柏崎百景

柏崎の歴史・景観・民俗などを、なくならないうちにポチポチと……。
「獺祭」もしくは「驢馬の本棚」。

鯨波と北国街道 其三

2006年04月28日 | 北国街道

 東海道あたりと違って、ここらあたりでは平時大名道中のようなあんな華やかなものは無かった。古いところで元禄年間に遊行上人巡錫の時の覚書があるので、柏崎の人の書いたものだが、大通行の有様が凡そどんなものだったか参考の為にこれも記してみよう。

     覚
  一本馬弐拾疋  柏崎
   此郷馬四十疋
    内十七疋勤
  一人足 二十五人勤  仝所
  一本馬 弐拾疋    鯨波
   此郷馬 四十疋
    内  三十疋勤
  一人足 二十五人勤  仝所
  一郷馬 五十疋    鯖石組
    内  四十八疋勤
       二疋残り
  一人足 四十八人勤  仝組
    内 八人八駕篭人足 柏崎より鉢崎迄行戻り共に
  一郷馬 二十三疋   びわ島組
    内 十八疋勤
      五疋残り
  一人足 二十人    仝組
    内 十三人勤
      七人残り
  一郷馬 三十疋    上條組
    内 弐十七疋勤
      二疋残り
  一人足 三十六人   仝組
    内 三十四人勤
      二人残り
  〆勤 郷馬 百五十疋
     人足 百四十五人
   残り 馬 四十二疋
     人足 九人
  惣人馬合 百九十二疋
       百五十四人
 右者遊行上人御通行に付如此御伝馬人足にて柏崎より鉢崎迄相勤申候已上
   元禄十一年寅十月十六日

 此他大がかりの通行として我々の知っているものとすれば、江戸から巡検使の下向(古いところはわからぬが、天和、宝永、正徳、享保、延享、寛政、天保、主として将軍の代替わりのようのときだった)。年々の佐渡金銀荷物江戸送り。本願寺門跡が来ても大騒ぎをやって文政六年の巡錫には塔輪に「東門跡御野立處」の石碑が建ててあるのだが、青海川にも矢張り同様の石碑が建ててあるのだ。 佐渡金銀荷江戸送りについて述べて見る。柏崎町納屋町に御金蔵(梁間二間桁行四間四方庇)が建ててあった。「金出雲崎へ御渡海被成候得ば御宰領より御先触相通申候。依て御金蔵並に語宰領衆馬の義者鯨波村、柏崎町、椎谷、宮川、石地村、此五ヶ宿立会前々より柏崎問屋市兵衛前にて附出し鉢崎宿まで送り申候」であって、素通りの場合だが、柏崎泊まりの節は右の御金蔵へ入れるので、「番人等も五ヶ宿立会相勤候」という警戒ぶりであった。寛政十二年の御証文の写があるのだが

 此金銀箱馬拾壱疋従越後國出雲崎江戸迄可送届之内壱疋は帳箱に弐疋は宰領の者弐人え可出之者也
  申六月     對馬 右宿中
 此帳箱従越後國出雲崎江戸迄可届之馬壱疋は帳箱附壱疋は宰領之者壱人え可出之者也
  申六月     對馬 右宿中
   先触
  御証文
 一伝馬 十三疋
     但内三疋ハ駕篭人足二代ル
 一賃人足 三人
 右は従佐州江戸上納金銀宰領並御勘定仕上御用に付明後七日出雲崎出立江戸表え罷通候間道中宿々無差支継送リ可有之候尤御証文写弐通相添遣候間宿泊の義は線例の通可被相心得候以上
  申七月六日     佐渡奉行支配  井戸多兵衛
                    吉田七良右衛門
                    品川門十郎
  越後國出雲崎
  武州板橋宿迄 右宿中
         問屋
         年寄中

(柏崎中央公民館鯨波分館発行『鯨波のこれまで』 田村愛之助著 より)




 遊行上人については、歴代の遊行上人が度々通ったようで、多くの記録が残っています。文化十一年にも、遊行上人が通行するというので米山峠の道普請を言いつけられた街道筋の村々が出した、「岩石、小砂利が多い所ゆえ、ツルハシ、クワなどの損耗が烈しくてやりきれないから、別に鉄物代金を頂戴したい」という願書が残っています。
 同様に大規模の一行として「本願寺門跡達如上人の一行」が文政頃、北国街道を往復していますが、この足跡については“ムラサキシキブのオヤジぃ”さんがしつこく(?)追いかけています。北国街道とヨロンゴの木「北国街道400年・ヨロンゴのある風景」“その12”あたりから参照ください。

(陸)



鯨波と北国街道 其弐

2006年04月27日 | 北国街道

 五里駅伝にはそんな意見があるとして、徳川時代を通じて鉢崎、鯨波、柏崎、という風に継いだ。問題は米山三里だが、此難所があるために鯨波の特別の負担、それも鯨波の人足達の負担ということになると思うが、賃銭人足は兎も角として、無賃人足「御証文」の為にどれ位人足達が悩まされたかということ。よく故老の話に出るのだが「御証文」の出番に当ったとなると夜が夜半でも出なければならぬ。無賃の上に提灯の蝋燭までも自分持ち。冬季吹雪の為にニッチもサッチも行かなくなり、途中で五日も六日も足を止めるようのことがあったが(以て米山三里の道路の状態を察すべし)、そんな時だって宿銭がどこからも出て来ない(宿山というものがあって、一丁持二丁持などと云うことを聞くのだが、此宿山がつまり無賃人足の代償だと解すればいいか)。後世になると弊害も出て来たと思われ、効用物だとばかり思って運んだ荷物が、途中箱が壊れて私物が飛び出したなどという話もある。
 有料輸送はどんなものだったか、これは公定賃銭があるので(掲示した)、其間に相対運賃もあったことと思われるが、我々の知っている一番古いものは元禄八年のもので

  柏崎より鯨並迄一里
  本荷三十九文、空尻二十五文、人足十九文、山乗物七十八文(柏崎町鑑)

