柏崎百景

柏崎の歴史・景観・民俗などを、なくならないうちにポチポチと……。
「獺祭」もしくは「驢馬の本棚」。

俳句の中の柏崎 其八

2006年01月31日 | 景観




旗持孤峰

 旗持や馬の飼料春の草        重 英
 輝虎の威や鹿もなき旗の岑      筌 滉

 旗持山(標高336m)のこと。戦国時代は北国街道の戦略拠点で旗持城があった。別名城山。柏崎の町からは米山の峰と、ポツリと海側に離れたその孤峰を見ることができる。麓には義経ゆかりの願胞姫神社がある。

■陽だまり 旗持山へ登る■



神明苗代

 苗代のあたりを払ふ柳かな      吉 重
 苗代の矢大臣とは案山子かな     郁 翁

 現東本町一丁目にある園通寺の南側にあった社。明治三年に柏崎神社に合祀された。往時一面の田原を望めたのだろう。




汐込芦花

 水泡や葉末に帰芦の花        郁 翁
 黄昏ハ汐吹芦の穂首かな       筌 滉

「今の柏崎駅付近に字汐込といふ所が遣つてゐるさうだ。夏炎天が続き鵜川の水が減じた頃満潮時の海水が其邊まで逆流するので、斯る名があるのであろう(今は昔四十八題)」

橋末松山

 一に橋二子や涼む常盤山       宇 曲
 松風を踏鎮めたり今朝の霜      重 英

「橋末の松山とあるが、此橋が何の邊にあつたのか、今日見当つけかねる。似合はしいのは鯨波の橋から蒼海ホテルの松山を望むのだが、何も然うではなく鵜川に架したる橋を指すらしい(同前)」

(陸)


俳句の中の柏崎 其七

2006年01月30日 | 景観




月皓山(げっこうざん)稲荷

 はツ午に萩咲供御や福の神      郁 翁
 雪の尾を木の下闇のともしかな    重 英

 月皓山は西本町一丁目の遍照寺(へんしょうじ)の山号。この境内に稲荷があって初午の祭をしていた。往時は賑わっていたらしいが、昭和二十年代には「今でも行はれてゐるらしいが、ホンの近所のもの丈の行事といふ所であらう(今は昔柏崎四十八題(七))」とある。

無量山蓮池

 蓮の葉や十文銭の水の上       筌 滉
 水音や蓮に日脚の物語        郁 翁

 無量山は西本町一丁目の聞光(もんこう)寺の山号。「境内には蓮池があって、現在ではスッカリ狭められたが、近年まで其名残をとゞめてゐた(同前)」とある。この辺りより南の方は湿地だったようだから、砂丘の縁にでもあたっているのだろうか。




塔輪(とうのわ)郡牛

 秋の野や色即是空牛の鼻       叡 心
 寝た牛の鼻を貫く蕨かな       重 英

 現在の東の輪。
 大昔は繁華の地であったらしい。「塔の輪千軒柏原」といふ言葉が残ってゐる程で──大伽藍の礎石が遺つてゐたり、何百といふ板佛が地中から現はれたりする所から(略)。小太郎の出来た頃はすでに原っぱとなり今の御野立公園辺り一帯に、牛を放牧しており(略、同前)。
 明治頃まで牛飼いは盛んに行われていて、鯨波鬼穴付近での佐渡牛の陸揚げの様子が絵葉書で残っている。

天満故園

 箒目を葎とちりたり秋の暮れ     心 安
 礎や面影はかり菜種はな       郁 翁

 東の輪の南信越線と国道八号線の間で、現在は天神町の町名はあるが殆どが畑地など。往古天満宮が祭られていたのか。「特筆すべきは、太古住民の使用した土器の破片が出る(同前)」とある。

(陸)


雪割草二題

2006年01月30日 | 季節
 雪割草は正しくは、キンポウゲ科の「スハマソウ」もしくは近縁の「ミスミソウ」を指す。雪の消えた地面に他の草に先駆けて花を開くので雪割草と呼ばれることが多いが、他の地域ではフクジュソウなど別の花を指す場合もある。スハマソウは葉の先端が丸く、ミスミソウは縁が三角に近い。
 交配によって花弁の変種ができやすいので愛好家がまた多い。

