柏崎百景

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半田池ノ奇事

2006年10月11日 | 梨郷随筆


 ○半田池ノ奇事ニ付曩年東京ナル中邨米州ヘ寄スルモノアリ左ニ掲載シテ諸君ノ一瞥ヲ博ス      梨郷迂生稿

   半田池ノ奇事

頃ハ明治九年丙子三月下旬ヨリ。半田池吼ルトノ評判アリ。人〃其音ヲ聞ントテ、晝夜半田村ニ行キタリ。追〃評判高クシテ、十里以内ニ知レタリ。巡査是ヲ聞糺シテ、本廳ヘ上申セシカハ、縣廳是ヲ新潟隔日新聞ニ掲載セシムト。余其頃ハ病身、余寒ヲ畏レテ行ク能ハズ、家弟ヲシテ行テ、其音ヲ聞カシメ、且近隣ノ者ニ聞ケル儘、略記スル事左ノ如シ。
夫レ半田池タルヤ、本村半田村ノ東南ニ隅シ、地位最モ高シ、長サ凡四五丁、幅凡二丁、中央ニ小サナ嶼アリ、九頭権現ヲ祭ルトゾ。池中泥水深クシテ、大旱ト雖共渇スル事ナシ。爰ニ本年二月頃ヨリ、時ニヨリテハ池中ニ音スル事アリ。サレド誰モ気ノ付クモノナシ。三月下旬ニ至リテ、其音マス/\募ル。水心〈カノ九頭権現ヲ祭ル/嶼ノ辺リノ事也〉ニ当リ四五音、若クハ五六音、始メ小音ニシテ終リ大音ナリ。其響山嶽ヲ動揺ス。然リト雖共其声リテ其形ナケレハ、何物ノ所業タルヲ知ラス。或ハ之ヲ蛇ト云ヒ、螺ト云ヒ、水鳥ト云フ。其吼音ヲ伺フレハ、始メハ鳩ノ鳴クカ如ク、又ハ遠ク木魚ヲ聞カ如ク、終ハ水車ヲ廻スカ如ク、又ハ船艪ヲ押スカ如シ。一音ノ間、凡五六分時、若クハ十分時ノ間合アリ。村長ノ曰ク、三百年前ノ古絵図ヲ見ルニ、半田池ナルモノハ本村一円ノ池ニテ、最ト大ナル池ナリ。此池水茨目村ヲ経テ、鯖石川ヘ落チシト。其後年ヲ歴テ追〃埋メ、今ノ姿ニナリシナリ。因テ考フルニ、池底ニ空虚アリテ、池水ノ潜ルナランカ、抔唱ヘリ。然リト雖共、午前第一時ヨリ二時迄ノ間ニ、多クハ吼音ヲ生スト音トイウヘシ。四月ニ至リテ猶ヤマス、衆人群ヲ池ノ四方ニナセリ、飴賣商人モ行ケルトゾ。五月ニ至リテ其沙汰ヤミタリ。後是ヲ聞クニ水鳥ノ聲ナリト。余是ヲ信スル事能ハズ。幸ヒ貴弟ノ尋問ニ因リ記シテ以テ贈ル。乞フ是究理シテ報知セヨ。
 明治九年六月十三日

『梨郷随筆 巻七』より


   ※原文には句読点改行はない、読みやすくするために私が付け加えた



 親戚である東京の中村に宛てた、怪事に対する半ば問いかけを、後に『梨郷随筆』に転せているのだが(この梨郷随筆の記述は明治27年)、この事についての満足な返信は無かったのだろう。半田池の怪事についても当時の日記には記されていないし、又こんな手紙を出したことも記されてはいない。日記の記述が少ないから、文中にあるとおり、病体であったせいだろう。
 この話もまた『柏崎の伝説集』に載っていて、関申子次郎も噂を聞きつけて様子を見に半田池に出向いたが、結局怪音は聞かれなかったと記されている。
 申子次郎も篤之助もまたそうだが、日本人の物見高さがよく現れている一事で、池の端に飴売りまで出たというのだから、よほど見物が集まったのだろう。
 この半田池は、もう暫く後明治の後半、新田として開発され今は面影もない。

(陸)