 最後の改訂だが、それを全部挙げても仕様がないと思うから、中間頃のものと最終のものと二例を挙げる。

  寛政元年    鯨波より鉢崎まで     鯨波より柏崎迄
 駕篭一挺に付   五百二文         百十二文
 本馬一疋に付   二百五十文        五十文
 軽尻一疋に付   百六十文         三十六文
 人足一人     百二十五文        二十八文

  幕末      鯨波より鉢崎まで     鯨波より柏崎迄
 本馬       弐貫九十一文       四百六十壱文
 軽尻       壱貫三百三十壱文     三百文
 人足       壱貫三十六文       弐百三十文

 伝馬と云う程で、貨物輸送は専ら馬の背であった訳で、「鯨波宿正人馬二十五人二十五疋」などと書いてあって、つまり常備人馬のことで、柏崎の丁字屋を「馬問屋市兵衛」などと書いているが、柏崎のように大きな宿になると「馬指」という役目の者があった。明治二年の民政所書上に、河内から常備人足の内、四分の一出せとか、いや三分の一出すとか、そんなことを書いたものがあって、明治維新前後の宿場の混雑は格別。平常時の常備人馬のことだが、時たま大通行も会った。此街道としては大名の参勤交代はあまり通らなかったようで、尤も

 万延元年五月、井伊兵部少輔参勤の為通行(一小納戸長持一棹。一台所長持一棹。一具足一荷。一竹馬二荷。一乗駕篭九挺。此人足三十二人)
 慶応四年三月廿六日、椎谷候堀右京亮様今朝仝所御立にて御上京に付当所(柏崎)晝にて鯨波泊り也(中村氏公用録)

 などというのがあるが、与板も椎谷も万石そこそこの大名。もっと大人数の一行となれば、こんな小駅では収容できないことになり、必定柏崎で泊ることになる。大きな通行になると、近郷村方から「助郷」を徴発して来なければならぬ。助郷では明治元年の助郷が大きさからも期間からも未曾有のものだと思うのだが、次の文書は此處のものではないとしても、無関係だとは云われないし、助郷を考えるについて参考にもなるだろうと思う。

   柏崎駅助郷人馬宰判役割
 一人夫割定役          村々触出方  大橋伊三郎
          但高懸近□□見計可有之事  竹田□七郎
                諸藩御定陣□  岡島安兵衛
                   振込方  星野新十郎
       但二十人以上郷会所にて振込之事  山田勝五郎
              人足引継  横山  萬六
                     藤井 市重郎
                     平井 栄之丞
                     新道 由佐衛門
                     藤橋 甚右衛門
                      堀 九兵衛
                    枇杷島 作右衛門
 一問屋詰定役              庄屋 七郎右衛門
   但二十人以下問屋にて振込の事    庄屋 禎作
                     剣野 市佐衛門
                     比角 九右衛門
 一大小荷駄方定役            庄屋 仙八
   但前日に宿に引合可有之   庄屋(鯨波) 豊蔵
                    元預所 五郎佐衛門
                     春日 惣兵衛
                     比角 市右衛門
 一御入用定役                 宮林市兵衛
                        藤田與七
                庄屋(大久保) 六郎
                   土合新田 庄八
 一諸事應対定役                江口新八郎
                        石根徳兵衛
                        中田重平
                        石田久作
 右之通定役之申付候處厚相心得各々精勤仕候もの也
           郷会所
  辰七月二十四日(明治元年)

(柏崎中央公民館鯨波分館発行『鯨波のこれまで』 田村愛之助著 より)




 馬や人足の取り決めは以下の通り

 ・「本 馬」=駄馬 付荷四十貫目(約152kg)以内
 ・「軽 尻」=(かろじり)空尻とも書く 人が乗って五貫目(約24kg)までの荷物。又は人が乗らず二十貫目(約96kg)までの荷物を積む馬
 ・「人 足」 負荷五貫目(約24kg)まで
 ・「乗 物」 一挺を六人で担ぐ
 ・「山乗物」 一挺を四人で担ぐ
 ・「長 櫃」=長持 重さ三十貫目(約144kg)で六人で担ぐ

  ※今のTVや映画の時代劇で馬といえば、乗馬クラブ所属のサラブレッドが専ら出演しているが、この頃の馬は国産馬で小型だった。人も小柄だったのだが。
  ※日本の交通史の謎のひとつに、荷車の発達がないことが挙げられる。時代劇に出てくる大八車は、江戸府内だけ使用が許されていて、街道筋はこの問屋、人足の保護のために、使用させなかったとか。

 賃料について、私用の旅客は「相対賃銭」で時価だったが、公用については「御定賃銭」で、上記例が適用された。又、「上様朱印」「御証文」を所持している者については無料となって、特にこれに泣かされたようだ。
 「問屋」とは道中奉行配下の宿役人で、諸役御免、年始御目見得の特権が与えられた。役目として、宿に人馬を差配常備させ参勤交代の大名や、諸役人の通行、公用貨物の輸送を掌る任務がある。鯨波は二十五人二十五疋となっているが、柏崎も同様。因みに東海道では百人百疋、中仙道では五十人五十疋。
 「馬指(うまざし)」とは問屋に随従して直接人馬の調達をする役。小物成(税金)免除で給銀(町費から)が与えられた。

(陸)



ガルル! 遊びの準備ができてます

2006年04月26日 | 行事
 所用あって新潟県立こども自然王国で出かけてきた。
 タイトル写真は王国より見た黒姫山「山笑う」というより「微笑みかけた」感じか。

 一月ほど前の館長さんの話では「雪消えのペースは例年通り」と聞かされたが、実際は“雪害救助に出向いた南国出身の自衛隊員”を笑えない、「何年かかるのか」と思われるほどだった。天候も暖かい日が続いたと思ったら、冷たい雨が降り続いたり、最近では黄砂が跳んできて空が薄ぼんやりと暗い日が続いて、さっぱり春らしくなかった。
 今日はやっぱり黄砂の影響か少しうすぼんやりとしているが、それでも暖かくなった。王国園内は機械除雪の成果もあって、雪も殆ど無くなっていた。園内は4月29日からのゴールデンウイークを前に準備が進められていた。「ゴールデンウイーク遊びフェスタ2006」は5月3日より。

 長期休暇となると、出かける場所の選択に途方に暮れてしまう役立たずの私は、どこか一日はこの王国に助けてもらっていたのである。同様な諸氏、迷ったら、いや迷わずとも一度は高柳町へ、王国へ来られよ。
 



案内板の補修をしているT氏とM氏





遊具の整備も進んでいる。この影ではおもしろ自転車の発着場の整備をしていた。





が、しかし5月5日に予定されている「熱気球にのってみよう」の会場であるサッカー広場はこのありさまである。「その日までに消してみせる!」と豪語していたS君、大丈夫かね? 皆さんはこの写真を目に焼き付けて、当日と比べるベシ!

