伝説だろうと思う。採取された年月は不明だが昭和47年『柏崎市伝説集』として柏崎市教育委員会から出されている本にあった。
 ちなみにこの山の2キロメートルほど北の方が、昭和天皇が巡幸の際散歩なされた場所である。

 黒滝の縁切り坂

 黒滝の竜雲寺の裏山、火葬場の西の山上に登る坂の名を「縁切り坂」といい、急な坂である。ある村からここに縁付いてきた女がある。ある日、山上にある薪(たきぎ)を家まで運ぼうと夫と一緒にこの坂にかかったが大変急なので、ひとりで登ることが出来ないので夫の手をかりてやっと山上にたどりついたが、薪を背負って今度は降りることができず、回り道をしてようやく家へ帰ることができた。
 此事を生まれた家へ帰って両親に告げたところ、両親はかわいそうに思って離縁を申し込んだという。
 この土地に縁付いたもので一度この坂を通り、縁切りを願わない者はなかったということで「縁切り坂」と名づけたという。
 この坂を越えたところに田、畑もあるのでこの土地の人々はこのさかの上り下りはやむを得ないことであったという。


(陸)


柏崎市立図書館所蔵写真展 第2回

2006年10月16日 | 行事


柏崎市立図書館開館100周年記念事業
柏崎の百年
柏崎市立図書館所蔵写真展 第2回



会  期:10月18日(水)~30日(月)
開館時間:午前10時~午後7時(土日は午後5時まで)
会  場:ソフィアセンター(柏崎市立図書館)2階展示ホール
地  図:ソフィアセンター地図
主  催:柏崎市・柏崎市教育委員会

入場無料



 7月に開催いたしました「柏崎の100年 柏崎市立図書館所蔵写真展 第1回」には、多数の方にご来場いただき、まことにありがとうございました。
 第2回となる今回の写真展では【街】【人・暮し】【できごと】【こども】をテーマに写真を選定いたしました。昔の子どもたちのいきいきとした姿、今では記憶の中にしかない風景……。懐かしさあふれる写真をご覧いただけます。また、昭和四十年頃の町並みの再現など、今回も趣向を凝らした展示を目指しています。
 今回は、市民参加型展示として、市民の皆様がお持ちの写真を会場に展示させていただきたいと考えております。中越地震などの災害、日常の暮しや学校など、撮影年代にかかわらず、お手元の写真をぜひご提供ください(ご協力いただいける場合は、公開しても差支のない写真、今後図書館で活用させていただける写真のご提供をお願いいたします)。
 期間中、2階ハイビジョンホールで柏崎市関係各種ビデオの上映を行います。懐かしい映像をあわせてご覧下さい。
 たくさんの方のご来場をお待ちしておまります。




 写真が載せられないのが淋しいのだが、市立博物館で開催中の「ちょっと昔の道具展」のポスター写真が、同図書館所蔵のもので、真貝真一氏撮影写真の中の一枚だ。この一葉で、その雰囲気を察する事ができるかもしれない。
 写真は主に柏崎周辺のものだが、地域を越えて楽しめるはずだ。前回の展示は非常に好評の内に終って、第二回目が待たれていたのだ。
 更に、同じ時代を扱った、博物館の展示とあわせれば二倍楽しめるだろう。博物館には「駄菓子屋」も出展していた……ぜひお出かけを。

(陸)


赤レンガフォーラム at 糸魚川・柏崎

2006年10月13日 | 行事


赤レンガフォーラム at 糸魚川・柏崎



糸魚川と柏崎に残された二つの赤レンガ棟は、明治大正期の日本の歴史を語る建造物であると共に、「新潟県人の働く誇り」を表すものです。この数少ない産業遺産が取り壊しの危機に瀕しています。共通の課題を抱える二つの地域をつなげ、新たなまちづくりの中核とするため、活用の方法を話し合います。

平成18年11月11日(土)
糸魚川会場◎午後2時~4時
柏崎会場◎午後6時15分~9時

■糸魚川会場■
平成18年11月11日(土)
◎午後2時~4時
(1時30分開場)
ヒスイ王国会館 2Fコミュニティホール
(糸魚川市大町 Tel. 025-553-1210)
■基調講演 藤森照信さん
(東京大学生産技術研究所教授、建築史家)
■会場との話し合い
●運営協力費500円
●問い合わせ (090-5768-8066 後藤)

■柏崎会場■
平成18年11月11日(土)
◎午後6時15分~9時
(5時45分開場)
喬 柏 園 (きょうはくえん)
(柏崎市西本町2丁目)
※会場には駐車場がありません。みなと町海浜公園の駐車場をご利用ください