打首になった地蔵

2006年10月03日 | 梨郷随筆

 ○地蔵

柏崎縣校ノ教師小林亮(初メ恒蔵ト称ス大島某ニ養ハレ西頚城郡長トナル)諸分校ヲ巡視シ古志郡片田村ヨリ途ヲ二十村ニ取リ栃尾ニ趣カントス時ニ七月初旬残炎コトニ酷ダシ教師赫日ヲ畏ル星ヲ戴テ出ヅ夜未ダ明ケズ途ヲ失テ一處ニ到ル轟々声アリ山響キ谷應ズ仰視レバ火光天ヲ焼ク驚キハセテ之ニ近ケハ男女老若群集シテ香木ヲ焼クナリ之ヲ問ヘバ曰ク近村老人アリ霊夢ニ因リ地蔵尊ヲ水中ニ得タリ此夢ニ地蔵尊ノ玉ハリ吾ハ古キ地蔵ナリ然シ某ノ水中ニ久シク在テ石浪ノ為ニ摩突サレ耳目鼻口共ニナシ故ニ霊ヲ失テ衆生済度ヲ為事能ハズ汝吾ヲ拯テ更ニ開眼セバ再ビ衆生ヲ済度セン然ラハ汝カ功徳モ亦大ナラント老人大ニ喜ビ暁ヲ待テ其処ニ行キ探レハ果シテ石像ヲ得タリ面目摩滅弁スベカラス再ビ其面目ヲ刻シテ此ニ安置シ奉ル此処モマタ夢中ニ示シ給フ処ナリ傍ニ泉アリ之ヲ持ッテ患処ヲ洗ヒバ癒ザルナシ老人コレガ為ニ奉加シテ堂宇ヲ建立セント既ニ数十金ヲ得タリ御官人オアツイネ善ク遠方ヨリ御参詣ナサレマシタト教師悖然トシテ曰ク吾タマタマ途ヲ失シテ此ニ来レリ地蔵吾ニ於テ何カアラント袖ヲ拂ッテ去レリ此後其傍ラニ犯由牌アリシトテ冩シヲ示ス者アリ其文ニ曰ク

     本國天竺浪人
        石野地蔵
 此者其名ニ背キ地中ニ蔵レズ人界ニ出テ衆生済度抔ト唱ヘナガラ水中ニ陷リ自ラ拯フ能ハサル事名実共ニ空シ然ルニ之ヲモ恥ヂズネイジン奸人ト申合セ面目ヲツクロヒ愚族ヲ欺キ米金ヲ掠メ一己ノ燿ヲ営ミ候段苦界ニ沈ミシ賎妓ノ所業ニモ劣リ重々不届キ至極ニ付弥勒菩薩ノ出世マデ長ク此所ニ曝シ置モノ也モシ風雨ヲ覆ヒ遣ス輩有之ニ於テハ屹トトカメ可申付事
  明治五年壬申八月 地獄廳

 編者曰ク此地蔵ノ愚夫愚婦ヲ惑ハス事太ダシカリケレハ遂ニ柏崎縣ニテ之ヲ捕縛シ尋問ノ末廳舎ノ■(臣+稲の旁)石ニ宣告セラレシガ極楽寺ノ住職ニテ活如来ト証セラレタル彼ノ英舜坊ガ不憫ニ思ヒ保釈ヲ願ヒタルニ聞届ケアリケレハ乃チ境内ニ遷坐シタリ但シ吟味ノ祭頚ヲモガレタリトテ新タニ拵ヒテ継キタリト其頃本堂ト隠寮トノ路傍ニ安置セリ呵々怪事

『梨郷随筆 巻四』より




 この事『柏崎の伝説集』に掲載があったので、それによって補足する。

 学校制度の太政官布告は明治5年で、同年5月30日の「小学校位置替並資本分付方之義に付願」によると「柏崎英学校第三分校」が同年冬に開校されたと見えるから小林亮はこの学校の教師かもしれない。中村梨郷篤之助も翌明治6年に開校された第六番小学の句読師になっているから、面識あったかもしれない。

 天竺浪人石野地蔵とはこの小林亮の署名で、住民が狂奔する様を見て、民心を冷やそうと自ら立てたものと記されている。
 然るに地蔵の側を流れる清水が眼病に効果ありと人々の信仰を得て、益々大流行し風俗を惑わすこと甚だしかったので、柏崎縣は偵吏を遣わして調査させると、泉源に薬が入れてあった。これは頽廃した寺の住職と旦那のはかりごとであると知れたので、偵吏は地蔵に縄をかけ県庁へ引きたて、糾明、法廷査問の結果、打首の上庁舎の踏石とすることとなった(上文の■は踏の異体字と知れたが、異体字辞典にも無い)。

 この地蔵のお参りに、篤之助の下女おみよも行っている。その箇所は
(明治五年八月)廿八日 曇微雨降出ス
 下女於ミヨ今日(古志郡村松村社壇密ト云処ナリ)長岡在二十村ヘ行是ハ地蔵菩薩先日出現諸病平癒ヲ祈レバ忽チ冶スルノヨシナリ奇トイウヘシ晦日帰宅