 「澤田屋」のジンギスカンが食いたい……。「わかやま」でラーメンを食ってくればよかったかな。

(陸)


鯨波と北国街道 其壱

2006年04月25日 | 北国街道
 五十年以前柏崎中央公民館鯨波分館が出した『鯨波のこれまで』(田村愛之助著)という郷土資料集がある。この本の近世から維新にいたるまでの記述が、北国街道と戊辰戦争の事に当り、当地の歴史の一面を担っているのでその部分を何回かに分けて紹介する。
 勢いづいて、去年から話だけで延び延びになっていた「近代化遺産の探索」や「北国街道の探索」に出かけられればいいのだが。

 ※旧仮名漢字は地名、文書引用の扱いを除き雰囲気を損なわない程度に緩く改めた。
 ※文中に適宜改行を入れた。

(陸)




 慶長三年正月上杉景勝会津に移封、其後へは堀秀治が入れ替わって来て当地は此人の領分となった。同年八月大公秀吉薨じ、五年関ヶ原に天下分け目の決戦があって徳川氏の勝利となった。
 日本史からすれば、此前に織豊時代、其前に戦国時代を置かなければならぬのだが、越後は上杉氏の領分で、前に霜臺公の 勇があり、後に出て来た景勝も相当の人物だったそうで、外へ出てこそ戦もしていたろうが、領内一般は安堵だったに相違なく、其証拠には景勝会津移封の後に上杉氏を慕う人達が騒動を起した。此遺民騒動に原因があるかどうか、徳川氏の政策で、越後を細かく分割してしまったのである。どんな風にしたかというと、弐百幾十年間領主の交代も行われるので、最終即幕末の越後内に大名が幾つあったか、それを挙げてみるが、

 高田に榊原氏十五万二千石、新発田に溝口氏十万石、長岡に牧野氏七万四千石、村松に堀氏三万石、与板に井伊氏二万石、糸魚川に松平氏一万石、三根山に牧野氏一万一千石、椎谷に堀氏一万石、黒川に柳沢氏一万石、三日市に柳沢氏一万石。領主の交代に依って領土の出入りがある、入替もある、それのみならず領土の配置そのものが頗る錯綜を極めているので、例えば、刈羽郡内について見ても、桑名領、椎谷領、与板領、上之山領、安藤領、幕府領、これも幕末の状況であるが、これ等七つの領分がどんなにややこしく入りまじっていたか。手っ取り早く此附近について云ってみても、鯨波は桑名領であったが、上隣の青海川へ行けば榊原領であった。河内も桑名領であったが、大河内へ行くと幕領、新道へ行けば又桑名領。桑名領と桑名領との間に幕領を挟んで置くので、大河内の人達は「我々は天領だ」と威張って居た。

 慶長十五年松平上総守忠輝が福島城(直江津附近)に入り後高田に築城して其領地となる。天和二年松平忠輝失脚し、後に酒井佐衛門尉家次が入って其領地。元和六年より松平伊予守忠昌の領地。元和九年より五十八年間松平越後守光長の領地。延宝七年より六年間幕府領。貞享三年稲葉丹後守正通高田城に入り其領地。元禄十四年に再公領となり。宝永七年松平越中守高田入城、後奥州白河へ、後伊勢桑名へ国替えとなったが当所は其侭領地であり幕末に及んだ(甲子楼『くちらなみ』に依る)。

 福島五人の御年寄衆御切手なくして舩並かこ馬人足等何成共申参候もの有之はからめとり此方へ可差上者成
   戌六月二日        大石見 華押
    くちらなみ驛
    しいや驛
       年寄中
 慶長十五年庚戌の文書で、大石見は大久保石見守長安。関申子次郎は、当時の宿継は五里毎に継いでいるので、柿崎、鯨波、椎谷と継いだものだと云い。山田八十八郎は之に反対して、慶長十六年の「傳馬宿書出」は柏崎にも鯨波にも同文のものが出ている、されば柏崎が宿継でなかったと云えないと主張する。

    傳馬宿書出
 一御傳馬仕候上は井ほり川よけは手前の分は三ケ壱可仕縦失念候て書出し候共他所へは一切普請に罷出間敷候事
 一江戸駿州 御朱印か不然は各連判之切手にては可通無左候て上下の衆わかまゝに御傳馬人足被押立候はゝ其一町のものとして押置越府近所は府中へ可注進信州表は松城へ可致注進事
 一上下のもの共宿をかり木ちんも不渡わかまゝに於有之は是又押置注進可仕候事
 一殿様御泊之時御供之衆亭主を内夫につかひ候事堅停止候事
 一御供衆やとの薪ぬかわら草以下みたりに取つかひ候儀停止候若右様之非分之輩於有之は御供之年寄衆へ目安を可上事
 一大傳馬の時は隣郷の人馬をつかひ傳馬は可有赦免江戸駿河御仕置のごとくに可仕若俄の義にて人馬入候はゝ傳馬奉行へ人馬をかし奉行より人馬のだちんを可取事
 一江戸駿河御仕置傳馬宿は右之かり候役赦免之事
 右條々違背之族於有之は以目安可申上候苦隠置郷中津かれ候は、庄屋肝煎之者共可為越度者也依如件
   慶長拾六年九月三日            筑後守
                        隼人正
                        遠江守
                        大隈守
                        石見守

