柏崎百景

柏崎の歴史・景観・民俗などを、なくならないうちにポチポチと……。
「獺祭」もしくは「驢馬の本棚」。

中村家明治の年末年始

2006年12月29日 | 鏡月堂日記

「明治十年大晦日から明治十一年年等の中村家」
「明治十年」


十二月 三十一日 小雨 無事越年セリ○除夜海津叔父来リテ中濱叔父書置キ冥途ニテ云々ヲ談ス因テ弟鉄ヲシテ様子ヲ伺ハシムルニ別条ナシ
 是月下モ町ニテ恒太郎ヲ戸主トナシ景三郎ヲ順養子トシテ嗣子トナシ宗右衛門君ハ隠居ト戸籍ヲ改メタリ是ヨリ先キ景三郎ハ上ハ町ノ戸籍ニ載セアリ也此ニ至リテ引戻シテ取究メタルヨシ承之タリ


紀元二千五百三十八年明治十一年戊寅平年三百六十五日火曜

一月一日 小雨 年首ノ式都テ旧年ノ如シ当年ハ住宅換テヨリ初メテノ一月一日也家族無事ニテ善太郎機嫌宜シク大慶ナリ

五日 近例ニ因リテ陛下ノ尊影并皇后宮ノ尊影ヲ拝謁シ奉リ左ノ品ヲ献セリ是日新年宴會ナレハナリ
 前夕  茶  菓 〈松葉三本。赤落雁三。鶴ノ初レ雪三枚〉
 本日朝 茶
 同 昼 皿 鱈   小皿 数ノ子
     汁〈芹 百合根 小味噌〉 飯  酒
 同 夕 皿〈玉子焼 慈姑。山芋〉  小皿 沢庵
     汁 鱈味ソ汁       飯  酒

「明治十一年大晦日から明治十二年年等の中村家」
「明治十一年」


 ○三十一日風雪吹善太郎モ不快ニ候ヘ共格別ノ事モ無之家人一同列坐イタシ珎重々々」山岸叔母清子当三月頃ヨリ乳ニ塊ヲ醸シ海津叔父治療ナサレ候ヘ共終ニ十月ノ末ニ破レテ十一月廿日後ヨリ床ニ打臥サレ腫レノ傷大ニ痛ミタリ困リテ今夜歳暮ニ行同人ノ病気平癒イタシタク心願此事ニ候病気名乳癌ナリ


紀元二千五百三十九年
明治十二己卯年平年三百六十五日火曜


第一月一日 吹雪 元旦ノ式例ノ如クシ善太郎モ先ツ平穏ニテ大慶〃〃○二日雨吹○三日元始祭雨フル○四日小晴午後ヨリ風フク○五日微雪新年宴会ニ付
両尊影ヲ奉謁ス即チ左ノ御饌ヲ献ス
 前夕  茶 蒸羊羹五切宛楊枝添ル

 本日朝 茶
     皿〈大根膾花鰹入〉  手塩皿 ナラ漬
 仝昼  小皿 数之子     碗〈粟餅汁雑煮〉  手作リ酒

     皿〈焼豆腐山芋百合〉 手塩皿 ナラ漬
 仝夕  吸碗 芹汁      碗 小豆飯     手作リ酒




 随分ほったらかしにしていて気が引けたが、少しは更新しようかなと……。
 で、正月らしい部分をと、思ったのだが明治の御代になってからの中村一族は斯様な状態だ。
 明治五年に生れた長女美喜は亡くなったようだ。続鏡月堂日記は第七巻にあたる明治七、八年の分がないから、その間の事と思われる。が、明治九年に長男善太郎が生れている。日記にも記されているように、善太郎は篤之助同様蒲柳の性質。近代医療は未の時代。コレラ騒ぎに世上も不安定だ。それでも新年の礼は欠かしていない。
 中村家の盛りは、父雄右衛門、祖父長佐衛門が存命だった、慶應元年の年末から慶應二年の年頭だろうか。世上は不安ながら、篤之助、次郎作(養子に出た)、鉄三郎、辰四郎の兄弟が揃って、更に叔父、叔母達(篤之助は伯の字も宛てことがあるが殆ど父の弟妹)も健康、家業もまずまずの、大一族だから。
 明治の御代になって、一族の家運が傾き始めた。出来あった昔の事ながら、この様を辿って行かざるをえないのは、胸の痛むところだが、その辺は避けて、明治の出来事をボチボチと紹介することにしようと思う。が、活発な人間ではないので次が何時になるかは言いかねる。

(陸)


鏡月堂日記29 「歳時記 春ノ部其弐」

2006年10月12日 | 鏡月堂日記

 「明治二年三月」

三日 曇風吹寒し霰折々ニ降夜折々大荒也
 上巳之賀。今朝、草もち、白もち共、弐臼搗申し、産神両社へ参詣いたし候。○申之刻頃海津御出一杯出ス○夜上ハ町~呼来り相越ス。新屋、予也。蕎麦御馳走相成帰宅。


【雛祭り】もともとは【上巳(じょうし、じょうみ)】
五節句の一。陰暦三月最初の巳の日、のち三月三日に該当された。古代中国の祓(はらえ)の風俗行事が日本に伝わったもの。宮中では曲水の宴を催した。民間では女児の祝日として草餅・白酒などを食したが、のち人形を飾って雛(ひな)祭りをするようになった。桃の節句。雛の節句。三月の節句。女の節句。重三(ちようさん)。元巳(げんし)。じょうみ。[季]春。  「大辞林 第二版」より
 貧乏農家の我が家には縁が無かった。母方は姉妹ばかりだったのだが。雛人形が御目見えするのは、私に娘ができて後のことで、それも場所ふさぎになるというので、此節はずぼらになっている。菱餅、白酒、蛤の御吸物などはTVの世界のことであった。


九日 曇昼~微雨降○穀雨三月中朝四ツ時三分ニ入。
 濱祭ニ、間瀬へ、辰四郎相越す。○夕刻山きしへ一寸行。


【濱祭】
良く解らないが、船乗りや漁師たちの祭りなのだろう。

十五日 晴天 夜明月くまもなし
 御祭礼ニ付、今朝産神両社へ参詣いたし候。朝餉赤飯いたし候。御祭ハ、新宅、下モ町、彦三郎、山きし、同嬢、間瀬娘、海津、同内方、おいち、阿ア、郡大夫、浅野、各内、小兵衛、兼松、新田乳母、同然吉、茨目又蔵ハヽ、且又、下モ町おそを、新屋~来ル。
 予杯ハ、夕飯酒相淋く、新宅へ被招行候。此人数、海津、山きし、新宅、予也。并塩又、仁郎佐門被居、酒宴始る。其内、下モ町御出、又酒さかんなり。黄昏予ハ先へ帰宅。然る處、誰かおごり候旨ニ而、座頭壱人来り居候。且又山きし内方、新宅内方も来り居候。夜飯酒も一寸出し申し候。
十六日 晴天
 庚吉今日小兵衛方へ木羽返し候行。
 辰四郎。下モ町へ御祭ニ行。最中菓一袋遣し候。
 山きしへ、御祭ニ予相越ス。緩々ニ而黄昏帰宅。ぼう風、うど、壱盆土産ニ遣し候。


 十五日の祭りは、産土神の春季大祭なのだろう、親類縁者一同二十人以上も招かれている。
 篤之助が「夕飯酒相淋く」と言っているのは、大勢で賑やかにやっているのに、小勢の新宅へ招かれ行かざるを得なかったからというのだろうか。結句ここでも酒宴を始め結構盛り上がっているようなのだが、主人たるもの自家の客が大事と、先に切り上げ帰ったのか、賑やかさが呼んだのか。自家では、誰かが流しの芸人を呼入れたらしい、弦の響きが聞えるような賑わいだ。
 祭りの陽気さは一日限りではない。各地の産土の祭りはすこしづつ日が違っていたようで、連日各地の祭りに招かれて行く。祭りにかこつけて酒が飲める大人は勿論だが、子共にとってはこの上ない楽しみだ。遠くから聞えてくるお神楽の囃子は、神社へ向う足を速めさせるに十分だ。
 わが集落の祭りには、神輿も神楽もなかったから、近所の大きな祭には出かけていった。集落が違えば余所者と、昔の子共には縄張りがあったから、屋台が出る大きな祭りとしては校区内の羽森神社へ。羽森の祭りは、丁度農作業にかかる時期で、親達は土神や農作業を放って行くのを咎めたけれど、子共に信心がある訳ではない。参道に設けられた数件の屋台と、神楽の華やかさに惹かれて行くだけだ。
 華やかだった各神社の祭りも、お神楽のやり手がいなくなったり、屋台の後継者がいなくなったり、何より子共の数が少なくなって、鳥居の脇で幡が淋しく揺れているばかりになってしまった。

 16日に下僕庚吉が小兵衛の家に「木羽返し」に行く。この「来羽返し」度々出てくる。木羽葺きの屋根の補修の事かと見当をつけたのだが、自宅の土蔵から始めた、という表記もあり、土蔵に板葺き屋根や板壁は無いので、そうでもないらしい。別の日には、篤之助も手伝ったりしているのだが。
 「ぼうふう」や「独活」を土産物に遣っている。何処の家から巡ってきたものか、香り立つようだ。

(陸)


鏡月堂日記28 「歳時記 春の部其壱」

2006年10月10日 | 鏡月堂日記

 「明治二年正月、二月」

晦日 曇晴風吹
 入湯いたし候。土俗ニ習ひて、狗之子を団子もて作るへし。
 ○夜新屋来話一杯差出ス

二月朔日 晴天 土俗呼て、いぬ之子朔日といふ。
 今朝両社へ参詣いたし候。今朝赤飯いたし候。
 申之刻前半田村ニ火事有之、辰四郎庚吉遣ス。一軒焼之よし○小僕辰五郎暇遣ス。


【狗之子団子】
 曹洞宗の寺院では、お釈迦様の命日、遺徳を偲ぶ法要とともに涅槃団子「犬の子」まきが行なわれる。これは、釈迦の臨終に駆けつけた十二支の内、作り易い「犬」や「鳥」などを米の粉で団子を作り、赤や青の彩色で目、鼻などを描いて仏前に供え法要後その団子をまく。この「犬の子」厄除けになるとして、お守りにもする。
 私の周辺ではこの行事は無かったので、馴染みが無いせいで、柏崎ではすっかり廃れてしまった行事かと思いきや、博物館では「犬の子」つくりの講座もあるし、地域によってはしっかりと残っているようだ。

四日 朝雨次第晴る 初午也。丙午早夕飯小豆めし製す。昨夜より市中簾を卸し、事休みと号し、御陣内稲荷社へ男女折交参詣いたす。昼後~市中話声頻而、中元之如し。夜も賑いし。 御陣内御門お開きにきやかいたし参詣いたし候よし。


【初午】
 二月最初の午の日のことで、稲荷神社で初午祭りが行われる。一の午とも言う。
よけいな事ながら……
【稲荷神社】
 全国で一番多い神社で、約2万社あり、個人で祀っているものも含めれば、その倍位はあると言われている。元々は山城の国(京都府)の土地の守り神。その名を倉稲魂神・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)という。字を見れば解るようにイネに宿る精霊をさす言葉。中には、稲荷神社には狐が祭られている、と思っている方が多いようだが、それは誤り。狐は神のつかわしめ。
 陣屋の中の稲荷が解放され、人々が参詣に訪れているようだ。世上が落ち着かなかった慶応四年とは打って変わった華やかさがある。元々この日は何処の稲荷も解放される。大商人の稲荷なども解放され、酒や赤飯を振舞ったので、子共たちが楽しみにしていたようだ……というのは、矢張り私には縁が無かったから。ほんとうに何も無いところで育った……。