■基調講演 藤森照信さん
■ディスカッション
 小林啓之さん(新潟日報柏崎支局長)◎コーディネーター
 会田 洋さん(柏崎市長)
 竹田 勉さん(柏崎青年工業クラブ)
 堀由美子さん(まなびすとin柏崎)
●運営協力費500円
●問い合わせ (090-4722-8935 村山)赤れんが棟を愛する会

講師略歴
◎研究活動とともに、歴史的な建造物遺産の保存活動を手がける。著書に『明治の東京計画』(岩波書店、毎日出版文化賞)『建築探偵の冒険』(筑摩書房、サントリー学芸大賞)など多数。'86には赤瀬川原平氏、林丈二氏、南伸坊氏等と「路上観察会」を発足し活動中


主 催■赤レンガフォーラム実行委員会
(実行委員長:土田孝雄)
後 援■糸魚川市、糸魚川市教育委員会、柏崎市、柏崎市教育委員会、糸魚川商工会議所、糸魚川市観光協会、柏崎商工会議所、柏崎観光協会、新潟日報社、上越タイムス社、柏崎日報社、越後タイムス社、柏新時報社、柏崎コミュニティ放送(申請中を含む)
    財団法人新潟県勤労者福祉厚生財団助成事業

柏崎市立博物館 「ちょっと昔の道具展」

2006年10月13日 | 行事



柏崎市立博物館◎第52回特別展

ちょっと昔の道具展

――昭和30・40年代の暮らしから――



会 期●平成18年 10月14日(土)~11月19日(日)

   ●開館時間午前9時~午後5時●月曜休館

入場料●大人・高校生300円(中学生以下無料)

柏崎市立博物館
 〒945-0841柏崎市緑町8-35(赤坂山公園)
         Tel.0257-22-0567

■講演会
演 題◎「台所から見た生活文化の移り変わり」
講 師◎宮崎玲子氏(日本民俗建築学会評議員)
日 時◎10月15日(日)13:00~15:00
会 場◎博物館小ホール
入場料◎無料(要予約 定員40名)

■県立歴史博物館出前講座
演 題◎「民具と世相――モノは世につれ、世はモノにつれ――」
講 師◎野堀正雄氏(県立歴史博物館交流普及課長)
日 時◎11月5日(日)14:00~15:30
会 場◎博物館小ホール
入場料◎無料(要予約 定員40名)




 上の写真を見ていただければ解る通り、つい最近までごく当たり前に使っていた諸道具が集められる。当たり前の物は特段の記録がなされないから、忘れ去られるのも早い。
 私たちには懐かしさだが、子共たちにとっては新奇なものであろう。試しに小5の娘にチラシを見せて質してみたら、「火延し」「火消し壷」「ハエ捕り」以外は解ったようだが、ヒントで推量していたのだろう。
 できれば昔の便所も復元して、ハエや蚊をぶんぶん飛び回らせて、そう、時代の空気の復元してみればと思うのだが、誰も寄り付かないかもしれない。

(陸)


鏡月堂日記29 「歳時記 春ノ部其弐」

2006年10月12日 | 鏡月堂日記

 「明治二年三月」

三日 曇風吹寒し霰折々ニ降夜折々大荒也
 上巳之賀。今朝、草もち、白もち共、弐臼搗申し、産神両社へ参詣いたし候。○申之刻頃海津御出一杯出ス○夜上ハ町~呼来り相越ス。新屋、予也。蕎麦御馳走相成帰宅。


【雛祭り】もともとは【上巳(じょうし、じょうみ)】
五節句の一。陰暦三月最初の巳の日、のち三月三日に該当された。古代中国の祓(はらえ)の風俗行事が日本に伝わったもの。宮中では曲水の宴を催した。民間では女児の祝日として草餅・白酒などを食したが、のち人形を飾って雛(ひな)祭りをするようになった。桃の節句。雛の節句。三月の節句。女の節句。重三(ちようさん)。元巳(げんし)。じょうみ。[季]春。  「大辞林 第二版」より
 貧乏農家の我が家には縁が無かった。母方は姉妹ばかりだったのだが。雛人形が御目見えするのは、私に娘ができて後のことで、それも場所ふさぎになるというので、此節はずぼらになっている。菱餅、白酒、蛤の御吸物などはTVの世界のことであった。


