○半田池ノ奇事ニ付曩年東京ナル中邨米州ヘ寄スルモノアリ左ニ掲載シテ諸君ノ一瞥ヲ博ス 梨郷迂生稿
半田池ノ奇事
頃ハ明治九年丙子三月下旬ヨリ。半田池吼ルトノ評判アリ。人〃其音ヲ聞ントテ、晝夜半田村ニ行キタリ。追〃評判高クシテ、十里以内ニ知レタリ。巡査是ヲ聞糺シテ、本廳ヘ上申セシカハ、縣廳是ヲ新潟隔日新聞ニ掲載セシムト。余其頃ハ病身、余寒ヲ畏レテ行ク能ハズ、家弟ヲシテ行テ、其音ヲ聞カシメ、且近隣ノ者ニ聞ケル儘、略記スル事左ノ如シ。
夫レ半田池タルヤ、本村半田村ノ東南ニ隅シ、地位最モ高シ、長サ凡四五丁、幅凡二丁、中央ニ小サナ嶼アリ、九頭権現ヲ祭ルトゾ。池中泥水深クシテ、大旱ト雖共渇スル事ナシ。爰ニ本年二月頃ヨリ、時ニヨリテハ池中ニ音スル事アリ。サレド誰モ気ノ付クモノナシ。三月下旬ニ至リテ、其音マス/\募ル。水心〈カノ九頭権現ヲ祭ル/嶼ノ辺リノ事也〉ニ当リ四五音、若クハ五六音、始メ小音ニシテ終リ大音ナリ。其響山嶽ヲ動揺ス。然リト雖共其声リテ其形ナケレハ、何物ノ所業タルヲ知ラス。或ハ之ヲ蛇ト云ヒ、螺ト云ヒ、水鳥ト云フ。其吼音ヲ伺フレハ、始メハ鳩ノ鳴クカ如ク、又ハ遠ク木魚ヲ聞カ如ク、終ハ水車ヲ廻スカ如ク、又ハ船艪ヲ押スカ如シ。一音ノ間、凡五六分時、若クハ十分時ノ間合アリ。村長ノ曰ク、三百年前ノ古絵図ヲ見ルニ、半田池ナルモノハ本村一円ノ池ニテ、最ト大ナル池ナリ。此池水茨目村ヲ経テ、鯖石川ヘ落チシト。其後年ヲ歴テ追〃埋メ、今ノ姿ニナリシナリ。因テ考フルニ、池底ニ空虚アリテ、池水ノ潜ルナランカ、抔唱ヘリ。然リト雖共、午前第一時ヨリ二時迄ノ間ニ、多クハ吼音ヲ生スト音トイウヘシ。四月ニ至リテ猶ヤマス、衆人群ヲ池ノ四方ニナセリ、飴賣商人モ行ケルトゾ。五月ニ至リテ其沙汰ヤミタリ。後是ヲ聞クニ水鳥ノ聲ナリト。余是ヲ信スル事能ハズ。幸ヒ貴弟ノ尋問ニ因リ記シテ以テ贈ル。乞フ是究理シテ報知セヨ。
明治九年六月十三日
『梨郷随筆 巻七』より
※原文には句読点改行はない、読みやすくするために私が付け加えた
親戚である東京の中村に宛てた、怪事に対する半ば問いかけを、後に『梨郷随筆』に転せているのだが(この梨郷随筆の記述は明治27年)、この事についての満足な返信は無かったのだろう。半田池の怪事についても当時の日記には記されていないし、又こんな手紙を出したことも記されてはいない。日記の記述が少ないから、文中にあるとおり、病体であったせいだろう。
この話もまた『柏崎の伝説集』に載っていて、関申子次郎も噂を聞きつけて様子を見に半田池に出向いたが、結局怪音は聞かれなかったと記されている。
申子次郎も篤之助もまたそうだが、日本人の物見高さがよく現れている一事で、池の端に飴売りまで出たというのだから、よほど見物が集まったのだろう。
この半田池は、もう暫く後明治の後半、新田として開発され今は面影もない。
(陸)