 当然寺の住職と旦那にも当然処罰が下されたのだろうと思うのだが、伝説はそこを上手く除いて、打首になった地蔵という点に集約している。

 然る所、極楽寺栄舜坊が保釈を願い云々……は上の文の通り。

 明治6年柏崎縣が廃される際、片田村住民は、地蔵が元の所に帰りたいとの夢の知らせがあったと、貰い受け大騒ぎの末故郷へ戻したとか。
 この安置場所云々故郷復帰一条、極楽寺に問い合わせ中なれば、見る人、後の巻にて真義を知るべし。

(陸)


柏崎の珍物ニ題

2006年09月21日 | 梨郷随筆

 ○柏崎町一念寺境内ニ生スル
  奇菌之略図


    天保十年八月十六日一念寺
    境内ニ生ズ竪七寸五分長九寸ニテ
    目方三百廿五匁総シテ亀甲形
    ノ筋高ク其色甚ダ白クシテ
    形髑髏ノ如キモノナリ

 ○海獣
 


    文化文政の頃
    刈羽郡荒濱村ノ海岸ヘ漂着
    ス面部ハ桃紅
    色ニシテ胴及ヒ
    四肢ハ白色ナリ

『梨郷随筆 第弐巻』より





 上の「奇菌」はアミガサタケの類と単純に考えていたが、改めて図鑑を眺めたら、アミガサタケ・マルアミガサタケ・アシブトアミガサタケ・コンボウアミガサタケ・オオアミガサタケ・オオトガリアミガサタケ・アシボソアミガサタケ・ヒロメノトガリアミガサタケ……あるわあるわ。似たようなものにスリコギタケだの、スッポンタケの類だの。トビイロノボリリュウタケというのも、うねうねとなにやら不気味に見える。網状になるのにカゴタケだとかアンドンタケというのもあるがこれは小さいようだ。
 件のキノコは 23cm×27cm 程の大きさだから随分大きく、ふやけでもしたのだろう、くずれてよけい髑髏様に見えたのかもしれない。ただ、アミガサタケは春に出てくるのでこの推量は外れているかもしれない。
 キノコに興味のお有の方は
 「第22回きのこ再発見教室」
 会場 柏崎市立博物館 エントランスホール
 会期 10月8日(日)午前9時~午後4時
 講師 柏崎きのこ研究会会員

 問合せ 柏崎市立博物館

 「海獣」の見当を市立博物館の学芸員箕輪氏に聞いてみたら、「アゴヒゲアザラシ」ではないかと。この出典は、滝沢馬琴や山崎美成などが集まって、珍奇な事物を持ち寄った会の品々をまとめた『耽奇漫録』だとのこと。それによれば文政2年の事だとか。これは後からわざわざ電話で教授いただいた。
 色具合からトドの類ではないかと思っていたのだが、それは新潟では一例だけで、この「海獣」も現代の学者間でけっこうな論争になったらしい。
 写真や複写機のない時代に、伝言ゲームよろしく筆写を繰り返すうちに、元の姿を離れてしまうだろう。西欧の博物誌の類に出てくる珍獣がまさにそれで、絵描きを連れての探検は珍しく、凡そスケッチや聞き書きによるものだから、憧れや恐怖も混じって、とんでもない珍獣が並ぶことになったのだ。
 梨郷随筆には筆写や自身のスケッチも多く、彩色のものもあるので、見飽きない。

 ともあれ浜に流れ着いたモノは「漂着物」、こんな本もあるのでご一読を。


渚モノがたり
漂着物からみた越後・佐渡



(陸)


素麪屋ノ妖物

2006年09月19日 | 梨郷随筆
 『梨郷随筆』に以下の一文があった。博物館の学芸員渡邊氏によると有名な逸話でそこここに転載されているというが私には初見であった。柏崎町の怪事として一文を掲げる。 原文には句読点改行はない、読みやすくするために私が付け加えた。


 
○(文化年中素麪屋ノ妖物トテ評判高カリシ柏崎法花堂下町平吉ヨリ柏崎陣屋ヘ差出シタル手続書)