(柏崎中央公民館鯨波分館発行『鯨波のこれまで』 田村愛之助著 より)



柏崎陣屋長屋跡

2006年04月24日 | 建物
 最初の写真は大久にある陣屋と柏崎県庁の跡を示す碑。


連休明けに本格調査へ
桑名藩陣屋跡に残る長屋

 市教育委員会は十七日、市内大久保の旧桑名藩陣屋跡に残る長屋の調査に向け、下検分を行いました。参加したのは、柏崎刈羽郷土史研究会関係者、地元関係者と柏崎の登録文化財二件と、旧日赤加工の赤煉瓦棟の記録保存のための調査を手がけた一級建築士。
 天保八年に陣屋が中浜村の大火で全焼した後に再建された長屋の一部で、建築後約百七十年が経っています。現在三軒分が当時の面影を残したまま残されていますが、うち二軒は一般市民の住宅として利用されています。
 市では、長屋を桑名藩支配時代の柏崎の歴史を伝える貴重な財産として、保存に向けた調査委託料六十万円を今年度の当初予算に計上しています。市は「当面、記録保存に向けて」としていますが、地元では歴史遺産として復元保存を求める動きもあり、今後どう展開していくのか注目されるところです。とりあえず市は、連休明けに本格調査に入り、現地調査を二~三回行ない、秋口までには調査を完了させたい考えです。

越後タイムス 平成18年4月21日号より)




 柏崎市はようやく柏崎陣屋跡に残る長屋の調査を始める。
 長岡城や椎谷の陣屋のように、戦争で焼かれてしまい跡形も無くなったものと違い、明治の御代に県庁にまでなった建物を残すことなく見捨ててきた。百三十年余を経てようやく調査をするに至った。私の希望は陣屋の再現にある。陸上競技場一面分くらいの広大な敷地を必要とするから生半可な事では叶わないだろうから、一部だけでもいいのだが。
 建物の写真は住まっている方が居るので遠慮した。
 写真は日曜日に撮ったものだが、前日から桑名の観光ガイドの一団が来柏していて、関連の史跡を巡ったそうだ。

 下の写真は、同じように調査が予定されている「喬柏園」。昭和13年の建築でそれほど古い建物ではないが、往時好まれた様式が盛り込まれていて、なかなかに風情がある。「大正浪漫の会」が催されるばしょでもある。




 写真を撮った後、予定通り花見の会場へ向った。去年と同様の場所で、実は知る人の少ない穴場なのだ。去年同様宴会は果てなく続き、酩酊の余買ったばかりのデジタルカメラの行方を見失ってしまった。ついさっき三次会の場所で発見無事回収に成功、ようやくブログにアップとなる。冷や汗モノ。深酒はいけません……。


怪しげな花見の一団


(陸)


綾子舞街道通信 27号より

2006年04月21日 | 綾子舞街道通信
国道353号線 沿線物語
「谷川新田の千本桜」「と「谷川新田美伝の会」

 国道353号線野田交差点から鵜川方面に走ると千本桜の看板がある。国道から細い道に入り黒姫山登山道に続く林道入口があり、林道に入って数分で谷川新田の千本桜に到着する。この千本桜を管理・運営しているのが谷川新田美伝の会だ。
 同会は、桜の植樹や愛護、桜名所の保全などを行っている財団法人日本さくらの会に加入している。河野洋平氏が会長を務める日本さくらの会は、桜を通じた国際交流・文化交流を実施し、日本文化の広報をする役割も担っている。参月29日には第41回さくら祭り中央大会が東京で開かれ、谷川新田美伝の会から事務局長の堀井正孝氏ご夫妻が出席した。日本さくらの会は2年に1度日本さくらの女王を選出しているが、第6回女王に市内出身の新澤真美さんが選ばれている。



昨年も残雪が残る中、斜面一帯に八重桜が咲き誇っていた


 毎年、谷川新田美伝の会ではお花見をゴールデンウィークに開いているが、大雪だった今年は開催日が遅くなりそうで、楽しみにしている方はきになるところだ。谷川新田は眺望が素晴らしくはるか日本海までも見ることができる。お天気の日にはさくらと景色を楽しみに出かけてみてはいかがだろうか。

・千本桜の管理ボランティアにモンゴルからの留学生も参加している関係から、昨年の五月にはモンゴルの放送局が取材に来た。

お花見会などの問合せ先
谷川新田美伝の会 事務局
八幡開発 TEL 0257-22-3357


新潟・柏崎清水谷「谷川新田の千本桜」の桜の今!

※『綾子舞街道通信』の企画・製作は海津印刷によるものです。毎月20日発行 発行部数7500 お問合せはTEL 0257-22-3979(海津印刷)まで

吉村権左衛門暗殺される

2006年04月19日 | 風景
 最初の写真は大久保鋳金の祖「原啄斉・得斉」の生地を示す案内板だが、解説はいずれかの機会として、今回は場所の目安として揚げるのである。

 慶応四(1868)年四月十一日、勝海舟と西郷隆盛の会談によって、江戸城は無血開城されたが、新政府軍の朝敵に対する処罰が私怨的行動であると、会津をはじめとする奥羽列藩は次第に態度を硬化させていった。
 慶喜、定敬らの態度を軟弱だとして同氏を糾合していた幕府、会津、桑名の主戦強硬派は次第に傘下に参集していった。