 こんなチラシが入ってきた。


雪割草販売専門店 西山雪割草園
1月28日 オープン
http://www.yukiwarisou.net(工事中のところが多いようだが)

■営業期間:1月28日~4月中旬(毎週水曜日定休)
■営業時間:午前10時~午後5時
柏崎市西山町上山田888
TEL:0257-47-3848


 西山町では柏崎市との合併前より、大崎地区に「雪割草の里」を設けて「大崎水仙」とともに雪割草での地域活性を図っている。同所では毎年三月雪割草の開花と共に、「雪割草祭」を催している。現在雪割草の里がどのような扱いになっているのかは、インターネット上で調べた限り不明。西山での雪割草栽培は岩淵名人などを擁して、非常に活発。

 またこんな記事も見つけた。


雪割草を復興産業に
小国町森林組合が「山野草園」オープン

 長岡市の小国森林組合(稲波忠昭代表理事組合長)では二月十日、小国町上岩田の越後おぐに森林公園に「小国山野草園」をオープンさせる。同園は約五十坪のハウスで、雪割草をはじめとする山野草約三百種、五~七千鉢を年間を通じて展示、販売する。(以下略)
http://www.town.oguni.niigata.jp/sisyo/kanko/kanko_f.html

(越後タイムス:平成18年1月27日号より)



 雪割草とは全く関係ないのだが、同日の越後タイムスのこの記事に胸を突かれた。


 人と話題 先祖の写真還る
 須田一彦
 市内大清水の大泉寺に戦時中、武運長久を祈願して収められた三百五十枚の写真が発見され、小林清禧住職はそれらの写真を護摩供養した後、遺族に還したいと懸命の努力を続けておられる。そのうちの一枚が、柏崎出身で現西宮市在住の私の祖父・國三郎が、三人の息子の無事を祈って昭和十九年五月十五日、大泉寺に収めたものであることが判明し、写真現物が昨年十二月二十三日、私の元へ無事届けられた。
 写真は、長男・芳郎(昭和十九年中国で現地召集されたが無事帰還し、平成十四年十月、八十八歳で天寿全とう)、次男・謙吾(昭和二十年八月二十三日、北千島占守島で自決戦死)、三男・達郎(インパール作戦で昭和十九年三月十八日、インド国ウクルルにて戦死)の三兄弟が揃って中国・天津で撮った貴重なものである。(以下略)

(越後タイムス:平成18年1月27日号より)




 日付や地名を良く見ていただきたい──兄弟の上に降りかかった運命は酷薄というほかはない。とりわけて今、占守島(しゅむしゅとう)の戦いの意味を知っている人はどれ位いるのかと。
 越後タイムス主幹のブログに興味深い記事がある。併せて読んでいただきたい。

俳句の中の柏崎 其六

2006年01月27日 | 景観




海岸山幽栖(かいがんざんゆうせい)

 我か庵の仁王そ左右の梅柳    日 柳
 松風の覗も秋よひとツ窓     郁 翁

 海岸山とは「妙行寺」の山号。初めは真言宗であったが、日蓮上人着岸が縁となって日蓮宗に改宗した。「高台に在りて境内が広いので、如何にも静である。今でさへ然う感ずるのだから、二百数十年前、幽栖の語を使ったのは然こそと肯かれる(今は昔柏崎四十八題(六)・昭和二十四年)」閑静な場所だったようだ。

納屋客船

 帆柱や葉のなき月の竹林     友 治
 蝦夷のもの蚤蚊のはなし難波人  筌 滉

 納屋町は現「港町」で、船の道具を入れる小屋が並んでいたので納屋町。漁師の多かった下宿と比べ船頭衆が多く春から秋の出船入船で相当にぎわったらしい。昔の港は桟橋が無く、大きな船には伝馬船で通う。港が整備されるまではこの辺りが船着場だったようだ。




番神夜泊

 緋の丸の月明てこそ舟印     筌 滉
 月は海へ落てそ平家物語     重 英

 日蓮上人着岸の地。日蓮は八幡大菩薩の力によって無事上陸することができたと感謝し、菩薩を中心に二十九神を合祈して三十番神堂とし、この時から番神堂と呼ばれる。■陽だまり 番神堂■