 七日 晴天夕刻~風さわ付
 昨夜、盗賊拙家裏小屋外、簀垣破り、土蔵前迄忍込候赴之旨ニ候へ共、何も紛失ものも無之、裏之門も開き居申し、然處丸屋、原吉方へ忍入、金弐分余、銭も少々、其外紛失いたし候よし。原屋、俵屋へもさわり候へ共、是ハ何も紛失無之候。油断之ならぬ事ニ御座候。


 盗人は冬の季語だそうだが、そんなことはどうでもいい。日記中、火事も多いが盗人も、ちらほら見られる。盗人に入られた記録はあるが、その盗人がつかまったという記事は無い。この時期は未だ警察組織ができる前で、御用聞を治安につかっていた。科学捜査が未導入の時期、検挙率も悪かったのだろうか。時代小説に出てくる御用聞は鼻つまみ者に書かれるが、やはり評判は宜しくなかったようで、宿駅への御達しに、「御用聞きを使わないようにと」出てくる。

九日 雨風吹夕刻~微雪吹
 下モ山田、産舎明き祝ニ、母様被招候へ共断不参。霜之花茶壱箱遣し候送り。□来ル。

【産屋明き】
 産婦と新生児が産の忌みから明けること。産後、7日・21日・32日・75日・100日目など多様。宮参りを行う習慣が広くみられる。うぶやあけ。(「大辞林 第二版」より)
 柏崎では一般に21日で「おびやあけ」と呼んでいる。「腹帯」の「おび」なのか、「うぶや」が訛ったものなのかは不明。

十五日 雨
 茨目又蔵方へ、山澗村~、当十一日養子いたし、親子四人ニ而、祝会いたし候處、十三日離縁いたし、四人共立戻候よし。ハゝ~承り、馬鹿/\敷事にそありける。


 養子縁組の祝の2日後に破談といのも馬鹿馬鹿しい。この時期はまだまだ、養子が盛んに行われている。乳幼児の死亡率も高く、全般病気で人々の寿命も短かったから、家を絶やさないようにという願いもあって、跡継ぎ以外の次男三男は養子に行くことが多かった。
 実は篤之助の弟たちも、養子に行くのだが……機会があれば後にその顛末を知ることができる……。

(陸)


鏡月堂日記27 「歳時記 新年の部其弐」

2006年10月05日 | 鏡月堂日記

 「明治二年正月」

十四日 雪降寒し風少し吹。
 今朝しめ縄をはづし、又神佛之前へ菱形之餅を備ひ申。又今昼飯ニ小年取いたし候


【しめ縄】農村とて、藁は豊富にあったのだが、注連縄を掛けたり作ったりしているのを見た記憶が無い。勿論産土神社にはあったが。
【菱餅】祖父が居た頃菱餅は作っていた。ただ、雛祭りに添えられる美麗な三色のものではなく、無骨に大きく、白餅ばかりだったとおもう。蓬は既に雪の下だったせいだろうか。「七草粥」というのも、話に知っているだけ、雪の下から草を採っては来られない。越後では一般的ではないと思っていたのだが、近頃はスーパーで材料が売っていて、当たり前のように語られるのを見るに付け、不思議な気分がする。
【小年取】どうしようもない馬鹿な政治屋共が、かろうじて成人の日として残っていた日を移動させてしまったおかげで、小正月も影が薄くなってしまった。
 祖父が「餅花」を付けた「繭玉」を飾り付けるのを見ると、もう一度正月が来たようで、とても楽しかった。今でも繭玉の飾りは売っているが、昔のようなほのかな色使いではないような気がして、飾る気になれない。又、薮入りと称して、嫁の家に泊りに行ったりしたのだが……。

十五日 曇微雪降寒し。
 今暁未頃ニ起、土神佛を拝し、小豆粥(あずきかよ)を食し、其~土神両社へ参詣いたし候。且又横づち引きあるき、あつき粥を、実のなる樹木ニ付る極、予家の嘉例たり。


【小豆粥】小正月に小豆、餅を入れた粥を食べる習慣がある……ようなのだが、我が家では無かった。やっぱり雑煮を食べていた。
【左義長・三毬杖】〔毬杖(ぎつちよう)を三つ立てたところから〕小正月に行われる火祭り。宮中では正月一五・一八日に清涼殿南庭で、青竹を立て扇・短冊などを結びつけて焼いた。民間では竹を立てて門松・注連縄(しめなわ)・書き初めなどを焼き、その火で餅を焼いて食べて無病息災を祈る。どんど。どんど焼き。さいと焼き。さんくろう焼き。ほちょじ。ほっけんぎょう。「大辞林 第二版」より
 小豆粥を実のなる木に塗りつけるのは「豊作」を祈願してのこと。「成木いじめ」というのもあって、木を鉈で切りつけ「実が成らぬと切り倒すぞ」と脅かし、結局粥を塗りつけたり、餅を塗りつけたりして豊作を祈願する。
 「横づち引きあるき」云々というのは、「もぐら追い」の一種ではないかと思う。「横づち」は藁をしなやかにさせるために打つ、棍棒のようなものだ。これを引きずり歩き、地の下に居る、モグラを封じる意味合いの行事で、どんど焼と一連で行われるようだ。この時期地面が雪に覆われる越後では、あまり一般的ではないと思うのだが『梨郷随筆』の中に、陣屋よりの御達しとして「(正月)十五日、子共、左義頂と名附、泥縄をはい、往来を妨候義、堅く無用に候」という一文が見えるから、子どもたちにとっては無茶が出来る行事として、楽しみにしていたのかもしれない。

十八日 雨ふり出ス夕方~雪并霰降。
 今朝与板稲葉義急ニ帰足之旨ニて御立寄被下候。
 ○今朝餉十八粥を喫し候○山きしへ夜話ニ行


【十八粥】「陰暦一月一八日に、天台宗中興の祖と称せられる良源、元三(がんざん)大師の供養のために食う小豆粥」のことなのだそうだが、私には縁が無い。

廿日 晴天
 今朝ハ豆雑煮いたし候○上ハ町へ一寸行、談事被下候。


【豆雑煮】もともと小豆はその色に呪術的意味合いを見出していたようで、魔除けや厄払いの意味でよく用いられるが、小豆同様にささぎ豆、いんげん豆なども用いられ、我が家では小豆の出番は餡子の時だけだった。この豆雑煮主に日本海側によく見られる習慣というが、やっぱり家には縁が無かった。

廿五日 曇風吹雪ちら/\降次第ニはるゝ。
 忌日ニ付斎いたし大童招く。布せ五十文遣ス。幸作、おかつ来ル。
 天神様御出ニ付、斎に小豆飯いたし候。


【天神講】「天神様御出」というのはよく解らないが、日付(命日が2月25日)からして天神講のことだろう。学者や手習師匠が行った(寺子屋と言う呼び方は上方のもの、江戸近辺は手習師匠という)。
 家では天神講に縁は無いが、粗末なつくりではあるが天神像があって、正月中は祀る習慣がある。幼い頃、一寸厳めしい顔をした天神さんが好きで、夏の日に「天神さんを飾ってくれ」と言って祖父を困らせた。祖父も亦因業であったのである。


「歳時記 新年の部」というのは「俳句の歳時記」としての見合ではないので、お気をつけに。

(陸)


鏡月堂日記26 「歳時記 新年の部其壱」

2006年10月04日 | 鏡月堂日記

 「明治二年正月」

一正月元日 曇微雪ちら/\追々ニ晴上り候先ツ晴ニ而夜も続也
 今暁早起いたし 神前并祖先之霊前拝禮いたし、若水を汲ミ、雑煮もちを食し、屠蘇酒を飲む事例之如し。其~土神両社へ参詣いたし候。
 今年ハ時節柄之故候、賀家稀ニ而淋しき元日也。


【若水】一年の邪気を払うとされる。宮中で立春の早朝に主水司(しゆすいし)が天皇に奉った水のこと。現代のようにヒネルトジャーの水道水では味気ない。
【雑煮】雑煮を知らない人も居ないと思うが、我が家の雑煮は、四角の切り餅で醤油味。祖母、母、女房とほぼ同じ味と具材が続いている。女房が母に合わせたのかどうかは知らないが、近在「肉汁」というとこの系統だから一般的な雑煮なのだろう、それに焼いた餅が入る。宴席などで出る雑煮はすまし汁だが、一般は醤油色……だと思う。
【屠蘇】貧乏屋ではかような物は飲まなかったので、私はこの味を知らない。漢方薬で山椒や肉桂、白朮が入るというから、養命酒のような味だろうと思っているばかり。

 土神というのは産土神社で熊野社、多聞新地諏訪社のことだろうと察するのだが、両社とも明治5年に合祀され柏崎神社になり、無くなったようだ。

二日 曇晴未之刻頃~雨降出し候夜も不晴。
 今朝も雑煮餅を食し卆て、書そめいたし候。予、辰四郎也。


【書初め】字を書く事が下手だった私の、嫌々書いた書初は何時でも「佳作」。この日に書いた字は「左義長」「どんど焼」で焼かれるが、近所ではどんど焼は無かったので、その火で焼くスルメ、餅の味を知らない。
 初○○というのはこの日からで、「初夢」も元日の夜か二日の夜に見た夢と。風呂を立てるのもこの日からだったが、今は不潔恐怖症が蔓延していて、風呂も休ませてもらえないようだ。

四日 晴 曇也追々晴天ニ相成
 康吉町會所へ被頼行○今夜母さま、山きしへ年賀ニ御越也。おこし壱包、柚実弐ツ手土産ニ遣ス。


 おこしと柚の実を携えて年賀に行く図は何とも優雅。車でそそくさと巡る私達とは大違い。
 母さまは実はこの年34歳になるばかり。この年23歳になる篤之助とひと回りも違わない。末弟金五郎は慶應3年生まれで、この年2歳。若い継母と幼い弟たちで、篤之助もやり難かったろうと……。

十一日 雨降 今朝餉御鏡直し、小豆もちいたし候。
 間瀬へ、舟祝ニ被招、巳之刻頃、拙者、辰四郎罷越候。菓子札代金壱朱也候持参いたし候。御飯相済暫く休息之上、御酒肴相出ル。緩々ニ而夜ニ入り帰宅。
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【御鏡直し】というのは「鏡開き」のことだろう。「割る」の忌み言葉で「開く」というのだから、「直し」と言うほうがいいのかも知れない。我が家では汁粉に入れたりしたのだが、どうにもかび臭くてあまり嬉しくなかった。余った分は砕いて、炒ったり、油で揚げてあられにしたものだが。今は鏡餅も自家で作らなくなった。
 それにしても昨今のパンや餅は、どうしてあんなに柔らかさを保ってカビずにいられるのだろう。私が食べた小学校の給食のパンは、夕方にはゴワゴワ、明けた翌日には硬くなっていた。女房は食が細くて、近所の犬にやっていたというが、日増しのパンは犬跨ぎだったそうな。現代の保存技術が進んでいると解すべきなのか、添加物をうんとこさ摂取させられていると警戒しなければならないのか。
【舟祝】船主である間瀬が、船霊(ふなだま)をお祭りする祝。
ふなだま 0 【船玉/船霊/船▽魂】
(1)船中にまつられる船の守護神。住吉大明神・猿田彦神・綿津見神など。春日・八幡・大日・薬師なども数え入れ十二船玉という。男女一対の人形やさいころ二個・五穀・銭一二文・女の髪などを神体とし、帆柱の受け材である筒(つつ)の下部に穴をあけて封じ込める。
(2)帆柱。また、船

