「明治元年十二月」
十六日 曇晴 今朝庚吉荒濱へ行、昼後帰る也。
原屋~米搗来ル。
十七日 晴天夕刻~雨降 昼後鉢崎近藤義被参候。亡父之姉也。上ハ町逗留之よし、暫時被帰候ニ付、菓子壱箱代金壱朱分為持遣ス。○夜新宅へ行。与板之彦さ、大阪~立帰り之旨、今夜泊りニ而、酒始り居相伴いたし、亥之刻前帰宅。予兎角不落□付散々ため、且少々困事も有之参る也。
十八日 風雨寒し霰交じり降 新宅米摩、庚吉遣ス。
追々風雪相成○夜山きしへ行留守故空し帰る。
十九日 風雪寒し 米摩いたし候。上ハ町主人、下モ町主人、新宅壱人、おまつ来ル○昼後上ハ町米摩、庚吉遣す○間瀬祖母御出、昼後也。夕飯差出し候○夜海津へ行留守故空しく帰宅、山きし御居酒出ス。
廿日 晴 新宅餅搗、庚吉遣ス○昼頃海津御出也○夜上ハ町へ行、留守也。又新宅へ行、是又留守也。又山岸へ行、鉄三郎義也。亥之刻帰宅。
廿一日 晴夕刻~雨 甲子也。大己□尊を祭る 天しやよろずよし 吉日ニ付、餅搗いたし候。上ハ町左兵次、新宅藤吉、下モ町原介、兼松。○新田乳母、内、庚吉也。鉄三郎も来ル。兼松分共也。然處昼後、竈崩れ、釜之湯こほれ候處、熱灰ニ而藤吉、原介佐兵次やけといたし候躰、心配いたし早速浅のへ申遣し、被参療治いたし貰ひ候。怪我之事無之、大慶□可過仕舞早く悦申候○夜國助湯ニ入来ル一杯出ス
廿二日 晴 節分也 今朝新宅滞留之、与板之彦さ被参、役人同道也。昨夕賣物之義ニ付事□り候よし。其~予ハ新屋へ行、利助及、与吉居る。談判いたし、國助子を以て様子見なから可遣候与申居候處へ、為吉参り、下モ町御周旋ニ而、掛口ニ相遣候よし申聞、安慎帰宅いたし候○上ハ町搗もち、庚吉遣ス。
○昼時民政ニ、自分御用之旨町會所~申来候ニ付、山きしへ申遣し被参。新宅、海津へ申遣候へ共不参也。其~間瀬へ山きしと被参候、談判之上、間瀬町會所へ被参候處、予義、何頃町年寄相成候赴之旨之よし。是より、間瀬、山きし拙家へ被参、幸ひ到来もの有之、一杯差出し候。夜ニ入て間瀬と、山きし御残り也。戌之刻過海津御出、又一杯酌申候。御両人共亥之刻過被帰。
廿三日 晴天 立春正月節今番八ツ時一分ニ入
庚吉下モ町へ餅搗ニ遣ス○辰五郎、新屋へ手傳ニ遣ス。
鼻田村喜佐衛門、夕刻来り泊る。翌廿四日帰村いたし候。夕朝両度紹申候。
廿四日 晴天 間瀬へ斎ニ相越ス。並廿匁弐挺持参いたし候。西永寺若院主、西福寺、□正寺、□□寺、岩傳、山きし、丁字屋老人、予也。相掛之講ニ而内談有之、昼後帰宅いたし候○未之刻後山きしへ一寸行。
夜下モ町へ用事ニ而行。酒蕎麦御馳走ニ相成、亥之刻前帰宅。
廿五日 雨
庚吉新宅へ煤取ニ相越ス○上ハ町へ非時ニ、辰四郎被招参る。朱小らう弐丁為持遣ス○夜新宅へ用向有之行、談判亥之刻前帰宅。
廿六日 曇雨降次第ニ晴る風出る 昼前上ハ町へ一寸行○夜原吉方へ一寸行、話しいたし戌之刻後帰宅。
廿七日 曇微雨折々風吹 太神宮様御出ニ付、今夜御遷宮いたし候。
廿八日 晴 康吉義今日町會所被頼行。
夕刻~風雨ニ相成。
辰五郎新屋へ被頼行、夜又新屋へ被頼行也。
廿九日 雨風吹微雪折々寒し 康吉會所へ被頼行也。
恒例之如く、神前餝付、祖先之霊屋餝付いたし、手向し、夜五ツ時~越年いたし候。予、母、辰、金、并おみよ、おちせ、辰五郎、他に康吉也。無事ニ而一同方慶いたし候。辰四郎來□ニ出る也。
千秋萬來萬々來
この月も取り立てて、見る者の目を引く事件や、行事の記載は無い。これは篤之助の心覚えだから当然と言えば当然に、その日の心境すら書かれてはいない。どんな近しい身内が死んでも「愁傷の限り」、嬉ければ「大慶至極」……。これは独り篤之助ばかりのことでなく、世上の人間一般にそうなのだが。
この後、「文学」なるものが現れて、それが巷間たゆたう人々の、心の綾を扱うものだとされ、扱いやすい文体を用意されて後ようやく、人は我身の内に我心もあるのだ、と自覚したのではないか──乱暴に言えばそう思えるのだ。それまでは心も事物も、同胞や祖先、産土と一体で、痛みも喜びもそれらと共有して生きてきたのではないか、だから身体表現や感情そのものは確かにあっても、特別記す必要は無かった。例えば、神社や地蔵や、忠魂碑の類で感情を共有できたから……。
昨日人物館の池田氏と「明治期になって郷土史家が続々誕生した理由の如何」という話しをしたのだが、この辺りも関係があるような気がする。車にゆられ、寝床の中でいくつかの理由を思いついたのだが、智恵熱が出そうになって、今は中断している。
篤之助が17日にもらしている「予兎角不落□付散々ため、且少々困事も有之参る也。」のあたりが先に書いた、篤之助町年寄引退に懸る諸事情の鍵なのだが、後にもこれ以上は漏らしていない……。
ともあれ、頭に髷を戴いた御先祖様の、動乱の一年を見てきた。
戦火を恐れ、荷駄や車に荷物を引く人々の群れや、砲火に泥まみれになって逃げ惑う姿。
秋の田舎道を、たぶん土ぼこりで白くなりながら、とぼとぼと納骨にゆく行列や、行灯の薄灯りの下で、従兄弟や詩の仲間と放歌酒宴をする姿を見てきた。
竈が損じて灰神楽に狼狽する篤之助は、綿入れを着て、爺端折りのいでたちか、下男の庚吉はTVで御約束の股引尻端折り姿だったのだろうか……。
神棚仏壇に明かりを点し、箱膳を並べ、一家主従の年取り。この屋の主人中村篤之助、弘化三年三月二十六日生まれにして、この年僅か二十二歳。こうして明治元年は暮れて行った。
今のところ明治六年まで読み終わっている。この後のほうが読むほうとしては面白い。「斎」や「非時」の記録につき合わせるのも忍びないので、読んで面白いところだけ抜き出すことにする。これまでは一年を概観するということにして。
ただ、このまま明治を走ってゆくか、篤之助十代の頃に戻るか、はたまた親父様の『鏡月堂日記』まで戻るか、思案の最中である。
(陸)