佐渡渡帆

 百帆まてかそへたりしを霞けり   顕 耻
 帆の帆のと浦つゝき也雲の    宇 曲

 往古佐渡への航路は寺泊と柏崎が占めていたそうだ(佐渡の金は出雲崎へ揚っている)。「お弁が松」の話はその証左だろう。上の句には「帆を百まで数えたけれど」となっているから、話半分としても相当の賑わいだ。

(陸)


流れ着くものたち

2006年01月27日 | 
 前回の柏崎の漂着物に引き続き二度目。今度はオットセイが打ち上げられた。昔の八坂神社の所にあった水族館に居たのはオットセイだったか、アシカだったか。少し前に絶滅危惧でもある南方の亀「マイタイ」が弱っていたのを保護し、寺泊水族館に送ったという記事を見たのだが、ネットの上には上がっていないようだ。



オットセイが青海川海岸に漂着

 市内青海川の海岸で25日午前、死んだオットセイが打ち上げられているのを近くの人が見つけ、市立博物館に届け出た。同館で調べたところ、市内では初の漂着例となるオスと分かった。
 このオットセイは体長1メートル88センチ、胴回り1メートル36センチ、体重約200キロ。頭部に損傷があった。博物館によると、市内の漂着記録は1971年、88年、93年、04年の4回で、いずれもメス。88年、04年は中央海岸、安政町で生きて漂着した。
(2006/ 1/26)

「柏崎日報」より



ポリ容器、上越にも漂着

 上越市名立区から柿崎区の海岸に25日、大量のポリ容器が漂着しているのが見つかり、同市は107個を回収。うち1個には液体が入っていたため、県が成分を調べている。ポリ容器には中国語やハングル文字で「リン酸」「硝酸」などの表示があるという。24日に佐渡市でも同様のポリ容器が漂着している。

[新潟日報 01月26日(木)]より
( 2006-01-26-9:47 )



 同日の同新聞には、25日佐渡でも383個回収されたと報じている。
 このポリ容器は柏崎の海岸にも漂着し、26日柏崎市の広報で触れないように呼びかけた。
 非常に腹立たしい。
 

(陸)


俳句の中の柏崎 其五

2006年01月26日 | 景観




帰敬山(きけいざん)納涼

 佐渡山を一葉に乗て涼かな    郁 翁
 日の入や月の出汐も涼床     涼 雅

 帰敬山は西本町二丁目の「西永寺」の山号。はじめ加賀の国にあったのが柏崎へ移り、納屋町から今の所へ移ったと。高台にあるから夕涼みには格好の場所であったのだろう。

長江網引

 天人や網引かすむ鰯雲      郁 翁
 網の目に菊とる時や南風     筌 滉

 長汀とは長い浜のことだ。現在の中央海岸辺りのかつて納屋町と呼ばれた辺りで地引網が引かれたそうだ。昭和二十年代では春鰯、秋のドーコ鰯(ドーコは不明)、夏のフクラゲ(イナダの柏崎弁)網が行われていたようだ。この一帯は港防波堤の影響で浜の長さが変わっているが、かつてはどんなだったのだろう。




山王黄雀

 月やあらぬ軒の雀もとこしなえ   筌 滉
 巣にとるや子持の落髪宮雀     重 英

 現日吉町の雀森公園にある「鏡日吉神社」。雀森は鎮(しずめ)の森からの転訛と言われている。昭和二十年代までは田んぼの中の松の繁った森だったという。国道八号線ができたのが昭和三十六年だったと記憶するから、少し家並から外れた寂しい場所だったのだろう。

熊野清泉

 汗もなし泉を撫る蝶の羽      筌 滉
 塵ひとツなきを鏡の泉かな     宇 曲

 権現小路と言っても馴染みが薄くなっているようだが、フォンジェ東側の駅に向った坂道。かつては自動車も通らない小路だったそうだ。越後タイムス社付近南側に熊野権現の社があったせいで権現小路と呼ばれた、そこに湧き水があったとの事。今あっても水が出るかどうか、利用に耐えるかどうかは聢と分らないが、こういった水場が消えるのは寂しい。三石交差点付近にあった地蔵と井戸がいつの間にか無くなっている。