「大辞林 第二版」より


 内容物は地域によって違うそうだ。人形というのは「ひとがた」で、神社の御払に息を吹きかけたり体をさすったりするあれ。
 この船祝、縁起事だから、さぞや盛大だったのだろうと思う。少し昔の史料では出帆入船というと間瀬の名前ばかりの時もあるのだ。
 だが、この頃から少し屋台骨が怪しくなっているようで、親類中で債権者に謝りに行などということもある。読み進んでいくとそんな事が解ってしまう切なさがある。

(陸)


鏡月堂日記25 明治元年が暮れてゆく

2006年09月29日 | 鏡月堂日記

 「明治元年十二月」

十六日 曇晴 今朝庚吉荒濱へ行、昼後帰る也。
 原屋~米搗来ル。

十七日 晴天夕刻~雨降 昼後鉢崎近藤義被参候。亡父之姉也。上ハ町逗留之よし、暫時被帰候ニ付、菓子壱箱代金壱朱分為持遣ス。○夜新宅へ行。与板之彦さ、大阪~立帰り之旨、今夜泊りニ而、酒始り居相伴いたし、亥之刻前帰宅。予兎角不落□付散々ため、且少々困事も有之参る也。

十八日 風雨寒し霰交じり降 新宅米摩、庚吉遣ス。
 追々風雪相成○夜山きしへ行留守故空し帰る。

十九日 風雪寒し 米摩いたし候。上ハ町主人、下モ町主人、新宅壱人、おまつ来ル○昼後上ハ町米摩、庚吉遣す○間瀬祖母御出、昼後也。夕飯差出し候○夜海津へ行留守故空しく帰宅、山きし御居酒出ス。

廿日 晴 新宅餅搗、庚吉遣ス○昼頃海津御出也○夜上ハ町へ行、留守也。又新宅へ行、是又留守也。又山岸へ行、鉄三郎義也。亥之刻帰宅。

廿一日 晴夕刻~雨 甲子也。大己□尊を祭る 天しやよろずよし 吉日ニ付、餅搗いたし候。上ハ町左兵次、新宅藤吉、下モ町原介、兼松。○新田乳母、内、庚吉也。鉄三郎も来ル。兼松分共也。然處昼後、竈崩れ、釜之湯こほれ候處、熱灰ニ而藤吉、原介佐兵次やけといたし候躰、心配いたし早速浅のへ申遣し、被参療治いたし貰ひ候。怪我之事無之、大慶□可過仕舞早く悦申候○夜國助湯ニ入来ル一杯出ス

廿二日 晴 節分也 今朝新宅滞留之、与板之彦さ被参、役人同道也。昨夕賣物之義ニ付事□り候よし。其~予ハ新屋へ行、利助及、与吉居る。談判いたし、國助子を以て様子見なから可遣候与申居候處へ、為吉参り、下モ町御周旋ニ而、掛口ニ相遣候よし申聞、安慎帰宅いたし候○上ハ町搗もち、庚吉遣ス。
 ○昼時民政ニ、自分御用之旨町會所~申来候ニ付、山きしへ申遣し被参。新宅、海津へ申遣候へ共不参也。其~間瀬へ山きしと被参候、談判之上、間瀬町會所へ被参候處、予義、何頃町年寄相成候赴之旨之よし。是より、間瀬、山きし拙家へ被参、幸ひ到来もの有之、一杯差出し候。夜ニ入て間瀬と、山きし御残り也。戌之刻過海津御出、又一杯酌申候。御両人共亥之刻過被帰。

廿三日 晴天 立春正月節今番八ツ時一分ニ入
 庚吉下モ町へ餅搗ニ遣ス○辰五郎、新屋へ手傳ニ遣ス。
 鼻田村喜佐衛門、夕刻来り泊る。翌廿四日帰村いたし候。夕朝両度紹申候。

廿四日 晴天 間瀬へ斎ニ相越ス。並廿匁弐挺持参いたし候。西永寺若院主、西福寺、□正寺、□□寺、岩傳、山きし、丁字屋老人、予也。相掛之講ニ而内談有之、昼後帰宅いたし候○未之刻後山きしへ一寸行。
 夜下モ町へ用事ニ而行。酒蕎麦御馳走ニ相成、亥之刻前帰宅。

廿五日 雨
 庚吉新宅へ煤取ニ相越ス○上ハ町へ非時ニ、辰四郎被招参る。朱小らう弐丁為持遣ス○夜新宅へ用向有之行、談判亥之刻前帰宅。

廿六日 曇雨降次第ニ晴る風出る 昼前上ハ町へ一寸行○夜原吉方へ一寸行、話しいたし戌之刻後帰宅。

廿七日 曇微雨折々風吹 太神宮様御出ニ付、今夜御遷宮いたし候。

廿八日 晴 康吉義今日町會所被頼行。
 夕刻~風雨ニ相成。
 辰五郎新屋へ被頼行、夜又新屋へ被頼行也。

廿九日 雨風吹微雪折々寒し 康吉會所へ被頼行也。
 恒例之如く、神前餝付、祖先之霊屋餝付いたし、手向し、夜五ツ時~越年いたし候。予、母、辰、金、并おみよ、おちせ、辰五郎、他に康吉也。無事ニ而一同方慶いたし候。辰四郎來□ニ出る也。
  千秋萬來萬々來


 この月も取り立てて、見る者の目を引く事件や、行事の記載は無い。これは篤之助の心覚えだから当然と言えば当然に、その日の心境すら書かれてはいない。どんな近しい身内が死んでも「愁傷の限り」、嬉ければ「大慶至極」……。これは独り篤之助ばかりのことでなく、世上の人間一般にそうなのだが。
 この後、「文学」なるものが現れて、それが巷間たゆたう人々の、心の綾を扱うものだとされ、扱いやすい文体を用意されて後ようやく、人は我身の内に我心もあるのだ、と自覚したのではないか──乱暴に言えばそう思えるのだ。それまでは心も事物も、同胞や祖先、産土と一体で、痛みも喜びもそれらと共有して生きてきたのではないか、だから身体表現や感情そのものは確かにあっても、特別記す必要は無かった。例えば、神社や地蔵や、忠魂碑の類で感情を共有できたから……。
 昨日人物館の池田氏と「明治期になって郷土史家が続々誕生した理由の如何」という話しをしたのだが、この辺りも関係があるような気がする。車にゆられ、寝床の中でいくつかの理由を思いついたのだが、智恵熱が出そうになって、今は中断している。
 篤之助が17日にもらしている「予兎角不落□付散々ため、且少々困事も有之参る也。」のあたりが先に書いた、篤之助町年寄引退に懸る諸事情の鍵なのだが、後にもこれ以上は漏らしていない……。

 ともあれ、頭に髷を戴いた御先祖様の、動乱の一年を見てきた。
 戦火を恐れ、荷駄や車に荷物を引く人々の群れや、砲火に泥まみれになって逃げ惑う姿。
 秋の田舎道を、たぶん土ぼこりで白くなりながら、とぼとぼと納骨にゆく行列や、行灯の薄灯りの下で、従兄弟や詩の仲間と放歌酒宴をする姿を見てきた。
 竈が損じて灰神楽に狼狽する篤之助は、綿入れを着て、爺端折りのいでたちか、下男の庚吉はTVで御約束の股引尻端折り姿だったのだろうか……。
 神棚仏壇に明かりを点し、箱膳を並べ、一家主従の年取り。この屋の主人中村篤之助、弘化三年三月二十六日生まれにして、この年僅か二十二歳。こうして明治元年は暮れて行った。


 今のところ明治六年まで読み終わっている。この後のほうが読むほうとしては面白い。「斎」や「非時」の記録につき合わせるのも忍びないので、読んで面白いところだけ抜き出すことにする。これまでは一年を概観するということにして。
 ただ、このまま明治を走ってゆくか、篤之助十代の頃に戻るか、はたまた親父様の『鏡月堂日記』まで戻るか、思案の最中である。

(陸)


鏡月堂日記24 「明治元年も押詰り」

2006年09月28日 | 鏡月堂日記

 「明治元年十二月」

十二月朔日 晴天 今朝土神両社へ参詣○今朝河渉り餅いたし、幸作、鉄三郎来ル。
 今朝与板稲屋へ、庚吉遣し候。亡父記念として、鼠横麻単羽織一枚、手紙壱封添て遣ス。菓子壱箱代金壱朱分、小児へ遣ス。○原屋清右衛門方へ、今非時ニ辰四郎被招参ル。菓子札代三百文分為持遣ス○今夜又蔵ハヽ来泊る。
 夜引懸ケ、海津へ寄。椎谷藩士一人被居候。其内原道太郎、久我仁作、高野寿一郎被参談話。原道、高野寿被帰、椎谷、并久我、拙者、并主人、祐義君共、五人ニ而酒宴。漸く子之刻前、仁作君同伴、祐義君も被送、仁作君大酔ニ而途中卒倒いたし当惑。漸々ニ樋口へ連行、祭付り付候。其~帰宅。

二日 曇晴夜雨降 今朝山きしへ内談有之行。叔父君少々不快ニ付見舞被第参り候也○百ケ日待夜ニ付、非時営ミ義周、上ハ町、下モ町、おそを、新宅主人、新屋内、山きし母、おかつ、間瀬内、海津主人、安部伜、おまつ、又蔵ハヽ、且又石屋和七懸り也。 鉄三郎も来ル。
 御院主、大童、浅の、小兵衛、乳母不参いたし候。

 平 おほろ口柚  引而 こんにゆく白あい壱鉢 浸しもの壱鉢
         飯   香之物壱鉢
 壷 芋之子 ぶ々煮
   大根

 今晩阿部伜、和七、又蔵ハヽ泊り也。
 一、与板行庚吉、日暮て帰足いたし候。稲屋~母江、禮弐品被遣候。尤稲屋主人新發田江御用出ニ而、留守之趣申聞候。

三日 微雪 ちら/\降
 百ケ日正当ニ付斎営ミ、御院主、妙光寺、大童、上ハ町主人、弘蔵、下モ町主人、おそを、新宅主人、新屋主人、同母、山きし母、幸作、お縞、海津主人、阿部伜、浅野主人、鉄三郎、石屋和七、又蔵ハヽ、おまつ、外ニ家内、予、母、辰四郎、金五郎、おみよ、おちせ、辰五郎、外庚吉也。
 不参ハ間瀬、小兵衛、乳母也。阿部伜、和七、又蔵ハヽ斎後帰り候。布施百文御院主・百文妙光寺・五十文大童。

 平 おほろ口柚  小皿 大根 膳       こんにゅく
             ひしき  引而 煮〆 芋之子 壱鉢
二ノ 油揚弐ツ                 豆好
 椀 百合根    飯          かぶいり菜壱鉢  甘酒いする
   椎たけ               香之物壱鉢

 一、斎後上ハ町、下モ町、新宅、海津等へ相談之義有之、談し申候。
 一、新宅叔父忌日ニ付、非時ニ被招、予、辰四郎、并鉄三郎も居合、三人共罷越候。本弐十匁弐挺、并予~朱小蝋弐挺呈す。御院主、新屋、國助也。緩々ニ御馳走ニ相成、夜半帰宅。

