ひつじ草の挑戦状

色んな思いを綴ってます。

感覚(センス)

2010-11-15 | 義経絵巻-芭蕉夢の跡-
海尊「分かっかよ…」って即答した。
義経「そうか…」俺にはネーミングセンスってモノがないのかも知れん…。
河合「って、俺さ。ここにいなくてもよくね?」と素朴な疑問を義経に直接投げ掛けた。
義経「…ま、いいにか。なら!松尾さん。海尊を見てやってくれ」と頼んだ。
松尾「お、俺?その“なら”って言う意味が分からん。自分で教えろよ」
義経「誰が教えてくれって言ったよ。見てやってくれって頼んでんの!多くのお弟子さん見てんだろ?人を見るセンス、抜群じゃん。松尾さん♪」それに武術ってセンス(感覚)は教えて出来るもんじゃない。感覚を心に理解させ覚えさせるもんだろ。
剣術兵法教本にも秘術奥義の伝承伝達は“道場にて!”とか“稽古で”って書いてある。つまり、感覚的なものを言語化、または、書籍文章化して“教える”には限界がある。
例えば、長嶋監督がバッティングの教本作ったとしよう。ボールを見て、パッとスバッとグッと来たらバーンと持ってくんだって…感覚を擬態語並べて説明した教本発売したって売れん。どうしてか?それは、感覚的なことを擬態語で説明されても、他人の感覚には伝わんからだ。しかし、その“バーン”とした手応えあり的感覚は分かる人には理解できる感覚らしい。それはごく稀だが、そういうセンスを見出すための表現ってのは難しい。一人ひとりの感覚が異なる。個人差があるんだ。個々の手の大きさや力の抜き方、入れ具合や体骨格的なつくりは個々バラバラで、見たもの、感じたものを体感が違う。そういう違いを自分なりに納得した上で研磨し体得していくのが武の道だと思う。そこから、己の感覚が自分の技になり得え、自己流を作る。そういう自己センスと個人エッセンスの枝分かれが独自の流れを作る流派だ。
京八剣流剣術には教本がない。
それは、基礎の型をある程度覚えさせたら、後は自分の感覚を大切にして、腕を磨けって言われているからだ。
義経「鞍馬曰く、脳が“いい!”って判断で出来る、感覚(センス)を呼び覚まってな♪」
その第一歩が“人は鏡”だってことだな。人のフリ見て我がフリ直せ、見て真似て学んで得る感覚が己の技。体得の学の極意だが、センスって元々持ってる感覚で潜在能力だ。それを繰り返しの訓練で伸ばして磨いていくもんで後天的な能力だ。天才って言われる奴は、努力の才能があるだけだ。引き出されたセンスを伸ばす活かすのは己の努力の才能次第ってな。
こうすればどうなるか?あぁしたらこうなったの想像性と創意工夫で身につけ、脳で描いた自己暗示的想像力の産物 理想像に近づくための日々努力が大切なんだ。