東海道あたりと違って、ここらあたりでは平時大名道中のようなあんな華やかなものは無かった。古いところで元禄年間に遊行上人巡錫の時の覚書があるので、柏崎の人の書いたものだが、大通行の有様が凡そどんなものだったか参考の為にこれも記してみよう。
覚
一本馬弐拾疋 柏崎
此郷馬四十疋
内十七疋勤
一人足 二十五人勤 仝所
一本馬 弐拾疋 鯨波
此郷馬 四十疋
内 三十疋勤
一人足 二十五人勤 仝所
一郷馬 五十疋 鯖石組
内 四十八疋勤
二疋残り
一人足 四十八人勤 仝組
内 八人八駕篭人足 柏崎より鉢崎迄行戻り共に
一郷馬 二十三疋 びわ島組
内 十八疋勤
五疋残り
一人足 二十人 仝組
内 十三人勤
七人残り
一郷馬 三十疋 上條組
内 弐十七疋勤
二疋残り
一人足 三十六人 仝組
内 三十四人勤
二人残り
〆勤 郷馬 百五十疋
人足 百四十五人
残り 馬 四十二疋
人足 九人
惣人馬合 百九十二疋
百五十四人
右者遊行上人御通行に付如此御伝馬人足にて柏崎より鉢崎迄相勤申候已上
元禄十一年寅十月十六日
此他大がかりの通行として我々の知っているものとすれば、江戸から巡検使の下向(古いところはわからぬが、天和、宝永、正徳、享保、延享、寛政、天保、主として将軍の代替わりのようのときだった)。年々の佐渡金銀荷物江戸送り。本願寺門跡が来ても大騒ぎをやって文政六年の巡錫には塔輪に「東門跡御野立處」の石碑が建ててあるのだが、青海川にも矢張り同様の石碑が建ててあるのだ。 佐渡金銀荷江戸送りについて述べて見る。柏崎町納屋町に御金蔵(梁間二間桁行四間四方庇)が建ててあった。「金出雲崎へ御渡海被成候得ば御宰領より御先触相通申候。依て御金蔵並に語宰領衆馬の義者鯨波村、柏崎町、椎谷、宮川、石地村、此五ヶ宿立会前々より柏崎問屋市兵衛前にて附出し鉢崎宿まで送り申候」であって、素通りの場合だが、柏崎泊まりの節は右の御金蔵へ入れるので、「番人等も五ヶ宿立会相勤候」という警戒ぶりであった。寛政十二年の御証文の写があるのだが
此金銀箱馬拾壱疋従越後國出雲崎江戸迄可送届之内壱疋は帳箱に弐疋は宰領の者弐人え可出之者也
申六月 對馬 右宿中
此帳箱従越後國出雲崎江戸迄可届之馬壱疋は帳箱附壱疋は宰領之者壱人え可出之者也
申六月 對馬 右宿中
先触
御証文
一伝馬 十三疋
但内三疋ハ駕篭人足二代ル
一賃人足 三人
右は従佐州江戸上納金銀宰領並御勘定仕上御用に付明後七日出雲崎出立江戸表え罷通候間道中宿々無差支継送リ可有之候尤御証文写弐通相添遣候間宿泊の義は線例の通可被相心得候以上
申七月六日 佐渡奉行支配 井戸多兵衛
吉田七良右衛門
品川門十郎
越後國出雲崎
武州板橋宿迄 右宿中
問屋
年寄中
(柏崎中央公民館鯨波分館発行『鯨波のこれまで』 田村愛之助著 より)
遊行上人については、歴代の遊行上人が度々通ったようで、多くの記録が残っています。文化十一年にも、遊行上人が通行するというので米山峠の道普請を言いつけられた街道筋の村々が出した、「岩石、小砂利が多い所ゆえ、ツルハシ、クワなどの損耗が烈しくてやりきれないから、別に鉄物代金を頂戴したい」という願書が残っています。
同様に大規模の一行として「本願寺門跡達如上人の一行」が文政頃、北国街道を往復していますが、この足跡については“ムラサキシキブのオヤジぃ”さんがしつこく(?)追いかけています。北国街道とヨロンゴの木「北国街道400年・ヨロンゴのある風景」“その12”あたりから参照ください。
(陸)