四日晴天 祖先忌日ニ付、斎いたし、義周来ル。布施五拾。文山きし幸作来ル。
 昼前間瀬江行内談いたし候。其~小兵衛方へ寄昼飯馳走相成、午睡たし其~海津へ寄。留守ニ而、暫時祐義子と談話いたし居候へ共、御帰無之申之刻帰宅。
 夜山きしへ行談判いたし戌之刻帰宅。

五日 曇微雨 予不快引籠申。よる海津へ見貰ひ行、内談も有之候ニ付如件。朝日時帰宅。

六日 雨降 不快引籠申候○夕刻~雪ニ相成

七日 風雨 霰も降 予不快引籠申候○丸屋原吉方江、辰四郎、鉄三郎も被招参る。本弐十匁弐挺為持遣ス。

八日 風雨雪も降 大寒十二月中明六ツ時九分ニ入。
 昼後海津御出、昼飯差出ス。兼而内話いたし候。又新宅へ申遣し被参、一杯差出ス。且新宅を以、書面為持會所へ遣ス。其前庚吉ニ為持遣し候、埒明不申又同断也。夕飯為出し、湯相立申候。

九日 風吹

十日 晴風吹夕刻~雨降出し候 昼後海津御出。夕刻山岸御出。

十一日 曇次第晴天 吉日ニ付煤取いたし候。上ハ町下男、新宅下男、新田彦三郎、兼松、おまつ并、庚吉〆六人也。
 御天気ニ而都合よろしく早く相済大慶いたし候

  夕飯料理
  皿 煮鱈干子入る也    飯  香之物計り
  汁 しゝたゝき汁豆ふ入     酒出ス 湯相立申候

 今夜新屋國助、并丸屋原吉来話、酒出ス。

十二日 雨昼頃~はるゝ 上ハ町煤拂庚吉遣ス。

十三日 晴天 忌日ニ付非時いたし、大然招き布施五拾文。
 上ハ町母、弘蔵、山きし母、幸作、お縞、并鉄三郎来ル。

十四日 寒風ざわ付夕刻~雨当る

十五日 風雨雪交り降寒し


 法會の御馳走や特別な晩餐の品書きが載っている。世界中の料理、具材を貪欲に取り込む現代の、狂気とも思える食生活から見ればたいした御馳走ではない、と言ってはしょうがない。私の記憶にある幼い頃の葬儀のお膳もこんなものだったと思う。いわんや日々の食事など。
 この時期の農村の祝言の御馳走が、よくて一汁三菜、並で一汁二菜だったそうだ。勿論贅沢禁止のせいでもあるが。
 大体、飯は一日に一度しか炊かないもので「めし」「ごはん」の使い分けがあったと思うのだが……。

 実は篤之助、12月3日以降町會所に出ていない。公用録も3日「今日宮川キ策宅、丁頭、組頭、並重立の衆、会合評議有之候へ共、予は容躰不宜候に付、参り不申候事」の文言を最後に唐突に終っている。
 追々見て行くと「不快に付」ということで町年寄退役願いを、この月に出していたらしく、年が明けてから受理されている。
 もともと体が弱い家系だったようで、親戚の人達も若いうちに亡くなってゆき、篤之助の子、孫もまた同様の運命を辿ってしまったようだ。
 だが、篤之助の「不快」の原因はこの後もはっきりとはしない。私が見た限り出てくる病名は「ひぜん」と「流行り目」くらいだ。のみならず、この後も親戚筋や詩の仲間と毎日のように「閑歩」「酒宴」──それはそれは魂消るくらい──の日々を過している。そして、篤之助自身は「不快」の身ながら、62歳という同時代としては先ず長生をしている。
 親戚筋が集まって「用談」「内話」を繰り返すのは、揃って暮らし向きが傾きつつあり、それの打開策を話し合っているのだと知れて来るのだが、有閑富裕層の暮らしが染み込んでいるせいか、誰も良策を出せない。そして「内談」「酒宴」を繰り返すのが実情のようで、不快の原因もこの辺にあるのかもしれない。

(陸)


鏡月堂日記23 「雪卸し 蔵米大入札」

2006年09月26日 | 鏡月堂日記

 「明治元年十一月」

十六日 微雪寒し終日降 庚吉新宅へ行○上ハ町主人、今朝長鳥へ勘定ニ相越被成候○妙光寺~米搗来ル。

十七日 雪昨夜~雪吹 鉄三郎義、諸事見習之ため山岸へ御厄介御願申上、今朝~山きしへ遣し候。拙連て参る。
 海津おかじとの良縁相整、今夕飯ニ参り候様使参り、夕刻辰四郎つれて山岸誘引ニ而、出張所へ相越ス。間瀬夫婦、おかじ、山岸、同母、おかつ、浅野、辰四郎也。蓋付吸物出ル。肴三品出ル。其~御膳出ル。緩々いたし亥之刻過、山きし、浅野同伴帰宅。祝儀印迄ニ扇子壱箱、熨斗包、酒弐升札、肴札代金弐朱分遣し候。
 ○庚吉儀今日~町會所へ小遣ひに行。

十八日 曇風吹雪霰折々降 海津母、おふじどの連て夕刻被参候よし、予出勤留守中也。

十九日 雪終日降続キ餘程積る。 今朝高小へ一寸相越ス。

廿日 朝計微雪降 今日者庚吉、并新田彦三郎、小俣辰五郎父相頼、〆三人ニ而家根雪卸しいたし候。

 予留守中、海津叔父御出、夕飯差出し候よし。夜次郎作来話、并山岸伯母、幸作、お縞来り、夜飯酒出し候。鉄三郎も来ル也。

廿一日 雨微雪ましり降寒風吹。 庚吉會所行也。
 夕刻帰宅。其~上ハ町主人、今日長鳥~帰りニ付、一寸行。入湯等いたし帰宅。

廿二日 曇晴 庚吉會所へ行○今晩一番御入札、慣例之通御入札有之、但本元町會所ニ有之候○今夜鉄三郎来泊。

廿三日 晴天 小寒十二月節昼八時五分ニ入 庚吉會所へ行也。
 無人ニ付鉄三郎泊り来ル○大師講ニ付、小豆粥、團子ニ而夕餉いたし候。

廿四日 曇晴夜風雨 庚吉會所行○新田彦三郎来ル。米搗いたし今夜泊り候。○鉄三郎も今夜泊り来ル。

廿五日 微雪 庚吉會所行也○新田彦三郎来ル。
 昼飯上ハ町へ、鉄、辰両人相越ス。○越前藩医、眼科之よしニ而、海叔父様懇意之人有之。予、辰四郎、原常眼気あし候ニ付、為見候様申来。今昼後海津公同伴ニ而、罷越し見貰ひ候。○今日暁日屋童女之祥月ニ付非時いたし、義周来ル、布施五拾文。上ハ町母、弘蔵、山きし母、幸作、おまつ、新宅主人招き来ル。夜亥之刻過新宅~呼来り相越ス。酒御馳走ニ被成夜半帰宅○夜風付雨吹。

廿六日 曇微雪降 夕刻小兵衛来り、到来之蕎麦差出ス○夜山きし~呼来り相越。海津叔父昨夜之一条有之旨、御話有之。其内小兵衛も来り、□んさん焼御馳走ニ相成亥之刻過、辰四郎同伴帰宅。○庚吉會所行○彦三郎来ル

廿七日 曇晴微雪 庚吉會所行○彦三郎来ル
 御七夜ニ付夕飯丸屋ハヽ来ル○小兵衛昨日出立ニ付き、遣物并手紙拵ひ出ス。

廿八日 晴風寒し 庚吉會所行○新田彦三郎不参也
 おちせ、不快ニ而宿下りいたし居候處、快気いたし今日来。

廿九日 曇晴微雨降 新田彦三郎来り、槙木割いたし候。
 庚吉會所~暇出、今日ハ宅ニて處々の所仕舞いたし候。
 ○妙光寺~米搗来ル

晦日 曇晴 新田彦三郎槙木割いたし候○庚吉内ニ居候
 妙光寺米搗来ル○雨降出し候


 16日から雪が降り続いて、20日には屋根の雪下ろしをしなければならなくなった。「餘程積る」としか書かれていないが、茅葺や板ぶきの屋根は容易に雪が落ちない。この3年後(明治4年)の暮が大雪のようで、篤之助の近所で、座敷が雪の重みでつぶれ、その屋の主夫婦と娘が亡くなっている。今でもそうだが、町場の家は梁が細かったのだろう。近所の家や、親類の家で共同作業で雪下ろしをする様子もある。

 海津おかじの話はこれ以降出てこないので、どんなところに嫁したのか分らない。もっとも、海津家にはこの頃既に問題事が進行しつつあったようで、そのせいで立ち消えたとも考えられるが、よく分らない。

 22日の入札は「蔵米(貢米)」を柏崎の商人に売り渡すための入札。政府は新しく立っても、諸制度が整備されるまでには程遠い。旧制度のままでやるのが無難だろう。
 乱暴に言えば柏崎の商人の浮沈は、この入札と、同時に営んでいる「回船業」、「○○業」にかかっているようだ。
 他の地域の業者が入札に参加したいと申し入れたりしているから、かなり内輪でよろしくやっていたのではないか……とまあ、談合即ち悪としなければならない現代の感覚で断じてはいけないのだろうが。
 田村愛之助さんが『蔵米入札と船問屋』『佐渡貢米大阪廻送の請負』など遍じて残してくれているのだが、金融・経済の分野に全く頭が廻らない私には、なかなか理解が及ばない。
 篤之助はこの日の様子を御用留に図入りで詳しく描いているので、挙げてみる。

廿二日 曇晴 昼前出勤小熊長浜拙者也
昼後民政局へ罷出、今晩御入札に付、出人数書上ケいたし候。寺泊町問屋は終に不参也。其外御用承り尤、間瀬仁助同伴罷越候事、会所へ引取申合いたし候。夜五ツ時過本町会所におゐて入札に付、御出役に相成御用申来、拙者出候。開帳振合等御尋に付申上候都て、旧領の梵例の通りに取計申候。料理方は某共へ御任せに付、世話方岩下、間瀬へ談判為取扱申候。民政局より御出役

 会計方      租税方
  中村兵吉様    山田六右衛門様
 市中御取締    下目付
  阿部小次郎様   冨川邑太郎様
 租税方下調    御家来弐人
                御出張也
  長野佐七様   御門へ弐人
小熊武右衛門、中村篤之助、岩下儀七郎、間瀬仁助、宮川松蔵、廣川屋善次郎、其外代人也
一、金高五千両分御直段六俵弐歩五厘
             落札 岩下儀七郎
 御払米千俵の御沙汰に付、落札人江相達候処、増方願出御願申上候処、五百俵増拂也。手付金五両也差上ル。受取下ル。御目録金二百疋、熨斗包、並目録付□へき付にて、落札人岩下へ被下候。何れも奉書紙也。

続キ
一、金高三千両分御直段六俵五分七厘 間瀬仁助御出役方へ、御酒、吸物例の通差出し、某共、問屋迄頂戴いたし、子之刻過御出役御引取、但御取締阿部小次郎様、下目付冨川邑太郎様跡に御残り、某共は右御両人より先へ引取、丑之刻前間瀬仁助跡に残に取仕舞候事。
於元町会所旧例の通御入札有之。廿二日一番の節席図並御名前
(以下席図略)

 この大入札は例年11月22、24、26日の3日に渉って行われ、この年も如此。
 なかなか形式張ったことをやっていたのだ。

(陸)