(陸)


俳句の中の柏崎 其四

2006年01月25日 | 言葉




飯涌山牌堂(はんようさんはいどう)

 寝覚てや木魚を老の薬喰    良 恵
 雪国かソモサン唐の香積寺   重 英

飯涌山は現西本町三丁目の「香積寺」の山号。元は剣野にあったが、約七百年前大旦那柏崎勝長が没した後この土地を賜って同場所へ移ったとされる。牌堂は柏崎勝長の位牌を祀った所とされている。■陽だまり 柏崎勝長邸跡■

竈馬(こほろぎ)古橋

 禁足も忘れッ橋の虫の声    玄 務
 竈馬に抜足したり橋の月    筌 滉

香積寺の付近にこほろぎ橋という橋があったとされているが、諸説があって特定できない。菅江真澄の随筆には、北国街道の柏崎の町の入口(かつての水道橋付近)と記されている。こほろぎ=香呂木の事だとは柳田國男。




正行寺江流

 誰か魂そ柳に通ふ雷光      友 治
 行水や裳(もすそ)を繋く玉柳  う 曲

西本町一丁目の聞光寺と旭小路の間に「正行寺」という寺があったそうだ。『小太郎』には「往時ハ一宇の御堂なりしか、いつかあれ果て唯流のミのこる」とある。

真光寺夜市

 人ひとよ蓮買ふなら十七夜   祐 真
 月毎の藤のさかりや夜の市   樹 風

 現西本町一丁目、貞心尼の「不求庵」標柱のある所。明治以前この「真光寺」の境内では夜市が立ったのだそうだ。


 其壱に「挿絵は土地の画家が引き写したものとは思われない」と書いたが、「今は昔柏崎市十八題」には以下の記述がある。
「当時の画風として、これ以上写生に近づくことはできなかったであらうが、親しく現場に臨んで、実景を見ての画であることは、山の形とか、隅々昔のままで残っている建物とかに対照して見ると出たらめに書いたのでないことが察しらる」
 昭和二十四年頃の景色はこの絵に近かったようだ。

(陸)


俳句の中の柏崎 其三

2006年01月24日 | 景観




歓喜山暁鐘

 暁の霜の鼾や鐘の声     直  水
 あかつきの鐘ハ冴たり桜町  不知作者

 歓喜山は現西本町三丁目の「浄興寺」の山号で、正しくは「歓喜踊躍山」。高田にある浄興寺の別院。最初は銭山にあったが、慶長年間領主堀家から娘が嫁した縁で今の所に移る。かつてこの門前は御坊町と呼ばれた。

霊石地蔵

 春の日に雪手水せり石地蔵   徹 士
 星合の夜や石菩薩も化粧顔   郁 翁

 西本町三丁目の「根埋地蔵(ねまりじぞう)」明治11年まで道路中央に東向きに立っていた(東講商人鑑にみえる柏崎参照)。「当町街道の地蔵菩薩(長八尺余)薬師如来(長六尺余左右に二大士)是自然湧出の霊石いづれの所造といふことを知らず。或伝ふ泰澄禅師再び開眼供養し給ひし(閻魔堂略縁起)」




小町石室

 はツ虹や川を跨いて石の室   暁 水
 稲妻や小町か魂も石の中    郁 翁

 西本町二丁目「永徳寺」にあったとされる。永徳寺の山号は「柏原山」といい、この山号と所在地の点で柏崎の草分けの寺とみなされる。行く度かの火災等により開基の面影は無い。

霊石薬師

 石薬師金輪際より月見かな   暁 水
 涼しさや一富士二釈迦夕薬師  重 英

 西本町二丁目の「立地蔵」。道路上に南に面して立っていた。「扇町ノ石地蔵ト相類ス皆自ラ現出スル霊石ト云伝フ(白河風土記)」
 かつて「は立ち地蔵」「ねまり地蔵」の呼称は反対であり、現在の「立地蔵」を「ねまり地蔵」と呼んでいた。いつ頃入れ替わったのかは不明。両地蔵とも明治11年(1879)9月、明治天皇の北陸御巡幸の際に現在の場所に遷座された。■陽だまり ねまり地蔵と立地蔵■