 御尋ニ付乍恐以書付奉申上候
一、九年以前、戌年先夫家作仕候処、先夫義鉢崎ト柳崎エ罷越候。往来筋竹ヶ鼻ト申所ニテ落馬仕、死去致候。
其後私義、後夫ニ入相続仕罷有在候。四年以前、卯ノ三月十七日夜明方、十八九歳斗之女枕本エ罷越、口惜シヤ残念ヤト申、髪引切而相去申候。翌朝引切候髪ハ私手ノ中ニ有之候。右之女、形ハ美敷、着類ハ金ン色、帯ハ紐ニテ留メ候様ニ相見候。
其後ハ何事モ無之候ニ付、ソレナリニ致置候。
然所、当月三日夜八半頃ニモ御座候哉、総身シビレ、目サメ候得ハ、ソロ/\明ルク相成近辺有之候。品物相分リ候様ニ相成候ヘハ、誠ニシン/\ト物淋シキ折節、先年之通之姿ニ而、居家之南ニ井戸有之候方~、風ト顕レ、出枕本エ来、願為叶呉候様申候。返答モ不致候得バ、元之方エ相去申候。
翌四日夜又候、八時過右之姿ニ而先夫之子供三四人召連、伏リ候脇エ相並ヒ、此通リニ迷ヒ居候間、出家致呉候様申、元之方エ相去申候。
五日夜又候、同刻限リニ右女之跡ニ先夫義、子召連レ罷越候。上女申様之悲/\願ヲ相叶呉候様申、伏リ候身体エ、子供手ヲ掛ユリ起シ、責掛候様ニ致シ候ヘハ、出家致遣不申候而ハ相成間敷ト心ニ思ヒ候ヘ、ハ額エ氷ノ如キ手ヲ掛髪ヲ引切申候。誠ニ其節目飛出候様、苦シク覚エ申候。
翌朝髪無之候ニ付、色々相尋、縁板迄ハグリ見候得共無之、八日之晝頃心付候ハ、死去候子供召連候間、若墓所ニモ無之哉ト存、早速墓所エ罷越見候処、本家ノ墓所ト私之墓之間ニ有之候。
猶又九日ノ夜七ツ頃、右女斗罷越伏リ居ル胸エ上リ、屋敷三尺斗不埒ニ相成候、様申之候。此時夢トモ現トモ相分リ不申候。
右数度奇怪之義有之候ニ付、十日ノ朝親類之方エ罷越、出家致度段申候得共、親類之者不承知ニ付、相談之上屋敷替仕候積リニ而、十五日~家毀シ申候。
右之奇怪之様子、妻子共モ一向不存申候。御尋ニ付、乍恐此段以書付奉申上候以上。
 文化七年    法花堂下町
   午六月       平吉
 御代官所

(書付ノ折返シ小口ヘ)
 五十四五年以前、西巻原右衛門殿ニ、守奉公勤候ヨシ、畑エ茄子切ニ行、ザルト包丁其侭置、行衛不知、天狗ニトラレシトカ、海エ身ヲナゲシ、其死骸竹ケ鼻エ上リ候故、両人同所ニ而死候ト申、其節マチ/\。

 編者曰ク、九年以前戌年トアルハ、享和二年壬戌ナリ。又四年以前卯トアルハ、文化四年丁卯ナリ。又五十四五年以前トアルハ、宝暦六七年ノ頃ナリ。又松洲先生ノ著ニ懸ル漢文アリ、次号ニ掲載スルコトヽセン。



 文中の「鉢崎ト柳崎」は「鉢崎と柿崎」、「竹ヶ鼻」は「嶽が鼻」、「方花堂下」は現在の東港町辺で、法華堂があったあたりの町を言う。「素麪屋」は「素麺屋」。
 この話、御用留に出ているというので探してみたら、文化七年(1810)の分にあった。『梨郷随筆』編者中村篤之助の曽祖父、仲村吉之右衛門が町年寄をしている頃の事件である。

 平吉が年経て霊夢に再びうなされ始めたのが6月3日。それから続けざまに現れ、10日には出家の覚悟をするが親類の反対にあい、それではと家を取り壊した。よほど世の評判になったのであろうか、親類の訴えがあったのであろうか、役所より町會所へ究明の沙汰があった。
 御用留の記録はその時のもので、6月17日平吉を會所に呼んで話を聞いたときの記録である。内容は『梨郷随筆』とほぼ同じ。
 「法花堂下町平吉と申者方へ折々妖もの出候よしニ而家を壊親類へ妻子共引取候趣ニ而相糺出候様御役所~有之候ニ付、町會所ニ呼出相尋候所、平吉申候左之通」で始り
 「右御尋ニ付有体申上候、依之書付取受候而御役所へ差上申候」で終っている。

 書付の折り返し小口に記したのは誰であろうか。「素麪屋ノ妖物」のはるか以前、下女が、ふと行方不明になって後、嶽ヶ花に水死体となって上がった事との因縁を説いている。

 「又松洲先生ノ著ニ懸ル漢文アリ、次号ニ掲載スルコトヽセン。」とあるが、漢文で異体文字の行列で、起すのが面倒なので割愛するが、内容としてはほぼ同様──のようだ。
 御用留に「素麪屋ノ妖物」後日談を探したが見当たらない、特別の沙汰は無かったようだ。平吉の行動も特別に咎めらず、怪事は何とか落ち着いたと察するより無い。
 この『梨郷随筆』は明治27年、仲村梨郷篤之助49歳の年に書かれている。

(陸)