鏡月堂日記22 「微雪降出 久我殿御巡見」

2006年09月25日 | 鏡月堂日記

 「明治元年十一月」

一、十一月朔日 雨 庚吉新宅へ行○四條様今朝出雲崎立ニ而御着。本陣長井傳太郎方也、拙御出迎いたす。

二日 晴天 庚吉新宅へ行○今斎間瀬江相越ス。本廿弐挺、菓子札代金壱朱也持参いたし候。西永寺老院主、西願寺弐人、丁字屋老人、岩傳、山きし内山、拙也。緩々御馳走ニ相成未之刻過、間瀬同伴會所江行。小熊父子と同しく、久我殿江御着悦、又四條様江御着悦申候。又間瀬江戻り直ニ帰宅。
 今日者向念信忌日ニ付非時いたし、妙光寺へ使いたし候處、朝之内ニ参り談話迄いたし候よし。布施五拾文遣し候。

三日 晴曇也微雪ふり出ス。風少々吹 又蔵ハヽ来り泊る
 庚吉新宅江行

四日 雨 庚吉同断○又蔵ハヽ逗留泊り也

五日 曇 庚吉同断○又蔵ハヽ今朝新屋へ行候處、今夜来り泊る○もりおちせ不快ニ而昨日頃又候宿下りいたし候○夜上ハ町一寸行

六日 晴天 四條様今朝御發輿、長岡江御越并、久我維磨殿御巡見有之候○夕刻引取懸ケ下モ町江寄、久々不沙汰いたし居候ニ付参り候。暫時談判帰宅其~新宅へ話ニ行。酒飯御馳走ニ相成、緩々子之刻前帰宅○庚吉新宅へ行○又蔵ハヽ今日帰村いたす

七日 雨風少々次第ニ雨小止て折々晴光を見る 庚吉今日内ニて米搗いたし候○今日ハ献上もの為御挨拶。 四條様~御目録下賜り、并久我殿~扇子酒鯣下し賜り候。目出度日柄也。

八日 曇次第ニ晴天 久我維磨殿川浦江御越ニ付御見送申上候○未之刻前會所ニ居之、處火事といふ事ニ而駆出し候。細小路金八宅~出火ニ而、一軒焼ニ而留る。其~近辺江見舞寄、且又間瀬江見舞候處、昼飯いたゝき其~新宅へ帰り候。今日ハ忌日ニ付非時いたし候義周来ル。布施五拾文遣ス。山きし母、おかつ、上ハ町母、弘蔵、新宅五人来ル○庚吉新宅へ行○今朝久我殿御送申上、帰路中浜村野俣や出店へ寄、酒御馳走ニ相成候○冬至夜五ツ時九分ニ入

九日 雨夕刻~風雨 庚吉新宅へ行○辰四郎新宅へ非時ニ被招参り候。燭壱挺持参居たし候○今朝出懸ケ海津へ寄○母さま兼而不動院へ祈願有之候處、今日白米壱升、蝋燭弐、鳥目弐百文遣し、并あり之実弐ツ添て遣し、願落し候所計申候。

十日 曇夜微雨 庚吉新宅へ行○夜少々金毘羅江参詣いたし候

十一日 曇晴夕刻~微雨一ツ二ツあたる 新宅へ庚吉参る也。夜原先生へ参る久我無音ニいたし候ニ付如件。柚実三ツ持参いたし候。中庸講釈有之、西巻蔵佐衛門、次郎八、福田等會合有之、拙も拝聴いたし亥之刻頃帰宅いたし候。

十二日 晴天珍らし、夜月明か也 今朝山きしへ行談判。
 夕刻帰り懸ケ海津へ、寄祐義子と談判夜ニ入帰宅。
 妙光寺~米搗来ル○庚吉新宅へ行

十三日 曇雨ふり出ス 庚吉新宅行也○今日者送物しらべいたし候。

十四日 曇晴 庚吉新宅へ行○光圓寺~米搗来ル
 今日送物くはりいたし候。夜新宅へ用向有之行。長助店内、口中軍本陣ニ而混雑いたし候。拙者、栄五郎主人ニ而一杯始め居處、海津、原道来話、猶閑談いたし緩々ニ而子之刻過帰宅。此時分月明に市中寂寥たり。

十五日 曇晴 忌日ニ付斎いたし義周来ル。布施五拾文遣ス。
 庚吉新宅へ行尤一昨日~居通し也。○今朝土神両社へ参詣光圓寺~米つきニ来ル○今日も出入之者へき物遣ス
 夜帰懸ケ海津へ寄。原道来話一杯御馳走ニ相成、亥之刻過帰宅。


 6日の四条様御発輿だとか、久我殿御巡検んなどといっても大変な儀式で、新政府となったといえども組織形態は江戸をそのまま踏襲しているのであり、洋装騎馬の廻りを、鷹匠股引や麻上下の役人が取り巻くのだ。その様子『公用録』によると
六日 晴天 四条殿御発輿に付、今早朝麻上下にて町会所江相詰、其より長浜、拙者、木村、外に組頭四五人、市川新田端へ御送申上候。尤長岡江御越被遊候也。御案内麻上下小熊武右衛門、間瀬仁助、其外組頭迄麻上下也。門前頭、目明は鷹匠股引也。其外先拂両人也。御馬に被召、辰之刻前御発輿也。其より一寸引取猶又巳之刻出勤、其より民政局江罷出、御用承り直に引取。其より久我殿御巡検に付、麻上下にて御案内に罷出候。
  行列付    (※三列。/は割注形式の事)
先拂丁使 法被着/細竹ヲ持  目明 鷹匠股/引陣笠  門前頭 鷹匠股引/一刀  組頭 麻上下/一刀 組頭 〃  丁頭 麻上下(木村全佐衛門帯刀にて出ル)  町年寄 麻上下/帯刀(中村篤之助)
               目明 鷹匠股/引陣笠  門前頭 鷹匠股引/一刀  御旗  久我殿/騎馬
先拂丁使 法被着/細竹ヲ持  目明 鷹匠股/引陣笠  門前頭 鷹匠股引/一刀  組頭 麻上下/一刀 組頭 〃  丁頭 麻上下(林勘右衛門帯刀にて出ル)  町年寄 麻上下/帯刀(小熊武右衛門)

 (ウインドウの幅を目一杯に広げると行列全体の様子が分るかと思う)そしてその道順は
御道順、御門より直に町方へ御越に付、鵜川橋より御案内申上候而、島町通り、廣小路より柳橋迄御越。其より高畑町より、下裏町より、門光寺大門江御上り。其より本町通り、比角村迄。其より諏訪新田町、市川新田町江御越。其より本町通、丁字屋彦兵衛方、御小休被遊、御茶御菓子差上ル。其より永徳寺門前より、納屋町通り、細小路より、妙行寺大門江御出。其より本町通、中浜、下宿、番神堂迄御巡検の上還御に相成候よし。丁字屋饗応役小熊嘉市相越、其より御着悦申上夕刻引取。

 約20人の行列がしずしずと巡ったのであろう、その後丁字屋で饗応がある。他の土地の視察に行といっては、同様の行列や、見送りをするのである。
 そしてご機嫌伺いに贈り物をしたり、それに応えて下さりもの、下賜がある。

 9日に母さまが不動院へ願落しにいっている。「あり之実」は冬の間贈り物にしているから、この頃の梨は今の林檎相当なのだろう。

 あちこちから米搗に人が来り、また下男を米搗きに行かせたりしている。目立つのは寺方の寺男で、労働力の贈答といった意味合いでもあるのだろうか。この頃の搗米屋の米搗きは足踏みで撞いていた筈だが、自家精米はどのようにしたのかは不明。いずれにしても、力と根気の要る仕事だ。この頃になって新米を口にしていたようだ。

(陸)


鏡月堂日記21 「諸藩諸侯御繰込御繰込」

2006年09月21日 | 鏡月堂日記

 「明治元年十月」

十六日 晴天 忌日ニ付斎いたし、妙光寺、山きし母、おかつ来ル。布施五十文遣ス。新宅不参也。

十七日 曇晴昼前雨夜又雨降 今日は長州千城隊、彦根藩、芸州藩、加州藩、其外当宿泊り混雑いたし候。又宮様も近々御越と申事、心配いたし居候。

十八日 今日會所より小兵衛方へ行暫時談判いたし候

十九日 晴

廿日 雨追々風雨 宮様御凱陣、御本営妙行寺拙御案内いたし候。昨夜御慶□ニ相成申候

廿一日 曇今暁微雪巳之刻頃迄雨

廿二日 晴天今朝雪積り居寸程到也
 夜亥之刻引取懸ケ海津へ寄候へとも留守也

廿三日 晴天昼後~風吹出し申之刻頃~雨付夜は晴也
 又蔵ハヽ今朝帰村○庚吉新宅へ手傳行、今夜泊り也

廿四日 晴天 庚吉昨日~新宅へ居通候也夜ニ入帰る也
 今日予風邪気味ニ而引篭居候。新宅来り談す。又山きし母江申遣し被参候。芋飯いたし当人江差上ル。夜少々用向有之山きしへ行。廣田屋被居、一杯相伴いたし又甘酒御馳走ニ相成帰宅。

廿五日 雨 亡父様真宗常福寺毘沙門天王江願懸ケ被成置處、先般御折去ニ付、今日母さま御参詣被成、蝋燭弐丁、白米弐升、芋之子百文召○布施弐百文献上いたし、願戻しいたし候。
 新屋玉助入湯ニ来り、夕飯差出ス。

廿六日 晴天 庚吉新宅へ朝参り候○おちせ永々病気ニ而宿下りいたし居候處、全快いたし今日参候。
 夜母さま福田へ御越被成候。肴札代四百文分、文□子海津泊り居、祝ニ遣し候。且又本廿匁壱挺、霊前へ御持参被成候。
 夜次郎作来り談す

廿七日 晴天夜雨ふり出ス
 今日も庚吉新宅へ行○又蔵ハヽ昼前来ル
 夜新宅へ少々用向ニ而参り候處留守也。店へ参り談話其内夜飯出る。亥之刻前帰宅。

廿八日 曇晴 今日も庚吉新宅へ行○今朝出懸ケ海津へ寄

廿九日 曇晴 庚吉新宅へ行○今朝出懸ケ海津江参り、御薬もらひ候○夜山きしへ用向有之行。横喜来り酒出ル。亥之刻帰宅○英国第一等医官ウリユス、先達而下モ筋へ参り候處、今日帰り来ル。宿聞光寺也。

 晦日 晴天 但し不幸後今日始て神棚開ク。神迎ニ付、夕餉さゝぎ飯いたし候○柏崎縣知事久我維麿殿、今日御着、御陣内へ御入也。麻上下ニ而御案内いたす。



 諸藩の部隊が続々と柏崎に繰込んでいる。公用録によると16日
  長州千城隊御繰込其外多人数御繰込当惑いたし候
 17日
  長門千城隊御本神小熊武右衛門
  彦根御人数広小路町より柳橋通
  芸州御人数嶋町通り
  加州津田権五郎様御人数
  同田辺仙太郎様御人数
  其外御泊り
 19日には
  徴兵壱番隊、弐番隊共、并黒谷御親兵も御繰込に相成
 そのうえ20日には
  麻上下帯刀にて御案内に罷越候未之刻頃宮様御着輿に相成候市川新田町出端右不動辺へ御会
 宮様までやって来て「一睡も不致候」
 これに使った宿、上級官職などは寺を宛てられたが、兵卒は民家に強引に配分されたようだ。「柳橋通り」や「嶋町通り」というのがこれだ。これらの兵糧を星野藤兵衛が賄ったのだ。