(陸)


俳句の中の柏崎 其弐

2006年01月23日 | 景観




住吉林鶯

 鶯の宮ハ竹林精舎かな       暁 水
 うくひすの羽風涼しき鳥居哉    森 龍

 住吉は現西本町二丁目にある石井神社。
 句に竹林が出てくるところを見ると、竹の勢いが強い林だったのだろう。明治時代に二度火事に会っているので、建物も往時のものではない。
 境内に『小太郎』に詠まれた句を刻んだ石が置かれている。打ち捨てられた漬物石の風情で、彫りも浅くなっているが。


戎山(えぞやま)の麦秋

 麦秋や浮世の塵も一さかり     日 護
 麦の穂にすはや雀の朝茶時     素 十

 戎山は中浜から番神に向う途中だということだ。昭和二十年頃までよろんご(榎を指す柏崎地方の方言)の大木があって「えぞ塚」とも呼んでいたそうだ。




銭山の青芝

 青しはや雲雀の空へ幾由旬     涼 雅
 芝の色しミ付まてを夕すゝみ    う 曲

 今はその姿が無いが、現八坂公園の辺りに有った砂山。そこに庵寺があって、本尊は国宝級のものだったが昭和二十二年頃火事で消失したという。


祇園の沙鴎

 冬川や一かたまりの鴎しま     友 次
 汐垢離や過て鴎の御祓川      招月

 八坂神社のことだが、往古現在の場所より北側にあって、祇園社と呼んでいた。石井神社と同じ頃の創始だそうで、改称は明治五年。


※句の良し悪しは私にはよく分からない。観念的に頭で作った句もあれば、その場に立って作ったのもあるだろう。必ずしも写生的なものばかりでないだろうから適当に選んだ。
相対として現在の写真でも入れればいいのだろうが、特定できない所もあり、季節も冬なので又の機会ということにした。
参考にしようと思っていた『越後タイムス』昭和二十四年連載の「今は昔柏崎四十八題」の、結局受け売りになってしまいそうです。勝田さん(越後タイムス創刊者)に感謝。

(陸)


日本語は縦書きでしょう! という方に

2006年01月20日 | 文書
 候文は上に帰って読む必要があるので、横書きでは違和感があります。目の衰えた人間には、小さい文字も苦痛です。
 本当は縦書きで大きい文字を使えれば良いのですが、縦書きはブログの方が対応していませんし、文字を大きくすると言う設定も面倒くさいのでそのままです。
 私は普段は、書くのは縦書きができるのエディタ、ウエブ上の長い文章などを読むときは、縦書きで表示できるビュアーで読むと言う方法をとっています。
 読む方に関しては、優れたフリーソフトで“smmopy”という縦書きで読めるビュアーがありますので、お勧めします
 読みたい文章をコピーしてsmoopyにペーストするだけです。気の遠くなるような長文でも大丈夫です。
 文字の大きさ行間など、細かく設定できますので便利です。

 下記のサイトにあります

  ■Site Clue

小さくて見えにくいですが、画面の上部に下記のメニューがありますので
      top | soft | bbs | link
 “soft”をクリックするとソフト一覧画面になり、そこでダウンロードできます。

 このソフトは「青空文庫」のルビ対応ですので、こちらもご利用を。絶版のマニアックな小説も読めます。

俳句の中の柏崎 其壱

2006年01月20日 | 景観
 世に名所旧跡・景観を集めて「○景」とする類は多い。
 柏崎の例でいうと「福浦八景」が揚げられる。これは明治期に柏崎の沿岸の風景を選定したもので「浦浜」「八坂神社」「番神堂」「御野立公園」「鯨波海岸」「福浦」「芭蕉が丘」「米山」を選んでいる。後に国定公園の選定と共に見直され「米山福浦八景」として次の場所が上げられている。
「番神堂」「御野立公園」「達磨岩」「福浦猩々洞」「鴎ヶ鼻」「松ヶ崎」「牛ヶ首」「聖ヶ鼻」
 番神堂を除いて、何れも海岸部の奇岩・景観の類だ。
 これらに先立って、凡そ三百年前、宝永二年に『柏崎八景』と題する俳句集が刊行されている。柏崎の八景に因む句を集めたものだ。そこで挙げられた八景は以下のとおり。