 以下は定敬以下が柏崎入りをするあたりを『中村雄右衛門 慶応四年公用録』より


(三月)廿九日 雨午後~■也
巳之刻頃~会所へ出席宮川市川小熊長浜拙吉田岩下松村等呼出し明日中将様御着の手合名札等認め方取調いたし候又丁頭門前頭惣代呼出申達ス吉田~鴨壱羽持参に付下用支度いたし候又市川老人高田~昨夕帰宅にて一寸見舞候且又明日御会釈の節郡中大肝煎御内容達入交り御披露の義に付夕刻に至り御支配へ罷出御伺申上黄昏市川へ戻り申合いたし又引返し御代官へ罷越又添田へ相越し委細申上戌之刻過に帰宅
 中将様御義今廿九日石地御泊り明晦日荒浜御昼にて御着被為遊候に付此段御達申上候巳上
  三月廿九日
 追て御目見医師御案内用達へも可被申達候
       刈羽会所
  中村雄右衛門
  御用
三月晦日 晴天寅ひらく天社萬よし
巳之刻頃差懸り御用申来り罷出候処昨夕申立候御会釈順之義郡中振分の処不相成入交候様御沙汰に相成最早為御差配役藤岡添田御両人   に付予 キ宮川へ戻り申合いたし候
(荒浜御昼迄為御機嫌伺市川小熊嘉市相越候此二十三字欄外書込)
其内小熊長浜御出迎に被参候時宜に付予も帰宅いたし一同市川新田六蔵方へ出張候御支配御両人も同人方御扣宿也郷士御内用方も追々被参又御勝手奉行御出張有之御会釈之節御披露有之申之刻前御着に相成候某共は引取

四月朔日 晴天 巳之刻頃~会所へ罷出同勤一統並御内容達の衆待合夫~中将様御着悦の為御役所へ登る御役頭方へ廻勤いたし添田助司殿差添にて勝願寺へ相廻り候尤扣宿小山惣太夫方にて暫く手間取夫~町在一統罷出御中之口におゐて岡弥藤冶様御演達御着御機嫌伺義御聽に達候処御満足に思召候其旨申達候様にと被 仰出聞候夫~大窪村通り極楽寺花見いたし申之刻に帰宅
一、月並御入札 拾俵九分 札人宮川松蔵
四日 雨 終日降りつづく
 御家老 服部半蔵
 同   吉村権佐衛門
 同   澤采女
 御政治奉行 久徳小兵衛
 御目付 岡本藤馬
〆 同勢弐拾人余り
右は昨夜寺泊御泊りにて今夕刻御着に相成候に付同勤五人閻魔同前迄出迎に罷出候


 柏崎において、謹慎の意味を表するため、大久保の勝願寺に滞在していた桑名藩主松平定敬が抗戦の意を決したのは翌閏四月の初旬の事で、会津藩の硬化と密接な関係があったがしかし、柏崎に居る藩士は恭順派が圧倒的多数を占めていた。そこで定敬は恭順者の首魁家老の吉村権佐衛門を葬るという非常手段に出た。
 家老暗殺の密命を受けたのは山脇隼太郎、高木剛二郎の二人。閏四月の三日夜、陣屋の裏門より勝願寺に至るべく歩む吉村を淡島小路で不意打ち、応戦空しく脇腹を切られて落命した。
 暗殺者の二人は直ちに会津を目指して逃亡、緒戦を転戦。終戦後渡米、帰国後、実業者として成功した。
 家老暗殺を定敬の指示によるものと断定して書いているが、この渡米資金を定敬が出したものとされるからである。

 暗殺の現場とされる「淡島小路」の現在の姿は。


現在の淡島小路


 小路の名前は淡島神社への参道という意味合いであったのだろうか、「淡島大門」という呼び名もある。現在淡島神社とは信越線の線路で隔てられ、道も迂回している。
 実際の暗殺があったのは同小路路傍の「二つ井戸」脇とされていて、この井戸跡も残されている。


現在の二つ井戸


 最初に示した写真の案内板の脇にあるのだが、この場所は無粋ながらゴミ収集場となっていて、井戸はゴミ箱の陰になっている。探す方はご注意を。

 陰暦閏四月の三日といえば、そろそろか、今頃に当るのではないかと思って揚げた次第。

(陸)


米山の雪形とサーファー

2006年04月17日 | 季節
 最初の写真は4月15日午前9時過ぎに荒浜海岸から見た米山。
 渚を歩く会に参加したときの写真だから、海岸の漂着物を観察してもらってもいいのだが、今回は米山の雪形について。

 古来農作業は、季節の移ろいを気候の変化によって知り、最適な時期に土を耕し、種を蒔いた。季節の変化を暦の上に記して目安とする二十四節季、七十二節などもあるが、実際、毎年同じ時期に同じ状況になるわけではない。寒い冬で大雪の年もあれば、暖冬で春を迎える事もある。
 暦の変化と、実際の季節の変化の差をどう調整ていたかというと、現実は計画に優るので、自然界からの信号に頼る事になる。柏崎の稲作の目安とされていたのが、米山の雪形「スジマキ男」だ。
 写真中央、米山の頂上部の下、手前の山並みに人が立っているようなシルエットが見えないだろうか。これが「スジマキ男」だ(私の近所ではもっぱら「スジマキ爺さん」と呼んでいたが)。
 今ではスジマキなどと言ってもピンと来ないかもしれないから少し説明する。今では田植えはもっぱら機械でするので、田植え機に乗ったその苗をご覧になった方は多いと思うが、あの田植えに使う苗を作るために、苗代に種を蒔く作業をスジマキと呼ぶ。
 このシルエットが米山に出る頃、同様の作業ができる気候になったという目安とされてきたわけだ。
 今年は大雪の故、雪形が現れるのは遅いとされたようだが、私見としては遅くはないし、かえってはっきりと現れているような気がする。
 米山にはもう暫らくすると、このスジマキ男の左脇に尾を下にして空に向った鯉の半身が現れる。これは「コイ型」と呼ばれ、「スジマキ男」と並んで最もポピュラーに語られる雪形だ。
 博物館の渡邊学芸員は「スジマキ男」には、地域によってもう一人の型が現れると調査されたのだが、この写真からはそれを説明する事はできない。米山の雪形にはこの他にも観察地域によって幾つかの種類がある。詳しくは「博物館の官報」などを読まれたい。

 現在の農業は季節を読んだり、気候を読んだりをしない。小規模農家は、安直に言えばカレンダーの休日に従っての作業となる。半ばサラリーマンの米作農家や、勤め人の息子嫁を頼りに作業しなければならない家では、休日にしか集約的な作業ができないからだ。技術的にはそれで農業が叶うのだからいい様なものの、春の甲子園の入場行進を聞きながら苗代つくりを手伝ったりした記憶がある私には、何ともつまらない昨今だ。ゴールデンウイークなる時に何処へも行けない農家の子どもという寂しさもあるにはあったのだが。