 毘沙門天王にお参りをしている。願を掛けが叶ったなら解かなければならないが、この願は叶わなかった。この願戻しは切ない。

 英国第一等医官ウリユスのことを記しているが、外国人が柏崎に来たのはこれが最初ではない。7月20日に浦浜に着いた摂津丸の機関長、米人ミルステートと、運転長で蘭人のハーゲルトが納屋町の不動院に20日間滞在している。滞在中の厚遇を謝した毛筆英字の礼状が残っているそうだ。

 晦日にやってきた久我維麿殿は、10月11日に柏崎県知事に任命され、この日着任したもの。

(陸)


鏡月堂日記20 「町年寄被仰付 瀬上叔父無事凱旋」

2006年09月20日 | 鏡月堂日記

 「明治元年十月」

一、十月朔日 雨降、朝辰之刻過霰降り、又昼後霰降。今日も終日風吹荒る也。昼後雷鳴二三聲。
 横喜娘もりニ夜来ル○夕刻庚吉来ル○夕刻着場喜太七方へ新屋頼母子ニ参る。酒御馳走ニ相成又赤飯出ル。拙家分弐両也、阿部分壱両三分也、相掛ケ申候。夜辰之刻頃、下モ町、新屋同伴帰宅。晴返共風雨也荒ル。

二日 曇風吹、雨降出し荒る也

三日 雨降風様也、追々ニ晴上り候。 先日拙宅へ参り泊り候、高田夫人仙吉御用向相済帰り之趣ニ而、今申之刻頃拙宅へ立つ寄申候。瀬上金吾殿~書状到来いたし候。○庚吉今昼頃帰村いたし候○夕刻又蔵ハヽ来り泊り也。

四日 晴天 六七日待夜ニ付非時相営ミ、義周、大然、上ハ町母、新宅、新屋内、おそを、山きし嬢、うは、来ル。御院主、間瀬、海津、小兵衛不参也。

五日 晴天 今朝斎いたし、義周、大然、上ハ町母、弘蔵、慎太郎、おそを、新屋、國助、新宅内、山きし主人、お縞、うは、外ニ御院主、海津、間瀬、小兵衛、おまつ不参也。布施百文義周へ○同五十文大然へ遣し候。
 新宅~相談有之旨申来り候ニ付、今夜余□會に罷越ス。吉田、上ハ町、下モ町、山きし、孫助、又助、茂三郎、拙也。改革方相談也。酒飯出る。子之刻過ニも候赴帰宅。
 福田文碌義、閏四月~御供ニ而下筋へ参り居之處、今日帰宅いたし候拙宅へ一寸来り候。

六日 曇晴 巳之刻雨少々。今朝山きしへ参る。又海津へ参ル。昼頃帰宅○未之刻頃間瀬へ相越ス。主人下筋へ被参候處、先日帰宅ニ付如件談判帰宅。此時分雨又降。

七日 晴天 拙義今日民政局へ御召出し、町年寄ニ被仰付候ニ付、同勤四軒并、間瀬、海津、山岸、新宅へ一寸吹聴ニ行、申之刻過帰宅。○夕刻又蔵ハヽ来り候。此ハ頼申候召始式。鉄三郎山きしへ障子張り手伝ニ行。

八日 曇 今朝山岸へ行、又海津へ行同伴、間瀬江相越ス。談話中西永若、山岸被参候。拙者、由緒書認メ申候。昼飯御馳走ニ相成、又原先生、浅野等被参候。予者申之刻過先へ帰宅。

九日 曇追々晴天 今朝山きしへ行談判いたし帰宅。其~此程之結構御禮ニ相廻り候。縣判事恒川新佐衛門様、御宿西巻源右衛門。○同宮地友次郎様、中村右平様御宿、角の吉右衛門。○同堀達佐衛門様御宿、市川房之助。○此御四方へ手札為上御禮いたし、巳之刻過帰。宅間もなく高田瀬上金吾様帰陣被致、拙宅へ被寄候ニ付、先ツ御上り候様申上、御上被成候ニ付、出来合之昼飯酒差出し、目出度凱陣を祝し候。上ハ町主人并、母さま、山きし母さま来り祝す。菓茶差出候。緩々ニ而未之刻頃出立被致。候高田へ白玉壱箱代銀五匁位之分、并胡麻一袋差上申候。今晩鉢崎泊り之趣也。
 今日おまつ来ル。且又大根買いたし候○夜新宅へ一寸相越
 高田賄方十六人泊り、宿混雑也。朝日時帰宅○夜原吉宅ニ而浄瑠璃有之、聞ニ行。戌之刻後~雨ふり来ル。

十日 雨 今日乳母おまつ来り、大根洗ひいたし候。又蔵ハヽ居合。
 大工嘉久平死去いたし候旨赴来り、昼鉢崎ニ行。本十匁弐丁、香典弐百文遣し候。○予出勤留守中、高田之藤吉下筋~帰り候而、拙宅へ参り候よし、予帰宅之上承り申候。
 今日は雨ニ候処追々微雪ちら/\ふる寒さ身にこたひ候。

十一日 晴 今朝雪少々積り居寒し
 今朝會所前迄罷越候處、役人被居、人足差出候様申聞、直ニ予を胴乱ニ而小鬢をたゝき、少々血いする。其~丁子屋へ行、又関屋へ行、小兵衛方へ行、昼時帰宅。馬鹿/\敷目に逢申候。
 四十九陰待夜ニ付非時いたし、御院主、妙光寺、大然、上ハ町母、新宅弘蔵、うは、おまつ也。下モ町、新屋、山きし、間瀬、海津、浅の、小兵衛不参いたし、且又又蔵ハヽ、庚吉居合。
 大工嘉久平出棺ニ付、野送り鉄三郎出ル。人足庚吉遣ス。

十二日 晴天 四十九陰正当日ニ付斎いたし、御院主、妙光寺、大然、上ハ町母、弘蔵、新宅、新屋内、山岸、海津、浅野、庚吉、おまつ、又蔵ハヽ、乳母、并然吉来ル。下モ町、間瀬、小兵衛不参也。布施百文御院主、同百文妙光寺、同五十文大然へ遣し候。○夕刻~風雨ニ相成折々晴る○高田藩瀬上彦次郎様、森新八様、并夫卒壱人、今日帰陣被致、肴場□□□刻之趣ニ而、申之刻過三人共拙宅江被来、先々不事ニ而相眉大慶ニ而、早速湯をわかし入湯為致、申候其~夕飯酒為出候。緩々ニ而談判、又甘酒為出候。夜亥之刻前宿江被帰候。且又彦次郎様~菓子壱箱代金壱分也分被下、新八様~菓子壱箱代金二朱也分被下候。山きし母、上ハ町母来り祝す。戦場へ向うものハ、皆命さし出し而之事なれは、息災ニ而帰陣ニ相成、誠に目出度事此上なきこと。亡父者人も泉下ニおゐて、甚満足被成候事と皆々申談し居申に、つまらぬ事迄日記中に認めたれハ、かたく他の人の高談ヲいましむ。後の見ん人、あしき處ハ見不可玉ひ。

十三日 晴風吹申之刻前~風雨ミそれ交り降
 昼前小兵衛妻病気ニ付、母さま見舞御越被成候。あり之実弐ツ御持参被成候。○又蔵ハヽ昼後帰村いたし候。

十四日 風雨ミそれ交り降寒し 又蔵ハヽ夕刻来ル

十五日 晴天 炬燵開きいたし候○又蔵ハヽ今朝帰村



 7日、改めて町年寄を命じられる。御用留では
七日 拙義今日民政局江御召出しに付羽織袴着にて巳之上刻会所へ行其より御局へ罷出候手間取漸く申之刻頃御次の間御敷居側へ被召出候同役付添無之候
           中村篤之助
右今般町年寄役申付候上得共意誠実に可相勤者也   十月   民政局
右の通御書下ケ御渡しに相成候に付御詰所へ御礼申上引取会所へ行其より同勤四軒并間瀬海津山きし江寄吹聴いたし申之刻過引取又新宅へ一寸行候
一、右申付に相成候に付左の通御達し
           中村篤之助
  右篤之助儀今日町年寄役申付候上得其意夫々可申触者也
    十月  民政局
          町年寄へ

 そして親戚に吹聴に廻っている。9日のお礼参りはこの事の礼。
 宿の混雑は会津での戦いが終結(9月22日降服)し、帰陣の隊によるもの。この一行に高田瀬上叔父がいたのか、12日に瀬上叔父も凱旋無事を祝う。瀬上は前母の実家かと記したが、今の母の実家の誤り。
 11日再び乱暴な役人のあしらいを受け、頭を胴乱で叩かれている。この用事は星野藤兵衛に呼ばれて行った件。10日に長州の騎兵隊が着陣しているから、この辺りの人間であろう。
 閏月をはさんでの十月は、「微雪ちら/\ふる寒さ身にこたひ候」と、今の暦では11月の半ば位に当る。大根を買、荒い、漬物の用意ができ、十五日には「炬燵開き」をしている。「○○開き」「○○納め」この感覚を忘れていました。

(陸)


鏡月堂日記19 「親父様納骨 明治元年と改元」

2006年09月15日 | 鏡月堂日記

 「慶応四年/明治元年九月」

十六日 雨降巳之刻頃~晴上り晴天ニ相成、夜月色くまもなし

十七日 曇晴。今朝兎角空合不宜候へ共、先ツ晴之方ニ付、支度いたし加納へ納骨ニ罷越ス。母さま、拙、鉄三郎、辰四郎、金五郎、上ハ町母、弘蔵、供治助、下モ町主人、おそを、供原助、新宅主人、同内、供おせい、新屋内、山岸主人、同母、幸作、海津、阿部和七、兼松、新宅下男、乳母罷越候。追々空合よろしく相成、田尻茶屋小休いたし、又京助方小休、其~光賢寺へ参ル。志金廿五疋、納骨ニ付志弐百銅、仏借来料弐百納手土産として菓子札弐百文分、並廿匁五挺、香壱包、其外小燭、線香等御墓用意之分。御営ニおゐて阿弥陀経、并正信謁讀話有之、焼香有之候。其~釈浄信居士之墓ニ納骨いたし候。又読経有之候、且今日江戸~来り天竺霊鷲山寺院和尚誦候経文壱義。并新建立之江戸墓中へ可納もの壱封預ケ申候。帰路田尻山~夕景ニ相成、夜に入帰宅。海津、新屋内、兼松、和七、新宅下男、乳母□□予方上り候而、麦飯いたし差出し申候。おまつ、下女みよ、もりおちせ、留守居いたし候。今日ハ御天気ニ而、勢々よろし大慶いたし候。

十八日 曇晴 今日もおまつ来ル。

十九日 晴天 出勤懸ケ小兵衛方へ見舞寄、妻不快也。
 四七日待夜ニ付非時営み義周、大童、上ハ町母、下モ町おそを、新宅主人、山きし主人、同母、嬢、海津主人、うは、又蔵ハヽ○おまつ居合。外ニ御院主、新屋、間瀬、小兵衛不参いたし候。今日山田より蕎麦切二重被遣候ニ付、是ニて相納申候○又蔵ハヽ帰り也。
 年号明治元年と改元被仰出候。