 「柳橋雨夜・やなぎばしうよ」
 「鏡ヶ沖秋月・かがみがおきしゅうげつ」
 「栄松晩鐘・えいしょうばんしょう」(栄松山=浄土寺)
 「下宿帰帆・しもじゅくきはん」
 「米山晴嵐・よねやませいらん」
 「鵜川夕照・うかわせきしょう」
 「黒姫暮雪・くろひめぼせつ」
 「中浜落雁・なかはまらくがん」

 この『柏崎八景』は研究家の言によれば「地方文化の萌芽が見え、柏崎俳壇の質の高さをうかがうことができる。また本書の趣向は、さらに十年後同じ柏崎の市川筌滉(いちかわ・せんこう)にうけつがれ『小太郎』として結実する」とされているが、ここでは文字での紹介に留める。
 ここで示された『小太郎』だが、柏崎の名勝四十八箇所に関する発句を集成したもので、正徳五(一七一五)年に乾・坤二冊で刊行された。別名『柏崎四十八題』、前述の『柏崎八景』の続編、紹介はしなかったが『俳諧柏崎』(元禄十六年)の続々編となる。


  小太郎扉と扉裏  


 この『小太郎』には挿絵が入っていて(土地の画家が引き写したものとは思われないが)往時を偲ぶには面白いと思うので、順次紹介したい。往時の風流人が柏崎にどのようなまなざしを持って暮らしていたのか興味深いのである。

 ※「柏崎 市民大学講座 平成十六年度 第四回講座「書物が語る近世の柏崎の文人」講師 柏崎市立図書館司書 関屋隆」を参考にさせていただきました。また、図版は柏崎市立博物館よりお借りしました。

 ■ソフィアセンター(柏崎市立図書館)
 ■柏崎市立博物館

柏崎の漂着物

2006年01月19日 | 季節
 冬の柏崎の海岸は思わぬ漂流物がある。クジラ・イルカの類も儘やってくる。概ね死んだクジラが打ち上げられるのだが、中には生きたまま打ち上げられるものもいる。現在では生きたまま漂着したクジラは、生かして海に返そうとの努力を図るのだが、あまり甲斐は無いようだ。
 捕鯨の村では一頭のクジラで七浦潤うと言われたほどだから、クジラが一頭打ち上げられれば住民にとって大変な利益だった。クジラの御蔭で建てられた小学校があると聞いたのだが、忘れてしてしまって示せない。そのための塚が建てられているはずなんだが。
 クジラ一頭で大変な利益になるのだから、打ち上げられたクジラに対して抜け駆けは許されない。刈羽村と荒浜村でクジラの所有権を巡って争いがあった史料も残っている。
 下の文書はクジラ(のような魚)が打ち上げられたという噂に対して、村の役人が代官所に対して報告している。「大風で流れて今は有りませんので報告しませんでした。抜け駆けて肉を切り取った者は居りません」というわけだ。


   乍恐以書付奉申上候

一鯨之様成魚

右之魚御領分青海川村柏崎御領分鯨波境□磯通り、去十二月二十日右之魚流通り候所、鯨波村磯漁之者見附、少々も切取候と近辺ニ折合候者共も有之候由御噂仕候ニ付、村役人罷越地内浦所々見廻り候得共、大風雪ニ而沖合難見定何レ流行候哉、跡形も無御座候ニ付、御注進を差控へ罷在候所、今般惣代所より右之段御尋ニ付村内見届並切取候儀ハ勿論、得と見届候者も無御座候、只及聞候迄之儀ニ御座候、右御尋ニ付乍恐以書付奉申上候

   文政九年戌正月日    元黒岩組青海川村
                   与頭 
             略


 次の文書は腐ったクジラに対する見分書。腐ったクジラでも鯨油が取れるので、やはり貴重だ。このクジラは結局七両弐分で落札された。


   御見分書

一腐鯨壱本

    但シ長サ六間余、幅弐間余、久敷海中ニ流れ候と相見へ、殊之外腐損有之

右之通当五日九ツ頃、岩野組青海川村敷地内字前之浜と申処磯際江流寄候ニ付、其段早速御届ケ申上候処、今般為御検使被為成御越、私共一同御立会御見分被為成候処、書面之通り少も相違無御座候、依之御見分書差上申処仍而件如