九日 曇昼~微雨降○穀雨三月中朝四ツ時三分ニ入。
 濱祭ニ、間瀬へ、辰四郎相越す。○夕刻山きしへ一寸行。


【濱祭】
良く解らないが、船乗りや漁師たちの祭りなのだろう。

十五日 晴天 夜明月くまもなし
 御祭礼ニ付、今朝産神両社へ参詣いたし候。朝餉赤飯いたし候。御祭ハ、新宅、下モ町、彦三郎、山きし、同嬢、間瀬娘、海津、同内方、おいち、阿ア、郡大夫、浅野、各内、小兵衛、兼松、新田乳母、同然吉、茨目又蔵ハヽ、且又、下モ町おそを、新屋~来ル。
 予杯ハ、夕飯酒相淋く、新宅へ被招行候。此人数、海津、山きし、新宅、予也。并塩又、仁郎佐門被居、酒宴始る。其内、下モ町御出、又酒さかんなり。黄昏予ハ先へ帰宅。然る處、誰かおごり候旨ニ而、座頭壱人来り居候。且又山きし内方、新宅内方も来り居候。夜飯酒も一寸出し申し候。
十六日 晴天
 庚吉今日小兵衛方へ木羽返し候行。
 辰四郎。下モ町へ御祭ニ行。最中菓一袋遣し候。
 山きしへ、御祭ニ予相越ス。緩々ニ而黄昏帰宅。ぼう風、うど、壱盆土産ニ遣し候。


 十五日の祭りは、産土神の春季大祭なのだろう、親類縁者一同二十人以上も招かれている。
 篤之助が「夕飯酒相淋く」と言っているのは、大勢で賑やかにやっているのに、小勢の新宅へ招かれ行かざるを得なかったからというのだろうか。結句ここでも酒宴を始め結構盛り上がっているようなのだが、主人たるもの自家の客が大事と、先に切り上げ帰ったのか、賑やかさが呼んだのか。自家では、誰かが流しの芸人を呼入れたらしい、弦の響きが聞えるような賑わいだ。
 祭りの陽気さは一日限りではない。各地の産土の祭りはすこしづつ日が違っていたようで、連日各地の祭りに招かれて行く。祭りにかこつけて酒が飲める大人は勿論だが、子共にとってはこの上ない楽しみだ。遠くから聞えてくるお神楽の囃子は、神社へ向う足を速めさせるに十分だ。
 わが集落の祭りには、神輿も神楽もなかったから、近所の大きな祭には出かけていった。集落が違えば余所者と、昔の子共には縄張りがあったから、屋台が出る大きな祭りとしては校区内の羽森神社へ。羽森の祭りは、丁度農作業にかかる時期で、親達は土神や農作業を放って行くのを咎めたけれど、子共に信心がある訳ではない。参道に設けられた数件の屋台と、神楽の華やかさに惹かれて行くだけだ。
 華やかだった各神社の祭りも、お神楽のやり手がいなくなったり、屋台の後継者がいなくなったり、何より子共の数が少なくなって、鳥居の脇で幡が淋しく揺れているばかりになってしまった。

 16日に下僕庚吉が小兵衛の家に「木羽返し」に行く。この「来羽返し」度々出てくる。木羽葺きの屋根の補修の事かと見当をつけたのだが、自宅の土蔵から始めた、という表記もあり、土蔵に板葺き屋根や板壁は無いので、そうでもないらしい。別の日には、篤之助も手伝ったりしているのだが。
 「ぼうふう」や「独活」を土産物に遣っている。何処の家から巡ってきたものか、香り立つようだ。

(陸)