廿日 晴天 四七日斎営ミ、御院主、妙光寺、大童、上ハ町母、弘蔵、新宅、慎太郎、おそを、山きし、同母、嬢、又蔵候○おまつ居合、外ニ新屋、海津、間瀬、小兵衛不参いたし候。新田乳母も不参○夜間瀬~鰯来り。原吉ハヽ、彦三郎手伝為到候。

廿一日 雨晴天。今日もおまつ来ル○追々曇天ニ相成、昼後雨壱つ弐つ降。今日も間瀬~鰯来り候。

廿二日 晴天 おまつ来ル

廿三日 雨昼後~はるゝ昼前山きしへ行
 忌日ニ付非時相営、妙光寺、上ハ町、新宅、慎太郎、おそを、新屋内、山きし母、幸作、嬢、乳母○おまつ居合、外ニ御院主、海津、間瀬、小兵衛不参いたし候。

廿四日 曇未之刻過~風ざわ付 新田乳母、米橋来ル。おまつも来ル。

廿五日 雨昼前~はるゝ 御花豆四升搗。山きし母、新宅内、来り候。乳母おまつ居合。
廿六日 雨朝計りニ而晴る夕刻~微雨ふり出し候。

廿七日 晴夜雨降 三十五日忌日当ニ付斎相営ミ、妙光、大童来ル。
 其外親類中、出入之者来ル。寺参者男衆計り相越ス。早く相済大慶いたし候。又蔵ハヽ泊り也。

廿八日 曇雨ふり出ス 今日もおまつ来ル○雨者追々晴上り候。

廿九日 風荒ニ而、砂を吹飛ばし、所々屋根損し候處も有之よし。申之刻頃~雨降出し夜も風雨也。
 今日もおまつ来ル○且又岩之入村安右衛門へ預け置候あけ□壱ツ、予出勤留守中、安右~かつき来り候程ニ、鰯二十串遣し申候よし。



 二十余人でゾロゾロと納骨に出かける。茨目から中道、安田と行ったものか、半田、城之組の方から行ったものか、田尻山が何処を指しているのか一寸わからない。どのみち町から四里ほどもあるだろう、一日仕事だ。
 東京方面へ出かけるにはこの筋からで、田尻の茶屋で見送りの衆と別杯を酌む習慣だったようだ。

 19日 明治と改元となっているが、改元の日付は9月8日。
柏崎まで届いたのがこの日になるのだろう。篤之助の公用録には次のように書かれている。
十九日 晴天 巳之刻会所へ出席、市川与三太夫方也、小熊父子、長浜、松村、予也。認もの手伝いたし昼後引取。
年号明治と改元被仰出候。御一代一号に被定候旨被仰出候。今日会所におゐて御布告拝見いたし候。

 篤之助が見た布告は以下の通り。

今般 御即位御大禮被爲濟先例之通被爲改年號候就テハ是迄吉凶之象兆ニ隨ヒ屡改號有之候得共
自今 御一代一號ニ被定候依之改慶應四年可爲明治元年旨被 仰出候事

   詔書
詔體太乙而登位膺景命以改元洵聖代之典型而萬世之標準也朕雖否幸 祖宗之靈祗承鴻緒躬親萬機之政乃改元欲與海内億兆更始一新其改慶應四年爲明治元年自今以後革易舊制一世一元以爲永式主者施行
  明治元年九月八日


 間瀬氏は港町の船問屋らしい、船祭に招かれたり、海産物を届けたりしている。

 「御花豆」というのは、「打ち豆」のことかと思ったのだが、後に「花豆をまろける」手伝い、というのがあってよく解らない。


 非時、斎に招かれて経を読む「蒙周」は「義周」の読み違えだった。「我」を崩すと「家」と同じになる。勢いで読んでいるから読み違えが多いと思う。

※後から追加
 家に帰って女房に聞いた。「田尻山」は国道252号線を高柳方面へ向って北陸自動車道と交わるあたりのことを言う。よく見たら住宅地図にも出ていた。「団子山」と同じくかつてはいま少し小高かったらしい。してみると四ツ谷を通って茨目回りだったことになる。
 今ひとつ、味噌の仕込みは春秋どちらもやったと母に確かめた。なべ、カマドが廻ってくるのは秋だったそうだが。

(陸)


鏡月堂日記18 「御礼廻りと斎非時と 公務ニ戻候」

2006年09月14日 | 鏡月堂日記

 「慶応四年九月」

一、九月朔日 晴冷氣相募申候。夜雨降 夜國助来話。

二日 雨 庚吉荒濱へ今朝帰り候○鉄三郎、山きしへ手傳行。
 夜次郎作来話。兼松彦三郎帰る。

三日 晴、次第ニ雲立いたし候へ共猶又昼前~晴上り候。又風吹出し空全変る。夜遠雷鳴内亥之刻過~雨。
 鼻田嘉佐衛門へ預ケ藤物、馬ニ付ケ来ル○昼後海津御出酒出ス○夜小嘉来話○大工彦吉一昨寅~函館筋へ稼ニ罷越居、今日帰足、わらじ足ニ而立寄申候。

四日 雨 今朝福田へ悔ニ行、弟死去也○大工源八も昨日帰足いたし今日来ル。

五日 晴天 福田出棺ニ上下着用罷出候。死払付有之候へ共断、不参。
二七日待夜ニ付非時いたし候。院主、蒙周、御供上ハ町主人、母○弘蔵、慎太郎、おそを、新宅主人、新屋主人、山岸主人、母、幸作、おかつ、海津、山田友之助、おまつ来ル。間瀬、浅の、阿部伜、小兵衛、乳母不参也。小嘉~参り候赤飯ニ而相紹申候。且又上ハ町~参り候おはぎ三つ宛引。新宅下男、上ハ町鉄外、手傳相頼申し。今夜彦三郎不参ニ付、新屋國助帰り来る○夜亥之刻~雨ふり出ス。

六日 朝雨少々風吹、次第ニ晴上り候 二七日斎、御院主妙光、大童、供上ハ町、同母、弘蔵、下モ町、同おそを、新宅、新屋、山きし母、幸作、お縞、海津、間瀬内、浅の伜、小兵衛、おまつ、うは来ル。外ニ山田、阿部伜不参いたし候。

七日 晴天 今日返禮ニ上ミ之方へ山岸幸作、鉄三郎、供ハ新宅下男差遣し申候。松前屋孫助方ニ而昼飯ニ相成申候。下モ之へ、上ハ町弘蔵、辰四郎、供ハ上ハ町治助差出し申候。是は昼迄相掛。夕飯おはぎいたし候。相願候上ハ町母、山きし嬢来ル。今日者御天氣ニ而都合よろし。
 今朝間瀬~呼来り相越ス。会計方~請取候金子之義談判有候、暫時帰宅。夕刻猶又間瀬へ行。主人留守ニ而、海津御居暫く話、待居候へ共、主人不被帰候ニ付、亥之刻過海津同道帰宅。
 今夜彦三郎善之介泊る

八日 雨降未之刻過~風吹出ス。追々風雨夕刻~大荒夜風雨雷鳴いたし候。二三度尤も強し。霰まじり降。
 今朝山岸へ寄、其~間瀬へ相越ス。昨日之義御話申上巳之刻過帰宅○夕刻海津御出、酒豆腐ニ而一杯差出ス。夜ニ入りて御帰り。

九日 曇風吹雨も降 重陽之佳節、喪中ニ而淋し。新田彦三郎米搗来ル○夕刻原屋、俵屋来り、間口間数之義時法ニ相成候旨ニ而談判有之。其~山きしへ行談判○暮て帰宅。

十日 曇晴風吹寒し 曲師喜助娘もりニ相頼候。おちせ先日~不快ニ而宿下りいたし候ニ付如此○昼後山岸へ行談判いたし帰宅。夕刻又山きしへ行、留守ニ而空しく帰宅。夜上ハ町へ一寸行。明日長鳥へ検見ニ御越ニ付、拙家之分も相頼申上候。拙いまた忌中於如此御頼申上候事也○夜新屋来話也。

十一日 晴天折々さむし おまつ、横喜娘来ル○昼前加納光賢寺被参、霊前談話有之候。其~豆腐汁ニ而昼飯差上ル。幸ひ山岸被居、相伴いたし候。

十二日 晴天、次第ニ空合変り、未之刻過~微雨降出し候。
 三七日待夜ニ付非時相営申候。御院主、蒙周、大童、上ハ町内、同母、同廣蔵、下モ町内、おそを、新宅、同内、新屋、同母、山きし、同母、幸作、おかつ、海津、間瀬内、阿部、同伜、浅の、小兵衛、おまつ、乳母来ル。外ニ山田東山、小林嘉兵衛、平八へ使い致し候得共不参也。新宅~参り候蕎麦切ニ而納申候。御院主□行之故非時遅く相成申候
 ○昼前鉢崎太原次参り、槙木三棚積来り候旨申聞、おみよ、并上ハ町治助遣し、当到早速かづき来り可申事ニ存居候處、駄賃取無之、且又波打際へ積置候ニ付、上ハ町佐佑冶、新宅下男、新田乳母遣し、場所よき所へ積直しいたし候。終ニ今夜濱ニ泊め申候。番人納屋町者相頼申、又上ハ町ばゞも相残し候○夜兼松来ル、非時調理差出ス。

十三日 雨昨夜~降風少し吹、追々風雨ニ相成、昼~雨晴風計り吹 今日天氣晴れ候ハヽ、加納へ納骨ニ可参存居候處、天氣あしく見合ニいたし候ニ付、今朝斎相営、御院主、蒙周、大童、上ハ町弘蔵、下モ町慎太郎、おそを、新宅内、新屋母、山岸主人、同母、幸作、おかつ、海津、浅野、小兵衛、乳母、おまつ来ル也。間瀬不参いたし候。
 槙木今朝~運送いたし候○上ハ町主人昼過、長鳥帰りニ而被参候。今年ハ大ニ作悪し候○昼過山岸へ行談事いたし、又海津行談事。夕飯御馳走ニ相成、海津公同伴ニ而帰宅。湯ニ入申候。

十四日 曇、次第ニ雨ふり出ス。昼前~晴る
 拙昨日、忌中御免之御沙汰有之候ニ付、今日出勤いたし候。帰懸ケ小兵衛方一寸寄○今朝斎ニ、浅野へ鉄三郎相越ス、拾匁弐挺為持遣ス○新宅次郎作来話、夕飯為出ス○夜間瀬内、山岸内被参候、新屋も来ル。

十五日 風雨昼前~晴ル、風吹猶雨ふり出し、霰交り降、夜霰降。
 祖先忌日ニ付昼斎いたし、蒙園招く。布施五十文遣ス。海津、新宅、上ハ町母、山きし母、小供来ル、兼松来ル、おまつ居合。


 “鼻田”は“花田村”のこと。
 函館方面に出稼ぎに行っていた大工彦吉が訪ねて来る。柏崎は回船、漁業の関係で北海道とは縁が深く、松前方面には柏崎出身者が多い。番神堂を建てた四代目篠田宗吉は後に函館高竜寺本堂を建てている。現存する寺院としては函館最古となる。

 10日上ハ町主人に長鳥の検見を頼んでいるのは、長鳥、花田方面に支配地を持っているからだ。度々この方面に往来があるのはこの関係による。13日に検見から帰って作柄悪しの報告を受けている。この翌年は自ら出かけているがやはり作柄は悪い。
 鉢崎から薪が運ばれてくる。源太郎は親戚筋のようなのだが判然としない。薪は鉢崎から船で裏浜に着けるのが慣例のようで、夜になって駄賃取(荷駄)が居なくて運べず、取り合えず流されない場所へ移動して、番を置くことになった。

