柏崎百景

柏崎の歴史・景観・民俗などを、なくならないうちにポチポチと……。
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市野新田のブナ林

2006年06月28日 | 山・森林

「冶三郎の清水」の写真を撮るついでに、市野新田まで足を伸ばしてきた。
 前回紹介した「大沢のブナ林」に次いで「市野新田のブナ林」を紹介する。
 国道353号線で峠を越え女谷集落に入るとすぐ左手に柏崎市の観光案内のカンバン、そのすぐ奥に「綾子舞発祥の地」の看板が見える。そこを右に曲がり「綾子舞会館」を左に見ながら、道なりに行くと市野新田集落に行き着く。条理型の道ではないのでわかりにくいかも知れないが、林道に迷い込まなければ何処かにつながっているが、人を見かけることは少ない。尋ねたい場合は「綾子舞会館」に行くのが良いだろう。


市野新田自然散策マップ


 見えづらいかもしれないが、「石割桜」「米山きのこ園」「ブナ林とミズバショウ」「リュウキンカ(湿生植物園)」「不動滝」「鵜川源流」などが記されている。今回紹介するのは、「現在地」と記されている場所から右下のブナ林。


 このカンバンがある辺りはこんな感じ。


ブナ林の入口


 この道をずっと──といっても距離は僅かだが──行くと


──何故か目的のよくわからない展望台があるのは、もうすぐここがダム湖畔になるからのようで、この展望台は未来のダム湖に向って作られているらしいのだが、私には完成予想図を見てもピンと来ない。
 畑の手前には車が停められるスペースがある。
 ダムに関して詳しくは「北陸農政局 柏崎周辺農業水利事業所」のHPを参照のこと。高柳地区の「栃ケ原ダム」、西山地区の「後谷ダム」のことも記されている。いずれももうすぐ竣工だ。


 林内の踏み分け道を行くと……




 ここでもやっぱり林床にはブナの幼芽が一面芽吹いている。(左)中央下はコシアブラ。林内の植物の種類はあまり多様ではない。
 右の光沢のある葉はハルユキノシタ。


 林縁に生えていたコハウチワカエデ。

 あえて写真は撮ってこなかったが「生活道路につき立ち入り禁止云々」の看板が此処彼処にある、というのはこの時期「ホタル見物」に訪れる人が多いからで、家の庭先に入り込まれてはかなわないという思いは誰でも同じだろう。静かな集落の静かな生活を乱すことのないようにしたい。
 先の看板に記されている「不動滝」の水も旨いのだが、夏場は草刈の手が廻らないようで、去年訪れた時は道は草薮の中だった。今年は力を入れて管理すると聞いているのだがどうなるだろう。瀧のすぐ近くまで車で行ける。

 湧き水ついでにもうひとつ。
 写真を撮りに行って後気が付いたのだが、女谷の上野集落にある「金山(かなやま)不動尊」のちかくに湧き水がある。
 ソフィアだより(柏崎市立図書館だより)120号の記事によれば、「──眼病に効果があると評判であった。眼病の治療のため、遠近を問わず多くの人がこの清水を訪れ、不動尊堂で平癒を祈願した」とある。眼病に効く湧き水謳った例は多く、宮場の鵜川神社でも聞いた。栄養状態の良くない昔の日本人には眼病者が多かったのは、『東講商人鑑』や、黄表紙の中に折り込まれた夥しい目薬の広告でも知れる。目に対する理学治療がなかったからなおさら切実で、信仰と結びついたのだろう。
 上野集落は市野新田集落の手前だ。

(陸)


綾子舞街道通信 29号より

2006年06月26日 | 綾子舞街道通信
国道353号線 沿線物語
鵜川の名水「冶三郎の清水」


 鵜川に美味しい清水がある。時によっては行列ができるほどの人気がある冶三郎の清水。現在、管理しているのは半田在住の堤正男さん。「子供の頃は田んぼの土手から出ていて、当時は生活水としてはもちろん鯉の養殖や近所の豆腐屋さんなどで使われていました」その後道路が通ることになり、周りと高さをあわせるため田んぼを掘り下げてみると「田んぼの真ん中から清水は湧き出ていまして、そこにパイプを差し込んで道の横に出したんです」その後道路の幅が広がり、冶三郎の清水は現在の位置になった。
 いつから湧き出ていたか確かな史料はないのだが、戦後、鵜川中学校の校長先生が附近の土手から縄文時代の矢じりや土器の破片を見つけたことがあり、いにしえの時代から生活しやすい土地であったことだけは確かなようである。かつて3,000人を越える人々が生活していた鵜川だが、車社会が浸透するにつれ次第に町へ出る人が増えていった。
 堤さんは昭和53年に鵜川を離れたが、屋号が付いた「冶三郎の清水」は呼び方が変わることなく現在もまだ湧き出ている。



 堤さん自身普段鵜川に住んでいないだけに、草刈やゴミ拾いなどの管理は休日を使って行い、地区の方々にも協力してもらっている。「清水を汲んでもらうのはかまわないんですが、人が増えるにつれマナーが悪くなってきて、周辺にごみを捨てていくことがおおいんです」
 最低限のマナーは守って、いつまでも美味しい清水を味わいたいと願わずにはいられない。



※『綾子舞街道通信』の企画・製作は海津印刷によるものです。毎月20日発行 発行部数7500 お問合せはTEL 0257-22-3979(海津印刷)まで


 休日は水を汲む人の行列ができるので、平日がよろしいかと。
 国道353号線は、女谷集落を過ぎると左に曲がって山間に入るが、曲がらずに真っ直ぐ行き、橋を渡った左側。大切にしていただきたい。