半田池ノ奇事

2006年10月11日 | 梨郷随筆


 ○半田池ノ奇事ニ付曩年東京ナル中邨米州ヘ寄スルモノアリ左ニ掲載シテ諸君ノ一瞥ヲ博ス      梨郷迂生稿

   半田池ノ奇事

頃ハ明治九年丙子三月下旬ヨリ。半田池吼ルトノ評判アリ。人〃其音ヲ聞ントテ、晝夜半田村ニ行キタリ。追〃評判高クシテ、十里以内ニ知レタリ。巡査是ヲ聞糺シテ、本廳ヘ上申セシカハ、縣廳是ヲ新潟隔日新聞ニ掲載セシムト。余其頃ハ病身、余寒ヲ畏レテ行ク能ハズ、家弟ヲシテ行テ、其音ヲ聞カシメ、且近隣ノ者ニ聞ケル儘、略記スル事左ノ如シ。
夫レ半田池タルヤ、本村半田村ノ東南ニ隅シ、地位最モ高シ、長サ凡四五丁、幅凡二丁、中央ニ小サナ嶼アリ、九頭権現ヲ祭ルトゾ。池中泥水深クシテ、大旱ト雖共渇スル事ナシ。爰ニ本年二月頃ヨリ、時ニヨリテハ池中ニ音スル事アリ。サレド誰モ気ノ付クモノナシ。三月下旬ニ至リテ、其音マス/\募ル。水心〈カノ九頭権現ヲ祭ル/嶼ノ辺リノ事也〉ニ当リ四五音、若クハ五六音、始メ小音ニシテ終リ大音ナリ。其響山嶽ヲ動揺ス。然リト雖共其声リテ其形ナケレハ、何物ノ所業タルヲ知ラス。或ハ之ヲ蛇ト云ヒ、螺ト云ヒ、水鳥ト云フ。其吼音ヲ伺フレハ、始メハ鳩ノ鳴クカ如ク、又ハ遠ク木魚ヲ聞カ如ク、終ハ水車ヲ廻スカ如ク、又ハ船艪ヲ押スカ如シ。一音ノ間、凡五六分時、若クハ十分時ノ間合アリ。村長ノ曰ク、三百年前ノ古絵図ヲ見ルニ、半田池ナルモノハ本村一円ノ池ニテ、最ト大ナル池ナリ。此池水茨目村ヲ経テ、鯖石川ヘ落チシト。其後年ヲ歴テ追〃埋メ、今ノ姿ニナリシナリ。因テ考フルニ、池底ニ空虚アリテ、池水ノ潜ルナランカ、抔唱ヘリ。然リト雖共、午前第一時ヨリ二時迄ノ間ニ、多クハ吼音ヲ生スト音トイウヘシ。四月ニ至リテ猶ヤマス、衆人群ヲ池ノ四方ニナセリ、飴賣商人モ行ケルトゾ。五月ニ至リテ其沙汰ヤミタリ。後是ヲ聞クニ水鳥ノ聲ナリト。余是ヲ信スル事能ハズ。幸ヒ貴弟ノ尋問ニ因リ記シテ以テ贈ル。乞フ是究理シテ報知セヨ。
 明治九年六月十三日

『梨郷随筆 巻七』より


   ※原文には句読点改行はない、読みやすくするために私が付け加えた



 親戚である東京の中村に宛てた、怪事に対する半ば問いかけを、後に『梨郷随筆』に転せているのだが(この梨郷随筆の記述は明治27年)、この事についての満足な返信は無かったのだろう。半田池の怪事についても当時の日記には記されていないし、又こんな手紙を出したことも記されてはいない。日記の記述が少ないから、文中にあるとおり、病体であったせいだろう。
 この話もまた『柏崎の伝説集』に載っていて、関申子次郎も噂を聞きつけて様子を見に半田池に出向いたが、結局怪音は聞かれなかったと記されている。
 申子次郎も篤之助もまたそうだが、日本人の物見高さがよく現れている一事で、池の端に飴売りまで出たというのだから、よほど見物が集まったのだろう。
 この半田池は、もう暫く後明治の後半、新田として開発され今は面影もない。

(陸)


鏡月堂日記28 「歳時記 春の部其壱」

2006年10月10日 | 鏡月堂日記

 「明治二年正月、二月」

晦日 曇晴風吹
 入湯いたし候。土俗ニ習ひて、狗之子を団子もて作るへし。
 ○夜新屋来話一杯差出ス

二月朔日 晴天 土俗呼て、いぬ之子朔日といふ。
 今朝両社へ参詣いたし候。今朝赤飯いたし候。
 申之刻前半田村ニ火事有之、辰四郎庚吉遣ス。一軒焼之よし○小僕辰五郎暇遣ス。


【狗之子団子】
 曹洞宗の寺院では、お釈迦様の命日、遺徳を偲ぶ法要とともに涅槃団子「犬の子」まきが行なわれる。これは、釈迦の臨終に駆けつけた十二支の内、作り易い「犬」や「鳥」などを米の粉で団子を作り、赤や青の彩色で目、鼻などを描いて仏前に供え法要後その団子をまく。この「犬の子」厄除けになるとして、お守りにもする。
 私の周辺ではこの行事は無かったので、馴染みが無いせいで、柏崎ではすっかり廃れてしまった行事かと思いきや、博物館では「犬の子」つくりの講座もあるし、地域によってはしっかりと残っているようだ。

四日 朝雨次第晴る 初午也。丙午早夕飯小豆めし製す。昨夜より市中簾を卸し、事休みと号し、御陣内稲荷社へ男女折交参詣いたす。昼後~市中話声頻而、中元之如し。夜も賑いし。 御陣内御門お開きにきやかいたし参詣いたし候よし。