 これは荒浜にいた「波乗り者(サーファー)」達の姿。この姿を見ると、雪形が「スジマキ男」ならぬ「波乗り男」に見えなくも無い。
 蛇足ながら、荒浜の先「大崎海岸」が波乗りの集まる所となっていて、最近駐車場や簡易トイレの整備がなされた。
 場所は国道352号線を出雲崎方面へ走って、トンネルをくぐり抜けた所。冬でも波の立っている時は、白い波頭にポツリポツリと海鵜の如く波乗り者達のその姿が見える。





 当日モノにした漂着物。特別展の日には、美術家の手によってオブジェに変わって御目見えするかもしれない。



(陸)


宴の準備は整いました

2006年04月14日 | 行事
 ようやく桜が咲いたと思ったら、雨が続いた。週末には花見が出来るだろうと記した都合上、現地調査に行ってきた。

 全国何処でも同じで、この時期になるとあちこちに桜の花が咲いて、日本人の桜好きを痛感する。それぞれの地区にそれぞれの花見場所があるが、地域を代表する名所も又ある。現在の柏崎市では「赤坂山公園」だ。
 公園の芝生広場に立ってみたが、雨が上がったばかりで、地面はぬかるんでいる上に、少し肌寒い。それでも今夜からのライトアップに備えて、ぼんぼりや屋台の準備は整っていた。




 肝心の桜は「つぼみ」から「二分咲き」。寒そうながら、ウグイスも鳴いていた。
 明日は曇りのち晴れ、最高気温16℃程度の予報だから、開花が進む事が予想される。
 小5の娘が「お花見は?」と、やきもきしていたから、天候次第で花より団子の子どもたちに尻を押された人出があるだろう。




 今夜からライトアップだが、寒さ知らずの花見客が出るのかどうだか。
 拙の花見予定は来週、去年の仲間と去年の場所で。

(陸)


判決下りず 病死者続出で訴えを取り下げる

2006年04月13日 | 文書
「越後花嫁 其弐」でふれた「春日騒動」について概略を記す。少し前の刊行物だと「天明義民騒動」と並んで「春日義民騒動」と記されているが、あえて「春日騒動」としておく。


 当時刈羽郡には安藤・安西氏の二つの旗本領があった。安西氏の地行所は現在の刈羽村の上高町・下高町。
 安藤氏の地行所は現在の柏崎市の「旧春日村・橋場村・長崎村・長崎新田村・黒橋新田村・山本村・田塚村・平井村」と現刈羽村の「小妙寺村・原新田」であった。寛永の後高田藩領から分離し、幕領から宝永六(1709)年、春日に陣屋を設けおよそ五千石を領した。。
「およそ百年間は平穏であったが、文化文政の頃口腹の欲を充たすに汲々たる武士が在勤、暴政苛税その極みに達したので、当時の俚諺に春日領へは嫁婿をくれるなとまでいわれた(『比角村史誌』より)」
 誰がどんな非道な事をしていたのか「始終覚書」には名前とともに列記してあるのだが、末裔もいることなのでそれは記さない。貧乏ぶりは「越後花嫁 其弐」参照。

 文政六(1823)年四月二十八日、春日村の百姓平吉が有志に呼びかけて暴政糾弾を決起、上原村の村役人何某の屋敷に乱入した。この乱入は陣屋に知れて鎮圧、兵吉は投獄された。
 領民の怒りが収まらぬので、兵吉を出獄させたが、領民は二十八か条の「大願書」を江戸寺社奉行に差し出すこととした。しかし、地役人はその願書への押印を拒み、願書を出す事が叶わなかった。

 同年六月十六日、領民はついに法螺貝を吹き鳴らし得物を手に大挙陣屋を急襲。しかし春日陣屋からの救援要請を受けた柏崎陣屋の軍勢、役人等数十人が出動、鉄砲(空砲)を使っての威嚇などにより衆人は離散。両陣屋の役人による説諭により「願書」は江戸の寺社奉行へ差し出されることになった。

 同八月、寺社奉行より各村十八名、付添い人として庄屋又は組頭一人ずつの出府を命じられ、収穫を控えた時期ゆえ出府者の減員を願ったが許されず、出雲崎代官所からの役人により二十余人が捕えられ、藤丸籠で江戸へ護送、投獄された。兵吉は逃亡武州大峰山聖護院へ遁入難を逃れた。
「出雲崎ニ而入牢之者十八人丸籠ニ而九月廿二日江戸表江差出□相成候、但出雲崎出立之節、内宿御深切之方~為餞別目録並御肴被下、右名前左ニ記、酒五升、豆腐一箱、京屋七佐衛門様~金三分、杉本市兵衛様より金二分二朱、阿気波熊治郎様より右之通三人~困窮之百姓故為餞別別被下之、三国通りニ而九月廿二日出立、道中泊り記
 九月廿二日 長岡泊      廿三日 堀之内
 同 廿四日 塩沢泊      廿五日 二□之内
 同 廿六日 渋川泊     同廿七日 横堀泊
 同 廿八日 倉ヶ野泊    同廿九日 武州熊谷泊
 同 卅日  大宮泊     十月朔日 板橋泊
十月二日大田摂津守様江差仕候  (『柏崎市史資料集』より)」

 翌宝永七年の夏も過ぎて秋になるが、判決の気配はさらになく、牢内に疫病流行し病人牢死者続出、一人の健常者無きに至る。
 ここに至って平井村の高野某同村の井田屋・西巻と相談、出府して奔走。
「右之六人越後出雲崎表ニテモ入牢仕、其上丸籠ニテ召出タサレ、伝馬町ニテモ入牢傍被仰付候ニ付、是迄百姓之義故、耕作ニ一日片時モ無油断相働、骨折居候者共故、終牢疫病相煩ヒ、病死仕候、残リ十二人之者トモモ、皆以相煩候得共、神明ノ加護ニヤ、五六十日宛モ相煩、全快致候、是等ノ義、御地頭御屋敷ニテ非道ナル御取計ニ付、国元親兄弟妻子ニ迄歎相掛、剰耕作ノ手元ヲ失ヒ候位ニ難渋仕候、此仇ト申ハ、御地頭御屋敷ニテハ、御家老──(『柏崎市史資料集』より)」