 寛永二酉年     岩野組青海川村
  閏四月十日
            略


 今朝、ドイツのグリーンピースが日本大使館の前にクジラの死体を遺棄したというニュースを見た。この狂信的イデオロギーによる行動は私の理解の範疇を超えているが、食べられるものなら頂たいものだと切に思った。骨の髄まで利用して、供養等を立ててやるのだが。もっとも、博物館に運ぶ途中だったらしいので、賞味期限は過ぎていた──彼らには食うという発想が無いらしいから分らないが──ようだ。
 いまひとつ、海岸の漂流物は圧倒的にハングル表記の物で、近頃は簡略漢字の表記の物も混じっている。潮の流れと季節風は困ったものを運んでくる。いくら海岸清掃をやっても元で締めないときりが無い。海岸のマツが立ち枯れているのは(笠島あたりの山のマツは無残だ)大陸からの風のせいだと私は思っている──。

 柏崎日報の記事を「漂着」で検索すると──。

東講商人鑑にみえる柏崎

2006年01月17日 | 景観

東講というのは下記の例言を呼んでもらえば分るとおり、旅商人などの安全と利便を図った講中のようで、この本はそのためのガイドブックになるのだろう。この版は安政二(1855)年の版だ。




東講(あづまこう)例言

およそ世間の事言(ことわざ)にも。可愛子に旅をさせよ。とこれその身を苦しまして。人情世態を知らせん為のみ。──略──但し旅行の宿々に旅店(はたごや)ハ多くして。ことの欠けざるやうなれど。不案内なるときハ。間々難儀するものなり。因(よつ)て下僕(やつがれ)近き頃。東講といふ取立。宿には目印の札を掛けさせ。旅行の人には銘々に。番付を記したす。鑑札をわたしおけば。何れの街道徑(みち)たりとも。東講定宿と。記し札の掛るを目的(めあて)に。所持の鑑札を見せたまへば。帳面と引合し。たとへば一人旅なりとも。心易く止宿させ。万事賄ひ丁寧に。いささか廉略(そりゃく)あることなく。金銀及び大切の品を宿の主に預けて。一点ばかりも間違なし。また旅にてハ知らぬ人の。道連れをいむことなれども。かの鑑札を所持する人と。道連れになり同宿するとも。更に心づかいなし。──略──遠路の旅行といふとも。銘々の在所を歩行(あゆむ)が如く。旅宿もわが家に臥すが如し。東西南北旅人のために。この講を企つる。──略──

発起人 江戸湯島天神表通り 大城屋良助

巻末では講中以外の者にこの本を渡すことを戒めている。

右東講商人鑑之義者(丸大)講中之外一切売買不致候依之持主御名前相記し置申候以上
講元 大城屋良助
持主 (ここに持主の判があるのだが判読できない)




図の右角に陣屋が見える「勢州桑名越後御陣屋」
その下の建物は香積寺「香積寺境内ニ柏崎勝長の碑あり」
画面中央の道は現在の本町通。天皇陛下御巡幸の際に路傍に寄せられた「たち地蔵」「ねまり地蔵」が道中にある。
中央の神社が「柏崎惣鎮守 諏訪大明神」」
その左側が「金砂山閻魔堂」
その左に延びているのが今の諏訪町通り「あくた新田」
その先二股に分かれているところが、今の桜木町と春日を分かつ三叉路か。
その先上に伸びている路は現在の四ツ谷交差点から国道252号線に向う道か。年よりはまだこの辺りを引木町と呼んでいる。「江戸諸辺 小千谷迄七里半」
右下
「越後の国刈羽郡柏崎町の図」
「鵜川旧跡」
「越路なる鵜川にあゆはすむものをたかのにきしはなかぬものかは」
「宗祇法師」
これは『白河風土記』に
「梶原ノ詠セシ歌トテ土人ノ言伝ヘニ 越路ナル鵜川ニアユノスムモノヲ鷹野ニ雉ノ鳴カヌモノカハ」とある