【初午】
 二月最初の午の日のことで、稲荷神社で初午祭りが行われる。一の午とも言う。
よけいな事ながら……
【稲荷神社】
 全国で一番多い神社で、約2万社あり、個人で祀っているものも含めれば、その倍位はあると言われている。元々は山城の国(京都府)の土地の守り神。その名を倉稲魂神・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)という。字を見れば解るようにイネに宿る精霊をさす言葉。中には、稲荷神社には狐が祭られている、と思っている方が多いようだが、それは誤り。狐は神のつかわしめ。
 陣屋の中の稲荷が解放され、人々が参詣に訪れているようだ。世上が落ち着かなかった慶応四年とは打って変わった華やかさがある。元々この日は何処の稲荷も解放される。大商人の稲荷なども解放され、酒や赤飯を振舞ったので、子共たちが楽しみにしていたようだ……というのは、矢張り私には縁が無かったから。ほんとうに何も無いところで育った……。

 七日 晴天夕刻~風さわ付
 昨夜、盗賊拙家裏小屋外、簀垣破り、土蔵前迄忍込候赴之旨ニ候へ共、何も紛失ものも無之、裏之門も開き居申し、然處丸屋、原吉方へ忍入、金弐分余、銭も少々、其外紛失いたし候よし。原屋、俵屋へもさわり候へ共、是ハ何も紛失無之候。油断之ならぬ事ニ御座候。


 盗人は冬の季語だそうだが、そんなことはどうでもいい。日記中、火事も多いが盗人も、ちらほら見られる。盗人に入られた記録はあるが、その盗人がつかまったという記事は無い。この時期は未だ警察組織ができる前で、御用聞を治安につかっていた。科学捜査が未導入の時期、検挙率も悪かったのだろうか。時代小説に出てくる御用聞は鼻つまみ者に書かれるが、やはり評判は宜しくなかったようで、宿駅への御達しに、「御用聞きを使わないようにと」出てくる。

九日 雨風吹夕刻~微雪吹
 下モ山田、産舎明き祝ニ、母様被招候へ共断不参。霜之花茶壱箱遣し候送り。□来ル。

【産屋明き】
 産婦と新生児が産の忌みから明けること。産後、7日・21日・32日・75日・100日目など多様。宮参りを行う習慣が広くみられる。うぶやあけ。(「大辞林 第二版」より)
 柏崎では一般に21日で「おびやあけ」と呼んでいる。「腹帯」の「おび」なのか、「うぶや」が訛ったものなのかは不明。

十五日 雨
 茨目又蔵方へ、山澗村~、当十一日養子いたし、親子四人ニ而、祝会いたし候處、十三日離縁いたし、四人共立戻候よし。ハゝ~承り、馬鹿/\敷事にそありける。


 養子縁組の祝の2日後に破談といのも馬鹿馬鹿しい。この時期はまだまだ、養子が盛んに行われている。乳幼児の死亡率も高く、全般病気で人々の寿命も短かったから、家を絶やさないようにという願いもあって、跡継ぎ以外の次男三男は養子に行くことが多かった。
 実は篤之助の弟たちも、養子に行くのだが……機会があれば後にその顛末を知ることができる……。

(陸)


鏡月堂日記27 「歳時記 新年の部其弐」

2006年10月05日 | 鏡月堂日記

 「明治二年正月」

十四日 雪降寒し風少し吹。
 今朝しめ縄をはづし、又神佛之前へ菱形之餅を備ひ申。又今昼飯ニ小年取いたし候


【しめ縄】農村とて、藁は豊富にあったのだが、注連縄を掛けたり作ったりしているのを見た記憶が無い。勿論産土神社にはあったが。
【菱餅】祖父が居た頃菱餅は作っていた。ただ、雛祭りに添えられる美麗な三色のものではなく、無骨に大きく、白餅ばかりだったとおもう。蓬は既に雪の下だったせいだろうか。「七草粥」というのも、話に知っているだけ、雪の下から草を採っては来られない。越後では一般的ではないと思っていたのだが、近頃はスーパーで材料が売っていて、当たり前のように語られるのを見るに付け、不思議な気分がする。
【小年取】どうしようもない馬鹿な政治屋共が、かろうじて成人の日として残っていた日を移動させてしまったおかげで、小正月も影が薄くなってしまった。
 祖父が「餅花」を付けた「繭玉」を飾り付けるのを見ると、もう一度正月が来たようで、とても楽しかった。今でも繭玉の飾りは売っているが、昔のようなほのかな色使いではないような気がして、飾る気になれない。又、薮入りと称して、嫁の家に泊りに行ったりしたのだが……。

十五日 曇微雪降寒し。
 今暁未頃ニ起、土神佛を拝し、小豆粥(あずきかよ)を食し、其~土神両社へ参詣いたし候。且又横づち引きあるき、あつき粥を、実のなる樹木ニ付る極、予家の嘉例たり。