 同年十一月一日、訴訟引き下げを老中に提出、幕府は訴状を却下、入牢者一同追放で牢内の村人は救われる事となった。
「──全愚昧之心底より、兵吉・政右エ門・平兵衛など之申勧ニ同意致、彼是申立心得違之段相弁、重々恐入候、此上地頭所よりヒ申付候義者勿論、前書心得違ヲ以騒立候始末、地頭所手限ニ手吟味請候義共、聊相背申間敷旨を以、憐愍之義、一同地頭所江願出候処、侘之趣聞届有之──(『柏崎市史資料集』より)」

 結句、春日陣屋の代官野田某、牧岡一統は役儀を取り上げられ、平井村高野某が代官役を命ぜられた。


 この訴訟に掛った費用割符がのこっているが莫大なもので、働き手をも失ってしまった貧乏村に、この費えはたまったものではなかっただろうと……。

(陸)


ようやく花見が

2006年04月12日 | 季節
 ようやく春らしい暖かい日になった。
 はじめの写真は今朝10時くらいの駐車場の桜で、まだちらほらとしか花は開いていなかった。

 下は同じ木の昼の様子。気温は二十度くらいあるだろうか、穏かな風が心地よく感じられる。この陽気で一気に花が開いた。
 ここは赤坂山(赤坂山公園)の麓だ。赤坂山の桜は風のせいか少し遅いのだが(柏崎市の広報の情報では「つぼみ」。11日の情報)、十分開花したと思われる。今週末は花見の客で賑わうだろう。
 ライトアップは4月14日(金)から。
 肝臓を鍛えてその日を待て! って無理か……。






 信越線鵜川鉄橋下にいたセグロセキレイ(たぶん)。


(陸)


最後の処刑

2006年04月11日 | 文書
 前の「海での定めは」で、荷抜きの訴えに対して仕置が軽いと記したが、実は死に当る極刑の執行は極めて少ない。柏崎では記録に残っている「磔刑」は、後にも先にも慶応三年の只一件だけだ(打首があったのかは不明。私の見た範囲ではなかった)。
 俗に「十両盗めば首が飛ぶ」と言われているが、裁きのうちで、盗んだ金額を少なくする斟酌が行われていた。「どうして九両三分二朱(一両は四分、一分は四朱)……」という具合で、殺人を犯さない限り、初犯で死罪にはならなかったようだ。
 かえって死に価する刑罰が乱発されたのは明治に入ってからだ。柏崎に県庁が置かれ、裁判所があったから、刑場もあったのだろう、この間の明治元年より五年迄の間に十三人が処刑されている。
 
 明治二年六月三日   打首三人
 同年十二月二十日   打首二人
   三年十月二十二日 打首四人
   四年二月二十九日 打首三人
   五年三月二十八日 打首一人   (『比角村史誌』より)

 新政府体制を強固にするためにか、即断乱暴な裁判があったようだ。最後の件は、芸妓にのぼせて身請け代金に窮し、強盗を働いた若者の処刑だが、現代ならば禁固刑だろう。この頃までは、首切り役人による打首が行われていて、絞首刑はもう少し後の時代になる。
 新政府の警察やら処刑、監獄体制の確立のくだりは、故山田風太郎が小説に描いているので参考までに「山田風太郎 明治小説全集(ちくま文庫)」。

 以下に揚げるのは「中村篤之助 慶応三年公用録」の中の柏崎における最初で最後の「磔刑」の執行部分と「捨札」(処刑後二日間そのままに晒される。その脇に立てられる札)案の記述だ。
 「役人の出張を一時も待たされたが、竜巻が海水を引き上げるのを見られて仕合せ」というような、およそ緊張感の無いようなことも書いている。
 処刑は陣屋役人、目明、町役人など総勢二十三人(大勢の見物人がいたはずだ)で見届けている。



五日 晴天 今日は刑罪人いよ/\御仕置に付、小熊嘉市中村篤之助市川記間太は、地元立会いとして早朝支度いたし、立付ケ陣笠にて、市川新田町扣宿信濃屋嘉平方江相詰候。中村雄右衛門、小熊武右衛門も、跡より御越し被成候。市川房之助は御横目様御案内に被罷出候。
扨刑罪人は矢張昨日同断生肆の場所江引渡シに相成、暫く手間取夫より津出し 小路より刑罪場江引出しに相成候。
其より少シ猶予いたし、某共三人罷出候。刑罪場行馬外にて御横目様御出張を相待居候内、凡そ一ト時計り相待当惑いたし候処、其内海面より気色変り来り、龍尾相下り水を巻き上げ候をも見候仕合。雨は暫くの間に候へ共、余程の雨にて衣類随分しめり申候。
其より御横目様御出馬の時、雨晴大慶。行馬外にて御会釈申候て、検使入口より入て、奥江不進候て、市川房之助、某共三人、列を成し候。
御仕置相済、猶行馬外にて御会釈申候て、信濃屋喜平方へ引取。此時午之半刻也。
下用支度居たし未之刻過引取。刑罪人の義翌六日七日磔の侭にて、お刑場晒に相成候由承知申候。

 捨札案
       無宿長吉
          卯三十三才
右之者義無宿身分押隠し、越後国大白川新田弥次右衛門方江被雇罷在候内、同人伜弥太郎と酒狂之上及口論、同人棒切を以打掛り候迚、斧を振廻し、弥太郎并取支候無宿新五兵衛へ為疵負、右疵にて弥太郎相果候次第に至り候始末、重々不届至極に付、晒之上磔申候もの也   卯九月

(『柏崎史料叢書 十九 中村篤之助 慶応三年公用録』より。改行句読点は引用者)