(陸)


柏崎のことわざ

2006年01月16日 | 言葉
『柏崎市史資料集 民俗編』に、「文化伝承・ことわざ」という項目があった。かなりの数が収集されていて、多くは地域の差無く言われていることだが、中に地名の織り込まれているものや、地域性の見えるものがあったので、拾い出してみた。( )内は当該文内の解説。
 殆ど意味の分らないものもあるし、なるほどと思えるようなものもある。
 意味についてご存知の方は、ご指導願いたい。



・善根七村鍋かけず
・青物は新町で買い、魚は四ツ家で買い(安く物が買える場所)
・カマドの口は八石山に向けよ
  風向きが逆のような気がするが。
・二度と効かぬ泉福寺の目薬
・イルカの番神参り
  今は「いるかウオッチ」などやってますが、昔から春鰯を追ってイルカが来ることは知られていたんだ。
・鉈で頭するか、豊田屋へ行くか(厳しい奉公 だそうです。)
  頭を割られるのと比べられるくらいだから、よほど厳しい。豊田屋は不明。
・七が盒蓋(がんふた)こわすよだ
・七が鉄砲打ちばなし
・七の鉄砲無鉄砲
  「七」という「与太郎」のような人が居たんだろうか。
・ハツタケ山火事、剣野のニオ火事
  火事が出やすい季節と場所ということか。
・話しや納屋町、火事は四ツ家へ
  風向きからすると火事が四ツ家に向うのはよく分かるが。
・河内の祭は雨祭、鯨波の祭は天気祭
・鯨波の祭は雨祭、河内の祭は天気祭り
  場所が変われば正反対に言うね。
・久米の親父の尻まくり
・春日のしゃぎりで雪つかい
・娑婆はやかましい、平井でも行こう
・藤井中田へじょらじょらと
  平井藤井あたりはいい場所だったんだろうか。安藤出雲守領地の時には騒動があったんだが。藤ノウテをじょらじょらと歩くのか。
・半田半五右衛門新道の弥十郎
・高町からもらった猫のようだ
・椎谷の市でうますぎる
  春日の馬市の向こう側だから?
・椎谷の観音さんのようで沢山の人
・矢田下戸八合
  矢田の人間は飲兵衛ってことか。
・矢田の焼餅
・吉井の米の飯に芋煮物
・曽地の惣太か花田の花蔵、悪田の仁まだか春日のあんばい
・曽地の反り歯か花田の鼻糞吉井の夜ン糞
・ハゲの横山稲妻光り、ここで光れば江戸まで光る、江戸の若い衆は提灯いらぬ
  このへん良い調子だけど、意味不明。
・河内の昼間なかのようだ(いい月夜)
  確かに河内は谷間で、日の射す時間が少ないが。
・赤めしに豆腐汁
  母親もよく言っていて、田植えの手伝いなんぞの時に出すご馳走で「赤の飯に豆腐汁(あかのまんまにとうふじり)」と。
・雪道と鯨汁は後ほどよい
・雪隠と鯨汁はあとほどよい
  この辺分るね。


 以下はあまり耳に馴染みが無い諺。

・いたち眉目(みめ)よし猫の眉目は杓子(反対のことを言う)
・餌の銭かぶり(下宿の漁師は餌の銭まで負担してしまう)
・鋳物師話してタタラにかけられた
  体よく丸め込まれたという意味だろうか。
・網の目にも風
・運は天にあり、ボタ餅は棚にあり
  なるほど。でもあまり聞いたことが無い。
・空茶は米搗きよりこわい
・赤子の指から乳が出る
・鮭の腹みがいたようだ(腹にはなんにも無いこと)
・キスの腹みがいたようだ
・飴で餅食うか、おばさと寝るか(都合の良いこと らしい)
  子どもをあやすときに使ったんだろうか。
・仇や愚かでない
  「加藤のばばさん」の伝えにも出てきますが、一般には「仇やおろそか」にできない、というふうに言われますが。


 昔話は、夜、寝しなに語るもの。さらに正月明けに解禁されるものだそうで。

・昼なかムカシ語ると鼠が小便ひっかける
・正月語りでないと鼠が小便ひっかける