【小豆粥】小正月に小豆、餅を入れた粥を食べる習慣がある……ようなのだが、我が家では無かった。やっぱり雑煮を食べていた。
【左義長・三毬杖】〔毬杖(ぎつちよう)を三つ立てたところから〕小正月に行われる火祭り。宮中では正月一五・一八日に清涼殿南庭で、青竹を立て扇・短冊などを結びつけて焼いた。民間では竹を立てて門松・注連縄(しめなわ)・書き初めなどを焼き、その火で餅を焼いて食べて無病息災を祈る。どんど。どんど焼き。さいと焼き。さんくろう焼き。ほちょじ。ほっけんぎょう。「大辞林 第二版」より
 小豆粥を実のなる木に塗りつけるのは「豊作」を祈願してのこと。「成木いじめ」というのもあって、木を鉈で切りつけ「実が成らぬと切り倒すぞ」と脅かし、結局粥を塗りつけたり、餅を塗りつけたりして豊作を祈願する。
 「横づち引きあるき」云々というのは、「もぐら追い」の一種ではないかと思う。「横づち」は藁をしなやかにさせるために打つ、棍棒のようなものだ。これを引きずり歩き、地の下に居る、モグラを封じる意味合いの行事で、どんど焼と一連で行われるようだ。この時期地面が雪に覆われる越後では、あまり一般的ではないと思うのだが『梨郷随筆』の中に、陣屋よりの御達しとして「(正月)十五日、子共、左義頂と名附、泥縄をはい、往来を妨候義、堅く無用に候」という一文が見えるから、子どもたちにとっては無茶が出来る行事として、楽しみにしていたのかもしれない。

十八日 雨ふり出ス夕方~雪并霰降。
 今朝与板稲葉義急ニ帰足之旨ニて御立寄被下候。
 ○今朝餉十八粥を喫し候○山きしへ夜話ニ行


【十八粥】「陰暦一月一八日に、天台宗中興の祖と称せられる良源、元三(がんざん)大師の供養のために食う小豆粥」のことなのだそうだが、私には縁が無い。

廿日 晴天
 今朝ハ豆雑煮いたし候○上ハ町へ一寸行、談事被下候。


【豆雑煮】もともと小豆はその色に呪術的意味合いを見出していたようで、魔除けや厄払いの意味でよく用いられるが、小豆同様にささぎ豆、いんげん豆なども用いられ、我が家では小豆の出番は餡子の時だけだった。この豆雑煮主に日本海側によく見られる習慣というが、やっぱり家には縁が無かった。

廿五日 曇風吹雪ちら/\降次第ニはるゝ。
 忌日ニ付斎いたし大童招く。布せ五十文遣ス。幸作、おかつ来ル。
 天神様御出ニ付、斎に小豆飯いたし候。


【天神講】「天神様御出」というのはよく解らないが、日付(命日が2月25日)からして天神講のことだろう。学者や手習師匠が行った(寺子屋と言う呼び方は上方のもの、江戸近辺は手習師匠という)。
 家では天神講に縁は無いが、粗末なつくりではあるが天神像があって、正月中は祀る習慣がある。幼い頃、一寸厳めしい顔をした天神さんが好きで、夏の日に「天神さんを飾ってくれ」と言って祖父を困らせた。祖父も亦因業であったのである。


「歳時記 新年の部」というのは「俳句の歳時記」としての見合ではないので、お気をつけに。

(陸)


鏡月堂日記26 「歳時記 新年の部其壱」

2006年10月04日 | 鏡月堂日記

 「明治二年正月」

一正月元日 曇微雪ちら/\追々ニ晴上り候先ツ晴ニ而夜も続也
 今暁早起いたし 神前并祖先之霊前拝禮いたし、若水を汲ミ、雑煮もちを食し、屠蘇酒を飲む事例之如し。其~土神両社へ参詣いたし候。
 今年ハ時節柄之故候、賀家稀ニ而淋しき元日也。


【若水】一年の邪気を払うとされる。宮中で立春の早朝に主水司(しゆすいし)が天皇に奉った水のこと。現代のようにヒネルトジャーの水道水では味気ない。
【雑煮】雑煮を知らない人も居ないと思うが、我が家の雑煮は、四角の切り餅で醤油味。祖母、母、女房とほぼ同じ味と具材が続いている。女房が母に合わせたのかどうかは知らないが、近在「肉汁」というとこの系統だから一般的な雑煮なのだろう、それに焼いた餅が入る。宴席などで出る雑煮はすまし汁だが、一般は醤油色……だと思う。
【屠蘇】貧乏屋ではかような物は飲まなかったので、私はこの味を知らない。漢方薬で山椒や肉桂、白朮が入るというから、養命酒のような味だろうと思っているばかり。