 13日に忌中御免の沙汰が出る。この頃は忌中の者を公務から離していたのだろう。だがこの場合、忌中明けと言うより「忙しいから出て来い」というのが実情のようだ。
一、今昼前、拙忌中御免の御沙汰に相成申候。今日三七日也。

 其方義忌中に候得共項日御用多に付忌無構可致出勤者也
  辰九月十三日 民政局
          町年寄見習 篤之助(公用録より)


 それにしても法要が多い。二七日陰、正、三七日陰、正……と実にまめにやっている。これに祖先の忌日が加わるのだ。一日に其処といくつも重なることもあので断ることも多い。ただ、空手で断るわけにもいかないので「壱物を遣ス」事になるのだから堪らないだろう。非時・斎の御馳走といってもこの時分の御馳走で、後に献立が出てくるが、質素なもので──今が贅沢すぎるのだが──当然精進料理である。

(陸)


鏡月堂日記17 「官軍勝利で事休 親父様儚被成候」

2006年09月13日 | 鏡月堂日記

 「慶応四年八月」

十五日 晴 官軍追々御進撃被遊候ニ付、市中一統御勝利を奉祝、今日事休いたし候○夕飯大魚実飯いたし候。今夜者中秋月色清明最もよし。海津、藤吉話ニ来り、酒飯差出候。父病床淋處ニ付如件。今夜市中謡歌之聲賑いし。

十六日 雨終日ふる 今日も事休ミなり○今非時蒙周招く布施五十文。上ハ町母、弘蔵、山きし母、幸作、おかつ来ル。次郎作藤懸り間ニ合。夜雨晴れ、市中賑いし。

十七日 晴 親父様不快ニ付、山きし母昼之内~来ル。夜次郎作、新田乳母来ル。

十八日 晴 昼之内山きし見舞御出、又山きし祖母御越。夜迄夜浅野主人、國助、間瀬内等来ル。

十九日 晴雨ふり出ス、又晴て風少々 朝之内上者町主人見舞御出。新宅内も来ル。夜大関、新屋内、山きし祖母来ル。山きし祖母ハ昼~来り居。

廿日 曇晴 彦根人数昨夜当町泊り之よし、今朝繰出し一見いた須。朝~山きし母、新屋内手傳来ル。蒲□栫ひ手傳且又見舞也。
 亡母両人祥月ニ付、蒙周招き非時いたし候。山きし母、新田う者、おまつ居合、新屋内来ル○大関、浅野、并海津母見舞御出○在陣内笠井重之丞母来ル、夕飯差出ス。

廿一日 晴 親父様今暁頻りニ腹痛いたし、浅野義おこし来り貰ひ候。朝飯差出し候。今朝下モ町主人一寸見舞候。又山きし母、新宅内、看病ニ来ル。又海津、浅野、大関替る/\来ル。間瀬主人、半田阿部主人来ル。大関、阿部へ夕飯差出ス。大関義きりすてる。相用る。今夜間瀬内、新屋内、新宅内、次郎作も来ル。海津ニ而も来ル。猶又海津ニ而きりすてる。弐度も御用被下候へ共、通し無之、御難儀被成候。其~浅野へ起し遣し来り、ジャ香御用被下候。今夜海津、山きし母乳、母、又蔵ハヽ泊り也。

廿二日 晴 今朝~次郎作、海津、浅野、大関替る/\来ル。又高桑、康福寺見舞申被来○今朝不動院へ申遣し若当住来ル。御祈祷御禊いたし候。且御初穂金二百疋差上申候。病床入用之品者白米帳、□線香、御菓子□木之義、幣来也。且又毘沙門天王へ祈願として、母さま御参詣。白米壱升、蝋燭弐、金廿五疋差上申し候。今夜山きし母、海津、新宅、新屋内、小兵衛内、乳母泊り也。

廿三日 曇晴 今朝母さま、并予、毘沙門天王へ参詣、父君の平癒を祈る。且又福厳院江、白米、蝋燭、并三尺一筋遣し、金廿五疋添て、おまつ遣ス。昼前~雨ふり出ス。遠雷一二声。親父様夕刻~容躰不宜、海津、浅野、高桑へ申遣し被参候。且同姓、并兄弟衆へ申遣被参る。種々之御手当被下候へ共、命数之尽る處ニ哉、終ニ今廿三日戌之下刻、御逝去被成候。誠ニ夢之如き次第、愁傷此上なく嘆息罷在候。
 其~上ハ町下男、新田彦三郎伜同道、支度為致与板へ赴ニ遣ス。

廿四日 今朝下モ町茂助、高田表へ赴ニ遣ス。

廿五日 与板~代人飛脚来ル○夕刻沐浴いたし候。

廿六日 今朝五ツ時出棺いたし候。御天氣晴れニ而都合よろし。

廿七日 今朝拾骨いたし

廿八日 昨日非時、今斎、死拂相勤申候

廿九日 晴天 一七日斎営み、御院主、蒙周、親類中壱人ツヽ来ル。
 夕刻小兵衛江戸泊り也。

 晦日 晴昼前~風吹出し、夜風雨 今日者不幸中買もの小拂いたし候。夜次郎作、小兵、衛藤吉来話、甘酒又、酒一寸出ス。次郎作、藤吉泊り、小兵衛帰り也。


 戦いは各地で続いているが、大勢は決したという事で、8月15、16日、祝日公休日ということか。この日徳川慶喜は駿河に転封となっている。

 仲村家でも“大魚実飯”というから“鯛飯”のことだろう(柏崎の味)──で祝っている。巷間唄声も漏れ聞かれ賑わっているが、親父様は病気で如件。
 親父様の病、仲村家の周りに三人の医者がいるのだが薬効薄く、病状は思わしくない。
 刑場(当時の。現在の県立柏崎工業高校辺)で柏崎初の人体解剖があるのが明治六年。海津に誘われて、篤之助も見物に行っているが、西洋医療の普及はまだ先のことである。

 親戚知人が泊りがけで、見舞看病に来るが回復の兆し無く、この期に至っては神仏に縋るよりほかにない。不動院、毘沙門天、福権院へお参りご祈祷にまわるが、命数尽き處ニ哉御逝去被遊候。誠ニ夢之如き次第……。

(陸)


鏡月堂日記16 「親父様病付 新政府より御褒美頂く」

2006年09月12日 | 鏡月堂日記

 「慶応四年八月」

一、八月朔日 曇次第ニ雨降出ス。今夕飯さゝぎ飯いたし候。
高田夫人仙吉、今朝藤澤村へ帰りニ付、返書壱封、沢庵漬壱本、梅干壱包、味噌味壱曲遣し候。藤澤村ハ、長岡手前之よし。
○鉢崎近藤太次右衛門、昼頃被参候、親父出勤留守中也。

二日 雨 忌日ニ付蒙周、山きし三人来ル。

三日 雨 親父様昨日~不快○昼後海津へ行、薬もらひ帰宅。

四日 晴天昼後~微雨 海津御出昼飯いだす。

五日 晴 微雨ふる 昼斎営み、蒙周、海津、新宅、山きし嬢来ル。
 今日より彼岸入。

六日 雨ふる風少々吹  七日 風吹雨降

八日 曇晴雨降出ス。昼頃~晴る 昼後、海津へ行見もらひ帰宅。

九日 晴天

十日 曇ニ而折ふし雨当る。夕刻大降いたし候 今日新田彦三郎、庚吉両人ニ而、半田江預ケ物取寄申候。鉄三郎も半田江相越、昼後帰也。
 親父様不快ニ而、平臥被成、心痛罷在候。

十一日 晴天 今日者民政局へ御召出しニ付、拙者罷出候。親父様者不快ニ而御出懸ケ無之候。官軍御下向以来御用立候ニ付。親父様へ御米十俵也、拙者江御米三俵也被下置候。夕刻引取懸ケ、海津へ寄見もらひ、且又今日之御褒美吹聴いたし候。又山きしへも~吹聴、日暮て帰宅。夜次郎作仰遣し参り、御褒美見せ候事。○半田~味噌桶、沢庵桶取寄。

十二日 曇晴 昼前~雨降出ス 枇杷島江預ケ物取寄申候、彦三郎、庚吉也。且又鉄三郎も遣ス。

十三日 曇晴昼前~微雨降出し又晴る 今朝宮川へ行用談いたし、其~海津へ行、留守ニて昼前帰宅○夜月色よろしく處、微雨降出し深更雷鳴遠し。

十四日 晴天冷氣也 今朝山きしへ一寸行、手紙もらひ其~北条本村へ庚吉遣し、刀剱箱取寄申候。○今日頂戴米拾三俵也、納屋町御蔵~来ル。



 間違いはないと思うが、高田夫人仙吉は男、人夫の意味である。日本は江戸の昔から交通・通信手段が発達していて、今で言う郵便や宅配業まであった。しかし、人の往来がある毎に、手紙や贈り物を託すのだ。是は仙吉への礼だろう、味噌梅干も立派な贈り物なのだ。
 親父様の具合が悪くなってしまった。海津の薬も効かないようで、とうとう寝付いてしまった。官軍の繰込みで親父様は休む暇が無かったことを知っている篤之助は心配である。
 半田への疎開品をそろそろと運び戻している。味噌や沢庵を桶ごと避難させていたのか?

 11日の公用録はこうなっている
十一日 晴天 篤之助儀、今日は出勤いたし候。民政局へ町年寄同見習、浦方支配、丁頭、組頭、寺門前頭に至迄御召出しに付、羽織袴紋付にて罷出候。四條様御前へ被召出、親父様へ御米十俵也被下之候。病気に付名代篤之助相勤候。且又篤之助も仝断。御前へ被召出、御米三俵也被下之候。長浜保之も拙勤之候御席には、御総督四條様、御装束にて二重台江、御出座被為遊候也。且又八十八已上の者へ、御扶持米被下之候。是は御縁側先へ被召出、御流れの銚子にて御土器御頂戴、一ツつぎ当人是をいたゞき、且御目録も頂戴、御扶持も被下之候事也。右は何れも難有事共也。其より相済申候に付、妙行寺御本営、四條様御本営、並南部様、井上様、又小熊氏御逗留の御懸り様へ、御礼に罷出候。夕刻引懸ケ、海津、山きしへ寄、今日の御褒美吹聴いたし帰宅。

  其方共明十一日四ツ時過御用有之条可致出局候已上
    八月十日 民政局
            町年寄
            同見習
一、米拾俵  町年寄 中村雄右衛門
  右官軍進入に相成候巳来諸事致尽力御一新之折柄抜群御用立候に付被下之候■(こと)
    戊辰八月
一、米三俵  町年寄見習 中村篤之助
  右官軍進入に相成候巳来諸事致尽力御一新之折柄抜群御用立候に付被下之候■(こと)
    戊辰八月

兵部郷宮様、今十一日下筋へ御進軍に相成候。


 官軍進入の際、尽力があり維新に抜群な働きをしたというので、親子で米を賜ったのだ。この時の褒章(書付の写し)が後に明治天皇後巡幸の際に活きて、拝謁を許されることになるのだ。
 まだ若い篤之助が、従兄弟連れなどに吹聴して廻る様子が眼に浮かぶ。
 また齢88歳以上の者にも扶持米を下されて、その上お流れを頂ける。懐柔、宣撫と断ずるつもりもないが、新政府のやり方はなかなか上手い。

(陸)