 峠を越える手前の野田地区の奥、田屋地区に友人宅がある──といっても、老親のみが住んでいるのだが。この附近も水道は引かれているが、湧き水、井戸水を使い続けている家が多い。この水が又旨いのだ。この集落を抜けて山間を行くと、その裏は柏崎水道水の源泉谷根地区に当るから当然だろう。
 柏崎は水道水から旨いのが自慢のひとつだ。

(陸)


戊辰戦争鯨波の戦い

2006年06月19日 | 文書
 慶応四(明治元)年閏四月二十七日、鯨波で東軍(旧幕府側)と官軍との戦いがあった。
 ※閏(うるう)四月というのは、太陰暦法では一年の長さが360日程度になってしまい、春分点と暦が合わなくなってしまうため、3年から5年に一度、まるまる一月を挿み込んで調整した。この慶応四年は四月が二度(四月と閏四月)あったのである。
 この日を新暦に直すと六月十七日になる(私の計算だと二十日になったのだが、近頃は足し引き算も怪しく、自信がないので、暦のページのスクリプトを使わせてもらった)。前からこの日に合わせて、中村親子の公用録を揚げようと思っていたのだが、入院があってすっかり忘れてしまっていた。遅ればせながらであるが、鯨波の戦いから三日間分を揚げる。もっとも親子とも公用録は二十九日を境にしばらく記録されていない。
 家族は半田村阿部家へ非難させていたようだが、この親子は役人として引込んでいるわけにはいかなかったのだろう、「難盡筆紙 大に難儀」「兎角心中落着不 誠に前代未聞の事共也」とその唐突の戦に周章狼狽したさまを記している。
 先に揚げた鯨波と北国街道 其六鯨波と北国街道 其七と併せて読んでいただければ、わかりやすいと思われる。柏崎を戦火から救ったとされる星野藤兵衛の名も見える。
 蛇足ながら、季節の陽気は大きく変わりはないだろうが、戦当日はだだ降りの雨だったそうな。
 句読点は私が適宜追加した。


『中村雄右衛門 慶応四年公用録』より

閏四月廿七日 今朝鯨波村におゐて当方御人数と官軍と戦争に相成。大変に付直様出勤いたし候。申之刻頃迄不止候。鯨波は消失におよび候。夫より昼夜とも出勤、大混雑いたし候。

二十八日 朝当方御人数不残下筋へ退却に相成候。空虚に付、御陣屋不残乱防いたし、昼後に至り、星野拙者両人にて御陣屋へ見廻候処、大に取こぼちいたし候に付、制道いたし候。其中官軍御人数も、鯨波迄御繰込に相成候趣に付、星野拙者両人にて出迎傍、塔之原迄相越し、鯨波迄の手前迄、御人数に出合夫より御案内いたし、柏崎迄御入込に相成候処、歩兵壱人早駕篭にて問屋場迄参り、官軍に被見付迯出候よし、右につき町方に御宿取不被成、中浜下宿等に御陣取の趣に相聞候。

二十九日 朝巳之刻頃にも候哉、水藩の人数が押来り、鵜川橋辺迄相越し、官軍に行合炮発に相成、市中大騒然にて濱田保近在へ立退申候。
夫より日夜出勤の義は難盡筆紙、且記録の間も無之、大に難儀いたし候。

『中村篤之助 慶応四年公用録』より

廿七日 今暁より鯨波にて当方御人数と戦争に相成、親父様町会所へ早速相詰、昼頃より拙者罷出替り候。鯨波駅並妙智寺焼る。同日河内村少々焼る。

廿八日 今暁より当陣屋引拂に相成、下筋へ立退に相成候。同日官軍様方当所へ御繰込に相成候。

廿九日 昼前下筋より浪人三十人計襲来り候処、官軍方ご出陣に相成候て御掃除の処、浪人共迯去候。此時悪田村焼る少々なり。
家内の者は廿七日に半田阿部へ遣し置候処、今日の仕合に相成、親父様拙者家内そこ/\に裏より迯出し、間もなく砲声耳頻りに相聞え、足早に半田阿部江相越し候。此夜一泊いたし候。親父様は夕刻御帰宅被成候。同五月六日椎谷にて戦争有之候処椎谷宿焼る。 同日曽地村はな田村其外砲火にて焼ける。

右一件より親父様昼夜御出勤御用多に有之候。拙者留守居いたし候へ共、兎角心中落着不申右往左往いたし、筆記いたし不申候。誠に前代未聞の事共也。



 中村雄右衛門はこの後八月二十七日、心労が祟ったことでもあるのか、亡くなってしまい、篤之助が雄右衛門の跡をついで役を引き継いだ。
 篤之助は明治の世になった後、浮世時節の転変をまともに受けながら、明治三十二年まで「梨郷」と号し『鏡月堂日記』書き続けた。関申子次郎の『柏崎文庫』と並んで貴重な柏崎の史料である。
 篤之助の人に惹かれ、『鏡月堂日記』を何とか全文翻刻したいと思っているのだが、なかなか手が付かない。ところへ「柏崎日報」に山田良平氏が連載した「鏡月堂日記を読む──遙かなる明治の人──」を通読する機会があった。私的な部分、わけて新しい世の中に、中村家の没んでゆく様子が身につまされるのだが、そればかりではない、面白く貴重な史話が多々あり、文章家としての梨郷の味わいも捨て難いのだ。
 中村家の話はさて置き、次回からボチボチと梨郷の目による明治の柏崎を紹介したい。

(陸)


帰って来ました

2006年06月11日 | 言葉
 5月28日夕方から、思いもかけず、斯様な状態に陥ってしまいした。
 6月11日朝、ようやく娑婆に戻る事ができましたが、なかなか調子が出ません。
 今しばらくご猶予を。

(陸)