 土神というのは産土神社で熊野社、多聞新地諏訪社のことだろうと察するのだが、両社とも明治5年に合祀され柏崎神社になり、無くなったようだ。

二日 曇晴未之刻頃~雨降出し候夜も不晴。
 今朝も雑煮餅を食し卆て、書そめいたし候。予、辰四郎也。


【書初め】字を書く事が下手だった私の、嫌々書いた書初は何時でも「佳作」。この日に書いた字は「左義長」「どんど焼」で焼かれるが、近所ではどんど焼は無かったので、その火で焼くスルメ、餅の味を知らない。
 初○○というのはこの日からで、「初夢」も元日の夜か二日の夜に見た夢と。風呂を立てるのもこの日からだったが、今は不潔恐怖症が蔓延していて、風呂も休ませてもらえないようだ。

四日 晴 曇也追々晴天ニ相成
 康吉町會所へ被頼行○今夜母さま、山きしへ年賀ニ御越也。おこし壱包、柚実弐ツ手土産ニ遣ス。


 おこしと柚の実を携えて年賀に行く図は何とも優雅。車でそそくさと巡る私達とは大違い。
 母さまは実はこの年34歳になるばかり。この年23歳になる篤之助とひと回りも違わない。末弟金五郎は慶應3年生まれで、この年2歳。若い継母と幼い弟たちで、篤之助もやり難かったろうと……。

十一日 雨降 今朝餉御鏡直し、小豆もちいたし候。
 間瀬へ、舟祝ニ被招、巳之刻頃、拙者、辰四郎罷越候。菓子札代金壱朱也候持参いたし候。御飯相済暫く休息之上、御酒肴相出ル。緩々ニ而夜ニ入り帰宅。
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【御鏡直し】というのは「鏡開き」のことだろう。「割る」の忌み言葉で「開く」というのだから、「直し」と言うほうがいいのかも知れない。我が家では汁粉に入れたりしたのだが、どうにもかび臭くてあまり嬉しくなかった。余った分は砕いて、炒ったり、油で揚げてあられにしたものだが。今は鏡餅も自家で作らなくなった。
 それにしても昨今のパンや餅は、どうしてあんなに柔らかさを保ってカビずにいられるのだろう。私が食べた小学校の給食のパンは、夕方にはゴワゴワ、明けた翌日には硬くなっていた。女房は食が細くて、近所の犬にやっていたというが、日増しのパンは犬跨ぎだったそうな。現代の保存技術が進んでいると解すべきなのか、添加物をうんとこさ摂取させられていると警戒しなければならないのか。
【舟祝】船主である間瀬が、船霊(ふなだま)をお祭りする祝。
ふなだま 0 【船玉/船霊/船▽魂】
(1)船中にまつられる船の守護神。住吉大明神・猿田彦神・綿津見神など。春日・八幡・大日・薬師なども数え入れ十二船玉という。男女一対の人形やさいころ二個・五穀・銭一二文・女の髪などを神体とし、帆柱の受け材である筒(つつ)の下部に穴をあけて封じ込める。
(2)帆柱。また、船

「大辞林 第二版」より


 内容物は地域によって違うそうだ。人形というのは「ひとがた」で、神社の御払に息を吹きかけたり体をさすったりするあれ。
 この船祝、縁起事だから、さぞや盛大だったのだろうと思う。少し昔の史料では出帆入船というと間瀬の名前ばかりの時もあるのだ。
 だが、この頃から少し屋台骨が怪しくなっているようで、親類中で債権者に謝りに行などということもある。読み進んでいくとそんな事が解ってしまう切なさがある。

(陸)