 市川新田町は現在の諏訪町三丁目あたり。津出し小路は工業高校前から市役所、諏訪町を突き抜けた小倉町へゆく細い小路と思われる(現小倉町に米倉があって、津出しの時に運んだゆえの名前ではないかと思う。小倉町は御倉町か?)。刑場は現工業高校あたりの当時砂丘地。

(陸)


綾子舞街道通信 26号より

2006年04月10日 | 綾子舞街道通信
国道353号線 沿線物語
「別俣コミュニティセンター」

柏崎市街地から南へ13km、久米(くんめ)・水上(みずかみ)・細越(ほそごえ)の農山村3集落を総称したのが別俣地区。ご他聞に漏れず過疎化・高齢化は地区にとっても深刻な問題となっているが、子ども・父母・祖父母の三世代が協力しあって地区の盛り上げに関わっている。

田植え


別俣地区を代表する事業として「田んぼの学校」があげられる。これは大人達が先生となり地区の子ども達はもちろん、他の地区からも参加者を募り、柏崎市内や東京の子ども達との交流が行われている。春は田植えやひまわりの種まき、夏には蛍鑑賞や稲虫送りの行事、秋には収穫祭、冬はスノーフェスティバルなど一年を通して田舎ならではの体験プログラムとなっている。昨年11月、この活動が評価され「新潟県農村振興アメニティコンクール」で最優秀賞を受賞した。

スノーフェスティバル


もう一つ地味だが中身の濃い活動がある。それは赤ちゃんから高校生までが会員の別俣子供会だ。子どもが少ない中で会員確保の意味もあるのだろうが、親同士も含め顔を見れば何処の家の親と子どもか分ることは現在の社会情勢では大きな意味を持っている。
2年続の大雪で春の到来が待ち遠しいが、コミュニティ計画の策定など阿多嵐云ふ誤記が計画され、年代を超えた地域の繋がりがますます強くなりそうだ。

※詳細については別俣コミュニティセンター(TEL 29-2403)までお問合せください。

海での定めは

2006年04月07日 | 
 さて、船が遭難しそうになったら、或は遭難などの事故、或は犯罪に遇ったらどうしたのだろうか。次に掲げるものは延宝八年の「浦定条々」だ。


    条々
一公儀之船ハ不及申諸廻船共ニ遭難風時ハ、助舟を出し船不破損様ニ成程可入精事
一船破損之時其ちかき浦之者、精ニ入荷物・船具等取揚へし、其場所之荷物之内浮荷物ハ二十分一・沈荷物ハ十分一・川船ハ浮荷物三十分一・沈荷物二十分一取揚者ニ可遣事
一沖ニテ荷物はね捨る時ハ着船湊ニをひて、其所之代官・下代・庄屋出合遂穿鑿、船ニ相残荷物・船具等之分可出証文事
  附船頭浦之者と申合、荷物盗取はね捨たるよし偽申にをひてハ後日ニ聞といふとも、船頭は勿論申合輩悉可行死罪事
一湊ニ永々船を懸置輩あらは、其仔細を所之者相改日和次第早々出船いたさすへし、其上にも令難渋は何方の船と承届、其浦の地頭・代官へ急度可申達事
一御城米まハす時、船具並水主不足の悪き船に不可積之、日和能節若於船破損は船主・沖之船頭可為曲事、惣而理不尽之儀申懸、又は私曲有之ハ可申出之、縦雖為同類其科をゆるし御褒美可被下之、且つ亦あたを不成様ニ被可仰付事
一自然寄船並荷物流来ニおゐてハ揚置へし、半年過迄荷主於無之は揚置輩可取之、万一右之日数過荷主雖出来不可返之、然とも其所之地頭・代官可受指図事
一博奕惣而賭諸勝負弥堅可為停止事
右条々如先規弥可相守之、若悪事仕ニをひてハ申出へし、急度後褒美可被下之、科人ハ罪之軽重ニしたかひ可為御沙汰者也
  延宝八年七月日
             奉行

(柏崎市史資料集 近世篇2下より)




 公私を問わず難に及びそうな船は助けなければならず、もし船が破損したら、積荷や船具を引き上げるように指示している。積荷を引き揚げた者には、海上に浮かんだ物なら二十分の一、海中から引き揚げた物なら十分の一、川に浮かんだ物なら三十分の一、川底から引き揚げれば二十分の一を与える事になっている。
 沖合いで荷物を捨てざるを得ないような状況の時はその船が着く予定の湊で取調、残った荷の証文を出さなければならないのは、次に続くように、盗み取る(荷抜き)輩が出ることを警戒してだ。荷抜きをしたものは厳しく死罪としている。後の条にもあるように、賭け事盗みなどの犯罪を強く戒め、自訴してきた者には同類と雖も罪を許し、褒美を与えられるとしているのは、この頃の条の常でもある。
 湊に用も無いのに停泊してはならず、長期の日和待ちにはするには届がいる。
 流れ着いた荷物は、半年の後誰も持主として名乗り出なければ、引き上げた者の所有となる。これは、現在の遺失物取得の扱いに同じだが、この頃に元があるのだろうか。

 この条では荷抜きは死罪となっているが、先に「塩引き」の例で挙げた「破損の船からの荷物横領」の一件では死罪にはなっていない。同じ江戸の時代とはいえ、時代が下って罰が緩やかになったのか。或は、横領分を弁済するという事で、示談となったのか。
 だが、この件での実際支払われた弁済金額は、「塩引き分」代金五百三十四両余の内二百六十七両で、二百六十七両余は「用捨被成下候事」。他に前年に借りた元金十九両余も、右同断。更に米、大豆、酒などを隠し売った代金九十四両余も勘弁してもらっている。誠に寛大な措置だが、水主の地位が高かったのだろうか。
 江戸後期には千石船でも二十人に足りない人数で運用していたというから、やはり貴重な専門職であったのかもしれない。
 ちなみにこの件に関わった人間十人、それぞれに親類惣代二人、組合の人間四名が連名押印して詫び状を入れている。

(陸)