打首になった地蔵

2006年10月03日 | 梨郷随筆

 ○地蔵

柏崎縣校ノ教師小林亮(初メ恒蔵ト称ス大島某ニ養ハレ西頚城郡長トナル)諸分校ヲ巡視シ古志郡片田村ヨリ途ヲ二十村ニ取リ栃尾ニ趣カントス時ニ七月初旬残炎コトニ酷ダシ教師赫日ヲ畏ル星ヲ戴テ出ヅ夜未ダ明ケズ途ヲ失テ一處ニ到ル轟々声アリ山響キ谷應ズ仰視レバ火光天ヲ焼ク驚キハセテ之ニ近ケハ男女老若群集シテ香木ヲ焼クナリ之ヲ問ヘバ曰ク近村老人アリ霊夢ニ因リ地蔵尊ヲ水中ニ得タリ此夢ニ地蔵尊ノ玉ハリ吾ハ古キ地蔵ナリ然シ某ノ水中ニ久シク在テ石浪ノ為ニ摩突サレ耳目鼻口共ニナシ故ニ霊ヲ失テ衆生済度ヲ為事能ハズ汝吾ヲ拯テ更ニ開眼セバ再ビ衆生ヲ済度セン然ラハ汝カ功徳モ亦大ナラント老人大ニ喜ビ暁ヲ待テ其処ニ行キ探レハ果シテ石像ヲ得タリ面目摩滅弁スベカラス再ビ其面目ヲ刻シテ此ニ安置シ奉ル此処モマタ夢中ニ示シ給フ処ナリ傍ニ泉アリ之ヲ持ッテ患処ヲ洗ヒバ癒ザルナシ老人コレガ為ニ奉加シテ堂宇ヲ建立セント既ニ数十金ヲ得タリ御官人オアツイネ善ク遠方ヨリ御参詣ナサレマシタト教師悖然トシテ曰ク吾タマタマ途ヲ失シテ此ニ来レリ地蔵吾ニ於テ何カアラント袖ヲ拂ッテ去レリ此後其傍ラニ犯由牌アリシトテ冩シヲ示ス者アリ其文ニ曰ク

     本國天竺浪人
        石野地蔵
 此者其名ニ背キ地中ニ蔵レズ人界ニ出テ衆生済度抔ト唱ヘナガラ水中ニ陷リ自ラ拯フ能ハサル事名実共ニ空シ然ルニ之ヲモ恥ヂズネイジン奸人ト申合セ面目ヲツクロヒ愚族ヲ欺キ米金ヲ掠メ一己ノ燿ヲ営ミ候段苦界ニ沈ミシ賎妓ノ所業ニモ劣リ重々不届キ至極ニ付弥勒菩薩ノ出世マデ長ク此所ニ曝シ置モノ也モシ風雨ヲ覆ヒ遣ス輩有之ニ於テハ屹トトカメ可申付事
  明治五年壬申八月 地獄廳

 編者曰ク此地蔵ノ愚夫愚婦ヲ惑ハス事太ダシカリケレハ遂ニ柏崎縣ニテ之ヲ捕縛シ尋問ノ末廳舎ノ■(臣+稲の旁)石ニ宣告セラレシガ極楽寺ノ住職ニテ活如来ト証セラレタル彼ノ英舜坊ガ不憫ニ思ヒ保釈ヲ願ヒタルニ聞届ケアリケレハ乃チ境内ニ遷坐シタリ但シ吟味ノ祭頚ヲモガレタリトテ新タニ拵ヒテ継キタリト其頃本堂ト隠寮トノ路傍ニ安置セリ呵々怪事

『梨郷随筆 巻四』より




 この事『柏崎の伝説集』に掲載があったので、それによって補足する。

 学校制度の太政官布告は明治5年で、同年5月30日の「小学校位置替並資本分付方之義に付願」によると「柏崎英学校第三分校」が同年冬に開校されたと見えるから小林亮はこの学校の教師かもしれない。中村梨郷篤之助も翌明治6年に開校された第六番小学の句読師になっているから、面識あったかもしれない。

 天竺浪人石野地蔵とはこの小林亮の署名で、住民が狂奔する様を見て、民心を冷やそうと自ら立てたものと記されている。
 然るに地蔵の側を流れる清水が眼病に効果ありと人々の信仰を得て、益々大流行し風俗を惑わすこと甚だしかったので、柏崎縣は偵吏を遣わして調査させると、泉源に薬が入れてあった。これは頽廃した寺の住職と旦那のはかりごとであると知れたので、偵吏は地蔵に縄をかけ県庁へ引きたて、糾明、法廷査問の結果、打首の上庁舎の踏石とすることとなった(上文の■は踏の異体字と知れたが、異体字辞典にも無い)。

 この地蔵のお参りに、篤之助の下女おみよも行っている。その箇所は
(明治五年八月)廿八日 曇微雨降出ス
 下女於ミヨ今日(古志郡村松村社壇密ト云処ナリ)長岡在二十村ヘ行是ハ地蔵菩薩先日出現諸病平癒ヲ祈レバ忽チ冶スルノヨシナリ奇トイウヘシ晦日帰宅


 当然寺の住職と旦那にも当然処罰が下されたのだろうと思うのだが、伝説はそこを上手く除いて、打首になった地蔵という点に集約している。

 然る所、極楽寺栄舜坊が保釈を願い云々……は上の文の通り。

 明治6年柏崎縣が廃される際、片田村住民は、地蔵が元の所に帰りたいとの夢の知らせがあったと、貰い受け大騒ぎの末故郷へ戻したとか。
 この安置場所云々故郷復帰一条、極楽寺に問い合わせ中なれば、見る人、後の巻にて真義を知るべし。

(陸)